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今、昔の面影を感じるのは、榛原町駅跡の静鉄バスの榛原車庫、バス停名は「静波海岸入口」新相良駅跡にいった静鉄バスの相良営業所は移転したし、新藤枝駅跡の静鉄バスの藤枝駅北口のバスターミナルは再開発でなくなったし
コメントをありがとうございます。廃止から半世紀以上経た現在も残る駿遠線の遺構を知る方の情報は、大変貴重であると思います。
時々夢にも出てきます。
コメントをありがとうございます。今よりも不便で皆一生懸命だった時代であったからこそ、いつまでも忘れらない記憶になっているのかもしれませんね。
窓を開けて片腕を出しながら浜風を感じる、この時代でしか味わえないひと時。車両どちら側からでも降りられ線路を斜めに横断出来る駅。階段やエスカレーターだらけで商売っ気溢れる駅構内…どちらが便利と言えるだろうか。ラストランのカメラフラッシュは新聞記者さんのカメラだけでとても安心。思い出は肉眼で見て感じ脳裏に焼きつけた方が鮮明に残る。溢れる情報の中で暮らすよりも、当時の豊かさの中で暮らしてみたい。サイレント映像のおかげで人々の会話や車輪の音を想像し楽しむことができる。カメラワークにも感激しております。貴重な映像をありがとうございました。
想いの詰まったコメントを頂きまして、ありがとうございます。多くの方々が今よりも貧しかったと思いますが、映像の中には純粋な笑顔が溢れていますよね。モータリゼーションの発展にとともに消えて行った駿遠線ですが、過度な車依存が日本の社会構造を変えてしまった事を今教えてくれているように感じます。
2に続いて貴重な映像、そして思い出の彼方に去り行くさよなら運転の映像をUP頂きありがとうございます。とある私鉄のさよなら列車でお客さんを満載した列車を見た従業員の方々が「今更こんなに乗っても手遅れだ・・・」と悔し涙を流していたという記述を読んで、その言葉が今でも胸に棘となって刺さっています。恐らく駿遠線のさよなら列車の乗務員の方々も同じような無念の思いだったのでしょうか・・・?
多くのコメントを頂きまして、ありがとうございます。利用者減により止むを得ず廃線という結末を迎える際に”最後だから記念に乗っておこう”と殺到されても、心中は複雑ですよね。同級生のお父様が駿遠線に勤務しておられましたが、廃線後は静鉄が経営するホテルへ異動されました。鉄道マンとしての誇りもあったでしょうから、さぞかし無念だったのだろうと思います。
古くても日本の誇り。今は無いけどね。(当時、乗客減少はあったかもしれませんが)残して置きゃあ良いのに。たいへん貴重な、軽便・駿遠線映像を、ありがとうございました。令和元年6月13日(木)投稿。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。動態保存の車両が一台も無いのは、悔やまれますね。
冒頭の上吉田-榛原町間は、チビの頃乗った記憶があります。廃線から40年経ちますが、線路跡が自転車道になり駅名標が建てられ、地元の人々が記憶を遺そうとしている動きがあって、この動画を見ていたら目頭がうるんでしまいました。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。当時乗られた方々の駿遠線への想いによって、駅名標やホーム跡の整備が進んでいるのは、とても素晴らしいですね。
静岡に来て人生半分24年です。役場でディーゼルの鉄道がある事しり検索しました。日頃見た事がある風景が廃線跡でした。貴重な映像ありがとうございます。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
勝間田川鉄橋の橋げたで釣りをした頃を思い出します。線路を歩き橋げたに行き、線路から1m程下にちょうど人が座れる場所があり、そこで釣りをしてると軽便が頭のすぐ上をゴトンゴトンと通りました。今では安全上ムリですね。
楽しい思い出のコメントを頂きまして、ありがとうございます。
操縦席から眺める風景って最高ですね!この時代に乗れた人は良い思い出というより心の財産ですよね🚦
お袋が袋井の出で、子供の頃よく乗ったと言っていました。貴重な映像ですね・・・。もし駿遠線が改軌、近代化して現在も存続していたらどうなっていたでしょうか、それを考えるのもまた一興ですね。保存された車両が藤枝市郷土博物館の蒸気機関車しか存在しないというのが返す返すも残念ではあります。
実家は旧榛原町の山の手(高尾山の麓)にあり、当時小学生なので、風の便りに鉄道があることは知っていたが、見ることすらなかった。廃線後、2~3年もしない内に、貧しい農家?の実家で、360ccの中古乗用車が足となった。(俗に言うモータリゼーションが、都会の藤枝や沿線各地に押し寄せたのかも?)流石に、歴史ある駿遠線も時代の波(海が近いから波)に押されて、バトンタッチしたのでしょう。😅
