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セナは生前F1ドライバーとして一度はフェラーリに乗りたいと言っていたと伺った事があります。もしもセナはフェラーリに乗っていたらどうなっていたでしょうか?
凄く難しい予想ですよね...ジャン・トッド加入後(93年以降)でしたらトッドはセナ中心のチーム作りをしたと思います。それでもタイトル争いは早くて97年(現実のシューマッハの通りに当てはめると)、セナ37歳ですからね...。移籍フローとしてはウィリアムズに97年ころまで在籍し何度かタイトル獲得~フェラーリ移籍、2年ほど乗ってキャリア締めくくり、というのはありそうですよね🤔。もしかしたら2000年ホンダ復帰に合わせてBAR移籍、BARホンダ立て直しに尽力してたかもしれませんが😄。
そのエピソードに追随するエピソードですが、1991年にセナが乗っていたマクラーレン・ホンダMP4/6のマシンのシャシーが当時、1991年のフェラーリのマシン643にめちゃくちゃそっくりだったので、セナ自身「フェラーリに乗りたいけど実現出来ないから、マクラーレンチームに似たようなマシンを作ってもらったんだよ!!」・・・と冗談交じりに語っていたのを思い出しました。( ;∀;)
@@noriakitakahashi9888 ありましたね、その発言😅!あとセナは1990年(もしかしたら1989年かも?)の時点でフェラーリのシャシーのポテンシャルの高さ、逆にマクラーレンのシャシーコンセプトに限界を感じていたようですね🤔!
@@f1-b585 実際にセナ自身がマクラーレンのマシンのシャシーに限界を感じていた通り1992年のF1シーズンではウイリアムズ・ルノーFW14Bの性能の前にマクラーレン・ホンダMP4/7Aは全く歯が立たなかったですからね。モナコでの勝利が本当に奇跡で神がかってましたよね。(#^.^#)
@@noriakitakahashi9888 モナコの女神に愛されたセナでしたね!レース序盤~中盤を2位でしぶとく粘り強いレースが勝利に結びついた、というのが個人的には、どこかプロスト的のようで興味深かった所です!
色んなことがあったプロスト氏ですが現在でもセナ財団の会長を務め続けているって物語が、メディアがどんな報道をしても2人は生涯のライバル(戦友)であった証なんだなと思います。
亡くなる直前のウオームアップの時の「アラン。君がいなくて寂しいよ」は本心かもしれませんね☺
1994年に高校2年生とのことで私も同じ年です。これまで耳にする事無かった事実を多く知る事ができ、1つでも事実が異なる結果であればセナは今でも生きていたでしょう。今のF1についてセナ本人の感想を聞きたかったです。
懐かしい名前が沢山出てきて、とても詳しくて分かりやすい良い解説でした。おぼろげな記憶ですがターボチャージャーが禁止になり、アクティブサスペンションが解禁になったことで、F-1の地図が変わっていった時期だったと・・違っていたら御免なさい。私もサンマリノGPはビデオ録画をしながらリアルタイムで見ていました。レース後もフリーズしていました。その時、今宮純さんが号泣していたのを忘れられません。今更ですがセナと今宮さんのご冥福をお祈りいたします。
フェラーリ642に乗るセナを観たかった。もう30年近く前のことなのに、未だに色褪せない思い出。
日本だと、プロストとの確執やホンダとの関係ばかりが目立ちますが、そういった他チーム移籍やプロストとチームを組みたいという希望といったことなど興味深かったです。あのころは、今ほどF1マシンが成熟してないからこそ、ちょっとしたブレイクスルーやドライバーの優劣がレースを支配することができる時代、セナは誰よりも輝いていました。彼のベストレースと思えるものは人それぞれがあるかと思いますが、私にとって1993年のドニントンパークでの優勝だけは、これからもずっと忘れられないでしょう。
セナがプロストしか見ていなかったのは同感です。その後のシューマッハがセナしか見ていなかったように。
セナがフェラーリに移籍する可能性があったんですね、興味深く拝見しました。当時のF1は憂鬱な月曜日を寝不足でむかえてでも観ていました。セナが亡くなって以降はF1から遠ざかっていましたが、レッドブルとホンダがタッグを組んでから、20数年を経てまたF1を観るようになり、今はフェルスタッペンとセナを重ねて応援しています。
涙目で拝見させて頂きました。1994年のフジTVのF-1総集編で城さんがナレーションで語ってましたが、「アイルトン、君は本当に綺麗な人だった。」テレビ越しですが貴方を見れて、走りを見れて本当に幸せでした。
鈴鹿で観た(聴いた)コーナーというコーナーで響きわたる「セナ足」のホンダサウンド。一生忘れない!このサウンドはTVではわからない。現地で聴いた人だけが記憶に残るサウンドだ。
ですよね、小生も同感です。あと、マツダのCカーの、4ローターの独特な音も、生じゃないとわからない、いい音でしたね。
いいなぁ。誰か再現してくれないかな。
僕もシケイン席で生で見ていました!セナのMP4/5は4WSみたいにスルスルとコーナーを曲がって行った。あとランボルギーニの自然吸気エンジンの生音は凄かった!
@@y1003 あっ!ありますよ。セナの鈴鹿サーキットの予選スーパーラップを光りと音で再現したyoutube。是非探してみてください。河合ちゃんが涙して解説してた
セナがフェラーリに移籍していたらフェラーリお得意のお家芸(内輪もめ)で潰され、すぐに他チームに移籍していたと思う。
ラウダ、プロストもフェラーリ内部では強烈なプレッシャーがあることを後述してました。
常に勝ちへの焦りを感じる94年の事故もシューマッハの存在に焦りを感じていた結果なのかもしれないもしフェラーリでプロストと共に走れていたら勝ち負け関係なく満足してF1人生を終える事ができたのかもしれない
初耳な事が多く興味深く見させていただきました。セナにとってはプロストと同じマシンで勝ってタイトルを獲得するのが一番価値があるものだったんでしょうかね
94年5/1は僕も見てましたよフジテレビ、番組が始まるや否や今宮さんとかいきなり泣いてて何事か!と衝撃があった事ハッキリ覚えてますこの動画を観て、もうウィリアムズしか行く場所無かったんだと思うと切なくなりますねセナが今も生きてたらF1はもっと楽しくなってたと思います
ベルガー曰くプロストとスチュアートはセナの人生の中で一番嫌っていたドライバーとのことだけども、其でも一緒に走りたいというのはちょっと常人には理解しがたいことに感じる
もしセナがフェラーリに加入していたら、ここま「ホンダといえばF1」「セナといえばホンダ」という伝説が無かったかもしれないですね。
91年のフェラーリではセナ、プロストでも満足に勝てたかどうか・・・
92年ホンダに残留したからこそのモナコでの優勝だったと思います。94年にはセナと和解していたと、後年プロストは言ってましたよね。セナが認めた真のライバルはプロストだけだった気がしますね。プロストと同じチームで走りたかったのは、同じマシンでプロストに勝ちたかったからかなあ。
マクラーレンホンダへの移籍は、ロータスでセナと組んだホンダがセナを引っ張ってきたのが原因で、そのことでプロストは劣等感があったようです。1991年フェラーリ加入の試みは、プロストと同じマシンで走りたかったと言うより速いクルマに乗りたかったのだと思います。1990年度の時点でマシン的にはフェラーリ最強でマクラーレンは劣り、マクラーレンが両チャンピオンを取れたのはセナの腕とホンダのパワーのおかげという評判でした。1994年からウイリアムズに乗りたがったのはこっちは明確に速いクルマに乗りたかったから。1993年にサーキットでの歩きながらのインタビューでの「ホンダに戻って来て欲しいです」とセリフはいまでも心に残っています。非欧州のセナとホンダがソウルメイトというのは推測ではなく多分本当。当時読んだような記憶があります。セナが生きていて今のF1をどう語るか聴きたかったというのには激しく同意。イモラで例えドライバーとしての生命は絶たれても生きていて話を聞かせてほしかったというのは死去の報を聞いてから今の今まで一貫して変わらない気持ちです。セナは気持ちの温かい人でそのエピソードはいっぱい(自マシンを止めてクラッシュしたマシンに駆け寄る、怪我したドライバーの病床をグランプリ中に訪問など)なのでいい話が聞けたはず。それ以上に家族もガールフレンドもいたのに亡くなったのは本当に悔しいと涙がでてきた
わかりやすい!!凄いわかりやすいし、過去の事とかわからない事多いからこういう動画もっと見たいです!
