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這太棒了!希望能讓更多人聽到這首歌
日本反而是更了解台灣,有些地方景點或特產台灣人也未必知道,這點真的佩服日本,尤其又是在1910年代,如果現在用這種歌唱方式教地理的話,或許在學學生記憶會更深
沒錯
這歌詞實在太長了,我校正了1~30番的歌詞,如下:《臺灣周遊唱歌》(明治43年、1910年)作詞:宇井 英作曲:高橋 二三四(漢字は旧字体で表示する、又、振り仮名や送り仮名等も歴史的仮名遣いで表示する)1.國光四海(こくくわうしかい)に かがやきて東亞(とうあ)の空(そら)に 霸(は)をなせる我(わ)が日(ひ)の本(もと)の 新領土(しんりやうど)臺灣島(たいわんたう)を さぐり見(み)ん2.南北(なんぼく)長(なが)さ 一百里(いつぴやくり)めぐりは二百九十餘里(にひやくくじふより)小島(こじま)あはせて その廣(ひろ)さ 九州島(きうしうたう)と ほぼひとし3.山(やま)に金銀(きんぎん) 海(うみ)に鹽(しほ)製茶(せいちや)製糖(せいたう) 果實類(くわじつるい)水田(みづた)に稻(いね)は 二度(にど)みのるげに帝國(ていこく)の 無盡藏(むじんざう)4.基隆港(きいるんかう)の あさぼらけ登(のぼ)る朝日(あさひ)の てりそひて輝(かがや)きわたる そのながめフオルモサの名(な)も 徒(ただ)ならず5.最北門(さいほくもん)の 鎖鑰(さやく)にて母國(ぼこく)に渡(わた)る 唯一(ゆいいつ)の要津(えうしん)なれば 朝夕(てうせき)に出船(でふね)入船(いりふね) 絕(た)え間(ま)なし6.いざや西部(せいぶ)を めぐらんと汽笛一聲(きてきいつせい) 進(すす)み行(ゆ)く八堵(はつと)七堵(しちと)の 次(つぎ)は五堵(ごと)水返脚(すいへんきやく)の 小市街(せうしがい)7.附近(ふきん)の山(やま)に 石炭(せきたん)の多(おほ)く出(い)づるを 語(かた)りつつ南港(なんかう)錫口(しやくこう) たちまちにはや臺北(たいほく)に 著(つ)きにけり8.四面(しめん)は山(やま)に かこまれて地勢(ちせい)京都(きやうと)に さも似(に)たりおのづからなる 城壁(じやうへき)はげに萬世(ばんせい)の かためなり9.君(きみ)が御稜威(みいつ)に 高砂(たかさご)の浦回(うらわ)の風(かぜ)も をさまりてここに開(ひら)けし 總督府(そうとくふ)文武(ぶんぶ)の機關(きかん) そなはれり10.市街(しがい)の規模(きぼ)は 宏大(くわうだい)に道路(だうろ)平坦(へいたん) 砥(と)の如(ごと)く下水工事(げすいこうじ)に 至(いた)るまで水(みづ)ももらさぬ たくみなり11.幾百年後(いくひやくねんご)の 膨脹(ばうちやう)を かねてはかりて 定(さだ)めたる市區改正(しくかいせい)の 雄々(をを)しさよ想(おも)ひやるだに たのもしや12.支線(しせん)に乘(の)りて 圓山(まるやま)の臺灣神社(たいわんじんじや) をがみつつ基隆川(きいるんがは)を うちわたり昔(むかし)をしのぶ 劍潭寺(けんたんじ)13.夙(つと)に學者(がくしや)の 淵藪(えんそう)と稱(とな)へられたる 士林(しりん)には遭難(さうなん)六氏(ろくし)の 碑石(ひせき)あり芝山巖頭(しざんがんとう) 香(か)をとどむ14.硫黃(いわう)を出(い)だす 北投(ほくとう)は音(おと)に聞(きこ)ゆる 温泉場(をんせんば)湯(ゆ)浴(あ)みする人(ひと) 遊(あそ)ぶひと常(つね)に絕(た)えずと 聞(き)くぞかし15.左(ひだり)に高(たか)きは 大屯山(だいとんざん)右(みぎ)に低(ひく)きは 紗帽山(しやぼうざん)群(むら)がる山(やま)の その奧(おく)に秀(ひい)でで見(み)ゆる 七星山(しちせいざん)16.江頭(カンタウ)過(す)ぎて 川岸(かはぎし)に沿(そ)ひつつ行(ゆ)けば 淡水港(たんすいかう)河畔(かはん)の丘(をか)に いかめしき建物(たてもの)多(おほ)く 聳(そび)えたり17.屋上(をくじやう)高(たか)く ひるがへる同盟國(どうめいこく)の 旗(はた)じるし問(と)はぬ先(さき)にも 知(し)られたり大英國(だいえいこく)の 領事館(りやうじくわん)18.三百年(さんびやくねん)の その昔(むかし)萬里(ばんり)の波(なみ)を 凌(しの)ぎ來(き)て武威(ぶゐ)を振(ふる)ひし イスパニヤサンチヤゴ城(じやう) 此處(ここ)に建(た)つ19.後(のち)にオランダ 來(き)てりしが鄭氏(ていし)代(か)はりて これに據(よ)る榮枯(えいこ)はうつる 世(よ)のならひ英雄(えいゆう)のあと 今(いま)いづこ20.樓(ろう)に登(のぼ)りて 見渡(みわた)せば舳艪(じくろ)つらねて うち集(つど)ふ唐船(もろこしぶね)の 數(かず)知(し)らず觀音山下(くわんおんざんか) 畫(ゑ)の如(ごと)し21.此處(ここ)の港(みなと)を 船出(ふなで)して海路(かいろ)僅(わずか)に 二百餘浬(にひやくより)その日(ひ)の中(うち)に 對岸(たいがん)の廈門(アモイ)の港(みなと)に 著(つ)かるべし22.再(ふたた)び歸(かへ)りて 本線(ほんせん)に うつれば忽(たちま)ち 艋舺(マンカ)驛(えき)新店川(しんてんがは)の 鐵橋(てつけう)もまたたくひまに うち渡(わた)る23.富豪(ふがう)林氏(りんし)の 邸宅(ていたく)の甍(いらか)つらねて 構(かま)へたる枋橋(ハンケウ)越(こ)ゆれば 樹林(じゆりん)なり 山仔脚(サンシキヤク)經(へ)て 鶯歌石(オウカセキ)24.鳥(とり)のかたちに よく似(に)たる巨石(きよせき)はたてり 山腹(さんぷく)に鄭軍(ていぐん)砲(はう)を うちし時(とき)頭(かしら)缺(か)けぬと 言(い)ひ傳(つた)ふ25.三角湧(さんかくゆう)は この奧(おく)へ一里(いちり)あまりの 小市街(せうしがい)製腦(せいなう)事業(じげふ) 見(み)ん人(ひと)はさらに山路(やまぢ)を 辿(たど)るべし26.春桃園(はるたうゑん)の 樂鄉(らくきやう)に遊(あそ)ぶもうれし 秋(あき)は又(また)大嵙崁(だいこかん)なる 山奧(やまおく)に奇巖(きがん)を見(み)るも おもしろし27.蕃界(ばんかい)近(ちか)く 踏(ふ)み入(い)れば兩岸(りやうがん)險(けは)しき 谷川(たにがは)に藤(とう)にて造(つく)れる 吊(つ)り橋(ばし)のあやふくかかる 所(ところ)あり28.北部諸山(ほくぶしよざん)の 生蕃(せいばん)を防(ふせ)ぐためとて 要所(えうしよ)には鐵條網(てつでうまう)を 張(は)り渡(わた)し隘勇(あいゆう)線(せん)を 設(まう)けたり29.崁仔脚(かんしきやく)をば 後(あと)にして中壢街(ちゆうれきがい)を 過(す)ぎ行(ゆ)けば四面(しめん)の畑(はたけ)は みな茶(ちや)の樹(き) 安平鎮(あんぺいちん)の 製茶場(せいちやぢやう)30.本島特產(ほんたうとくさん) 烏龍(ううろん)茶(ちや)なほも紅茶(こうちや)の 實況(じつきやう)を知(し)らんと想(おも)ふ 人(ひと)あらば必(かなら)ずくぐれ この門(もん)を
竟然有一種淡淡的哀傷⋯曾經是日本國土的台灣!
