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三方ヶ原の戦い /決戦は不確定要素が多く、お互いどちらも恐怖し、避けようとする。/信玄、最後の戦いへ
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- Опубликовано: 26 янв 2023
- 武田信玄は二俣城を攻略した3日後の元亀三年(1572年)12月22日、に二俣城を出発し、浜松城を狙う動きを見せ南進した。
しかし浜松城近辺に到着すると、突如、武田軍は遠州平野を西進する。
徳川家康はこれを知ると、籠城策を変え、織田からの援軍を加えた約1万1000ほどの連合軍を率いて浜松城から追撃に出た。
その後、武田軍が堀江城攻略に向かうことが明らかになると、ついに家康は決戦を決意する。
しかし、武田軍は3万ほどの圧倒的な大軍で待ち構えていたため、徳川・織田連合軍は不利な形で戦端を開き、撃破され多数の武将が討たれ、壊走する。
※(その後、武田軍の一部が徳川の残党を追跡し、浜松城の北方約1キロにある犀ヶ崖付近に野営した。
一矢報いたい徳川軍はこれを夜襲し、混乱した武田軍の一部の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落して多数の死傷者を出したという。
この犀ヶ崖の戦いは、どうも後に徳川方が作り出した架空の話のようなので、この動画では割愛。)
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▼音声
VOICEVOX:玄野武宏
VOICEVOX:白上虎太郎
VOICEVOX:青山龍星
VOICEVOX:剣崎雌雄
VOICEVOX:四国めたん
▼参考文献
甲陽軍鑑
三河物語
当代記
浜松御在城記
徳川実紀
松平記
武田信玄 笹本正治
新説家康と三方原合戦 平山優
図説徳川家康と家臣団 小川雄・柴裕之
図説武田信玄 平山優
徳川家康 大戦略と激闘の譜
信玄と武田一族
▼Amazonほしいものリスト
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無理のない自然な流れで感服しました。信玄が家康を楽勝で叩きのめしたぐらいにしか理解されてない戦いだけど、どんなに優秀な指揮官でも常に不確定要素の不安におびえながら決断しているっていうのがよくわかります。
不安要素だらけで、さらに織田の誤報も見破れてない状況で家康を完全な手詰まりにまで追い込んだ信玄はやはり戦国最強と呼ばれるにふさわしいな
このチャンネル、レベル高いな。臨場感が伝わってくる
すまん、この信玄の棒読みでは、少なくとも臨場感的なものは伝わらなかったわ。
武将たちの内心をコメント化というのは斬新だし、今までの歴史系の中では一番面白い!
なんでそういう行動したの?なんで負けるとわかってて戦ったの?とか理由が分かるのも相まって理解しやすいし、本当に好きなシリーズ。
このシリーズ見てると勝ち戦に見えても裏では判断に相当神経すり減らしてるのが分かっていいな
仰る通りですね
ゲームや物語では勝つまでの道筋が計算し尽くされて、老獪な武将が若手に教えてやりながら勝つみたいなストーリーもあったりしますが、実際はそんな物語じみたものではなく、常にリスクを背負いながら戦っていたでしょうからね
勝者も敗者も常に汗だくになったり顔青ざめてたりするのがリアルでいいね。ギリギリの所で勝負決まってる感じが出てる
如何に策を巡らしあらゆる事に注意を払えるかが勝利に繋がる要素だと思います。ノリと勢いで勝つのは島津くらいかと
マジでこれ。
そう思うと、普通に凄い動画やな
「大間違い=27:45信玄は高天神城は陥せて居ない(支城を陥せただけ)ですよね。」
せっかくの動画が残念ですよね。
普通にこのエピソードわかりやすい。
数と質で全て決まるけどこんな感じでできるだけ兵や士気とか気にして行動してたら本当にストレス溜まって寿命縮まるのもわかるわ
三河遠江の攻略だけでなく織田との決戦を想定していたのであれば、信玄が家康を深追いしなかったのはやむを得ないと思いました。
圧勝と言われている三方ヶ原の戦いの戦いにここまで駆け引きがあるとは
今のように情報がすぐわからないから手探りで進むしかないのか
最新の研究やこういう動画を見ていても信長って苛烈な感じではなくて
思慮深くて繊細な人だったんだなと感じた
身内にも何だかんだ寛大なところあるし
そういう新しい解釈も今後の大河とかに反映されるといいなあ
信玄の判断が神、しかし織田の援軍情報がゲームと違って把握できないハンディって辛すぎ
全てを敵に回した外交以外は全てに置いて優秀過ぎる信玄
三増峠の戦いでは北条家を手玉に取り
三方ヶ原の戦いでは徳川家を滅亡寸前まで追い込む
上杉謙信が常に警戒し織田信長すら恐れて直接対決は避けた辺り
戦だけ見れば老練になった武田信玄が最強だったのは間違いないだろう
@@user-th8rx3uq3z
諸大名の武田家への信用を悪化させ、全てを敵に回した外交、山に囲まれている上に海がない故に、経済封鎖を受けやすい状況を打開する為に義信を廃嫡してまでの駿河侵攻は仕方ないかもしれないとはいえ、その後の勝頼への権威付けや権力移譲、経験を不十分にした後継者育成、豪族達の連合体という政治体制からの脱却ができない状態、度重なる戦や金山の枯渇による財政悪化の対策を略奪以外に示さなかった事などが勝頼の代に負の遺産として噴出してますね。