コメント頂きまして、ありがとうございます。自動車産業の発展により生活は便利になりましたが、それまで人々の生活を支えてきた駿遠線がひっそり消えていった事をいつまでも記憶に留めていたいものですね。我が家にも昔360ccの中古車があり家族4人で乗っていましたが、今見ると大変小さくてよく走ったものだと驚きます。
貴重な映像、ありがとうございます。
シリーズ1,2,3とも全て食い入る様に見せて頂きました。新藤枝から相良までの路線を撮影したときの事を思い出させて頂きました。駿遠線のすべてが記録されたカラー映像として、後世に残すべき第一級の記録と思います。
仕事で大須賀に出向いた際、廃線後を見つけて、駿遠線に興味を持ちました。動画は感激です。いつか廃線後を歩いてみたいと思います。
閑散路線とは思えないのですが、結果的に大井川橋梁の架け替えができなかったことが引き金になり、廃止になってしまったんですよね。ただ架け替えができたとしても、その後のモータリゼーションに抗うことまでは無理だったかもしれませんが。
コメントをありがとうございます。橋の脆さが廃止の原因の一つになったのは残念ですが、当時あの木造橋で安全に運行し続けた駿遠線は素晴らしかったと思います。モータリゼーションの発展は、功罪半ばであると今も感じます。
現在で言えば、「(徐行や強化されているとは言え、)蓬莱橋の上を満員電車が走っていた」という状況。あと、降りた乗客が、電車の前を横切るのが通例であったり、兎に角、ゆったりした時代だったんですね。(当時は当たり前なので、気付かず。)更に、大井川と言えば、現在よりかなり北側を流れていたルートを、行政の力で現在の位置まで移動させた(結果、志太郡の拡張と榛原郡の縮小)…と、聞いています。
駿遠線の写真はあまた見てきましたが、動画は初めてです!ありがとうございます
コメントを頂きまして、ありがとうございます。幼少の頃に廃線になってしまいましたので、営業運転をしていた頃の記憶はありませんが、特に平成令和の時代に育った若い方々に見て頂きたく、この動画を投稿させて頂きました次第です。
昭和のころ、こうした軽便鉄道があちこちにありました。しかしモータリゼーションの進歩や、速度や利便性を求める時代の要請に答えられず、多くの軽便鉄道は消滅してゆきました。鉄道好きからしてみれば悲しい側面のある時代でもありました。静岡鉄道駿遠線は昭和45年に廃止になりました。同じく762㎜軌間の鉄道は現在、三岐鉄道北勢線(三重県桑名市~いなべ市)と、四日市あすなろう鉄道の内部線(うつべせん)、八王子線(三重県四日市市)、黒部峡谷鉄道本線(富山県黒部市)の3社4路線のみが残るだけになってしまいました。軽便鉄道の最盛期には300路線以上が日本国内にありました(軌間は様々)。軽便鉄道は旅客需要等の少ない地方の田園地帯には適切でした。しかし、このころの交通事情の最大の変化の特徴は、道路交通が飛躍的に進歩したことでした。当時まではなんでもかんでも鉄道輸送に依存していました。ところがこのころから、貨物輸送はトラック輸送へ、旅客輸送はバスやマイカーへと移っていったのでした。軽便鉄道が過ぎ行く時代の流れにあらがうことはできなかったのです。
コメントをありがとうございます。戦後は全国の軽便鉄道が多くの人々の暮らしを支えてくれたのだと思いますが、当時の方がこのような映像を残して下さったおかげでモータリゼーションの発達とともに忘却の彼方へ消えていってしまったこの小さな功労者を思い出させてくれますね。
駿遠線、ぜひ復活してほしいです
コメントを頂きまして、ありがとうございます。駿遠線の復活は当方も夢見ております。
今は亡き父親が軽便で働いてました子供の頃、地頭方から根松まで通院で利用していた時は従業員の家族用の無料の乗車切符を使ってました(区間は何処まででも乗れる、回数券みたいな物だったと思います)当時は堀野新田から藤枝まででした。
当時の大変貴重な思い出のコメントを頂きまして、ありがとうございます。
むかしおいらが小学4年に龍山村から神戸に引っ越して来て小学5年の夏友達と遠州神戸から相良まで遊びに行ったことを思い出しますかなり親から叱れました
懐かしく楽しい思い出のコメントをありがとうございます。子供の頃は隣の駅まででも列車に乗るのが嬉しかったですね。天竜二俣にもかつて光明鉄道があったそうですね。
4:20 すごい!昔の小堤山トンネル初めて見ました。5:07 この看板今も残されていますね!今度、今現在の看板をもっとしっかり見てみたいと思います。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。小堤山トンネルは今も地元の方々が利用されていますね。当時の看板は、手書きの書体が味わい深いですね。
まさに鉄道が活き活きとしていた時代の映像ですね。昭和30〜40年代に軽便鉄道や地方非電化私鉄は次々と廃止になり、バス転化されて行く鉄道激動の時代でしたが、映像を見る限りではまだまだ廃止は早いのでは?と、思います。それでも廃止と言う事は映像では伺う事が出来ない色々な事情があったんでしょうね。貴重な映像ありがとうございました。
いわれてみれば利用者少なくなかったですよね。映像にある大井川木橋が痛んでたのが直接の廃線原因じゃないかと思いませんか!?