幹,從一首歌謠就可看到當時日本對台灣有多了解,而且完全沒想要去改篡歷史,完全真實的呈現,沒有成王敗寇般的將前朝歷史完全否定,那像中國來的政權,那種自己就是正別人就是邪的篡改零合歷史觀。介紹到花蓮讓人印象深刻,日治台的中期,開始鼓勵日人移民來台,但卻不是讓日移民去圈地佔領西部已開發的城市平原,而是讓他們到還沒什麼人的後山花蓮開墾,這在歷史上的殖民政權都很少看到的。
認賊作父說的如此清高😓
@@frankbrown5429 像共匪認俄爹作父一樣嗎
@@frankbrown5429 我早就是皇民了
中華人民共國是全世界的賊,黃明志創作的玻璃心歌詞:別再偷我的東西。@@frankbrown5429
@@frankbrown5429不管是日本人或是國民政府都算是「賊」吧台灣是台灣人的台灣我們不需要有一個中國人或日本人或其他國家的人來當我們的統治者
61~90番歷史假名遣歌詞61.義烈壯烈(ぎれつさうれつ) 母(はは)刀自(とじ)の大和魂(やまとだましひ) うけつぎて社稷(しやしよく)のために 竭(つく)したる君(きみ)がほまれは 千代朽(ちよく)ちず62.魁斗山上(くわいとさんじやう) 五妃(ごひ)の墓(はか)寧靖(ねいせい)王(わう)の きさきたち操(みさを)まもりて この土地(とち)に果(は)てぬと聞(き)くも あはれなり63.全臺首學(ぜんだいしゆがく)と 記(しる)したる大成殿(たいせいでん)の 建物(たてもの)は公學校(こうがくかう)に 充(あ)てられて今猶(いまなほ)吚唔(いご)の 聲(こゑ)を聞(き)く64.僭(せん)してここに 臺灣(たいわん)の王(わう)と名(な)のりし 朱一貴(しゆいつき)が住(す)みし昔(むかし)の 宮居(みやゐ)あり今法院(いまはふゐん)を 此處(ここ)に置(お)く65.そぞろに淚(なみだ) そのかみをしのびまつるも かしこしや北白川(きたしらかは)の 宮殿下(きゆうでんか)ここにみまかり 給(たま)ひけり66.君(きみ)の敕(みこと)を うけたまひ近衛(このゑ)の兵(へい)を ひきつれて島(しま)を平(たい)らげ 給(たま)ひたる親王(みこ)のみいさを 忘(わす)るなよ67.名(な)は安平(アンピン)と 聞(き)こゆれど港(みなと)次第(しだい)に 埋(うづ)もれて大船(たいせん)岸(きし)に つながれず風波(ふうは)を凌(しの)ぐ 便(たよ)りなし68.赤崁(せきかん)城趾(じやうし)の 大榕(だいようじゆ)遙(はる)か沖(おき)より ながめらる海(うみ)を行(ゆ)くひと この樹(き)をば 目當(めあ)てとなして 往來(わうらい)す69.これより海路(かいろ) 五十二浬(ごじふにり) 澎湖島(ばうこたう)なる 媽宮港(まきゆうかう)みなとの内(うち)は 水深(みづふか)く 大艦巨舶(たいかんきよはく) 泊(とど)むべし70.更(さら)に汽車(きしや)にて 中洲庄(ちゆうしうしやう)車路墘(しやろけん)過(す)ぎて 大湖街(たいこがい)半路竹(はんろちく)經(へ)て 阿公店(あこうてん) 橋仔頭(けうしとう)より 楠仔坑(なんしかう)71.東北(とうほく)指(さ)して 行(ゆ)くときは蕃薯(いも)に名(な)を得(え)し 蕃薯寮(ばんしよれう)樟腦(しやうなう)出(い)だす 甲仙埔(かうせんほ)急(いそ)ぐ旅(たび)とて 立(た)ち寄(よ)らず72.舊城(きうじやう)過(す)ぎて 打狗港(たかおかう)縱貫(じゆうくわん)鐵道(てつだう) ここに盡(つ)く商船(しやうせん)常(つね)に 輻輳(ふくそう)し 百貨(ひやくくわ)は日々(ひび)に 山(やま)を為(な)す73.なほも支線(しせん)に 乘(の)りかへて三塊厝(さんかいせき)を 通(とほ)り過(す)ぎ鳳梨(ヲンライ)出(い)づる 鳳山(ほうざん)に 曹公圳(さうこうしゆう)を 探(さぐ)るべし74.後庄(こうしやう)越(こ)えて 九曲堂(きうきよくだう)一里(いちり)東(ひがし)に 阿緱街(あこうがい)下淡水(しもたんすい)の 河口(かはぐち)に 東港(とうかう)といふ 港(みなと)あり75.これより五里(ごり)の 海上(かいじやう)にかすかに見(み)ゆる 小琉球(せうりうきう)長(なが)さは一里(いちり) 幅(はば)半里(はんり)何(いづ)れの家(いへ)も 鹿(しか)を畜(か)ふ76.枋寮(ばうれう) 枋山(ばうざん) 楓港(ふうかう)と海邊(うみべ)の路(みち)を 辿(たど)り行(ゆ)く山(やま)はせまりて 海(うみ)をせめ波(なみ)は激(げき)して 岩(いは)を嚙(か)む77.車城(しやじやう)に注(そそ)ぐ 四重溪(しぢゆうけい) その川上(かはかみ)の 石門(せきもん)は兩岸(りやうがん)いはほ そば立(た)ちて恰(あたか)も門(もん)の 狀(さま)をなす78.明治七年(めいじしちねん) 我(わ)が軍(ぐん)が 頑強(ぐわんきやう)なりし 牡丹社(ぼたんしや)を劇(はげ)しく攻(せ)めし 所(ところ)なり途(みち)に記念(きねん)の 碑(ひ)を探(さぐ)れ79.皇澤(くわうたく)日々(ひび)に 霑(うるほ)ひて學(まな)びの庭(には)に 蕃童(ばんどう)がわれ劣(おと)らじと 集(つど)ひ來(き)て 御國(みくに)言葉(ことば)の 花(はな)ぞ咲(さ)く80.氣候(きこう)はいつも 暖(あたた)かに春(はる)の如(ごと)しと 聞(き)こへたる恆春(こうしゆん)街(がい)に いたりなば求(もと)めて來(き)たれ 蝴蝶蘭(こてふらん)81.ここにて西部(せいぶ) はてぬれば海路東岸(かいろとうがん) さぐらんとたよりを待(ま)ちて 海濱(かいひん)の 大板轆(だいはんろく)を 船出(ふなで)せり82.バシイ海峽(かいけう) 隔(へだ)てたるルソンと遙(はる)か 相(あひ)むかふ最南端(さいなんたん)の 鵞鑾鼻(がらんび)に大燈臺(だいとうだい)を 設(まう)けたり83.鼻(はな)をまはりて 北方(ほくはう)に 船路(ふなぢ)をかへて 進(すす)み行(ゆ)く海上遠(かいじやうとほ)く 紅頭嶼(こうとうしよ) 雲(くも)か山(やま)かと 薄(うす)がすむ84.島(しま)のめぐりは 九里(くり)あまり 太古(たいこ)のさまを 見(み)る如(ごと)きいとあはれなる 蠻民(ばんみん)が二千(にせん)ばかりも 住(す)むと聞(き)く85.やがて卑南(ピナン)に 寄港(きかう)せり臺東一帶(たいとういつたい) 未開(みかい)の地(ち)天與(てんよ)の遺利(ゐり)は そのままに人(ひと)の來(き)たりて 取(と)るを待(ま)つ86.黑潮(くろしほ)に沿(そ)ひ 進(すす)みつつ次(つぎ)に立(た)ち寄(よ)る 花蓮港(くわれんかう)移民(いみん)の計畫(けいくわく) 歩(ほ)を進(すす)め開拓(かいたく)事業(じげふ) 起(お)こりたり87.これより沿岸(えんがん) 二十餘里(にじふより)幾千尺(いくせんしやく)の 斷崖(だんがい)が海(うみ)にせまりて 聳(そび)え立(た)ち船(ふね)を寄(よ)すべき 所(ところ)なし88.蘇澚(そおう)の港(みなと)に 船(ふね)をすて宜蘭(ぎらん)の平野(へいや)を 橫(よこ)ぎりてそれより山路(さんろ) 分(わ)け入(い)らば深坑(しんかう)地方(ちはう)に 到(いた)るべし89.濱邊(はまべ)の路(みち)を 越(こ)え行(ゆ)けば三貂角(さんしようかく)は 右(みぎ)に出(い)づ領臺役(りやうだいえき) まつさきに近衛(このゑ)の軍(ぐん)の 上陸地(じやうりくち)90.これより元(もと)へ 歸(かへ)る道(みち)黃金(こがね)掘(ほ)り出(だ)す 牡丹坑(ぼたんかう)尚(なほ)も瑞芳(ずいはう) 金瓜石(きんくわせき)寶(たから)の山(やま)は 連(つら)なれり終於弄完了,有夠長,希望沒有錯誤要再修改😅