武田家滅亡は勝頼のミスも多々あったんでしょうけど、火種の多くは信玄が作ってると言えますね。
@@user-th8rx3uq3z 甲州征伐の少し前の武田でも北条は軽くボコれるレベルやから北条が雑魚すぎるのでは
2022.11月に東海道53次走破のサイクリングで三方ヶ原の戦いの合戦場を通過しました。色々な石碑が建っていました。
このシリーズを見てると本当に当たり前の勝ち戦に見えて実はそうでない
いかに自分が結果だけを知ってるがゆえに勘違いしてるのが改めて思い知らされます
この可愛くもかっこよくもない絵だけど味がある。大好物です
私も同感です👏💯
毎度の事ですが、戦略と戦術が絡み合って凄く面白かったです!!
12:50 全盛期の武田軍が恐ろしすぎる…w
武田軍の進軍の速さが尋常ではないですね。深江から下る山路とか険しいだろうに雑兵の脚力や恐るべし!
武田軍の行動に説得力がある動画で通説よりも納得がいく良い動画でした。
兜だけが強そうな忠勝のビジュアルが最高でした。
26:20からの音楽と家康がカッコイイ。戦国三英傑の中で唯一、最強の武田信玄に正面から戦を挑んだ家康、もっと評価されるべき!
二俣城攻略時には信玄の病はかなり深刻
二俣城から三方ヶ原まで結構時間かかるのがその可能性が高い証拠
そして虫の息の家康を見逃して帰路の途中で亡くなったのもかなり状態が悪かったんだと思う🤔
無理にでも家康を追撃して討ち取っていれば、勝頼が無理をしなくて済んだかもしれないって思いました。
家康を討ち取って浜松城を落としていれば、もしかしたら勝頼は浜松城に拠点を移す事だってできたかもしれないという希望的観測をしちゃいます。
何事にも用心深い信玄いいですね、こういうところを勝頼も引き継いでいれば、簡単には負けなかったのかも。
勇猛果敢より少し臆病さを持つくらいのほうが慎重になるのかなと思います
勝頼の立場や状況を考えるとそれは無理だと思いますよ。
勝頼は元々諏訪家への養子に出されていた出戻り。 当時武家社会では他家に養子に出されていた人間は兄弟が他にいない限り実家の家督継承はできない傾向(秀吉や結城家の養子に出されていた秀康が徳川家を継げなかったなど)がある上に、かつて武田家と敵対していた諏訪家の血を引いている。
武田から見ても諏訪から見てもよそ者扱いに近い(信玄の側近駒井高白斎の日記、高白斎記に信玄の長男義信や次男信親の事は多く書かれているが、幼少期の勝頼に対する記述がない)。
信玄が生前に勝頼に家督や官位を譲らず、死ぬまで武田家当主であり続け、勝頼の扱いを信濃先方衆のままにした為に、勝頼への権威付けや権力移譲が不十分になってしまった。
信玄の頃から金山の枯渇による財政の悪化が進んでいた。 兵を食わせたり、家臣達に褒美をやるにはお金が必要なのにそれがない状況になった。
信玄が晩年に敵対した織田家は、濃尾平野を持ち石高が高い上に当時の日本の経済拠点だった堺や大津などを押さえていて、動員兵力は武田家よりも圧倒的に上だった。
信玄の甲相駿三国同盟の破棄や信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながらの徳川攻めで、諸大名への武田家への信用は地に落ち、武田家は信用ならないという評価を与えた。
そんな状況の中で用心深く行こうとしても、発言力が強く独立心が強い家臣達の突き上げを受けるから、勝頼は進むも退くも地獄という状況になってしまったのだと思いました。
@@user-qc2lq4gu8q 長篠城や設楽が原の戦いの古戦場に行きましたが、通説では重臣は撤退を進言したと言われてますね。一方で勝頼は決戦の意気込みがあるかのような書状を残しています。この時は撤退して動画のように家康とだけ戦う姿勢を見せれば、簡単には負けなかったのでは?と思いますけどね。まだ謙信も健在のころです。
@@user-qc2lq4gu8q
確かに信玄の外交はクソで武田の信頼を地に落としたんだけど、勝頼の対上杉外交も最悪だったよね
こっちはそのままにしてたら北条に囲まれる事になるからもし北条が信長と完全に組んで武田を潰しに来たらすぐ詰みになるからまだ信玄の外交よりは理解出来るんだけど、勝頼の経歴の中でも一番の失敗だったよね
@@user-ye6hr4mi5o さん
どうでしょうね‥
仮に長篠の戦いに勝利したとしても、畿内を制圧している信長の圧力をジリジリ受けるだけで、その間に調略で切り崩されていくので少なくとも明るい未来はないように思えます…
正直な話、信玄の負の遺産を抱えながら最大版図を成し遂げ、長篠の大敗後も後北条氏を追い込んだ勝頼の手腕は評価されても良いように思えます。
待ってました👏💯武田の強さばかりが目立つ徳川領侵攻でしたが、家康もタダでは引かなかった。一方的な敗者として描かない主さんの動画の造り方が好きです。
待ってました!今回も外道いただきました!もう大好き
追撃してる徳川軍が鶴翼の陣を敷くのは自然だが、行軍態勢から反転して縦隊魚鱗の陣に変えるには周到に事前打ち合わせがないと難しいと思う。
信玄は負けないように戦ってるが、勝頼は勝ちに行って負けちゃった。やっぱり武将としての経験の差が大きいんだね。
勝頼の場合は勝ちに行くしかないって状況だったのも大きかったと思ってます。
