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最近になって海軍関係者のメモから、紫電11型は590~602㎞/hを発揮していたことが解っている。詳細は不明な部分もあるが、誉の不具合が改善した昭和20年初頭であれば、ガンポット式の20ミリを主翼内蔵式に改修した11型乙になっていたから、空気抵抗削減効果で20㎞/h程度は速度は向上していたであろう。最大の問題は、二段階収縮式の主脚の不具合と故障だった。主脚収縮部のロック機構の信頼性が低く、離着陸時に突然主脚が収縮してしまい、離着陸事故で大量に損失していた。343空も紫電改が配備される以前は紫電11型で訓練をしていたのだが、3日に1機が離着陸事故で廃棄となっていたと伝わる。動画内でも解説があったが、デビュー戦である台湾防空戦では10機撃墜はしたものの、紫電も16機撃墜されており苦いデビュー戦だったが、倍以上のアメリカ海軍戦闘機部隊を相手に善戦したと言える。自動空戦フラップは確かに効果があったが、紫電11型の場合は動作が悪く効果はイマイチだったらしく、旋回性能の向上は体感できなかった様で。F6Fよりも運動性能が劣っていたと言われていました。それでも、1800馬力の誉が好調ならば上昇性能、急降下性能は零戦よりも高かったので一撃離脱では相応に空戦できてはいた。主翼の20ミリ4丁の火力は絶大で、頑丈な主翼強度のお陰で、零戦52型より20ミリの命中精度が良好で、攻撃力は大好評だった。
あれは「世界のカヤバ」が駄目
松本零士さんの【音速雷撃魚雷】で2度目の出撃に『紫電』が登場してますよね。一式陸攻の搭乗員が「紫電は燃料の関係で途中で引き返すな」て会話してたけど、途中で増槽を捨てて『紫電は最後まで付いてくれるのか』て会話には涙が出ましたわ。
実際にやったことがあるみたい
疾風もそうらしいんだけど、お役所仕事の特性として、初期のマニュアルを改訂しないまま使ってて、実際は速度が少し速かったり微妙に制式機で伸びてる部分もあるそうな
ポンコツ海軍の下駄履き改造機と大東亜決戦機の四式戦を同じにしたらアカンで(笑)
疾風は集合排気管から単排気管に変わっているのに最大速度は集合排気管のままだから公式より速いのは明らかね
紫電の故障にブチ切れて「こんなもの乗れるか」と自分で勝手に転任の手続きをして紫電に乗るのを辞めた飛行隊長いたよねw新郷英城少佐w「丸」に紫電で戦った人の戦記載ってたねぇ
「誉」エンジンは色々言われているけど、基本的には「栄」エンジンを18気筒化したもので、高出力を得るのに奇を衒(てら)うことなく真っ当な手法で開発されたエンジンだったのであり、やたら「デリケート」だの「幻を追った」だのと強調するのは少し違うと思う(←当時の関係者達も「分かってはいる」けど、その様に愚痴を言わざるを得ないほど切羽詰まっていたと思われる)。もちろん当時の日本の技術力は欧米に比べ低く個々の部品の品質も悪く不安定だったこともあるが、何よりも100オクタン価燃料を前提として開発を開始したのに開発中に日米開戦となり、取り敢えず安定的に入手できる燃料が92オクタン価であったため「運転制限」を課さねばならなったのが理由として大きい。後に「紫電改」の最高速度がカタログ上では時速590km超だったものが量産機では時速620km。陸軍キ-84(四式戦闘機)の場合だと時速624kmだったものが量産機では時速660kmを発揮した機体が出現したのは、水メタノール噴射装置を装着したことで燃料を100オクタン価「相当」とし、「運転制限」を解除したことで達成したと思われる。