12:08 日本人完全沒有避諱雲林大屠殺這件歷史。
可惜很多人都不知道臺灣特色卻說自己愛臺灣根本笑死。
31~60番歷史假名遣歌詞31.楊梅壢(やうばいれき)より 大湖口(たいここう)紅毛田(こうもうでん)を 過(す)ぎ行(ゆ)けばはや著(つ)きにけり 新竹(しんちく)に ここは昔(むかし)の 竹塹埔(ちくざんほ)32.清(しん)の雍正(ようせい)元年(ぐわんねん)に淡水廳(たんすいちやう)を 置(お)かれけり城壁(じやうへき)の跡(あと) 猶(なほ)殘(のこ)り舊刹(きうさつ)古廟(こべう) 亦(また)存(そん)す33.市街(しがい)の西方(せいはう) 約半里(やくはんり)尖筆山(せんぴつざん)の いただきに北白川(きたしらかは)の 宮殿下(きゆうでんか)御露營(ごろえい)ありし 遺跡(ゐせき)あり34.新埔(しんぽ)は蜜柑(みかん)の 本場(ほんば)にて北埔(ほくぽ)に椎茸(しいたけ) 多(おほ)く出(い)づ香山(かうざん)中港(ちゆうかう) 過(す)ぎぬれば次(つぎ)は造橋(ざうけう) 後壟(こうろう)よ35.後壟溪(こうろうけい)の 鐵橋(てつけう)を渡(わた)れば此處(ここ)は 苗栗(べうりつ)ぞ石油(せきゆ)の產地(さんち) 出礦坑(しゆつくわうかう) これより四里(より)の 奧(おく)にあり36.銅鑼灣(どらわん) 三叉河(さんさほ) 後里庄(こうりしやう)米(こめ)の產地(さんち)と 名(な)も高(たか)き葫蘆墩(コロトン)驛(えき)の 近傍(きんぱう)に製麻(せいま)會社(ぐわいしや)を 見(み)て行(ゆ)かん37.此處(ここ)まで數里(すうり)の その間(あひだ)地勢(ちせい)嶮岨(けんそ)の その上(うへ)に大安(たいあん)大甲(たいかふ) 二溪(にけい)あり箱根(はこね)のトンネル 想(おも)ひやる38.林投(ナアタウ)編(あ)みて 作(つく)るてふ淡水帽(たんすいぼう)の 產地(さんち)なる大甲(たいかふ) 通宵(つうせう) 宛里(ゑんり)など海邊(うみべ)に近(ちか)き 土地(とち)にあり39.潭仔墘(たんしけん)經(へ)て その次(つぎ)は中部一(ちゆうぶいち)なる 臺中(たいちゆう)よ清朝(しんてう)かつて この土地(とち)に臺灣府(たいわんふ)をば 置(お)きたりき40.明治四十一年(めいじよんじふいちねん)にはじめて成(な)りし 鐵道(てつだう)の全通式(ぜんつうしき)を 擧(あ)げたりし此處(ここ)の公園(こうゑん) 眺(なが)めよし41.陶器(たうき)を出(い)だす 南投(なんとう)へ輕便(けいべん)鐵道(てつだう) 敷(し)かれたり本島無二(ほんたうむに)の 別天地(べつてんち)埔里(ほり)社(しや)はなほも 奧(おく)と聞(き)く42.流石(さすが)に猛(たけ)き 霧社蕃(むしやばん)も馘首(くわくしゆ)の刃(やいば) うちすてて厚(あつ)きめぐみを 慕(した)い來(く)る蕃(ばん)產物(さんぶつ)の 交換所(かうくわんじよ)43.日月潭(じつげつたん)の 勝景(しようけい)は蓬萊山(ほうらいさん)も よそならず綠(みどり)のかげには 鳥歌(とりうた)ひ瑠璃(るり)の水(みづ)には 魚躍(うをおど)る44.烏日(うじつ)過(す)ぐれば 大肚(たいと)なり米(こめ)の集散(しふさん) おびただしここに河(かは)あり 大肚溪(たいとけい)水(みづ)に遊(あそ)ぶは 水牛(すいぎう)よ45.龍車(りゆうしや)に向(む)かふ 蟷螂(たうらう)が斧(をの)を微塵(みじん)に 碎(くだ)かれし彰化(しやうくわ)の東(ひがし) 八卦山(はつけさん)中臺(ちゆうたい)平野(へいや) 一(ひと)ながめ46.茄苳脚(かとうきやく)の その次(つぎ)に バナナ 朱欒(ザボン)の產地(さんち)なる員林(ゐんりん)過(す)ぐれは 社頭(しやとう)なり田中央(でんちゆうあう)經(へ)て 二八水(にはちすい)47.全島一(ぜんたういち)の 大河(たいが)とて音(おと)に聞(き)こえし 濁水溪(だくすいけい)大雨(だいう)至(いた)れば たちまちに平野(へいや)變(へん)じて 海(うみ)となる48.林内(りんない)過(す)ぎて 車窗(しやさう)よりかすかに見(み)ゆる 新高(にひたか)の山(やま)の高(たか)きは 日本一(にほんいち)明治(めいじ)の帝(みかど) 名(な)を賜(たま)ふ49.雲林(うんりん)今(いま)は 斗六街(とろくがい)土匪(どひ)のさわぎに 大方(おほかた)は兵火(へいくわ)の災(わざ)に 罹(かか)りにき 他里霧(たりむ)の次(つぎ)は 大莆林(たいほりん)50.打貓(ためう)の西方(せいはう) 三里(さんり)なる北港街(ほくかうがい)の 媽祖宮(まそきゆう)は四方(よも)の信仰(しんかう) 厚(あつ)きこと本島一(ほんたういち)と 聞(き)こえたり51.林爽文(りんさうぶん)の 騷亂(さうらん)に時(とき)の帝(みかど)が 住民(ぢゆうみん)の義勇(ぎゆう)嘉(よ)みして つけられし 嘉義(かぎ)の譽(ほまれ)は 碑(ひ)に殘(のこ)る52.此處(ここ)に至(いた)らば 農會(のうくわい)の苗圃(べうほ)に足(あし)を 運(はこ)ぶべし小河(をがは)めぐれる 丘(をか)の上(うえ)見渡(みわた)すかぎり 檳榔子(びんらうじ)53.大森林(だいしんりん)の 阿里山(ありさん)はこれより數里(すうり) 奧(おく)にあり枝(えだ)を交(まじ)ふる 木々(きぎ)の蔭(かげ)晝(ひる)猶暗(なほくら)く ものすごし54.鐵道線路(てつだうせんろ)の 右側(みぎがは)に立(た)つる目標(めじるし) 見(み)おとすな北回歸線(きたくわいきせん) このあたり はや熱帶(ねつたい)の 客(きやく)となる55.これより南部(なんぶ) おしなべて甘蔗(かんしや)の畑(はたけ) 打(う)ち続(つづ)き製糖會社(せいたうぐわいしや) そこここに煙突(えんとつ)高(たか)く 競(きそ)ひ立(た)つ56.水堀頭(すいくつとう)より 後壁寮(こうへきれう)新營庄(しんえいしやう)の 西方(せいはう)に鹽水港(えんすいかう)の 市街(しがい)あり布袋嘴(ほていし)よりは 鹽產(しほさん)す57.林鳳營(りんほうえい)經(へ)て 蕃仔田(ばんしでん)灣裡(わんり)を過(す)ぎて 新市街(しんしがい)大目降(たいもくかう)は この東(ひがし)糖業試驗所(たうげふしけんじよ) 設(まう)けらる58.南部(なんぶ)のみやこ 臺南(たいなん)は本島中(ほんたうちゆう)に ふるくより開(ひら)けし地(ち)とて 人多(ひとおほ)く名所舊跡(めいしよきうせき) 亦多(またおほ)し59.陸軍(りくぐん)衛戍(ゑいじゆ)病院(びやうゐん)はオランダ人(じん)の 築(きづ)きたる赤崁樓(せきかんろう)の ありし跡(あと)三層樓閣(さんそうろうかく) 聳(そび)えたり60.鄭成功(ていせいこう)を 祀(まつ)りたる延平王(えんぺいわう)の 祠(やしろ)あり領臺以後(りやうたいいご)に 改(あらた)めて開山(かいざん)神社(じんじや)と 稱(しよう)せらる
謝謝你上傳這部寶貴的動畫!仕方がないことですが、こういう古い歌がどんどん歌われなくなって、忘れられていくのはとても寂しいものです…せめて私は覚えていよう
我去ニコニコ的原作者那裡投稿了,把我LINE記事本的網址貼給他了😂
第2番的「九州」少了島字,日語發音是「九州島」的發音。第16番的「江頭」,其實是關渡的巴賽語Kantaw的發音,所以要發成「カンタウ」第38番的「林投」,則是台語Nann-tau的音,所以是「ナアタウ」另外還有很多假名上違和的地方喔😁
雖然有政治但都是根據事實。教台灣人正確地理增加對台灣自己的暸解。
這就是旅遊見聞錄或旅遊指南, 不可能是正式的地理教材的!篇幅太長, 地名太多, 全曲記下來, 學生保證瘋掉!