ヒラタツさん、確かに大井川の橋は旧態然としていて廃線直前まで徐行運転だったみたいですね。写真なんかで見ると並走する国道(?)はコンクリート橋脚の近代的なものになっているのに対して、非常に見劣りしていましたから…ですがそれがまたいい味を出していて…自分はこういうの大好物ですよ。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。古くは堀内軌道、静岡鉄道秋葉線、遠州鉄道奥山線など、静岡県西部の軽便鉄道は次々にモータリゼーション発達の波に揉まれて消えていきましたが、最後に残ったのが駿遠線だったと思います。大井川木橋の老朽化も、廃止の流れに拍車を掛けたと思います。
子供達が多いのは夏休みだからかな? 相良から浜岡とキャンプしながら抜けたことあり。さよなら列車は大奮発の5連ですかあ。
コメント頂きまして、ありがとうございます。現在と異なり、当時の静波海水浴場は大賑わいだったのでしょうね。当方はさよなら列車を見送れなかった世代ですが、廃止後も東海道線藤枝駅東方にあった東海道線を越える大きな築堤と藤枝駅の構内で物置として余生を送っていた駿沿線の有蓋貨車は記憶に残っています。
もし駿遠線が廃線せず今でも健在なら大井川鉄道のような存在になっていただろうな。
コメントをありがとうございます。高度成長期に貴重な社会資本が使い捨てにされた事は悔やまれますね。長期的に見れば、軽便なものは負担が少なく維持しやすかったと思います。
乗客の衣装で時代を感じた!これ鉄道のみならず当時の流行を残す貴重映像じゃないですか?廃線直前まで朝晩満員だったとは…大井川橋梁の老朽化が一番の問題!?もし架替えてれば今も残ったと思えますよ。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。建物や服装など、昭和の文化が映像から伝わってきますよね。廃止直前のお別れ列車運行時は満員だったと思いますが、自動車の普及と共に主な乗客は学生さんとお年寄りだけになり鉄道としての採算は年々合わなくなっていたのだと思われます。
駿遠線廃線後25年、自分の地元吉田町だと27年後に生まれたので、鉄道があった当時を知りません。それゆえその時代、最盛期の1950年代にタイムスリップしたいものです…
JW1550CC いえいえ、ちなみに冒頭の上吉田は今はJAハイナン吉田支店があって、かみよしだと書かれた看板と駅の跡地をそのまま使ったような小さな公園で何となく面影がある感じですね。公園で道が分岐してるので比較的わかりやすい跡地かもしれません。投稿者様がこの地域の方でしたら既におわかりかとは思いますが…。あ~、この時代を知らないからこそ一回でいいからホンマに乗りたい!
@@internationaleldorado1532 最近大井川木橋跡を訪れましたが上吉田方面へ延びるサイクルロードが駿遠線の遺構ですよ。アラフィフの僕も乗ったことありませんがタイムマシンがあれば行ってみたいですな。
さよなら運行時は、3両・4両・5両の編成で運行していました。(静鉄駿遠線のみ)
コメントを頂きまして、ありがとうございました。さよなら列車の運行から、いつの間にか半世紀近くも経ってしまったのですね。
地元の静波!今と全然違うな
こんなに賑わっていたなんて今では驚き・・・現在はあの周辺が閑散としているのに・・・
昔榛原町の民宿に泊まった時の地元民「10年前は鉄道走ってたよ」…当時は意味不明でしたがこの映像で謎が解けましたよ(^^)
8:30は勝俣のシェル石油の所でしょうかね?