量産で作れない細かい冷却フィンが必要だったり、細くしすぎてちょっとでも精度を満たさないと耐久性の無いクランク、高回転を狙いすぎてオイルの品質が悪いとすぐに焼き付くエンジンなど、車で言えばレース用技術をそのまま実用車に採用しようなエンジン設計ですよ。
@MITOGOROSA それは戦後昭和期に当時の書籍を読めば、ずぅっと言われ続けられたので、私でも知ってます。私のコメントをよく読んで頂ければ、其の辺も分かって頂けると思うのですが...まだ開戦前の時点で、欧米列強国の技術的進歩を横目に見て「技術的な挑戦」もせず、ノンビリと「実用一点張り」で開発する余裕は当時の日本には無かったと思いますよ。総合的な技術力でトップを走っていた米国でさえ、B-29に搭載したエンジンは実用化後も発火事故が多く、ソレによって失われた機体も少なくなかったことから、極限を求める軍用兵器は全て「レース用技術」の塊と言って差し支えないんじゃないだろうか?と思います。
@ 飛燕のDB601と同じですよ。アメリカやドイツやイギリス、ソ連まで出来ても日本には高望みだったと言うことです。三菱の金星だって中島の栄も技術的には模倣ですからね。
@@黑き史 「悲劇の発動機 誉」に書かれていますよ。周辺技術力を考慮せずに、イタズラに実験室レベルの技術を無理に実用化をして、根本的な対策を行わずに対処療法に終始して生産現場と前線の部隊を混乱させただけだったと。軍部が実験するレベルの性能に飛びついてしまい、約束した高品質オイルも高オクタン燃料も生産出来ないのに使用を許可したと言うのも問題なんですがね。
@@MITOGOROSA そうですね。結局は軍部の責任は大きいと思います。中島エンジン開発担当者は「誉」開発を着手する前に軍部に「100オクタン価燃料を確実且つ安定的に入手できるのか?」質問し、軍部側も「確約した」ので開発スタートに踏み切ったわけです。しかし「100オクタン価燃料を安定的に製造できる技術」を米国から購入する「まさにその瞬間」に日本に対する経済封鎖を推し進めていた米国政府によって阻まれてしまったのが、「誉」の運命を決定付けたのかも知れません。日本の軍部は「どうしょうもない」のは確かですが、米軍だって(ある意味)日本以上に酷いものですよ。メーカーに要求書を送っても、途中で直ぐ要求事項がコロコロ変わって潰れたりキャンセルとなった機体の数は日本の比では無い。メーカーもメーカーで「物に成るのかどうか分からない」紙上計画のエンジンを当てにして戦闘機開発を進めると言うギャンブラー真っ青な事を何度も懲りずにやっていたのだから、所詮は「国力」の違いとも言えるかも知れません。
紫電改のベースとなった機体としての評価しかされない可哀そうな機体だよね。確かに一千機の生産機数に応じた活躍が出来たか疑問だけどね。余談になるけど昔レベルから1/32でキットが発売されていました(今でも1/32は唯一だと思うし、これからも他社からの発売は無いかもね)
最初の写真が紫電改じゃね?