我整首聽完了 標題的周遊阿姑根本沒出現啊 騙我!
@@蔣聰遠 周遊寶島的意思,
小時候讀書只知道東北三寶: 人參、貂皮、烏拉草。
連濁水溪在哪都不知
@@v8yw 最好是啦!小時候都學過台灣地理啊😂
@@chihfeng1975 我們年齡不同吧
4:41 哎呀,西班牙跟荷蘭的順序搞錯了😅
這裡講的是淡水紅毛城,西班牙人因荷蘭佔領南部,只好轉往佔領北部,建造了聖多明哥城,後來才被荷蘭佔領, 曾經作為英國領事館
日本是合法透過條約將台灣收納為日本國土的一部份,最早的台灣地位確實是殖民地,但日本花了50年一步一步用法律及建設,將台灣的殖民地地位提升成為領土
日本從頭到尾都把台灣稱作殖民地!殖民地不適用明治憲法, 始終用的都是特別法!殖民地的建設, 就是用來剝削用的, 所以港灣城市建設得很不錯, 可是鄉間基礎建設就很差!
败逃台湾的国民党是我们欠台湾人的债,给台湾带去了麻烦和灾难,希望你们加油努力,如果真的有一天能独立的话,把那些滞台垃圾做为战犯两边一起审判一下
先审判民进党
人民解放军炮击总统府
然后抓人
喜歡以前的歷史了如果活在當下的話也不會有科技了
這歌詞送假名用歷史假名遣,但振假名卻用現代假名遣?有很多的ふ其實都是讀成現代的う…反而覺得連振假名都用歷史假名遣的話還有一點時代感😂不過用歷史假名遣對只懂現代日語的人可能會看不懂就是了,如後壁寮讀成「こうへきりょう」,但是歷史假名遣會變成「こうへきれう」😂
第42番的歌詞有一句是錯的,「馘首の刃」才對…
正義的皇軍萬歲!
很多事情都是我不知道的,日本人先調查再教給臺灣人嗎?透過歌謠教給小朋友,好厲害!
日本人不僅將台灣做地名調查.文化.語言.山野也都深入調查..日本政府也要政府官員學台語.跟某國天差地別]..還教我們黃河是我們最大河川.搞得連台灣人濁水溪在哪都不知
這就是旅遊見聞錄啊! 跟教育ㄧ點關係都沒有!如果台灣小孩有受過這首歌的教育, 那請問李登輝辜寬敏會唱嗎? 那麼長的篇幅, 記得住嗎?國民政府時代的旅遊見聞錄也不少的好嗎? 只是用別的形式呈現罷了!這首歌只是紀錄, 不可能在教育實務上發揮甚麼作用的!不信去問李登輝辜寬敏!
老蔣時代也有類似的小品, 反倒是解嚴以後, 沒再看過了!ruclips.net/video/BacOIMnUwHo/видео.html
@@v8yw 國民政府的教材當然有濁水溪, 我到現在都還記得清清楚楚, 從南投發源, 在雲林彰化間入海, 全長186公里, 是台灣最長河川!如果你不知道, 那就是你當年不用功, 心沒放在台灣!
因为国民党是大陆
我奶奶有唱过
旅運和貨運需要 送來了CT270和DT650機關車
用大和魂來描寫鄭成功,繼承母親血脈,果然是日本人寫的詞~
史書に基づいて自らの由緒をきちんと自覚してきた東洋人の一人として、こういうことを忘れてしまうのは先人たちに対して恥ずべきことであるという気がしてきました。
這應該是電腦唱的,真人唱會累死
啊…原來地名是這樣來的。
這有文字檔的歌詞嗎?(平假名)感覺學日文好好用XD
到這個網站可以找到歌詞 www.applefriends.net/research/taiwan-shuyu-shoka/
有點不建議因為這首歌用的語法其實給現在日文不同所以很多日本人也未必能聽得懂
歡迎一起來領略古典日文的魅力
@@shouso7613有什麼一起的管道嗎
這是歷史假名遣😂😂😂@@shouso7613
請問能轉載到B站上嗎?
好
こんな歌があったのか…
健汰郞最上川 最上川発見!
山下秀樹 見つかったw
健汰郞最上川 チャンネル登録しました
山下秀樹 ありがたう♡
山下秀樹 僕も登録したよ
すごい
這個跟微積分挺配的
好長的歌
這麽長!
全台要介紹完
要教給學生唱, 保證瘋掉!這首歌就是旅遊見聞錄, 或旅遊指南, 不可能是課程教材的!
老蔣時代有比較短的小品, ruclips.net/video/3ZaxhE4wrdM/видео.html
很詳盡
篇幅太長了, 我不相信當時有任何人能唱得完!要唱完, 不瘋了才怪!參考一下老蔣時代台灣人作詞作曲的類似小品, 篇幅短, 我國中時整首都能背起來唱!ruclips.net/video/BacOIMnUwHo/видео.html解嚴以後, 這類個歌反而都再也看不到了!
记得日本以前有个铁路的歌,也特别长,好像是用一首歌把日本全国铁路路线站点都按顺序介绍了一遍
關於台灣土地的歌當代還是很多啊:陳明章、王明哲、蕭泰然、謝銘祐等音樂工作者都有很多作品,近幾年也有不同獨立樂團或歌手寫出對土地的感情 都很棒
@@10hanabi 但是,像“嘉慶君遊台灣”那樣,把風土典故結合到歌詞中,充滿知識性的,解嚴以後反而都沒了。
你是說那個被拿鋤頭的農民打得落花流水,一夕之間丟了幾千平方公里的土地狼狽逃難來台的老蔣嗎?
@@justabingbong 農民被共產詐騙集團騙了,才會犯迷糊。打跑老蔣後,老蔣沒事,反而是農民餓死四千萬,為他們1949年犯下的錯誤,付出史上最大的代價。
放什麼ㄖ🐶歌!!!!!!!有夠難聽!!!!!!!!!!
你有病
你是不是想起來,我在南京城殺死你7歲爺爺3歲奶奶的往事?
你可以選擇不看,而不是在那邊嘴
大日本帝國萬歲
二戰後的[日本國萬歲]。
@@WuwuWu-l9n昭和前的日本國萬歲
這太棒了!希望能讓更多人聽到這首歌
日本反而是更了解台灣,有些地方景點或特產台灣人也未必知道,這點真的佩服日本,尤其又是在1910年代,如果現在用這種歌唱方式教地理的話,或許在學學生記憶會更深
沒錯
這歌詞實在太長了,我校正了1~30番的歌詞,如下:
《臺灣周遊唱歌》(明治43年、1910年)
作詞:宇井 英
作曲:高橋 二三四
(漢字は旧字体で表示する、又、振り仮名や送り仮名等も歴史的仮名遣いで表示する)
1.