コメントを頂きまして、ありがとうございます。すごいですね、地元にお住まいなのでしょうか?左側のビニールハウスと右側の林(神社?)が現存していますので、シェル石油の真横あたりからの風景ではないかと、当方も思います。
そうですね、鹿島の昭和シェルの裏に現在は橋が取り壊されて水道管だけ通されてる箇所があって、そこが仲町からの線路だったと聞いています。水道管は木橋の橋脚に載っていて、手前に橋台のコンクリートが残っています・・・それが150号と交差する所なので、150号で相良方面に向かって右の角にグリーンセンターというお花屋さんがある交差点の所ですね。今でもそこからサイクリングロードが始まっていて、駿遠線の線路跡を利用していますね。元は静波の人間なので、最も見たかった根松、細江、静波駅(現:榛原郵便局)が全てすっ飛ばされて吉田田んぼの後はいきなり海水浴場入口の榛原町駅に滑り込む風景に変わっていたのが残念でした、、、
鹿島神社らしい一帯が見えるので、多分合ってると思いますよ!
2:20 ダルマ式のスプリングポイントなんてあったんだ!
路面電車のスプリングポイントはダルマないです(笑)旧名鉄岐阜市内線が該当
1:03なぜ名市交の市バス[旧塗装]が静岡市内に❔
撮影が廃止直前なら中古バス購入も考えられますよ。もう橋の老朽化が相当進行してたから台数稼ぐべくやむを得ずかと。
軽便鉄道とはいえ、決して営業成績は悪くなく、しかし貧弱な設備をリフレッシュ (決定的なのは大井川橋梁) するには資金難ということが、大きな廃止要因だったと聞きましたが、随所にそれをうかがわせる映像です。もしこの鉄道が国鉄規格で、たとえば浜松に直結していれば (福田/フクデや竜洋などを通りそうですし…)、まったく違う展開になり、あるいは現在なら名古屋あたりから85系気動車や (電化されたら) 373系電車による直通特急が運転されたりしたかも知れないなどと妄想してしまいます。需要がそこそこありながらも、元が軽便鉄道だったためか、積極的投資がなされなかったことで消えてしまった数少ない例のひとつのような気がします。残念なのは、音楽にまったく必然性が感じられず、現代的過ぎて、ひいき目に見てもあまり映像のイメージに合うものではなく、ただテキトーに選んで挿入したという感じしかしないことです。
大井川木橋を更新してりゃオイルショックで乗り切れたろう。大井川から静岡への延伸計画も実現してれば大井川木橋架替も改軌も着手したと思います…新幹線や東海道線に空きトンネル取られて断念したのは痛い。それに相良~新横須賀の乗客が少なく末期は朝晩のみだから儲けはなかったとも聞きます。1959年貨物廃止も軌道幅の違いゆえの悲劇だとか。BGMつけたのは当時の撮影機材が音声録音できなかったからでしょ!? 当時ビデオカメラはないし。個人的にBGMはそれなりと感じます。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。個人的には、あの時代に地方の私鉄が長大な営業キロ数で快速列車まで運行していただけでも偉業だったのではないかと思っています。画像や音楽は随分前に製作された映像ですので、至らない部分も多いかと思いますが、ご容赦頂けますと幸いです。
静岡鉄道は昔貨物列車は走ってましたか?