何も考えず当時F1に熱狂していたので、凄く興味深い考察!見入っちゃいました(*゚▽゚)ホント…今セナがいたらモータースポーツは確実に変わってたんでしょうね✨
胸のすく解説がすばらしいです。どちらにも偏らない端的さはセナ様贔屓の者にはできません。
フェラーリとの交渉はマクラーレンへの揺さぶりをかける為て説が有力。
吉田健介様、そもそも当時のフェラーリ(今も変わらず!?)は完全なフォアザチーム(チームプレー)精神が求められる為仮にフェラーリに移っても無理だったと思いますね。
挙動にクセのあるFW16でしたが、ポルトガルのテスト風景を見てると、ロスメンズカラーに美しいマシン、映える黄色いヘルメット。モナコ鈴鹿でのセナの優勝が見たかった。
ロン・デニスは引き続きセナと契約したかったのですが、お金がなかった。ホンダがいた頃はエンジンは無償の上に、スポンサー料も貰っていたのが一転、スポンサー料もなくなりエンジン代も支払わなくてはならなかったから。
フェラーリもマクラーレンも支払いはマルボロですからね!(^-^)/
1991年は、まだホンダエンジンが最強だと思われていた時代でシャシーでフェラーリに追い越されても、ホンダが10気筒から12気筒エンジンにしてパワーアップするから、マクラーレンホンダが絶対王座の地位を取り戻すという見方もありましたからねぇ
そのシャーシですがターボが禁止されてからはホンダはマクラーレンのボディやシャーシ等にも大幅にメスを入れ性能や戦闘力を向上させてやるべきでしたね、そしたらマシンその物の総合性能でもフェラーリやベネトンは勿論ウィリアムズをも脅かす程のマシンに仕上がったかもしれないのに。
ちょうど89〜94の総集編録画を引っ張り出して見たあとにこの動画に出会いました。フェラーリと交渉していたことは驚きでしたが、セナはプロストというライバルを必要としていたのは明らかですね。事実94年は覇気にかけ、サンマリノでは無線でプロストに寂しいと直接伝えてましたしね。これは予定外の事だったそうです。また、プロストもセナを必要としていたと、のちのインタビューで語っており、相思相愛だった唯一無二のライバル関係だったのだと、改めて目頭が熱くなりました。
セナは勝つためには全力を尽くす。サーキット上でも、それ以外も。ただそれだけ。仮にセナのフェラーリ行きが実現していようが92-93年にあれだけウイリアムズの背中を見せられればどこのチームに居ようがウイリアムズのシートが欲しくて仕方なくなり結果、ライバル達をF1引退(プロストやマンセル)に追いやろうが、契約料無償だろうが違約金払おうがゴリ押しでシートをもぎ取って居ただろう。ただ、他の選択肢を進んで居れば94年に逝く可能性は低かったかもしれないが。
94年のサンマリノのFW 16の左前輪が手元にあります。ホイールは歪んでます。それからあの事故の凄さが感じられます。
持ってらっしゃるのですか?
色褪せないセナは永遠に最速。タイムは塗り替えられてもセナは超えられない
分かりやすいありがとうございます🙇🏻♂️
主さんとは2つ違いでしょうか?自分は高校卒業して新社会人1年目、出勤前にセナの死を知りました。いつもの始まり方では無かった放送でしたが、セナなら死なないだろうと寝たのですが・・・忘れられない朝になってしまってました。フェラーリと交渉してたと言うのは知りませんでした。「もし」フェラーリにと言うより事故死して無かったら、今のF1の姿ってあったんでしょうかね。ピットレーンの速度制限とかコックピット周りの安全対策等。生きていたら、セナとプロストがそれぞれにチームを運営してトップ争いしてたかもですね。
A.SENNAと同い年です。'88.'89と鈴鹿サーキットで生セナの走りを観ています。
当時のニュースや実際にどんなことがあったのかについて動画を作っていただきありがとうございます。自分が生まれたのはセナが事故死した後なので、当時のレースを実際に見たこともありませんし、後から出てくるニュース記事しか知りません当時の交渉事の背景には色んな人の思惑が渦巻いていたんですね
以外と短いセナの現役時代。未だに語り継がれる「記憶」もさる事に「記録」の凄さを感じます。もしがあるならば、どれほどの記録更新があったのか。最強シューマッハとの新たなる「記憶」も。今の流れと違う別次元のF1だったと・・・。
1993年を最後にプロストはF1現役引退しましたが、契約期間が残っていてフランク・ウィリアムズ卿から1994年もドライブして欲しいと打診されていました。しかもセナをチームメイトに迎えて。プロストは断りましたが、ウィリアムズ・ルノーでセナ・プロのコンビが実現していればマクラーレン代表のロン・デニスが烈火の如く怒り狂っていた事でしょうね。フランク・ウィリアムズ卿は1988年ホンダターボエンジンをマクラーレンに奪われた仕返しにプロストとセナの両方獲得してロン・デニスを見返したかったとも言われている?
90年以降、セナがプロストとチームメイトになることは厭わないと思っていたことは意外だったプロストからすればセナとチームメイトとして競い合うことは絶対に拒否だったんだろうけどセナ死後、プロストが言った「セナには僕が必要だった、僕を倒すというモチベーションが」はほんと1994年サンマリノで亡くなるまでのセナの走りにそう感じた
セナの根底にある感情は、唯一無二、自身と対等レベルの認識だったドライバーがプロストだったのは間違いないだろうね。その認識はプロストも同様の感情だったろうけどセナのF1でのモチベーション=打倒プロストこそ、自身がNo.1ドライバーである事の証明にもっともシンプルでわかりやすく、世界中のファンに知らしめる事に繋がると思ってたのだろう。プロストはキャリアの終盤に差し掛かってたのもあり、セナの異常?なまでの執着、執念に対して、マクラーレン時代での二の舞になるような環境に再び置かれるのは許し難い心境だったのも想像に難しくないね。
セナが亡くなった時、ピットのニューウェイが映し出されて、その表情から事故の原因を彼は知っていると気付いた。その週末に行われたステアリングシャフトの改造。私は89年か90年ティレルのアレジのステアリングシャフが破損した際に実物を間近に見た事があるが、驚くほど外径も肉厚も薄かった。その時F1の軽量化為の極限的設計と恐ろしさを感じた。
アレジのクラッシュは1990年鈴鹿予選1コーナーだった。決勝は出走せず。
セナとフェラーリの話題は、自分は当時よく聞いてました。今は無きF1GPXだったかな、それとも、なんかの映像だった気もするんだけどなぁ。。。あと、半分リップサービスでしょうけど、引退すると決めたら1年だけ延ばして、パスタの御礼にミナルディをドライブするよ、なんてのも聞いたことありますw
改めてセナのホンダ愛が浮き出たニュースでしたね。興味津々に見ました。仮にウイリアムズに加入しても天敵のマンセル&プロストに完全拒否されて94年以降に加入しかなかったのではと思ってます。
まあロータス時代ホンダを載せて欲しいとホンダの当時の桜井総監督に直談判したのはセナ自身だし88年90年91年とタイトルを取った恩もあるんでしょう
片や、その巧みなドライビングセンスでフェラーリを操りながらもチャンピオンにはなれなかったヴィルヌーブ…また天命とも言える才覚をしてもフェラーリには辿り着けなかったアイルトン…佳人薄命とは哀しきかな。ノーギャラでも良いからって、やっと手に入れたFW のシートも皮肉にも自慢のハイテク、アクティブサスは取っ払われた最早二級品。アレが付いてりゃ死なずに済んだのかもね?!😢
94年のセナは開幕から何処かモチベーションを欠いていたように感じます。もしもあのイモラでの事故がなかったとしても、シューマッハーにタイトルを奪われそのまま引退してしまったのではないか?と思います。
当時、高校3年でした。この動画を拝見して、時系列を改めて辿って懐かしくなり また当時の衝撃・悲しみを思い出しました。今、存命で現在のF1とホンダを見て何を思い何を話すのか?動画を拝見して、ふと思いを馳せました。しかし、大体の事は記憶してましたが、90〜91年のフェラーリの御家騒動の詳しい内幕までは知らなかったので鈴鹿でのプロスト撃墜やフィオリオ解雇の理由を聞くとなるほどなと感じました。
F1カーのテストで初めて乗ったのがウイリアムで最後もウイリアムとは…。
いろいろと情報はありますが、マクラーレンホンダの全盛時代にホンダのエンジン開発をシーズンオフに行っていたのは、アランプロストだけです。品は長期の休養とりエンジンの開発には一切携わっていないのです。だからこそプロストの言動になるのです。結局最後に神はアランプロストに味方を押し、アイルトンセナがこの世の人でなくなったのは当然だと思います
同意でございます。それと批判を恐れず申し上げますが、故意による接触を起こしたドライバーは、この世から失せる運命だったかもしれません。1990鈴鹿は、殺人行為です。現代のF1なら永久追放レベルですよ。
良い動画でした。
セナのFW16のステアリングはヒルのステアリングより一回り大きかったそんなウィリアムズは、セナの要求に大変苦労したらしい
切ないですね
結局ハイテクデバイス禁止が全てでしょう。セナと同じ時代を生きれて幸せです。
タイヤグリップが上がれば安全性も上がるだろうに、逆に全車アクティブサスにすれば良かったのにと思う。
@@specialconcorde そういう訳にも行かないんですよね全チームにハイテクを搭載しようとすると開発資金やら搭載資金やらで資金繰りが苦しくなるチームが現れてマシン性能の格差が酷くなってました。事実1988年89年時点で20チーム少々あった参加チームは15チームにまで減ってFIAとしては参戦する際にFIAに支払われる供託金収入の減少やウィリアムズの独走による観客動員・収入の低下する恐れがあった まあいわばFIAの金の亡者連中(モズレー&エクレストン)が認めなかったと思うし仮にハイテク禁止でなかったらセナが独走してたでしょう(いくらミハエルと言えども非力なフォード Zetec-R V8と当時最強と言われたルノーRS6 V10では燃費がいいフォードでも難しい)事実セナの死後マンセルを無理矢理CARTと兼走させたり イギリスGPの1件でミハエルを出場停止にしたり ベルギーGPで理不尽な失格にしたのも人気維持やミハエルの独走を抑え込むための苦肉の策だった(苦肉の策がなければどうなってたかはエンジンは違えど95年シーズンを見ればお察し……)
イモラ以降のウィリアムズでのシーズンの動き、フェラーリでのシーズンの動きは興味深いなぁ
セナ&アレジフェラーリ見てみたかったなぁ😭
フェラーリF92Aあたりから本当に酷かったですからね。マクラーレンにしても、セナとホンダエンジン頼りでマシン開発はほとんどしていなかったようですし。今セナが生きていれば、ホンダのファン感謝デーでマクラーレンホンダのマシンをドライブしてたんだろうなぁと想像してしまう。
若し当時セナやホンダの為に開発に開発を重ねていたらマクラーレンのマシンもニューエイ所属時のウィリアムズを脅かす位にはなっていたと思いませんか?