國光四海(こくくわうしかい)に かがやきて
東亞(とうあ)の空(そら)に 霸(は)をなせる
我(わ)が日(ひ)の本(もと)の 新領土(しんりやうど)
臺灣島(たいわんたう)を さぐり見(み)ん
2.
南北(なんぼく)長(なが)さ 一百里(いつぴやくり)
めぐりは二百九十餘里(にひやくくじふより)
小島(こじま)あはせて その廣(ひろ)さ
九州島(きうしうたう)と ほぼひとし
3.
山(やま)に金銀(きんぎん) 海(うみ)に鹽(しほ)
製茶(せいちや)製糖(せいたう) 果實類(くわじつるい)
水田(みづた)に稻(いね)は 二度(にど)みのる
げに帝國(ていこく)の 無盡藏(むじんざう)
4.
基隆港(きいるんかう)の あさぼらけ
登(のぼ)る朝日(あさひ)の てりそひて
輝(かがや)きわたる そのながめ
フオルモサの名(な)も 徒(ただ)ならず
5.
最北門(さいほくもん)の 鎖鑰(さやく)にて
母國(ぼこく)に渡(わた)る 唯一(ゆいいつ)の
要津(えうしん)なれば 朝夕(てうせき)に
出船(でふね)入船(いりふね) 絕(た)え間(ま)なし
6.
いざや西部(せいぶ)を めぐらんと
汽笛一聲(きてきいつせい) 進(すす)み行(ゆ)く
八堵(はつと)七堵(しちと)の 次(つぎ)は五堵(ごと)
水返脚(すいへんきやく)の 小市街(せうしがい)
7.
附近(ふきん)の山(やま)に 石炭(せきたん)の
多(おほ)く出(い)づるを 語(かた)りつつ
南港(なんかう)錫口(しやくこう) たちまちに
はや臺北(たいほく)に 著(つ)きにけり
8.
四面(しめん)は山(やま)に かこまれて
地勢(ちせい)京都(きやうと)に さも似(に)たり
おのづからなる 城壁(じやうへき)は
げに萬世(ばんせい)の かためなり
9.
君(きみ)が御稜威(みいつ)に 高砂(たかさご)の
浦回(うらわ)の風(かぜ)も をさまりて
ここに開(ひら)けし 總督府(そうとくふ)
文武(ぶんぶ)の機關(きかん) そなはれり
10.
市街(しがい)の規模(きぼ)は 宏大(くわうだい)に
道路(だうろ)平坦(へいたん) 砥(と)の如(ごと)く
下水工事(げすいこうじ)に 至(いた)るまで
水(みづ)ももらさぬ たくみなり
11.
幾百年後(いくひやくねんご)の 膨脹(ばうちやう)を
かねてはかりて 定(さだ)めたる
市區改正(しくかいせい)の 雄々(をを)しさよ
想(おも)ひやるだに たのもしや
12.
支線(しせん)に乘(の)りて 圓山(まるやま)の
臺灣神社(たいわんじんじや) をがみつつ
基隆川(きいるんがは)を うちわたり
昔(むかし)をしのぶ 劍潭寺(けんたんじ)
13.
夙(つと)に學者(がくしや)の 淵藪(えんそう)と
稱(とな)へられたる 士林(しりん)には
遭難(さうなん)六氏(ろくし)の 碑石(ひせき)あり
芝山巖頭(しざんがんとう) 香(か)をとどむ
14.
硫黃(いわう)を出(い)だす 北投(ほくとう)は
音(おと)に聞(きこ)ゆる 温泉場(をんせんば)
湯(ゆ)浴(あ)みする人(ひと) 遊(あそ)ぶひと
常(つね)に絕(た)えずと 聞(き)くぞかし
15.
左(ひだり)に高(たか)きは 大屯山(だいとんざん)
右(みぎ)に低(ひく)きは 紗帽山(しやぼうざん)
群(むら)がる山(やま)の その奧(おく)に
秀(ひい)でで見(み)ゆる 七星山(しちせいざん)
16.
江頭(カンタウ)過(す)ぎて 川岸(かはぎし)に
沿(そ)ひつつ行(ゆ)けば 淡水港(たんすいかう)
河畔(かはん)の丘(をか)に いかめしき
建物(たてもの)多(おほ)く 聳(そび)えたり
17.
屋上(をくじやう)高(たか)く ひるがへる
同盟國(どうめいこく)の 旗(はた)じるし
問(と)はぬ先(さき)にも 知(し)られたり
大英國(だいえいこく)の 領事館(りやうじくわん)
18.
三百年(さんびやくねん)の その昔(むかし)
萬里(ばんり)の波(なみ)を 凌(しの)ぎ來(き)て
武威(ぶゐ)を振(ふる)ひし イスパニヤ
サンチヤゴ城(じやう) 此處(ここ)に建(た)つ
19.
後(のち)にオランダ 來(き)てりしが
鄭氏(ていし)代(か)はりて これに據(よ)る
榮枯(えいこ)はうつる 世(よ)のならひ
英雄(えいゆう)のあと 今(いま)いづこ
20.
樓(ろう)に登(のぼ)りて 見渡(みわた)せば
舳艪(じくろ)つらねて うち集(つど)ふ
唐船(もろこしぶね)の 數(かず)知(し)らず
觀音山下(くわんおんざんか) 畫(ゑ)の如(ごと)し
21.
此處(ここ)の港(みなと)を 船出(ふなで)して
海路(かいろ)僅(わずか)に 二百餘浬(にひやくより)
その日(ひ)の中(うち)に 對岸(たいがん)の
廈門(アモイ)の港(みなと)に 著(つ)かるべし
22.
再(ふたた)び歸(かへ)りて 本線(ほんせん)に
うつれば忽(たちま)ち 艋舺(マンカ)驛(えき)
新店川(しんてんがは)の 鐵橋(てつけう)も
またたくひまに うち渡(わた)る
23.
富豪(ふがう)林氏(りんし)の 邸宅(ていたく)の
甍(いらか)つらねて 構(かま)へたる
枋橋(ハンケウ)越(こ)ゆれば 樹林(じゆりん)なり
山仔脚(サンシキヤク)經(へ)て 鶯歌石(オウカセキ)
24.
鳥(とり)のかたちに よく似(に)たる
巨石(きよせき)はたてり 山腹(さんぷく)に
鄭軍(ていぐん)砲(はう)を うちし時(とき)
頭(かしら)缺(か)けぬと 言(い)ひ傳(つた)ふ
25.
三角湧(さんかくゆう)は この奧(おく)へ
一里(いちり)あまりの 小市街(せうしがい)
製腦(せいなう)事業(じげふ) 見(み)ん人(ひと)は
さらに山路(やまぢ)を 辿(たど)るべし
26.
春桃園(はるたうゑん)の 樂鄉(らくきやう)に
遊(あそ)ぶもうれし 秋(あき)は又(また)
大嵙崁(だいこかん)なる 山奧(やまおく)に
奇巖(きがん)を見(み)るも おもしろし
27.
蕃界(ばんかい)近(ちか)く 踏(ふ)み入(い)れば
兩岸(りやうがん)險(けは)しき 谷川(たにがは)に
藤(とう)にて造(つく)れる 吊(つ)り橋(ばし)の
あやふくかかる 所(ところ)あり
28.
北部諸山(ほくぶしよざん)の 生蕃(せいばん)を
防(ふせ)ぐためとて 要所(えうしよ)には
鐵條網(てつでうまう)を 張(は)り渡(わた)し
隘勇(あいゆう)線(せん)を 設(まう)けたり
29.
崁仔脚(かんしきやく)をば 後(あと)にして
中壢街(ちゆうれきがい)を 過(す)ぎ行(ゆ)けば
四面(しめん)の畑(はたけ)は みな茶(ちや)の樹(き)
安平鎮(あんぺいちん)の 製茶場(せいちやぢやう)
30.
本島特產(ほんたうとくさん) 烏龍(ううろん)茶(ちや)
なほも紅茶(こうちや)の 實況(じつきやう)を
知(し)らんと想(おも)ふ 人(ひと)あらば
必(かなら)ずくぐれ この門(もん)を
竟然有一種淡淡的哀傷⋯曾經是日本國土的台灣!
