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再生リスト:毛利家のできごとruclips.net/p/PLs52PWs0zP30kzLR4pJafXOXoVDgcHer0
是非、他の動画もご覧下さい🙇
こんにちは。毛利様には歴史上の沢山の有名人の血が流れているんでしょうね。うらやましい❗️私の毛利贔屓のきっかけは子供の頃にやってた「花神」です。意味分からず観てましたが、中村雅俊さんの高杉晋作が猛烈にかっこよく子供の心にもグサッと刺さりました。
メッセージありがとうございます⤴️⤴️⤴️⤴️おお、渋いですね。中村梅之助さんが主役を務めましたよね。 確かに中村雅俊さんの出で立ちが颯爽としてましたもんね‼️
確か、米沢藩上杉家の家臣にも毛利家(江戸時代に安田姓から改姓)がいますね。以前米沢城址の上杉神社に行ったら「一文字に三つ星」の家紋の旗が立っていたのを見て「米沢に毛利の一族がいたのか?」と気になり、調べたら越後毛利氏の存在を知りました。越後にいて宝治合戦に関与せずに残った毛利経光の子孫で安芸に行かずに越後に残った家のようですね。同族に北条(きたじょう)家もいます。上杉謙信の家臣であった北条高広が有名です。
はい。その通りでございます。そちらが、毛利家の本流にあたります。上杉さんにお世話になってるなんてなんか、ロマンを感じてしまいます(笑)そちらでも、一文字三ツ星が見れるのもまた素晴らしいです‼️
お世話になっております。同族の長井(大江長井)です。大江広元公からの毛利家始祖は毛利季光公ですね(長井家は長井時広公が始祖です)。ご本家の幕末の有名な第13代長州藩主 毛利敬親公の墓石にも、”大江朝臣敬親”と記載されてあり、先祖を誇りに思い、いつまでも先祖を敬う気持ちに感動しました。動画で毛利家の規格外のお話しをお聞きすると、さすがは毛利家、、、また、ご直系となるとさすがお詳しい、、、、益々、毛利家のファンになりました(笑)詳しくはありませんが、私も歴史が好きですので今後も色々と教えて下さい。毛利家の皆様の益々のご健勝並びにご多幸をお祈り致します。
長井様! 悠久の時を経てやり取りができて感無量です。 是非、今度長井家の歴史も教えてください。まだまだ、拙いチャンネルですが精進して参りたいと思っております。 心温まるメッセージに感動してます。今後とも、是非是非、宜しくお願い致します!!
ご返信いただき大変嬉しく思います。毛利家ほど華々しい歴史はありませんが、長井家は、中国地方においては、備後国守護、備前国守護など歴任していました。毛利元就公による中国地方を統一される際の協力、関ケ原の戦いに敗北した結果現在の山口県へ共に移動、明治維新での都内へ共に移動など、昔から毛利家の方々に大切にしていただき、大変お世話になっていたそうです。
長井家は大江支流では数少ない、山口周防国の守護職を一時期されていた家柄。名家中の名家。
@@bossatam9070 長井家についてコメントいただき誠に有難うございます。とても嬉しいです。そうですね、周防国守護もありますね。とても詳しいお方ですね。長井家は、大江本家(宗家)もしていたそうです。
長井様、返信誠に有難うございます。明治期に長井家の方々も毛利家と共に、東京に出られていたのですね。知りませんでした。でしたら、他の有力家臣の方々も東京にいらしゃるのでしょうか?すると徳山様の里帰りは珍しい事なのでしょうね。面白い。実は長井家が周防国の守護職だったという事を知ったのは最近でして、立命館の教授がやっているRUclipsの歴史講義、山口大内家の歴史編で、鎌倉前期の周防国における、長井家の事に触れる箇所が御座いまして、そこで知る事が出来ました。幕末の長井雅楽(呼び捨てお許しを)ならば、書籍なりドラマなりで登場することもありますが、鎌倉期の長井家が話に出るのが余りにも、稀だった事もあって、覚えていた次第です。鎌倉前期に周防国には守護職は居なかった。平家が東大寺を焼いた為、後白河院が東大寺の再建に天領である周防国をあてがい、大勧進したとあります。東大寺再建後に、周防国の最初の守護職になったのが、おそらく長井家と推察されます。長井家は面白いですね。山口に始まり、結局は山口に戻るという歴史の巡り合わせ。山口の左半分の長門には佐々木家が守護職であって、これも私の個人的推察なのですが、両家共に仲の良い家同士だったのではないかと。佐々木広綱の烏帽子親は、中原広元(大江)。広の一字を貰っていますし、佐々木広綱の奥方は広元の娘ですから。そして、佐々木家から長井家に嫁にいくパターンもあったはずです。周防国を虎視眈々と狙っていた、介の大内氏もこの時期は、両家が目の上の瘤だったに違いありませんね。広元は中原姓を名乗っていた訳ですから、中原家の末裔である大友氏の家紋を最初に広元は使っていたはずですよね。大江姓に戻した晩年位から、家紋が一文字三ツ星に戻ったのでしょうね。長井家の家紋は最終的には二文字三ツ星になりますが、矢張毛利家に気遣っての事なのでしょうか?これは昔からの私の疑問でした。
すごくわかりやすかったです!山口県に引っ越してきたので、歴史を調べていろいろ観光したいと思っています。これからも楽しみにしてます!できれば観光につながるものを紹介していただければ嬉しいです!
ありがとうございます!観光と歴史は切っても切れないですよね。観光名所と歴史ストーリーをセットにした動画も撮影していきます^^
ありがとうございます。リクエストにもお応えできるよう頑張ります!
普通の家だと頑張っても江戸後期の先祖までしか遡れないんですよね。うちなんかもそうです。しかも江戸時代には名字すら持っていませんでした😂だから殿のように平安時代の先祖までWikipediaでも分かるのは羨ましい限りです。先祖が何をしていた人か知れることはとても幸せなことだと思います。
面白いチャンネルに出会えて嬉しいです。毛利家と山形県も少なからず縁があるってことですね♪
ありがとうございます!当家の3代元次は一時断絶の憂き目にあって、一時、出羽新庄藩にお預けとなりました。また、当家には、織田天童藩主のお姫様がお嫁に来ています。米沢藩は何と言っても鷹山始め素晴らしい藩ですし。 最上家も最高です!! そんな、山形からも今後も応援宜しくお願い致します!!
武士の時代の始まりの契機となった守護地頭の大江広元、言わずもな武士の時代の終わりにも深く関わった毛利家、日本の武家の時代の幕開けと幕引き、いずれもが同じ一族によってなされたと言う意味で、深い興味がありました。なかなか言えないこともあるかと思いますが、なかなかできない質問の場ができる意味でも、バランス良くコメントと動画が生きていくチャンネルになることを期待してます。これからも応援しつつ楽しみにしております。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️端的に的を得たリクエスト。粛然と襟を正さずには居られません。 はい、大江から始まり毛利家が日本の転換期に関わってきたこと、毛利家として思うこと、色々とお伝え出来たらと思っています。是非、今後ともご教示、ご指導宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
まさか毛利家の方がRUclipsをやってらっしゃるとは!!僕は小さい頃から毛利家が大好きです!大河の大江広元登場が待ち遠しいですね!これからの動画も楽しみにしてます!
ありがとうございます!これからも歴史好きの方々に楽しんでいただける動画を作っていきます。
メッセージありがとうございます。 このようにして、歴史を後世に伝えていきたいと思っております。毛利家ファンとは光栄の至りです!! 是非是非、応援の程宜しくお願い致します。小早川とは、また、素敵ですね!
厚木市の南毛利が地元です。町名としては「毛利台」しか残っていないのですが、これを含めた31町丁が合併以前は南毛利村で現在は南毛利地区と呼ばれており、小中学校や公民館の名前として今も残っています。神奈川では割と著名な県立高校があったり、かなり活気のあるエリアですよ。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️一度は行ってみたいと思いながらも、なかなか行く機会に恵まれませんでした‼️有益な情報をありがとうございます‼️是非、行ってみたくなりました。
徳山さんよりだいぶ小さいのですが長州支藩の清末です。現在寒川在住なので、近所なのですが1、2回しか行けてません。また毛利台を訪ねたいです。
RUclipsで毛利家の御当主様の動画を見れるとは思ってもいませんでした。自分の先祖は藤原系で源平以来山口のある村の山々を持っていましたから毛利家はご尊敬する御一族です。今は大阪に住んでおりますが、家の近くには、楠木正成公に軍略を授けられた大江時親公の住居跡が残っており、近頃銅像も作られました。時親公の血脈が元就公に繋がると考えると感慨深いものがあります。
メッセージありがとうございます‼️毛利家なんかより、山口に早くから住まわれていた名族ですね。でも、ご縁があるようで嬉しいです。 しかも、大江軍学流の中興の祖の像の近くにお住まいとは、いよいよご縁を感じます。 今後とも、これをご縁に宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
面白い!大河ドラマとタイムリーですね。次が楽しみ😁
ありがとうございます!
地元の名士に褒めて頂き励みになります!頑張ります。
徳山毛利家って確か宗家の輝元直系の血筋が絶えたあと江戸時代に色々なトラブルがあった御家だったはず💦。ちゃんと現在も当主の方がいらっしゃって、歴史と物語を伝えていらっしゃるのは素敵ですね。一品のお話が特に面白かったです!
メッセージありがとうございます! 3代当主の時に一時改易になりましたが、徳山毛利家のみ9代までは輝元の血が流れております。そして、その血は入れ替わるように本家の幕末の藩主敬親の世子として元徳が本家を継いでおります。 これからも、どうぞ宜しくお願い致します!!
毛利家に大変お世話になった村上水軍の末裔の者です。まぁ数代前に他家から養子が入り村上と言っても、戸籍上の繋がりでしか無いですがw毛利家の方のRUclipsチャンネルと聞いて加入しました。毛利家の方だからこそ知る裏話等が聞ける事、とても楽しみにしております!
それはそれは‼️毛利家が飛躍したのは、村上水軍あっての事です。 是非、村上家を大切になさってください。ご期待に添えるよう頑張ります🙇
題名が鎌倉殿の13人で史実通りの脚本なら大江氏が主役級のはずなので、それだけを楽しみに広元公登場までの前座は我慢しながら観ております。
メッセージありがとうございます‼️全く、私も同じ気持ちです👍今後とも宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
最高のチャンネルでございます。徳山に行った際はお会いしたいです。
お褒めにあずかり光栄です。 是非、おいでませ。
陸奥国磐前郡磐城平(現在の福島県いわき市)の新家(しんか)です🏯まさか、周防徳山藩毛利氏のご当主が毛利氏の歴史を分かりやすく丁寧に解説して下さるのは大変驚き、大江広元公や毛利元就公をはじめ毛利氏のルーツと生き残った戦国大名たちに関わる内容が大変興味深いことでした‼️ また、毛利氏や島津氏だけでなく、千葉常胤公の子・千葉師常公を始祖とする相馬中村藩相馬氏や、工藤祐経公を始祖とする日向飫肥藩伊東氏や、相良長時公を始祖とする肥後人吉藩相良氏など、生き残った戦国大名たちもいますよ‼️ そういえば、幕末の長州藩で活躍した吉田松陰が現在の福島県いわき市に当たる陸奥国菊田郡植田宿を訪れたという記録が『東北遊日記』に書き記されており、当時のいわきの様子が分かります🏯 また、いわきも戊辰戦争関連の史跡がたくさんあるので、機会があれば、是非お越しください🌸
いわきからのメッセージありがとうございます❗ そうですね。確かに、相馬さん。伊東さん。相良さんと言った名族大名がおりますね。それと、耳よりな情報をありがとうございます。松陰の足跡を辿ってみたくなりました。 そして、戊辰戦争。。。必ず、一度は訪れて香華を手向けに参りたいと思います。 いわきの方から、暖かいメッセージを頂いて本当に嬉しいです。どうか、今後とも色々と教えて下さい⤵️⤵️⤵️ 宜しくお願い致します❗
@@mourihistory こちらこそ大変貴重な毛利氏についての解説をしていただき、ありがとうございます‼️ 今後の動画も楽しみに待ってます🌸これからもお互いがんばっぺ‼️(がんばっぺとは、福島弁で「頑張ろう‼️」という意味です‼️)
鎌倉殿の13人、大江広元公の登場待ち遠しいですね。武士の世に変えたのも武士の世を終わらせたのも毛利、歴史の転換点に必ず関わると。ドラマ序盤の登場人物の姓が湘南周辺の地名通りなのでこの辺では大いに盛り上がっています。
そうですね❗坂東武者って、その通りそちらの名前ですもんね。 かくいう、我々も神奈川ですが、、、、
大江音人の逸話は存じ上げませんでした。勉強になりました。
是非、今後とも宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
これはありそうでなかったチャンネルですね!まさか毛利さんがでていらっしゃるとは^^;これから楽しみにさせていただきます!!
同じく!!
是非!宜しくお願い致します。お元気そうで何よりです。
めちゃくちゃ勉強になりました!
嬉しいコメントです!ありがとうございます。
日向坂46のファン(おひさま)ですが、名前の由来に我が故郷徳山のお殿様って事に更に親近感が溢れています。
日向坂の由来を知ってるのはコアですね。 日向守が住んでいいたことに起因しています。 是非、日向坂46にとどまらず、毛利家チャンネルもご愛顧願います。
もちろん、フォローしました。ちなみに、日向坂の由来はおひさまならみんな知っている話です(^ ^)いつか聖地巡礼で日向坂の碑に行きたいです
@@歩河村 えええ‼️そうなんですね。なんか、嬉しい発見でした。僕もにわかファンになろうかな。
日本でも有数の高級住宅街、兵庫県芦屋市に、この動画で紹介いただいた毛利の祖大江氏のさらに祖先、阿保親王の墓があり、このお墓の南の阪神打出駅の近辺に阿保親王廟道標が残っています。江戸時代の文政期に長州藩が改修したこともあり、なかなか立派なものです。尚、西国街道沿いに立地したこともあり、参勤交代の藩主は勿論、吉田松陰も立ち寄ったとの記録があるようです。
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️素敵なハンドルネームですね👍️それに、とても有益な情報をありがとうございます‼️ 知らなかった。親王のお墓があるとは。。。しかも、道標もあるんですね。 毛利の祖として長州が改修したとあっては参らないわけには行きません。また、色々と教えてください🙇
殿、大変勉強になりました!
