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難しいことはよく分からないが、普通に村上春樹の小説は面白いと感じる。『ダンス・ダンス・ダンス』以前と以降で作風がガラッと変わるけど、どちらにも良さがある。以前なら『風の歌を聴け』、以降なら『1Q84』が好きです。私は世間の下馬評とは違って、文体が好きですね。
初期の作品以外は村上春樹を読まなくなっていましたが、なぜかこの作品だけは読みました。たまたまタイトルに惹かれて手にとっただけかもしれません。そのせいか、話の内容はほぼ忘れてました。ナカタと言われて、たしかにそんなのがいたなと思い出す程度。話の結末も覚えていない。それでこの作品、また村上春樹を語るのもおこがましいかぎりですが、昨日の朝、目覚めたときにちょっとした妄想が浮かんだので、記録の意味でコメントしておきます。それは「はたして村上春樹は論理的なんだろうか?」という疑問です。村上春樹が何か目的なり主題なりをもって書いている感じはしないんですよね。まあ、ぼんやりした主題のようなものはあるのかもしれません。しかし、その主題を論理的に展開しているとはいえないのではないか。むしろ、村上の基本スタンスとしては、論理の否定というのがあるんじゃないか。論理的な展開では読者に予測されてしまうこともあるでしょうし、なにより、論理的なものへの拒否感が表現行為そのものの核にあるのではないか。では、「論理」でなければなんなのか。「構造」のようなものではないか。構造なり状況設定なりをしておいて、その中で自然に発生する思考、行為、事件などを観察して記述するとでもいうか。決まった譜面を演奏するのでなく、その場の気分や掛け合いでアドリブで演奏するジャズのようなイメージで。元々、ジャズ好きでジャズ喫茶をやってたわけだし、その方法論を文学に応用しようという意図は明らかにもってますよね。『ノルウェー…』の場合は、ビートルズでしたが。さらに、そもそもなぜジャズかといえば、60年代のカウンターカルチャーとかの影響もそれなりにはあったんじゃないでしょうか。「壁に卵を投げつける」みたいなかんじといってもいいかもしれませんが。そして「構造」といえば、「構造主義」ということにもなりますね。「構造主義」には西欧近代に対するカウンターという側面があるわけで、当然、西欧近代が標榜する「論理性」に疑義を呈することにもなるでしょう。論理性以外にも主体性とか進歩主義とかいろいろあるでしょうけど。さて、村上春樹が登場してきたのは80年前後だったと思いますが、60年代が実存主義、70年代が構造主義の時代だったとすると、文学も意図するしないに関わらずその影響を受けてはいたでしょう。そこで、話変わってガルシア・マルケスの『百年の孤独』の話になるんですが、あれも「魔術的(マジック)リアリズム」とか言われてましたよね。たしかに空からいろんなものが降ってきたりするのは魔術的ではあります。最近、文庫版が出たということで、よく売れているというのを聞きますね。さらに次の『予告された殺人の記録』も文庫になるとか。この2冊については似たような共通する「構造」があるような気がするんですね。私なりに単純に図式的に言ってしまえば、それはすべての出来事が予告されているということ。予告されているということは、繰り返し起こりうるということであり、それは「円環的構造」をもつといってもいいでしょう。西欧近代が「直線的構造」をもつのに対して、「円環的構造」を持った別の世界も存在するというのが構造主義のひとつの主張でした。進歩を旨とする資本主義社会が「熱い社会」だとすれば、伝統的な循環型社会は「冷たい社会」だと言われたりもしました。ノーベル賞委員会も『百年の孤独』選定にあたっては、そのような時代の流れを考慮していたものと、後知恵では考えますが、当時の書評などで、そのようなことが言及されていたのだろうかと気になります。そこで『海辺…』に戻ります。この作品では、『オイディプス王』が基本構造にあるらしいですが、『源氏物語』『雨月物語』あるいは夏目漱石の作品なども主要なモチーフとして描かれているようですね(当然、完全に忘れてましたが)。雑な言い方をすれば、伝統的な日本そのものへの回帰とでもいうか、日本人のアイデンティティを考えてみようといった意図が見え隠れするような気もします。