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「先祖代々、水呑百姓だったけど、3代に渡ってちょっとずつ土地を買い足していって小金持ちになれたのに、戦争負けてGHQにぜんぶ取られた!」って嘆いてる爺さんが近所に居たなぁ。
奴婢の話聞いてると、個人事業主としてやっていけなくなったから雇用主見つけて労働者になるって感覚に似てるよな。あんまり奴隷感ないかも。
勉強になりました。痛くない死に方は、毒?苦しそうだけど。首も直ぐには切れそうにないし、やらされる側も位がないとできないよね。あっても後から悪夢になりそう。解剖学がないから心臓一気にってなかったか、、、無くしてくれてよかった。
いらすとや、介錯人まであるのか。。
編集お疲れ様です
落武者狩りは陽キャ狩りともいえる。
中国から奴隷制度は伝わったが、宦官は伝わらなかったのは謎だな。
科挙の制度も伝わっておりませんな!
@@堀坂文雄 あれは試験内容が異常で宦官同様伝わる必要ないと思います。
奴隷制度も別に中国から伝わったもんじゃないけどね。この動画で取り上げられてる奴隷と称される者達も、シナ大陸の帝国やキリスト教徒が行った奴隷制度のようなものとは異なるものだし。
からゆきさん…サンダカン8番娼館、(ノンフィクション小説/映画)を読むか観るかしてほしいです。
読みました。良い作品だと思います。
過去にあった悲しい出来事は、現在ではより幼い頃に、おじろく、おばさのように当たり前のこととして組み込まれているように思います…少なくとも18年前、私の家には座敷牢がありました。トイレはポータブルで、部屋に設置されるものの進化はあるでしょうが…身分があるとすれば、自分が最も下位だと思うようになってから楽になりました。いくつかの話は"過ぎさった歴史"には思えませんでした。大変貴重なお話、そして歴史は繰り返してしまうのかなと考えています。
聖徳太子時代前が1番中国へ坊さんや官僚達を中国に送り、あの時代の流行・美術・本・医療・科学・女性の髪飾り・衣裳・仏教・全てスケッチにして、持てるだけの最新情報収集して日本に帰りました。其れまで、おすべらがしだったのを庶民は髪形等違って来たのです、日本は全て中国の流を組んでます。その後日本は鎖国にはいりましたから、日本独自に変えて行きました。で、今の髪形・着物の着方に成りました。髪飾りもそうです。皇族方の着物の着方にがソックリです。でも、靴は日本に広がら無かったたのね。韓国には、広がったのに~
天明の飢饉のときには地球が一瞬氷河期になったとか聞いたことが。
社畜と奴婢、選ぶならどっち
どっちも同じぐらい
日本古代史=大和朝廷が他のムラやクニを滅ぼし迫害する歴史だからなぁ…。そりゃあ、残虐な側面が無いわけがないのよ。
徳川家康が15歳の時 負け戦になり落武者狩りの標的になった。その時 身を潜めたのが第二の父親と称するお寺の住職の元。農民達がこの寺に逃げて来た所を目撃していて寺の住職へ攻め寄ったが、寺の門に使うかんぬき棒でこの落武者狩りの農民達を追い払った。
明智光秀は生存説もあるよ。
島流しもまとまって送られてたら流し先の島がオーストラリアみたいになってたのかな?
