【山陰めぐり⑰】⛩️🚗✨丹後エリアに秦氏の拠点?😆丹後は渡来系と東国勢力の拠点だったのか?😫古事記&日本書紀な有名な出雲と山陰を巡りつつ古代史の謎を妄想解釈します😉

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  • Опубликовано: 27 июн 2024
  • ミライースで京都府をドライブ旅😊
    古事記&日本書紀な有名な出雲と山陰を巡ります😉
    丹後エリアに秦氏の拠点?🧐
    丹後は渡来系と東国勢力の拠点だったのか?😫
    ◆参考資料
    栗田寛 著『新撰姓氏録考証』下(巻11-21),吉川弘文館,明33.1. 国立国会図書館デジタルコレクション dl.ndl.go.jp/pid/1086613 (参照 2024-05-20)
    栗田寛 著『新撰姓氏録考証』上(巻1-10),吉川弘文館,明33.1. 国立国会図書館デジタルコレクション dl.ndl.go.jp/pid/1086593 (参照 2024-05-20)
    武田祐吉 編『風土記』,岩波書店,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション dl.ndl.go.jp/pid/1173165 (参照 2023-05-07)
    [舎人親王] [編]『日本書紀 30巻』[7],慶長15 [1610]. 国立国会図書館デジタルコレクション dl.ndl.go.jp/pid/2544346 (参照 2023-09-11)
    西野宣明 [校]『常陸風土記』,和泉屋金右衛門,天保10 [1839]. 国立国会図書館デジタルコレクション dl.ndl.go.jp/pid/2536069 (参照 2023-08-06)
    栗田寛 著『新撰姓氏録考証』上(巻1-10),吉川弘文館,明33.1. 国立国会図書館デジタルコレクション dl.ndl.go.jp/pid/1086593 (参照 2023-08-06)
    弥生鉄史観の見直し 藤尾慎一郎
    www.rekihaku.ac.jp/outline/pu...
    『先代旧事本紀 10巻』[5],前川茂右衛門,寛永21. 国立国会図書館デジタルコレクション dl.ndl.go.jp/pid/2563305 (参照 2023-08-06)
    武田祐吉 編『風土記』,岩波書店,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション dl.ndl.go.jp/pid/1173165 (参照 2023-09-01)
    『京都府熊野郡誌』,熊野郡,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション dl.ndl.go.jp/pid/925932 (参照 2023-09-08)
    栗田寛 著『古風土記逸文』,大岡山書店,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション dl.ndl.go.jp/pid/1210472 (参照 2023-09-08)
    中山太郎 著『歴史と民俗』,三笠書房,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション dl.ndl.go.jp/pid/1460023 (参照 2023-04-22)
    籠神社
    www.motoise.jp/
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    #神社

Комментарии • 22

  • @mk3397
    @mk3397 Месяц назад +5

    都市伝説 スピリチュアルはもとより、神社、歴史、古代史考察チャンネルのどれもファンタジーロマンの味付けがされていて全然見えてこない。
    そんな中ひとつひとつエピソードの年代や整合性を考えて歴史考察しているふどきさんは貴重ですね👍

  • @user-og1mm8nn2h
    @user-og1mm8nn2h 16 дней назад

    いつもながら優れた解明力に感銘しながら勉強しています。古代日本の深い謎が解きあかされてゆくようです。我々が知らない事実が眠っています。

  • @kyupytarou
    @kyupytarou Месяц назад +2

    丹後は景観が美しくそれだけでロマン溢れます。
    今京都国立博物館来てます。傍のカフェでホットドッグ頬張って腹ごしらえ。
    京都は秦氏の偉業なくしてありえません。
    まもなく祇園祭りです。四条の元祇園社お参りしました。スサノオをお祀りされています。かつては牛頭天王だったでしょう。祇園信仰は京都の礎です。
    平安時代に疫病が流行りました。それを鎮める願いが綿々と受け継がれてきました。
    神仏の境目はありませんでした。京都市内ウロチョロすると見えてきます。受け継がれる信仰こそが真実であると…
    さあて博物館目を凝らして見てきます。

