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再生リスト:毛利家のできごとruclips.net/p/PLs52PWs0zP30kzLR4pJafXOXoVDgcHer0
是非、他の動画もお楽しみください🙇
@@mourihistory お勧め下さいまして誠にありがとうございますm(__)mしっかりお勉強致します。
私は家紋に関して興味がある者です。複数ある大名毛利家の家々によって「一文字三つ星」や「沢瀉」の紋様の違いや使い分けがわかりやすく、毛利家に関してより興味が持てました。素晴らしいです。
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️家紋に興味がおありとは、とても素敵なご趣味ですね。 家紋が古くからあるのは、ヨーロッパと日本と言います。 大事にしたい文化ですよね。 しかも、日本の家紋はシンプルなものから、微細にこだわったものまで多様です。 他にも素晴らしい家紋をお持ちの一族も多いかと思いますが、当家に興味を持っていただいて嬉しいです‼️
めっちゃ分かりやすくて面白かったです😆🌈ありがとうございます😊
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️ とても、励みになります。是非、今後とも宜しくお願いします🙇⤵️
清末は長府さんの家紋の横棒の両側に角が付いたものも使われていました。秀吉が輝元公に実子ができた時は、秀元公を廃嫡する様に念押ししていた意味が分かりませんでしたが、智将小早川隆景が毛利本家を守る為に秀秋を養子に迎えたエピソードを伺い、合点がいきました。秀元公が優秀だと知っていた秀吉は後々毛利が力を付けることを警戒したのですね。
おおおお‼️これは、これは、清末のご当主自ら書き込み頂いて光栄です。いや、まさにご先祖の秀元公の逸材ぶりは秀吉も恐れた事でしょう。 清末さんにつきまして、お話のなかでこれからはもっと触れて参りたいと思っております。 家紋の下りでは、清末のお話が少なく申し訳なかったです。今後とも宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
とても分かりやすいご説明ありがとうございます。
こちらこそ、ご視聴頂いてありがとうございます❗
愛媛毛利です。別の動画に「愛媛南予弁と広島弁」をコメントした者です。毎回何回も見直したり、ネットや図書館で調べる機会が増えました✨家紋は習字の一に三つ星です。偶然にもカミさんは下関で、数奇な縁とも思います!私も来年還暦、弊社も管理職が育ったので、本格的にルーツ調べをいたします😊貴チャンネルとの出会いが、発起させていただきましたm(_ _)m今後とも何卒よろしくお願いいたします✨
良く覚えています‼️ それはそれは、下関まで繋がるとは、これもご縁ですね。絶対に関係あると思います。楽隠居、羨ましい‼️その際には、是非、ルーツ探しのお手伝いが少しでも出来たらと思います‼️
毛利三藩について、詳しく解説して頂き、ありがとうございました。現在は奈良県に住んでいますが、自分の先祖が長府藩士であった事は伝え聞いており、明治になって曾祖父が屯田兵として北海道の釧路厚岸の太田屯田兵村に移住し、同じ長府藩出身の乃木希典の率いる日露戦争にも従軍した事も記録が残っているので、長府藩には思い入れが深いです。因みに長府の乃木神社には、何度かお参りさせて頂きました。これからも楽しみにしています。
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️それはそれは、とても良くルーツと経緯を勉強されてるんですね。 長府がルーツで、その変遷と乃木さんとの関係に関しても凄くシンパシーを感じます。私の五代前が、長府からの養子なので余計です。今後も宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️👮
御当主様。大変勉強になりました!ありがとうございます😊
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️嬉しいです。今後とも宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
3つの家紋の意味が良くわかりました。やはり根本的な所までたどらないとわからないものですね。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️きっと、大きな大名家には同じような違いがあると思うので私も調べてみたいと思います。今後とも、歴史チャンネルを宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
防府の毛利邸の玄関に入ったところにこの各毛利家の家紋に関する解説看板があったことを思い出しました。表紋と裏紋の話は興味深く拝聴致しました。我が家の紋は三ッ柏です。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️はい。本邸の玄関先のあの家紋の看板をご存じとは、通ですね‼️ 三つ柏は、日本でも古い家紋ですよね。 古い神社の神主家や、土佐の山内さんなど、その家紋だったかと思います。是非、今後とも応援宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
大変勉強になりました。家紋の違いは毛利マニアにはたまりませんね。
そうなんですよ、微妙に違うんだけど、やはり徳山三ツ星が一番バランス取れててかっこ良く思えちゃう(笑)そねーに、思うじゃろ⁉️
@@mourihistory じゃのう
👍👍👮👍👍👍
母方の家系で長州藩の武士の娘さんと奉公の男の人と駆け落ちしたというのをお母さんから聞いたのですがそういうことがあったのでしょうか。よろしければ返答お願いします。母は山口県の光市出身です。
毛利家のことは本や歴史書など多数読み込んでましたが、全然足りてない事がわかりました。知らなかった事が多すぎて、スマホに齧り付きながら拝見しております。
いつも、ありがとうございます⤵️⤵️⤵️なんか、恥ずかしいような、嬉しいような。 皆様の方が、造詣が深いかと思いますが自分なりにお伝えして参りたいと思います‼️
就隆公のご子孫の御方に毛利家の歴史を語って頂けて光栄です。家紋研究を個人的に調べているので各毛利家の家紋にも違いがあることが知る事ができて良かったです。一つ質問があります。毛利家には様々な家紋がある事はこの動画を拝見し分かったのですが、男性と女性それぞれが身につける家紋はありますか?いわゆる男紋と女紋です。
メッセージありがとうございます。家紋研究とは素敵ですね。 ご質問への回答ですが、ございます。 男紋が一文字三ツ星紋、女性が沢瀉紋になります。 江戸期はそこまでの区別があったか、定かではありませんが姫様の具足に沢瀉があしらわれていることなどからどちらかというと、沢瀉が女性紋だったと思います。 明治以降は、一文字三ツ星と沢瀉ではっきりと分かれています。 婚礼や式典での和装着用の際には必ずそうなっています。長くなりました。今後とも』宜しくお願い致します!!
@@nariyoshimouri4104 様へ返信して頂きありがとうございます。やはり毛利家にも男紋そして女紋がありましたか!男紋や女紋は西国において文化が見られます。特に畿内によく見られていたので、正直山陰山陽の地域にも文化がある確信が持てなかったので今回の機会に畿内以外にも男女家紋の文化がある事が確認できてとても良かったです。東国においてはそうした文化は見られません。説は多数ありますが、愛知県の東部つまり三河辺りから男女家紋の文化が無いとも言われています。毛利宗家そして毛利分家の三家を合わせた家紋を旗に掲げていたと聞き、私は毛利家でも無ければ大江朝臣でもありませんが、胸熱い気持ちになりました。こちらも長文になってしまい申し訳ございません。こちらこそ今後とも勉強させて頂きますしよろしくお願いします。あ、チャンネル登録は完了済みです❗️
@@hiro.11 返信ありがとうございます。 とても、勉強になりました。 男女紋は全国共通と思ってましたから。。。 なるほど、三河あたりが分岐点なんですね。 そういえば、食文化でもあの辺りを境に西に向けてうどんの汁が真っ黒から、透明のだし汁に変わります。 出汁もカツオから昆布だしに変わるのも愛知くらいかと思います。 そう思うと色々、深いですね。 家紋には私自身、非常に興味があります是非、今後ともご教示ください。 いつか直接やり取り出来たら嬉しいです。
私はタイ国に居ますが御先祖は宇和島に居た毛利家です。秀吉統治の時小早川隆景が宇和島二十万石の主に命じられ行く際、毛利本家から御目付役として行った人らしいです。家紋は本家の家紋です。悲しいかな私の家は没落しています。明治初期は爵号もあったらしいのですが、炭相場で欲を出し破産したらしいです。御目付役として行く際、本家から宝刀を頂いたらしいです。昔は寺に大事な物を預ける習慣があったらしいのですが昭和初期の住職が生臭坊主で檀家の預かり物を全て売ってしまったらしく、その中に家系図迄あり現在家系図も無い状態です。昔墓参りに行った時墓石屋さんが居て歴代の墓石を観られ、初代の墓石が凄いらしく当時は身分の低い者には許されない物らしく、驚かれていたのが印象的でした。これが唯一証拠かなと思います。お会い出来る事があればお話ししたいなと思いました。
タイからコメント嬉しいです!ありがとうございます。そして、同じ姓ですね。 とても、ご縁を感じます。 小早川が秀吉から四国の一部を拝領した時から、宇和島なんですね。、もしかしたら、河野家を助勢する時からかも知れませんね。 維新で爵位があったとは、それなりなお家柄です。残念なのは、廃仏毀釈や、そのお寺さんの所業により資料が無くなったことですね。残念ですね。でも、墓所が素晴らしいとのこと。 いつか、伺いたいです。毛利の四国での動向があまり知られてないのと、やはり、同じように、そのあたりの歴史を知りたい方が結構おられます。ので、いつか動画にしたい!タイでもどうか、お元気でお過ごしください。そして、また、ご連絡お待ちしています。
戊辰戦争などのときに高杉晋作などが掲げている軍旗が気になっていましたえっ毛利家の家紋やと思ってましたが。。。こんなに種類があったんですねー非常に良く分かりましたさすが血流の直の話じゃないと聞けない話で感動しました😊ありがとうございます
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️そうなんです、一応、宗藩を始めとして岩国、徳山、長府、さらには一門もおりましたので、統一した家紋もあったんですね。毛利家も家紋の違いがありますが、島津さんの丸十も違いがあるみたいですね‼️
はじめまして!歴史好きです。めちゃ面白いです。ところで、徳山藩や、長府藩は、毛利御三家的な役割もあったのでしょうか?たしか、長府藩には、新田藩もあったような。江戸城の伺候席みたいな序列も各藩にあったのでしょうか?いきなり質問ばかりですみません。チャンネルで取り上げていただければ嬉しいです。
メッセージありがとうございます! はい、支藩は宗家を助け嫡子がないときは支藩から出すと言うような御三家的な役割を担っておりました。 一応、長府が支藩筆頭です。 ・・が、徳山は輝元直系の意識が強くその辺で確執もありました。 面白いことに、出萩と称される、参勤交代を江戸だけでなく萩にもしておりました。 なので、萩屋敷が各藩ございます。長府の新田藩は清末藩一万石です。 以上のことも、今後チャンネルで詳しく御案内できたらと思っていますので、是非、宜しくお願い致します!!
ご返信ありがとうございます!やはり徳川御三家のように色々確執があったんですね。僕個人の考えは、毛利輝元は、一般的な評価とは違い非常に優れた人物と考えております。織田信長や、徳川家康と渡り合い今に至るまで家名を残す。減封されたとは、言え大大名です。大河ドラマで主人公にしてもらいたいくらい大好きです。ましてや、その直系ならその誇りたるや言うまでもありません。僕自身も徳山藩についてもっと勉強させて頂きます。今後も楽しみにしております!尚、歴史上の人物は、敬称は省略させていただきました!
分かりやすく説明してあり、理解が深まりました。大まかには知っていましたが、この動画で正しく理解できました!
そう言って頂けると、本当にやりがいがあります!! 今後とも応援よろしくお願いいたします!!
@@nariyoshimouri4104 楽しみにしております。ご当主の方が顔を出してRUclipsで配信なんて、ほんとびっくりですよ!昨日、厚木・下古沢の三島神社に行ってきました。お社が新しくなったとかで、一度行ってみたいと思っておりましたので。きっとご存じだと思いますが、毛利氏発祥の地の碑が立っており、毛利季光の屋敷跡です。
@@oekazuichi8595 是非、伺いたいと思います‼️
@@oekazuichi8595 ー
徳山藩士の末裔です。維新後、没落して私の曽祖父、祖父は親子で九州に流れました。徳山藩の事を詳しく知りたいと思っていますので、よろしくお願いします。
それはそれは、凄く親近感を覚えます。そうですか、、、今は九州にいらっしゃるんですね。 是非、いつか徳山藩のつながりの皆様でお会いできたらと思っています。今後とも、応援宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
よく分かりました。ありがとうございました😊
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️励みになります。今後とも宜しくお願いします👍️
今後とも宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️👮
ありがとうございます!