幹,從一首歌謠就可看到當時日本對台灣有多了解,而且完全沒想要去改篡歷史,完全真實的呈現,沒有成王敗寇般的將前朝歷史完全否定,那像中國來的政權,那種自己就是正別人就是邪的篡改零合歷史觀。
介紹到花蓮讓人印象深刻,日治台的中期,開始鼓勵日人移民來台,但卻不是讓日移民去圈地佔領西部已開發的城市平原,而是讓他們到還沒什麼人的後山花蓮開墾,這在歷史上的殖民政權都很少看到的。
認賊作父說的如此清高😓
@@frankbrown5429 像共匪認俄爹作父一樣嗎
@@frankbrown5429 我早就是皇民了
中華人民共國是全世界的賊,黃明志創作的玻璃心歌詞:別再偷我的東西。@@frankbrown5429
@@frankbrown5429不管是日本人或是國民政府都算是「賊」吧
台灣是台灣人的台灣
我們不需要有一個中國人或日本人或其他國家的人來當我們的統治者
61~90番歷史假名遣歌詞
61.
義烈壯烈(ぎれつさうれつ) 母(はは)刀自(とじ)の
大和魂(やまとだましひ) うけつぎて
社稷(しやしよく)のために 竭(つく)したる
君(きみ)がほまれは 千代朽(ちよく)ちず
62.
魁斗山上(くわいとさんじやう) 五妃(ごひ)の墓(はか)
寧靖(ねいせい)王(わう)の きさきたち
操(みさを)まもりて この土地(とち)に
果(は)てぬと聞(き)くも あはれなり
63.
全臺首學(ぜんだいしゆがく)と 記(しる)したる
大成殿(たいせいでん)の 建物(たてもの)は
公學校(こうがくかう)に 充(あ)てられて
今猶(いまなほ)吚唔(いご)の 聲(こゑ)を聞(き)く
64.
僭(せん)してここに 臺灣(たいわん)の
王(わう)と名(な)のりし 朱一貴(しゆいつき)が
住(す)みし昔(むかし)の 宮居(みやゐ)あり
今法院(いまはふゐん)を 此處(ここ)に置(お)く
65.
そぞろに淚(なみだ) そのかみを
しのびまつるも かしこしや
北白川(きたしらかは)の 宮殿下(きゆうでんか)
ここにみまかり 給(たま)ひけり
66.
君(きみ)の敕(みこと)を うけたまひ
近衛(このゑ)の兵(へい)を ひきつれて
島(しま)を平(たい)らげ 給(たま)ひたる
親王(みこ)のみいさを 忘(わす)るなよ
67.
名(な)は安平(アンピン)と 聞(き)こゆれど
港(みなと)次第(しだい)に 埋(うづ)もれて
大船(たいせん)岸(きし)に つながれず
風波(ふうは)を凌(しの)ぐ 便(たよ)りなし
68.
赤崁(せきかん)城趾(じやうし)の 大榕(だいようじゆ)
遙(はる)か沖(おき)より ながめらる
海(うみ)を行(ゆ)くひと この樹(き)をば
目當(めあ)てとなして 往來(わうらい)す
69.
これより海路(かいろ) 五十二浬(ごじふにり)
澎湖島(ばうこたう)なる 媽宮港(まきゆうかう)
みなとの内(うち)は 水深(みづふか)く
大艦巨舶(たいかんきよはく) 泊(とど)むべし
70.
更(さら)に汽車(きしや)にて 中洲庄(ちゆうしうしやう)
車路墘(しやろけん)過(す)ぎて 大湖街(たいこがい)
半路竹(はんろちく)經(へ)て 阿公店(あこうてん)
橋仔頭(けうしとう)より 楠仔坑(なんしかう)
71.
東北(とうほく)指(さ)して 行(ゆ)くときは
蕃薯(いも)に名(な)を得(え)し 蕃薯寮(ばんしよれう)
樟腦(しやうなう)出(い)だす 甲仙埔(かうせんほ)
急(いそ)ぐ旅(たび)とて 立(た)ち寄(よ)らず
72.
舊城(きうじやう)過(す)ぎて 打狗港(たかおかう)
縱貫(じゆうくわん)鐵道(てつだう) ここに盡(つ)く
商船(しやうせん)常(つね)に 輻輳(ふくそう)し
百貨(ひやくくわ)は日々(ひび)に 山(やま)を為(な)す
73.
なほも支線(しせん)に 乘(の)りかへて
三塊厝(さんかいせき)を 通(とほ)り過(す)ぎ
鳳梨(ヲンライ)出(い)づる 鳳山(ほうざん)に
曹公圳(さうこうしゆう)を 探(さぐ)るべし
74.
後庄(こうしやう)越(こ)えて 九曲堂(きうきよくだう)
一里(いちり)東(ひがし)に 阿緱街(あこうがい)
下淡水(しもたんすい)の 河口(かはぐち)に
東港(とうかう)といふ 港(みなと)あり
75.
これより五里(ごり)の 海上(かいじやう)に
かすかに見(み)ゆる 小琉球(せうりうきう)
長(なが)さは一里(いちり) 幅(はば)半里(はんり)
何(いづ)れの家(いへ)も 鹿(しか)を畜(か)ふ
76.
枋寮(ばうれう) 枋山(ばうざん) 楓港(ふうかう)と
海邊(うみべ)の路(みち)を 辿(たど)り行(ゆ)く
山(やま)はせまりて 海(うみ)をせめ
波(なみ)は激(げき)して 岩(いは)を嚙(か)む
77.
車城(しやじやう)に注(そそ)ぐ 四重溪(しぢゆうけい)
その川上(かはかみ)の 石門(せきもん)は
兩岸(りやうがん)いはほ そば立(た)ちて
恰(あたか)も門(もん)の 狀(さま)をなす
78.
明治七年(めいじしちねん) 我(わ)が軍(ぐん)が
頑強(ぐわんきやう)なりし 牡丹社(ぼたんしや)を
劇(はげ)しく攻(せ)めし 所(ところ)なり
途(みち)に記念(きねん)の 碑(ひ)を探(さぐ)れ
79.
皇澤(くわうたく)日々(ひび)に 霑(うるほ)ひて
學(まな)びの庭(には)に 蕃童(ばんどう)が
われ劣(おと)らじと 集(つど)ひ來(き)て
御國(みくに)言葉(ことば)の 花(はな)ぞ咲(さ)く
80.
氣候(きこう)はいつも 暖(あたた)かに
春(はる)の如(ごと)しと 聞(き)こへたる
恆春(こうしゆん)街(がい)に いたりなば
求(もと)めて來(き)たれ 蝴蝶蘭(こてふらん)
81.
ここにて西部(せいぶ) はてぬれば
海路東岸(かいろとうがん) さぐらんと
たよりを待(ま)ちて 海濱(かいひん)の
大板轆(だいはんろく)を 船出(ふなで)せり
82.
バシイ海峽(かいけう) 隔(へだ)てたる
ルソンと遙(はる)か 相(あひ)むかふ
最南端(さいなんたん)の 鵞鑾鼻(がらんび)に
大燈臺(だいとうだい)を 設(まう)けたり
83.
鼻(はな)をまはりて 北方(ほくはう)に
船路(ふなぢ)をかへて 進(すす)み行(ゆ)く
海上遠(かいじやうとほ)く 紅頭嶼(こうとうしよ)
雲(くも)か山(やま)かと 薄(うす)がすむ
84.
島(しま)のめぐりは 九里(くり)あまり
太古(たいこ)のさまを 見(み)る如(ごと)き
いとあはれなる 蠻民(ばんみん)が
二千(にせん)ばかりも 住(す)むと聞(き)く
85.
やがて卑南(ピナン)に 寄港(きかう)せり
臺東一帶(たいとういつたい) 未開(みかい)の地(ち)
天與(てんよ)の遺利(ゐり)は そのままに
人(ひと)の來(き)たりて 取(と)るを待(ま)つ
86.
黑潮(くろしほ)に沿(そ)ひ 進(すす)みつつ
次(つぎ)に立(た)ち寄(よ)る 花蓮港(くわれんかう)
移民(いみん)の計畫(けいくわく) 歩(ほ)を進(すす)め
開拓(かいたく)事業(じげふ) 起(お)こりたり
87.
これより沿岸(えんがん) 二十餘里(にじふより)
幾千尺(いくせんしやく)の 斷崖(だんがい)が
海(うみ)にせまりて 聳(そび)え立(た)ち
船(ふね)を寄(よ)すべき 所(ところ)なし
88.