本当に⁉️ 稚拙な説明でお恥ずかしいです、、、。
帝国陸軍の長州閥の少将以上の軍人を会員とする結社「一品会」がありましたが、結社の名称の由来がよく分かりました。それはともかく、長州藩は藩士の子弟の教育を重視していました。本藩には明倫館、徳山藩には鳴鳳館、清末藩には育英館、長府藩には敬業館、吉川家には養老館などの学館が所在しておりました。教育重視の気風は大江広本に起因するのですね~。
一品会など、良くご存じですね‼️そうなんです、長州は教育に力を入れておりました。今でも、教育は何よりの原動力ですよね、 それにしても、色々と知ってらっしゃいますね、
旧徳山藩の現在の当主毛利就慶さまは、初めて、令和期に初登場。先祖様に毛利元就公や豊臣政権の時活躍した毛利輝元公の血筋引いているご子孫様ですね。ご当主自ら、毛利家の歴史を動画発信してくれまして歴史マニアとしてたまりません。世が世ならお殿様ですから。
少し照れくさいですが、有難いメッセージ本当に嬉しいです。 僕も言ってみれば、歴史マニアです。 是非是非、今度ともアドバイスやダメ出しを頂戴できれば幸いです!! 今後ともよろしくお願いいたします。
毛利さまのご本家筋萩藩のお殿様で江戸時代中期頃藩主で毛利重就公というお殿様がいましたけど萩藩の財政をしっかり建て直した名君ですね。撫育方という特別会計を作り資産運用で財産を蓄えましたね。凄いです。
経光の長男基親が越後毛利氏の祖となり時元→経高と続き北条(きたじょう)氏と安田氏に枝分かれし、北条高広と安田長秀は謙信の有力武将として活躍しました。高広は後北条氏とも関係があるのでややこしくなります(苦笑)
良くご存じですね。そうなんです。上杉さん家臣になってますよね。僕もその辺をもう一度勉強しようと思っております🙇今後とも、宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
厚木に住んでて今は相模原市に住んでますけど、毛利荘(厚木市になる前は睦合村(通称北毛利村)と南毛利村)が毛利家発祥の地は知ってますよ!☺️厚木市毛利台は住宅地ですね!😉👍
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️ 李光が南毛利壮に住んでいて、そのあたりに毛利小学校があると聞いておりました、そうなんですね。いつも、鎌倉までで足が止まってしまうので、今度は厚木に参りたいと思います。 教示頂きありがとうございます⤵️⤵️⤵️‼️
@@nariyoshimouri4104 20年程、南毛利地区に住んでいましたが、「毛利小学校」って言うのは無いですね。「南毛利小学校」「毛利台小学校」「南毛利中学校」は有ります。「南毛利」は同地区の旧村名でもあったので、公共施設の名前としては多く使われていますが地名としては無くなって居て、現在厚木市内で「毛利」と付く地名は「毛利台」だけになっていると思います。因みに小田急・JRの「厚木駅」はお隣の海老名市に有りますので、電車で厚木市に行かれる際は小田急の「本厚木駅」で下車して下さい。ただ駅前も昔と比べ寂れてしまったし、厚木市自体あまり観光スポットが無いんですが・・・。
@@アサヤス-w8v ありがとうございます‼️ ご親切に!必ず行ってみます‼️
・トムさん今は山口県の歴史・毛利家に由来のある人物・出来事にはかなりの知識深められたでしょうね。応援します。スラスラと述べられる毛利様は凄い、自分的にはいつも新しい歴史の発見となっています。・阿保親王と毛利家は由来あったんですね。大阪府松原市に阿保神社があります。兵庫県芦屋市には阿保親王の古墳があります。古墳近くの町名は親王塚になってます。・大江広元の6人の子息、子孫をザクッと目を通しました。色々あったんですね~。大江広元息女の血筋が現皇室に脈々と受け継がれているとのこと。・萩藩閥閲録は武士以外の者にも閨閥を作成。閨閥以外のデータを地道に作成されていたようですね。・右田毛利さん所有の古文書を最近山口県公文書館に寄贈されたみたいです。通説歴史の解明を期待したい次第です。
フミカミさん‼️またまた、意外な所に。トムさんは、今はお互いやりとりしてるんですが、違ったお仕事されてるんですよ。いずれ、また、戻ってくるかも知れません。阿保親王。良くご存じで、恐らく親王に関してのお墓や神社などは、江戸期に毛利家がかなり肩入れしてると思います。萩藩閥閲録が、でで来るとは、、、いやはやですね(笑)そして、右田さんとは近日に対談したいと思ってますので、色々と聞きますね👍️
@@mourihistory毛利様いつの日か阿保神社・阿保親王のお墓にお参り出来ればよいですね。江戸期に阿保親王のお墓を管理してたのは【浄土宗 阿保山親王寺】でしたので毛利家が寄進・支援してたかもしれませんね。石灯籠、瓦の葺き替えなど。瓦には一文字三星が使われたのかなと。お寺は建替したばかりで不運なことに残念ながら阪神大震災で被害を受けて長い時期をかけて10年ぐらい前に再建されました。再建したお寺には歴史的経緯からどこかに毛利家の家紋があるかもしれません。阪神間にも毛利家の痕跡があるんですね。江戸期には毛利宗家・支藩などが参勤交代に立ち寄り又幕末期の志士達もこの地に立ち寄ったかもしれませんね。あと5話ぐらいで『毛利家歴史CH』のコメント全投稿になります。いつもながら拙いコメントですんません。
楽しく拝見させて頂きました。私も鎌倉殿の13人は楽しみにしておりました!安芸の国初代は時親さんではなく、元春さんになるのですね。これは知らなかったです!申し遅れましたが、元春さんの代は3人兄弟だったと思いますが、私はその末弟の子孫となります。
メッセージありがとうございます!! 安芸吉田の地頭職は経光の時1から受領していましたが、下校して腰を落ち着かせたのが元春の代と思います。 えええ、そうなんですね。 直元という弟さんの末裔になられるんですね。 凄く、ロマンと親しみを感じます。 是非、今後とも応援よろしくお願いいたします。
@@nariyoshimouri4104 はい、直元の末裔となります。チャンネル登録させて頂きました!配信、楽しみにしております!!
徳山出身なんですが、徳山藩については、地元ではほとんど教えてもらってないんですよね。徳山動物園が、徳山藩の屋敷跡ということしか知らなかったので今回、初めて知ったことも多かったです。そういえば、元就の時代、家臣に大江という人がいたと記憶してますが毛利宗家の分家筋なんですか?
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️そうなんです。他の行政に比べて何故か毛利家の歴史に前向きでないところが、徳山にはあります。そこで、奮起一転、このチャンネルを始めました。どうか、同郷のよしみで宣伝、応援を宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️ 大江と言う家臣についてですが、記憶が定かでないので調べて見ますね‼️ 毛利と同族の桂や、福原などは、同じく大江姓を名乗ることもあるのですがそれではないですよね。
山口といえば、安倍じゃん、イメージ悪いから、毛利を宣伝したい
得宗家に抹殺されなくてよかったです。鎌倉殿ですと、山内家の先祖が命乞いしてるシーンがありました。 大江広元さんは、かっこよく描かれてました。
へえ😃💡⤴️もう一度、大河を見直して見ようかな。広元、、、渋かったですね👍️
徳山毛利家は鎌倉時代の大江家を起源としていますが同じ毛利家でも頼朝の子孫から繋がる菊一の家紋を有する34代繋がる毛利家が岐阜県にありますがご存知でしょうか⁉️
安芸毛利一族、以外にも毛利一族はあることは承知しておりますが、それは知りませんでした。 調べてみたいと思います‼️ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
幕末の当主 毛利敬親公には 元 就 広 が入ってないのはなぜでしょうか? 勉強不足で申し訳ございません、機会があったら教えてください。
敬親公は幼少の頃より、名前を幾度も変えています、元が付いてる時代もありましたが、宗家を継ぐ時には、当時の将軍から一字の慶を賜り、慶親と名乗りました。親は祖父の名に由来しています。しかし、幕府と事を構えたため、慶を取り、敬親に改名したのです。因みに、彼の養子である、元徳は徳山藩からの世子なので、元徳なんですね。簡単ですが、宜しいでしょうか⁉️
大江広元が源頼朝に仕えるきっかけを作ったのは、義理の兄にあたる中原親能が源頼朝と親しく、中原親能の推薦があったんですね。😃さらに大江広元が大江姓に戻ったのは亡くなる10年ほど前で、源頼朝が生きている間は「中原さん」だったんです。😮ちなみに毛利季光公も、生まれた当初は中原さんでした。😊中原一族の話は今回出ませんでしたが、中原親能については動画を一本作ってほしいです。掘り下げると色々と面白いので。🤩
2年前に財原家のルーツを調べていたら、大江氏は代々因幡の国司を努めていて財原村の神社を保護していて、大江広元が国司だった時に財原村の神社を大江家の氏神神社に指定して、それ以降大江神社と呼ばれる様になったと書いてありました。大江家は鎌倉時代に関東に行き、鎌倉滅亡後は広島で戦国大名となったのですが、我が家の財原家もその後に財原村を出て平地に行き、鳥取市郊外に移り、私の父の時に広島に移り住み、私が関東に出て来ました。時代は違うけれども同じ広島を交差点として運命的な因縁を感じています。
コメントありがとうございます!財原家の事は初めて知りました。とても、勉強になります。しかも、その数奇なご縁でとてもシンパシーを感じています。そうなんですね、いずれ行ってみたいと思います。広島が交差点になってるのが、またまた、奇縁ですね👍️
政所とか守護地頭とか懐かしいです。あと六波羅探題とか?! でもテストの為にただ覚えただけ😂😅
分かります。笑でも用語や出来事などのストーリーを知ると歴史が楽しくなりますよね^^
コメントありがとう♪ 六波羅探題は平家側ですけどね。
毎度興味深いお話の動画ありがとうございます。些かお話がそれますが菅江2家。天皇・親王の教育係の大江家の話。源頼朝が三顧の礼で大江広元を鎌倉に招聘したとお話にありました。大江家は文治政治の役割だけでなく様々な漢籍、特に兵法書に通じていたという事で武家政権の鎌倉幕府に大切に迎えられます。今ではビジネス書等で取り上げられ、誰もが手にする「孫氏の兵法」。この書物に関して大江家は重大な役割を持っていました。現存する「孫氏の兵法」は中国の三国志時代魏国の王曹操が散逸した春秋戦国時代に活躍した孫武の兵書を蒐集、編纂、注釈を加え実践的に役立つ物に纏めた、所謂三国志で出てくる「孟徳新書」です。(現代の日本で多く読まれている岩波書店で刊行されている「孫子」は「魏武註」となっています。)源頼朝はこの孫氏の兵法を禁書にし、大江家一家相伝の秘伝書としました。というのもこんな優れた兵法書を幕府打倒を目論む反対勢力に読まれ、倒幕にむけた知恵をつけられてはたまったもんじゃない!という理由です。それから時代は流れ大江家も多くの分家に別れ安芸吉田郡毛利家と別れます。その時一家相伝であった孫氏の兵法、猿掛分家であった元就公の手元に受け継がれ中国の覇者と大躍進したきっかけになったと考えられなくもないと愚考します。ただ元就公は三国志を好んで読まれたと話に聞きますが、その根底にあるのも大江家秘伝の影響もあったんではないでしょうか?
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️来ましたね、かなり深いご質問が。スミマセン、私も素人ではありますが、、、。大江家は、やはり軍学に関しては教示する立場でもあり、孫子の兵法に関しては熟知していました。 後に、日本で初めての軍学書となる、闘戦経は大江家の一子相伝として伝えられたと言います。 勿論、孫子が大元の書です。 それが、伝えられる中でも、楠正成に影響を与えて、やがては安芸毛利一族にそれが。伝えられて参りました。 その書を、元就が不遇の時代に読破したとするなら、彼の武功は納得がいきますよね‼️ その、書は弟から他に伝えられたとされています。スミマセン、拙い推論で‼️
今回も非常に興味深く拝見させていただきました。私は某放送局の大河ドラマは全く観ませんが「広元公」の御活躍こそが幕末に久坂玄瑞の「廻瀾条議」の中で「覚阿公(毛利広元公)千載之御失着」と指摘されてしまうところが何とも皮肉な結果になってしまいますね
ありがとうございます‼️へえ。久坂が広元に対して、その様な事を書いてるんですか? 早速、調べてみたいと思います。勉強になりました❗
はじめてコメントさせていただきます。群馬のほうは、大江広元を後裔を称している那波氏がいます。家紋を見たら毛利と同じ感じのものです。那波氏は小田原北条氏に、滅ぼされています。越後上杉氏が群馬に派遣した北条高広別名毛利高広も、大江広元を、祖先に持っています。中国の毛利とは、遠い一族に当たるようです。中世の城を巡っていますが、どこだったか忘れてしまいましたが、大江広元から、毛利に繋がったと説明書きに書いてあったのを記憶しています。ちなみに、問注所長官の三善康信の領地も、ありました。今回ご当主様から、いろいろご説明頂き勉強になりました。ありがとうございます。
メッセージありがとうございます‼️非常に有益な情報をありがとうございます⤵️⤵️⤵️私もそこまで、詳しくはないので、那波氏に関して調べてみようと思います。中国地方、特に安芸の国人は、関東武者の流れが殆どです。大江は下級貴族ですか、そう言った意味でも繋がる事が多々あると思うので、是非、私も訪れてみたいです‼️
@@mourihistory 私も、今は病後で中世城跡巡りから離れていて、かなり忘れていて、Googleで検索した情報です。是非越後毛利家とか群馬県伊勢崎市那波氏で検索すると、概要がわかります。しかし、秋元氏とご当主様が繋がっていることと、秋元氏の幕末の様子が伺えたのは、嬉しかったです。コメントの返信ありがとうございました。
殿様、こちらこそ~、どういたしまして🙇こんにちは~😊☀️私は神奈川県鎌倉市の隣の藤沢市に住んでいますが、大江広元も源頼朝公と幕府を立ち上げたと偉業があると思いますよ~😊残念ながら、去年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の再放送は、3代目の市川猿之助の不祥事のせいで、不可能になりましたが、毛利氏は鎌倉時代に始まり、私の父方の先祖清水六左衛門は南北朝時代から始まり、足軽でした✨湘南と呼ばれる藤沢市、江ノ島には龍光寺があり、大庭一族縁の大庭城址公園がありますが、毛利氏と縁がありそうな気がします😊
藤沢‼️ 良く学生の頃に友達がいたので遊びに行きました。横浜新道をずっと走って👍 そして、ご先祖様は由緒あるお侍さんなんですね。きっと、当家ともどこかで関わりがあったはず‼️
萩市大井川北側から阿武町奈古にかけて徳山藩領の飛び地があるが管理組織はどのようになっていたのかまた萩城下には立藩が遅れたので清末藩同様三の丸外に徳山屋敷があるが中屋敷下屋敷に関するエピソードがあればぜひ知りたい あわせて江戸や大阪 京都 長崎などの藩邸があればしりたい 勿論日本最大級といわれる徳山陣屋も詳しく知りたい
メッセージありがとうございます。奈古の飛び地を知ってるのは通ですね。そうなんです、徳山の萩屋敷は外ですよね。徳山は一時断絶の憂き目にあってることや、初代の就隆が秀就公と仲がしっくりいってなかったことが原因ではないかとも思っています。 萩に中屋敷他あったかは知らないので調べてみます。 大阪屋敷は岩国藩屋敷の隣にあったと聞いています。 確か周防町という名で残ってたかと・・。 宗右衛門町の近くです。 江戸屋敷と徳山陣屋については、後々、チャンネルでもご紹介させて頂きたいと思っています。すみません。答えが不十分で!! 今後とも是非、宜しくお願い致します!!
@@nariyoshimouri4104様 ご丁寧な返信感激しました 近日中ぜひ徳山を訪問して撮影されている場所を探訪したいと思います
@@刀禰元彦 こちらこそ、ありがとうございます⤵️⤵️⤵️是非是非、徳山にお見えの際はご一報ください。 今後とも、宜しくお願いします‼️
毛利さん、はじめまして。小学生の時に、大河ドラマ毛利元就を見ていました。(ひい祖父ちゃんとひい祖母ちゃんが広島出身だったので、シンパシーを感じていました。)これが、毛利家の始まりなんですね💡
はじめまして‼️コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️ では、私と同じ安芸が郷里ですね。 シンパシー感じます👍👍毛利の始まりは、こんな感じでした☝️
@@mourihistory さん毛利さん、よろしくお願いします!それっ素朴な疑問です。僕も、戦国武将が大河ドラマの影響で好きなんですが、関ヶ原の戦いや、戊辰戦争の時、島津家と手を組んで、徳川家と戦った過去があるのですが、2023年現在徳川さんと島津さんとは、どのような関係なんですか?