貴方のセナに掛ける思い感動致しました私も彼といくらも違わない歳ですのであの時は頭が白くなりました時が戻せるなら良いのに
同じような思いを10代から持ち続けております...。トラウマともまた違うような気がするのですが、セナを想うと1994年5月1日でまさに自分の中の時間が止まっている感覚なんですよね。本当にショッキングな事故でした...。
自分の中でセナの印象はマクラーレンが強いですがでも一番似合うのはフェラーリだと思ってます
フェラーリに乗るセナ。キャリアの最後はミナルディ云々は社交辞令だったのかな。
大筋は合ってると思うが、少し違う部分もあるかな。91年のフェラーリ入りはマクラーレンとの交渉を有利にしたかっただけでは?ホンダ撤退が決まってからは合ってると思う。フェラーリに乗りたいのは合ってる。ただプロストのチームメイトにこだわるのは違って、ベストレーサーは最強マシンに乗る資格があるとの考えだろう。知らんけど。
Senna o melhor de todos os pilotos
シンプルにFW16に乗らなきゃ死んでなかったね。今のF1をセナが見たらどう思うだろう?
彼はドライビングそのものを楽しむタイプのドライバーだったし、インディカーに興味を示したり当時のハイテクには半ば否定的だったから…今のフォーミュラーカーにはトキメかないんじゃないかなぁ?😰
ニューウェイが空力を無茶苦茶にしたからね、セナがテストで第一声が[このマシン嫌い]だからねぇ
あれだけ切望した念願のFW なのにね…
アクティブサスありきの空力だったのかな?禁止されたら途端に不安定化したという印象。第一声「嫌い」というのは、運命的な何かを感じたのだろうか?
エイドリアンは空力の鬼才とか渾名されてた程だから…逆にどっか1つのファクターが欠けるとバランス崩れてガタガタとかヨソのコンストラクターでも、そんなクルマがあったような?それまでタマタマ、パトリックの発想と上手く行ってただけのパッケージングに過ぎなかったのかな?w アイルトンは繊細な人だったみたいだし、第六感ってヤツで見抜けてたりして。…だったら尚の事、乗ったのが悔やまれるよね😭
7:05ウィリアムズチーム、若しこの時プロストを引き留めたかったならエンジンをルノーワークスから同じV10の無限ホンダやヤマハワークスにスイッチするとか出来なかったのだろうか。
ホンダは92年に撤退するのなら91年に伝えるべきですよね。92年ウイリアムズ移籍がベストでしたね.......
実はロン・デニスには91年の暮れにホンダから92年で活動休止することは聞いてました。
とするとチームメイトはマンセルか、うーん、どうだったでしょうね。
@@tomohayashi8343 マンセルの耳に入ったら騒いで出ていくか、破談になっていただろう、92年シーズンプロストウィリアムズ加入の時のように
92年からはウィリアムズルノーのレギュラーとして出ていたら上手く行けば5回はタイトルを取れていたと思いませんか?;^^
@@零チャンネル-i1f 92、93は圧勝、全戦ポールの可能性もあったと思います。94年はどっちにしても接戦だったでしょうね。セナ対シューマッハの世紀の対決を見逃してしまいましたね....
ナニーニの件は知りませんでした(笑)フェラーリ、ウィリアムズでのセナプロ対決 実現してたら 楽しかったでしょうね。ぶも社長 1994年 高2?もしかして 私と同じ年齢(笑)!!
結構、当時は有名だったよ。フィオリオは自身のチームで腕がチョン切れたナンニーニの為に改造されたラリーカーをテストさせたりしたよね。
昔のTV番組「生ダラ」で紹介していた「アイルトン・タカ・サーキット」が現在は草ボーボー廃墟状態との情報!日本で唯一、故アイルトンセナ氏の像でも置くべき場所!勿体ない!コロナ明けTOYOTA等に協力を求めカートレース場復活を!ヽ(`Д´#)
フェラーリに乗れないから、フェラーリに近い仕様のマクラーレンを作ったって解説が言ってたな、フェラーリ乗りたかったんだ、見たかった😔
お疲れ様です。ここまで調べて語って語ってる方は、あまりいないと思います。亡くなられたセナの美談と伝説を語る方は沢山おられます・・・
ん~、ホンダの時もよかったですが、1回、真っ赤なセナも見たかったです。
あの頃、セナがフェラーリに乗って引退したいって話は噂でよく上がっていましたが、本当に実現して欲しい話でした。セナはプロストと同条件で勝負する事をずっとしたがっていたんでしょうね。
Senha Brasil 🇧🇷 1991🏆🏆🏆🏆
結局自分の行動が返って来てるだけなんだよね常に自分本位で自分がNO1で無いと気がすまない駄々っ子のようなセナと組みたくないのはプロストじゃなくても当たり前「契約など有って無いようなものだ」とゴリ押そうとするのもそういうセナを象徴している態度セナとホンダが相思相愛だったのもあの当時ホンダが唯一無二の勝てるエンジンだったからに過ぎないセナの行動原理はどんなことをしても自分が勝つ、それだけプロストと組みたいというのもプロストの居るチームが一番勝てるという打算でしかない
セナに憧れレースを始めてカートコースを走ってたな、若い頃は夢は叶うと信じて生きていたのに、今は48になって34で死んだセナより長く生きてるのに、何も残せてない俺、、偉大過ぎるよセナは、
実はセナはプロストをリスペクト&尊敬していた、セナをマクラーレンに呼んだのもプロストだったにゃ!
移籍した理由初耳です。フェラーリが好きだったんですね。プロストが頑なに拒否しているのが興味深い。マクラーレン時代の確執か。ウィリアムズに移籍しなければ死なずに済んだと思うのですが。ブラジル出身と言えば丸坊主のサッカー選手を連想してしまうがセナはロン毛でカッコイイ。
今更ですが、セナ氏が1992年にウィリアムズ移籍が実現していたら、92年シーズンはもっとつまらないものになっていたかもしれませんね。マンセル氏の初タイトルと気性の激しいレース運びで辛うじて話題と人気はありましたので。
コメントありがとうございます。おっしゃる通りかもしれません、セナがFW14Bに乗ってしまったらマシントラブル以外のレースは全て勝っていたような気がします。ミハエル×フェラーリの2004年のような状態だったかもしれませんね...!
フェラーリに乗るセナを見て診たかった…
どうやら主さんと同い年みたいですね。セナと周りの契約は複雑ですね。1991年のホンダの説得に乗らなかったら…ホンダも翌年撤退するんだから無責任ですね
充実内容の動画で敬服です。あの89年の翌年、90年の段階でセナがフェラーリに移籍したい、「プロストと同僚で構わない」と判断していたとは初耳でした。これはプロストとは真逆の思考ですよね。あまり信憑性の無い事で知られる(苦笑)セナの元カノ・アドリアーナが語っていますが、セナは「93年はマクラーレンとの関係が悪化して移籍先を探していた。しかし、もう空きが無かったので1年休養すると言い始めていた。」と。ルノーがセナをウィリアムズにゴリ押ししたのはその辺を察知したからでしょう。つまり、セナはマクラーレン、フェラーリ、ウィリアムズだけでなく「1年休養する」という事すらもプロストの後を追いかけている。興味深いです。この動画で哀しいのは、結局エンツォ自身も、フェラーリチ―ムも、プロストどころかベルガーの方をセナより優先している、という事。94年4月27日にセナと話したモンテツェモーロも、どうせ口先だけで、いざとなればミハエルを優先した可能性が高いと思います。
実はセナはそのために90年のモンツァの後と91年のハンガリーで2度ほどプロストと和解会見をやってますが一回目は鈴鹿でセナがプロストを撃墜してご破算にしました。91年の和解はモンツァであっさりセナにプロストが前を譲ったこともあったため多少は効果はあったのでしょうがプロストとしては積年の怨みがあったので嫌だったのでしょうね
@@闇ペレス 91年の和解が本当の和解ですね。本田宗一郎が逝去した直後のタイミングだったのも功を奏したのか、建設的な話し合いが出来て、いい顔をしていました。で、2人きりだったこの会談の内容を「絶対に口外しない」という約束を両者守ってますね。セナはその後もプロストに対してメディアプレー的な発言はしたけど、この91年会談の秘密が破られない、というのが恐らくプロストには境界線だったのでは?と思います。同僚にならなかったのは、賢明な判断でしょう。自分はプロストファンなんてすが、プロストは別にセナを根に持ったりしてなかったと思いますよ。同僚でさえ無ければ良いだけで、その後のインタビューとか見てると、プロストは自分が28歳のセナをマクラーレンに推薦した事を自らの誇り、というか殆ど生涯の想い出にしていると感じます。
直線ではホンダのV12エンジンはルノーを上回っていた、と記憶しています。問題はシャシーであり、ウイリアムズがマクラーレンを完全に圧倒していました。 ところが、セナがテレビカメラに向かってホンダの技術者を侮辱するようなコメントを絶叫していたので、セナに焦りを感じました。 その焦りが1994年の大事故に繋がったのかどうかは、分かりません。
そのシャーシ等もホンダが大幅にメスを入れて問題を解決していれば総合性能でウィリアムズを脅かしていたと思いませんか?