  • @misato7612
    @misato7612 28 дней назад +2

    伽耶とか任那とかあっての大和のシステム、鉄の塊もらったら生口……兵隊とかを送る、その送られる人たちは蝦夷の人たちがメイン?と想像してたんですが……
    もしかして、だから、渡来系と蝦夷の人たちは近くで暮らしていたんだろうか、それも仲良く暮らしてたんだったら持ちつ持たれつハッピーだったのかな
    逆に雄略王はそのシステム打破を企て関東地方の有力豪族にで慕われたんだろうか
    と考えつつ、スピ系で有名な場所とは知らなかった💦(シリウス、プレアデス星人の話とかは好きで聞いてます😸)

  • @yamachandiy3669
    @yamachandiy3669 Месяц назад +3

    おもしろい面白い とても面白いです。大分県と四国の間にある豊後水道に面する所に大分県佐伯市が有ります。旧海部の郡に含まれます。 
     神武東征の折 磐余彦が佐賀関(旧北海部郡)にて珍彦(椎根津彦)に出会い海路の案内を頼んだと言うことに成ってますが 宇佐市には珍彦(椎根津彦)を祀る宮も白宇津の地名も残っています。
     また宇佐神宮ですが八幡神は秦氏が持ち込んだ神も言いますね。宇佐市の平野部に泉社(酒井泉神社とも辛島泉神社とも云う)が在りますが 神奈市津姫が八幡大神に境内の泉で醸した酒を献じたと 故に酒井泉社と称するようになったとされています。
     豊前の国は随書に言う秦大国に比定され 現在でも 秦 羽田 畑 等の字を冠した苗字の特に多い地域ですね。因みに泉社の主祭神は 応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 合祀神は ウケモチノ神 豊受姫神 宮比神 素戔嗚神 市来島姫神 仁徳天皇 もう関連在りすぎでしょう。

    • @user-cs1gg9dj9i
      @user-cs1gg9dj9i 29 дней назад

      ふどきさんの動画も面白かったですし、こちらさまのコメントも非常に心をそそられました。
      考える(妄想する?) 26:03 材料があらゆる所にあって尽きないですね

  • @user-zi8fd3zq4i
    @user-zi8fd3zq4i 24 дня назад +1

    秦氏、徐福が連れてきた、職人、海童等の子孫説、気に入ってます。

  • @user-dz9qn1ru3k
    @user-dz9qn1ru3k 29 дней назад +2

    秦氏 秦澄が秦氏だよ。白山を開いた人
    福井県 その当時は越国 秦氏でも 秦が名ではなかったらしい。神谷?かな 当時はながあるだけでも 地位があり 瓦とかで寺建てれた んで、水系です。
    川の運搬をしていたそうで、若狭はもちろん 丹後にしても 川が重要で古墳がいっぱいありますよね。

    • @user-dq5ih3pc5f
      @user-dq5ih3pc5f 27 дней назад

      次男だから瓜に出田、山井葉が歯やたらシロ-w-w😱記憶無くしたんでしょう麻ミンミン

  • @masamasaict7312
    @masamasaict7312 Месяц назад +2

    蝦夷が女王国と考えれば問題なくなる。
    倭人の国は帯方郡の東南にあると書いてある。九州は南だと思うのですが、ふどきさんはどう思いますか?