これは、特別にお答えします(笑)本当に、、、。霞会館と言う、元の華族会館があるのですが、そこでは普通に挨拶しております。また、島津一族とは親戚でもあるので、良好ではあります。 徳川のご宗家とも一度、お会いしましてが素敵な方でした。ただ、前当主は薩長に関しては非常に❌でした。。。。ここだけの話ですよ‼️
@@mourihistory さんなるほど?勉強になります✨今では、昔の蟠りはなくなり、未来に向かって交流しているのですね💡とは言え、毛利さんの先代さんが、薩長には否定的とは驚きですね😳
いえいえ違います‼️徳川宗家の先代です、、、、。
大江時親の子孫です。殿と同じ遺伝子が入っていると思うと嬉しいです😆
うわ‼️こちらこそ嬉しい。同族の方からのメッセージ👍これからも、宜しくお願いいたします。
ご返信ありがとうございます😆母方です。大阪の河内長野が実家で母は大江姓です。私は今は名古屋に住んでいますが、先日、四天王寺の大江神社にも行ってきました。千年以上の時を経て、まさに大枝ですね👏
うわ! それはそれは、しかも河内とは。母方とは言え、大事なルーツですね。まさに大枝👍️ 天王寺の神社行ってみたい‼️
大江神社には明治に山口藩が建立した祠っぽいものもありましたよ。阿保親王の話は知りませんでした。芦屋に古墳があるみたいなので、こんど芦屋に行く用事がある際に寄ってみたいと思います。時親は楠木正成公とゆかりがあると聞いています。正成公は人気があるので、RUclips企画で取り上げてみても面白そうですね😆
なるほど‼️大江神社ますます行きたい。楠木公に戦術指南したんですよね。先日、神戸で撮影してんですが、あまり、それには触れなかったから、後悔してます、、、。
御暇な時で構いませんので宜しければたまには厚木市の方にも御出戴けたら嬉しいです。
是非、是非行きたいといつも思っております。毛利荘、チャンネルとしては絶対に行かねばなりませんよね‼️
西園寺八郎公爵に関して紹介していただければ嬉しいのですが。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️西園寺家と毛利家の関係は古くからあります。 八郎氏も徳山から本家を継いだ元徳の息子で、西園寺に養子に参りました。どこかで、ご紹介出来たらと思います‼️今後とも、宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
@@mourihistory 是非ともお願いいたします。
昔は、山形県寒河江市でも、大江広元 公を祀った大名行列していたんですけどね。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️ある意味、寒河江市の寒河江氏の方が大江直系ですもんね。しかも、同じ一文字三星です。今は、その行列はないのでしょうか⁉️ だとしたら、寂しいですね。
@@mourihistory さん今は大江公ゆかりの寒河江八幡宮の御神輿 祭りになりました。大江広元の祖父 大江匡房 は、八幡太郎 源義家 に兵法を教えたんですよね。
ちなみに 寒河江八幡宮では流鏑馬が有名です。
秀吉時代は 豊臣ノ大江大納言輝元って名乗ってる書状ありましたね
伊達・上杉は、豊臣ノ藤原参議 政宗・景勝
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️そうか、豊臣の姓を頂いた時ですね。勉強になりました‼️ 輝元は中納言ですね。
大江広元と毛利家の関連は 戦国・小和田チャンネル「【鎌倉殿の13人】大江広元と戦国大名毛利氏の関係」でよく分かります。他チャンネルですみません。
徳山様、楽しそうなチャンネルを作って頂き有難うございます。初のコメントになります。私は鎌倉殿の13人を観ていないので、分からない部分があるのですが、広元は大江家の嫡子として生まれ、早くに父親を亡くすと、母親が中原広季と再婚した事で、その後広元は中原姓となっています。心算、中原広元が正しい訳で、幼少期と大江姓に戻した晩年にしか、大江広元を名乗ってないのです。大河ドラマの中では、大江広元の名前で展開されてゆくのですかね?明らかに時代設定上間違いですよね?ドラマですから、史実に無い部分をフィクションにするのは良いと思うのですが、史実があるのにそれを無視するのはどうなんでしょう?徳山様はどう思われますでしょうか?平家滅亡後、平家側の女官が周防大島の尻尾辺りの島末荘を後白河院に欲しいとせがみ、それを許すまじと頼朝は広元に地頭として、周防大島の島末荘を与えた。でも広元は鎌倉の要職にあったので、藤原親康を代わりに判官として周防大島に行かせた。時を経て藤原親康の子孫は水軍を組織して長崎姓に名を変える。戦国時代、陶との厳島合戦は毛利の勝利。本当ならば、大内と毛利を天秤にかけ、結局厳島合戦に参戦していない長崎氏はお家取り潰しになるところを、鎌倉時代から大江の代官として周防大島に根付き、長崎家と大江家の昔からの関わりを鑑みて、毛利は長崎の罪を許し、そのまま領土安堵で毛利家の家臣となる。大江の家臣から毛利の家臣になる、何と歴史の巡り合わせの面白さ。徳山様、まずは山口と広元が関わるのはこの部分なので、まずは是非ここに触れて欲しかった。すいません偉そうに。
メッセージありがとうございます。 中原姓に関してはご指摘の通りでございます。大江匡房の孫であることに違いないのですが、中原家に養子に行き中原を称してました。 大河ドラマはどうしてもドラマ性を重視して時代考証よりそっちを優先する事が多々ありますね。大河ドラマ「毛利元元就」の時も相当多く散見されました。 今回に関してそれほど気にしていなかったのですみません。長崎家の話は、正直、私は知りませんでした・大変勉強になりました。早速調べてみたいと思います!!自分の趣味の範囲を出ない、浅はかな知識ですが今後とも頑張って参りたいと思いますので、また、ご意見等頂けたら幸いです。
@@nariyoshimouri4104 丁寧なご返信誠に有難う御座います。私は歴史が大好きで、幼い時から郷里である周防大島の歴史から興味を拡げていきました。今は東京に住んでおりますが、日本史全体そのものに現在は興味を絶えず魅かれております。勿論、毛利家の事に関しては私の中では重きなしております。今は毛利本家の事を知りたい!!萩藩の事ではなく、相模国毛利荘の本家毛利家です。元寇の時代・北条時宗時代、毛利本家の滅びた辺りが研究してみたい。時宗の母上も毛利の姫ですものね。これからも沢山の毛利の事、徳山様に教えていただきたく、学んでいく所存で御座ります。
@@bossatam9070 こちらこそ、ご丁寧にありがとうございます。周防大島ご出身なんですね。私も、東京生まれ育ちですが、今は郷里にて僅かながらの伝統を後世に残したいと思って奮起いたしました。歴史は本当に面白いですね。 宝治合戦のことなど、私はまだまだ勉強不足です。 逆に色々と教示いただけたら幸いです!!
毛利の御本家とか他の分家の方々との交流ってどれくらいあるんですか?
メッセージありがとうございます。 過去には毛利会と言うものがあり、毛利宗家、支藩、一門が一堂に会していましたが、最近はなくなりました。 私はご宗家とは、元就墓前祭をはじめ様々な神事、仏事、行事でご一緒しております。 また、長府と清末の藩主、藩士の末裔が一堂に会する長清会と言うものが定期的に行われているようで、私も一度お招きにあずかりました。現在は清末のご当主が会長をされてらっしゃいます。 長くなりました。
広島のものです。徳山市に観光に行きたくなりました。
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️私の心の故郷は広島です‼️ 徳山は空襲にあい、無くなった物も多いですが、是非、一度はおいでませ。徳山🙇 今後とも、宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
広島県民としては毛利家は広島のもの!(言い方は悪いですが)という気持ちがあるので。これからもRUclipsで色々教えて下さい。勉強になります。こういう家柄の方は御家の歴史をちゃんと語り継いで日本の心を大切にしているなと感心しております。@@mourihistory
ご当主、画は訂正出来ないので、せめてホワイトボードの誤字の訂正はしてください。菅江の「菅」を「管」はまあいいですが、平「城」天皇を平「成」天皇はマズいです💦今の上皇さまになってしまうし、ご存命ですからね☝️概要欄作って訂正しときましょう💦
全くおっしゃる通りです。。テロップで正しい文字を使っていたので良いかと。。 恥じ入るばかりです。今後ともご指導を宜しくお願い致します!!
めちゃ分かりやすかったです!明治維新まで生き残った戦国大名は毛利、島津、上杉、伊達、徳川とのことですが、残り二家は佐竹と南部ですか?
メッセージありがとうございます。司馬さんの本で見たので自分でもウル覚えなんですよね(笑) もしかしたら、松平家は大名のくくりでなかった気がします。いわゆる今川家の被官でしたから。戦国大名とは独立した国家を持った大名なので。そうすると、あとは、南部さん。竜造寺の親戚の鍋島さん。 秋田さんでしょうか。 ちゃんと調べてお返事しますね!! 今後ともよろしくお願いします。
織田さんを忘れてました!!
細川では?
対馬の宗氏?
今年(2024)の大河ドラマ「光の君へ」で宇多源氏源雅信の娘・倫子の家庭教師であった赤染衛門も、大江匡衡との間に挙周を産んだことにより、祖先にあたるのではないでしょうか?
コメントいつも、ありがとうございます!良く勉強されてますね👍はい、お察しの通りです。本当は大河を題材とした動画を撮りたいのですが追い付いてません、、。
大江 匡衡さん、赤染衛門の旦那さんは、尾張国司だったのですね。 神社に歌碑がありました。大江と言う地名、大江川などは名残でしょうか。
大河でスポットが当たって嬉しい限りです‼️神社のお名前を教えて貰えると有難いです⤵️⤵️⤵️⤵️
@@mourihistory 愛知県一宮市の真清田神社です。 先祖が拝謁してるかもと思うと 嬉しいです。 鎌倉殿の時に、小栗さんがトーク に見えました。
ありがとうございます‼️ご縁を感じますね👍️へえ、小栗さんまで。
@@mourihistory 次回の大河に日向坂46の方が出演されます。日向坂のネーミングは殿様の邸宅がございました、日向坂です。
@@mourihistory 国府があった、国府宮という場所に神社と赤染衛門の歌碑公園もあります。
小早川家は明治時代に再興され、華族に列せられて男爵を授けられました。この時の当主、小早川三郎氏及び小早川四郎男爵について取り上げてくださいますよう宜しくお願いいたします。
リクエスト有難うございます。小早川が明治に再興されて本当に良かったと思っています。どこかで、動画に出来たらと思います‼️
このチャンネルは私に監視されています
大内家には、敬意を持っているつもりですが、襟を正して頑張ります。
越後にも毛利氏がいました!ja.m.wikipedia.org/wiki/越後北条氏
上杉の家臣、北条(きたじょう)氏は大江の分家であって、毛利の分家ではありません。御館の乱で滅ぼされました、あと寒河江氏も大江支流です。
コメントを有難うございます。 素晴らしい回答が他から書き込まれてますね。 なんか、歴史の掲示板のようで嬉しくもあります。是非今後とも宜しくお願いいたします!!
毛利といえば、広島と思っていたが、徳山が、第二の故郷みたいですね
コメント沢山ありがとうございます‼️是非、徳山共々、宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
大江匡房公とかも祖先でしたっけ
メッセージありがとうございます。はい。一応、広元から3代ほど遡ると匡房になります。広元の出自が養子という事もあり複雑ですが。。。 匡房公は大江家の中でも抜きんでた、4平安期を代表する文学者ですよね。今後ともよろしくお願い致します。
@@nariyoshimouri4104 愛知県在住の者です。私の過去の勤務地、愛知県稲沢市に、大江広元公から更に数代遡った大江匡衡、赤染衛門夫妻の記念碑が建てられた公園があるのを思い出しました。調べましたら、匡衡公は約1000年前に尾張守として夫婦で着任し、木曽川から水を引く用水路を開削するなど尾張国の住民のために尽力したのですね。用水路は今でも「大江川(大江用水)」として大江氏の名を残し、一宮市、稲沢市を貫流し尾張平野の田畑を潤しています。なるほど、「赤染衛門」もご先祖にあたられるのですね。ご無礼いたしました。
@@nariyoshimouri4104確か広元の兄は中原親能で彼の末裔が毛利や島津と争う大友宗麟。
大江氏は土師氏族だと思ってたけど大枝本主に子がいなくて阿保親王の子である音人が養子に入ったとか何かもしれないね
その辺を、説明省いてスミマセン‼️これは、歴史学者も2通りの認識でおります。なので、毛利家の血筋は土師氏からの神別、音人の皇別、の二つとされています。
@@mourihistory 古代史は色々不明点も多く、ミステリアスで面白いですよねwいずれにせよ毛利家は古代豪族の流れを汲む名族ですよね!
私のご先祖様は頼朝公の従兄弟であり、側近であったのに・・・13人には含まれていません・・・悲しいです😭
それはそれは、気になる存在。。。なんか、シンパシー感じます‼️
@@mourihistory ご先祖様は佐々木三郎盛綱様です。因みに盛綱様の息子である加地信実様の息子の家系になりますから、毛利家に仕えたご先祖様もいますよ!
ますますほんとっぽいな
謀神毛利元就様の系統でしょうか?
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️当家の10代は長府毛利から来ておりますが、徳山、長府いずれにせよ元就公の血は流れていると自負は致しております。謀神の片鱗も無いかも知れませんが。今後とも宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
朝廷に名前を出す時は、氏で出す必要があって、毛利っていうのは当時はあだ名みたいなものですなので秀吉も関白になるために藤原朝臣秀吉で届け出ています。朝廷からすると毛利?誰やねんとなります(笑)
ごもっともで。。。あだ名とは、うまい例えですな。
@@mourihistory 質問です。源氏や藤原氏は長者(代表者)がいるのですが、大江氏には長者はいるのでしょうか?源氏長者、藤氏長者などと書きます。
@@なゆた-i2b 過去に読んだ本では、源氏長者が、他の氏族も統括していたなんて書いてありました。厳密にはそれぞれいるのかもしれませんが、政治は大抵藤原氏か源氏の2氏が要職を占めており、源氏長者がその他中小氏族の長者も兼ねていたそうです。
徳山公、こんにちは😃明治維新は薩長とよく言われますが薩摩・島津家と長州・毛利家は実はよく似ています...共通点がたくさんありますよ😃1️⃣ どちらも鎌倉幕府の中枢から地方へ地頭として出向いた家系2️⃣ どちらも祖は宮中官人(貴族)3️⃣ どちらも天皇のご落胤説あり毛利家→阿保親王(平城帝)島津家→源 頼朝 (清和帝)4️⃣ どちらも幕末にイギリスと戦う他にもいろいろあるかと思いますが本来なら同盟を組み仲良くできる相手だと思いますになぜこんなに仲が悪いのか...不思議といえば不思議です😅薩摩藩士の末裔、松下系会社の副社長をし、理路整然とした亡き義理の父もこの話しになるとしどろもどろになっておりました😂戦国時代には毛利・島津、共通の敵である大友氏(私の師匠である中村天風・三郎の先祖、立花宗茂公末裔)が存在してもなお仲が悪かったですよね😅
素晴らしい、ご説明をありがとうございます⤵️⤵️⤵️本当に島津家とは、色々な意味で共通点がありますよね。司馬さんも書いてましたが、薩摩は兄貴として立てないとダメな気質だそうです。 なので、抜け目のない長州は兄貴と持ち上げて、実際に明治政府では要職を薩摩よりも手に入れるしたたかさがあったり(笑) それにしても、それこそ色々な系脈に繋がっておられるんですね‼️
@@mourihistoryさま なるほど😃長州は薩摩を兄貴分と立てることで仲良くやっていくということですね😃
戦国大名で明治まで残っているのは毛利、島津、上杉、伊達、南部、佐竹、津軽あたりか
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️僕も咄嗟に思い出して言ったものですから、あのあと考えてみました。もしかしたら、津軽さんは南部さんの被官だったのでカウントされないかも知れません。 そう言えば、織田家が大名として残りましたよね。 今後とも、またご意見など貰えたら嬉しいです‼️
@@mourihistory そういえば毛利家も国人から大名に織田信長が京に入った頃は戦国大名でした、大浦為信の場合は南部から独立し始めた頃で小田原参陣に馳せ参じた時は津軽氏を名乗り惣無事令で訴えられるも秀吉に独立を許された経緯がある
あの世で、元就は「虫けらども」の流れが毛利を継ぐ事になるとは思っていなかったでしょうね。
コメントありがとうございます。三子教訓状のことですかね。 確かに、三子以外の血脈になりますが、明治維新の時にとは、徳山の血が宗家に養子で参ります。今後とも、宜しくお願い致します🙇
お返事あがとうございます。私の祖先は新右こと小早川隆景の三原衆の鵜飼元辰です。今後のこのチャンネルを楽しみに見させていただきます!