こちらこそ❗お珍しいお名前ですね‼️
スミマセン‼️こちらでも、気づかずに失礼しました。本当にありがとうございました⤵️⤵️⤵️とても、励みになります。今後とも宜しくお願い致します‼️
ちなみに、萩藩の毛利一門六家(宍戸、右田、吉敷、厚狭、阿川、大野)の次席であった右田毛利の家紋は三つ星でした。
色々と、ご存じですね‼️もしかしたら、右田の紋は略紋で三ツ星かも知れませんね。 一文字を省いたかも。
一門八家も取り上げて頂けると幸いです😊家臣筋の人との現在の付き合いとかそのような話も氣になります。
宍戸家をはじめとした、毛利一門ですね! それと、家臣の末裔の方との現在。 どこかで必ずお話しさせて頂きます!!
@@nariyoshimouri4104 はい!有難う御座います😊楽しみです♪
ご無沙汰しています。10数年前に徳山博物館と毛利就隆公の墓所を案内して貰った眞庭です。素晴らしい講演ですね。石見国の片田舎から応援しております。
毛利です‼️お久しぶりです。お元気でしたか⁉️ 今は島根でしょうか⁉️ お恥ずかしい限りですが、どうか応援のほどお願い致します⤵️⤵️⤵️嬉しかったです。
歴史好きですが!毛利家のことはわからなかったので勉強になりました(^^)めちゃくちゃわかりやすかったです!
有難うございます。 過去を知ってこそ未来の展望が拓けるとも申します。歴史は未来への鏡と思ってます。 これを機に、毛利家への関心も持っていただけたら嬉しいです!!! 今後とも、是非是非、お願いいたします!!
大河ドラマの毛利元就を見ても毛利家について興味を持ちました。戦国時代、幕末といろんなエピソードがあるので詳しく知りたいです(^^)私の家は代々島津家に仕えていた家で毛利家の分家のお話を聞いて島津四家と似ているなと思いました。毛利家の幕末の政変について、藩論が変わった理由や秀吉の中国大返しの時になぜ毛利家は追わなかったのか?毛利家側からのエピソードを聞いてみたいです(^^)歴史は楽しいです(^^)引き続き拝見させてください!ありがとうございます😊
@@hisahitoh9037 薩摩の方に、興味を持っていただいて嬉しいです。 現代の薩長同盟で行きましょう!!
小早川家はその後はどうなったのでしょうか。毛利家の中で小早川隆景公が1番好きです。また、毛利家内では評価が高い人物はどなたでしょうか。吉川広家公が毛利家存続に貢献したのに、毛利宗家からの扱いが酷いのはショックでした。言い分は分かるのですが、広家公無くば毛利家存続はありえなかったと思います。御子孫の方から広家公はどのような印象ですか?
小早川家は、ご存じのとおり、秀秋が太守としての責務を果たせずに、一時期、断絶いたしました。 しかし、明治維新の時に、小早川家再興が望まれて。当時の毛利家の五男?が、小早川を名乗り小早川家は復活いたしました。男爵を授かっています。 吉川広家に関しては、結局のところ、現在の毛利家の皆さんは感謝していると思います。 現在のご当主もとても素敵な方ですよ‼️ 毛利家の末裔のなかでも、元就、元春、隆景の三人は神様の様な存在です。今後とも宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
萩藩、徳山藩、長府藩、清末藩、(岩国藩)。家老の益田家、福原家。さらに、六毛利家がマニアックです。厚狭、大野、吉敷、阿川、右田、宍戸。萩に、厚狭毛利家萩屋敷長屋が現存しています。国司家も重臣でした。
宍戸家 これだけ毛利でないので調らべたら、毛利一門待遇、、と長々書いてました。
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️ 良くご存じですね。一門六席とも八家とも呼ばれる毛利一門もございます。また、国司家他の家老等々のご説明もしたいと思っておりますので、色々とご教示ください。宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
大分の佐伯毛利は、元々森氏なので、家紋が違う。毛利氏のご先祖様の大江広元が、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に出てます。このドラマは、佐竹氏、武田氏も出てきます。
徳山藩ははじめ、下松にあったと聞いたことあります。下松の中市の周慶寺には毛利家の墓もあります。このあたりの詳しい経緯、ご教示いただければ幸甚です。
メッセージありがとうございます。 はい。はじめは、下松に屋敷を構えたことから下松藩とも呼ばれていました。 しかし、現在の徳山の方が治世に向いてると判断して徳山に陣屋を構えました。周慶寺さんは、当家の藩祖の母堂の墓がございます。 輝元の側室でもあったことから、可哀想な境遇でもあり、色々と込み入った事情から、藩祖の就隆が不憫に思い弔うために建てた寺です。 スミマセン、拙い説明で‼️今後とも、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
@@nariyoshimouri4104 返信多謝。周慶寺の正面の家は、小生の自宅。周慶寺は、子供の頃の遊び場でした。拙著「世界を解く数学」(河出書房新社)の冒頭には、周慶寺のことが出ています(笑)。今は、東京に居ますが、今年の6月には中市に移住します。ともあれ、ご教示ありがとうございます。
@@河田直樹-o4t 偉い先生からのご質問だったんですね‼️ 今度、拝読させてください。ご丁寧にありがとうございます⤵️⤵️⤵️ 先代の住職さんは、個性的な方でしたね、ご縁があって嬉しいです。僕も、東京生まれ育ちで、今は徳山に骨を埋める所存です‼️お帰りの際は是非、ご一報ください。
長府藩は分家でなく別家という扱いだと思います。下関戦争も長府藩の領土で行われていたと思います。長州藩の毛利家は吉元公から敬親公まで秀元公の子孫が当主になっていました。ですが、元徳公が徳山藩から養子になって以降は輝元公の子孫が当主になりましたね。なので就慶さんからすると血筋も近いのかなと思います。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️はい。秀元公が一時、毛利の当主でもあり官位も高いことなどから、その様に扱われたと思います。 支藩筆頭が長府です。因みに、当家の10代当主は長府14代元敏の弟、元功になるので血統は長府に近いかも知れません。それにしても、良くご存じですね‼️これからも、色々とご教示ください🙇宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
毛利家の庶家の末裔です。こちらの動画で家紋の成り立ちをよく知ることができました。私の家の家紋は二文字に三つ星なのですが数字が長府藩の形だったのでそちらの藩に所属という理解で合ってますでしょうか?ちなみにお墓とかは萩にあります。
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️ご縁がありますね👍️ 当家の最大の功労者、児玉源太郎には徳山の二文字三星を下賜しています。 児玉は元々、毛利と同じ旧家ですし、長府の二文字三星ならやはり、かなりの勳功か家柄だったと推察出来ますね。見てみたい‼️しかも、萩にお墓とは‼️
@@mourihistoryお忙しいなかご返信ありがとうございます!他の動画も色々拝見いたしました。先祖や先人に対する尊敬の気持ちに非常に共感いたしました。これらの動画は山口県の誇りになると思いますので今後も動画楽しみにしております!
本当に嬉しいコメントです‼️
このチャンネルのアイコンにもちゃんと徳山藩の船形が使われてるんですね
気づいて頂いて嬉しいです。やはり、当家の紋でないとしまらないかなと。今後とも、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
吉川家の岩国藩は毛利本家からは家臣扱いだったが、幕府からは大名として扱われていたと、以前資料で見ましたが、最近の研究では違ってきてるのでしょうか?
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️ご指摘の通りでごさいます。色々と吉川さんと、お話するなかでその様な話題になったり、岩国で地元のかたから恨み節を聞いたりして、少し過大表現もあったかと思います。 その辺はご容赦ください🙇⤵️⤵️⤵️⤵️⤵️なるべく、史実に基づき動画をこれからは撮影して参ります。
はじめまして!歴史が好きで、一昨年から日本100名城や続日本100名城を中心に城や史跡巡りをしている者です😃山口県は今年の年末年始に岩国から下関まで城巡りで堪能して来ましたが、山口県に行く前や行った後もこちらの毛利家歴史チャンネル様の動画が非常に参考になりました!毛利家や吉川家の事、山口県の藩の事など事細かに分かりやすく解説をありがとうございました!非常に分かりやすいので、これから山口県へ歴史探訪しに行く人がいたら毛利家歴史チャンネルを勧めたいと思います😊また萩城や萩城下町、岩国城や櫛崎城など見に行きたくなって来ました☆あと、別の動画では毛利家の方がやっている音楽スタジオでかつて細野晴臣さんのはっぴいえんどやYMOなど大好きなアーティストのレコーディングまでされていると知って感動しました✨これからも応援してます😆
嬉しいコメントありがとうございます!ご視聴頂いて、少しでも参考になったら嬉しいです。また、山口や広島に是非、お出でくださいね👍️まだまだ、これからもご紹介出来るだけして参ります。そして、良ければ東京のスタジオにも遊びに来て下さいね👍️これからも宜しくお願いいたします。
武艦や旗指物の古文書をよく見るので、毛利家の定紋の違いは存じ上げていました。大名家になっていない毛利一族、例えば宗家の一門家老をされていた毛利家もすこしづつ家紋が違うのでしょうね。私の家の場合は当主と跡取りの男子とその長男、それぞれの妻以外は家の正定紋が使えないというのがあって例えば私の妹、叔父、いとこは定紋の形を少し変えたり、井形や六角形、花びら等を追加して区別された家紋を使って定紋は使わせない区別をしています。毛利家とよく似ているなと思いました。家紋は毛利家の三ツ星紋と沢瀉紋のように当家も家紋が複数あるので使い分けています。たしか毛利宗家は菊紋と桐紋を下賜されていたかと記憶しております。
またまた、コメント痛み入ります!良く色々とご存知ですね。一門の毛利家の家紋もやはり違う場合がございます。 やはり、一門は一度は毛利を出ていたりするので、毛利の姓と家紋を宗家から許される形になります。それにしても、貴家の家紋に関しても様々あるのですね❗ なかなか、他家の家紋に関しての知識は浅くて、やはりそこまで厳格に決められていることにビックリ。ますます、知りたくなりますね(笑)そうですね、毛利家は一応、平城天皇の皇子が祖である事と、元就が石見銀山を朝廷に差し上げた経緯などから、勤皇を自負し、また、それ故に朝廷より直接、許しを頂いております!もしかして、霞などでお会いしてたりして、、、。
なるほど、そうなのか、、と見て楽しんでいます。ところで、小早川隆景公の子孫(秀秋公以外)はどうなったのでしょうか。小早川家も古い家なので一族の兄弟縁者が跡を継いだのでしょうか。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️小早川家は一時断絶となりましたが、明治維新に毛利家から養子にはいり、小早川五郎として、再興いたしました。男爵を授かっています。現当主は、マツダ自動車で役員として現役を退かれました。
最近毛利家が気になりだして色々ググってたんですが、子孫による動画とは珍しく、噛り付いて見てしまいました。江戸中期に吉川家は徳山毛利家から養子(輝元系の経倫)を貰っているようですが、どういう経緯があったのでしょうか?吉川家格上昇計画の一端なんでしょうか?
毛利家が気になりだしたとは嬉しい限りです‼️ 幕末の動乱期もあったと思うのですが、毛利家が一枚岩でない事もあり、徳山からも様々な養子に出ております。吉川家に関しては、特別な意味はありませんが、養子を貰う先を徳山にしたのは、輝元系の徳山がそれまで、不遇であったことも関係あるかと思います。 吉川家は確かに諸侯に列っせられてませんが、徳山よりは富裕でした(笑) どことなく、長府系の血脈から輝元系に最終的に回帰したような気がします‼️ ごめんなさい。拙い返答で‼️
岩国藩鉄砲隊にいました。ご存じでしょうか?
はい‼️あの勇壮な鉄砲隊ですね。存じ上げておりますが、間近で見たことはないので是非、今度拝見したいです。宜しくお願いします🙇⤵️
防府はどのような位置づけなんでしょう?