エンジンの信頼性に泣いたか、エンジンの信頼性と引き込み脚に泣いたかの違いなんよね… 学徒動員の組み立て工じゃ工作の精度再現性は難しかったろう…
強風→紫電→紫電改の系譜を解説した動画はたくさんあるが、本動画はとても上手くまとめられている。まぁ、凡作という表現には些か違和感を感じてしまうのだが。
ガソリンすら満足に作れない工業力しかない日本の零戦を鹵獲した米軍がオクタン価の高いガソリンと機体強度を少し強化すると時速600キロ以上出せるスーパー零戦になったという。当時の日本工業力のなさを痛感する。
戦後、米国のテストでは670kmという優秀な速度を示した。大戦末期、時間が無い中、21型の開発は進めつつも、11型を基本コンセプトを変えず主脚の改良やフラップの自動化などでも費用対効果は大きかったのではないかと思ってしまう。
2000馬力に拘らずサブ戦闘機らしく1500辺りのエンジンで妥協して確実に稼働する凡作作った方が戦力にはなったかもだね 紫電、紫電改の生産数ではどっちにしても戦力としてはアテにならなかっただろうけど間に合っただけマシかな・・ これだけ不安定なままフィリピン等の外地に送ったりするのもなぁ 飛燕で散々だったのに同じ事を
写真の表示タイミングがええ加減ですな。説明と関係ない機種を表示するとよく知らない人は混乱するよ。紫電の説明の時に紫電改の写真だったり零戦が出てきたり。
ほんまや、初っ端から紫電21型(通称:紫電改)やん
身も蓋もないタイトルwでも正論。後世の我々から見れば紫電は戦局に寄与するところが殆どなく、後知恵で言うなら「誉」の無駄使いと言えなくもない。陸海の風通しが良ければ「疾風」を共用すべきだったと言いたいところ。だけどもここには陸海のカベに加えて更に、中島と川西のカベというのもあったことを少し紹介しておきます。時代は大正期、創業者川西清兵衛と中島知久平の金銭トラブル。元々中島飛行機は川西の資本で起業した会社だったが、中島知久平の余りにも投機的なやり方が川西側経営陣の不審を爆発させ、川西は資本を全部引き上げて自社で航空機製造を起業することに。しかしこれが当時中島と懇意にしていた陸軍側担当者の怒りを買ってしまい、その後終戦に至るまで陸軍機の製作にはお声がかからなくなり、川西と中島は犬猿の仲になってしまった。ごく大雑把な見方になるけども機械工業の流れとして、航空産業の前に自動車があり、その前には毛織機械があり川西を含む日本毛織グループは当時の花形産業の中心にいました。トヨタ自動車も出発点は自動織機。川西航空機の母体は日本毛織であり、その意味で基礎的な技術基盤は十分。もっと伸び代のある企業だったと思われるのにどうも地味な飛行艇と海軍機専門の弱小メーカーの雰囲気に終始してしまうのはこのような背景があったらしい。川西の技術力は現在、新明和工業に引き継がれ、世界に誇るUS-2なども開発されているからやはり継続は力と言うものの。国家存亡級の危機的時期に国内有数の可能性あるメーカーの脱落が、しかも個人のいざこざ起因であったことをちょっと残念に思う次第です。
疾風は海軍が実際に乗って試験して不合格を出してるからねぇ終戦後に海軍の追浜に遺棄された海軍で試験された疾風の写真が残ってる。
当時の日米の層流翼って無意味だったんでしたっけ。P-51系では層流翼の理論を徹底する為にリベット一つ一つの仕上げまで職人の手作業に拘ったものの、そもそも風洞実験とは違い実機の高速飛行時は外板そのものが歪むことが分かったのでリベット程度をどうこうしても効果が無く、その努力は無駄だったと後にNACAが結論付けていたような。
ベコベコの機体見れば、層流翼以前の話だとわかる。
不具合が多い紫電は低翼化と胴体を再設計して紫電改として生まれ変わり一躍零戦の後継機種になる、戦後紫電11型を米国製プラグと燃料を使用したテストでは最大速度670㎞や高度6000メートルまでの上昇時間6分台を記録した。
残念だけど、TAICが出した紫電11型と21型の性能データは推算値。日本の戦闘機をアメリカの100オクタン価ガソリンでテストした説は、今や都市伝説です。鹵獲された日本陸海軍軍用航空機は日本の92オクタン価相当に近いガソリンでテストされていた事を調べた方がいます。疾風、雷電、彩雲がトンデモない高速を出したことになってますが。どれも推算なんです、何せ全力運転不可能なんですから。誉21型や火星23型はいずれも92オクタン価仕様、それに水メタノール噴射を施し100オクタン価相当にブーストアップを可能としたエンジンですから、一応100オクタン価相当の燃料で飛行していたことになりますので、仮に絶好調な誉や火星だったとしても日本での実測性能と差ほど変わらなかった可能性が高いです。
それは計算値。
紫電よりも性能低かった烈風さん・・・なぜ・・・?