また、安芸郡山城跡にある隆元公の墓所とは別に「伝・隆元公」のお墓とされている祠も地元の方に祀られて安芸高田に御座います
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️毎年、安芸高田には参っておりますが、その墓所のことは初めて知りました‼️今度は、参ってみようと思います。ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
@@mourihistory おはようございます。今度御都合の宜しい時に安芸高田へ宿泊しながらガッツリと現地探索をいかがですか?(^_^;)それこそ「宍戸氏関連」「福原氏」その他、「高橋氏」等々、一般的に知られていない関連史跡を是非見て欲しいですね
こんにちは、伊藤です。就慶様の、大先祖様(大江広元)の弟様(河東忠成)の子孫の中に、松平家と酒井家が、有りましたよ。松平親氏が、初代で、松平清康が、7代、松平広忠が、8代、松平元康(徳川家康)9代と、続く家系と、支流の酒井家で、酒井忠次の家系と、酒井忠世の家系は、親戚だそうです。
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️ええええ‼️それは、ビックリ情報、、、。 と言うことは、、、親戚筋⁉️なんか、親しみが沸きながらも、戸惑い(笑)
@@mourihistory さんへ、尾張國、河東二郡(愛知郡、知多郡)の地頭となってたので、三河國にも、近かった為に、支流が、移ったかも。それから、忠臣蔵関連で、大江永井家の支流の永井家は、赤穂藩主浅野長矩の母方の鳥羽藩主内藤に、寛永寺で、討たれた、永井氏でした。
毛利末光が毛利の祖とは北条時宗の時に知りました
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️はい、5代執権時頼の奥方は李光の娘ですよね。 今後とも宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
もしかしたら血繋がってるかもしれませんよ!僕も毛利元就の子孫で僕のお父さんのいとこの長男が毛利家の家系図持ってるらしいです! 昔家系図を誰かが1億で買うとかあったらしいですよ。(売ってないらしいですけど)
興味深いお話ありがとうございます!!!
家系図は、売らないように、財産ですから
先住出雲族二大王族の向(富)家口伝・伝承(出雲族酋長:富當雄)の系譜、大元出版の斎木雲州本参考。 菅之八耳(初代大穴持) : 富家本家(事代主の八重波津身) 諏訪家健御名方富 ──│──磯城登美家─登美長髄彦 鳥鳴海 │ 国押富 : 野見宿禰(富大田彦) │ 土師八嶋 │ 菅原道真 │────────────── 大江広元 │ │ │ 毛利元就 │ │ │ 毛利家・吉川家・小早川家 柳生十兵衛 (最下段は私の調べと動画主毛利家当主のこのお話を参考です。) ※下記の神門氏の美良姫と富家の天日方奇日方の子が健飯勝(磯城登美家)と成ります。 又、富家の踏鞴五十鈴姫と饒速日系譜の天村雲の間の子 嫡男、天御影の海部氏祖 次男、神八井耳の中臣(藤原)鎌足の祖 三男、沼川耳→八井耳が多氏祖に成ります。
野見宿禰(のみのすくね)相撲の起源めいたものや、土師(はじ)氏、埴輪など埋葬品を作る家的なものが、散見されて面白い。あと大枝→大江が抜けている。
先住出雲族二大王族の向(富)家口伝・伝承(出雲族酋長:富當雄)の系譜、大元出版の斎木雲州本参考。 菅之八耳(初代大穴持) :宗像家・宗像三女神─八束水臣津野 : 神門家本家(大国主・八代目大穴持の八千矛) │ 阿遅須枳高日子根─賀茂氏──役小角 │ 塩冶彦 : 出雲(神門)振禰=倭健(=日本武) │ 伊賀曽熊 │ 健部家・二方国造家・島津(志摩)国造家の島(直)氏 (=斯摩宿禰は日本書紀の八幡神・応神天皇家臣) │ │─百済渡来の南関東国造家の島族(島田-島野-島崎-島村-島根-島津) 神門家・日本武名代部 元出雲最古の氏族・島谷氏 │ │ 健部氏・武部氏 松浦氏武家島谷氏・丹後国二宮社家嶋谷家(下から三段列は私の調べた推定系譜) ※百済経由渡来の南関東国造家の島族(島津)氏は、秦の始皇帝融通王=弓月君と一族郎党の帰化地名姓。
@@00simaya40 うーーーん、感服仕りました。。 毛利家の原点は天穂日命で、そこから土師氏を経て大江という流れくらいしか頭に入っておりませんでしたので、この図を有難く拝見し勉強いたします! 是非、今後とも温かい目でご指導ご教示ください!!
@@nariyoshimouri4104 最新更新しました。(以前の訂正箇所あります‥江戸時代の柳生家内の家督内紛部分があって厳密に書いてます。)先住出雲族酋長:富當雄さんが伝える口伝伝承を著書に纏めたのが斎木雲州さんの「出雲と大和のあけぼの」と「出雲と蘇我王国」の二冊の本のお話ですね。東出雲・熊野大社神主家の副王家の事代主(八重波津身)直系の向(富)家と西出雲・杵築大社旧神主家の主王家の大国主(八千矛)直系神門家は先住出雲二大王家富當雄さんは向(富)家の事代主直系の子孫ですw国常立(クナト)大神(伊弉諾)→お地蔵様と荒吐神(伊弉冉)→弁財天の関係で伊弉冉の最初の子神の蛭子神=恵比寿=事代主(少彦名)ともされて居ますから大黒天・弁財天・恵比寿の関係ですね。国常立(クナト)大神(伊弉諾≒素戔嗚)の子,菅之八耳(初代大穴持)※私の調べではクナト₌船戸神,熊野権現天若日子(妻は下照姫)の子,出雲忌部氏(八岐大蛇族)天若日子の孫,物部氏開祖饒速日(徐福),天皇家,中臣(藤原氏祖)先住出雲族酋長:富當雄さんが伝える口伝伝承を著書に纏めたのが斎木雲州さんの「出雲と大和のあけぼの」と「出雲と蘇我王国」の二冊の本のお話ですね。東出雲・熊野大社神主家の副王家の事代主(八重波津身)直系の向(富)家と西出雲・杵築大社旧神主家の主王家の大国主(八千矛)直系神門家は先住出雲二大王家富當雄さんは向(富)家の事代主直系の子孫ですw国常立(クナト)大神(伊弉諾)→お地蔵様と荒吐神(伊弉冉)→弁財天の関係で伊弉冉の最初の子神の蛭子神=恵比寿=事代主(少彦名)ともされて居ますから大黒天・弁財天・恵比寿の関係ですね。国常立(クナト)大神(伊弉諾≒素戔嗚)の子,菅之八耳(初代大穴持)※私の調べではクナト₌船戸神,熊野権現天若日子(妻は下照姫)の子,出雲忌部氏(八岐大蛇族)天若日子の孫,物部氏開祖饒速日(徐福),天皇家,中臣(藤原氏祖)●先住出雲族二大王族の向(富)家口伝・伝承(出雲族酋長:富當雄)の系譜 大元出版の斎木雲州本参考。 菅之八耳(初代大穴持) : 富家本家(事代主の八重波津身) 諏訪(旧-神)家-健御名方富 ──│──磯城登美家─酋長:登美長髄彦 鳥鳴海 │ 国押富 : 野見宿禰(富大田彦) │ 土師八嶋(南関東国造の大宮-氷川神社神主家) │ ∟_______________________ 菅原道真 │ │ 大江広元 │ │∟___上田・北小路・酒井氏徳川家康 │ 毛利元就 柳生石舟斎(宗厳) │ __________________」 │ 毛利家・吉川家・小早川家 │ 柳生新次郎(厳勝) (最下段は毛利家当主のお話) 柳生宗矩(又右衛門) │ │ 柳生兵庫介(利厳) 柳生十兵衛(三厳) │ 柳生兄:利方・弟:連也斎(厳包)母:島左近の末娘。 │ 柳生厳延(厳密な柳生家系譜) :※・下記の神門氏の美良姫と富家の天日方奇日方の子が健飯勝(磯城登美家)と成ります。 (出雲建子(伊勢津彦)と兄の伊佐我(伊佐波)も系譜上に居る) 小野氏社家も始祖を富家7代:天之冬衣(八重波津身⁼事代主の実父)として居るので出雲族 あと、富家と三島家の娘との子の踏鞴五十鈴姫と饒速日系譜の天村雲の間の子 嫡男、天御影の海部氏祖 次男、神八井耳の中臣(藤原)鎌足の祖 三男、沼川耳→八井耳が多(意富)氏祖に成ります。 ・藤原氏祖とされる天児屋根は中部で各地豪族が集い中臣氏を名乗った豪族の一家の ト部氏(播磨国のタタラ場の司祭家豪族で饒速日の一族)が崇拝して居た 金屋子を奉って居た場所の地名が天児屋根で=金屋子の事です。 渡来の由来は越智-河野氏の氏神神社伝承の氏神が饒速日=徐福と言う伝承からでしょう ・他の大江氏子筋 北小路家(公家-華族(子爵),徳岡家(地下家),寒河江氏(武家),那波氏(武家),海東氏(武家) 桂氏(武家-華族(侯爵)),酒井氏(徳川家自称の親筋武家-華族(伯爵)),芦澤氏(武家) 越後北条氏(武家),安田氏(武家),浅井氏(武家) 長井氏(平家武家?) 上田氏(大江氏武家系譜断絶してる),山村氏(大江氏武家系譜-情報が無い)神門家系譜1菅之八耳の子,2八嶋篠3→4布葉之文字巧為→5→6八束水臣津野(国引主)→7↓ 八千矛(8代目大穴持の大国主)大国主=大黒天=マハーカーラ,マヘーシュヴァラ(大自在天シヴァ・ヴィシュヌ・ブラフマーの三位一体でアートマン)大国主の子、阿遅須枳高日子根の子、賀茂氏(陰陽師開祖役小角の本姓)大国主(八千矛)‥→出雲(神門)振根=倭健→伊賀曽熊の子嫡子の健部氏(神門姓を継ぐのと日本武(倭健)の名代部も同時に継ぐ)次男の二方国造家末子の島津(志摩)国造家の島(直)氏=日本書紀の応神天皇家臣、斯摩宿禰。●先住出雲族二大王族の向(富)家口伝・伝承(出雲族酋長:富當雄)の系譜 大元出版の斎木雲州本参考。 菅之八耳(初代大穴持) : 宗像家・宗像三女神─八束水臣津野 : 神門家本家(大国主・八代目大穴持の八千矛) │ 阿遅須枳高日子根(八咫烏)─賀茂氏──役小角 │ 塩冶彦 : 出雲(神門)振禰=倭健(=日本武) │ 伊賀曽熊 │ 健部家・二方国造家・島津(志摩)国造家の島(直)氏 │ ││(=斯摩宿禰は日本書紀の応神天皇家臣) │ │ ∟____________________________ 神門家・日本武名代部 元出雲最古の氏族・島谷氏 │ │ │ 南関東国造家の島族 │ │ (島田-島野-島崎-島村-島根-島津) 健部氏・武部氏 松浦氏武家島谷氏・丹後国二宮社家嶋谷家 (下から三段列は私の調べた推定系譜) ※百済経由渡来の南関東国造家の島族(島津)氏は 秦の始皇帝融通王=弓月君と一族郎党の帰化地名姓。
毛利元徳は徳山藩出身ですね。
おっしゃる通り、徳山藩第8代藩主・毛利広鎮の十男です。
@@mourihistory トムさんのおっしゃる通りです、9代の元蕃の弟になります。 徳山出身なので、徳の字がついてると勝手に思ってます(笑)
こんばんは、伊藤です。なんか、徳山のまえは、下松が、藩領で、下松藩が、最初、みたいですよ、どうも、輝元公は、広家公、憎し、岩国に、近い、下松に、次男さんを、置いたみたい?
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️はい、下松が出発点です‼️徳山はパワーバランスの上に成り立っていたのかも知れませんね👍️
地名の「広島」も大江「広」元が起源ですか?
ナイスな質問有難うございます。あくまで、定かではありませんが、大江広元の広と、当時の縄張りをした福島何某の島の字を合わせて広島と命名されたといわれています。広島の命名者は輝元に間違いないのですが。今後とも宜しくお願いします・
早速お答えありがとうございます。大江広元どのの重要性がわかる逸話、ありがたく頂戴いたします。中学生のときに診た『草燃える』の岸田森さんの演技以来、歴史上の人物として広元どのファンなので嬉しく思います。地頭の設置は武家の経済権の確立であって、本当に日本を変えました。最近ネット課金して『草燃える』の総集編を観ました。地頭の権利の重さが承久の乱での例の岩下志麻さんによる政子演説で述べられているのを見て、広元どのの功績を改めて認識した次第です。史料と『草燃える』の本編で語られている上皇の寵姫とある地頭とのトラブルで地頭罷免を求められたとき、「治天の君」の権威に怯えるのならたった一人の地頭の罷免くらい大したことがなさそうですが、それでも鎌倉政権が拒否したという話からも、地頭権が「一所懸命」の武家にとって団結の紐帯だったことがわかりました
改めて、毛利って凄いね、でも、何で広島なんか来たのかしら、
安芸の地頭として、流れて来たんですね(笑)
大江音人が阿保親王のご落胤なんてのは突如ぽっと出てきた一説であって、公式っぽい出自は土師氏じゃなかった?落胤なんての当時は珍しい話じゃなかったかもしれないけど、その説明を一切せずに落胤説のみ説明するのはいかがなものでしょう?別にどっちでも良いけど人間性が疑われますよ。
毛利じゃないとこの北の大江広元の子孫がとおりまーす。(初代政宗許さん)
はい。勿論、寒河江、長井、那波氏他の系脈の方々には、尊敬の念を持っております。
天皇の血を引いてるって事!?だから関ヶ原後滅ぼされなかった可能性も?
真偽をめぐって議論はあるようですが、一説としてその可能性もありますね!
トムさんが勉強されててビックリ! 一応、天穂日命という神様が原点とされていて、家系は神別、血統は皇別などと言われますが、歴史学者の中でも未だ議論されています。 徳川が潰さなかった理由はほかにあるかと思います、でもその論理もロマンがありますよね!