長篠で撤退していたら、信長や家康が「武田は織田や徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と喧伝してくる→そうなったら三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められても自分達の為に戦うどころか尻尾を巻いて逃げ出す。 しかも少数の兵しかいない長篠城も落とせなかったという事は武田は弱い事になる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 ならば自分達も織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われ、国衆達が武田から次々と離反する結果になったと思います。
甲斐や信濃の国衆達も、信玄や信虎、それ以前からの重税で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しで撤退したら恩賞が貰えない。
戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。
しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣達の出費を補填できない。
山県昌景や馬場信春らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出る。
当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。
鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門・武田家に対し、信長の織田家は元々守護代の家臣筋、徳川家も三河の土豪出身。
武田から見たら織田や徳川は素性が怪しくて身分も低い、卑しくて格下の家柄の相手。 そんな相手に戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら武田家だけでなく武田家に従う家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。
これらの事を考え、長篠で撤退していたらお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わり、面子まで潰された家臣や国衆達が「重税で生活が苦しい中わざわざ遠征したのに、何の恩賞も無い上に乱取りもできないのか。 これじゃあ俺達は今年や来年どうやって食べていけばいいんだ。 俺達の陪臣達からも恩賞が貰えなかった事で不満が出ているぞ。 しかも織田や徳川という卑しい家柄の奴らに戦いもせずに逃げ出したと喧伝されて俺達の面子を潰しやがって」という風に不満を抱いて何をしでかすか分からないと思います。
今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、勝頼を追放するか殺して別の誰かを武田家当主として担ぎ出そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出るかもしれない。 そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、もしかしたら北条や上杉にも侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。
仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は開いて更に大きくなる一方。
仕切り直した時には今以上に領土を広げ、国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない。 それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。
当時の武田家の状況
信玄が同盟や和睦を平気で反故にして他国への侵攻を繰り返した為に周辺諸国の武田家への信用が地に落ちている。 極め付けに信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。
徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや、共同で今川を攻めた時に今川領を分ける時の約束を信玄が欲を出して破った事、家康が武田に無断で今川と和睦したり、上杉や北条と組んで武田包囲網を作ろうとしたり、信長に武田と手を切るように何度も言っていたらしい事を考えると無理。
織田と敵対した事で鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料である硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。
浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題。
これらの状況を打開するには、まだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与えて「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのはその時しかなかったと思います。