シリーズ映像にキハに牽かれた業務用無蓋貨車がありました…貨物列車もあったでしょ!?後にトラック輸送の関連会社・駿遠運送へ引き継がれましたが。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。沿線の農作物を運ぶ混合列車は画像が残っていますね。半分客車で半分荷物車の車両もありましたし、運転席の前に大きなバスケットのようなデッキを装備した車両もあり、荷物や自転車なども運んででいたようです。
動画を借ります
駿遠線および中遠地方の歴史伝承に活用して頂けますとと幸いです。
うーん、単線かつ、非電化でしたか😶いいたかないけど、こりゃ、廃止になっちゃうよね😭
さらに特殊狭軌(軽便鉄道)であまり速度も出ず冷暖房も扇風機も付けれない…時代の波に取り残されましたね。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。長大な営業キロ数からしても、設備投資額にはかなり制約があったと思いますが、沿線の人口からすれば随分頑張って営業を続けられたと思います。
今、昔の面影を感じるのは、榛原町駅跡の静鉄バスの榛原車庫、バス停名は「静波海岸入口」新相良駅跡にいった静鉄バスの相良営業所は移転したし、新藤枝駅跡の静鉄バスの藤枝駅北口のバスターミナルは再開発でなくなったし
コメントをありがとうございます。
廃止から半世紀以上経た現在も残る駿遠線の遺構を知る方の情報は、
大変貴重であると思います。
時々夢にも出てきます。
コメントをありがとうございます。
今よりも不便で皆一生懸命だった時代であったからこそ、
いつまでも忘れらない記憶になっているのかもしれませんね。
窓を開けて片腕を出しながら浜風を感じる、この時代でしか味わえないひと時。
車両どちら側からでも降りられ線路を斜めに横断出来る駅。階段やエスカレーターだらけで商売っ気溢れる駅構内…どちらが便利と言えるだろうか。
ラストランのカメラフラッシュは新聞記者さんのカメラだけでとても安心。
思い出は肉眼で見て感じ脳裏に焼きつけた方が鮮明に残る。
溢れる情報の中で暮らすよりも、当時の豊かさの中で暮らしてみたい。
サイレント映像のおかげで人々の会話や車輪の音を想像し楽しむことができる。
カメラワークにも感激しております。
貴重な映像をありがとうございました。
想いの詰まったコメントを頂きまして、ありがとうございます。
多くの方々が今よりも貧しかったと思いますが、
映像の中には純粋な笑顔が溢れていますよね。
モータリゼーションの発展にとともに消えて行った駿遠線ですが、
過度な車依存が日本の社会構造を変えてしまった事を
今教えてくれているように感じます。
2に続いて貴重な映像、そして思い出の彼方に去り行くさよなら運転の映像を
UP頂きありがとうございます。
とある私鉄のさよなら列車でお客さんを満載した列車を見た従業員の方々が
「今更こんなに乗っても手遅れだ・・・」と悔し涙を流していたという記述を
読んで、その言葉が今でも胸に棘となって刺さっています。
恐らく駿遠線のさよなら列車の乗務員の方々も同じような無念の思いだったの
でしょうか・・・?
多くのコメントを頂きまして、ありがとうございます。
利用者減により止むを得ず廃線という結末を迎える際に
”最後だから記念に乗っておこう”と殺到されても、心中は複雑ですよね。
同級生のお父様が駿遠線に勤務しておられましたが、
廃線後は静鉄が経営するホテルへ異動されました。
鉄道マンとしての誇りもあったでしょうから、
さぞかし無念だったのだろうと思います。
古くても日本の誇り。今は無いけどね。(当時、乗客減少はあったかもしれませんが)残して置きゃあ良いのに。
たいへん貴重な、軽便・駿遠線映像を、ありがとうございました。令和元年6月13日(木)投稿。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
動態保存の車両が一台も無いのは、悔やまれますね。
冒頭の上吉田-榛原町間は、チビの頃乗った記憶があります。
廃線から40年経ちますが、線路跡が自転車道になり駅名標が建てられ、地元の人々が記憶を遺そうとしている動きがあって、この動画を見ていたら目頭がうるんでしまいました。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
当時乗られた方々の駿遠線への想いによって、
駅名標やホーム跡の整備が進んでいるのは、
とても素晴らしいですね。
静岡に来て人生半分24年です。役場でディーゼルの鉄道がある事しり検索しました。
日頃見た事がある風景が廃線跡でした。貴重な映像ありがとうございます。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
勝間田川鉄橋の橋げたで釣りをした頃を思い出します。線路を歩き橋げたに行き、線路から1m程下にちょうど人が座れる場所があり、そこで釣りをしてると軽便が頭のすぐ上をゴトンゴトンと通りました。今では安全上ムリですね。
楽しい思い出のコメントを頂きまして、ありがとうございます。
操縦席から眺める風景って最高ですね!この時代に乗れた人は良い思い出というより心の財産ですよね🚦
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
お袋が袋井の出で、子供の頃よく乗ったと言っていました。貴重な映像ですね・・・。もし駿遠線が改軌、近代化して現在も存続していたらどうなっていたでしょうか、それを考えるのもまた一興ですね。保存された車両が藤枝市郷土博物館の蒸気機関車しか存在しないというのが返す返すも残念ではあります。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
実家は旧榛原町の山の手(高尾山の麓)にあり、当時小学生なので、
風の便りに鉄道があることは知っていたが、見ることすらなかった。
廃線後、2~3年もしない内に、
貧しい農家?の実家で、360ccの中古乗用車が足となった。
(俗に言うモータリゼーションが、都会の藤枝や沿線各地に押し寄せたのかも?)