毛利の末裔です
コメントありがとうございます🙇 ご縁のある方ですね。 また、詳しく教示ください。今後とも、宜しくお願いします‼️
話下手か⁉️。長い。
厳しいコメント痛み入ります。。
再生リスト:毛利家のできごと
ruclips.net/p/PLs52PWs0zP30kzLR4pJafXOXoVDgcHer0
是非、他の動画もご覧下さい🙇
こんにちは。
毛利様には歴史上の沢山の有名人の血が流れているんでしょうね。うらやましい❗️
私の毛利贔屓のきっかけは子供の頃にやってた「花神」です。
意味分からず観てましたが、中村雅俊さんの高杉晋作が猛烈にかっこよく子供の心にもグサッと刺さりました。
メッセージありがとうございます⤴️⤴️⤴️⤴️
おお、渋いですね。中村梅之助さんが主役を務めましたよね。 確かに中村雅俊さんの出で立ちが颯爽としてましたもんね‼️
確か、米沢藩上杉家の家臣にも毛利家(江戸時代に安田姓から改姓)がいますね。以前米沢城址の上杉神社に行ったら「一文字に三つ星」の家紋の旗が立っていたのを見て「米沢に毛利の一族がいたのか?」と気になり、調べたら越後毛利氏の存在を知りました。
越後にいて宝治合戦に関与せずに残った毛利経光の子孫で安芸に行かずに越後に残った家のようですね。同族に北条(きたじょう)家もいます。上杉謙信の家臣であった北条高広が有名です。
はい。その通りでございます。
そちらが、毛利家の本流にあたります。
上杉さんにお世話になってるなんてなんか、ロマンを感じてしまいます(笑)
そちらでも、一文字三ツ星が見れるのもまた素晴らしいです‼️
お世話になっております。同族の長井(大江長井)です。
大江広元公からの毛利家始祖は毛利季光公ですね(長井家は長井時広公が始祖です)。
ご本家の幕末の有名な第13代長州藩主 毛利敬親公の墓石にも、”大江朝臣敬親”と記載されてあり、先祖を誇りに思い、いつまでも先祖を敬う気持ちに感動しました。
動画で毛利家の規格外のお話しをお聞きすると、さすがは毛利家、、、また、ご直系となるとさすがお詳しい、、、、益々、毛利家のファンになりました(笑)
詳しくはありませんが、私も歴史が好きですので今後も色々と教えて下さい。毛利家の皆様の益々のご健勝並びにご多幸をお祈り致します。
長井様! 悠久の時を経てやり取りができて感無量です。 是非、今度長井家の歴史も教えてください。まだまだ、拙いチャンネルですが精進して参りたいと思っております。 心温まるメッセージに感動してます。今後とも、是非是非、宜しくお願い致します!!
ご返信いただき大変嬉しく思います。
毛利家ほど華々しい歴史はありませんが、長井家は、中国地方においては、備後国守護、備前国守護など歴任していました。
毛利元就公による中国地方を統一される際の協力、関ケ原の戦いに敗北した結果現在の山口県へ共に移動、明治維新での都内へ共に移動など、昔から毛利家の方々に大切にしていただき、大変お世話になっていたそうです。
長井家は大江支流では数少ない、山口周防国の守護職を一時期されていた家柄。名家中の名家。
@@bossatam9070 長井家についてコメントいただき誠に有難うございます。とても嬉しいです。そうですね、周防国守護もありますね。とても詳しいお方ですね。
長井家は、大江本家(宗家)もしていたそうです。
長井様、返信誠に有難うございます。
明治期に長井家の方々も毛利家と共に、東京に出られていたのですね。知りませんでした。でしたら、他の有力家臣の方々も東京にいらしゃるのでしょうか?すると徳山様の里帰りは珍しい事なのでしょうね。面白い。
実は長井家が周防国の守護職だったという事を知ったのは最近でして、立命館の教授がやっているRUclipsの歴史講義、山口大内家の歴史編で、鎌倉前期の周防国における、長井家の事に触れる箇所が御座いまして、そこで知る事が出来ました。幕末の長井雅楽(呼び捨てお許しを)ならば、書籍なりドラマなりで登場することもありますが、鎌倉期の長井家が話に出るのが余りにも、稀だった事もあって、覚えていた次第です。鎌倉前期に周防国には守護職は居なかった。平家が東大寺を焼いた為、後白河院が東大寺の再建に天領である周防国をあてがい、大勧進したとあります。東大寺再建後に、周防国の最初の守護職になったのが、おそらく長井家と推察されます。長井家は面白いですね。山口に始まり、結局は山口に戻るという歴史の巡り合わせ。山口の左半分の長門には佐々木家が守護職であって、これも私の個人的推察なのですが、両家共に仲の良い家同士だったのではないかと。佐々木広綱の烏帽子親は、中原広元(大江)。広の一字を貰っていますし、佐々木広綱の奥方は広元の娘ですから。そして、佐々木家から長井家に嫁にいくパターンもあったはずです。周防国を虎視眈々と狙っていた、介の大内氏もこの時期は、両家が目の上の瘤だったに違いありませんね。広元は中原姓を名乗っていた訳ですから、中原家の末裔である大友氏の家紋を最初に広元は使っていたはずですよね。大江姓に戻した晩年位から、家紋が一文字三ツ星に戻ったのでしょうね。
長井家の家紋は最終的には二文字三ツ星になりますが、矢張毛利家に気遣っての事なのでしょうか?これは昔からの私の疑問でした。
すごくわかりやすかったです!
山口県に引っ越してきたので、歴史を調べていろいろ観光したいと思っています。
これからも楽しみにしてます!
できれば観光につながるものを紹介していただければ嬉しいです!
ありがとうございます!
観光と歴史は切っても切れないですよね。
観光名所と歴史ストーリーをセットにした動画も撮影していきます^^
ありがとうございます。リクエストにもお応えできるよう頑張ります!
普通の家だと頑張っても江戸後期の先祖までしか遡れないんですよね。うちなんかもそうです。
しかも江戸時代には名字すら持っていませんでした😂
だから殿のように平安時代の先祖までWikipediaでも分かるのは羨ましい限りです。
先祖が何をしていた人か知れることはとても幸せなことだと思います。
面白いチャンネルに出会えて嬉しいです。
毛利家と山形県も少なからず縁があるってことですね♪
ありがとうございます!当家の3代元次は一時断絶の憂き目にあって、一時、出羽新庄藩にお預けとなりました。また、当家には、織田天童藩主のお姫様がお嫁に来ています。米沢藩は何と言っても鷹山始め素晴らしい藩ですし。 最上家も最高です!! そんな、山形からも今後も応援宜しくお願い致します!!
武士の時代の始まりの契機となった守護地頭の大江広元、言わずもな武士の時代の終わりにも深く関わった毛利家、日本の武家の時代の幕開けと幕引き、いずれもが同じ一族によってなされたと言う意味で、深い興味がありました。なかなか言えないこともあるかと思いますが、なかなかできない質問の場ができる意味でも、バランス良くコメントと動画が生きていくチャンネルになることを期待してます。これからも応援しつつ楽しみにしております。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️端的に的を得たリクエスト。粛然と襟を正さずには居られません。 はい、大江から始まり毛利家が日本の転換期に関わってきたこと、毛利家として思うこと、色々とお伝え出来たらと思っています。
是非、今後ともご教示、ご指導宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
まさか毛利家の方がRUclipsをやってらっしゃるとは!!僕は小さい頃から毛利家が大好きです!大河の大江広元登場が待ち遠しいですね!これからの動画も楽しみにしてます!
ありがとうございます!
これからも歴史好きの方々に楽しんでいただける動画を作っていきます。
メッセージありがとうございます。 このようにして、歴史を後世に伝えていきたいと思っております。毛利家ファンとは光栄の至りです!! 是非是非、応援の程宜しくお願い致します。小早川とは、また、素敵ですね!
厚木市の南毛利が地元です。
町名としては「毛利台」しか残っていないのですが、これを含めた31町丁が合併以前は南毛利村で
現在は南毛利地区と呼ばれており、小中学校や公民館の名前として今も残っています。
神奈川では割と著名な県立高校があったり、かなり活気のあるエリアですよ。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
一度は行ってみたいと思いながらも、なかなか行く機会に恵まれませんでした‼️有益な情報をありがとうございます‼️是非、行ってみたくなりました。
徳山さんよりだいぶ小さいのですが長州支藩の清末です。
現在寒川在住なので、近所なのですが1、2回しか行けてません。
また毛利台を訪ねたいです。
RUclipsで毛利家の御当主様の動画を見れるとは思ってもいませんでした。自分の先祖は藤原系で源平以来山口のある村の山々を持っていましたから毛利家はご尊敬する御一族です。今は大阪に住んでおりますが、家の近くには、楠木正成公に軍略を授けられた大江時親公の住居跡が残っており、近頃銅像も作られました。時親公の血脈が元就公に繋がると考えると感慨深いものがあります。
メッセージありがとうございます‼️
毛利家なんかより、山口に早くから住まわれていた名族ですね。でも、ご縁があるようで嬉しいです。 しかも、大江軍学流の中興の祖の像の近くにお住まいとは、いよいよご縁を感じます。 今後とも、これをご縁に宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
面白い!大河ドラマとタイムリーですね。次が楽しみ😁
ありがとうございます!
地元の名士に褒めて頂き励みになります!頑張ります。
徳山毛利家って確か宗家の輝元直系の血筋が絶えたあと江戸時代に色々なトラブルがあった御家だったはず💦。ちゃんと現在も当主の方がいらっしゃって、歴史と物語を伝えていらっしゃるのは素敵ですね。一品のお話が特に面白かったです!
メッセージありがとうございます! 3代当主の時に一時改易になりましたが、徳山毛利家のみ9代までは輝元の血が流れております。
そして、その血は入れ替わるように本家の幕末の藩主敬親の世子として元徳が本家を継いでおります。 これからも、どうぞ宜しくお願い致します!!
毛利家に大変お世話になった村上水軍の末裔の者です。
まぁ数代前に他家から養子が入り村上と言っても、
戸籍上の繋がりでしか無いですがw
毛利家の方のRUclipsチャンネルと聞いて加入しました。
毛利家の方だからこそ知る裏話等が聞ける事、
とても楽しみにしております!
それはそれは‼️毛利家が飛躍したのは、村上水軍あっての事です。 是非、村上家を大切になさってください。ご期待に添えるよう頑張ります🙇
題名が鎌倉殿の13人で史実通りの脚本なら大江氏が主役級のはずなので、それだけを楽しみに広元公登場までの前座は我慢しながら観ております。
メッセージありがとうございます‼️
全く、私も同じ気持ちです👍
今後とも宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
最高のチャンネルでございます。
徳山に行った際はお会いしたいです。
お褒めにあずかり光栄です。 是非、おいでませ。
陸奥国磐前郡磐城平(現在の福島県いわき市)の新家(しんか)です🏯
まさか、周防徳山藩毛利氏のご当主が毛利氏の歴史を分かりやすく丁寧に解説して下さるのは大変驚き、大江広元公や毛利元就公をはじめ毛利氏のルーツと生き残った戦国大名たちに関わる内容が大変興味深いことでした‼️
また、毛利氏や島津氏だけでなく、千葉常胤公の子・千葉師常公を始祖とする相馬中村藩相馬氏や、工藤祐経公を始祖とする日向飫肥藩伊東氏や、相良長時公を始祖とする肥後人吉藩相良氏など、生き残った戦国大名たちもいますよ‼️
そういえば、幕末の長州藩で活躍した吉田松陰が現在の福島県いわき市に当たる陸奥国菊田郡植田宿を訪れたという記録が『東北遊日記』に書き記されており、当時のいわきの様子が分かります🏯
また、いわきも戊辰戦争関連の史跡がたくさんあるので、機会があれば、是非お越しください🌸
いわきからのメッセージありがとうございます❗ そうですね。確かに、相馬さん。伊東さん。相良さんと言った名族大名がおりますね。それと、耳よりな情報をありがとうございます。松陰の足跡を辿ってみたくなりました。 そして、戊辰戦争。。。
必ず、一度は訪れて香華を手向けに参りたいと思います。 いわきの方から、暖かいメッセージを頂いて本当に嬉しいです。どうか、今後とも色々と教えて下さい⤵️⤵️⤵️ 宜しくお願い致します❗
@@mourihistory
こちらこそ大変貴重な毛利氏についての解説をしていただき、ありがとうございます‼️
今後の動画も楽しみに待ってます🌸
これからもお互いがんばっぺ‼️(がんばっぺとは、福島弁で「頑張ろう‼️」という意味です‼️)
鎌倉殿の13人、大江広元公の登場待ち遠しいですね。武士の世に変えたのも武士の世を終わらせたのも毛利、歴史の転換点に必ず関わると。
ドラマ序盤の登場人物の姓が湘南周辺の地名通りなのでこの辺では大いに盛り上がっています。
そうですね❗坂東武者って、その通りそちらの名前ですもんね。 かくいう、我々も神奈川ですが、、、、
大江音人の逸話は存じ上げませんでした。勉強になりました。
是非、今後とも宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
これはありそうでなかったチャンネルですね!まさか毛利さんがでていらっしゃるとは^^;これから楽しみにさせていただきます!!
同じく!!
是非!宜しくお願い致します。お元気そうで何よりです。
めちゃくちゃ勉強になりました!
嬉しいコメントです!
ありがとうございます。
日向坂46のファン(おひさま)ですが、名前の由来に我が故郷徳山のお殿様って事に更に親近感が溢れています。
ありがとうございます!
日向坂の由来を知ってるのはコアですね。 日向守が住んでいいたことに起因しています。
是非、日向坂46にとどまらず、毛利家チャンネルもご愛顧願います。
もちろん、フォローしました。
ちなみに、日向坂の由来はおひさまならみんな知っている話です(^ ^)
いつか聖地巡礼で日向坂の碑に行きたいです
@@歩河村 えええ‼️そうなんですね。なんか、嬉しい発見でした。僕もにわかファンになろうかな。
日本でも有数の高級住宅街、兵庫県芦屋市に、この動画で紹介いただいた毛利の祖大江氏のさらに祖先、阿保親王の墓があり、このお墓の南の阪神打出駅の近辺に阿保親王廟道標が残っています。江戸時代の文政期に長州藩が改修したこともあり、なかなか立派なものです。尚、西国街道沿いに立地したこともあり、参勤交代の藩主は勿論、吉田松陰も立ち寄ったとの記録があるようです。
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️
素敵なハンドルネームですね👍️
それに、とても有益な情報をありがとうございます‼️ 知らなかった。親王のお墓があるとは。。。しかも、道標もあるんですね。 毛利の祖として長州が改修したとあっては参らないわけには行きません。
また、色々と教えてください🙇
殿、大変勉強になりました!