メッセージありがとうございます‼️大切な質問です。 防府の毛利さんが宗家になります。 ただ、右田毛利と言う一門も防府にございます。 萩を出て、幕末に山口に藩庁を移してから。 明治の世になり、井上馨が、毛利本家のために防府の景勝の地に広大な毛利邸を作りました。 その防府に移られたのが、萩つまりは宗家の毛利さんです。 少し離れた、所に一門で8000石の右田毛利家が元々あったので、時々間違われています。 解りづらい回答でスミマセン‼️
殿〜、教えて頂いて息子と動画みました。で、アマゾンプライムで大河ドラマの2回のオープニングの説明で家紋の事で三ツ星がオリオン座の三ツ星との説明で天体好き息子が興奮してます😂
おおお‼️流石。あの大河のオープニング私も大好きです⤴️⤴️👍👍👍
めちゃくちゃ面白いです。三河出身、大学は下関、東京で働いてます。やはり、関係者の方のお話は、ディテールが具体的で、教科書的なものと違い、イメージを喚起します。
コメントありがとうございます‼️凄い‼️ 三河からの下関、そして、東京。歴史的な因縁を感じぜずには居られませんね。 今後とも、応援宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️👮
今となっては真偽不明ですが防府市の天満宮近くに住んでいた老人が、殿様が休憩地にしていたのが自分の家で庭に今でも殿様が座った平石があると自慢されていました。庭には確かに平石がありそこに座って庭を眺めるのが日課と言われていました
メッセージありがとうございます。それは、きっと防府(宗家)の毛利さんが座られてたんでしょうね。 貴重な話をありがとうございます❗
母の従兄弟の嫁が、旧姓毛利理智子と言い、毛利元就の側室の子が祖先で、その祖先が下関の長府毛利藩を継いで、明治維新に至っており、現在、東京中野区若宮に住んでいます。私も若い頃、若宮の毛利家に行って、又従兄弟とよく遊んでいました。理智子様は、気さくな人で、いかにもお姫様といった雰囲気を醸し出す美人でした。現在、80歳代ですが健在です。そのおじいさんやお父さんにお会いしましたが、まさか、毛利元就の子孫だとは想像できませんでしたが、後で知りました。明治維新で世の中が激しく変わり、大名の子孫もすっかり庶民になって、感慨深いものを感じます。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️それは、ご縁ですね。 側室の子ならば、毛利家の一門六席のどれかの家だと思います。 昔は、毛利会と言う、大きな会があり、宗家、支藩、一門の末裔が一堂に会していたので、もしかしたらお会いしていたかも知れません。また、もし、その方が爵位をお持ちの方なら、霞会館と言う、倶楽部でもお会いしてるかも知れませんね‼️戦後から、農地改革により殆どの大名家が大変な思いをしています。その方にも、是非とも宜しくお伝えください‼️ そして、今後とも、宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
なるほど❗やっと謎が解けました‼️20年前に岩国のお寺や神社に種類の違う家紋を見かけたのですが違いがわかりませんでした今回 この動画を初めて見たので 他の動画も拝見させていただきます素敵なRUclipsに出会えましたありがとうございます
有り難うございます。そう言って頂けると本当に励みになります‼️ 今後も、出来る限り頑張っていきたいと思っておりますので。応援、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
私の知り合いにも毛利さんがいらっしゃり、元就公のご子孫と言われていたので遠いご親戚ですね。その方は姫路のご出身で、数年前まで某ゼネコンの会長をやっておられました。威厳や品があるけど気さくな方で、お血筋と言われると納得な感じです。そういえば話は変わりますが、お正月に「徳川攻めの準備が整いました」と家臣が言うと殿が「まだ時期ではない」と返答するという儀式があったと、様々な本に書いてありましたが本当にあったのでしょうか?これまた最近見た本だかサイトには無かったとありました。ぜひ真実を知りたいところであります。また、元就公の5男以降の方のお話、厚佐などの支藩ではない分家のお話など興味がありますので、取り上げて頂けると幸いです。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️ゼネコンの会長さんですか。 きっと、ご縁のある方と推察します。機会があればお調べしてみます。 人品賤しからぬ、風貌なんて素敵ですね‼️ さて、獅子の廊下でのやり取りですが、まことしやかに噂されてますが、これも三矢の教訓状と同じで、似たような事は実際あったんだと思います。それが、ドラマチックに伝えられてるのかと。 やはり、幕府に対する恨みは根底にあった筈ですから。そして、毛利家の一門シリーズですね、これもどこかでお話する機会を作ろうと思っております。今後とも応援、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
『毛利家歴史チャンネル』を知ってからネットで山口県公文書館のホームページに毛利家文庫、徳山毛利家文庫の目次を見て、どのような文書リストあるのか見たら膨大な文書で驚きました。毛利宗家32000徳山毛利家14000.江戸時代に徳山毛利家の殿様道中がてらに有馬温泉に入浴したとの日記発見😅。絵図は、見れましたが徳山毛利家の陣屋発見! 絵図で見ると広大な敷地。萩城の絵図で注目したのが山頂にある詰城の構え。二重櫓を多数配し、堅固な構えだったんだと。
流石‼️フミカミさん、、、僕より詳しい(笑)そうなんです、徳山毛利家も宗家も文書がかなり残っていて、歴史の解明にも随分寄与してるとか。 僕も、いくつかの行楽日記の話を聞いてますが、有馬温泉は知らなかった‼️ 徳山陣屋の絵図もあるとか?一応、寄託なので権利は僕にあるんですが、全く知りませんでした。でも、担当者が一人なので文書の解明はまだまだ、終わらないそうです。。。
@@mourihistory 殿様えらいこっちゃ~!『山口公文書館』と『岡山大学、池田家文庫絵図公開』、『日本城郭史資料 山陽道』当日複数検索してて、徳山毛利陣屋の絵図は、『山口公文書館』以外に絵図が掲載されてました~。申し訳ないです。徳山毛利陣屋の絵図の概要は、3つの郭で構成されていて、正方形の陣屋では、ないです。『池田文庫絵図』に掲載されている番号は、T3−279です。『日本城郭史資料』の絵図の中で周防 下松城が掲載されているのですがこの下松城本格的な近代城郭に近い複雑な縄張りで堅固な構えの城の絵図でした。徳山藩の前身は、下松藩だったと思うのですが下松城は、徳山毛利家の城郭だった?徳山に移る際に下松城を廃城したのかなと。現在は、跡形もなく。ご参考までに毛利家に関わる文庫の担当者さん1人じゃ大変な作業データベース作業にかなりの労力費やしたと思います。
フミカミさん‼️ありがとうございます⤵️⤵️⤵️大変、有益な情報です。池田文庫絵図‼️ 知らなかった。。。見てみます。あと、下松城。嬉しい‼️それこそ、藩祖が築城したと思います。跡には行ったことあるんですが、、、。ありがとうございました⤵️⤵️
毛利家が120万石の大名家として残された時、京へ簡単に行ける位置にいるので肥後の加藤家の様に何か理由を付けて改易の憂き目になる可能性も有り得たと思う。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️全く同意です。 恐らく、あのまま残っていたら、老獪な家康か、その後の家光の時代くらいには改易の憂き目にあってたでしょうね。 最西端の山口に居たことが、幸いしたかも知れません。今後とも、宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
@@nariyoshimouri4104 >老獪な家康か、その後の家光の時代に…可能性としては家光時代の方があったと思えますね。何せ加藤家ばかりか実弟である駿河大納言家迄容赦なく取り潰した「生まれながらの将軍」でしたから(我先にと家光に取り入った伊達政宗の行動はとても印象的)。
いわゆる田分け者を地で行く分藩を実行したみたいですがそこら辺考察はどんな具合か気になります本当に単純に可愛いから分け与えたって事なんでしょうか?
たわけ者とは、良く言ったものですね。そうかも知れません。 初代のわがままぶりは、文献にも残っております。相当、替地なども、だだをこねたようです。 ただ、4支藩が幕末に宗家とともに、果たした役割も大きかったことから、あながち間違いでもないのかも知れません。 今後とも、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
一門重臣家の家紋はどうだったんだろう?
恐らくなんですが、幕末でも使用している、ご宗家とは一の字が違う一文字三星を使用していると思います。
こんにちは、伊藤です。就慶様に、質問が、有ります。吉川元春には、息子達が、三人位いたと思いますが、長男の元長、次男の繁沢元氏、三男の広家ですが。繁沢元氏は、西軍に付くのは、賛成したのかな?
こんにちは‼️またまた、マニアックな質問。はい、家を継げなかった次男さんですね、、、うーん。宿題にさせてください🙇
私の母方の実家は家紋が一文字に三つ星です。しかし苗字が毛利ではありません。家紋の形としては、この動画の宗家と同じはらいだと記憶しています。苗字が違っても家紋が一緒なのはやはり毛利家と縁があるのでしょうか?家紋を調べており、この動画に辿り着き、疑問に思ったためコメントしました。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️家紋が同じとは嬉しいですね。この三ツ星紋は、元々は渡辺紋とも言います。ので、渡辺系かも知れません、大江家の流れを汲む一族なら結構使っています。この三ツ星紋は家紋の中でも古いので、きっと古い名族のご子孫なのでは?⤴️⤴️⤴️
豊川稲荷様が護っている寺院の、入り口の、門の提灯は、丸に抱き沢瀉。寺院内の仏間の幕は、抱き沢瀉です。つまり、入り口は表紋、室内は裏紋です。此のような形式は毛利家のどちら様かの御家に関係が、あるのでしょうか??…ご教授願えれば、有難いです。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️いま、出先なので確たる返事は出来ませんが。 まず、毛利家のオモダカ紋は長門オモダカと言って、一般のオモダカとは違います。オモダカ紋は日本でも代表的な紋でもあり、多々使われております。 それと、毛利家ではオモダカを丸で囲むこともないので、残念ながら関係は薄いかもしれません。 でも、興味があるので自分なりに豊川稲荷の件、調べてみますね‼️
毛利先生、ご回答有難う御座いました。此れからも楽しみに視聴サせていただきます。
@@さぶサンツオ 私は、とてもとても先生などと呼ばれる者ではございません。是非、今後とも宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
毛利元就が一番好きだなあとは隆元も好きだな
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️元就と隆元が好きとは、嬉しい限りです!元春でもなく、隆景でもないところが、嬉しいです。
大河の時の俳優さんがみんな好きだからなのもあるしよくぞ国人から中国地方統一したのがすごいなと思いました
毛利の末裔です、なので親戚ですね!
我家も毛利家の家臣で家紋は丸に沢潟紋です
それぞれの石高も記載が有ったらよかったのに。😉と思いました。
それは、確かにそうですね‼️ 有益なご指摘ありがとうございます⤵️⤵️⤵️ 今後とも、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
一門八家もそれぞれ違う一文字三ツ星だったんですかねー?(宍戸、益田、福原除く)
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️一門の家紋は、恐らく宗家とは違う、共通の一文字だったと思うのですが、ごめんなさい。そこまで、正確なお答えができなくて‼️
ありがとうございます、やっぱりちょっとずつは違う感じなんですね、おそらく裏門にはそれぞれが養子に入った家紋とか使ってたのかな…少し調べてみようと思います。徳川の葵御紋とかも家だけではなくて将軍ごとに違ったりと、細かなところですがやはり家紋は面白いですね❗️
沢瀉紋を描く前におっしゃっている。恥ずかしい、どういう意味でしょうか?
ご質問ごもっともです。 あれは、私に絵心が全くないので、上手く書けないことを恥じたものです。 今後とも、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
渡辺星と思ってました沢瀉は輝元公の嫌いな福島正則の紋でもありますね抱き沢瀉ではありませんが
元は、渡辺星です‼️合っています。その辺は、どこかでまた、お話ししたいと思います‼️
昔、中日にいたゲーリーは無関係ですか?
一文字と三つ星の意味を教えてください。オリオンの三つ星説は本当なのでしょうか?