エンジンは同じなのにね🎉
艦載機と陸上機の違いでしょ
機体サイズ。
仕上がりが悪かったり発動機変更で抵抗増とかしかも防弾無の軽い試作機で
艦上機としての発艦着艦時の速度の制限があり、主翼を大きくする必要があったから紫電改が発艦や着艦したのは信濃だけ
30コメ
各メーカーに仕事を発注したり競作させるのは育てるという意味では、平時に意味があるけど戦時中にそれをやると開発と生産が遅れる。特に川西や立川みたいな戦闘機開発の経験がない会社に丸投げすると。だからドイツみたいに低性能でも数を揃える為Me-109生産・改良に、ほぼ全振りしたした方が正解。低性能と言ってもFw-190系列や米国機と比較したらだけど。殆どの航空テクノロジーを外国に依存していたのに戦争するなんて馬鹿だろ。
何を勘違いしているのか知らんがドイツは大量に試作機作って試験しまくって没にしてるぞキミが知らんだけ
ドイツもMe109の後継機Me309の開発に失敗して、最後はFw190の改修型に主役を奪われていますよ。
「強風」の「火星」から、「譽」にエンジン変更する必要性があったのか、何とも解りにくい。しかし戦闘機設計経験が乏しく、エンジンメーカーでもない川西が、安易にカタログデーターは立派な「譽」に飛びついてしまった心情は理解出来なくもない。ただ「譽」を採用していたから「紫電改」への改修が認められた経緯もあるので、事情は複雑だ。とりあえずあれだけ「譽」推し海軍が、結局四式戦のような「譽」に特化した戦闘機を開発出来なかったというのは、どこか皮肉じみている。
安易でも何でもない。当の海軍が誉を異常に推していたし、でかくて馬力も小さく、爆撃機用のエンジンをわざわざ選定する合理的な理由はない。誉がダメだった、というのは完全に後知恵
中翼なのに巨大なフィレットが付いているという、全く意味がない😢
それ、空力上の問題解決のためにつけられた強風の名残なので。陸上機化する時に改修することが出来なかった。それが紫電改へつながる。
最近になって海軍関係者のメモから、紫電11型は590~602㎞/hを発揮していたことが解っている。
詳細は不明な部分もあるが、誉の不具合が改善した昭和20年初頭であれば、ガンポット式の20ミリを主翼内蔵式に改修した11型乙になっていたから、空気抵抗削減効果で20㎞/h程度は速度は向上していたであろう。
最大の問題は、二段階収縮式の主脚の不具合と故障だった。
主脚収縮部のロック機構の信頼性が低く、離着陸時に突然主脚が収縮してしまい、離着陸事故で大量に損失していた。
343空も紫電改が配備される以前は紫電11型で訓練をしていたのだが、3日に1機が離着陸事故で廃棄となっていたと伝わる。
動画内でも解説があったが、デビュー戦である台湾防空戦では10機撃墜はしたものの、紫電も16機撃墜されており苦いデビュー戦だったが、倍以上のアメリカ海軍戦闘機部隊を相手に善戦したと言える。
自動空戦フラップは確かに効果があったが、紫電11型の場合は動作が悪く効果はイマイチだったらしく、旋回性能の向上は体感できなかった様で。
F6Fよりも運動性能が劣っていたと言われていました。
それでも、1800馬力の誉が好調ならば上昇性能、急降下性能は零戦よりも高かったので一撃離脱では相応に空戦できてはいた。
主翼の20ミリ4丁の火力は絶大で、頑丈な主翼強度のお陰で、零戦52型より20ミリの命中精度が良好で、攻撃力は大好評だった。
あれは「世界のカヤバ」が駄目
松本零士さんの【音速雷撃魚雷】で2度目の出撃に『紫電』が登場してますよね。
一式陸攻の搭乗員が「紫電は燃料の関係で途中で引き返すな」て会話してたけど、途中で増槽を捨てて『紫電は最後まで付いてくれるのか』て会話には涙が出ましたわ。
実際にやったことがあるみたい
疾風もそうらしいんだけど、お役所仕事の特性として、初期のマニュアルを改訂しないまま使ってて、実際は速度が少し速かったり微妙に制式機で伸びてる部分もあるそうな
ポンコツ海軍の下駄履き改造機と大東亜決戦機の四式戦を同じにしたらアカンで(笑)
疾風は集合排気管から単排気管に変わっているのに最大速度は集合排気管のままだから公式より速いのは明らかね
紫電の故障にブチ切れて「こんなもの乗れるか」と