ということでしょう😉
切腹の介錯をする場合は単なる死罪(斬首)の場合と異なり、首の皮1枚を残さなければならなかった(「首の皮一枚」という言葉はここから出来た)。これは胸の前にぶらさがった頭の重みで切腹者を前のめりの状態で死なせる配慮だったと言われている。
シューベルトの幻の曲として有名なのは、1825年にグムンデン・ガシュタインで作曲されたという記録が残っている「グムンデン・ガシュタイン交響曲」。これが発見されれば、《未完成交響楽》ことロ短調交響曲 D 759 と、《ザ・グレート》ことハ長調交響曲 D 944 の間に、もう1曲、交響曲が作曲されていたことになる。未完のまま残されたホ長調交響曲 D 729 がそれなのではないか、いや、自筆譜が紛失したのではないかなどと取り沙汰されていました。このうち、ホ長調交響曲は、1821年の作とされているので、もしこの曲がグムンデン・ガシュタイン交響曲なのだとしたら、シューベルトはこの曲の自筆譜をグムンデン・ガシュタインに持参して書き続けていたことになる。この曲の自筆譜はロンドンにあるので、私は調査したことがないため、自筆譜の紙の透かしやラストラール、筆跡などから、より確かなことを言うことはできません。-しかし、ヒルマー博士の筆跡鑑定研究によれば、ウィーン楽友協会資料室が所蔵するハ長調交響曲 D 944 の冒頭にある作曲年代は、1828ではなく、1825とも読める。そこでこのハ長調交響曲の自筆譜の紙の透かしを私が再度、詳しく調べたところ、この交響曲の自筆譜に使われている五線紙は、ハ長調交響曲がウィーン楽友協会会員になるために提出され、初演された1828年のものではなく、1825年のものであることが判明。更に、透かしの針金モチーフの変形具合や、曲が書き進められるに従って五線紙が微妙に変化することから、シューベルトは、静養中のグムンデン・ガシュタインで書き進めた交響曲をウィーンに持ち帰って完成させたことが分かりました。-つまり、シューベルトは、1825年にグムンデン・ガシュタインでかき始めた交響曲をウィーンに持ち帰り、ケルンテン門脇宮廷オペラ劇場から委託されたオペラ《フィエラブラス》などの大曲を含む他の多くの曲の作曲の合間を縫って完成させ、1828年になって、ウィーン楽友協会に提出したことになる。そうしたことを考えれば、自筆譜の紙の透かしやラストラールを調査すれば、作曲年代や作曲の経緯について、より詳しいことが分かるだけではなく、筆跡鑑定やインクの色の僅かな違いなどから、「ソナタ第〇番」と書き込んだのがシューベルト自身なのか、第三者なのか、その書き込みがなされたのは作曲開始時なのか、それとも時間が経ってから七日も推測できることになる。こでこのハ長調交響曲の自筆譜の紙の透かしを私が再度、詳しく調べたところ、この交響曲の自筆譜に使われている五線紙は、ハ長調交響曲がウィーン楽友協会会員になるために提出され、初演された1828年のものではなく、1825年のものであることが判明。更に、透かしの針金モチーフの変形具合や、曲が書き進められるに従って五線紙が微妙に変化することから、シューベルトは、静養中のグムンデン・ガシュタインで書き進めた交響曲をウィーンに持ち帰って完成させたことが分かりました。*****つまり、シューベルトは、1825年にグムンデン・ガシュタインでかき始めた交響曲をウィーンに持ち帰り、ケルンテン門脇宮廷オペラ劇場から委託されたオペラ《フィエラブラス》などの大曲を含む他の多くの曲の作曲の合間を縫って完成させ、1828年になって、ウィーン楽友協会に提出したことになる。そうしたことを考えれば、自筆譜の紙の透かしやラストラールを調査すれば、作曲年代や作曲の経緯について、より詳しいことが分かるだけではなく、筆跡鑑定やインクの色の僅かな違いなどから、「ソナタ第〇番」と書き込んだのがシューベルト自身なのか、第三者なのか、その書き込みがなされたのは作曲開始時なのか、それとも時間が経ってからなのかも推測できることになる。可能性としては例えば、「ソナタ第〇番」という書き込みがたとえシューベルト自身のものであったとしても、作曲時に書き込んだわけではなく、何年か経ってから、過去に自分が作曲したピアノソナタをチクルスとして出版しようとして書き込んだということも考えられるわけです。-シューベルトがピアノソナタを書き始めたのが1817年。ケルンテン門脇宮廷オペラ劇場からの委嘱で、ジングシュピール《双子の兄弟》の作曲に着手したのが、1818年秋にエステルハーツィー家の音楽家庭教師をしていたゼレチュからウィーンに戻り、父の経営する小学校の助教師に戻らない決心をして父と訣別し、友人マイヤーホーファーのもとに転がり込んだ直後の1818年末。《双子の兄弟》の自筆譜草稿が完成したのは1819年1月ですが、同年6月に予定されていた初演は、諸般の事情があって1年延期されて1820年6月14日。