この紋は大変古く、自然や宇宙を表した紋に違いはありません。 我々の解釈では、人に先駆ける一番槍の一文字。 に勝利の星、三ツ星となっております。すみません⤵️⤵️⤵️ 調べる時間がなくて、お許しください。
これ見て実は信長の野望に毛利就隆公いらっしゃらないかと探してしまいましたw(残念ながらお兄さんしかいなかった)
そうなんですよ(涙)でも、兄の秀就は出てくるんですね👍️
@@mourihistory 関ヶ原や大坂の陣などの後期年代のシナリオやオールスターキャストで争うシナリオではきちんと出てくるみたいです。少しだけ武勇に優れているくらいで武将の見た目が何とも言えないことになってます(苦笑)
面白そう‼️ RUclipsでやるのも有りかもしれませんね(笑)
@@mourihistory ぜひwただ、オールスターキャストのシナリオだと両川が独立してしまっているので戦う羽目になる可能性が高いです。
ええええ、、、、。
母方の家系で長州藩の武士の娘さんと奉公の男の人が駆け落ちしたそういうことが昔あった と聞いてたんですけどよろしければわかれは返答ください母親は山口県光市出身です
幕末の長州の強さはどうしてできたのでしょう。幕府が2回も長州征伐軍を起こしたのに倒せなかった。わずか30万石の西国の大名に、最後は薩摩が与したにしては途方もない戦いを行った。尊王攘夷の急先鋒で英国とも戦った。朝廷を敬い、天皇のもとでは幕府も藩も同列に考えていたのか、面白い時代です。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️そうですね。長州はあれだけコテンパンにされて、明治維新の立役者になれたのは本当に、ある意味凄いことです。吉田松陰、高杉、大村益次郎などの神がかった天才もそうですし、当時の藩主も色々と言われてますが、英君だったとも思います。 因みに、長州は幕末には100万石の石高になっていたと言われ、秘密の会計局の貯金は数百万両に達していました。 そんな、お話しも今後はしていきたいと思っておりますので、逆に色々と教えて下さい。宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
@@nariyoshimouri4104 山口県はどうみても平野が少なく、江戸の初期の石高の3倍も増やすことができたのですか。確か江戸時代には長州藩内で珍しく飢饉で農民一揆もあったような地域もありませんでしたか。薩摩のように琉球を抑えて朝貢貿易の利益があったわけでない。実に100万石もあっても、幕末に京都での活動費は結構な出費だったと思われます。不思議なものです。
イギリスの支援はあったのですか?
@@nowhereman5621 メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️ あの戦争はフランス対イギリスの代理戦争でもありましたから、その様な面も多分にあったと思います。 長州は相当な金額を支払って武器を購入してましたから、イギリスにとって上客でもあったでしょうね‼️
正妻美伊姫様が心労が祟って48歳で亡くなり、数年後、正妻はおかないが側室を迎えたのは、私知っています😊元就には、娘が1人か2人いたはずですが、長女が宍戸氏に輿入れされたまで、わかっています🤔毛利家が安芸広島県と山陰など100万石以上だったのが3分の1の山口県に押し込められたのと同じく、上杉も、会津120万石だったのが4分の1の山形県米沢藩に押し込められたと言うよりも、生き残りのため、苦渋の決断でしょう😢隆元の奥方様が大内義隆の側近内藤○○の娘寿子で、輝元の母でもありますよね~😊輝元の奥方様が従姉妹だったような気がしました😅それと、幕末で、孝明天皇の側室で、明治天皇の実母中山慶子の弟中山○○が暗殺されて、下関市辺りに中山神社があるみたいですね~☺️去年の夏、安倍晋三元首相が暗殺された話を聞いていますが、父上の安倍晋太郎氏が眠る墓は山口県でも、毛利氏の菩提寺と関係ありますかね~🤔
色々と良くご存じで驚いてます‼️中山卿の話は、長府毛利家ではタブーとされていますね。。。安倍さんの家は、元々は東北からみたいで後に毛利家の代官職になりました。
吉川家が毛利宗家からそう言う扱いをされていたとは。吉川広家は辛かったでしょうな。
メッセージありがとうございます。広家の気持ちを察するに余りあります。 今なお、吉川家も続いてることがせめてもの救いかと。
今更ながら過去の動画にコメントを差し上げます事お許し頂きたく。頓首恐縮。就慶公夜分遅くに失礼致します。いや長州入封後の毛利家分家藩設立非常に勉強になりました。ありがとうございます。あれこれ長文・ヨタ話を捧げてお邪魔しているくせに長州毛利家分家立藩について知らざる所恥じ入るばかりでございます。而して秀秋公急逝お世継ぎ無しを持ってお家断絶。その前に猿面冠者の血脈を毛利本家に入れるのを忌避した末に隆景公が引き取った。というお話は些か不思議に感じる。大変無礼な物言いでお許し頂きたいのですが。近年秀秋公と関ヶ原の戦い。はなから後継養子にされながら秀吉が国松・秀頼が産まれた所で疎まれ豊臣後継者から外される事になり、豊臣家自体に怨恨。初手から東軍家康に加勢の密約をしていた。また戦場は関ヶ原ではなくその手前の街道筋赤坂宿にて西軍参謀長にして戦のキーパーソンである大谷吉継の軍勢を早くに壊滅させ、既に合戦開始数時間で東軍勝利の道を開いたとわが故郷温泉の郷別府大学白峰旬教授が提唱しております。小早川秀秋という人物。敗戦後の上杉家お家存存続に手助けした事もあります事、朝鮮出兵の折にも大将自ら先陣掛けした経緯をみますと単なる粗忽者とはちと考え深く、隆景公が養子に迎えたのもただ猿面冠者の回避策では・・・と疑問が残る愚考がございます。また秀元公が毛利家総帥であったにも関わらず吉川広家公に謀られて関ヶ原で軍を動く事止める策謀に乗せられた。この様な事を申しては無礼千万で誠に恐縮でございますが、高祖元就公の様に権謀術算に秀でた長者であるなら古狸徳川家康とも劣ることなく対等に渡り合えたでしょうが、正直・・・お二人は「善人」・・・敢えて皆まで申し上げる事憚りますが、そういう所でございますので広家公はそういう実情を見越してお家存続に為に敢えて家康に歯向かう道を回避したのではないか。戦国の世の中ではお家存続が必至。家康にあれこれ騙されましたが何とか毛利家を守る事だけはやり遂げた。例え本家に領地減縮。萩の三角州の小城に押し込められた事を恨まれようとやるべきことは尽くした。しかし元就公より続く版図は残す事能わず。あやふやな記憶で申し家ございませんが、輝元公がお亡くなりになられた数か月後広家公も急逝している。恐らく全一切の責任と自責にあたり追い腹を詰めたのではないか?悲しくも切なく。しかしながらその後倒幕の260余を生き抜いた長州毛利家の家督体制による江戸時代を生き延びたその姿に後世に続く礎を築したその姿に感涙を隠し切れません。
ん?しかし…そうなると、毛利家が藩主の国となると…1.萩藩(所謂、長州藩)と…2.徳山藩(周南)と…3.長府藩(下関)と…4.清末藩(同じく下関)の四家になりやしませんかね?又、岩国藩は吉川家が藩主だけど毛利家とは強固な姻戚関係だし。
ご指摘ごもっともです‼️清末家は、長府からの又別家だったので、あのようなタイトルにしてしまったのかと、、、 良くコメントをしてくれる、清末のご当主に叱られますね(怖)
@@mourihistory 様へ…ところが下関市唐戸に住む毛利家ファンによると「清末毛利家が長府毛利家よりも上」と真顔で言う表現になるみたい(笑)。なので勿論「えっ!清末藩は長府藩の支藩ではないの?つまり清末藩は萩藩の支藩の支藩だよね」と言うツッコミは絶対に入れられません。そんな事で嫌われても大損なので(汗)。ちなみに僕は高校時代3年間を防府市内で過ごしたので当然、右田毛利家(旧男爵家)がキチンと残って居たら良いな、という願望が有ります。
そうなんですね‼️ 再来月に「長清会」という、両藩の関係者が一同に集う会が下関であり呼ばれておりますので、その際に聞いて参りますね。動画も撮れたら(笑)右田のご当主は、ご健在ですよ。地元の企業の重役を退任されて、今はローカルテレビ局の役員になっておられます‼️
毛利家からは、政治家は、出ていないのですか
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️どちらかと言うと、毛利家は公共事業に関与していたことが多いです。当家も宗家も国鉄の設立、銀行の設立等に寄与していました。宗家の8男が西園寺家の養子に行かれた事くらいですかね。 勿論、貴族院議員は何人かおります。
おー!毛利家専門チャンネルでスカイ?
宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️👮
私の母方の祖母は、尼子家の武将の末裔なのですが、その祖母のひぃおばあちゃまは、毛利家の宗家からお嫁に来た方だと聞いております。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️それはそれは、ご縁ですね。 確か、尼子家の末裔は佐々木さんとして残られていたと思います。 宗家からお嫁さんとは‼️ 今後ともこれをご縁に宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
@@mourihistory 様、私も佐々木流の家と聞いております。また、父方は、東北南部家の家老家・四天王家です。これから、どうぞよろしくお願い致します。
へー!すごい話です。「へー!」150回ですわ!
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️誉めて貰えて、やる気が出ました‼️by 就慶 (笑)
母方の御先祖が毛利家より家紋の半分をいただいています
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️それは、興味深いお話しですね‼️一文字三ツ星紋の半分でしょうか。
@@mourihistory そうです。一文字とその下に星一つです
仙台伊達家の本家仙台藩とは別に正宗の長男の伊達宇和島藩が有るその分家の伊達家吉田藩も有る!宇和島城は創建当時からの400年の城🏯が今も有る!
流石、奥羽の覇者であり、名門伊達家ですね。 政宗公の慧眼も素晴らしかったと思います。それが、徳川政権でも大きな存在足り得たんでしょうね。はい、宇和島には吉田藩もあり瀬戸内では大藩の一つですね。 宇和島でも、吉田との確執は同じようにあったみたいですね。これからは、他家の勉強もしながら動画にしていきたいと思います。
@@mourihistory 返信ありがとうございます伊達宇和島藩藩祖となるべく長男秀宗のお目付け役として正宗公の命に寄りお供した重臣を意見の違いで、斬って捨てて本家仙台藩と伊達宇和島藩の御家騒動も有りました!その重臣の鎮魂の為に建立されたのが和霊神社⛩️だそうです!ちなみに、学校の歴史の教科書に載っている豊臣秀吉座像の肖像画は宇和島市の伊達博物館に有ります!当主は東京に住んでいらっしゃるそうですが!私も、もっと日本の歴史を学んで行きたいと思います!
小早川秀包系毛利家『』
毛利です。メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️ 彼は是非とも取り上げなければならないと思っております。 小早川家を継ぐ身で、尚且つ人望も篤かった彼のことは不憫でなりません。 その代わり、毛利家一門の祖となっております。今後とも、宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
本物っぽいな。
吉川家は、馬の山の戦い、備中高松の戦い、九州出兵、関ヶ原の戦い、全て毛利家の優柔不断な決断で窮地になっており史実上、苦汁を舐めています。
はい。おっしゃる通りです。 吉川家があってこそ、毛利が生き残れたことは間違いありません‼️
@@mourihistory 毛利当主様に、無礼な言動でした事、深くお詫び致します。吉川家の思いと無念を世間に少しでも知って頂きたく、投稿しました。此からも毛利一族の素晴らしさを世に広めて頂きたいと思っております。チャンネル登録しました。応援しております。
よく続いたな!毛利!遠祖は、大江匡房、そして鎌倉幕府の政所別当たる大江広元!