自分で勝手に転任の手続きをして紫電に乗るのを辞めた飛行隊長いたよねw新郷英城少佐w
「丸」に紫電で戦った人の戦記載ってたねぇ
「誉」エンジンは色々言われているけど、基本的には「栄」エンジンを18気筒化したもので、高出力を得るのに奇を衒(てら)うことなく真っ当な手法で開発されたエンジンだったのであり、やたら「デリケート」だの「幻を追った」だのと強調するのは少し違うと思う(←当時の関係者達も「分かってはいる」けど、その様に愚痴を言わざるを得ないほど切羽詰まっていたと思われる)。もちろん当時の日本の技術力は欧米に比べ低く個々の部品の品質も悪く不安定だったこともあるが、何よりも100オクタン価燃料を前提として開発を開始したのに開発中に日米開戦となり、取り敢えず安定的に入手できる燃料が92オクタン価であったため「運転制限」を課さねばならなったのが理由として大きい。
後に「紫電改」の最高速度がカタログ上では時速590km超だったものが量産機では時速620km。陸軍キ-84(四式戦闘機)の場合だと時速624kmだったものが量産機では時速660kmを発揮した機体が出現したのは、水メタノール噴射装置を装着したことで燃料を100オクタン価「相当」とし、「運転制限」を解除したことで達成したと思われる。
量産で作れない細かい冷却フィンが必要だったり、細くしすぎてちょっとでも精度を満たさないと耐久性の無いクランク、高回転を狙いすぎてオイルの品質が悪いとすぐに焼き付くエンジンなど、車で言えばレース用技術をそのまま実用車に採用しようなエンジン設計ですよ。
@MITOGOROSA それは戦後昭和期に当時の書籍を読めば、ずぅっと言われ続けられたので、私でも知ってます。私のコメントをよく読んで頂ければ、其の辺も分かって頂けると思うのですが...まだ開戦前の時点で、欧米列強国の技術的進歩を横目に見て「技術的な挑戦」もせず、ノンビリと「実用一点張り」で開発する余裕は当時の日本には無かったと思いますよ。総合的な技術力でトップを走っていた米国でさえ、B-29に搭載したエンジンは実用化後も発火事故が多く、ソレによって失われた機体も少なくなかったことから、極限を求める軍用兵器は全て「レース用技術」の塊と言って差し支えないんじゃないだろうか?と思います。
@
飛燕のDB601と同じですよ。
アメリカやドイツやイギリス、ソ連まで出来ても日本には高望みだったと言うことです。
三菱の金星だって中島の栄も技術的には模倣ですからね。
@@黑き史
「悲劇の発動機 誉」に書かれていますよ。
周辺技術力を考慮せずに、イタズラに実験室レベルの技術を無理に実用化をして、根本的な対策を行わずに対処療法に終始して生産現場と前線の部隊を混乱させただけだったと。
軍部が実験するレベルの性能に飛びついてしまい、約束した高品質オイルも高オクタン燃料も生産出来ないのに使用を許可したと言うのも問題なんですがね。
@@MITOGOROSA そうですね。結局は軍部の責任は大きいと思います。中島エンジン開発担当者は「誉」開発を着手する前に軍部に「100オクタン価燃料を確実且つ安定的に入手できるのか?」質問し、軍部側も「確約した」ので開発スタートに踏み切ったわけです。しかし「100オクタン価燃料を安定的に製造できる技術」を米国から購入する「まさにその瞬間」に日本に対する経済封鎖を推し進めていた米国政府によって阻まれてしまったのが、「誉」の運命を決定付けたのかも知れません。
日本の軍部は「どうしょうもない」のは確かですが、米軍だって(ある意味)日本以上に酷いものですよ。メーカーに要求書を送っても、途中で直ぐ要求事項がコロコロ変わって潰れたりキャンセルとなった機体の数は日本の比では無い。メーカーもメーカーで「物に成るのかどうか分からない」紙上計画のエンジンを当てにして戦闘機開発を進めると言うギャンブラー真っ青な事を何度も懲りずにやっていたのだから、所詮は「国力」の違いとも言えるかも知れません。
紫電改のベースとなった機体としての評価しかされない可哀そうな機体だよね。
確かに一千機の生産機数に応じた活躍が出来たか疑問だけどね。
余談になるけど昔レベルから1/32でキットが発売されていました(今でも1/32は唯一だと思うし、これからも他社からの発売は無いかもね)
最初の写真が紫電改じゃね?