同年春にアン・デア・ウィーン劇場から委嘱されていたメロドラマ《魔法の竪琴》が同年8月に初演され、シューベルトは、この2曲の舞台音楽作品を以て、プロの作曲家としてデビューすることになります。シューベルトの作品は、楽譜出版が珍しく、作曲家が楽譜出版の版権によって生計を立てることが困難だった当時としては、例外的に多く出版されていますが、やはり当初は、アマチュア音楽家の需要を見込んだリートや舞曲などのピアノ小品が多い。最初の楽譜出版は1821年です。-ですから、1817年にシューベルトがピアノソナタを書き始めた時点では、シューベルトはまだプロの作曲家デビューすら果たしていず、ショーバーの紹介で宮廷歌手フォーグルに紹介されたばかり。この時点でシューベルトが自作を出版できる見込みはまずなかった。それも、リートや舞曲ではなく、ピアノソナタを6曲、ツィクルスとして出版するなどという計画なら猶更です。そうした状況を考えると、私は、この「ソナタ第〇番」という書き込みは、たとえシューベルト自身のものだったとしても、1817年の作曲当時に書き込まれたものではなく、後年のものだと推測します。*****私が直接、自筆譜を調査することができれば、紙の透かしやラストラール、筆跡やインクの色などから、もっと遥かに正確な推測ができる。ですが、シューベルトのピアノソナタの自筆譜は、交響曲の自筆譜のようにウィーン楽友協会に纏めて寄贈されたわけではありません。また、ニコラウス・デュンバが集めてウィーン図書館に遺贈した自筆譜も、舞台音楽作品などはかなり網羅していますが、19世紀の時点から高い評価を受けていて人気があったピアノ曲などは、必ずしも網羅していません。結果、D.537はパリのフランス国立図書館、D.557はニューヨークのメトロポリタンオペラ、D.566はベルリン国立図書館、D. 567は個人蔵、D.571はD.571はウィーン図書館、D.575はウィーン楽友協会資料室と、見事に欧米各地に散逸しています。私は、ウィーン図書館、オーストリア国立図書館、ウィーン楽友協会資料室が所蔵するシューベルトの自筆譜に関しては、〈危機の年〉1818~1823年のものは網羅的に、1815~1828年のものについても大半は自分で調査し、オーストリア国立図書館所蔵のケルンテン門脇宮廷オペラ劇場上演資料と照合し、当時の製紙工場やラストラール機械についての資料をも参考にした上で、使われた五線紙の製造年代を突き止めています。ですから、ウィーン図書館所蔵のD.571とウィーン楽友協会資料室所蔵のD.575については、データがあるはず。また、ウィーン図書館とオーストリア国立図書館所蔵のシューベルトの自筆譜については、ネットでファクシミリが公開されていますから、筆跡鑑定やインクの色なども、ある程度は確認できます。もちろん、自筆譜現物を見なければ、消した跡などは判明しないことも多いのですが。-(続く)
(続き)-ただ、私のウィーン資料研究滞在は、指導教授が難しすぎて放棄した研究上の難題を私に博士論文の課題として私費で遂行するように押し付けた形で、足掛け15年掛かっている。その間に、教授が定年退職したら私を研究所の研究員に採用するからという口約束も反故にされる始末。途中、ドイツの大学の外国人客員研究員に採用されるも、ドイツ側は俸給は日本側から出して貰えと言い、日本側は、ポスドク研究員対象の文部科学省学術奨励金も、日本国内の大学や研究所に所属する中国人ら、外国人研究員には適用されるのに、我々在外日本人研究者には応募資格すらないという状態で、結局は延々と自腹を切る羽目に。そんなわけで、本当なら、小林義武氏が新バッハ全集補巻、音楽文献学の神様といわれるオックスフォード大学教授だったアラン・タイソンが新モーツァルト全集補巻として出しているような、シューベルトの全作品の紙の透かしのカタログを出したかったし、小林義武氏が依拠しているヴィッソー・ヴァイスや、アラン・タイソンの方法論の欠陥を徹底的に洗い出して方法論も構築したのに、自筆譜研究が続けられないでいます。だから、パリのフランス国立図書館所蔵のD.537、ニューヨークのメトロポリタンオペラ所蔵のD.557、ベルリン国立図書館所蔵のD.566、個人蔵のD. 567についても調査できていないので、残念ながらこれ以上のことは言えません。-このままだと、世界中で私にしかできない研究が、日本政府と日本の文部科学省が在外日本人研究者を冷遇しているがために、遂行されずに立ち消えになりますね。私ももう若くはないので、いつまで生きているか分かりませんから。まったく、スパイ容疑すら掛かっている中国人留学生たちには、授業料免除、渡航費の別途支給の上で、生活費月額20万円を返済不要の奨学金として支給している日本政府が、在外日本人研究者には、同じ月額20万円の学術奨励金への応募資格すら与えないとは。日本の大学に残っている後輩たちですら、この学術奨励金を貰っている人は少なくないらしいのに、いったい日本政府の予算の費用対効果感覚はどうなっているのだか。まぁ、実家の父も亡くなって、日独墺の政府や研究所の冷遇のために家一軒潰したと母や兄妹から責められている私としては、これ以上もう自腹を切っての研究はできないので。こういう風にして、どうでもいいところに予算が使われて、大事な研究はすべて潰されるのですよ。今の日本では。