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️本当に、先人のお陰でなんとか続いております‼️
ウチの家紋は、毛利家とは逆、上が三ツ星で下が一文字です。ネットで検索すると「丸に渡辺星」となっていました。…オヤジは「団子三つに箸」とか言ってますが…(^^;
メッセージありがとうございます‼️はい。それは、まさしく、渡辺三星ですね。元を正せば、繋がると思います。今後とも、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
裏切り者 腰抜けで有名な 毛利家ですなぁ 島津を見習って勇猛果敢に戦ってほしかった
そう言われても仕方のない所があります。島津さんの、武勇は本当に素晴らしいですね。
再生リスト:毛利家のできごと
ruclips.net/p/PLs52PWs0zP30kzLR4pJafXOXoVDgcHer0
是非、他の動画もお楽しみください🙇
@@mourihistory お勧め下さいまして
誠にありがとうございますm(__)m
しっかりお勉強致します。
私は家紋に関して興味がある者です。複数ある大名毛利家の家々によって「一文字三つ星」や「沢瀉」の紋様の違いや使い分けがわかりやすく、毛利家に関してより興味が持てました。素晴らしいです。
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️
家紋に興味がおありとは、とても素敵なご趣味ですね。 家紋が古くからあるのは、ヨーロッパと日本と言います。 大事にしたい文化ですよね。 しかも、日本の家紋はシンプルなものから、微細にこだわったものまで多様です。 他にも素晴らしい家紋をお持ちの一族も多いかと思いますが、当家に興味を持っていただいて嬉しいです‼️
めっちゃ分かりやすくて
面白かったです😆🌈
ありがとうございます😊
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️ とても、励みになります。是非、今後とも宜しくお願いします🙇⤵️
清末は長府さんの家紋の横棒の両側に角が付いたものも使われていました。
秀吉が輝元公に実子ができた時は、秀元公を廃嫡する様に念押ししていた意味が分かりませんでしたが、智将小早川隆景が毛利本家を守る為に秀秋を養子に迎えたエピソードを伺い、合点がいきました。秀元公が優秀だと知っていた秀吉は後々毛利が力を付けることを警戒したのですね。
おおおお‼️これは、これは、清末のご当主自ら書き込み頂いて光栄です。いや、まさにご先祖の秀元公の逸材ぶりは秀吉も恐れた事でしょう。 清末さんにつきまして、お話のなかでこれからはもっと触れて参りたいと思っております。 家紋の下りでは、清末のお話が少なく申し訳なかったです。今後とも宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
とても分かりやすいご説明ありがとうございます。
こちらこそ、ご視聴頂いてありがとうございます❗
愛媛毛利です。別の動画に「愛媛南予弁と広島弁」をコメントした者です。
毎回何回も見直したり、ネットや図書館で調べる機会が増えました✨
家紋は習字の一に三つ星です。
偶然にもカミさんは下関で、数奇な縁とも思います!
私も来年還暦、弊社も管理職が育ったので、本格的にルーツ調べをいたします😊
貴チャンネルとの出会いが、発起させていただきましたm(_ _)m
今後とも何卒よろしくお願いいたします✨
良く覚えています‼️ それはそれは、下関まで繋がるとは、これもご縁ですね。
絶対に関係あると思います。
楽隠居、羨ましい‼️その際には、是非、ルーツ探しのお手伝いが少しでも出来たらと思います‼️
毛利三藩について、詳しく解説して頂き、ありがとうございました。現在は奈良県に住んでいますが、自分の先祖が長府藩士であった事は伝え聞いており、明治になって曾祖父が屯田兵として北海道の釧路厚岸の太田屯田兵村に移住し、同じ長府藩出身の乃木希典の率いる日露戦争にも従軍した事も記録が残っているので、長府藩には思い入れが深いです。因みに長府の乃木神社には、何度かお参りさせて頂きました。これからも楽しみにしています。
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️
それはそれは、とても良くルーツと経緯を勉強されてるんですね。 長府がルーツで、その変遷と乃木さんとの関係に関しても凄くシンパシーを感じます。私の五代前が、長府からの養子なので余計です。
今後も宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️👮
御当主様。大変勉強になりました!ありがとうございます😊
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
嬉しいです。今後とも宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
3つの家紋の意味が良くわかりました。
やはり根本的な所までたどらないとわからないものですね。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️きっと、大きな大名家には同じような違いがあると思うので私も調べてみたいと思います。今後とも、歴史チャンネルを宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
防府の毛利邸の玄関に入ったところにこの各毛利家の家紋に関する解説看板があったことを思い出しました。表紋と裏紋の話は興味深く拝聴致しました。我が家の紋は三ッ柏です。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
はい。本邸の玄関先のあの家紋の看板をご存じとは、通ですね‼️ 三つ柏は、日本でも古い家紋ですよね。 古い神社の神主家や、土佐の山内さんなど、その家紋だったかと思います。是非、今後とも応援宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
大変勉強になりました。
家紋の違いは毛利マニアにはたまりませんね。
そうなんですよ、微妙に違うんだけど、やはり徳山三ツ星が一番バランス取れててかっこ良く思えちゃう(笑)
そねーに、思うじゃろ⁉️
@@mourihistory じゃのう
👍👍👮👍👍👍
母方の家系で長州藩の武士の娘さんと奉公の男の人と駆け落ちしたというのをお母さんから聞いたのですがそういうことがあったのでしょうか。よろしければ返答お願いします。母は山口県の光市出身です。
毛利家のことは本や歴史書など多数読み込んでましたが、全然足りてない事がわかりました。
知らなかった事が多すぎて、スマホに齧り付きながら拝見しております。
いつも、ありがとうございます⤵️⤵️⤵️なんか、恥ずかしいような、嬉しいような。 皆様の方が、造詣が深いかと思いますが自分なりにお伝えして参りたいと思います‼️
就隆公のご子孫の御方に毛利家の歴史を語って頂けて光栄です。
家紋研究を個人的に調べているので各毛利家の家紋にも違いがあることが知る事ができて良かったです。
一つ質問があります。
毛利家には様々な家紋がある事はこの動画を拝見し分かったのですが、男性と女性それぞれが身につける家紋はありますか?
いわゆる男紋と女紋です。
メッセージありがとうございます。家紋研究とは素敵ですね。 ご質問への回答ですが、ございます。 男紋が一文字三ツ星紋、女性が沢瀉紋になります。 江戸期はそこまでの区別があったか、定かではありませんが姫様の具足に沢瀉があしらわれていることなどからどちらかというと、沢瀉が女性紋だったと思います。 明治以降は、一文字三ツ星と沢瀉ではっきりと分かれています。 婚礼や式典での和装着用の際には必ずそうなっています。長くなりました。今後とも』宜しくお願い致します!!
@@nariyoshimouri4104 様へ
返信して頂きありがとうございます。
やはり毛利家にも男紋そして女紋がありましたか!
男紋や女紋は西国において文化が見られます。特に畿内によく見られていたので、正直山陰山陽の地域にも文化がある確信が持てなかったので今回の機会に畿内以外にも男女家紋の文化がある事が確認できてとても良かったです。
東国においてはそうした文化は見られません。説は多数ありますが、愛知県の東部つまり三河辺りから男女家紋の文化が無いとも言われています。
毛利宗家そして毛利分家の三家を合わせた家紋を旗に掲げていたと聞き、私は毛利家でも無ければ大江朝臣でもありませんが、胸熱い気持ちになりました。
こちらも長文になってしまい申し訳ございません。
こちらこそ今後とも勉強させて頂きますし
よろしくお願いします。
あ、チャンネル登録は完了済みです❗️
@@hiro.11 返信ありがとうございます。 とても、勉強になりました。 男女紋は全国共通と思ってましたから。。。 なるほど、三河あたりが分岐点なんですね。 そういえば、食文化でもあの辺りを境に西に向けてうどんの汁が真っ黒から、透明のだし汁に変わります。 出汁もカツオから昆布だしに変わるのも愛知くらいかと思います。 そう思うと色々、深いですね。 家紋には私自身、非常に興味があります是非、今後ともご教示ください。 いつか直接やり取り出来たら嬉しいです。
私はタイ国に居ますが
御先祖は宇和島に居た毛利家です。
秀吉統治の時小早川隆景が宇和島二十万石の主に命じられ行く際、
毛利本家から御目付役として行った人らしいです。
家紋は本家の家紋です。
悲しいかな私の家は没落しています。
明治初期は爵号もあったらしいのですが、炭相場で欲を出し破産したらしいです。
御目付役として行く際、本家から宝刀を頂いたらしいです。
昔は寺に大事な物を預ける習慣があったらしいのですが昭和初期の住職が生臭坊主で檀家の預かり物を全て売ってしまったらしく、その中に家系図迄あり現在家系図も無い状態です。
昔墓参りに行った時墓石屋さんが居て歴代の墓石を観られ、
初代の墓石が凄いらしく当時は身分の低い者には許されない物らしく、
驚かれていたのが印象的でした。
これが唯一証拠かなと思います。
お会い出来る事があればお話ししたいなと思いました。
タイからコメント嬉しいです!
ありがとうございます。
そして、同じ姓ですね。 とても、ご縁を感じます。 小早川が秀吉から四国の一部を拝領した時から、宇和島なんですね。、もしかしたら、河野家を助勢する時からかも知れませんね。 維新で爵位があったとは、それなりなお家柄です。
残念なのは、廃仏毀釈や、そのお寺さんの所業により資料が無くなったことですね。残念ですね。でも、墓所が素晴らしいとのこと。 いつか、伺いたいです。
毛利の四国での動向があまり知られてないのと、やはり、同じように、そのあたりの歴史を知りたい方が結構おられます。
ので、いつか動画にしたい!
タイでもどうか、お元気でお過ごしください。そして、また、ご連絡お待ちしています。
戊辰戦争などのときに高杉晋作などが掲げている軍旗が気になっていました
えっ毛利家の家紋やと思ってましたが。。。
こんなに種類があったんですねー
非常に良く分かりました
さすが血流の直の話じゃないと聞けない話で感動しました😊ありがとうございます
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️
そうなんです、一応、宗藩を始めとして岩国、徳山、長府、さらには一門もおりましたので、統一した家紋もあったんですね。
毛利家も家紋の違いがありますが、島津さんの丸十も違いがあるみたいですね‼️
はじめまして!
歴史好きです。めちゃ面白いです。
ところで、徳山藩や、長府藩は、毛利御三家的な役割もあったのでしょうか?たしか、長府藩には、新田藩もあったような。江戸城の伺候席みたいな序列も各藩にあったのでしょうか?
いきなり質問ばかりですみません。
チャンネルで取り上げていただければ嬉しいです。
メッセージありがとうございます! はい、支藩は宗家を助け嫡子がないときは支藩から出すと言うような御三家的な役割を担っておりました。 一応、長府が支藩筆頭です。 ・・が、徳山は輝元直系の意識が強くその辺で確執もありました。
面白いことに、出萩と称される、参勤交代を江戸だけでなく萩にもしておりました。 なので、萩屋敷が各藩ございます。
長府の新田藩は清末藩一万石です。 以上のことも、今後チャンネルで詳しく御案内できたらと思っていますので、是非、宜しくお願い致します!!
ご返信ありがとうございます!
やはり徳川御三家のように色々確執があったんですね。僕個人の考えは、毛利輝元は、一般的な評価とは違い非常に優れた人物と考えております。織田信長や、徳川家康と渡り合い今に至るまで家名を残す。減封されたとは、言え大大名です。大河ドラマで主人公にしてもらいたいくらい大好きです。
ましてや、その直系ならその誇りたるや言うまでもありません。
僕自身も徳山藩についてもっと勉強させて頂きます。
今後も楽しみにしております!尚、歴史上の人物は、敬称は省略させていただきました!
分かりやすく説明してあり、理解が深まりました。大まかには知っていましたが、この動画で正しく理解できました!
そう言って頂けると、本当にやりがいがあります!! 今後とも応援よろしくお願いいたします!!
@@nariyoshimouri4104 楽しみにしております。ご当主の方が顔を出してRUclipsで配信なんて、ほんとびっくりですよ!
昨日、厚木・下古沢の三島神社に行ってきました。お社が新しくなったとかで、一度行ってみたいと思っておりましたので。きっとご存じだと思いますが、毛利氏発祥の地の碑が立っており、毛利季光の屋敷跡です。
@@oekazuichi8595 是非、伺いたいと思います‼️
@@oekazuichi8595 ー
徳山藩士の末裔です。維新後、没落して私の曽祖父、祖父は親子で九州に流れました。徳山藩の事を詳しく知りたいと思っていますので、よろしくお願いします。
それはそれは、凄く親近感を覚えます。そうですか、、、今は九州にいらっしゃるんですね。 是非、いつか徳山藩のつながりの皆様でお会いできたらと思っています。今後とも、応援宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
よく分かりました。
ありがとうございました😊
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️励みになります。今後とも宜しくお願いします👍️
今後とも宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️👮
ありがとうございます!