セナは好きなドライバーではなかったけれど、フェラーリ、ウィリアムズでのセナプロコンビは観たかったな・・・
いい話を聞かせてもらいました。フェラーリのセナがいたら、もっと彼を応援できた。残念
まだ撤退決定前のホンダと袂を分ち91年から本気でフェラーリへ移籍するつもりだったのでしょうか?移籍していたらタイトルは獲れたのでしょうか?91年、鈴鹿での劇的なチャンピオン決定は見れなかったのか?…いろんな事が頭を過ぎります。
セナが生きていたら少なくともあと2回はチャンピオンになってただろうな・・・
一度でもいい、ウィリアムズ ルノーのマシンで優勝させたかったなぁ〜😔
運命の悪戯とは正にこの事ですね。
テストで好感覚だったランボルギーニエンジン改がマクラーレンに搭載されればセナの移籍はなかったのでは?資金が潤沢なプジョーエンジンを選んだためセナはマクラーレンを、ランボルギーニはF1を去ることになってしまった。
ランボルギーニかなんなら兄弟エンジンである無限ホンダでもよかった気がしますただ当時ワークスエンジンにこだわっていたマクラーレンと既にロータスとワークス契約を結んでいた無限ホンダは厳しかったかもしれませんが
そのプランが実現していたら世界に愛された稀代の天才がイモラに散ることは無かったかもしれません。
ランボルギーニと同じV12なら92年まで使用されてたホンダV12をベースに無限ホンダV12として94年シーズンを戦っても良かったと思いますが、如何でしょうか?^^
大変感銘しました。プロスト贔屓の僕としては、1990鈴鹿の故意による接触は、セナの精神的弱さを表していたと感じてます。接触後にロンデニスにも失望したと言われたはずです。現代のF1なら永久追放になるくらいの処分だったと思います。セナファンの皆様には、大変申し訳ございませんが、シューマッハとセナは、僕の主観となりますが、汚点を残したタイトルホルダーだと感じてます。
それを言うなら、89年の鈴鹿シケインでのプロストがやったことも同じでしょ。
@@noricom31 タイトル争いの中、多少強引でもインをさす。多少強引でもブロックする。両者に間違いはなかったです。言い回しは、多少違いますが、ケケロズベルグが、このようにコメントしてました。「あんな下手くそなブロックは、見たことがない。」「いままでフェアなレースしかしてこなかったから。」1990年と一緒にされてもまったく違いますよ。セナは、故意にぶつけたとのちほど語ってますしね。それと大変不名誉な危険なドライバーと称されているのは、シューマッハとセナのみです。
全く同感です。
正確にはグリッド位置の交換が認められなかったことによる不満が最も大きいと思う。当時の鈴鹿はPP側のグリップが低かった。現代までの話なら歴史上もっとも汚いチャンピオンはハミルトンだと思う。時点で半分巻き込まれた感があるけどアロンソ。不正がなければチャンピオンはなかった
@@noricom31 89年と90年のセナ・プロの接触は同じではないです。89年、プロストはセナとロン・デニスに「もう譲らない」と伝えています。これまでのように強引に抜きに来れば事故になるよと警告したのです。それでもインをこじ開けたセナと、宣言通り引かなかったプロスト。89年の接触は二人が起こした事故です。同じ89年、開幕ブラジルでベルガーに対してと、ポルトガルでのマンセルに対して引かなかったセナ。それと同じことをプロストはしたに過ぎません。警告もなしに一方的にわざとぶつけた90年の事故とは本質的に全く違うのです。
ウィリアムズに入りたくて、入ったんかと思いました!
ウィリアムズとフェラーリは在籍1.2年ずつぐらいで、一番融通の効くマクラーレンに帰ってると思うよ。
アイルトン・セナ。忘れることはできません。 今ごろ、今宮純さんに追いかけられているのかも。 ”あの、、もう僕は引退しているんだけどさ・・”とか。
歴史にifはないのは承知しているのだけど、1992年のオフシーズンのテストドライブで好感触を得たセナが1993年にインディカー(当時のチャンプカー)に乗っていたら?と考える事がある。インディアナポリスのブリックヤードやラグナセカのコークスクリューを駆け抜ける音速の貴公子の勇姿を見てみたかった……
フェラーリとはそれほどの存在なんですかね。ホンダは92年撤退したんだからしょうがないとして。
結局、私にはプロストと一緒に走りたかったのではなく、プロストのマシン開発能力に頼ったのではないか?だからオフシーズンに、ホンダのエンジン開発に携わったのは、プロストだけである。それはオフシーズンの4ヶ月は、若い子と称して一切のエンジン開発に携わらなかった。それが、プロストがセナを嫌っている原因にもなっているはずだ。
当時、マシン開発が出来たドライバーは、ピケとプロストだけと言う人もいますね。
こんな話しセナファンなら知っていると思いますが、当時フェラーリはドライバーは欧州人主体だったと思います。セナがブラジル人だったからでは?シューマッハがフェラーリに来てからは、あくまでセカンドドライバーですがバリチェロ、マッサがいますが。今でも基本F1は欧州主体なのでは無いのでしょうか。あくまでも個人の意見ですが。追加、当時F1と言えばフェラーリですよ。 今もかな 笑残念だけど日本人だから、F1=HONDA なのでしょうね。
引退したプロストにロンデニスがオファーしたよねMP4/9をテストしたプロストの答えはノーだったけどチームを入れ替わったセナプロ対決も見たかった
1994年のオファーをプロストに出していましたね、見てみたかったですね!セナはプロストに電話して「乗ってくれ」と直談判、プロストは「君のサンドバッグになるには役不足だよ」と伝えたようですね...テスト走行で乗ったMP4/9のポテンシャルに確信が持てなかったのでしょうね。
鈴鹿でプロストと接触したのは、プロストに対する怒りとありますが、セナがベルギーでマクラーレンと契約した後のイタリアでプロストと和解の握手をしているので、矛盾していないでしょうか?1990年のイタリアグランプリ後の動画も残っていますし、私も当時録ったビデオで見ています。セナがベルギーやイタリアでやるのなら分かりますが、和解後の鈴鹿でなぜ後ろから故意にぶつけた理由が未だ謎です。
謎も何もチャンピオン確定させるために決まっているでしょうわざとぶつけたのはセナ本人も認めているのだしセナはそういう協定破りを平気でやるドライバーだということはもっと知られてもいいと思うあまりに日本でおかしな方向に神格化されすぎている勝つためになんでもやるなりふり構わない駄々っ子のようなセナはメディアが作った「貴公子」なんていう薄っぺらいキャラよりずっと魅力的だと思うのだけど
91年からのウィリアムズは、明らかに空力に優れていた。ニューウェイがいたからね。92年は、空力に優れていたシャシーに、他チームにはないリアクティブサスが加わり空力を最適にしてくれたから、トップスピードも伸び、コーナーも安定していたからね。93年は、空力はよいが、マクラーレンにアクティブサスが付いたら、差が一気に縮まった。mp4/8に、重くデカいランボルギーニV12を積んだら、かなり速かった。94年はアクティブサスがなくなり、空力にすぐれたマシンだったけど、大きな差は出なかった。給油不正があったけど、差はなかったね。
マクラーレンのアクティブサスは、業界ではウィリアムズを凌いでいるとさえ言われていました。フットワークが、マクラーレンからアクティブサスを購入し搭載して以降、鈴木亜久里とワーウィックの予選順位が常にトップ10入りし、最高で5番手になりました。マシンの壊れやすさと鈴木の荒っぽさで、結果に結びつく事はありませんでしたが。
真実は誰にもわからない。
フライングラップ=予選最終アタックの神がかり的なタイムでのポール。ハッキネンのフライングフィンもここから来たんじゃないだろか。集中力がすげえ。
セナは、ハイテク大嫌いって言ってましたが、ハイテクマシンに乗りたかったの?
1991年はマクラーレンも落ち目だったがフェラーリはトラックまで落ちたからなー( *´艸`)
つまりセナもホンダの口車にのってしまったのか?
川井一仁氏によると、セナはウィリアムズのマシンを気に入ってなかったそうです。安定性に欠けると。結果論ですが、あのグランプリは赤旗中断すべきでした。セナファンとしては、サンマリノあとF1を見なくなったですね。
セナは生前F1ドライバーとして一度はフェラーリに乗りたいと言っていたと伺った事があります。もしもセナはフェラーリに乗っていたらどうなっていたでしょうか?