その時代時代を現在の価値観で比べる事は無意味
勇躍気迫のある大人物が出ず理屈ばかりの小人物しか生まない風土。今の日本の基底
1:11:40 フランス人から見たらギロチン使えよと思ったのかも。
「バチが当たる」という語がある。現代日本は、いいこともわるいこともあってるわけだけど。コンビニが多いとか、美味しいモノ追求とか健康長生き志向とか、の陰で「世界一の大量の食品投棄」を実際にしていること、まぎれない事実。バチが当たるようで仕方ない。
奴婢は、今で言えば会社員は江戸時代より重い税を納めてるって言われてるけど、フリーターの方が気楽で良いって事かな〜
光を放たない個体も確認されているとか。❓️
奴婢とか賤民とかって日本語であったんですね…私は韓国ドラマで初めて知りました😅
使われている絵で笑える😆
労働者の定数確保と、政敵・はみ出し者の反乱防止って感じやな……
1万人の奴隷を抱えても、残りの9500人はサボって居られるってことだな…
中国人、盛りますからね。1万人は嘘でしょう。
日本には奴隷制度がなかったとかいう変人がまだまだ蔓延ってますけど、このわかりやすい動画を見せてやりたいです。
昔から現在にかけて奴隷制度続いてる
今も派遣という奴隷が大量におるな
政治家と庶民
か
@@1sumaier666 正社員の方が社畜と言う名の奴隷だろ
からゆきさんの遺骨を帰国させることはできないものかな?
からゆきさんのお墓の中には、日本に背を向ける形で葬られている方々もいらっしゃるようです。孝行として渡り、国に貢献した挙句に、恥と言われるようになり、祖国と思うことを辞めて、その土地で生きた方々にとってはその土地が祖国なのかもしれません。価値観が変わるのは仕方がありませんが、孝行で行かれた方々を恥と思うのはやるせないです。
奴婢だけじゃなくヤンチュも取り上げて欲しかった。南方にあった制度だよ。1609年以来始まり最後のヤンチュが1930年代までいた。ようやく最近教科書でちょろっと紹介されるようになったけどまだまだそんなに知られてない
ん❓️ 此の飢饉と江戸時代の新通宝発貨が重なるんですが、何故。❓️
知っていましたか。❓️蛍って光を放つ虫の一つだという事を。⁉️
おじろく・おばさは、長子相続の悪しき慣習、というところでしょうか。この風習の軽いのが、いわゆる”長男教”として残ってるのだから、異常な奇習として片づけてしまってはいけないと思う。「長男だから・・・」とか「次男だから相続は・・・」とか言う人、いまだにいますよね??
資材…私財?
日本には数種の蛍がいるとか。❓️有名なのが源氏蛍と平家蛍ですよね。⁉️
幕府が為替操作したって事。❓️
どこの歴史も 一緒
"特別な国"なんかじゃないって証明
生き物は統べて 同等 である😁
そうですよ。日本だって、決して「素晴らしい国」ではなかったのです。
それを言うなら日本史と世界史を別々に分けて勉強しているこの国の勉強方法がかなりおかしいと思うべきではないでしょうか⁉。世界史もかなり酷いと思いますが。どうですか⁉。
大航海時代って大虐殺時代だと思います~産婆さんが赤ちゃんを。。してたけど必死で止めたお母さんがいたでもその男の子は妹に手を出したっていう話は本当っぽいように思うからゆきさんも、本当なのかなぁ?通州事件も動画にして欲しいですね
世界史(というか大陸国家の歴史)の方が遥かに酷いよ。もっとも酷いといって、人間っていう生物、しいて言えば地球上の生物にそういう遺伝子がある以上仕方ないこと。
@@hafaga3503 うーん、それは違う。仕方無くない。例えば知ることで変わるんじゃないでしょうか?
ん❓️ 平家の事。❓️😔
「奴婢」あるいは「生口」は、日本古代史を習えば必ず教えられる!
穢多非人とか
穢多、非人とか、被差別部落を高校の時に先生から教えられたけど、教えなきゃ知らないで差別なんてしないのに、と考えました。当時は。
【睡眠用】ガチで眠れなくなる…?結局寝る用なの?
口減らしで殺されるよりマシやろ
長野やばいな、さすが封建王国♪
工夫:Xクフウ⇒〇コウフ
俺も( ゚🐽゚)・∵ブヒッ!!
話し方がもう少し普通だともっと内容が入りやすくなると思います。興味深い内容の話ばかりなので、残念です。
嘘は止めようよ😂
どの辺りが嘘なのですか?