こちらこそ❗
お珍しいお名前ですね‼️
スミマセン‼️こちらでも、気づかずに失礼しました。
本当にありがとうございました⤵️⤵️⤵️
とても、励みになります。
今後とも宜しくお願い致します‼️
ちなみに、萩藩の毛利一門六家(宍戸、右田、吉敷、厚狭、阿川、大野)の次席であった右田毛利の家紋は三つ星でした。
色々と、ご存じですね‼️
もしかしたら、右田の紋は略紋で三ツ星かも知れませんね。 一文字を省いたかも。
一門八家も取り上げて頂けると幸いです😊
家臣筋の人との現在の付き合いとかそのような話も氣になります。
宍戸家をはじめとした、毛利一門ですね! それと、家臣の末裔の方との現在。 どこかで必ずお話しさせて頂きます!!
@@nariyoshimouri4104 はい!有難う御座います😊
楽しみです♪
ご無沙汰しています。10数年前に徳山博物館と毛利就隆公の墓所を案内して貰った眞庭です。素晴らしい講演ですね。石見国の片田舎から応援しております。
毛利です‼️お久しぶりです。お元気でしたか⁉️ 今は島根でしょうか⁉️ お恥ずかしい限りですが、どうか応援のほどお願い致します⤵️⤵️⤵️嬉しかったです。
歴史好きですが!毛利家のことはわからなかったので勉強になりました(^^)
めちゃくちゃわかりやすかったです!
有難うございます。 過去を知ってこそ未来の展望が拓けるとも申します。歴史は未来への鏡と思ってます。 これを機に、毛利家への関心も持っていただけたら嬉しいです!!! 今後とも、是非是非、お願いいたします!!
大河ドラマの毛利元就を見ても毛利家について興味を持ちました。
戦国時代、幕末といろんなエピソードがあるので詳しく知りたいです(^^)
私の家は代々島津家に仕えていた家で
毛利家の分家のお話を聞いて島津四家と似ているなと思いました。
毛利家の幕末の政変について、藩論が変わった理由や秀吉の中国大返しの時になぜ毛利家は追わなかったのか?
毛利家側からのエピソードを聞いてみたいです(^^)
歴史は楽しいです(^^)
引き続き拝見させてください!
ありがとうございます😊
@@hisahitoh9037 薩摩の方に、興味を持っていただいて嬉しいです。 現代の薩長同盟で行きましょう!!
小早川家はその後はどうなったのでしょうか。毛利家の中で小早川隆景公が1番好きです。また、毛利家内では評価が高い人物はどなたでしょうか。吉川広家公が毛利家存続に貢献したのに、毛利宗家からの扱いが酷いのはショックでした。
言い分は分かるのですが、広家公無くば毛利家存続はありえなかったと思います。御子孫の方から広家公はどのような印象ですか?
小早川家は、ご存じのとおり、秀秋が太守としての責務を果たせずに、一時期、断絶いたしました。 しかし、明治維新の時に、小早川家再興が望まれて。当時の毛利家の五男?が、小早川を名乗り小早川家は復活いたしました。男爵を授かっています。 吉川広家に関しては、結局のところ、現在の毛利家の皆さんは感謝していると思います。 現在のご当主もとても素敵な方ですよ‼️ 毛利家の末裔のなかでも、元就、元春、隆景の三人は神様の様な存在です。今後とも宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
萩藩、徳山藩、長府藩、清末藩、(岩国藩)。家老の益田家、福原家。さらに、六毛利家がマニアックです。厚狭、大野、吉敷、阿川、右田、宍戸。萩に、厚狭毛利家萩屋敷長屋が現存しています。国司家も重臣でした。
宍戸家 これだけ毛利でないので調らべたら、毛利一門待遇、、と長々書いてました。
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️ 良くご存じですね。一門六席とも八家とも呼ばれる毛利一門もございます。また、国司家他の家老等々のご説明もしたいと思っておりますので、色々とご教示ください。
宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
大分の佐伯毛利は、元々森氏なので、家紋が違う。毛利氏のご先祖様の大江広元が、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に出てます。このドラマは、佐竹氏、武田氏も出てきます。
徳山藩ははじめ、下松にあったと聞いたことあります。下松の
中市の周慶寺には毛利家の墓もあります。このあたりの詳しい経緯、ご教示いただければ幸甚です。
メッセージありがとうございます。 はい。はじめは、下松に屋敷を構えたことから下松藩とも呼ばれていました。 しかし、現在の徳山の方が治世に向いてると判断して徳山に陣屋を構えました。
周慶寺さんは、当家の藩祖の母堂の墓がございます。 輝元の側室でもあったことから、可哀想な境遇でもあり、色々と込み入った事情から、藩祖の就隆が不憫に思い弔うために建てた寺です。 スミマセン、拙い説明で‼️今後とも、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
@@nariyoshimouri4104
返信多謝。周慶寺の正面の家は、小生の自宅。周慶寺は、子供の頃の遊び場でした。拙著「世界を解く数学」(河出書房新社)の冒頭には、周慶寺のことが出ています(笑)。今は、東京に居ますが、今年の6月には中市に移住します。
ともあれ、ご教示ありがとうございます。
@@河田直樹-o4t 偉い先生からのご質問だったんですね‼️ 今度、拝読させてください。
ご丁寧にありがとうございます⤵️⤵️⤵️ 先代の住職さんは、個性的な方でしたね、ご縁があって嬉しいです。僕も、東京生まれ育ちで、今は徳山に骨を埋める所存です‼️お帰りの際は是非、ご一報ください。
長府藩は分家でなく別家という扱いだと思います。
下関戦争も長府藩の領土で行われていたと思います。
長州藩の毛利家は吉元公から敬親公まで秀元公の子孫が当主になっていました。
ですが、元徳公が徳山藩から養子になって以降は輝元公の子孫が当主になりましたね。
なので就慶さんからすると血筋も近いのかなと思います。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
はい。秀元公が一時、毛利の当主でもあり官位も高いことなどから、その様に扱われたと思います。 支藩筆頭が長府です。
因みに、当家の10代当主は長府14代元敏の弟、元功になるので血統は長府に近いかも知れません。それにしても、良くご存じですね‼️これからも、色々とご教示ください🙇宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
毛利家の庶家の末裔です。
こちらの動画で家紋の成り立ちをよく知ることができました。
私の家の家紋は二文字に三つ星なのですが数字が長府藩の形だったのでそちらの藩に所属という理解で合ってますでしょうか?
ちなみにお墓とかは萩にあります。
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️
ご縁がありますね👍️
当家の最大の功労者、児玉源太郎には徳山の二文字三星を下賜しています。 児玉は元々、毛利と同じ旧家ですし、長府の二文字三星ならやはり、かなりの勳功か家柄だったと推察出来ますね。見てみたい‼️
しかも、萩にお墓とは‼️
@@mourihistory
お忙しいなかご返信ありがとうございます!
他の動画も色々拝見いたしました。
先祖や先人に対する尊敬の気持ちに非常に共感いたしました。
これらの動画は山口県の誇りになると思いますので今後も動画楽しみにしております!
本当に嬉しいコメントです‼️
このチャンネルのアイコンにもちゃんと徳山藩の船形が使われてるんですね
気づいて頂いて嬉しいです。やはり、当家の紋でないとしまらないかなと。今後とも、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
吉川家の岩国藩は毛利本家からは家臣扱いだったが、幕府からは大名として扱われていたと、以前資料で見ましたが、最近の研究では違ってきてるのでしょうか?
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️
ご指摘の通りでごさいます。
色々と吉川さんと、お話するなかでその様な話題になったり、岩国で地元のかたから恨み節を聞いたりして、少し過大表現もあったかと思います。 その辺はご容赦ください🙇⤵️⤵️⤵️⤵️⤵️
なるべく、史実に基づき動画をこれからは撮影して参ります。
はじめまして!
歴史が好きで、一昨年から日本100名城や続日本100名城を中心に城や史跡巡りをしている者です😃
山口県は今年の年末年始に岩国から下関まで城巡りで堪能して来ましたが、山口県に行く前や行った後もこちらの毛利家歴史チャンネル様の動画が非常に参考になりました!
毛利家や吉川家の事、山口県の藩の事など事細かに分かりやすく解説をありがとうございました!
非常に分かりやすいので、これから山口県へ歴史探訪しに行く人がいたら毛利家歴史チャンネルを勧めたいと思います😊
また萩城や萩城下町、岩国城や櫛崎城など見に行きたくなって来ました☆
あと、別の動画では毛利家の方がやっている音楽スタジオでかつて細野晴臣さんのはっぴいえんどやYMOなど大好きなアーティストのレコーディングまでされていると知って感動しました✨
これからも応援してます😆
嬉しいコメントありがとうございます!
ご視聴頂いて、少しでも参考になったら嬉しいです。また、山口や広島に是非、お出でくださいね👍️
まだまだ、これからもご紹介出来るだけして参ります。
そして、良ければ東京のスタジオにも遊びに来て下さいね👍️
これからも宜しくお願いいたします。
武艦や旗指物の古文書をよく見るので、毛利家の定紋の違いは存じ上げていました。大名家になっていない毛利一族、例えば宗家の一門家老をされていた毛利家もすこしづつ家紋が違うのでしょうね。私の家の場合は当主と跡取りの男子とその長男、それぞれの妻以外は家の正定紋が使えないというのがあって例えば私の妹、叔父、いとこは定紋の形を少し変えたり、井形や六角形、花びら等を追加して区別された家紋を使って定紋は使わせない区別をしています。毛利家とよく似ているなと思いました。家紋は毛利家の三ツ星紋と沢瀉紋のように当家も家紋が複数あるので使い分けています。たしか毛利宗家は菊紋と桐紋を下賜されていたかと記憶しております。
またまた、コメント痛み入ります!
良く色々とご存知ですね。
一門の毛利家の家紋もやはり違う場合がございます。 やはり、一門は一度は毛利を出ていたりするので、毛利の姓と家紋を宗家から許される形になります。
それにしても、貴家の家紋に関しても様々あるのですね❗ なかなか、他家の家紋に関しての知識は浅くて、やはりそこまで厳格に決められていることにビックリ。
ますます、知りたくなりますね(笑)
そうですね、毛利家は一応、平城天皇の皇子が祖である事と、元就が石見銀山を朝廷に差し上げた経緯などから、勤皇を自負し、また、それ故に朝廷より直接、許しを頂いております!
もしかして、霞などでお会いしてたりして、、、。
なるほど、そうなのか、、と見て楽しんでいます。
ところで、小早川隆景公の子孫(秀秋公以外)はどうなったのでしょうか。小早川家も古い家なので一族の兄弟縁者が跡を継いだのでしょうか。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
小早川家は一時断絶となりましたが、明治維新に毛利家から養子にはいり、小早川五郎として、再興いたしました。
男爵を授かっています。現当主は、マツダ自動車で役員として現役を退かれました。
最近毛利家が気になりだして色々ググってたんですが、子孫による動画とは珍しく、噛り付いて見てしまいました。
江戸中期に吉川家は徳山毛利家から養子(輝元系の経倫)を貰っているようですが、どういう経緯があったのでしょうか?
吉川家格上昇計画の一端なんでしょうか?
毛利家が気になりだしたとは嬉しい限りです‼️ 幕末の動乱期もあったと思うのですが、毛利家が一枚岩でない事もあり、徳山からも様々な養子に出ております。
吉川家に関しては、特別な意味はありませんが、養子を貰う先を徳山にしたのは、輝元系の徳山がそれまで、不遇であったことも関係あるかと思います。 吉川家は確かに諸侯に列っせられてませんが、徳山よりは富裕でした(笑) どことなく、長府系の血脈から輝元系に最終的に回帰したような気がします‼️ ごめんなさい。
拙い返答で‼️
岩国藩鉄砲隊にいました。ご存じでしょうか?
はい‼️あの勇壮な鉄砲隊ですね。存じ上げておりますが、間近で見たことはないので是非、今度拝見したいです。宜しくお願いします🙇⤵️
防府はどのような位置づけなんでしょう?