凄く難しい予想ですよね...ジャン・トッド加入後(93年以降)でしたらトッドはセナ中心のチーム作りをしたと思います。
それでもタイトル争いは早くて97年(現実のシューマッハの通りに当てはめると)、セナ37歳ですからね...。
移籍フローとしてはウィリアムズに97年ころまで在籍し何度かタイトル獲得~フェラーリ移籍、2年ほど乗ってキャリア締めくくり、というのはありそうですよね🤔。
もしかしたら2000年ホンダ復帰に合わせてBAR移籍、BARホンダ立て直しに尽力してたかもしれませんが😄。
そのエピソードに追随するエピソードですが、1991年にセナが乗っていたマクラーレン・ホンダMP4/6のマシンのシャシーが
当時、1991年のフェラーリのマシン643にめちゃくちゃそっくりだったので、セナ自身「フェラーリに乗りたいけど実現出来ないから、
マクラーレンチームに似たようなマシンを作ってもらったんだよ!!」・・・と冗談交じりに語っていたのを思い出しました。( ;∀;)
@@noriakitakahashi9888 ありましたね、その発言😅!あとセナは1990年(もしかしたら1989年かも?)の時点でフェラーリのシャシーのポテンシャルの高さ、逆にマクラーレンのシャシーコンセプトに限界を感じていたようですね🤔!
@@f1-b585 実際にセナ自身がマクラーレンのマシンのシャシーに限界を感じていた通り
1992年のF1シーズンではウイリアムズ・ルノーFW14Bの性能の前にマクラーレン・ホンダMP4/7Aは全く歯が立たなかったですからね。
モナコでの勝利が本当に奇跡で神がかってましたよね。(#^.^#)
@@noriakitakahashi9888 モナコの女神に愛されたセナでしたね!レース序盤~中盤を2位でしぶとく粘り強いレースが勝利に結びついた、というのが個人的には、どこかプロスト的のようで興味深かった所です!
色んなことがあったプロスト氏ですが
現在でもセナ財団の会長を務め続けているって物語が、メディアがどんな報道をしても2人は生涯のライバル(戦友)であった証なんだなと思います。
亡くなる直前のウオームアップの時の「アラン。君がいなくて寂しいよ」は本心かもしれませんね☺
1994年に高校2年生とのことで私も同じ年です。これまで耳にする事無かった事実を多く知る事ができ、1つでも事実が異なる結果であればセナは今でも生きていたでしょう。今のF1についてセナ本人の感想を聞きたかったです。
懐かしい名前が沢山出てきて、とても詳しくて分かりやすい良い解説でした。
おぼろげな記憶ですがターボチャージャーが禁止になり、アクティブサスペンションが解禁になったことで、
F-1の地図が変わっていった時期だったと・・違っていたら御免なさい。
私もサンマリノGPはビデオ録画をしながらリアルタイムで見ていました。レース後もフリーズしていました。
その時、今宮純さんが号泣していたのを忘れられません。今更ですがセナと今宮さんのご冥福をお祈りいたします。
フェラーリ642に乗るセナを観たかった。もう30年近く前のことなのに、未だに色褪せない思い出。
日本だと、プロストとの確執やホンダとの関係ばかりが目立ちますが、そういった他チーム移籍やプロストとチームを組みたいという希望といったことなど興味深かったです。
あのころは、今ほどF1マシンが成熟してないからこそ、ちょっとしたブレイクスルーやドライバーの優劣がレースを支配することができる時代、セナは誰よりも輝いていました。
彼のベストレースと思えるものは人それぞれがあるかと思いますが、私にとって1993年のドニントンパークでの優勝だけは、これからもずっと忘れられないでしょう。
セナがプロストしか見ていなかったのは同感です。
その後のシューマッハがセナしか見ていなかったように。
セナがフェラーリに移籍する可能性があったんですね、興味深く拝見しました。
当時のF1は憂鬱な月曜日を寝不足でむかえてでも観ていました。セナが亡くなって以降はF1から遠ざかっていましたが、レッドブルとホンダがタッグを組んでから、20数年を経てまたF1を観るようになり、今はフェルスタッペンとセナを重ねて応援しています。
涙目で拝見させて頂きました。
1994年のフジTVのF-1総集編で城さんがナレーションで語ってましたが、
「アイルトン、君は本当に綺麗な人だった。」
テレビ越しですが貴方を見れて、走りを見れて本当に幸せでした。
鈴鹿で観た(聴いた)コーナーというコーナーで響きわたる「セナ足」のホンダサウンド。一生忘れない!
このサウンドはTVではわからない。現地で聴いた人だけが記憶に残るサウンドだ。
ですよね、小生も同感です。
あと、マツダのCカーの、4ローターの独特な音も、生じゃないとわからない、いい音でしたね。
いいなぁ。
誰か再現してくれないかな。
僕もシケイン席で生で見ていました!セナのMP4/5は4WSみたいにスルスルとコーナーを曲がって行った。あとランボルギーニの自然吸気エンジンの生音は凄かった!
@@y1003 あっ!ありますよ。セナの鈴鹿サーキットの予選スーパーラップを光りと音で再現したyoutube。是非探してみてください。河合ちゃんが涙して解説してた
セナがフェラーリに移籍していたらフェラーリお得意のお家芸(内輪もめ)で潰され、
すぐに他チームに移籍していたと思う。
ラウダ、プロストもフェラーリ内部では強烈なプレッシャーがあることを後述してました。
常に勝ちへの焦りを感じる
94年の事故もシューマッハの存在に焦りを感じていた結果なのかもしれない
もしフェラーリでプロストと共に走れていたら勝ち負け関係なく満足してF1人生を終える事ができたのかもしれない
初耳な事が多く興味深く見させていただきました。セナにとってはプロストと同じマシンで勝ってタイトルを獲得するのが一番価値があるものだったんでしょうかね
94年5/1は僕も見てましたよフジテレビ、番組が始まるや否や今宮さんとかいきなり泣いてて何事か!と衝撃があった事ハッキリ覚えてます
この動画を観て、もうウィリアムズしか行く場所無かったんだと思うと切なくなりますね
セナが今も生きてたらF1はもっと楽しくなってたと思います
ベルガー曰くプロストとスチュアートはセナの人生の中で一番嫌っていたドライバーとのことだけども、其でも一緒に走りたいというのはちょっと常人には理解しがたいことに感じる
もしセナがフェラーリに加入していたら、ここま「ホンダといえばF1」「セナといえばホンダ」という伝説が無かったかもしれないですね。
91年のフェラーリではセナ、プロストでも満足に勝てたかどうか・・・
92年ホンダに残留したからこそのモナコでの優勝だったと思います。
94年にはセナと和解していたと、後年プロストは言ってましたよね。
セナが認めた真のライバルはプロストだけだった気がしますね。
プロストと同じチームで走りたかったのは、同じマシンでプロストに勝ちたかったからかなあ。
マクラーレンホンダへの移籍は、ロータスでセナと組んだホンダがセナを引っ張ってきたのが原因で、そのことでプロストは劣等感があったようです。
1991年フェラーリ加入の試みは、プロストと同じマシンで走りたかったと言うより速いクルマに乗りたかったのだと思います。1990年度の時点でマシン的にはフェラーリ最強でマクラーレンは劣り、マクラーレンが両チャンピオンを取れたのはセナの腕とホンダのパワーのおかげという評判でした。
1994年からウイリアムズに乗りたがったのはこっちは明確に速いクルマに乗りたかったから。1993年にサーキットでの歩きながらのインタビューでの「ホンダに戻って来て欲しいです」とセリフはいまでも心に残っています。
非欧州のセナとホンダがソウルメイトというのは推測ではなく多分本当。当時読んだような記憶があります。
セナが生きていて今のF1をどう語るか聴きたかったというのには激しく同意。イモラで例えドライバーとしての生命は絶たれても生きていて話を聞かせてほしかったというのは死去の報を聞いてから今の今まで一貫して変わらない気持ちです。セナは気持ちの温かい人でそのエピソードはいっぱい(自マシンを止めてクラッシュしたマシンに駆け寄る、怪我したドライバーの病床をグランプリ中に訪問など)なのでいい話が聞けたはず。それ以上に家族もガールフレンドもいたのに亡くなったのは本当に悔しいと涙がでてきた
わかりやすい!!
凄いわかりやすいし、過去の事とかわからない事多いからこういう動画もっと見たいです!