蘇澚(そおう)の港(みなと)に 船(ふね)をすて
宜蘭(ぎらん)の平野(へいや)を 橫(よこ)ぎりて
それより山路(さんろ) 分(わ)け入(い)らば
深坑(しんかう)地方(ちはう)に 到(いた)るべし
89.
濱邊(はまべ)の路(みち)を 越(こ)え行(ゆ)けば
三貂角(さんしようかく)は 右(みぎ)に出(い)づ
領臺役(りやうだいえき) まつさきに
近衛(このゑ)の軍(ぐん)の 上陸地(じやうりくち)
90.
これより元(もと)へ 歸(かへ)る道(みち)
黃金(こがね)掘(ほ)り出(だ)す 牡丹坑(ぼたんかう)
尚(なほ)も瑞芳(ずいはう) 金瓜石(きんくわせき)
寶(たから)の山(やま)は 連(つら)なれり
終於弄完了,有夠長,希望沒有錯誤要再修改😅
12:08 日本人完全沒有避諱雲林大屠殺這件歷史。
可惜很多人都不知道臺灣特色卻說自己愛臺灣根本笑死。
31~60番歷史假名遣歌詞
31.
楊梅壢(やうばいれき)より 大湖口(たいここう)
紅毛田(こうもうでん)を 過(す)ぎ行(ゆ)けば
はや著(つ)きにけり 新竹(しんちく)に
ここは昔(むかし)の 竹塹埔(ちくざんほ)
32.
清(しん)の雍正(ようせい)元年(ぐわんねん)に
淡水廳(たんすいちやう)を 置(お)かれけり
城壁(じやうへき)の跡(あと) 猶(なほ)殘(のこ)り
舊刹(きうさつ)古廟(こべう) 亦(また)存(そん)す
33.
市街(しがい)の西方(せいはう) 約半里(やくはんり)
尖筆山(せんぴつざん)の いただきに
北白川(きたしらかは)の 宮殿下(きゆうでんか)
御露營(ごろえい)ありし 遺跡(ゐせき)あり
34.
新埔(しんぽ)は蜜柑(みかん)の 本場(ほんば)にて
北埔(ほくぽ)に椎茸(しいたけ) 多(おほ)く出(い)づ
香山(かうざん)中港(ちゆうかう) 過(す)ぎぬれば
次(つぎ)は造橋(ざうけう) 後壟(こうろう)よ
35.
後壟溪(こうろうけい)の 鐵橋(てつけう)を
渡(わた)れば此處(ここ)は 苗栗(べうりつ)ぞ
石油(せきゆ)の產地(さんち) 出礦坑(しゆつくわうかう)
これより四里(より)の 奧(おく)にあり
36.
銅鑼灣(どらわん) 三叉河(さんさほ) 後里庄(こうりしやう)
米(こめ)の產地(さんち)と 名(な)も高(たか)き
葫蘆墩(コロトン)驛(えき)の 近傍(きんぱう)に
製麻(せいま)會社(ぐわいしや)を 見(み)て行(ゆ)かん
37.
此處(ここ)まで數里(すうり)の その間(あひだ)
地勢(ちせい)嶮岨(けんそ)の その上(うへ)に
大安(たいあん)大甲(たいかふ) 二溪(にけい)あり
箱根(はこね)のトンネル 想(おも)ひやる
38.
林投(ナアタウ)編(あ)みて 作(つく)るてふ
淡水帽(たんすいぼう)の 產地(さんち)なる
大甲(たいかふ) 通宵(つうせう) 宛里(ゑんり)など
海邊(うみべ)に近(ちか)き 土地(とち)にあり
39.
潭仔墘(たんしけん)經(へ)て その次(つぎ)は
中部一(ちゆうぶいち)なる 臺中(たいちゆう)よ
清朝(しんてう)かつて この土地(とち)に
臺灣府(たいわんふ)をば 置(お)きたりき
40.
明治四十一年(めいじよんじふいちねん)に
はじめて成(な)りし 鐵道(てつだう)の
全通式(ぜんつうしき)を 擧(あ)げたりし
此處(ここ)の公園(こうゑん) 眺(なが)めよし
41.
陶器(たうき)を出(い)だす 南投(なんとう)へ
輕便(けいべん)鐵道(てつだう) 敷(し)かれたり
本島無二(ほんたうむに)の 別天地(べつてんち)
埔里(ほり)社(しや)はなほも 奧(おく)と聞(き)く
42.
流石(さすが)に猛(たけ)き 霧社蕃(むしやばん)も
馘首(くわくしゆ)の刃(やいば) うちすてて
厚(あつ)きめぐみを 慕(した)い來(く)る
蕃(ばん)產物(さんぶつ)の 交換所(かうくわんじよ)
43.
日月潭(じつげつたん)の 勝景(しようけい)は
蓬萊山(ほうらいさん)も よそならず
綠(みどり)のかげには 鳥歌(とりうた)ひ
瑠璃(るり)の水(みづ)には 魚躍(うをおど)る
44.
烏日(うじつ)過(す)ぐれば 大肚(たいと)なり
米(こめ)の集散(しふさん) おびただし
ここに河(かは)あり 大肚溪(たいとけい)
水(みづ)に遊(あそ)ぶは 水牛(すいぎう)よ
45.
龍車(りゆうしや)に向(む)かふ 蟷螂(たうらう)が
斧(をの)を微塵(みじん)に 碎(くだ)かれし
彰化(しやうくわ)の東(ひがし) 八卦山(はつけさん)
中臺(ちゆうたい)平野(へいや) 一(ひと)ながめ
46.
茄苳脚(かとうきやく)の その次(つぎ)に
バナナ 朱欒(ザボン)の產地(さんち)なる
員林(ゐんりん)過(す)ぐれは 社頭(しやとう)なり
田中央(でんちゆうあう)經(へ)て 二八水(にはちすい)
47.
全島一(ぜんたういち)の 大河(たいが)とて
音(おと)に聞(き)こえし 濁水溪(だくすいけい)
大雨(だいう)至(いた)れば たちまちに
平野(へいや)變(へん)じて 海(うみ)となる
48.
林内(りんない)過(す)ぎて 車窗(しやさう)より
かすかに見(み)ゆる 新高(にひたか)の
山(やま)の高(たか)きは 日本一(にほんいち)
明治(めいじ)の帝(みかど) 名(な)を賜(たま)ふ
49.
雲林(うんりん)今(いま)は 斗六街(とろくがい)
土匪(どひ)のさわぎに 大方(おほかた)は
兵火(へいくわ)の災(わざ)に 罹(かか)りにき
他里霧(たりむ)の次(つぎ)は 大莆林(たいほりん)
50.
打貓(ためう)の西方(せいはう) 三里(さんり)なる
北港街(ほくかうがい)の 媽祖宮(まそきゆう)は
四方(よも)の信仰(しんかう) 厚(あつ)きこと
本島一(ほんたういち)と 聞(き)こえたり
51.
林爽文(りんさうぶん)の 騷亂(さうらん)に
時(とき)の帝(みかど)が 住民(ぢゆうみん)の
義勇(ぎゆう)嘉(よ)みして つけられし
嘉義(かぎ)の譽(ほまれ)は 碑(ひ)に殘(のこ)る
52.
此處(ここ)に至(いた)らば 農會(のうくわい)の
苗圃(べうほ)に足(あし)を 運(はこ)ぶべし
小河(をがは)めぐれる 丘(をか)の上(うえ)
見渡(みわた)すかぎり 檳榔子(びんらうじ)
53.
大森林(だいしんりん)の 阿里山(ありさん)は
これより數里(すうり) 奧(おく)にあり
枝(えだ)を交(まじ)ふる 木々(きぎ)の蔭(かげ)
晝(ひる)猶暗(なほくら)く ものすごし
54.
鐵道線路(てつだうせんろ)の 右側(みぎがは)に
立(た)つる目標(めじるし) 見(み)おとすな
北回歸線(きたくわいきせん) このあたり
はや熱帶(ねつたい)の 客(きやく)となる
55.
これより南部(なんぶ) おしなべて
甘蔗(かんしや)の畑(はたけ) 打(う)ち続(つづ)き
製糖會社(せいたうぐわいしや) そこここに
煙突(えんとつ)高(たか)く 競(きそ)ひ立(た)つ
56.