メッセージありがとうございます‼️
大切な質問です。 防府の毛利さんが宗家になります。 ただ、右田毛利と言う一門も防府にございます。 萩を出て、幕末に山口に藩庁を移してから。 明治の世になり、井上馨が、毛利本家のために防府の景勝の地に広大な毛利邸を作りました。 その防府に移られたのが、萩つまりは宗家の毛利さんです。 少し離れた、所に一門で8000石の右田毛利家が元々あったので、時々間違われています。 解りづらい回答でスミマセン‼️
殿〜、教えて頂いて息子と動画みました。で、アマゾンプライムで大河ドラマの2回のオープニングの説明で家紋の事で三ツ星がオリオン座の三ツ星との説明で天体好き息子が興奮してます😂
おおお‼️
流石。あの大河のオープニング私も大好きです⤴️⤴️👍👍👍
めちゃくちゃ面白いです。
三河出身、大学は下関、東京で働いてます。
やはり、関係者の方のお話は、ディテールが具体的で、教科書的なものと違い、イメージを喚起します。
コメントありがとうございます‼️
凄い‼️ 三河からの下関、そして、東京。
歴史的な因縁を感じぜずには居られませんね。 今後とも、応援宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️👮
今となっては真偽不明ですが防府市の天満宮近くに住んでいた老人が、
殿様が休憩地にしていたのが自分の家で庭に今でも殿様が座った平石があると自慢されていました。庭には確かに平石がありそこに座って庭を眺めるのが日課と言われていました
メッセージありがとうございます。
それは、きっと防府(宗家)の毛利さんが座られてたんでしょうね。 貴重な話をありがとうございます❗
母の従兄弟の嫁が、旧姓毛利理智子と言い、毛利元就の側室の子が祖先で、その祖先が下関の長府毛利藩を継いで、明治維新に至っており、現在、東京中野区若宮に住んでいます。私も若い頃、若宮の毛利家に行って、又従兄弟とよく遊んでいました。理智子様は、気さくな人で、いかにもお姫様といった雰囲気を醸し出す美人でした。現在、80歳代ですが健在です。そのおじいさんやお父さんにお会いしましたが、まさか、毛利元就の子孫だとは想像できませんでしたが、後で知りました。明治維新で世の中が激しく変わり、大名の子孫もすっかり庶民になって、感慨深いものを感じます。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️それは、ご縁ですね。 側室の子ならば、毛利家の一門六席のどれかの家だと思います。 昔は、毛利会と言う、大きな会があり、宗家、支藩、一門の末裔が一堂に会していたので、もしかしたらお会いしていたかも知れません。また、もし、その方が爵位をお持ちの方なら、霞会館と言う、倶楽部でもお会いしてるかも知れませんね‼️
戦後から、農地改革により殆どの大名家が大変な思いをしています。その方にも、是非とも宜しくお伝えください‼️ そして、今後とも、宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
なるほど❗やっと謎が解けました‼️
20年前に岩国のお寺や神社に種類の違う家紋を見かけたのですが
違いがわかりませんでした
今回 この動画を初めて見たので 他の動画も拝見させていただきます
素敵なRUclipsに出会えました
ありがとうございます
有り難うございます。そう言って頂けると本当に励みになります‼️ 今後も、出来る限り頑張っていきたいと思っておりますので。応援、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
私の知り合いにも毛利さんがいらっしゃり、元就公のご子孫と言われていたので遠いご親戚ですね。その方は姫路のご出身で、数年前まで某ゼネコンの会長をやっておられました。威厳や品があるけど気さくな方で、お血筋と言われると納得な感じです。
そういえば話は変わりますが、お正月に「徳川攻めの準備が整いました」と家臣が言うと殿が「まだ時期ではない」と返答するという儀式があったと、様々な本に書いてありましたが本当にあったのでしょうか?これまた最近見た本だかサイトには無かったとありました。ぜひ真実を知りたいところであります。
また、元就公の5男以降の方のお話、厚佐などの支藩ではない分家のお話など興味がありますので、取り上げて頂けると幸いです。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
ゼネコンの会長さんですか。 きっと、ご縁のある方と推察します。機会があればお調べしてみます。 人品賤しからぬ、風貌なんて素敵ですね‼️ さて、獅子の廊下でのやり取りですが、まことしやかに噂されてますが、これも三矢の教訓状と同じで、似たような事は実際あったんだと思います。それが、ドラマチックに伝えられてるのかと。 やはり、幕府に対する恨みは根底にあった筈ですから。
そして、毛利家の一門シリーズですね、これもどこかでお話する機会を作ろうと思っております。今後とも応援、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
『毛利家歴史チャンネル』を知ってから
ネットで山口県公文書館のホームページに毛利家文庫、徳山毛利家文庫の目次を見て、どのような文書リストあるのか見たら
膨大な文書で驚きました。
毛利宗家32000
徳山毛利家14000.
江戸時代に徳山毛利家の殿様
道中がてらに有馬温泉に入浴したとの日記発見😅。
絵図は、見れましたが徳山毛利家の陣屋発見! 絵図で見ると広大な敷地。
萩城の絵図で
注目したのが山頂にある詰城の構え。
二重櫓を多数配し、堅固な構えだったんだと。
流石‼️フミカミさん、、、
僕より詳しい(笑)
そうなんです、徳山毛利家も宗家も文書がかなり残っていて、歴史の解明にも随分寄与してるとか。 僕も、いくつかの行楽日記の話を聞いてますが、有馬温泉は知らなかった‼️ 徳山陣屋の絵図もあるとか?
一応、寄託なので権利は僕にあるんですが、全く知りませんでした。
でも、担当者が一人なので文書の解明はまだまだ、終わらないそうです。。。
@@mourihistory
殿様えらいこっちゃ~!
『山口公文書館』と『岡山大学、池田家文庫絵図公開』、『日本城郭史資料 山陽道』
当日複数検索してて、徳山毛利陣屋の絵図は、『山口公文書館』以外に絵図が掲載されてました~。
申し訳ないです。
徳山毛利陣屋の絵図の概要は、3つの郭で構成されていて、正方形の陣屋では、ないです。
『池田文庫絵図』に掲載されている
番号は、T3−279です。
『日本城郭史資料』の絵図の中で周防 下松城が掲載されているのですがこの下松城
本格的な近代城郭に近い複雑な縄張りで堅固な構えの城の絵図でした。
徳山藩の前身は、下松藩だったと思うのですが下松城は、徳山毛利家の城郭だった?
徳山に移る際に
下松城を廃城したのかなと。
現在は、跡形もなく。ご参考までに
毛利家に関わる文庫の担当者さん
1人じゃ大変な作業データベース作業にかなりの労力費やしたと思います。
フミカミさん‼️
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
大変、有益な情報です。
池田文庫絵図‼️ 知らなかった。。。
見てみます。
あと、下松城。嬉しい‼️
それこそ、藩祖が築城したと思います。
跡には行ったことあるんですが、、、。
ありがとうございました⤵️⤵️
毛利家が120万石の大名家として残された時、京へ簡単に行ける位置にいるので
肥後の加藤家の様に何か理由を付けて改易の憂き目になる可能性も有り得たと思う。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
全く同意です。 恐らく、あのまま残っていたら、老獪な家康か、その後の家光の時代くらいには改易の憂き目にあってたでしょうね。 最西端の山口に居たことが、幸いしたかも知れません。今後とも、宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
@@nariyoshimouri4104
>老獪な家康か、その後の家光の時代に…
可能性としては家光時代の方があったと思えますね。何せ加藤家ばかりか実弟である駿河大納言家迄容赦なく取り潰した「生まれながらの将軍」でしたから(我先にと家光に取り入った伊達政宗の行動はとても印象的)。
いわゆる田分け者を地で行く分藩を実行したみたいですが
そこら辺考察はどんな具合か気になります
本当に単純に可愛いから分け与えたって事なんでしょうか?
たわけ者とは、良く言ったものですね。そうかも知れません。 初代のわがままぶりは、文献にも残っております。相当、替地なども、だだをこねたようです。 ただ、4支藩が幕末に宗家とともに、果たした役割も大きかったことから、あながち間違いでもないのかも知れません。 今後とも、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
一門重臣家の家紋はどうだったんだろう?
恐らくなんですが、幕末でも使用している、ご宗家とは一の字が違う一文字三星を使用していると思います。
こんにちは、伊藤です。
就慶様に、質問が、有ります。
吉川元春には、息子達が、三人位いたと思いますが、長男の元長、次男の繁沢元氏、三男の広家ですが。
繁沢元氏は、西軍に付くのは、賛成したのかな?
こんにちは‼️
またまた、マニアックな質問。
はい、家を継げなかった次男さんですね、、、うーん。
宿題にさせてください🙇
私の母方の実家は家紋が一文字に三つ星です。しかし苗字が毛利ではありません。家紋の形としては、この動画の宗家と同じはらいだと記憶しています。苗字が違っても家紋が一緒なのはやはり毛利家と縁があるのでしょうか?家紋を調べており、この動画に辿り着き、疑問に思ったためコメントしました。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
家紋が同じとは嬉しいですね。
この三ツ星紋は、元々は渡辺紋とも言います。ので、渡辺系かも知れません、大江家の流れを汲む一族なら結構使っています。
この三ツ星紋は家紋の中でも古いので、きっと古い名族のご子孫なのでは?⤴️⤴️⤴️
豊川稲荷様が護っている寺院の、入り口の、門の提灯は、丸に抱き沢瀉。寺院内の仏間の幕は、抱き沢瀉です。つまり、入り口は表紋、室内は裏紋です。此のような形式は毛利家のどちら様かの御家に関係が、あるのでしょうか??…ご教授願えれば、有難いです。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️いま、出先なので確たる返事は出来ませんが。 まず、毛利家のオモダカ紋は長門オモダカと言って、一般のオモダカとは違います。オモダカ紋は日本でも代表的な紋でもあり、多々使われております。 それと、毛利家ではオモダカを丸で囲むこともないので、残念ながら関係は薄いかもしれません。 でも、興味があるので自分なりに豊川稲荷の件、調べてみますね‼️
毛利先生、ご回答有難う御座いました。此れからも楽しみに視聴サせていただきます。
@@さぶサンツオ 私は、とてもとても先生などと呼ばれる者ではございません。是非、今後とも宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
毛利元就が一番好きだな
あとは隆元も好きだな
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
元就と隆元が好きとは、嬉しい限りです!
元春でもなく、隆景でもないところが、嬉しいです。
大河の時の俳優さんがみんな好きだからなのもあるし
よくぞ国人から中国地方統一したのがすごいなと思いました
毛利の末裔です、なので親戚ですね!
我家も毛利家の家臣で家紋は丸に沢潟紋です
それぞれの石高も記載が有ったらよかったのに。😉
と思いました。
それは、確かにそうですね‼️ 有益なご指摘ありがとうございます⤵️⤵️⤵️ 今後とも、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
一門八家もそれぞれ違う一文字三ツ星だったんですかねー?(宍戸、益田、福原除く)
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
一門の家紋は、恐らく宗家とは違う、共通の一文字だったと思うのですが、ごめんなさい。そこまで、正確なお答えができなくて‼️
ありがとうございます、やっぱりちょっとずつは違う感じなんですね、おそらく
裏門にはそれぞれが養子に入った家紋とか使ってたのかな…少し調べてみようと思います。
徳川の葵御紋とかも家だけではなくて将軍ごとに違ったりと、細かなところですがやはり家紋は面白いですね❗️
沢瀉紋を描く前におっしゃっている。
恥ずかしい、どういう意味でしょうか?
ご質問ごもっともです。 あれは、私に絵心が全くないので、上手く書けないことを恥じたものです。 今後とも、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
渡辺星と思ってました
沢瀉は輝元公の嫌いな福島正則の紋でもありますね
抱き沢瀉ではありませんが
元は、渡辺星です‼️合っています。
その辺は、どこかでまた、お話ししたいと思います‼️
昔、中日にいたゲーリーは無関係ですか?
一文字と三つ星の意味を教えてください。オリオンの三つ星説は本当なのでしょうか?