何も考えず当時F1に熱狂していたので、凄く興味深い考察!見入っちゃいました(*゚▽゚)ホント…今セナがいたらモータースポーツは確実に変わってたんでしょうね✨
胸のすく解説がすばらしいです。
どちらにも偏らない端的さはセナ様贔屓の者にはできません。
フェラーリとの交渉はマクラーレンへの揺さぶりをかける為て説が有力。
吉田健介様、そもそも当時のフェラーリ(今も変わらず!?)は完全なフォアザチーム(チームプレー)精神が求められる為
仮にフェラーリに移っても無理だったと思いますね。
挙動にクセのあるFW16でしたが、ポルトガルのテスト風景を見てると、ロスメンズカラーに美しいマシン、映える黄色いヘルメット。モナコ鈴鹿でのセナの優勝が見たかった。
ロン・デニスは引き続きセナと契約したかったのですが、お金がなかった。
ホンダがいた頃はエンジンは無償の上に、スポンサー料も貰っていたのが一転、
スポンサー料もなくなりエンジン代も支払わなくてはならなかったから。
フェラーリもマクラーレンも支払いはマルボロですからね!(^-^)/
1991年は、まだホンダエンジンが最強だと思われていた時代で
シャシーでフェラーリに追い越されても、ホンダが10気筒から12気筒エンジンにしてパワーアップするから、マクラーレンホンダが絶対王座の地位を取り戻すという見方もありましたからねぇ
そのシャーシですがターボが禁止されてからはホンダはマクラーレンのボディやシャーシ等にも大幅にメスを入れ性能や戦闘力を向上させてやるべきでしたね、そしたらマシンその物の総合性能でもフェラーリやベネトンは勿論ウィリアムズをも脅かす程のマシンに仕上がったかもしれないのに。
ちょうど89〜94の総集編録画を引っ張り出して見たあとにこの動画に出会いました。
フェラーリと交渉していたことは驚きでしたが、セナはプロストというライバルを必要としていたのは明らかですね。
事実94年は覇気にかけ、サンマリノでは無線でプロストに寂しいと直接伝えてましたしね。これは予定外の事だったそうです。
また、プロストもセナを必要としていたと、のちのインタビューで語っており、相思相愛だった唯一無二のライバル関係だったのだと、改めて目頭が熱くなりました。
セナは勝つためには全力を尽くす。サーキット上でも、それ以外も。ただそれだけ。
仮にセナのフェラーリ行きが実現していようが92-93年にあれだけウイリアムズの背中を見せられれば
どこのチームに居ようがウイリアムズのシートが欲しくて仕方なくなり
結果、ライバル達をF1引退(プロストやマンセル)に追いやろうが、契約料無償だろうが違約金払おうが
ゴリ押しでシートをもぎ取って居ただろう。
ただ、他の選択肢を進んで居れば94年に逝く可能性は低かったかもしれないが。
94年のサンマリノのFW 16の左前輪が手元にあります。ホイールは歪んでます。それからあの事故の凄さが感じられます。
持ってらっしゃるのですか?
色褪せないセナは永遠に最速。
タイムは塗り替えられてもセナは超えられない
分かりやすい
ありがとうございます🙇🏻♂️
主さんとは2つ違いでしょうか?自分は高校卒業して新社会人1年目、出勤前にセナの死を知りました。いつもの始まり方では無かった放送でしたが、セナなら死なないだろうと寝たのですが・・・忘れられない朝になってしまってました。
フェラーリと交渉してたと言うのは知りませんでした。「もし」フェラーリにと言うより事故死して無かったら、今のF1の姿ってあったんでしょうかね。ピットレーンの速度制限とかコックピット周りの安全対策等。
生きていたら、セナとプロストがそれぞれにチームを運営してトップ争いしてたかもですね。
A.SENNAと同い年です。'88.'89と鈴鹿サーキットで生セナの走りを観ています。
当時のニュースや実際にどんなことがあったのかについて動画を作っていただきありがとうございます。
自分が生まれたのはセナが事故死した後なので、当時のレースを実際に見たこともありませんし、後から出てくるニュース記事しか知りません
当時の交渉事の背景には色んな人の思惑が渦巻いていたんですね
以外と短いセナの現役時代。未だに語り継がれる「記憶」もさる事に「記録」の凄さを感じます。
もしがあるならば、どれほどの記録更新があったのか。最強シューマッハとの新たなる「記憶」も。今の流れと違う別次元のF1だったと・・・。
1993年を最後にプロストはF1現役引退しましたが、契約期間が残っていてフランク・ウィリアムズ卿から1994年もドライブして欲しいと打診されていました。
しかもセナをチームメイトに迎えて。
プロストは断りましたが、ウィリアムズ・ルノーでセナ・プロのコンビが実現していればマクラーレン代表のロン・デニスが烈火の如く怒り狂っていた事でしょうね。
フランク・ウィリアムズ卿は1988年ホンダターボエンジンをマクラーレンに奪われた仕返しにプロストとセナの両方獲得してロン・デニスを見返したかったとも言われている?
90年以降、セナがプロストとチームメイトになることは厭わないと思っていたことは意外だった
プロストからすればセナとチームメイトとして競い合うことは絶対に拒否だったんだろうけど
セナ死後、プロストが言った「セナには僕が必要だった、僕を倒すというモチベーションが」
はほんと1994年サンマリノで亡くなるまでのセナの走りにそう感じた
セナの根底にある感情は、唯一無二、自身と対等レベルの認識だったドライバーがプロストだったのは間違いないだろうね。
その認識はプロストも同様の感情だったろうけどセナのF1でのモチベーション=打倒プロストこそ、自身がNo.1ドライバーである事の証明にもっともシンプルでわかりやすく、世界中のファンに知らしめる事に繋がると思ってたのだろう。プロストはキャリアの終盤に差し掛かってたのもあり、セナの異常?なまでの執着、執念に対して、マクラーレン時代での二の舞になるような環境に再び置かれるのは許し難い心境だったのも想像に難しくないね。
セナが亡くなった時、ピットのニューウェイが映し出されて、その表情から事故の原因を彼は知っていると気付いた。その週末に行われたステアリングシャフトの改造。私は89年か90年ティレルのアレジのステアリングシャフが破損した際に実物を間近に見た事があるが、驚くほど外径も肉厚も薄かった。その時F1の軽量化為の極限的設計と恐ろしさを感じた。
アレジのクラッシュは1990年鈴鹿予選1コーナーだった。決勝は出走せず。
セナとフェラーリの話題は、自分は当時よく聞いてました。
今は無きF1GPXだったかな、それとも、なんかの映像だった気もするんだけどなぁ。。。
あと、半分リップサービスでしょうけど、引退すると決めたら1年だけ延ばして、
パスタの御礼にミナルディをドライブするよ、なんてのも聞いたことありますw
改めてセナのホンダ愛が浮き出たニュースでしたね。興味津々に見ました。仮にウイリアムズに加入しても天敵のマンセル&プロストに完全拒否されて94年以降に加入しかなかったのではと思ってます。
まあロータス時代ホンダを載せて欲しいとホンダの当時の桜井総監督に直談判したのはセナ自身だし88年90年91年とタイトルを取った恩もあるんでしょう
片や、その巧みなドライビングセンスでフェラーリを操りながらもチャンピオンにはなれなかったヴィルヌーブ…また天命とも言える才覚をしてもフェラーリには辿り着けなかったアイルトン…佳人薄命とは哀しきかな。ノーギャラでも良いからって、やっと手に入れたFW のシートも皮肉にも自慢のハイテク、アクティブサスは取っ払われた最早二級品。アレが付いてりゃ死なずに済んだのかもね?!😢
94年のセナは開幕から何処かモチベーションを欠いていたように感じます。もしもあのイモラでの事故がなかったとしても、シューマッハーにタイトルを奪われそのまま引退してしまったのではないか?と思います。
当時、高校3年でした。
この動画を拝見して、時系列を改めて辿って懐かしくなり また当時の衝撃・悲しみを思い出しました。
今、存命で現在のF1とホンダを見て何を思い何を話すのか?動画を拝見して、ふと思いを馳せました。
しかし、大体の事は記憶してましたが、90〜91年のフェラーリの御家騒動の詳しい内幕までは知らなかったので鈴鹿でのプロスト撃墜やフィオリオ解雇の理由を聞くとなるほどなと感じました。
F1カーのテストで初めて乗ったのがウイリアムで最後もウイリアムとは…。
いろいろと情報はありますが、マクラーレンホンダの全盛時代にホンダのエンジン開発をシーズンオフに行っていたのは、アランプロストだけです。品は長期の休養とりエンジンの開発には一切携わっていないのです。だからこそプロストの言動になるのです。結局最後に神はアランプロストに味方を押し、アイルトンセナがこの世の人でなくなったのは当然だと思います
同意でございます。
それと批判を恐れず申し上げますが、故意による接触を起こしたドライバーは、この世から失せる運命だったかもしれません。
1990鈴鹿は、殺人行為です。現代のF1なら永久追放レベルですよ。
良い動画でした。
セナのFW16のステアリングは
ヒルのステアリングより一回り大きかった
そんなウィリアムズは、セナの要求に大変苦労したらしい
切ないですね
結局ハイテクデバイス禁止が全てでしょう。セナと同じ時代を生きれて幸せです。
タイヤグリップが上がれば安全性も上がるだろうに、逆に全車アクティブサスにすれば良かったのにと思う。
@@specialconcorde そういう訳にも行かないんですよね
全チームにハイテクを搭載しようとすると開発資金やら搭載資金やらで資金繰りが苦しくなるチームが現れてマシン性能の格差が酷くなってました。事実1988年89年時点で20チーム少々あった参加チームは15チームにまで減ってFIAとしては参戦する際にFIAに支払われる供託金収入の減少やウィリアムズの独走による観客動員・収入の低下する恐れがあった まあいわばFIAの金の亡者連中(モズレー&エクレストン)が認めなかったと思うし
仮にハイテク禁止でなかったらセナが独走してたでしょう(いくらミハエルと言えども非力なフォード Zetec-R V8と当時最強と言われたルノーRS6 V10では燃費がいいフォードでも難しい)
事実セナの死後マンセルを無理矢理CARTと兼走させたり イギリスGPの1件でミハエルを出場停止にしたり ベルギーGPで理不尽な失格にしたのも人気維持やミハエルの独走を抑え込むための苦肉の策だった(苦肉の策がなければどうなってたかはエンジンは違えど95年シーズンを見ればお察し……)
イモラ以降のウィリアムズでのシーズンの動き、
フェラーリでのシーズンの動きは興味深いなぁ
セナ&アレジフェラーリ見てみたかったなぁ😭
フェラーリF92Aあたりから本当に酷かったですからね。マクラーレンにしても、セナとホンダエンジン頼りでマシン開発はほとんどしていなかったようですし。
今セナが生きていれば、ホンダのファン感謝デーでマクラーレンホンダのマシンをドライブしてたんだろうなぁと想像してしまう。
若し当時セナやホンダの為に開発に開発を重ねていたらマクラーレンのマシンもニューエイ所属時のウィリアムズを脅かす位にはなっていたと思いませんか?