本当に⁉️ 稚拙な説明でお恥ずかしいです、、、。
帝国陸軍の長州閥の少将以上の軍人を会員とする結社「一品会」がありましたが、結社の名称の由来がよく分かりました。それはともかく、長州藩は藩士の子弟の教育を重視していました。本藩には明倫館、徳山藩には鳴鳳館、清末藩には育英館、長府藩には敬業館、吉川家には養老館などの学館が所在しておりました。教育重視の気風は大江広本に起因するのですね~。
一品会など、良くご存じですね‼️
そうなんです、長州は教育に力を入れておりました。今でも、教育は何よりの原動力ですよね、 それにしても、色々と知ってらっしゃいますね、
旧徳山藩の現在の当主毛利就慶さまは、
初めて、令和期に初登場。先祖様に毛利元就公や豊臣政権の時活躍した毛利輝元公の血筋引いているご子孫様ですね。
ご当主自ら、毛利家の歴史を動画発信してくれまして歴史マニアとしてたまりません。世が世ならお殿様ですから。
少し照れくさいですが、有難いメッセージ本当に嬉しいです。 僕も言ってみれば、歴史マニアです。 是非是非、今度ともアドバイスやダメ出しを頂戴できれば幸いです!! 今後ともよろしくお願いいたします。
毛利さまのご本家筋萩藩のお殿様で江戸時代中期頃藩主で毛利重就公というお殿様がいましたけど萩藩の財政をしっかり建て直した名君ですね。撫育方という特別会計を作り資産運用で財産を蓄えましたね。凄いです。
経光の長男基親が越後毛利氏の祖となり時元→経高と続き北条(きたじょう)氏と安田氏に枝分かれし、北条高広と安田長秀は謙信の有力武将として活躍しました。高広は後北条氏とも関係があるのでややこしくなります(苦笑)
良くご存じですね。そうなんです。上杉さん家臣になってますよね。僕もその辺をもう一度勉強しようと思っております🙇今後とも、宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
厚木に住んでて今は相模原市に住んでますけど、毛利荘(厚木市になる前は睦合村(通称北毛利村)と南毛利村)が毛利家発祥の地は知ってますよ!☺️
厚木市毛利台は住宅地ですね!😉👍
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️ 李光が南毛利壮に住んでいて、そのあたりに毛利小学校があると聞いておりました、そうなんですね。いつも、鎌倉までで足が止まってしまうので、今度は厚木に参りたいと思います。 教示頂きありがとうございます⤵️⤵️⤵️‼️
@@nariyoshimouri4104
20年程、南毛利地区に住んでいましたが、「毛利小学校」って言うのは無いですね。
「南毛利小学校」「毛利台小学校」「南毛利中学校」は有ります。
「南毛利」は同地区の旧村名でもあったので、公共施設の名前としては多く使われていますが地名としては無くなって居て、現在厚木市内で「毛利」と付く地名は「毛利台」だけになっていると思います。
因みに小田急・JRの「厚木駅」はお隣の海老名市に有りますので、電車で厚木市に行かれる際は小田急の「本厚木駅」で下車して下さい。
ただ駅前も昔と比べ寂れてしまったし、厚木市自体あまり観光スポットが無いんですが・・・。
@@アサヤス-w8v ありがとうございます‼️ ご親切に!必ず行ってみます‼️
・トムさん今は山口県の歴史・毛利家に由来のある人物・出来事にはかなりの知識深められたでしょうね。応援します。スラスラと述べられる毛利様は凄い、自分的にはいつも新しい歴史の発見となっています。
・阿保親王と毛利家は由来あったんですね。
大阪府松原市に阿保神社があります。兵庫県芦屋市には阿保親王の古墳があります。古墳近くの町名は親王塚になってます。
・大江広元の6人の子息、子孫をザクッと目を通しました。
色々あったんですね~。
大江広元息女の血筋が現皇室に脈々と受け継がれているとのこと。
・萩藩閥閲録は武士以外の者にも閨閥を作成。
閨閥以外のデータを地道に作成されていたようですね。
・右田毛利さん所有の古文書を最近山口県公文書館に寄贈されたみたいです。
通説歴史の解明を期待したい次第です。
フミカミさん‼️
またまた、意外な所に。トムさんは、今はお互いやりとりしてるんですが、違ったお仕事されてるんですよ。いずれ、また、戻ってくるかも知れません。
阿保親王。良くご存じで、恐らく親王に関してのお墓や神社などは、江戸期に毛利家がかなり肩入れしてると思います。
萩藩閥閲録が、でで来るとは、、、
いやはやですね(笑)
そして、右田さんとは近日に対談したいと思ってますので、色々と聞きますね👍️
@@mourihistory
毛利様
いつの日か阿保神社・阿保親王のお墓にお参り出来ればよいですね。
江戸期に阿保親王のお墓を管理してたのは【浄土宗 阿保山親王寺】でしたので毛利家が寄進・支援してたかもしれませんね。石灯籠、瓦の葺き替えなど。瓦には一文字三星が使われたのかなと。
お寺は建替したばかりで不運なことに残念ながら阪神大震災で被害を受けて長い時期をかけて10年ぐらい前に再建されました。再建したお寺には歴史的経緯からどこかに毛利家の家紋があるかもしれません。
阪神間にも毛利家の痕跡があるんですね。
江戸期には毛利宗家・支藩などが参勤交代に立ち寄り又幕末期の志士達もこの地に立ち寄ったかもしれませんね。
あと5話ぐらいで『毛利家歴史CH』のコメント全投稿になります。いつもながら拙いコメントですんません。
楽しく拝見させて頂きました。私も鎌倉殿の13人は楽しみにしておりました!
安芸の国初代は時親さんではなく、元春さんになるのですね。これは知らなかったです!
申し遅れましたが、元春さんの代は3人兄弟だったと思いますが、私はその末弟の子孫となります。
メッセージありがとうございます!! 安芸吉田の地頭職は経光の時1から受領していましたが、下校して腰を落ち着かせたのが元春の代と思います。 えええ、そうなんですね。 直元という弟さんの末裔になられるんですね。 凄く、ロマンと親しみを感じます。 是非、今後とも応援よろしくお願いいたします。
@@nariyoshimouri4104 はい、直元の末裔となります。チャンネル登録させて頂きました!配信、楽しみにしております!!
徳山出身なんですが、徳山藩については、地元ではほとんど教えてもらってないんですよね。
徳山動物園が、徳山藩の屋敷跡ということしか知らなかったので
今回、初めて知ったことも多かったです。
そういえば、元就の時代、家臣に大江という人がいたと記憶してますが
毛利宗家の分家筋なんですか?
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️そうなんです。他の行政に比べて何故か毛利家の歴史に前向きでないところが、徳山にはあります。そこで、奮起一転、このチャンネルを始めました。どうか、同郷のよしみで宣伝、応援を宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️ 大江と言う家臣についてですが、記憶が定かでないので調べて見ますね‼️ 毛利と同族の桂や、福原などは、同じく大江姓を名乗ることもあるのですがそれではないですよね。
山口といえば、安倍じゃん、イメージ悪いから、毛利を宣伝したい
得宗家に抹殺されなくてよかったです。鎌倉殿ですと、山内家の先祖が
命乞いしてるシーンがありました。
大江広元さんは、かっこよく描かれてました。
へえ😃💡⤴️
もう一度、大河を見直して見ようかな。
広元、、、渋かったですね👍️
徳山毛利家は鎌倉時代の大江家を起源としていますが同じ毛利家でも頼朝の子孫から繋がる菊一の家紋を有する34代繋がる毛利家が岐阜県にありますがご存知でしょうか⁉️
安芸毛利一族、以外にも毛利一族はあることは承知しておりますが、それは知りませんでした。 調べてみたいと思います‼️
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
幕末の当主 毛利敬親公には 元 就 広 が入ってないのはなぜでしょうか? 勉強不足で申し訳ございません、機会があったら教えてください。
敬親公は幼少の頃より、名前を幾度も変えています、元が付いてる時代もありましたが、宗家を継ぐ時には、当時の将軍から一字の慶を賜り、慶親と名乗りました。
親は祖父の名に由来しています。
しかし、幕府と事を構えたため、慶を取り、敬親に改名したのです。
因みに、彼の養子である、元徳は徳山藩からの世子なので、元徳なんですね。
簡単ですが、宜しいでしょうか⁉️
大江広元が源頼朝に仕えるきっかけを作ったのは、義理の兄にあたる中原親能が源頼朝と親しく、中原親能の推薦があったんですね。😃
さらに大江広元が大江姓に戻ったのは亡くなる10年ほど前で、源頼朝が生きている間は「中原さん」だったんです。😮
ちなみに毛利季光公も、生まれた当初は中原さんでした。😊
中原一族の話は今回出ませんでしたが、中原親能については動画を一本作ってほしいです。掘り下げると色々と面白いので。🤩
2年前に財原家のルーツを調べていたら、
大江氏は代々因幡の国司を努めていて財原村の神社を保護していて、大江広元が国司だった時に財原村の神社を大江家の氏神神社に指定して、それ以降大江神社と呼ばれる様になったと書いてありました。
大江家は鎌倉時代に関東に行き、鎌倉滅亡後は広島で戦国大名となったのですが、我が家の財原家もその後に財原村を出て平地に行き、鳥取市郊外に移り、私の父の時に広島に移り住み、私が関東に出て来ました。時代は違うけれども同じ広島を交差点として運命的な因縁を感じています。
コメントありがとうございます!
財原家の事は初めて知りました。
とても、勉強になります。
しかも、その数奇なご縁でとてもシンパシーを感じています。そうなんですね、いずれ行ってみたいと思います。
広島が交差点になってるのが、またまた、奇縁ですね👍️
政所とか守護地頭とか懐かしいです。あと六波羅探題とか?! でもテストの為にただ覚えただけ😂😅
分かります。笑
でも用語や出来事などのストーリーを知ると歴史が楽しくなりますよね^^
コメントありがとう♪ 六波羅探題は平家側ですけどね。
毎度興味深いお話の動画ありがとうございます。
些かお話がそれますが菅江2家。天皇・親王の教育係の大江家の話。源頼朝が三顧の礼で大江広元を鎌倉に招聘したとお話にありました。
大江家は文治政治の役割だけでなく様々な漢籍、特に兵法書に通じていたという事で武家政権の鎌倉幕府に大切に迎えられます。
今ではビジネス書等で取り上げられ、誰もが手にする「孫氏の兵法」。この書物に関して大江家は重大な役割を持っていました。
現存する「孫氏の兵法」は中国の三国志時代魏国の王曹操が散逸した春秋戦国時代に活躍した孫武の兵書を蒐集、編纂、注釈を加え実践的に役立つ物に
纏めた、所謂三国志で出てくる「孟徳新書」です。(現代の日本で多く読まれている岩波書店で刊行されている「孫子」は「魏武註」となっています。)
源頼朝はこの孫氏の兵法を禁書にし、大江家一家相伝の秘伝書としました。
というのもこんな優れた兵法書を幕府打倒を目論む反対勢力に読まれ、倒幕にむけた知恵をつけられてはたまったもんじゃない!という理由です。
それから時代は流れ大江家も多くの分家に別れ安芸吉田郡毛利家と別れます。
その時一家相伝であった孫氏の兵法、猿掛分家であった元就公の手元に受け継がれ中国の覇者と大躍進したきっかけになったと考えられなくもないと愚考します。ただ元就公は三国志を好んで読まれたと話に聞きますが、その根底にあるのも大江家秘伝の影響もあったんではないでしょうか?
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️
来ましたね、かなり深いご質問が。
スミマセン、私も素人ではありますが、、、。
大江家は、やはり軍学に関しては教示する立場でもあり、孫子の兵法に関しては熟知していました。 後に、日本で初めての軍学書となる、闘戦経は大江家の一子相伝として伝えられたと言います。 勿論、孫子が大元の書です。 それが、伝えられる中でも、楠正成に影響を与えて、やがては安芸毛利一族にそれが。伝えられて参りました。 その書を、元就が不遇の時代に読破したとするなら、彼の武功は納得がいきますよね‼️ その、書は弟から他に伝えられたとされています。
スミマセン、拙い推論で‼️
今回も非常に興味深く拝見させていただきました。私は某放送局の大河ドラマは全く観ませんが「広元公」の御活躍こそが幕末に久坂玄瑞の「廻瀾条議」の中で「覚阿公(毛利広元公)千載之御失着」と指摘されてしまうところが何とも皮肉な結果になってしまいますね
ありがとうございます‼️へえ。久坂が広元に対して、その様な事を書いてるんですか? 早速、調べてみたいと思います。勉強になりました❗
はじめてコメントさせていただきます。群馬のほうは、大江広元を後裔を称している那波氏がいます。家紋を見たら毛利と同じ感じのものです。那波氏は小田原北条氏に、滅ぼされています。越後上杉氏が群馬に派遣した北条高広別名毛利高広も、大江広元を、祖先に持っています。中国の毛利とは、遠い一族に当たるようです。中世の城を巡っていますが、どこだったか忘れてしまいましたが、大江広元から、毛利に繋がったと説明書きに書いてあったのを記憶しています。ちなみに、問注所長官の三善康信の領地も、ありました。今回ご当主様から、いろいろご説明頂き勉強になりました。ありがとうございます。
メッセージありがとうございます‼️
非常に有益な情報をありがとうございます⤵️⤵️⤵️
私もそこまで、詳しくはないので、那波氏に関して調べてみようと思います。
中国地方、特に安芸の国人は、関東武者の流れが殆どです。大江は下級貴族ですか、そう言った意味でも繋がる事が多々あると思うので、是非、私も訪れてみたいです‼️
@@mourihistory 私も、今は病後で中世城跡巡りから離れていて、かなり忘れていて、Googleで検索した情報です。是非越後毛利家とか群馬県伊勢崎市那波氏で検索すると、概要がわかります。しかし、秋元氏とご当主様が繋がっていることと、秋元氏の幕末の様子が伺えたのは、嬉しかったです。コメントの返信ありがとうございました。
殿様、こちらこそ~、どういたしまして🙇こんにちは~😊☀️
私は神奈川県鎌倉市の隣の藤沢市に住んでいますが、大江広元も源頼朝公と幕府を立ち上げたと偉業があると思いますよ~😊
残念ながら、去年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の再放送は、3代目の市川猿之助の不祥事のせいで、不可能になりましたが、毛利氏は鎌倉時代に始まり、私の父方の先祖清水六左衛門は南北朝時代から始まり、足軽でした✨
湘南と呼ばれる藤沢市、江ノ島には龍光寺があり、大庭一族縁の大庭城址公園がありますが、毛利氏と縁がありそうな気がします😊
藤沢‼️ 良く学生の頃に友達がいたので遊びに行きました。
横浜新道をずっと走って👍 そして、ご先祖様は由緒あるお侍さんなんですね。
きっと、当家ともどこかで関わりがあったはず‼️
萩市大井川北側から阿武町奈古にかけて徳山藩領の飛び地があるが管理組織はどのようになっていたのかまた萩城下には立藩が遅れたので清末藩同様三の丸外に徳山屋敷があるが中屋敷下屋敷に関するエピソードがあればぜひ知りたい あわせて江戸や大阪 京都 長崎などの藩邸があればしりたい 勿論日本最大級といわれる徳山陣屋も詳しく知りたい
メッセージありがとうございます。奈古の飛び地を知ってるのは通ですね。そうなんです、徳山の萩屋敷は外ですよね。徳山は一時断絶の憂き目にあってることや、初代の就隆が秀就公と仲がしっくりいってなかったことが原因ではないかとも思っています。 萩に中屋敷他あったかは知らないので調べてみます。 大阪屋敷は岩国藩屋敷の隣にあったと聞いています。 確か周防町という名で残ってたかと・・。 宗右衛門町の近くです。 江戸屋敷と徳山陣屋については、後々、チャンネルでもご紹介させて頂きたいと思っています。すみません。答えが不十分で!! 今後とも是非、宜しくお願い致します!!
@@nariyoshimouri4104様 ご丁寧な返信感激しました 近日中ぜひ徳山を訪問して撮影されている場所を探訪したいと思います
@@刀禰元彦 こちらこそ、ありがとうございます⤵️⤵️⤵️是非是非、徳山にお見えの際はご一報ください。 今後とも、宜しくお願いします‼️
毛利さん、はじめまして。
小学生の時に、大河ドラマ毛利元就を見ていました。(ひい祖父ちゃんとひい祖母ちゃんが広島出身だったので、シンパシーを感じていました。)
これが、毛利家の始まりなんですね💡
はじめまして‼️コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️ では、私と同じ安芸が郷里ですね。 シンパシー感じます👍👍
毛利の始まりは、こんな感じでした☝️
@@mourihistory さん
毛利さん、よろしくお願いします!
それっ素朴な疑問です。
僕も、戦国武将が大河ドラマの影響で好きなんですが、
関ヶ原の戦いや、戊辰戦争の時、島津家と手を組んで、徳川家と戦った過去があるのですが、
2023年現在徳川さんと島津さんとは、どのような関係なんですか?