いや、事実だよ。
「先祖代々、水呑百姓だったけど、3代に渡ってちょっとずつ土地を買い足していって小金持ちになれたのに、戦争負けてGHQにぜんぶ取られた!」って嘆いてる爺さんが近所に居たなぁ。
奴婢の話聞いてると、個人事業主としてやっていけなくなったから雇用主見つけて労働者になるって感覚に似てるよな。あんまり奴隷感ないかも。
勉強になりました。痛くない死に方は、毒?苦しそうだけど。首も直ぐには切れそうにないし、やらされる側も位がないとできないよね。あっても後から悪夢になりそう。解剖学がないから心臓一気にってなかったか、、、無くしてくれてよかった。
いらすとや、介錯人まであるのか。。
編集お疲れ様です
落武者狩りは
陽キャ狩りともいえる。
中国から奴隷制度は伝わったが、宦官は伝わらなかったのは謎だな。
科挙の制度も伝わっておりませんな!
@@堀坂文雄 あれは試験内容が異常で宦官同様伝わる必要ないと思います。
奴隷制度も別に中国から伝わったもんじゃないけどね。この動画で取り上げられてる奴隷と称される者達も、シナ大陸の帝国やキリスト教徒が行った奴隷制度のようなものとは異なるものだし。
からゆきさん…サンダカン8番娼館、(ノンフィクション小説/映画)を読むか観るかしてほしいです。
読みました。良い作品だと思います。
過去にあった悲しい出来事は、現在ではより幼い頃に、おじろく、おばさのように当たり前のこととして組み込まれているように思います…
少なくとも18年前、私の家には座敷牢がありました。トイレはポータブルで、部屋に設置されるものの進化はあるでしょうが…
身分があるとすれば、自分が最も下位だと思うようになってから楽になりました。
いくつかの話は"過ぎさった歴史"には思えませんでした。
大変貴重なお話、そして歴史は繰り返してしまうのかなと考えています。
聖徳太子時代前が1番中国へ坊さんや官僚達を中国に送り、あの時代の流行・美術・本・医療・科学・女性の髪飾り・衣裳・仏教・全てスケッチにして、持てるだけの最新情報収集して日本に帰りました。其れまで、おすべらがしだったのを庶民は髪形等違って来たのです、日本は全て中国の流を組んでます。その後日本は鎖国にはいりましたから、日本独自に変えて行きました。で、今の髪形・着物の着方に成りました。髪飾りもそうです。皇族方の着物の着方にがソックリです。でも、靴は日本に広がら無かったたのね。韓国には、広がったのに~
天明の飢饉のときには地球が一瞬氷河期になったとか聞いたことが。
社畜と奴婢、選ぶならどっち
どっちも同じぐらい
日本古代史=大和朝廷が他のムラやクニを滅ぼし迫害する歴史だからなぁ…。そりゃあ、残虐な側面が無いわけがないのよ。
徳川家康が15歳の時 負け戦になり落武者狩りの標的になった。その時 身を潜めたのが第二の父親と称するお寺の住職の元。農民達がこの寺に逃げて来た所を目撃していて寺の住職へ攻め寄ったが、寺の門に使うかんぬき棒でこの落武者狩りの農民達を追い払った。
明智光秀は生存説もあるよ。
島流しもまとまって送られてたら流し先の島がオーストラリアみたいになってたのかな?