流石に、
歴史ある駿遠線も時代の波(海が近いから波)に押されて、バトンタッチしたのでしょう。😅
コメント頂きまして、ありがとうございます。
自動車産業の発展により生活は便利になりましたが、
それまで人々の生活を支えてきた駿遠線がひっそり消えていった事を
いつまでも記憶に留めていたいものですね。
我が家にも昔360ccの中古車があり家族4人で乗っていましたが、
今見ると大変小さくてよく走ったものだと驚きます。
貴重な映像、ありがとうございます。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
シリーズ1,2,3とも全て食い入る様に見せて頂きました。新藤枝から相良までの路線を撮影したときの事を思い出させて頂きました。駿遠線のすべてが記録されたカラー映像として、後世に残すべき第一級の記録と思います。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
仕事で大須賀に出向いた際、廃線後を見つけて、駿遠線に興味を持ちました。動画は感激です。いつか廃線後を歩いてみたいと思います。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
閑散路線とは思えないのですが、結果的に大井川橋梁の架け替えができなかったことが引き金になり、廃止になってしまったんですよね。
ただ架け替えができたとしても、その後のモータリゼーションに抗うことまでは無理だったかもしれませんが。
コメントをありがとうございます。
橋の脆さが廃止の原因の一つになったのは残念ですが、
当時あの木造橋で安全に運行し続けた駿遠線は素晴らしかったと思います。
モータリゼーションの発展は、功罪半ばであると今も感じます。
現在で言えば、「(徐行や強化されているとは言え、)蓬莱橋の上を満員電車が走っていた」という状況。
あと、
降りた乗客が、電車の前を横切るのが通例であったり、兎に角、
ゆったりした時代だったんですね。(当時は当たり前なので、気付かず。)
更に、
大井川と言えば、現在よりかなり北側を流れていたルートを、
行政の力で現在の位置まで移動させた(結果、志太郡の拡張と榛原郡の縮小)…と、聞いています。
駿遠線の写真はあまた見てきましたが、動画は初めてです!
ありがとうございます
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
幼少の頃に廃線になってしまいましたので、
営業運転をしていた頃の記憶はありませんが、
特に平成令和の時代に育った若い方々に見て頂きたく、
この動画を投稿させて頂きました次第です。
昭和のころ、こうした軽便鉄道があちこちにありました。しかしモータリゼーションの進歩や、速度や利便性を求める時代の要請に答えられず、多くの軽便鉄道は消滅してゆきました。鉄道好きからしてみれば悲しい側面のある時代でもありました。
静岡鉄道駿遠線は昭和45年に廃止になりました。同じく762㎜軌間の鉄道は現在、三岐鉄道北勢線(三重県桑名市~いなべ市)と、四日市あすなろう鉄道の内部線(うつべせん)、八王子線(三重県四日市市)、黒部峡谷鉄道本線(富山県黒部市)の3社4路線のみが残るだけになってしまいました。軽便鉄道の最盛期には300路線以上が日本国内にありました(軌間は様々)。軽便鉄道は旅客需要等の少ない地方の田園地帯には適切でした。
しかし、このころの交通事情の最大の変化の特徴は、道路交通が飛躍的に進歩したことでした。当時まではなんでもかんでも鉄道輸送に依存していました。ところがこのころから、貨物輸送はトラック輸送へ、旅客輸送はバスやマイカーへと移っていったのでした。軽便鉄道が過ぎ行く時代の流れにあらがうことはできなかったのです。
コメントをありがとうございます。
戦後は全国の軽便鉄道が多くの人々の暮らしを支えてくれたのだと思いますが、当時の方がこのような映像を残して下さったおかげで
モータリゼーションの発達とともに忘却の彼方へ消えていってしまったこの小さな功労者を思い出させてくれますね。
駿遠線、ぜひ復活してほしいです
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
駿遠線の復活は当方も夢見ております。
今は亡き父親が軽便で働いてました
子供の頃、地頭方から根松まで通院で利用していた時は
従業員の家族用の無料の乗車切符を使ってました
(区間は何処まででも乗れる、回数券みたいな物だったと思います)
当時は堀野新田から藤枝まででした。
当時の大変貴重な思い出のコメントを頂きまして、ありがとうございます。
むかしおいらが小学4年に龍山村から
神戸に引っ越して来て
小学5年の夏友達と遠州神戸から相良まで遊びに行ったことを思い出します
かなり親から叱れました
懐かしく楽しい思い出のコメントをありがとうございます。
子供の頃は隣の駅まででも列車に乗るのが嬉しかったですね。
天竜二俣にもかつて光明鉄道があったそうですね。
4:20 すごい!昔の小堤山トンネル初めて見ました。
5:07 この看板今も残されていますね!今度、今現在の看板をもっとしっかり見てみたいと思います。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
小堤山トンネルは今も地元の方々が利用されていますね。
当時の看板は、手書きの書体が味わい深いですね。
まさに鉄道が活き活きとしていた時代の映像ですね。昭和30〜40年代に軽便鉄道や地方非電化私鉄は次々と廃止になり、バス転化されて行く鉄道激動の時代でしたが、映像を見る限りではまだまだ廃止は早いのでは?と、思います。それでも廃止と言う事は映像では伺う事が出来ない色々な事情があったんでしょうね。
貴重な映像ありがとうございました。
いわれてみれば利用者少なくなかったですよね。映像にある大井川木橋が痛んでたのが直接の廃線原因じゃないかと思いませんか!?