これは、特別にお答えします(笑)
本当に、、、。
霞会館と言う、元の華族会館があるのですが、そこでは普通に挨拶しております。
また、島津一族とは親戚でもあるので、良好ではあります。 徳川のご宗家とも一度、お会いしましてが素敵な方でした。
ただ、前当主は薩長に関しては非常に❌でした。。。。ここだけの話ですよ‼️
@@mourihistory さん
なるほど?勉強になります✨
今では、昔の蟠りはなくなり、未来に向かって交流しているのですね💡
とは言え、毛利さんの先代さんが、薩長には否定的とは驚きですね😳
いえいえ違います‼️
徳川宗家の先代です、、、、。
大江時親の子孫です。
殿と同じ遺伝子が入っていると思うと嬉しいです😆
うわ‼️こちらこそ嬉しい。
同族の方からのメッセージ👍
これからも、宜しくお願いいたします。
ご返信ありがとうございます😆
母方です。大阪の河内長野が実家で母は大江姓です。私は今は名古屋に住んでいますが、先日、四天王寺の大江神社にも行ってきました。
千年以上の時を経て、まさに大枝ですね👏
うわ! それはそれは、しかも河内とは。
母方とは言え、大事なルーツですね。
まさに大枝👍️ 天王寺の神社行ってみたい‼️
大江神社には明治に山口藩が建立した祠っぽいものもありましたよ。
阿保親王の話は知りませんでした。
芦屋に古墳があるみたいなので、こんど芦屋に行く用事がある際に寄ってみたいと思います。
時親は楠木正成公とゆかりがあると聞いています。正成公は人気があるので、RUclips企画で取り上げてみても面白そうですね😆
なるほど‼️
大江神社ますます行きたい。
楠木公に戦術指南したんですよね。
先日、神戸で撮影してんですが、あまり、それには触れなかったから、後悔してます、、、。
御暇な時で構いませんので宜しければたまには厚木市の方にも御出戴けたら嬉しいです。
是非、是非行きたいといつも思っております。毛利荘、チャンネルとしては絶対に行かねばなりませんよね‼️
西園寺八郎公爵に関して紹介していただければ嬉しいのですが。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
西園寺家と毛利家の関係は古くからあります。 八郎氏も徳山から本家を継いだ元徳の息子で、西園寺に養子に参りました。どこかで、ご紹介出来たらと思います‼️今後とも、宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
@@mourihistory 是非ともお願いいたします。
昔は、山形県寒河江市でも、
大江広元 公を祀った大名行列していたんですけどね。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
ある意味、寒河江市の寒河江氏の方が大江直系ですもんね。しかも、同じ一文字三星です。今は、その行列はないのでしょうか⁉️ だとしたら、寂しいですね。
@@mourihistory さん
今は大江公ゆかりの寒河江八幡宮の御神輿 祭りになりました。
大江広元の祖父 大江匡房 は、八幡太郎 源義家 に兵法を教えたんですよね。
ちなみに 寒河江八幡宮では流鏑馬が有名です。
秀吉時代は 豊臣ノ大江大納言輝元って名乗ってる書状ありましたね
伊達・上杉は、豊臣ノ藤原参議 政宗・景勝
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
そうか、豊臣の姓を頂いた時ですね。
勉強になりました‼️ 輝元は中納言ですね。
大江広元と毛利家の関連は
戦国・小和田チャンネル「【鎌倉殿の13人】大江広元と戦国大名毛利氏の関係」でよく分かります。
他チャンネルですみません。
徳山様、楽しそうなチャンネルを作って頂き有難うございます。
初のコメントになります。
私は鎌倉殿の13人を観ていないので、分からない部分があるのですが、広元は大江家の嫡子として生まれ、早くに父親を亡くすと、母親が中原広季と再婚した事で、その後広元は中原姓となっています。心算、中原広元が正しい訳で、幼少期と大江姓に戻した晩年にしか、大江広元を名乗ってないのです。大河ドラマの中では、大江広元の名前で展開されてゆくのですかね?明らかに時代設定上間違いですよね?
ドラマですから、史実に無い部分をフィクションにするのは良いと思うのですが、史実があるのにそれを無視するのはどうなんでしょう?徳山様はどう思われますでしょうか?
平家滅亡後、平家側の女官が周防大島の尻尾辺りの島末荘を後白河院に欲しいとせがみ、それを許すまじと頼朝は広元に地頭として、周防大島の島末荘を与えた。でも広元は鎌倉の要職にあったので、藤原親康を代わりに判官として周防大島に行かせた。時を経て藤原親康の子孫は水軍を組織して長崎姓に名を変える。戦国時代、陶との厳島合戦は毛利の勝利。本当ならば、大内と毛利を天秤にかけ、結局厳島合戦に参戦していない長崎氏はお家取り潰しになるところを、鎌倉時代から大江の代官として周防大島に根付き、長崎家と大江家の昔からの関わりを鑑みて、毛利は長崎の罪を許し、そのまま領土安堵で毛利家の家臣となる。大江の家臣から毛利の家臣になる、何と歴史の巡り合わせの面白さ。
徳山様、まずは山口と広元が関わるのはこの部分なので、まずは是非ここに触れて欲しかった。
すいません偉そうに。
メッセージありがとうございます。 中原姓に関してはご指摘の通りでございます。大江匡房の孫であることに違いないのですが、中原家に養子に行き中原を称してました。 大河ドラマはどうしてもドラマ性を重視して時代考証よりそっちを優先する事が多々ありますね。大河ドラマ「毛利元元就」の時も相当多く散見されました。 今回に関してそれほど気にしていなかったのですみません。
長崎家の話は、正直、私は知りませんでした・大変勉強になりました。早速調べてみたいと思います!!
自分の趣味の範囲を出ない、浅はかな知識ですが今後とも頑張って参りたいと思いますので、また、ご意見等頂けたら幸いです。
@@nariyoshimouri4104 丁寧なご返信誠に有難う御座います。私は歴史が大好きで、幼い時から郷里である周防大島の歴史から興味を拡げていきました。今は東京に住んでおりますが、日本史全体そのものに現在は興味を絶えず魅かれております。
勿論、毛利家の事に関しては私の中では重きなしております。今は毛利本家の事を知りたい!!萩藩の事ではなく、相模国毛利荘の本家毛利家です。元寇の時代・北条時宗時代、毛利本家の滅びた辺りが研究してみたい。時宗の母上も毛利の姫ですものね。
これからも沢山の毛利の事、徳山様に教えていただきたく、学んでいく所存で御座ります。
@@bossatam9070 こちらこそ、ご丁寧にありがとうございます。周防大島ご出身なんですね。私も、東京生まれ育ちですが、今は郷里にて僅かながらの伝統を後世に残したいと思って奮起いたしました。歴史は本当に面白いですね。 宝治合戦のことなど、私はまだまだ勉強不足です。 逆に色々と教示いただけたら幸いです!!
毛利の御本家とか他の分家の方々との交流ってどれくらいあるんですか?
メッセージありがとうございます。 過去には毛利会と言うものがあり、毛利宗家、支藩、一門が一堂に会していましたが、最近はなくなりました。 私はご宗家とは、元就墓前祭をはじめ様々な神事、仏事、行事でご一緒しております。 また、長府と清末の藩主、藩士の末裔が一堂に会する長清会と言うものが定期的に行われているようで、私も一度お招きにあずかりました。現在は清末のご当主が会長をされてらっしゃいます。 長くなりました。
広島のものです。徳山市に観光に行きたくなりました。
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️私の心の故郷は広島です‼️ 徳山は空襲にあい、無くなった物も多いですが、是非、一度はおいでませ。徳山🙇 今後とも、宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
広島県民としては毛利家は広島のもの!(言い方は悪いですが)という気持ちがあるので。これからもRUclipsで色々教えて下さい。勉強になります。こういう家柄の方は御家の歴史をちゃんと語り継いで日本の心を大切にしているなと感心しております。@@mourihistory
ご当主、画は訂正出来ないので、せめてホワイトボードの誤字の訂正はしてください。
菅江の「菅」を「管」はまあいいですが、平「城」天皇を平「成」天皇はマズいです💦今の上皇さまになってしまうし、ご存命ですからね☝️
概要欄作って訂正しときましょう💦
全くおっしゃる通りです。。テロップで正しい文字を使っていたので良いかと。。 恥じ入るばかりです。今後ともご指導を宜しくお願い致します!!
めちゃ分かりやすかったです!
明治維新まで生き残った戦国大名は毛利、島津、上杉、伊達、徳川とのことですが、残り二家は佐竹と南部ですか?
メッセージありがとうございます。司馬さんの本で見たので自分でもウル覚えなんですよね(笑) もしかしたら、松平家は大名のくくりでなかった気がします。いわゆる今川家の被官でしたから。戦国大名とは独立した国家を持った大名なので。そうすると、あとは、南部さん。竜造寺の親戚の鍋島さん。 秋田さんでしょうか。 ちゃんと調べてお返事しますね!! 今後ともよろしくお願いします。
織田さんを忘れてました!!
細川では?
対馬の宗氏?
今年(2024)の大河ドラマ「光の君へ」で宇多源氏源雅信の娘・倫子の家庭教師であった赤染衛門も、大江匡衡との間に挙周を産んだことにより、祖先にあたるのではないでしょうか?
コメントいつも、ありがとうございます!
良く勉強されてますね👍
はい、お察しの通りです。本当は大河を題材とした動画を撮りたいのですが追い付いてません、、。
大江 匡衡さん、赤染衛門の旦那さんは、尾張国司だったのですね。
神社に歌碑がありました。
大江と言う地名、大江川などは
名残でしょうか。
大河でスポットが当たって嬉しい限りです‼️
神社のお名前を教えて貰えると有難いです⤵️⤵️⤵️⤵️
@@mourihistory
愛知県一宮市の真清田神社です。
先祖が拝謁してるかもと思うと
嬉しいです。
鎌倉殿の時に、小栗さんがトーク
に見えました。
ありがとうございます‼️
ご縁を感じますね👍️
へえ、小栗さんまで。
@@mourihistory
次回の大河に日向坂46の方が出演
されます。日向坂のネーミングは
殿様の邸宅がございました、日向坂
です。
@@mourihistory
国府があった、国府宮という場所に
神社と赤染衛門の歌碑公園もあります。
小早川家は明治時代に再興され、華族に列せられて男爵を授けられました。この時の当主、小早川三郎氏及び小早川四郎男爵について取り上げてくださいますよう宜しくお願いいたします。
リクエスト有難うございます。
小早川が明治に再興されて本当に良かったと思っています。どこかで、動画に出来たらと思います‼️
このチャンネルは私に監視されています
大内家には、敬意を持っているつもりですが、襟を正して頑張ります。
越後にも毛利氏がいました!
ja.m.wikipedia.org/wiki/越後北条氏
上杉の家臣、北条(きたじょう)氏は大江の分家であって、毛利の分家ではありません。御館の乱で滅ぼされました、あと寒河江氏も大江支流です。
コメントを有難うございます。 素晴らしい回答が他から書き込まれてますね。 なんか、歴史の掲示板のようで嬉しくもあります。
是非今後とも宜しくお願いいたします!!
毛利といえば、広島と思っていたが、徳山が、第二の故郷みたいですね
コメント沢山ありがとうございます‼️
是非、徳山共々、宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
大江匡房公とかも祖先でしたっけ
メッセージありがとうございます。はい。一応、広元から3代ほど遡ると匡房になります。広元の出自が
養子という事もあり複雑ですが。。。 匡房公は大江家の中でも抜きんでた、4平安期を代表する文学者ですよね。今後ともよろしくお願い致します。
@@nariyoshimouri4104 愛知県在住の者です。私の過去の勤務地、愛知県稲沢市に、大江広元公から更に数代遡った大江匡衡、赤染衛門夫妻の記念碑が建てられた公園があるのを思い出しました。調べましたら、匡衡公は約1000年前に尾張守として夫婦で着任し、木曽川から水を引く用水路を開削するなど尾張国の住民のために尽力したのですね。用水路は今でも「大江川(大江用水)」として大江氏の名を残し、一宮市、稲沢市を貫流し尾張平野の田畑を潤しています。なるほど、「赤染衛門」もご先祖にあたられるのですね。
ご無礼いたしました。
@@nariyoshimouri4104確か広元の兄は中原親能で彼の末裔が毛利や島津と争う大友宗麟。
大江氏は土師氏族だと思ってたけど
大枝本主に子がいなくて阿保親王の子である音人が養子に入ったとか何かもしれないね
その辺を、説明省いてスミマセン‼️
これは、歴史学者も2通りの認識でおります。
なので、毛利家の血筋は土師氏からの神別、音人の皇別、の二つとされています。
@@mourihistory
古代史は色々不明点も多く、ミステリアスで面白いですよねw
いずれにせよ毛利家は古代豪族の流れを汲む名族ですよね!
私のご先祖様は頼朝公の従兄弟であり、側近であったのに・・・13人には含まれていません・・・悲しいです😭
それはそれは、気になる存在。。。なんか、シンパシー感じます‼️
@@mourihistory
ご先祖様は佐々木三郎盛綱様です。因みに盛綱様の息子である加地信実様の息子の家系になりますから、毛利家に仕えたご先祖様もいますよ!
ますますほんとっぽいな
謀神毛利元就様の系統でしょうか?
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
当家の10代は長府毛利から来ておりますが、徳山、長府いずれにせよ元就公の血は流れていると自負は致しております。謀神の片鱗も無いかも知れませんが。
今後とも宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
朝廷に名前を出す時は、氏で出す必要があって、毛利っていうのは当時はあだ名みたいなものです
なので秀吉も関白になるために藤原朝臣秀吉で届け出ています。
朝廷からすると毛利?誰やねんとなります(笑)
ごもっともで。。。
あだ名とは、うまい例えですな。
@@mourihistory
質問です。
源氏や藤原氏は長者(代表者)がいるのですが、大江氏には長者はいるのでしょうか?
源氏長者、藤氏長者などと書きます。
@@なゆた-i2b 過去に読んだ本では、源氏長者が、他の氏族も統括していたなんて書いてありました。厳密にはそれぞれいるのかもしれませんが、政治は大抵藤原氏か源氏の2氏が要職を占めており、源氏長者がその他中小氏族の長者も兼ねていたそうです。
徳山公、こんにちは😃
明治維新は薩長とよく言われますが薩摩・島津家と長州・毛利家は実はよく似ています...共通点がたくさんありますよ😃
1️⃣ どちらも鎌倉幕府の中枢から地方へ地頭として出向いた家系
2️⃣ どちらも祖は宮中官人(貴族)
3️⃣ どちらも天皇のご落胤説あり
毛利家→阿保親王(平城帝)
島津家→源 頼朝 (清和帝)
4️⃣ どちらも幕末にイギリスと戦う
他にもいろいろあるかと思いますが本来なら同盟を組み仲良くできる相手だと思いますになぜこんなに仲が悪いのか...不思議といえば不思議です😅
薩摩藩士の末裔、松下系会社の副社長をし、理路整然とした亡き義理の父もこの話しになるとしどろもどろになっておりました😂
戦国時代には毛利・島津、共通の敵である大友氏(私の師匠である中村天風・三郎の先祖、立花宗茂公末裔)が存在してもなお仲が悪かったですよね😅
素晴らしい、ご説明をありがとうございます⤵️⤵️⤵️
本当に島津家とは、色々な意味で共通点がありますよね。司馬さんも書いてましたが、薩摩は兄貴として立てないとダメな気質だそうです。 なので、抜け目のない長州は兄貴と持ち上げて、実際に明治政府では要職を薩摩よりも手に入れるしたたかさがあったり(笑) それにしても、それこそ色々な系脈に繋がっておられるんですね‼️
@@mourihistoryさま なるほど😃
長州は薩摩を兄貴分と立てることで仲良くやっていくということですね😃
戦国大名で明治まで残っているのは毛利、島津、上杉、伊達、南部、佐竹、津軽あたりか
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
僕も咄嗟に思い出して言ったものですから、あのあと考えてみました。もしかしたら、津軽さんは南部さんの被官だったのでカウントされないかも知れません。 そう言えば、織田家が大名として残りましたよね。 今後とも、またご意見など貰えたら嬉しいです‼️
@@mourihistory そういえば毛利家も国人から大名に織田信長が京に入った頃は戦国大名でした、大浦為信の場合は南部から独立し始めた頃で小田原参陣に馳せ参じた時は津軽氏を名乗り惣無事令で訴えられるも秀吉に独立を許された経緯がある
あの世で、元就は「虫けらども」の流れが毛利を継ぐ事になるとは思っていなかったでしょうね。
コメントありがとうございます。三子教訓状のことですかね。 確かに、三子以外の血脈になりますが、明治維新の時にとは、徳山の血が宗家に養子で参ります。
今後とも、宜しくお願い致します🙇
お返事あがとうございます。私の祖先は新右こと小早川隆景の三原衆の鵜飼元辰です。今後のこのチャンネルを楽しみに見させていただきます!