エンジンの信頼性に泣いたか、エンジンの信頼性と引き込み脚に泣いたかの違いなんよね… 学徒動員の組み立て工じゃ工作の精度再現性は難しかったろう…
強風→紫電→紫電改の系譜を解説した動画はたくさんあるが、本動画はとても上手くまとめられている。
まぁ、凡作という表現には些か違和感を感じてしまうのだが。
ガソリンすら満足に作れない工業力しかない日本の零戦を鹵獲した米軍がオクタン価の高いガソリンと機体強度を少し強化すると時速600キロ以上出せるスーパー零戦になったという。
当時の日本工業力のなさを痛感する。
戦後、米国のテストでは670kmという優秀な速度を示した。大戦末期、時間が無い中、21型の開発は進めつつも、11型を基本コンセプトを変えず主脚の改良やフラップの自動化などでも費用対効果は大きかったのではないかと思ってしまう。
2000馬力に拘らずサブ戦闘機らしく1500辺りのエンジンで妥協して確実に稼働する凡作作った方が戦力にはなったかもだね 紫電、紫電改の生産数ではどっちにしても戦力としてはアテにならなかっただろうけど間に合っただけマシかな・・ これだけ不安定なままフィリピン等の外地に送ったりするのもなぁ 飛燕で散々だったのに同じ事を
写真の表示タイミングがええ加減ですな。説明と関係ない機種を表示するとよく知らない人は混乱するよ。紫電の説明の時に紫電改の写真だったり零戦が出てきたり。
ほんまや、初っ端から紫電21型(通称:紫電改)やん
身も蓋もないタイトルwでも正論。
後世の我々から見れば紫電は戦局に寄与するところが殆どなく、後知恵で言うなら「誉」の無駄使いと言えなくもない。陸海の風通しが良ければ「疾風」を共用すべきだったと言いたいところ。だけどもここには陸海のカベに加えて更に、中島と川西のカベというのもあったことを少し紹介しておきます。
時代は大正期、創業者川西清兵衛と中島知久平の金銭トラブル。元々中島飛行機は川西の資本で起業した会社だったが、中島知久平の余りにも投機的なやり方が川西側経営陣の不審を爆発させ、川西は資本を全部引き上げて自社で航空機製造を起業することに。しかしこれが当時中島と懇意にしていた陸軍側担当者の怒りを買ってしまい、その後終戦に至るまで陸軍機の製作にはお声がかからなくなり、川西と中島は犬猿の仲になってしまった。
ごく大雑把な見方になるけども機械工業の流れとして、航空産業の前に自動車があり、その前には毛織機械があり川西を含む日本毛織グループは当時の花形産業の中心にいました。トヨタ自動車も出発点は自動織機。川西航空機の母体は日本毛織であり、その意味で基礎的な技術基盤は十分。もっと伸び代のある企業だったと思われるのにどうも地味な飛行艇と海軍機専門の弱小メーカーの雰囲気に終始してしまうのはこのような背景があったらしい。
川西の技術力は現在、新明和工業に引き継がれ、世界に誇るUS-2なども開発されているからやはり継続は力と言うものの。国家存亡級の危機的時期に国内有数の可能性あるメーカーの脱落が、しかも個人のいざこざ起因であったことをちょっと残念に思う次第です。
疾風は海軍が実際に乗って試験して不合格を出してるからねぇ
終戦後に海軍の追浜に遺棄された海軍で試験された疾風の写真が残ってる。
当時の日米の層流翼って無意味だったんでしたっけ。