ということでしょう😉
切腹の介錯をする場合は単なる死罪(斬首)の場合と異なり、首の皮1枚を残さなければならなかった(「首の皮一枚」という言葉はここから出来た)。これは胸の前にぶらさがった頭の重みで切腹者を前のめりの状態で死なせる配慮だったと言われている。
シューベルトの幻の曲として有名なのは、1825年にグムンデン・ガシュタインで作曲されたという記録が残っている「グムンデン・ガシュタイン交響曲」。
これが発見されれば、《未完成交響楽》ことロ短調交響曲 D 759 と、《ザ・グレート》ことハ長調交響曲 D 944 の間に、もう1曲、交響曲が作曲されていたことになる。
未完のまま残されたホ長調交響曲 D 729 がそれなのではないか、いや、自筆譜が紛失したのではないかなどと取り沙汰されていました。
このうち、ホ長調交響曲は、1821年の作とされているので、もしこの曲がグムンデン・ガシュタイン交響曲なのだとしたら、シューベルトはこの曲の自筆譜をグムンデン・ガシュタインに持参して書き続けていたことになる。
この曲の自筆譜はロンドンにあるので、私は調査したことがないため、自筆譜の紙の透かしやラストラール、筆跡などから、より確かなことを言うことはできません。
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しかし、ヒルマー博士の筆跡鑑定研究によれば、ウィーン楽友協会資料室が所蔵するハ長調交響曲 D 944 の冒頭にある作曲年代は、1828ではなく、1825とも読める。
そこでこのハ長調交響曲の自筆譜の紙の透かしを私が再度、詳しく調べたところ、この交響曲の自筆譜に使われている五線紙は、ハ長調交響曲がウィーン楽友協会会員になるために提出され、初演された1828年のものではなく、1825年のものであることが判明。
更に、透かしの針金モチーフの変形具合や、曲が書き進められるに従って五線紙が微妙に変化することから、シューベルトは、静養中のグムンデン・ガシュタインで書き進めた交響曲をウィーンに持ち帰って完成させたことが分かりました。
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つまり、シューベルトは、1825年にグムンデン・ガシュタインでかき始めた交響曲をウィーンに持ち帰り、ケルンテン門脇宮廷オペラ劇場から委託されたオペラ《フィエラブラス》などの大曲を含む他の多くの曲の作曲の合間を縫って完成させ、1828年になって、ウィーン楽友協会に提出したことになる。
そうしたことを考えれば、自筆譜の紙の透かしやラストラールを調査すれば、作曲年代や作曲の経緯について、より詳しいことが分かるだけではなく、筆跡鑑定やインクの色の僅かな違いなどから、「ソナタ第〇番」と書き込んだのがシューベルト自身なのか、第三者なのか、その書き込みがなされたのは作曲開始時なのか、それとも時間が経ってから七日も推測できることになる。
こでこのハ長調交響曲の自筆譜の紙の透かしを私が再度、詳しく調べたところ、この交響曲の自筆譜に使われている五線紙は、ハ長調交響曲がウィーン楽友協会会員になるために提出され、初演された1828年のものではなく、1825年のものであることが判明。
更に、透かしの針金モチーフの変形具合や、曲が書き進められるに従って五線紙が微妙に変化することから、シューベルトは、静養中のグムンデン・ガシュタインで書き進めた交響曲をウィーンに持ち帰って完成させたことが分かりました。
*****
つまり、シューベルトは、1825年にグムンデン・ガシュタインでかき始めた交響曲をウィーンに持ち帰り、ケルンテン門脇宮廷オペラ劇場から委託されたオペラ《フィエラブラス》などの大曲を含む他の多くの曲の作曲の合間を縫って完成させ、1828年になって、ウィーン楽友協会に提出したことになる。
そうしたことを考えれば、自筆譜の紙の透かしやラストラールを調査すれば、作曲年代や作曲の経緯について、より詳しいことが分かるだけではなく、筆跡鑑定やインクの色の僅かな違いなどから、「ソナタ第〇番」と書き込んだのがシューベルト自身なのか、第三者なのか、その書き込みがなされたのは作曲開始時なのか、それとも時間が経ってからなのかも推測できることになる。
可能性としては例えば、「ソナタ第〇番」という書き込みがたとえシューベルト自身のものであったとしても、作曲時に書き込んだわけではなく、何年か経ってから、過去に自分が作曲したピアノソナタをチクルスとして出版しようとして書き込んだということも考えられるわけです。
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シューベルトがピアノソナタを書き始めたのが1817年。ケルンテン門脇宮廷オペラ劇場からの委嘱で、ジングシュピール《双子の兄弟》の作曲に着手したのが、1818年秋にエステルハーツィー家の音楽家庭教師をしていたゼレチュからウィーンに戻り、父の経営する小学校の助教師に戻らない決心をして父と訣別し、友人マイヤーホーファーのもとに転がり込んだ直後の1818年末。