貴方のセナに掛ける思い感動致しました
私も彼といくらも違わない歳ですので
あの時は頭が白くなりました
時が戻せるなら良いのに
同じような思いを10代から持ち続けております...。
トラウマともまた違うような気がするのですが、セナを想うと1994年5月1日でまさに自分の中の時間が止まっている感覚なんですよね。
本当にショッキングな事故でした...。
自分の中でセナの印象はマクラーレンが強いですが
でも一番似合うのはフェラーリだと思ってます
フェラーリに乗るセナ。
キャリアの最後はミナルディ云々は社交辞令だったのかな。
大筋は合ってると思うが、少し違う部分もあるかな。91年のフェラーリ入りはマクラーレンとの交渉を有利にしたかっただけでは?ホンダ撤退が決まってからは合ってると思う。フェラーリに乗りたいのは合ってる。ただプロストのチームメイトにこだわるのは違って、ベストレーサーは最強マシンに乗る資格があるとの考えだろう。知らんけど。
Senna o melhor de todos os pilotos
シンプルにFW16に乗らなきゃ死んでなかったね。
今のF1をセナが見たらどう思うだろう?
彼はドライビングそのものを楽しむタイプのドライバーだったし、インディカーに興味を示したり当時のハイテクには半ば否定的だったから…今のフォーミュラーカーにはトキメかないんじゃないかなぁ?😰
ニューウェイが空力を無茶苦茶にしたからね、セナがテストで第一声が[このマシン嫌い]だからねぇ
あれだけ切望した念願のFW なのにね…
アクティブサスありきの空力だったのかな?禁止されたら途端に不安定化したという印象。
第一声「嫌い」というのは、運命的な何かを感じたのだろうか?
エイドリアンは空力の鬼才とか渾名されてた程だから…逆にどっか1つのファクターが欠けるとバランス崩れてガタガタとかヨソのコンストラクターでも、そんなクルマがあったような?それまでタマタマ、パトリックの発想と上手く行ってただけのパッケージングに過ぎなかったのかな?w アイルトンは繊細な人だったみたいだし、第六感ってヤツで見抜けてたりして。…だったら尚の事、乗ったのが悔やまれるよね😭
7:05ウィリアムズチーム、若しこの時プロストを引き留めたかったならエンジンをルノーワークスから同じV10の無限ホンダやヤマハワークスにスイッチするとか出来なかったのだろうか。
ホンダは92年に撤退するのなら91年に伝えるべきですよね。
92年ウイリアムズ移籍がベストでしたね.......
実はロン・デニスには91年の暮れにホンダから92年で活動休止することは聞いてました。
とするとチームメイトはマンセルか、うーん、どうだったでしょうね。
@@tomohayashi8343 マンセルの耳に入ったら騒いで出ていくか、破談になっていただろう、92年シーズンプロストウィリアムズ加入の時のように
92年からはウィリアムズルノーのレギュラーとして出ていたら上手く行けば5回はタイトルを取れていたと思いませんか?;^^
@@零チャンネル-i1f 92、93は圧勝、全戦ポールの可能性もあったと思います。94年はどっちにしても接戦だったでしょうね。
セナ対シューマッハの世紀の対決を見逃してしまいましたね....
ナニーニの件は知りませんでした(笑)
フェラーリ、ウィリアムズでのセナプロ対決 実現してたら 楽しかったでしょうね。
ぶも社長 1994年 高2?もしかして 私と同じ年齢(笑)!!
結構、当時は有名だったよ。フィオリオは自身のチームで腕がチョン切れたナンニーニの為に改造されたラリーカーをテストさせたりしたよね。
昔のTV番組「生ダラ」で紹介していた「アイルトン・タカ・サーキット」が現在は草ボーボー廃墟状態との情報!日本で唯一、故アイルトンセナ氏の像でも置くべき場所!勿体ない!コロナ明けTOYOTA等に協力を求めカートレース場復活を!ヽ(`Д´#)
フェラーリに乗れないから、フェラーリに近い仕様のマクラーレンを作ったって解説が言ってたな、フェラーリ乗りたかったんだ、見たかった😔
お疲れ様です。
ここまで調べて語って語ってる方は、あまりいないと思います。
亡くなられたセナの美談と伝説を語る方は沢山おられます・・・
ん~、ホンダの時もよかったですが、1回、真っ赤なセナも見たかったです。
あの頃、セナがフェラーリに乗って引退したいって話は噂でよく上がっていましたが、本当に実現して欲しい話でした。セナはプロストと同条件で勝負する事をずっとしたがっていたんでしょうね。
Senha Brasil 🇧🇷 1991🏆🏆🏆🏆
結局自分の行動が返って来てるだけなんだよね
常に自分本位で自分がNO1で無いと気がすまない駄々っ子のようなセナと組みたくないのはプロストじゃなくても当たり前
「契約など有って無いようなものだ」とゴリ押そうとするのもそういうセナを象徴している態度
セナとホンダが相思相愛だったのもあの当時ホンダが唯一無二の勝てるエンジンだったからに過ぎない
セナの行動原理はどんなことをしても自分が勝つ、それだけ
プロストと組みたいというのもプロストの居るチームが一番勝てるという打算でしかない
セナに憧れレースを始めてカートコースを走ってたな、若い頃は夢は叶うと信じて生きていたのに、
今は48になって34で死んだセナより長く生きてるのに、何も残せてない俺、、
偉大過ぎるよセナは、
実はセナはプロストをリスペクト&尊敬していた、セナをマクラーレンに呼んだのもプロストだったにゃ!
移籍した理由初耳です。フェラーリが好きだったんですね。プロストが頑なに拒否しているのが興味深い。マクラーレン時代の確執か。ウィリアムズに移籍しなければ死なずに済んだと思うのですが。ブラジル出身と言えば丸坊主のサッカー選手を連想してしまうがセナはロン毛でカッコイイ。
今更ですが、セナ氏が1992年にウィリアムズ移籍が実現していたら、92年シーズンはもっとつまらないものになっていたかもしれませんね。マンセル氏の初タイトルと気性の激しいレース運びで辛うじて話題と人気はありましたので。
コメントありがとうございます。
おっしゃる通りかもしれません、セナがFW14Bに乗ってしまったらマシントラブル以外のレースは全て勝っていたような気がします。
ミハエル×フェラーリの2004年のような状態だったかもしれませんね...!
フェラーリに乗るセナを見て診たかった…
どうやら主さんと同い年みたいですね。
セナと周りの契約は複雑ですね。
1991年のホンダの説得に乗らなかったら…ホンダも翌年撤退するんだから無責任ですね
充実内容の動画で敬服です。あの89年の翌年、90年の段階でセナがフェラーリに移籍したい、「プロストと同僚で構わない」と判断していたとは初耳でした。これはプロストとは真逆の思考ですよね。
あまり信憑性の無い事で知られる(苦笑)セナの元カノ・アドリアーナが語っていますが、セナは「93年はマクラーレンとの関係が悪化して移籍先を探していた。しかし、もう空きが無かったので1年休養すると言い始めていた。」と。ルノーがセナをウィリアムズにゴリ押ししたのはその辺を察知したからでしょう。
つまり、セナはマクラーレン、フェラーリ、ウィリアムズだけでなく「1年休養する」という事すらもプロストの後を追いかけている。興味深いです。
この動画で哀しいのは、結局エンツォ自身も、フェラーリチ―ムも、プロストどころかベルガーの方をセナより優先している、という事。94年4月27日にセナと話したモンテツェモーロも、どうせ口先だけで、いざとなればミハエルを優先した可能性が高いと思います。
実はセナはそのために90年のモンツァの後と91年のハンガリーで2度ほどプロストと和解会見をやってますが一回目は鈴鹿でセナがプロストを撃墜してご破算にしました。91年の和解はモンツァであっさりセナにプロストが前を譲ったこともあったため多少は効果はあったのでしょうがプロストとしては積年の怨みがあったので嫌だったのでしょうね
@@闇ペレス
91年の和解が本当の和解ですね。本田宗一郎が逝去した直後のタイミングだったのも功を奏したのか、建設的な話し合いが出来て、いい顔をしていました。で、2人きりだったこの会談の内容を「絶対に口外しない」という約束を両者守ってますね。セナはその後もプロストに対してメディアプレー的な発言はしたけど、この91年会談の秘密が破られない、というのが恐らくプロストには境界線だったのでは?と思います。同僚にならなかったのは、賢明な判断でしょう。
自分はプロストファンなんてすが、プロストは別にセナを根に持ったりしてなかったと思いますよ。同僚でさえ無ければ良いだけで、その後のインタビューとか見てると、プロストは自分が28歳のセナをマクラーレンに推薦した事を自らの誇り、というか殆ど生涯の想い出にしていると感じます。
直線ではホンダのV12エンジンはルノーを上回っていた、と記憶しています。問題はシャシーであり、ウイリアムズがマクラーレンを完全に圧倒していました。
ところが、セナがテレビカメラに向かってホンダの技術者を侮辱するようなコメントを絶叫していたので、セナに焦りを感じました。
その焦りが1994年の大事故に繋がったのかどうかは、分かりません。
そのシャーシ等もホンダが大幅にメスを入れて問題を解決していれば総合性能でウィリアムズを脅かしていたと思いませんか?