昔の人は今のように計算高く生きていたわけではなく、祖先なり、妖怪なり、怨霊なりを、リアルに自身の回りに感じて日々を生きていた。村上自身もこの小説の頃はもういい歳になっていたはずで、カウンターばかりではしょうがない、自身のアイデンティティを確立することが肝腎であるみたいなかんじになってたんでしょうかね。当然、時代的にも20世紀末のバブルも弾けて、いったいこの世界の資本主義はどこに行くんだといった背景もあったとは思われます。直線的世界から円環的世界へといった見方もでてきていたでしょう。200年ばかりの間続いてきた論理主義、進歩主義、主体主義もこの辺りで少し見直して、改めて新しい世界のありかたを考えてみましょう的な雰囲気はあったような気もします。それが2024年になって「マジックリアリズム」という形でまた話題になるのも悪くないというか。村上自身についていえば、若い頃に卵を投げつけていた相手の歳になってきてもいたわけですしね。資本主義において卵を投げつけられる側になってしまった。オイディプスでなく、オイディプスに殺される父親の側になってきたわけだ。そのようにして人間の社会は同じことが繰り返されるもの。だから、『オイディプス王』が基本構造として選ばれた、ということじゃないですか。
私もどちらかと言えば苦手です(なぜ苦手か掘り下げてみたことはありません。)なぜか短編集は大好きです。『中国行きのスロウ・ボート』とか『女のいない男たち』『パン屋再襲撃』『レキシントンの幽霊』は何度も読みます。長編では『アフターダーク』とか『スプートニクの恋人』が好きです。
村上春樹は、実存主義的なんですね。なるほど。文体の好みじゃないかと思います。私は、どんなに評判のよい漫画でも、画風が嫌いなものは、読まないです。
誤解が解けてよかったよかった。有名税だとは思いますが昨今頻繁に村上春樹を叩けば通みたいな風潮を目にしていたのでその薄さを苦々しく思っていました。あるいは村上春樹の感性に強く共鳴してしまう人はかえって反発を覚えるのかも。人間の嫌悪感は嫉妬や愛憎の場合が多いですし。時々駄作だなーと思うものもありますが、成功している作品はやはり現代の日本の作家で髄一の才能、面白さと思います。海辺のカフカ久しぶりに読み返したくなりました。
難しいことはよく分からないが、普通に村上春樹の小説は面白いと感じる。『ダンス・ダンス・ダンス』以前と以降で作風がガラッと変わるけど、どちらにも良さがある。以前なら『風の歌を聴け』、以降なら『1Q84』が好きです。私は世間の下馬評とは違って、文体が好きですね。
初期の作品以外は村上春樹を読まなくなっていましたが、なぜかこの作品だけは読みました。たまたまタイトルに惹かれて手にとっただけかもしれません。そのせいか、話の内容はほぼ忘れてました。ナカタと言われて、たしかにそんなのがいたなと思い出す程度。話の結末も覚えていない。それでこの作品、また村上春樹を語るのもおこがましいかぎりですが、昨日の朝、目覚めたときにちょっとした妄想が浮かんだので、記録の意味でコメントしておきます。
それは「はたして村上春樹は論理的なんだろうか?」という疑問です。村上春樹が何か目的なり主題なりをもって書いている感じはしないんですよね。まあ、ぼんやりした主題のようなものはあるのかもしれません。しかし、その主題を論理的に展開しているとはいえないのではないか。むしろ、村上の基本スタンスとしては、論理の否定というのがあるんじゃないか。論理的な展開では読者に予測されてしまうこともあるでしょうし、なにより、論理的なものへの拒否感が表現行為そのものの核にあるのではないか。
では、「論理」でなければなんなのか。「構造」のようなものではないか。構造なり状況設定なりをしておいて、その中で自然に発生する思考、行為、事件などを観察して記述するとでもいうか。決まった譜面を演奏するのでなく、その場の気分や掛け合いでアドリブで演奏するジャズのようなイメージで。元々、ジャズ好きでジャズ喫茶をやってたわけだし、その方法論を文学に応用しようという意図は明らかにもってますよね。『ノルウェー…』の場合は、ビートルズでしたが。
さらに、そもそもなぜジャズかといえば、60年代のカウンターカルチャーとかの影響もそれなりにはあったんじゃないでしょうか。「壁に卵を投げつける」みたいなかんじといってもいいかもしれませんが。