この紋は大変古く、自然や宇宙を表した紋に違いはありません。 我々の解釈では、人に先駆ける一番槍の一文字。 に勝利の星、三ツ星となっております。すみません⤵️⤵️⤵️ 調べる時間がなくて、お許しください。
これ見て実は信長の野望に毛利就隆公いらっしゃらないかと探してしまいましたw(残念ながらお兄さんしかいなかった)
そうなんですよ(涙)
でも、兄の秀就は出てくるんですね👍️
@@mourihistory 関ヶ原や大坂の陣などの後期年代のシナリオやオールスターキャストで争うシナリオではきちんと出てくるみたいです。
少しだけ武勇に優れているくらいで武将の見た目が何とも言えないことになってます(苦笑)
面白そう‼️ RUclipsでやるのも有りかもしれませんね(笑)
@@mourihistory ぜひw
ただ、オールスターキャストのシナリオだと両川が独立してしまっているので戦う羽目になる可能性が高いです。
ええええ、、、、。
母方の家系で長州藩の武士の娘さんと奉公の男の人が駆け落ちしたそういうことが昔あった と聞いてたんですけどよろしければわかれは返答ください母親は山口県光市出身です
幕末の長州の強さはどうしてできたのでしょう。幕府が2回も長州征伐軍を起こしたのに倒せなかった。わずか30万石の西国の大名に、最後は薩摩が与したにしては途方もない戦いを行った。尊王攘夷の急先鋒で英国とも戦った。朝廷を敬い、天皇のもとでは幕府も藩も同列に考えていたのか、面白い時代です。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️そうですね。長州はあれだけコテンパンにされて、明治維新の立役者になれたのは本当に、ある意味凄いことです。
吉田松陰、高杉、大村益次郎などの神がかった天才もそうですし、当時の藩主も色々と言われてますが、英君だったとも思います。 因みに、長州は幕末には100万石の石高になっていたと言われ、秘密の会計局の貯金は数百万両に達していました。
そんな、お話しも今後はしていきたいと思っておりますので、逆に色々と教えて下さい。宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
@@nariyoshimouri4104
山口県はどうみても平野が少なく、江戸の初期の石高の3倍も増やすことができたのですか。確か江戸時代には長州藩内で珍しく飢饉で農民一揆もあったような地域もありませんでしたか。薩摩のように琉球を抑えて朝貢貿易の利益があったわけでない。実に100万石もあっても、幕末に京都での活動費は結構な出費だったと思われます。不思議なものです。
イギリスの支援はあったのですか?
@@nowhereman5621 メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️ あの戦争はフランス対イギリスの代理戦争でもありましたから、その様な面も多分にあったと思います。 長州は相当な金額を支払って武器を購入してましたから、イギリスにとって上客でもあったでしょうね‼️
正妻美伊姫様が心労が祟って48歳で亡くなり、数年後、正妻はおかないが側室を迎えたのは、私知っています😊
元就には、娘が1人か2人いたはずですが、長女が宍戸氏に輿入れされたまで、わかっています🤔
毛利家が安芸広島県と山陰など100万石以上だったのが3分の1の山口県に押し込められたのと同じく、上杉も、会津120万石だったのが4分の1の山形県米沢藩に押し込められたと言うよりも、生き残りのため、苦渋の決断でしょう😢
隆元の奥方様が大内義隆の側近内藤○○の娘寿子で、輝元の母でもありますよね~😊
輝元の奥方様が従姉妹だったような気がしました😅
それと、幕末で、孝明天皇の側室で、明治天皇の実母中山慶子の弟中山○○が暗殺されて、下関市辺りに中山神社があるみたいですね~☺️
去年の夏、安倍晋三元首相が暗殺された話を聞いていますが、父上の安倍晋太郎氏が眠る墓は山口県でも、毛利氏の菩提寺と関係ありますかね~🤔
色々と良くご存じで驚いてます‼️
中山卿の話は、長府毛利家ではタブーとされていますね。。。
安倍さんの家は、元々は東北からみたいで後に毛利家の代官職になりました。
吉川家が毛利宗家からそう言う扱いをされていたとは。吉川広家は辛かったでしょうな。
メッセージありがとうございます。広家の気持ちを察するに余りあります。 今なお、吉川家も続いてることがせめてもの救いかと。
今更ながら過去の動画にコメントを差し上げます事お許し頂きたく。頓首恐縮。
就慶公夜分遅くに失礼致します。
いや長州入封後の毛利家分家藩設立非常に勉強になりました。ありがとうございます。
あれこれ長文・ヨタ話を捧げてお邪魔しているくせに長州毛利家分家立藩について知らざる所恥じ入るばかりでございます。
而して秀秋公急逝お世継ぎ無しを持ってお家断絶。その前に猿面冠者の血脈を毛利本家に入れるのを忌避した末に隆景公が引き取った。
というお話は些か不思議に感じる。大変無礼な物言いでお許し頂きたいのですが。近年秀秋公と関ヶ原の戦い。
はなから後継養子にされながら秀吉が国松・秀頼が産まれた所で疎まれ豊臣後継者から外される事になり、
豊臣家自体に怨恨。初手から東軍家康に加勢の密約をしていた。また戦場は関ヶ原ではなくその手前の街道筋赤坂宿にて
西軍参謀長にして戦のキーパーソンである大谷吉継の軍勢を早くに壊滅させ、既に合戦開始数時間で東軍勝利の道を開いたとわが故郷温泉の郷
別府大学白峰旬教授が提唱しております。
小早川秀秋という人物。敗戦後の上杉家お家存存続に手助けした事もあります事、朝鮮出兵の折にも大将自ら先陣掛けした経緯をみますと単なる
粗忽者とはちと考え深く、隆景公が養子に迎えたのもただ猿面冠者の回避策では・・・と疑問が残る愚考がございます。
また秀元公が毛利家総帥であったにも関わらず吉川広家公に謀られて関ヶ原で軍を動く事止める策謀に乗せられた。
この様な事を申しては無礼千万で誠に恐縮でございますが、高祖元就公の様に権謀術算に秀でた長者であるなら古狸徳川家康とも劣ることなく
対等に渡り合えたでしょうが、正直・・・お二人は「善人」・・・敢えて皆まで申し上げる事憚りますが、そういう所でございますので
広家公はそういう実情を見越してお家存続に為に敢えて家康に歯向かう道を回避したのではないか。
戦国の世の中ではお家存続が必至。家康にあれこれ騙されましたが何とか毛利家を守る事だけはやり遂げた。
例え本家に領地減縮。萩の三角州の小城に押し込められた事を恨まれようとやるべきことは尽くした。しかし元就公より続く版図は残す事能わず。
あやふやな記憶で申し家ございませんが、輝元公がお亡くなりになられた数か月後広家公も急逝している。恐らく全一切の責任と自責にあたり追い腹を
詰めたのではないか?
悲しくも切なく。しかしながらその後倒幕の260余を生き抜いた長州毛利家の家督体制による江戸時代を生き延びたその姿に後世に続く礎を築した
その姿に感涙を隠し切れません。
ん?しかし…そうなると、毛利家が藩主の国となると…
1.萩藩(所謂、長州藩)と…
2.徳山藩(周南)と…
3.長府藩(下関)と…
4.清末藩(同じく下関)の四家になりやしませんかね?
又、岩国藩は吉川家が藩主だけど毛利家とは強固な姻戚関係だし。
ご指摘ごもっともです‼️
清末家は、長府からの又別家だったので、あのようなタイトルにしてしまったのかと、、、 良くコメントをしてくれる、清末のご当主に叱られますね(怖)
@@mourihistory 様へ…
ところが下関市唐戸に住む毛利家ファンによると「清末毛利家が長府毛利家よりも上」と真顔で言う表現になるみたい(笑)。
なので勿論「えっ!清末藩は長府藩の支藩ではないの?つまり清末藩は萩藩の支藩の支藩だよね」と言うツッコミは絶対に入れられません。そんな事で嫌われても大損なので(汗)。
ちなみに僕は高校時代3年間を防府市内で過ごしたので当然、右田毛利家(旧男爵家)がキチンと残って居たら良いな、という願望が有ります。
そうなんですね‼️ 再来月に「長清会」という、両藩の関係者が一同に集う会が下関であり呼ばれておりますので、その際に聞いて参りますね。動画も撮れたら(笑)
右田のご当主は、ご健在ですよ。地元の企業の重役を退任されて、今はローカルテレビ局の役員になっておられます‼️
毛利家からは、政治家は、出ていないのですか
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
どちらかと言うと、毛利家は公共事業に関与していたことが多いです。当家も宗家も国鉄の設立、銀行の設立等に寄与していました。宗家の8男が西園寺家の養子に行かれた事くらいですかね。 勿論、貴族院議員は何人かおります。
おー!毛利家専門チャンネルでスカイ?
宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️👮
私の母方の祖母は、尼子家の武将の末裔なのですが、その祖母のひぃおばあちゃまは、毛利家の宗家からお嫁に来た方だと聞いております。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
それはそれは、ご縁ですね。 確か、尼子家の末裔は佐々木さんとして残られていたと思います。 宗家からお嫁さんとは‼️ 今後ともこれをご縁に宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
@@mourihistory 様、私も佐々木流の家と聞いております。
また、父方は、東北南部家の家老家・四天王家です。
これから、どうぞよろしくお願い致します。
へー!すごい話です。「へー!」150回ですわ!
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
誉めて貰えて、やる気が出ました‼️
by 就慶 (笑)
母方の御先祖が毛利家より家紋の半分をいただいています
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
それは、興味深いお話しですね‼️
一文字三ツ星紋の半分でしょうか。
@@mourihistory そうです。
一文字とその下に星一つです
仙台伊達家の本家仙台藩とは別に正宗の長男の伊達宇和島藩が有る
その分家の伊達家吉田藩も有る!宇和島城は創建当時からの400年の城🏯が今も有る!
流石、奥羽の覇者であり、名門伊達家ですね。 政宗公の慧眼も素晴らしかったと思います。それが、徳川政権でも大きな存在足り得たんでしょうね。
はい、宇和島には吉田藩もあり瀬戸内では大藩の一つですね。 宇和島でも、吉田との確執は同じようにあったみたいですね。
これからは、他家の勉強もしながら動画にしていきたいと思います。
@@mourihistory 返信ありがとうございます
伊達宇和島藩藩祖となるべく長男秀宗のお目付け役として正宗公の命に寄り
お供した重臣を意見の違いで、斬って捨てて本家仙台藩と伊達宇和島藩の御家騒動も有りました!
その重臣の鎮魂の為に建立されたのが和霊神社⛩️だそうです!
ちなみに、学校の歴史の教科書に載っている豊臣秀吉座像の肖像画は宇和島市の伊達博物館に有ります!
当主は東京に住んでいらっしゃるそうですが!私も、もっと日本の歴史を学んで行きたいと思います!
小早川秀包系毛利家『』
毛利です。メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️ 彼は是非とも取り上げなければならないと思っております。 小早川家を継ぐ身で、尚且つ人望も篤かった彼のことは不憫でなりません。 その代わり、毛利家一門の祖となっております。今後とも、宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
本物っぽいな。
吉川家は、馬の山の戦い、備中高松の戦い、九州出兵、関ヶ原の戦い、全て毛利家の優柔不断な決断で窮地になっており史実上、苦汁を舐めています。
はい。おっしゃる通りです。 吉川家があってこそ、毛利が生き残れたことは間違いありません‼️
@@mourihistory 毛利当主様に、無礼な言動でした事、深くお詫び致します。吉川家の思いと無念を世間に少しでも知って頂きたく、投稿しました。此からも毛利一族の素晴らしさを世に広めて頂きたいと思っております。チャンネル登録しました。応援しております。
よく続いたな!毛利!遠祖は、大江匡房、そして鎌倉幕府の政所別当たる大江広元!
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
本当に、先人のお陰でなんとか続いております‼️
ウチの家紋は、毛利家とは逆、上が三ツ星で下が一文字です。
ネットで検索すると「丸に渡辺星」となっていました。
…オヤジは「団子三つに箸」とか言ってますが…(^^;
メッセージありがとうございます‼️
はい。それは、まさしく、渡辺三星ですね。元を正せば、繋がると思います。今後とも、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️
裏切り者 腰抜けで有名な 毛利家ですなぁ 島津を見習って勇猛果敢に戦ってほしかった
そう言われても仕方のない所があります。
島津さんの、武勇は本当に素晴らしいですね。