撤退したら次に織田と戦う時は信長は出てこないかもしれないし、普通に調略したところで熱田や津島、堺などの商業が発達した街や濃尾平野という穀倉地帯を押さえ、税が安く豊かな織田を離反し、山に囲まれていて耕作に向いた土地も少なく、税が重くて貧乏な武田に味方する者は出てこないでしょうから。
@@user-qc2lq4gu8q
長文全部読みました。
素晴らしい慧眼ですね。
ここまで背景を読み説ける方は
今まで見た事ないです。
本当に素晴らしい。
この時期織田・徳川は信長包囲網で窮地に立っていたけれど武田の立場に立つと武田もまた包囲網で窮地に立っていたのだな。
このときの武田軍は信玄が生涯をかけて育てた子飼いの武将達と兵士が、練度、士気ともに最高でまさに軍が手足の若く動けた。つくづく信玄の死が惜しまれるな、信玄対織田の決戦が見たかった。
信玄が生きているって事は謙信が信長のずっ友のままだから信玄、本願寺VS信長、謙信、家康になるっていうね
本願寺が味方と謙信が味方、どちらが頼もしいかやね
@@nomoney8296 本願寺(一向一揆衆)の方が頼もしい気もします。 あくまで個人の感想です。
@@kobannekoni4577
大名なら謙信より強いのと言われると考えてしまうけど、厄介さのベクトルが違う本願寺なら有り得る話
@@nomoney8296 そうですね、無尽蔵に湧く信徒と莫大な財力。財政面が比較的弱い武田には心強い味方になりそう。
@@nomoney8296 信玄が生きていれば、義昭も京に居たままだろうし、信玄が義昭に唆して義昭が上杉、武田との和睦調停に乗り出せば上杉、武田VS織田、徳川の構図はあったかも、更に言うならある程度織田の勢力を追い払った上で朝廷に働き掛けて朝敵認定、毛利や北条、大友に織田包囲網の参加を要請すれば時代は変わってたかも、幾ら信長でも上杉、武田、毛利、北条、大友、一向一揆、足利、浅井、朝倉、雑賀衆らをまとめて相手するのは無理だしね
何が何でも武田に敵対しようとしてくる徳川を選択の余地なく潰さなきゃならない戦いであって、
何も「京に旗を立てる」とか考えてなさそうですね、信玄。
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!
楽しみに待ってました!
全ての動画を見ております。
見始めたら最後まで見てしまう、構成とても素晴らしいとおもいながら楽しく見ています。
今のままのスタイルで、投稿いただけるのを期待しています。
次の投稿も楽しみにしています。
織田の情報戦はのちの長篠の合戦で勝頼の判断を
狂わして大勝利するから信長の得意技なんでしょうね
その情報戦だけじゃなく、武田家内外の事情から勝頼は進むも退くも地獄という状況に追い込まれ、活路を見出そうとしたが上手くいかなかったんでしょうね。
いつも楽しく見ています
テンポよく相手を腐れ外道とか口悪く罵るのが好きだったのでこの路線はそのまま続けてほしいです!
恐るべし信玄
この人がもう少し長生きしてたら歴史は変わったのかもしれませんね
武将たちの 心理が揺れ動く。。。
信玄は やはり 上手。
戦の中で 戦死者が一番出るのは敗北側の追撃戦での犠牲。 三方ヶ原の戦いは午後4時くらいに始まったという。一方で 長篠の戦は 早朝6時からの戦い。三方ヶ原の戦いがもし 早朝からなら、武田軍も追撃戦で多くの徳川兵を倒していたかも・・・・
30分があっという間でした
ホントにクオリティが高い
信玄の判断力すげえ。💧
大河の阿部寛の、三方ヶ原の戦いは、ちょっと楽しみにしてる。
今回も面白かったです。以前のモンゴル軍の回も良かったので改めて作って欲しい😆中国の北方異民族系の解説動画とかも見たいです😄😄😄
凄い!リアルな状況がイメージできて、最後までじっくり観てしまいました!
信玄の圧勝だと思っていた三方ヶ原の戦いも実は信長を警戒しながら深謀遠慮の上だということがわかった。信長の偽報を見抜いていれば浜松城は落とせ、家康は討ち死にしていたかもしれないのが惜しい
三方ヶ原で大敗した徳川家康は(一般によく言われる)空城の計を使用した。
滅亡寸前なのに、城門を開いたままにして罠や伏兵がいるように見せかける。
同時に目印として派手にかがり火をたき、四散した味方を集めつつ、敵をわざと誘っているように見せて警戒させる。
徳川家康を追ってきた山県昌景は、浜松城を眼前に深追いをせず去っていく。
常勝軍は「六分か七分勝てばよい。 八分の勝利はすでに危険で、九分、十分の勝利は味方の大敗を招く」を実践していた。
そう習ってきた浜松城における謎の退却が、織田信長軍8万の接近情報があったのが驚き!
歴史がこうも変わるとは・・・!
まあ信長の最大の強みは(取得面でも陽動面でも)情報戦ですからね
合戦によっては忍衆に1番報酬を弾んだとも言われてますし
このチャンネル、現代日本はクッソ楽勝に描くのに戦国史になった途端「勝ちに不思議の勝ちあり負けに不思議の負けあり」の精神になるのホント好き
負けに不思議の負けなしです
意味が変わってくる間違いはしないでください
うーん、恥ずかしいな…
@@makyuu2002 一年前なんで見てらっしゃらないと思いますが、野村克也氏のその発言自体は存じあげてますし、意味を変えてコメントしてますよ…そのために「」付きにしてますし。
(意味変えてます)とか注釈いりましたかね?