そして「構造」といえば、「構造主義」ということにもなりますね。「構造主義」には西欧近代に対するカウンターという側面があるわけで、当然、西欧近代が標榜する「論理性」に疑義を呈することにもなるでしょう。論理性以外にも主体性とか進歩主義とかいろいろあるでしょうけど。
さて、村上春樹が登場してきたのは80年前後だったと思いますが、60年代が実存主義、70年代が構造主義の時代だったとすると、文学も意図するしないに関わらずその影響を受けてはいたでしょう。
そこで、話変わってガルシア・マルケスの『百年の孤独』の話になるんですが、あれも「魔術的(マジック)リアリズム」とか言われてましたよね。たしかに空からいろんなものが降ってきたりするのは魔術的ではあります。最近、文庫版が出たということで、よく売れているというのを聞きますね。さらに次の『予告された殺人の記録』も文庫になるとか。この2冊については似たような共通する「構造」があるような気がするんですね。私なりに単純に図式的に言ってしまえば、それはすべての出来事が予告されているということ。予告されているということは、繰り返し起こりうるということであり、それは「円環的構造」をもつといってもいいでしょう。
西欧近代が「直線的構造」をもつのに対して、「円環的構造」を持った別の世界も存在するというのが構造主義のひとつの主張でした。進歩を旨とする資本主義社会が「熱い社会」だとすれば、伝統的な循環型社会は「冷たい社会」だと言われたりもしました。
ノーベル賞委員会も『百年の孤独』選定にあたっては、そのような時代の流れを考慮していたものと、後知恵では考えますが、当時の書評などで、そのようなことが言及されていたのだろうかと気になります。
そこで『海辺…』に戻ります。この作品では、『オイディプス王』が基本構造にあるらしいですが、『源氏物語』『雨月物語』あるいは夏目漱石の作品なども主要なモチーフとして描かれているようですね(当然、完全に忘れてましたが)。雑な言い方をすれば、伝統的な日本そのものへの回帰とでもいうか、日本人のアイデンティティを考えてみようといった意図が見え隠れするような気もします。昔の人は今のように計算高く生きていたわけではなく、祖先なり、妖怪なり、怨霊なりを、リアルに自身の回りに感じて日々を生きていた。
村上自身もこの小説の頃はもういい歳になっていたはずで、カウンターばかりではしょうがない、自身のアイデンティティを確立することが肝腎であるみたいなかんじになってたんでしょうかね。
当然、時代的にも20世紀末のバブルも弾けて、いったいこの世界の資本主義はどこに行くんだといった背景もあったとは思われます。直線的世界から円環的世界へといった見方もでてきていたでしょう。200年ばかりの間続いてきた論理主義、進歩主義、主体主義もこの辺りで少し見直して、改めて新しい世界のありかたを考えてみましょう的な雰囲気はあったような気もします。それが2024年になって「マジックリアリズム」という形でまた話題になるのも悪くないというか。
村上自身についていえば、若い頃に卵を投げつけていた相手の歳になってきてもいたわけですしね。資本主義において卵を投げつけられる側になってしまった。オイディプスでなく、オイディプスに殺される父親の側になってきたわけだ。そのようにして人間の社会は同じことが繰り返されるもの。だから、『オイディプス王』が基本構造として選ばれた、ということじゃないですか。
私もどちらかと言えば苦手です(なぜ苦手か掘り下げてみたことはありません。)なぜか短編集は大好きです。『中国行きのスロウ・ボート』とか『女のいない男たち』『パン屋再襲撃』『レキシントンの幽霊』は何度も読みます。
長編では『アフターダーク』とか『スプートニクの恋人』が好きです。
村上春樹は、実存主義的なんですね。なるほど。文体の好みじゃないかと思います。私は、どんなに評判のよい漫画でも、画風が嫌いなものは、読まないです。
誤解が解けてよかったよかった。
有名税だとは思いますが昨今頻繁に村上春樹を叩けば通みたいな風潮を目にしていたのでその薄さを苦々しく思っていました。
あるいは村上春樹の感性に強く共鳴してしまう人はかえって反発を覚えるのかも。人間の嫌悪感は嫉妬や愛憎の場合が多いですし。
時々駄作だなーと思うものもありますが、成功している作品はやはり現代の日本の作家で髄一の才能、面白さと思います。
海辺のカフカ久しぶりに読み返したくなりました。