P-51系では層流翼の理論を徹底する為にリベット一つ一つの仕上げまで職人の手作業に拘ったものの、そもそも風洞実験とは違い実機の高速飛行時は外板そのものが歪むことが分かったのでリベット程度をどうこうしても効果が無く、その努力は無駄だったと後にNACAが結論付けていたような。
ベコベコの機体見れば、層流翼以前の話だとわかる。
不具合が多い紫電は低翼化と胴体を再設計して紫電改として生まれ変わり一躍零戦の後継機種になる、戦後紫電11型を米国製プラグと燃料を使用したテストでは最大速度670㎞や高度6000メートルまでの上昇時間6分台を記録した。
残念だけど、TAICが出した紫電11型と21型の性能データは推算値。
日本の戦闘機をアメリカの100オクタン価ガソリンでテストした説は、今や都市伝説です。
鹵獲された日本陸海軍軍用航空機は日本の92オクタン価相当に近いガソリンでテストされていた事を調べた方がいます。
疾風、雷電、彩雲がトンデモない高速を出したことになってますが。
どれも推算なんです、何せ全力運転不可能なんですから。
誉21型や火星23型はいずれも92オクタン価仕様、それに水メタノール噴射を施し100オクタン価相当にブーストアップを可能としたエンジンですから、一応100オクタン価相当の燃料で飛行していたことになりますので、仮に絶好調な誉や火星だったとしても日本での実測性能と差ほど変わらなかった可能性が高いです。
それは計算値。
紫電よりも性能低かった烈風さん・・・なぜ・・・?
エンジンは同じなのにね🎉
艦載機と陸上機の違いでしょ
機体サイズ。
仕上がりが悪かったり
発動機変更で抵抗増とか
しかも防弾無の軽い試作機で
艦上機としての発艦着艦時の速度の制限があり、主翼を大きくする必要があったから
紫電改が発艦や着艦したのは信濃だけ
30コメ
各メーカーに仕事を発注したり競作させるのは育てるという意味では、
平時に意味があるけど戦時中にそれをやると開発と生産が遅れる。
特に川西や立川みたいな戦闘機開発の経験がない会社に丸投げすると。
だからドイツみたいに低性能でも数を揃える為Me-109生産・改良に、
ほぼ全振りしたした方が正解。
低性能と言ってもFw-190系列や米国機と比較したらだけど。
殆どの航空テクノロジーを外国に依存していたのに戦争するなんて馬鹿だろ。
何を勘違いしているのか知らんがドイツは大量に試作機作って試験しまくって没にしてるぞ
キミが知らんだけ
ドイツもMe109の後継機Me309の開発に失敗して、最後はFw190の改修型に主役を奪われていますよ。
「強風」の「火星」から、「譽」にエンジン変更する必要性があったのか、何とも解りにくい。
しかし戦闘機設計経験が乏しく、エンジンメーカーでもない川西が、安易にカタログデーターは立派な「譽」に飛びついてしまった心情は理解出来なくもない。
ただ「譽」を採用していたから「紫電改」への改修が認められた経緯もあるので、事情は複雑だ。
とりあえずあれだけ「譽」推し海軍が、結局四式戦のような「譽」に特化した戦闘機を開発出来なかったというのは、どこか皮肉じみている。
安易でも何でもない。
当の海軍が誉を異常に推していたし、でかくて馬力も小さく、爆撃機用のエンジンをわざわざ選定する合理的な理由はない。
誉がダメだった、というのは完全に後知恵
中翼なのに巨大なフィレットが付いているという、全く意味がない😢
それ、空力上の問題解決のためにつけられた強風の名残なので。陸上機化する時に改修することが出来なかった。それが紫電改へつながる。