ヒラタツさん、確かに大井川の橋は旧態然としていて廃線直前まで徐行運転だったみたいですね。写真なんかで見ると並走する国道(?)はコンクリート橋脚の近代的なものになっているのに対して、非常に見劣りしていましたから…ですがそれがまたいい味を出していて…自分はこういうの大好物ですよ。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
古くは堀内軌道、静岡鉄道秋葉線、遠州鉄道奥山線など、
静岡県西部の軽便鉄道は次々にモータリゼーション発達の波に揉まれて消えていきましたが、
最後に残ったのが駿遠線だったと思います。
大井川木橋の老朽化も、廃止の流れに拍車を掛けたと思います。
子供達が多いのは夏休みだからかな? 相良から浜岡とキャンプしながら抜けたことあり。
さよなら列車は大奮発の5連ですかあ。
コメント頂きまして、ありがとうございます。
現在と異なり、当時の静波海水浴場は大賑わいだったのでしょうね。
当方はさよなら列車を見送れなかった世代ですが、
廃止後も東海道線藤枝駅東方にあった東海道線を越える大きな築堤と
藤枝駅の構内で物置として余生を送っていた駿沿線の有蓋貨車は記憶に残っています。
もし駿遠線が廃線せず今でも健在なら大井川鉄道のような存在になっていただろうな。
コメントをありがとうございます。
高度成長期に貴重な社会資本が使い捨てにされた事は悔やまれますね。
長期的に見れば、軽便なものは負担が少なく維持しやすかったと思います。
乗客の衣装で時代を感じた!これ鉄道のみならず当時の流行を残す貴重映像じゃないですか?
廃線直前まで朝晩満員だったとは…大井川橋梁の老朽化が一番の問題!?もし架替えてれば今も残ったと思えますよ。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
建物や服装など、昭和の文化が映像から伝わってきますよね。
廃止直前のお別れ列車運行時は満員だったと思いますが、
自動車の普及と共に主な乗客は学生さんとお年寄りだけになり
鉄道としての採算は年々合わなくなっていたのだと思われます。
駿遠線廃線後25年、自分の地元吉田町だと27年後に生まれたので、鉄道があった当時を知りません。それゆえその時代、最盛期の1950年代にタイムスリップしたいものです…
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
JW1550CC いえいえ、ちなみに冒頭の上吉田は今はJAハイナン吉田支店があって、かみよしだと書かれた看板と駅の跡地をそのまま使ったような小さな公園で何となく面影がある感じですね。
公園で道が分岐してるので比較的わかりやすい跡地かもしれません。
投稿者様がこの地域の方でしたら既におわかりかとは思いますが…。
あ~、この時代を知らないからこそ一回でいいからホンマに乗りたい!
@@internationaleldorado1532 最近大井川木橋跡を訪れましたが上吉田方面へ延びるサイクルロードが駿遠線の遺構ですよ。アラフィフの僕も乗ったことありませんがタイムマシンがあれば行ってみたいですな。
さよなら運行時は、3両・4両・5両の編成で運行していました。(静鉄駿遠線のみ)
コメントを頂きまして、ありがとうございました。
さよなら列車の運行から、いつの間にか半世紀近くも経ってしまったのですね。
地元の静波!今と全然違うな
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
こんなに賑わっていたなんて今では驚き・・・
現在はあの周辺が閑散としているのに・・・
昔榛原町の民宿に泊まった時の地元民「10年前は鉄道走ってたよ」…当時は意味不明でしたがこの映像で謎が解けましたよ(^^)
8:30は勝俣のシェル石油の所でしょうかね?