《双子の兄弟》の自筆譜草稿が完成したのは1819年1月ですが、同年6月に予定されていた初演は、諸般の事情があって1年延期されて1820年6月14日。
同年春にアン・デア・ウィーン劇場から委嘱されていたメロドラマ《魔法の竪琴》が同年8月に初演され、シューベルトは、この2曲の舞台音楽作品を以て、プロの作曲家としてデビューすることになります。
シューベルトの作品は、楽譜出版が珍しく、作曲家が楽譜出版の版権によって生計を立てることが困難だった当時としては、例外的に多く出版されていますが、やはり当初は、アマチュア音楽家の需要を見込んだリートや舞曲などのピアノ小品が多い。最初の楽譜出版は1821年です。
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ですから、1817年にシューベルトがピアノソナタを書き始めた時点では、シューベルトはまだプロの作曲家デビューすら果たしていず、ショーバーの紹介で宮廷歌手フォーグルに紹介されたばかり。
この時点でシューベルトが自作を出版できる見込みはまずなかった。それも、リートや舞曲ではなく、ピアノソナタを6曲、ツィクルスとして出版するなどという計画なら猶更です。
そうした状況を考えると、私は、この「ソナタ第〇番」という書き込みは、たとえシューベルト自身のものだったとしても、1817年の作曲当時に書き込まれたものではなく、後年のものだと推測します。
*****
私が直接、自筆譜を調査することができれば、紙の透かしやラストラール、筆跡やインクの色などから、もっと遥かに正確な推測ができる。
ですが、シューベルトのピアノソナタの自筆譜は、交響曲の自筆譜のようにウィーン楽友協会に纏めて寄贈されたわけではありません。また、ニコラウス・デュンバが集めてウィーン図書館に遺贈した自筆譜も、舞台音楽作品などはかなり網羅していますが、19世紀の時点から高い評価を受けていて人気があったピアノ曲などは、必ずしも網羅していません。
結果、D.537はパリのフランス国立図書館、D.557はニューヨークのメトロポリタンオペラ、D.566はベルリン国立図書館、D. 567は個人蔵、D.571はD.571はウィーン図書館、D.575はウィーン楽友協会資料室と、見事に欧米各地に散逸しています。
私は、ウィーン図書館、オーストリア国立図書館、ウィーン楽友協会資料室が所蔵するシューベルトの自筆譜に関しては、〈危機の年〉1818~1823年のものは網羅的に、1815~1828年のものについても大半は自分で調査し、オーストリア国立図書館所蔵のケルンテン門脇宮廷オペラ劇場上演資料と照合し、当時の製紙工場やラストラール機械についての資料をも参考にした上で、使われた五線紙の製造年代を突き止めています。
ですから、ウィーン図書館所蔵のD.571とウィーン楽友協会資料室所蔵のD.575については、データがあるはず。また、ウィーン図書館とオーストリア国立図書館所蔵のシューベルトの自筆譜については、ネットでファクシミリが公開されていますから、筆跡鑑定やインクの色なども、ある程度は確認できます。もちろん、自筆譜現物を見なければ、消した跡などは判明しないことも多いのですが。
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(続く)
(続き)
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ただ、私のウィーン資料研究滞在は、指導教授が難しすぎて放棄した研究上の難題を私に博士論文の課題として私費で遂行するように押し付けた形で、足掛け15年掛かっている。その間に、教授が定年退職したら私を研究所の研究員に採用するからという口約束も反故にされる始末。
途中、ドイツの大学の外国人客員研究員に採用されるも、ドイツ側は俸給は日本側から出して貰えと言い、日本側は、ポスドク研究員対象の文部科学省学術奨励金も、日本国内の大学や研究所に所属する中国人ら、外国人研究員には適用されるのに、我々在外日本人研究者には応募資格すらないという状態で、結局は延々と自腹を切る羽目に。
そんなわけで、本当なら、小林義武氏が新バッハ全集補巻、音楽文献学の神様といわれるオックスフォード大学教授だったアラン・タイソンが新モーツァルト全集補巻として出しているような、シューベルトの全作品の紙の透かしのカタログを出したかったし、小林義武氏が依拠しているヴィッソー・ヴァイスや、アラン・タイソンの方法論の欠陥を徹底的に洗い出して方法論も構築したのに、自筆譜研究が続けられないでいます。
だから、パリのフランス国立図書館所蔵のD.537、ニューヨークのメトロポリタンオペラ所蔵のD.557、ベルリン国立図書館所蔵のD.566、個人蔵のD. 567についても調査できていないので、残念ながらこれ以上のことは言えません。
-
このままだと、世界中で私にしかできない研究が、日本政府と日本の文部科学省が在外日本人研究者を冷遇しているがために、遂行されずに立ち消えになりますね。私ももう若くはないので、いつまで生きているか分かりませんから。