水堀頭(すいくつとう)より 後壁寮(こうへきれう)
新營庄(しんえいしやう)の 西方(せいはう)に
鹽水港(えんすいかう)の 市街(しがい)あり
布袋嘴(ほていし)よりは 鹽產(しほさん)す
57.
林鳳營(りんほうえい)經(へ)て 蕃仔田(ばんしでん)
灣裡(わんり)を過(す)ぎて 新市街(しんしがい)
大目降(たいもくかう)は この東(ひがし)
糖業試驗所(たうげふしけんじよ) 設(まう)けらる
58.
南部(なんぶ)のみやこ 臺南(たいなん)は
本島中(ほんたうちゆう)に ふるくより
開(ひら)けし地(ち)とて 人多(ひとおほ)く
名所舊跡(めいしよきうせき) 亦多(またおほ)し
59.
陸軍(りくぐん)衛戍(ゑいじゆ)病院(びやうゐん)は
オランダ人(じん)の 築(きづ)きたる
赤崁樓(せきかんろう)の ありし跡(あと)
三層樓閣(さんそうろうかく) 聳(そび)えたり
60.
鄭成功(ていせいこう)を 祀(まつ)りたる
延平王(えんぺいわう)の 祠(やしろ)あり
領臺以後(りやうたいいご)に 改(あらた)めて
開山(かいざん)神社(じんじや)と 稱(しよう)せらる
謝謝你上傳這部寶貴的動畫!
仕方がないことですが、こういう古い歌がどんどん歌われなくなって、忘れられていくのはとても寂しいものです…
せめて私は覚えていよう
我去ニコニコ的原作者那裡投稿了,把我LINE記事本的網址貼給他了😂
第2番的「九州」少了島字,日語發音是「九州島」的發音。
第16番的「江頭」,其實是關渡的巴賽語Kantaw的發音,所以要發成「カンタウ」
第38番的「林投」,則是台語Nann-tau的音,所以是「ナアタウ」
另外還有很多假名上違和的地方喔😁
雖然有政治但都是根據事實。教台灣人正確地理增加對台灣自己的暸解。
這就是旅遊見聞錄或旅遊指南, 不可能是正式的地理教材的!
篇幅太長, 地名太多, 全曲記下來, 學生保證瘋掉!
我整首聽完了 標題的周遊阿姑根本沒出現啊 騙我!
@@蔣聰遠 周遊寶島的意思,
小時候讀書只知道東北三寶: 人參、貂皮、烏拉草。
連濁水溪在哪都不知
@@v8yw 最好是啦!小時候都學過台灣地理啊😂
@@chihfeng1975 我們年齡不同吧
4:41 哎呀,西班牙跟荷蘭的順序搞錯了😅
這裡講的是淡水紅毛城,西班牙人因荷蘭佔領南部,只好轉往佔領北部,建造了聖多明哥城,後來才被荷蘭佔領, 曾經作為英國領事館
日本是合法透過條約將台灣收納為日本國土的一部份,最早的台灣地位確實是殖民地,但日本花了50年一步一步用法律及建設,將台灣的殖民地地位提升成為領土
日本從頭到尾都把台灣稱作殖民地!
殖民地不適用明治憲法, 始終用的都是特別法!
殖民地的建設, 就是用來剝削用的, 所以港灣城市建設得很不錯, 可是鄉間基礎建設就很差!
败逃台湾的国民党是我们欠台湾人的债,给台湾带去了麻烦和灾难,希望你们加油努力,如果真的有一天能独立的话,把那些滞台垃圾做为战犯两边一起审判一下
先审判民进党
人民解放军炮击总统府
然后抓人
喜歡以前的歷史了如果活在當下的話也不會有科技了
這歌詞送假名用歷史假名遣,但振假名卻用現代假名遣?
有很多的ふ其實都是讀成現代的う…
反而覺得連振假名都用歷史假名遣的話還有一點時代感😂
不過用歷史假名遣對只懂現代日語的人可能會看不懂就是了,如後壁寮讀成「こうへきりょう」,但是歷史假名遣會變成「こうへきれう」😂
第42番的歌詞有一句是錯的,「馘首の刃」才對…
正義的皇軍萬歲!
很多事情都是我不知道的,日本人先調查再教給臺灣人嗎?透過歌謠教給小朋友,好厲害!
日本人不僅將台灣做地名調查.文化.語言.山野也都深入調查..日本政府也要政府官員學台語.跟某國天差地別]..還教我們黃河是我們最大河川.搞得連台灣人濁水溪在哪都不知
這就是旅遊見聞錄啊! 跟教育ㄧ點關係都沒有!
如果台灣小孩有受過這首歌的教育, 那請問李登輝辜寬敏會唱嗎?
那麼長的篇幅, 記得住嗎?
國民政府時代的旅遊見聞錄也不少的好嗎? 只是用別的形式呈現罷了!
這首歌只是紀錄, 不可能在教育實務上發揮甚麼作用的!
不信去問李登輝辜寬敏!
老蔣時代也有類似的小品, 反倒是解嚴以後, 沒再看過了!
ruclips.net/video/BacOIMnUwHo/видео.html
@@v8yw 國民政府的教材當然有濁水溪, 我到現在都還記得清清楚楚, 從南投發源, 在雲林彰化間入海, 全長186公里, 是台灣最長河川!
如果你不知道, 那就是你當年不用功, 心沒放在台灣!
因为国民党是大陆
我奶奶有唱过
旅運和貨運需要 送來了CT270和DT650機關車
用大和魂來描寫鄭成功,繼承母親血脈,果然是日本人寫的詞~
史書に基づいて自らの由緒をきちんと自覚してきた東洋人の一人として、
こういうことを忘れてしまうのは先人たちに対して恥ずべきことであるという気がしてきました。
這應該是電腦唱的,真人唱會累死
啊…原來地名是這樣來的。
這有文字檔的歌詞嗎?(平假名)感覺學日文好好用XD
到這個網站可以找到歌詞 www.applefriends.net/research/taiwan-shuyu-shoka/
有點不建議因為這首歌用的語法其實給現在日文不同所以很多日本人也未必能聽得懂
歡迎一起來領略古典日文的魅力
@@shouso7613有什麼一起的管道嗎
這是歷史假名遣😂😂😂@@shouso7613
請問能轉載到B站上嗎?
好
こんな歌があったのか…
健汰郞最上川
最上川発見!
山下秀樹 見つかったw
健汰郞最上川
チャンネル登録しました
山下秀樹 ありがたう♡
山下秀樹 僕も登録したよ
すごい
這個跟微積分挺配的
好長的歌
這麽長!
全台要介紹完
要教給學生唱, 保證瘋掉!
這首歌就是旅遊見聞錄, 或旅遊指南, 不可能是課程教材的!
老蔣時代有比較短的小品,
ruclips.net/video/3ZaxhE4wrdM/видео.html
很詳盡
篇幅太長了, 我不相信當時有任何人能唱得完!
要唱完, 不瘋了才怪!
參考一下老蔣時代台灣人作詞作曲的類似小品, 篇幅短, 我國中時整首都能背起來唱!
ruclips.net/video/BacOIMnUwHo/видео.html
解嚴以後, 這類個歌反而都再也看不到了!
记得日本以前有个铁路的歌,也特别长,好像是用一首歌把日本全国铁路路线站点都按顺序介绍了一遍
關於台灣土地的歌當代還是很多啊:陳明章、王明哲、蕭泰然、謝銘祐等音樂工作者都有很多作品,近幾年也有不同獨立樂團或歌手寫出對土地的感情 都很棒
@@10hanabi 但是,像“嘉慶君遊台灣”那樣,把風土典故結合到歌詞中,充滿知識性的,解嚴以後反而都沒了。
你是說那個被拿鋤頭的農民打得落花流水,一夕之間丟了幾千平方公里的土地狼狽逃難來台的老蔣嗎?
@@justabingbong 農民被共產詐騙集團騙了,才會犯迷糊。
打跑老蔣後,老蔣沒事,反而是農民餓死四千萬,為他們1949年犯下的錯誤,付出史上最大的代價。
放什麼ㄖ🐶歌!!!!!!!
有夠難聽!!!!!!!!!!
你有病
你是不是想起來,我在南京城殺死你7歲爺爺3歲奶奶的往事?
你可以選擇不看,而不是在那邊嘴
大日本帝國萬歲
二戰後的[日本國萬歲]。
@@WuwuWu-l9n昭和前的日本國萬歲