信玄は遠州攻略を慎重に着々と進めていたんだろうが、慎重過ぎて時間切れ(寿命尽き)になったのかね
今までは家康の若い頃の気質(舐めやがって)だの旧今川旧臣らを糾合した手前戦う姿勢を見せなければならないって感じのふわふわした見方になりがちだったけど浜名湖の水運を握る堀江城の攻撃によって水運が断たれ、干殺しになるのを阻止しないといけなかったという平山先生(どうする家康の考証)の新説がわかりやすいし納得した思い出
こんな大敗があっても吉田城以西の三河への侵入を阻止した家康の戦の能力も信長や秀吉みたいな華はないけど決して引けを取らないよね…(あちこち信長の戦の支援も並行しながら)
凄いハイレベルな頭脳戦…これだから歴史は面白い…
up主の想像力が良い😀
話の中に出てきた見付(現磐田市)出身です、浜松と静岡にも住んでいました。浜松は家康は信玄に追われて逃げ回ったけど逃げ切って生き延びた弱小殿様、静岡は慶喜が幕府を捨てて余生をノンビリ過ごした場所、静岡県民から徳川家を見ると死ななければ良い事もあるという感じですね、カッコつけて切腹とかしない考え方は良いと思います。
毎回本当に楽しみにしています☺️
毎回動画を楽しみにしています。両軍の心理描写がとても面白いです😁
徳川と合流した織田の後詰が実は20000以上に上るという資料が発見されたと言います。そう「仮定」すると両軍の戦力は拮抗、やや連合軍が多かった可能性があるんですよね。浜松城は2万以上詰められるように大改築され当合戦でも全兵詰めていた可能性があると。とした場合武田の浜松スルーは必然ですし後ろを取った(ように仕向けられた)連合軍の鶴翼も納得できるんですよね。更に織田の後詰の風聞があるなら信玄がここまで慎重になるのも分かりますしそれを完膚なきまでボコった武田軍は紛れもない日本最強軍団の一角でしょうし軍事的に強すぎたゆえに大戦略で不覚を取った、そう思えます。
平手、佐久間「うわぁぁぁ武田だぁぁ逃げろぉぉ」
家康「織田軍使えねぇぇ!」
この敗走で途中の茶屋で餅を食べ急いでいたため、お金を払わずに出てしい
それを店主が追いかけ料金を回収した
今も浜松には家康が立ち寄った茶屋のあたりに「小豆餅」
店主が追い付いて餅の代金を受け取ったあたりに「銭取」
それぞれ地名が残っています(諸説あり)
お約束でそれぞれの名の銘菓があります
面白かったです。
あっという間に終わった。
恐ろしい外交力だ……
第二次世界大戦の時にもこのくらいの外交力が日本にあったなら……
ヒトラーと同盟を結んで人類の敵になりました。
近年歴史学者・作家の磯田道史氏が提唱している「織田援軍9隊2万」説ですがあくまで武田方が掴まされていた偽報・虚報の類であったとする解釈に私も同意します。
佐久間、水野、平手といった織田家中でも大身であった三人の大将が3000人というのもやや少なすぎるように感じますが、当時の信長の畿内戦域、不安定な東美濃情勢、三河が抜かれたときの抑えなど考えると、浜名湖以東に展開していた数はそんなものだろと思います。
めちゃくちゃ面白いなこれ
まさに、疾きこと風の如く、徐なること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く!ですな
孫子の兵法ですね。
やっぱり信濃、甲斐だと外交、駆け引き、根回し大事よね。ただの脳筋では絶対無理ゲー地帯だよ。
そもそも北条が武田を見限って上杉についたのは武田の失態でもあるからなせっかく甲相駿三国同盟で基盤作ってたのにさ
今川義元が討死したからと言って今川領を切り取る愚行を選択したし北条の要請も無視した結果上杉と手を組んだわけで結果四方八方敵だらけになったんだろうにね。
まぁ上杉が関東で暴れてる時も援軍には来てくれてたし関東平定中に長尾景虎の目を引く役をやってたりしてたから敵対はすれど侵攻はしなかったのかなって
けどその同盟を破らなければ武田にこれ以上の発展が無かったのは事実やし、成功させても居ますね