まったく、スパイ容疑すら掛かっている中国人留学生たちには、授業料免除、渡航費の別途支給の上で、生活費月額20万円を返済不要の奨学金として支給している日本政府が、在外日本人研究者には、同じ月額20万円の学術奨励金への応募資格すら与えないとは。
日本の大学に残っている後輩たちですら、この学術奨励金を貰っている人は少なくないらしいのに、いったい日本政府の予算の費用対効果感覚はどうなっているのだか。
まぁ、実家の父も亡くなって、日独墺の政府や研究所の冷遇のために家一軒潰したと母や兄妹から責められている私としては、これ以上もう自腹を切っての研究はできないので。
こういう風にして、どうでもいいところに予算が使われて、大事な研究はすべて潰されるのですよ。今の日本では。
その時代時代を現在の価値観で比べる事は無意味
勇躍気迫のある大人物が出ず理屈ばかりの小人物しか生まない風土。今の日本の基底
1:11:40 フランス人から見たらギロチン使えよと思ったのかも。
「バチが当たる」という語がある。現代日本は、いいこともわるいこともあってるわけだけど。
コンビニが多いとか、美味しいモノ追求とか健康長生き志向とか、
の陰で「世界一の大量の食品投棄」を実際にしていること、まぎれない事実。
バチが当たるようで仕方ない。
奴婢は、今で言えば会社員は江戸時代より重い税を納めてるって言われてるけど、フリーターの方が気楽で良いって事かな〜
光を放たない個体も確認されているとか。❓️
奴婢とか賤民とかって日本語であったんですね…
私は韓国ドラマで初めて知りました😅
使われている絵で笑える😆
労働者の定数確保と、政敵・はみ出し者の反乱防止って感じやな……
1万人の奴隷を抱えても、残りの9500人はサボって居られるってことだな…
中国人、盛りますからね。1万人は嘘でしょう。
日本には奴隷制度がなかったとかいう変人がまだまだ蔓延ってますけど、このわかりやすい動画を見せてやりたいです。
昔から現在にかけて奴隷制度続いてる
今も派遣という奴隷が大量におるな
政治家と庶民
か
@@1sumaier666 正社員の方が社畜と言う名の奴隷だろ
からゆきさんの遺骨を帰国させることはできないものかな?
からゆきさんのお墓の中には、日本に背を向ける形で葬られている方々もいらっしゃるようです。
孝行として渡り、国に貢献した挙句に、恥と言われるようになり、祖国と思うことを辞めて、その土地で生きた方々にとってはその土地が祖国なのかもしれません。
価値観が変わるのは仕方がありませんが、孝行で行かれた方々を恥と思うのはやるせないです。
奴婢だけじゃなくヤンチュも取り上げて欲しかった。南方にあった制度だよ。1609年以来始まり最後のヤンチュが1930年代までいた。
ようやく最近教科書でちょろっと紹介されるようになったけどまだまだそんなに知られてない
ん❓️ 此の飢饉と江戸時代の新通宝発貨が重なるんですが、何故。❓️
知っていましたか。❓️
蛍って光を放つ虫の一つだという事を。⁉️
おじろく・おばさは、長子相続の悪しき慣習、というところでしょうか。
この風習の軽いのが、いわゆる”長男教”として残ってるのだから、
異常な奇習として片づけてしまってはいけないと思う。
「長男だから・・・」とか「次男だから相続は・・・」とか言う人、いまだにいますよね??
資材…私財?
日本には数種の蛍がいるとか。❓️
有名なのが源氏蛍と平家蛍ですよね。⁉️
幕府が為替操作したって事。❓️
どこの歴史も 一緒
"特別な国"なんかじゃないって証明
生き物は統べて 同等 である😁
そうですよ。日本だって、決して「素晴らしい国」ではなかったのです。
それを言うなら日本史と世界史を別々に分けて勉強しているこの国の勉強方法がかなりおかしいと思うべきではないでしょうか⁉。世界史もかなり酷いと思いますが。どうですか⁉。
大航海時代って大虐殺時代だと思います~
産婆さんが赤ちゃんを。。してたけど必死で止めたお母さんがいた
でもその男の子は妹に手を出したっていう話は本当っぽいように思う
からゆきさんも、本当なのかなぁ?
通州事件も動画にして欲しいですね
世界史(というか大陸国家の歴史)の方が遥かに酷いよ。もっとも酷いといって、人間っていう生物、しいて言えば地球上の生物にそういう遺伝子がある以上仕方ないこと。
@@hafaga3503 うーん、それは違う。仕方無くない。
例えば知ることで変わるんじゃないでしょうか?
ん❓️ 平家の事。❓️😔
「奴婢」あるいは「生口」は、日本古代史を習えば必ず教えられる!
穢多非人とか
穢多、非人とか、被差別部落を高校の時に先生から教えられたけど、教えなきゃ知らないで差別なんてしないのに、と考えました。当時は。
【睡眠用】ガチで眠れなくなる…?結局寝る用なの?
口減らしで殺されるよりマシやろ
長野やばいな、さすが封建王国♪
工夫:Xクフウ⇒〇コウフ
俺も( ゚🐽゚)・∵ブヒッ!!
話し方がもう少し普通だともっと内容が入りやすくなると思います。興味深い内容の話ばかりなので、残念です。
嘘は止めようよ😂
どの辺りが嘘なのですか?
いや、事実だよ。