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
すごいですね、地元にお住まいなのでしょうか?
左側のビニールハウスと右側の林(神社?)が現存していますので、
シェル石油の真横あたりからの風景ではないかと、当方も思います。
そうですね、鹿島の昭和シェルの裏に現在は橋が取り壊されて
水道管だけ通されてる箇所があって、そこが仲町からの線路だったと
聞いています。水道管は木橋の橋脚に載っていて、手前に橋台のコンクリートが残っています・・・
それが150号と交差する所なので、150号で相良方面に向かって右の角に
グリーンセンターというお花屋さんがある交差点の所ですね。
今でもそこからサイクリングロードが始まっていて、駿遠線の線路跡を利用していますね。
元は静波の人間なので、最も見たかった根松、細江、静波駅(現:榛原郵便局)が全てすっ飛ばされて吉田田んぼの後はいきなり海水浴場入口の榛原町駅に滑り込む風景に変わっていたのが残念でした、、、
鹿島神社らしい一帯が見えるので、多分合ってると思いますよ!
2:20 ダルマ式のスプリングポイントなんてあったんだ!
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
路面電車のスプリングポイントはダルマないです(笑)旧名鉄岐阜市内線が該当
1:03
なぜ名市交の市バス[旧塗装]が静岡市内に❔
撮影が廃止直前なら中古バス購入も考えられますよ。もう橋の老朽化が相当進行してたから台数稼ぐべくやむを得ずかと。
軽便鉄道とはいえ、決して営業成績は悪くなく、しかし貧弱な設備をリフレッシュ (決定的なのは大井川橋梁) するには資金難ということが、大きな廃止要因だったと聞きましたが、随所にそれをうかがわせる映像です。
もしこの鉄道が国鉄規格で、たとえば浜松に直結していれば (福田/フクデや竜洋などを通りそうですし…)、まったく違う展開になり、あるいは現在なら名古屋あたりから85系気動車や (電化されたら) 373系電車による直通特急が運転されたりしたかも知れないなどと妄想してしまいます。
需要がそこそこありながらも、元が軽便鉄道だったためか、積極的投資がなされなかったことで消えてしまった数少ない例のひとつのような気がします。
残念なのは、音楽にまったく必然性が感じられず、現代的過ぎて、ひいき目に見てもあまり映像のイメージに合うものではなく、ただテキトーに選んで挿入したという感じしかしないことです。
大井川木橋を更新してりゃオイルショックで乗り切れたろう。大井川から静岡への延伸計画も実現してれば大井川木橋架替も改軌も着手したと思います…新幹線や東海道線に空きトンネル取られて断念したのは痛い。それに相良~新横須賀の乗客が少なく末期は朝晩のみだから儲けはなかったとも聞きます。1959年貨物廃止も軌道幅の違いゆえの悲劇だとか。
BGMつけたのは当時の撮影機材が音声録音できなかったからでしょ!? 当時ビデオカメラはないし。個人的にBGMはそれなりと感じます。
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個人的には、あの時代に地方の私鉄が長大な営業キロ数で快速列車まで運行していただけでも
偉業だったのではないかと思っています。
画像や音楽は随分前に製作された映像ですので、
至らない部分も多いかと思いますが、ご容赦頂けますと幸いです。
静岡鉄道は昔貨物列車は走ってましたか?
シリーズ映像にキハに牽かれた業務用無蓋貨車がありました…貨物列車もあったでしょ!?後にトラック輸送の関連会社・駿遠運送へ引き継がれましたが。
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沿線の農作物を運ぶ混合列車は画像が残っていますね。
半分客車で半分荷物車の車両もありましたし、
運転席の前に大きなバスケットのようなデッキを装備した車両もあり、
荷物や自転車なども運んででいたようです。
動画を借ります
駿遠線および中遠地方の歴史伝承に活用して頂けますとと幸いです。
うーん、単線かつ、非電化でしたか😶
いいたかないけど、こりゃ、廃止になっちゃうよね😭
さらに特殊狭軌(軽便鉄道)であまり速度も出ず冷暖房も扇風機も付けれない…時代の波に取り残されましたね。
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長大な営業キロ数からしても、設備投資額にはかなり制約があったと思いますが、
沿線の人口からすれば随分頑張って営業を続けられたと思います。