元々、信玄自体が家臣の掌握ができていなかったから、絶えず土地を拡大していくしか支持を得る事ができなかったんだよな。
おまけに武田家の財政は金山が主で枯渇しかけていたから、港と金山を保有している今川家を狙ったのは自然な流れだよ。
それほど海は魅力的なものだったのかもしれない
@@nri4086
ですがそのせいで北条と敵対、氏康の遺言のおかげで北条と武田は再同盟したが、御館の乱で同盟破綻しましたね。
勝頼は家康の蠢動を許す危険性がある中で上杉家のお家騒動に関わる道理はないのに、氏政の要請で出陣せざるを得なくなった。 早く甲斐に帰りたいから景虎支援とまではいかないが、景勝と景虎を和睦させようとした。
積極的な景虎支援をしなかったと勝頼が責められるのも納得がいきますが、信玄の三国同盟破棄が北条に武田は信用ならないという印象を残したと思います。
武田の軍事力では浜松城は落とせないと見切っている信長はさすがである。
「今は手を離せないから、城から出るな。そのうち帰るから。」というアドバイスとともに
城を守れるだけの手勢と兵糧を買う資金を送った。
城を出たのは家康の責任である。
それにプラスして大量の鉄砲と鉄砲を使う為に必要な火薬も送っていたのかもしれませんね。
武田徳川大好きですが、徳川から武田を裏切った事や、上杉を攻めると見せかけて徳川領に侵攻した事は知りませんでした😅
投稿主は信玄や家康の性格を熟知してるのが言葉の端々から伝わります(いや知らんけど(笑))
とにかく信玄は100%勝てる戦じゃないと戦わん人やし、家康は家康で結構イケイケだと思うのでそういうのが分かりやすく表されてるのが面白いと思います
この後の信玄が亡くなる所まで続きが見たいです‼️
武田本隊が富士川沿いに駿河、遠江に進軍したというのは新説ですね。
この戦い以降、家康は決して単独で武田と戦うことはなくなったという噂ですね。
初めて観たけどクソおもろい😂
あと小牧・長久手の戦いが観たいです
本当に糞を漏らして部下から笑われる家康。
最近の研究では、この時の織田方の援軍はかなりの兵力であったとする説がかなり有力となっているようです。少なくとも三千などという数ではなかったという訳ですが、徳川軍が三方ヶ原で大敗を喫したのは事実ですので、やはり徳川家康では武田信玄には敵わないという事になるのか。
援軍で佐久間・平手を筆頭に、家康に全betするしかない状況の水野も含めて3千なはずないからね
国力的に言えば武田3万の徳川・織田(実質尾張勢)1万5千ってとこだから不利なのは間違いないだろうが
@@user-nk6qy4ee8q この時の武田軍は、3万などという大兵力ではなく、せいぜい2万2千程度だったと思われ、徳川軍は織田の援軍も併せて1万8千ぐらいいてもおかしくはない。そうでなければ城を出て戦おうとするわけがないし、それほどの兵力差があったとは思えない。でも結果は徳川軍の惨敗で、原因としては徳川軍が不利な地形におびき寄せられたということと、そもそもの戦術、陣形にも差があり、勝ち目など本当は最初からなかったという事になります。武将としての能力差が大きいとなりますが、家康から見れば相手が悪かったとなります。さらにこの戦いでは近習たちが悉く討たれていて、家康としても高い授業料を支払ったという事になります。
戸次川の戦いで動画作ったらめちゃくちゃ面白そうで悶々とする
こうやって引きずり出されたというか打って出るしかない無くなったわけか
なるほど武田の包囲網が出来上がった原因がダッフン大権現の行動であったと
勝敗は兵科の常だから、たとえ無謀な戦いだからと負けても対等の同盟者である信長から叱責を受けるいわれはないだろうが、信長から受けた援軍の兵と武将をなんの成果も得られず全滅させた責務はあるんじゃないかと思う。
〇〇の外道は〜で何故か笑ってしまう
本当にそう思います。特に、騙している間は淡々と策を語っているのですが、
騙されると途端に感情剥き出しで「外道が。信用できぬ」になるのが面白いです。
武田戦の本多忠勝はヤバい😂