セナは好きなドライバーではなかったけれど、フェラーリ、ウィリアムズでのセナプロコンビは観たかったな・・・
いい話を聞かせてもらいました。フェラーリのセナがいたら、もっと彼を応援できた。残念
まだ撤退決定前のホンダと袂を分ち91年から本気でフェラーリへ移籍するつもりだったのでしょうか?移籍していたらタイトルは獲れたのでしょうか?91年、鈴鹿での劇的なチャンピオン決定は見れなかったのか?…いろんな事が頭を過ぎります。
セナが生きていたら少なくともあと2回はチャンピオンになってただろうな・・・
一度でもいい、ウィリアムズ ルノーのマシンで優勝させたかったなぁ〜😔
運命の悪戯とは正にこの事ですね。
テストで好感覚だったランボルギーニエンジン改がマクラーレンに搭載されればセナの移籍はなかったのでは?資金が潤沢なプジョーエンジンを選んだためセナはマクラーレンを、ランボルギーニはF1を去ることになってしまった。
ランボルギーニかなんなら兄弟エンジンである無限ホンダでもよかった気がします
ただ当時ワークスエンジンにこだわっていたマクラーレンと既にロータスとワークス契約を結んでいた無限ホンダは厳しかったかもしれませんが
そのプランが実現していたら世界に愛された稀代の天才がイモラに散ることは無かったかもしれません。
ランボルギーニと同じV12なら92年まで使用されてたホンダV12をベースに無限ホンダV12として94年シーズンを戦っても良かったと思いますが、如何でしょうか?^^
大変感銘しました。
プロスト贔屓の僕としては、1990鈴鹿の故意による接触は、セナの精神的弱さを表していたと感じてます。
接触後にロンデニスにも失望したと言われたはずです。
現代のF1なら永久追放になるくらいの処分だったと思います。
セナファンの皆様には、大変申し訳ございませんが、シューマッハとセナは、僕の主観となりますが、汚点を残したタイトルホルダーだと感じてます。
それを言うなら、89年の鈴鹿シケインでのプロストがやったことも同じでしょ。
@@noricom31
タイトル争いの中、多少強引でもインをさす。多少強引でもブロックする。両者に間違いはなかったです。
言い回しは、多少違いますが、ケケロズベルグが、このようにコメントしてました。
「あんな下手くそなブロックは、見たことがない。」「いままでフェアなレースしかしてこなかったから。」1990年と一緒にされてもまったく違いますよ。
セナは、故意にぶつけたとのちほど語ってますしね。
それと大変不名誉な危険なドライバーと称されているのは、シューマッハとセナのみです。
全く同感です。
正確にはグリッド位置の交換が認められなかったことによる不満が最も大きいと思う。
当時の鈴鹿はPP側のグリップが低かった。
現代までの話なら歴史上もっとも汚いチャンピオンはハミルトンだと思う。
時点で半分巻き込まれた感があるけどアロンソ。不正がなければチャンピオンはなかった
@@noricom31 89年と90年のセナ・プロの接触は同じではないです。
89年、プロストはセナとロン・デニスに「もう譲らない」と伝えています。これまでのように強引に抜きに来れば事故になるよと警告したのです。
それでもインをこじ開けたセナと、宣言通り引かなかったプロスト。89年の接触は二人が起こした事故です。
同じ89年、開幕ブラジルでベルガーに対してと、ポルトガルでのマンセルに対して引かなかったセナ。それと同じことをプロストはしたに過ぎません。
警告もなしに一方的にわざとぶつけた90年の事故とは本質的に全く違うのです。
ウィリアムズに入りたくて、入ったんかと思いました!
ウィリアムズとフェラーリは在籍1.2年ずつぐらいで、一番融通の効くマクラーレンに帰ってると思うよ。
アイルトン・セナ。忘れることはできません。 今ごろ、今宮純さんに追いかけられているのかも。 ”あの、、もう僕は引退しているんだけどさ・・”とか。
歴史にifはないのは承知しているのだけど、1992年のオフシーズンのテストドライブで好感触を得たセナが1993年にインディカー(当時のチャンプカー)に乗っていたら?と考える事がある。インディアナポリスのブリックヤードやラグナセカのコークスクリューを駆け抜ける音速の貴公子の勇姿を見てみたかった……
フェラーリとはそれほどの存在なんですかね。ホンダは92年撤退したんだからしょうがないとして。
結局、私にはプロストと一緒に走りたかったのではなく、プロストのマシン開発能力に頼ったのではないか?だからオフシーズンに、ホンダのエンジン開発に携わったのは、プロストだけである。それはオフシーズンの4ヶ月は、若い子と称して一切のエンジン開発に携わらなかった。それが、プロストがセナを嫌っている原因にもなっているはずだ。
当時、マシン開発が出来たドライバーは、ピケとプロストだけと言う人もいますね。
こんな話しセナファンなら知っていると思いますが、
当時フェラーリはドライバーは欧州人主体だったと思います。
セナがブラジル人だったからでは?
シューマッハがフェラーリに来てからは、あくまでセカンドドライバーですがバリチェロ、マッサがいますが。
今でも基本F1は欧州主体なのでは無いのでしょうか。
あくまでも個人の意見ですが。
追加、当時F1と言えばフェラーリですよ。 今もかな 笑
残念だけど日本人だから、F1=HONDA なのでしょうね。
引退したプロストにロンデニスがオファーしたよね
MP4/9をテストしたプロストの答えはノーだったけど
チームを入れ替わったセナプロ対決も見たかった
1994年のオファーをプロストに出していましたね、見てみたかったですね!
セナはプロストに電話して「乗ってくれ」と直談判、プロストは「君のサンドバッグになるには役不足だよ」と伝えたようですね...テスト走行で乗ったMP4/9のポテンシャルに確信が持てなかったのでしょうね。
鈴鹿でプロストと接触したのは、プロストに対する怒りとありますが、セナがベルギーでマクラーレンと契約した後のイタリアでプロストと和解の握手をしているので、矛盾していないでしょうか?1990年のイタリアグランプリ後の動画も残っていますし、私も当時録ったビデオで見ています。セナがベルギーやイタリアでやるのなら分かりますが、和解後の鈴鹿でなぜ後ろから故意にぶつけた理由が未だ謎です。
謎も何もチャンピオン確定させるために決まっているでしょう
わざとぶつけたのはセナ本人も認めているのだし
セナはそういう協定破りを平気でやるドライバーだということはもっと知られてもいいと思う
あまりに日本でおかしな方向に神格化されすぎている
勝つためになんでもやるなりふり構わない駄々っ子のようなセナはメディアが作った「貴公子」なんていう薄っぺらいキャラよりずっと魅力的だと思うのだけど
91年からのウィリアムズは、明らかに空力に優れていた。ニューウェイがいたからね。
92年は、空力に優れていたシャシーに、他チームにはないリアクティブサスが加わり空力を最適にしてくれたから、トップスピードも伸び、コーナーも安定していたからね。
93年は、空力はよいが、マクラーレンにアクティブサスが付いたら、差が一気に縮まった。mp4/8に、重くデカいランボルギーニV12を積んだら、かなり速かった。
94年はアクティブサスがなくなり、空力にすぐれたマシンだったけど、大きな差は出なかった。給油不正があったけど、差はなかったね。
マクラーレンのアクティブサスは、業界ではウィリアムズを凌いでいるとさえ言われていました。
フットワークが、マクラーレンからアクティブサスを購入し搭載して以降、鈴木亜久里とワーウィックの予選順位が常にトップ10入りし、最高で5番手になりました。
マシンの壊れやすさと鈴木の荒っぽさで、結果に結びつく事はありませんでしたが。
真実は誰にもわからない。
フライングラップ=予選最終アタックの神がかり的なタイムでのポール。
ハッキネンのフライングフィンもここから来たんじゃないだろか。集中力がすげえ。
セナは、ハイテク大嫌いって言ってましたが、ハイテクマシンに乗りたかったの?
1991年はマクラーレンも落ち目だったが
フェラーリはトラックまで落ちたからなー( *´艸`)
つまりセナもホンダの口車にのってしまったのか?
川井一仁氏によると、セナはウィリアムズのマシンを気に入ってなかったそうです。安定性に欠けると。結果論ですが、あのグランプリは赤旗中断すべきでした。セナファンとしては、サンマリノあとF1を見なくなったですね。