また、安芸郡山城跡にある隆元公の墓所とは別に「伝・隆元公」のお墓とされている祠も地元の方に祀られて安芸高田に御座います
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
毎年、安芸高田には参っておりますが、その墓所のことは初めて知りました‼️今度は、参ってみようと思います。ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
@@mourihistory おはようございます。今度御都合の宜しい時に安芸高田へ宿泊しながらガッツリと現地探索をいかがですか?(^_^;)それこそ「宍戸氏関連」「福原氏」その他、「高橋氏」等々、一般的に知られていない関連史跡を是非見て欲しいですね
こんにちは、伊藤です。
就慶様の、大先祖様(大江広元)の弟様(河東忠成)の子孫の中に、松平家と酒井家が、有りましたよ。
松平親氏が、初代で、松平清康が、7代、松平広忠が、8代、松平元康(徳川家康)9代と、続く家系と、支流の酒井家で、酒井忠次の家系と、酒井忠世の家系は、親戚だそうです。
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️
ええええ‼️それは、ビックリ情報、、、。 と言うことは、、、親戚筋⁉️
なんか、親しみが沸きながらも、戸惑い(笑)
@@mourihistory さんへ、
尾張國、河東二郡(愛知郡、知多郡)の地頭となってたので、三河國にも、近かった為に、支流が、移ったかも。
それから、忠臣蔵関連で、大江永井家の支流の永井家は、赤穂藩主浅野長矩の母方の鳥羽藩主内藤に、寛永寺で、討たれた、永井氏でした。
毛利末光が毛利の祖とは北条時宗の時に知りました
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
はい、5代執権時頼の奥方は李光の娘ですよね。 今後とも宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
もしかしたら血繋がってるかもしれませんよ!僕も毛利元就の子孫で僕のお父さんのいとこの長男が毛利家の家系図持ってるらしいです! 昔家系図を誰かが1億で買うとかあったらしいですよ。(売ってないらしいですけど)
興味深いお話ありがとうございます!!!
家系図は、売らないように、財産ですから
先住出雲族二大王族の向(富)家口伝・伝承(出雲族酋長:富當雄)の系譜、大元出版の斎木雲州本参考。
菅之八耳(初代大穴持)
:
富家本家(事代主の八重波津身)
諏訪家健御名方富 ──│──磯城登美家─登美長髄彦
鳥鳴海
│
国押富
:
野見宿禰(富大田彦)
│
土師八嶋
│
菅原道真
│──────────────
大江広元 │
│ │
毛利元就 │
│ │
毛利家・吉川家・小早川家 柳生十兵衛 (最下段は私の調べと動画主毛利家当主のこのお話を参考です。)
※下記の神門氏の美良姫と富家の天日方奇日方の子が健飯勝(磯城登美家)と成ります。
又、富家の踏鞴五十鈴姫と饒速日系譜の天村雲の間の子
嫡男、天御影の海部氏祖
次男、神八井耳の中臣(藤原)鎌足の祖
三男、沼川耳→八井耳が多氏祖に成ります。
野見宿禰(のみのすくね)相撲の起源めいたものや、土師(はじ)氏、埴輪など埋葬品を作る家的なものが、散見されて面白い。あと大枝→大江が抜けている。
先住出雲族二大王族の向(富)家口伝・伝承(出雲族酋長:富當雄)の系譜、大元出版の斎木雲州本参考。
菅之八耳(初代大穴持)
:
宗像家・宗像三女神─八束水臣津野
:
神門家本家(大国主・八代目大穴持の八千矛)
│
阿遅須枳高日子根─賀茂氏──役小角
│
塩冶彦
:
出雲(神門)振禰=倭健(=日本武)
│
伊賀曽熊
│
健部家・二方国造家・島津(志摩)国造家の島(直)氏 (=斯摩宿禰は日本書紀の八幡神・応神天皇家臣)
│ │─百済渡来の南関東国造家の島族(島田-島野-島崎-島村-島根-島津)
神門家・日本武名代部 元出雲最古の氏族・島谷氏
│ │
健部氏・武部氏 松浦氏武家島谷氏・丹後国二宮社家嶋谷家(下から三段列は私の調べた推定系譜)
※百済経由渡来の南関東国造家の島族(島津)氏は、秦の始皇帝融通王=弓月君と一族郎党の帰化地名姓。
ありがとうございます!
@@00simaya40 うーーーん、感服仕りました。。 毛利家の原点は天穂日命で、そこから土師氏を経て大江という流れくらいしか頭に入っておりませんでしたので、この図を有難く拝見し勉強いたします! 是非、今後とも温かい目でご指導ご教示ください!!
@@nariyoshimouri4104
最新更新しました。(以前の訂正箇所あります‥江戸時代の柳生家内の家督内紛部分があって厳密に書いてます。)
先住出雲族酋長:富當雄さんが伝える口伝伝承を著書に纏めたのが斎木雲州さんの
「出雲と大和のあけぼの」と「出雲と蘇我王国」の二冊の本のお話ですね。
東出雲・熊野大社神主家の副王家の事代主(八重波津身)直系の向(富)家と
西出雲・杵築大社旧神主家の主王家の大国主(八千矛)直系神門家は先住出雲二大王家
富當雄さんは向(富)家の事代主直系の子孫ですw
国常立(クナト)大神(伊弉諾)→お地蔵様と荒吐神(伊弉冉)→弁財天の関係で
伊弉冉の最初の子神の蛭子神=恵比寿=事代主(少彦名)ともされて居ますから
大黒天・弁財天・恵比寿の関係ですね。
国常立(クナト)大神(伊弉諾≒素戔嗚)の子,菅之八耳(初代大穴持)
※私の調べでは
クナト₌船戸神,熊野権現
天若日子(妻は下照姫)の子,出雲忌部氏(八岐大蛇族)
天若日子の孫,物部氏開祖饒速日(徐福),天皇家,中臣(藤原氏祖)
先住出雲族酋長:富當雄さんが伝える口伝伝承を著書に纏めたのが斎木雲州さんの
「出雲と大和のあけぼの」と「出雲と蘇我王国」の二冊の本のお話ですね。
東出雲・熊野大社神主家の副王家の事代主(八重波津身)直系の向(富)家と
西出雲・杵築大社旧神主家の主王家の大国主(八千矛)直系神門家は先住出雲二大王家
富當雄さんは向(富)家の事代主直系の子孫ですw
国常立(クナト)大神(伊弉諾)→お地蔵様と荒吐神(伊弉冉)→弁財天の関係で
伊弉冉の最初の子神の蛭子神=恵比寿=事代主(少彦名)ともされて居ますから
大黒天・弁財天・恵比寿の関係ですね。
国常立(クナト)大神(伊弉諾≒素戔嗚)の子,菅之八耳(初代大穴持)
※私の調べでは
クナト₌船戸神,熊野権現
天若日子(妻は下照姫)の子,出雲忌部氏(八岐大蛇族)
天若日子の孫,物部氏開祖饒速日(徐福),天皇家,中臣(藤原氏祖)
●先住出雲族二大王族の向(富)家口伝・伝承(出雲族酋長:富當雄)の系譜
大元出版の斎木雲州本参考。
菅之八耳(初代大穴持)
:
富家本家(事代主の八重波津身)
諏訪(旧-神)家-健御名方富 ──│──磯城登美家─酋長:登美長髄彦
鳥鳴海
│
国押富
:
野見宿禰(富大田彦)
│
土師八嶋(南関東国造の大宮-氷川神社神主家)
│ ∟_______________________
菅原道真 │
│ 大江広元
│ │∟___上田・北小路・酒井氏徳川家康
│ 毛利元就
柳生石舟斎(宗厳) │
__________________」 │ 毛利家・吉川家・小早川家
│ 柳生新次郎(厳勝) (最下段は毛利家当主のお話)
柳生宗矩(又右衛門) │
│ 柳生兵庫介(利厳)
柳生十兵衛(三厳) │
柳生兄:利方・弟:連也斎(厳包)母:島左近の末娘。
│
柳生厳延(厳密な柳生家系譜)
:
※・下記の神門氏の美良姫と富家の天日方奇日方の子が健飯勝(磯城登美家)と成ります。
(出雲建子(伊勢津彦)と兄の伊佐我(伊佐波)も系譜上に居る)
小野氏社家も始祖を富家7代:天之冬衣(八重波津身⁼事代主の実父)として居るので出雲族
あと、富家と三島家の娘との子の踏鞴五十鈴姫と饒速日系譜の天村雲の間の子
嫡男、天御影の海部氏祖
次男、神八井耳の中臣(藤原)鎌足の祖
三男、沼川耳→八井耳が多(意富)氏祖に成ります。
・藤原氏祖とされる天児屋根は中部で各地豪族が集い中臣氏を名乗った豪族の一家の
ト部氏(播磨国のタタラ場の司祭家豪族で饒速日の一族)が崇拝して居た
金屋子を奉って居た場所の地名が天児屋根で=金屋子の事です。
渡来の由来は越智-河野氏の氏神神社伝承の氏神が饒速日=徐福と言う伝承からでしょう
・他の大江氏子筋
北小路家(公家-華族(子爵),徳岡家(地下家),寒河江氏(武家),那波氏(武家),海東氏(武家)
桂氏(武家-華族(侯爵)),酒井氏(徳川家自称の親筋武家-華族(伯爵)),芦澤氏(武家)
越後北条氏(武家),安田氏(武家),浅井氏(武家)
長井氏(平家武家?)
上田氏(大江氏武家系譜断絶してる),山村氏(大江氏武家系譜-情報が無い)
神門家系譜
1菅之八耳の子,2八嶋篠3→4布葉之文字巧為→5→6八束水臣津野(国引主)→7↓
八千矛(8代目大穴持の大国主)
大国主=大黒天=マハーカーラ,マヘーシュヴァラ
(大自在天シヴァ・ヴィシュヌ・ブラフマーの三位一体でアートマン)
大国主の子、阿遅須枳高日子根の子、賀茂氏(陰陽師開祖役小角の本姓)
大国主(八千矛)‥→出雲(神門)振根=倭健→伊賀曽熊の子
嫡子の健部氏(神門姓を継ぐのと日本武(倭健)の名代部も同時に継ぐ)
次男の二方国造家
末子の島津(志摩)国造家の島(直)氏=日本書紀の応神天皇家臣、斯摩宿禰。
●先住出雲族二大王族の向(富)家口伝・伝承(出雲族酋長:富當雄)の系譜
大元出版の斎木雲州本参考。
菅之八耳(初代大穴持)
:
宗像家・宗像三女神─八束水臣津野
:
神門家本家(大国主・八代目大穴持の八千矛)
│
阿遅須枳高日子根(八咫烏)─賀茂氏──役小角
│
塩冶彦
:
出雲(神門)振禰=倭健(=日本武)
│
伊賀曽熊
│
健部家・二方国造家・島津(志摩)国造家の島(直)氏
│ ││(=斯摩宿禰は日本書紀の応神天皇家臣)
│ │ ∟____________________________
神門家・日本武名代部 元出雲最古の氏族・島谷氏 │
│ │ 南関東国造家の島族
│ │ (島田-島野-島崎-島村-島根-島津)
健部氏・武部氏 松浦氏武家島谷氏・丹後国二宮社家嶋谷家
(下から三段列は私の調べた推定系譜)
※百済経由渡来の南関東国造家の島族(島津)氏は
秦の始皇帝融通王=弓月君と一族郎党の帰化地名姓。
毛利元徳は徳山藩出身ですね。
おっしゃる通り、徳山藩第8代藩主・毛利広鎮の十男です。
@@mourihistory トムさんのおっしゃる通りです、9代の元蕃の弟になります。 徳山出身なので、徳の字がついてると勝手に思ってます(笑)
こんばんは、伊藤です。
なんか、徳山のまえは、下松が、藩領で、下松藩が、最初、みたいですよ、どうも、輝元公は、広家公、憎し、岩国に、近い、下松に、次男さんを、置いたみたい?
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️
はい、下松が出発点です‼️
徳山はパワーバランスの上に成り立っていたのかも知れませんね👍️
地名の「広島」も大江「広」元が起源ですか?
ナイスな質問有難うございます。あくまで、定かではありませんが、大江広元の広と、当時の縄張りをした福島何某の島の字を合わせて広島と命名されたといわれています。広島の命名者は輝元に間違いないのですが。今後とも宜しくお願いします・
早速お答えありがとうございます。大江広元どのの重要性がわかる逸話、ありがたく頂戴いたします。中学生のときに診た『草燃える』の岸田森さんの演技以来、歴史上の人物として広元どのファンなので嬉しく思います。地頭の設置は武家の経済権の確立であって、本当に日本を変えました。最近ネット課金して『草燃える』の総集編を観ました。地頭の権利の重さが承久の乱での例の岩下志麻さんによる政子演説で述べられているのを見て、広元どのの功績を改めて認識した次第です。史料と『草燃える』の本編で語られている上皇の寵姫とある地頭とのトラブルで地頭罷免を求められたとき、「治天の君」の権威に怯えるのならたった一人の地頭の罷免くらい大したことがなさそうですが、それでも鎌倉政権が拒否したという話からも、地頭権が「一所懸命」の武家にとって団結の紐帯だったことがわかりました
改めて、毛利って凄いね、でも、何で広島なんか来たのかしら、
安芸の地頭として、流れて来たんですね(笑)
大江音人が阿保親王のご落胤なんてのは突如ぽっと出てきた一説であって、公式っぽい出自は土師氏じゃなかった?
落胤なんての当時は珍しい話じゃなかったかもしれないけど、その説明を一切せずに落胤説のみ説明するのはいかがなものでしょう?
別にどっちでも良いけど人間性が疑われますよ。
毛利じゃないとこの北の大江広元の子孫がとおりまーす。(初代政宗許さん)
はい。勿論、寒河江、長井、那波氏他の系脈の方々には、尊敬の念を持っております。
天皇の血を引いてるって事!?
だから関ヶ原後滅ぼされなかった可能性も?
真偽をめぐって議論はあるようですが、一説としてその可能性もありますね!
トムさんが勉強されててビックリ! 一応、天穂日命という神様が原点とされていて、家系は神別、血統は皇別などと言われますが、歴史学者の中でも未だ議論されています。 徳川が潰さなかった理由はほかにあるかと思います、でもその論理もロマンがありますよね!
毛利の末裔です
コメントありがとうございます🙇 ご縁のある方ですね。 また、詳しく教示ください。今後とも、宜しくお願いします‼️
話下手か⁉️。長い。
厳しいコメント痛み入ります。。