浜松城近辺の武田信玄の動きは「未必の故意」じゃないかな。家康かカッとなって面目を保つために出撃する可能性があることは想定していただろうし、仮に家康が出撃しなくてもそのことをネタにして三河近辺で散々家康の悪評を流布して離間工作とかやる予定だったんじゃないかな。
にしても、真冬のクソ寒いときにいきなり石を投げられでもしたらカッとする兵も出るし血気盛んになって交戦しちゃうよね。このへんも信玄の想定内だったんだろうな。
さて大河ではこの戦いをどう描写するのか…
兵力は最大の軍事機密だから、後世に正確に伝わりにくい。だから、三方ヶ原の戦いの両軍のそれぞれの兵力は大きな謎だ。通説では織田・徳川連合軍が1万2千、武田が2万8千。武田が織田・徳川の2倍以上だ。普通に戦えば、武田軍の圧勝だ。そんな状況で徳川家康が、浜松城を出て武田信玄に決戦を挑むだろうか。
ただ、行軍中の大軍の後方を攻撃して、敵に一撃を加えるという意図で城を出たというのであれば、可能性はあると思う。そのとき、武田軍が混乱して壊滅する可能性もある。その可能性にかけて、若い家康が血気にはやったというのであれば筋が通る。
戦後、家康が「しかみ像」を描かせて、この敗戦の反省をいつまでも忘れないようにしたという話は有名だ。自領を踏み荒らされて、何もできずに城に籠ることは、武将としては最大の屈辱だ。武田軍が浜松城に向かって進軍してきた時、いよいよ戦えると思った矢先、武田軍が反転した時、その屈辱は頂点に達したに違いない。尻を向けて後退する敵軍を追撃しないというのは、後で敵軍からも自軍からも臆病者、腑抜けと陰口をたたかれるのは免れない。
「武田の大軍に対して、初めは城に籠っていた神君家康公は、自領が踏み荒らされる屈辱を晴らすため、寡兵にもかかわらず、敢然と城を出て、2倍以上の武田軍に決戦を挑んだ。しかし、残念ながら、多勢に無勢、健闘もむなしく、家康公は敗れ、命からがら、浜松城に引き返した」
このストーリーはよくできている。実際に家康は三方ヶ原の戦いに敗れたので、嘘をついたわけではない。逆に、寡兵にもかかわらず、大軍に立ち向かった勇敢な若き武将として、面目が立つ。しかし、もし、両軍の兵力の差があまり無いとしたら、徳川軍の弱さ、家康の戦術のまずさがクローズアップされてしまう。それはまずい。
個人的には「武田の兵力が徳川・織田の2倍以上あった」、「信玄が巧みに家康を浜松城から三方ヶ原におびき出した」は、事実に近いような気がする。
この時期の関東・東海の同盟関係は、今川・北条・武田の甲相駿三国同盟から始まる。しかし、今川義元が桶狭間の戦いで戦死すると、今川が衰退する。すると、武田と徳川が密かに同盟を結んで、同時に今川領に侵攻する。これによって甲相駿の三国同盟は事実上破棄される。徳川は遠江を、武田は駿河を支配下におさめる。しかし、この戦闘の最中に、武田軍が徳川領にも侵攻したために、徳川と武田の関係が悪化し、同盟が破棄される。徳川は即座に北条と同盟を組み、北条とともに武田を攻撃する。武田は孤立して苦戦し、主力軍を駿河から甲州に撤退させる。武田はすぐさま北条領の相模に侵攻する。小田原城を包囲して、北条を威嚇する。帰還する途中で北条軍と戦い大勝する。これによって北条は、徳川との同盟を破棄して武田と同盟を組む。これによって、武田は駿河の支配を復活させる。しかし、越後の上杉が信濃に侵攻してくる。武田はこれに対抗するために信濃に出兵する。武田はこれに手こずり、徳川攻めがなかなかできない。
足利義昭の主導で織田包囲網が築かれると、畿内で反織田勢力が蜂起し、信長はその対応にくぎ付けとなる。また、越中で反上杉勢力が蜂起すると、上杉謙信はその対応に釘付けなる。このチャンスに武田信玄は大軍を率いて徳川攻めを始める。それまで織田信長は表立って武田と敵対していなかったが、武田の徳川攻めによって、武田と戦争状態となる。信玄は巧みな戦術を使って、三方ヶ原で徳川・織田連合軍を打ち破る。これが三方ヶ原の戦いである。
あれ?
