第十八回 聲明の夕べ 『引声作法、例時作法(常行三昧)』

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  • Опубликовано: 24 сен 2024
  • 法 要:第十八回 聲明の夕べ 『引声作法、例時作法(常行三昧)』
    日 時:2024(令和6)年9月14日(土)
     天台座主第三世慈覚大師円仁(794-864)は、836年から847年に遣唐使として入唐する。その11年間の求法の旅により最澄の悲願であった密教を修学し天台密教を大成した。一方、唐代の仏教音楽である聲明(当時は梵唄と呼称していた)も修学し、帰朝後その秘曲と呼ばれる5つの主要音曲をそれぞれ5人の弟子に伝授している。ここに魚山聲明の伝承(血脈)が始まり、その弟子の一人、相応和尚(831-918)へと伝授されたのが引声念仏である。そして相応は、円仁没後その遺命によって、この引声念仏から『引声作法』を編纂し不断念仏を始めたのである。この不断念仏は平安末期から鎌倉にかけて発展し、その後江戸末期間頃まで行われていた極めて大がかりな念仏の法会である。時には、天皇や将軍が施主となり、国家の安泰や、追福を目的として営まれた記録が『吾妻鏡』などに見ることができる。その不断念仏は、各々三名の不断念仏僧から構成される一番衆、二番衆、三番衆、四番衆と呼ばれるグループが、交代しながら七日間昼夜不断でこの『引声作法』を修する法会である。またこの念仏会は、座すること無く専ら行道して修されるので、常行三昧とも呼ばれていた。
     さて、円仁が持ち帰った引声念仏は、五台山の念仏とも呼ばれ、唐代の五台山で修されていた念仏を比叡山に移したものだ。中国天台宗の祖智顗が始めた四種三味の一つである常行三味(七日及至九十日を期限として、阿弥陀仏の名を称え、阿弥陀仏像を囲繞し続け、見仏を期する止観の行である)は、唐代の弥陀信仰の興隆と共に発展し、特に五台山では法照の五会念仏と確合し、音曲念仏による常行三味がおこなわれていたと考えられる。円仁はそれを比叡山に持ち帰り諸弟子に伝えて常行三昧を始修するのである。同時に円仁は持ち帰った聲明の中、特に難解な引声念仏(引声による阿弥陀経、四奉請、合殺など)を相応に伝授し、それを元に『引声作法』を確定し不断念仏を始修するよう遺言したのであった。ここに、本来自行であった常行三味が、化他の行法へと転化した形跡を見ることができる。
     この『引声作法』から後に、『短声作法』『聲明例時』『例時作法切声』が編纂され、それらも常行三昧と呼ばれ天台宗の中心的作法の一つとなっていったのである。特に「例時作法切声」は「法華懺法切声」と共に、「朝に法華、タべに例時」として、比叡山の行者の日課として修されていくのである。
     浄土真宗の祖親鸞聖人は、その比叡山での修学時代、不断念仏僧であったといわれているが、それはまさしくこの『引声作法』を中心とした不断念仏の専門に修する僧であったことを意味している。もちろん「朝に法華、夕べに例時」を日課とされていたことも問違いない。
     さて、この不断念仏は、その後いくつかの流派に分かれるが、その中心である魚山流は昭和期には絶えていたようである。魚山法師故水原夢江師は、その晩年に『引声作法』の復元を完成され、平成版『引声作法』ともいえる聲明本を発刊された。しかし、その実唱は難解を極め、試行錯誤を繰り返したが、この度その一部の実唱復元が完成した。
     第十八回聲明のタべでは、まず復元が完了した『引声作法』のさわりの紹介と、『例時作法切声』の厳修とを企画した。いずれも浄土教の儀礼の源流であり中心となる法儀である。
    西六条魚山会

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