信玄も高天神城🏯落としてたんですか😮
勝頼だけかと思ってました
私も疑問に思いました。
信玄は高天神城を落とせず撤退していると思います。
最近の話しだと、城主が降伏して城は早めに明け渡されていますね。その後また裏切ったので勝頼が攻め落とした。という話。
家康の外交的挑発・信長の外交的無神経?で関係破綻、主力は駿河方面から侵攻、織田の兵力優勢に対して慎重になる信玄。これが最新の資料、兵站などを考慮したリアルな展開ということか。よくある武田軍最強!解釈に頼らず、細部まで説得力のある構成で楽しめました。ただ分かりやすくするためだったのかもしれませんが、「大阪本願寺」より「セッツ(摂津)本願寺」の方が響きとしてラスボス感があってよいかと思うのですが(笑)
戦「は」強かった信玄、だけど・・・
結局外交の失敗がものすごく響いているような気がする。なぜ実質反武田連合みたいになってしまったか?信玄は信用ならないという気にさせたのではないか。同盟を一方的に破棄しまくった信玄が、結果的に武田家滅亡を生んでしまった。
逆に家康は大ピンチに陥ったが、信玄に惨敗したことがいい方に傾いた。
秀吉に移封を命ぜられるまで遠江・三河は家康の所領だった。命を懸けた戦いがうまくいったのかもしれない。
面白いのは乱世は騙しあい、と言いながら、体を張った家康は最後まで信長との同盟を機能させ続けた。それどころか「信長の同盟者」という立ち位置で天下人になった。信用こそもっとも変えがたいものなのかもしれない。
外交の失敗や、度重なる戦や金山の枯渇による財政の悪化、豪族達の連合体という政治体制からの脱却ができないままという状況が勝頼の代に負の遺産として出てきてしまったのだと思います。
@@user-qc2lq4gu8q様
この意見に賛同いたします。
もっというと、日本住血吸虫症の影響が大きかった。農業がほとんどうまくいかない状況でした。
山道+貧困なら兵士はそりゃ強い
しかし、一揆も起こりやすい環境だったと考えると、とにかく外に外に戦いを求めるしかなかった。
金と戦の強さで一時的には靡いても、統治はうまくいかない。
スイスの傭兵話を動画で見ましたが、なんか武田にそっくりなように思いました。
2:39 同盟とか効果あったのか。休戦なんだろうけど一方的に破棄はよくあるだろうし。
個人的には
徳川織田連合は4万くらいの軍だったと思ってます。
だからこその鶴翼の陣であって、劣勢の武田が魚鱗の陣だったのかなと。
佐久間や平手の軍勢が3千というのも腑に落ちない。
でも元を辿れば今川を挟み撃ちにしたときに当初の合意に反して武田軍の一部が大井川を越えて挑発したからじゃない?
おもしろかったです。
あなやまのぶきみと思ってました…かなり正確ですね。この動画
木崎原の戦いも観てみたいですね。
信玄て諸葛孔明に似てる。堅実な戦術、負けない為の戦に徹してる。
信玄は確かに優秀なんだろうけど場所が悪かった...
信玄とすれば信長が水面下で進めていた経済封鎖に苦しめられていたんだな。だからこそ乾坤一擲の大勝負に出たんだろう。
味わい深い・・・
やはり、直線的に戦線を驀進出来る謙信と、一歩ずつ領域を拡大するしかない信玄とでは格が違うと思った。
すっぱやら忍びを数多く用い、情報を徹底的に重視した信玄ほどの名将が、来るはずもない織田の大軍の後詰めを異様に警戒して信じこむのはあり得ない。
すごい。おもしろい
ワイの家この時に出来た
遅刻して戦に間に合わなかったけど
参軍したから褒美で土地貰った
関ヶ原も参加した
江戸幕府でも血と汗を流して働いた
今の政府に対してもそれなりに働いてるつもり…
今もその土地持ってるけど、資産が親族間の争いでバラバラになった…
どんだけ頑張って維持しても壊れるのは一瞬
両軍兵力について平成初期までは武田約3万の徳川織田1万ちょいという説がまかり通っていましたが、軍記ではない旧蔵聞書もろもろを調べて、現在はむしろ武田3万の徳川織田も3万というのが支配的みたいですね
織田の援軍が当時秀吉や滝川なんかよりも禄が格上の佐久間だった事からみても、おそらく2万近くの尾張兵を動員した事は正しいと思います。
また本来追われる信玄は魚鱗のケツ=徳川の眼前にいるはずが、普通の総大将ポジションの奥にいる逆さ魚鱗だったことは、完全に徳川織田がハメられて合戦せざるを得ない状況だったことになる。
つまり武田は野戦では本当にイカれた強さと計算高さで通っていて、これにあぐらをかいたのが武田の最終的な滅亡の要因でもあったのでしょう
何度も言いますが、甲斐にこだわりすぎた。駿府に本陣を移すべきでした。海に面した駿府に移り謙信に北信を返却して、同盟を結んで織田、徳川と決戦するべきでしたね。
北信返却は難しいでしょうね...
戦略云々以前に真田家と領土問題が勃発するのは確実だと思う
しかも信玄は領土化した信濃や西上野、駿河に甲斐と同等の重税をかけたらしいですから、領民から恨みを買っていて、本拠移転ができなかったのかもしれませんね。
信玄に攻め込まれるのは恐怖だ❤
武田信玄が上杉領への侵攻を本当に行っていたらどうなっていたかも気になる。越後の占領に成功し、力を蓄えたら織田徳川に迫る力を得ていたかもしれない。
この時代って敵軍の動きをどうやって追っていたんだろう。
徳川は弓を打って逃げるような戦いをしていないことから、難しいのかな?
良かった。
氏康の死が契機っぽいな
織田にとって、武田徳川ともに同盟者であるのなら、武田徳川の同盟破綻を停めるべきだし、それが破綻したのであれば、武田が徳川を攻めることをとがめる権利もない気がしますが・・・。
三方ヶ原の戦いが昼間だったら追撃戦で家康は討ち取られていてもおかしくなかった