  • @ytanaka257
    @ytanaka257 28 дней назад +1

    4:22 最近は「くにのみやつこ」とは言わなくなったんですね。歴史の用語はよく変わるので大変だ。

  • @asa01053
    @asa01053 Месяц назад +1

    蝦夷が佐伯ですか!名字で佐伯君います。神武の東征は関東から関西へ。

  • @user-jd6eo7cb6g
    @user-jd6eo7cb6g 24 дня назад +1

    九州が上毛野の本拠地で大和を結ぶ拠点として周防、伊予、讃岐、淡路島があって下毛野と同調して動いていて
    関西では和歌山県田辺市が最初の拠点で田辺氏を名乗る。大和政権近くの北葛城郡河合町川合周辺の干拓事業する。
    下毛野➡河合家→川合家ー河井家ー川井家ー古代からの一族で資金力と技技術力で三井グループを結成
    上毛野➡田辺家→宇都宮家→城井家 直江家、岩崎家、古代からの一族で資金力と技技術力で三菱グループ結成
    毛野一族では支流の家系には  井〇家➡井口、井村、井川、井本、井原、井田、井上とか
                   〇井家➡浅井、赤井、筒井、蒼井、青井、島井、城井、横井、高井、今井、花井、中井、三井
                        以下省略
    天皇家から親戚降下してきた氏族は職業別に 街道整備⇒中山家→中山道、古墳制作→大塚家、高塚家が担当 中塚家は湯浅党
    菅原家に嫁に出して親戚降下してきた広瀬家(広瀬大社)は農業神として細かく細分化され種は滝井家(種のタキイ)その他省略
    毛野一族は泰氏(血縁を持たない技術集団) 非常に仲が良く村造り、町造りを一緒にしていたと思いますよw
    今でも京都では一緒にコミニティーを形成していると思いますよ。
    丹後にはシルクの産地が点在しているので確かに泰グループは居ますよw 白数さんとかそうだと思いますけどw

  • @user-dz9qn1ru3k
    @user-dz9qn1ru3k 29 дней назад +1

    丹後 丹波 丹後王国 から若狭の方へ力がうったって聞きましたよ。

    • @user-dy2qh3xo9k
      @user-dy2qh3xo9k 29 дней назад

      それは元京都府教委にいた平良さんが考えた案で、結論を急げば誤解。元の丹波(後、丹後が分国)と但馬は一体的な
      政治勢力の範囲で、4世紀の丹後の白米山→蛭子山→網野銚子山→神明山などや、4世紀末ないし5世紀初頭の黒部銚子山
      などの歴代大型古墳が、やがて5世紀の但馬の池田古墳、ついで丹波の雲部車塚古墳、後継の但馬の船宮古墳、6世紀の
      丹波の千歳車塚古墳のように、後代の令制下の国域である丹後・但馬・丹波の各地方を順次巡るがごとく、大首長墳の変
      遷が辿れます(なお、湧田山・法王寺の両古墳も大型だが、その比定に不確定要素が多く、上記系列からは除外)。
       なお、既存の調査で、網野銚子山・神明山(以上4世紀)、池田(5世紀)、千歳車塚(6世紀)の各古墳には、大王家との
      関係が窺える事が指摘されています(皇別あるいは皇孫の移配や大王家の姻族など)。

    • @user-dz9qn1ru3k
      @user-dz9qn1ru3k 29 дней назад

      @@user-dy2qh3xo9k
      まぁー継体天皇がオホドの王で越を収めていた時代 武烈天皇がなくなり さぁー誰とした 時に
      丹波〇〇王がいいんじゃね?って迎えれようと 向かったら 逃げられた話しあるぐさいだから!王族はいたんでしょうね。
      ただ 若狭古墳は 会ってない様だけど!すんげー宝でてるでしょ 王冠とかふくめて 力はあったし 大陸からの船は若狭に いーっぱいきていて 神社 お寺がある。若狭+敦賀🟰嶺南

    • @user-dy2qh3xo9k
      @user-dy2qh3xo9k 29 дней назад

      @@user-dz9qn1ru3k継体の母の故郷で、王の母が帰郷して養育したと伝えられる『紀』の「坂中井の高向」は、合併までは
      「旧・坂井郡高椋村」の村名を留めていた。ただ、古代に継体(母を含む一族)は「越」の全域を治めるどころか、その
      南部で、律令制下の「越前国」をもその全域を治めていた根拠は成立しません。けれども、継体の母である「振媛」の母
      方の故郷の越前国(後「加賀国」として分立)江沼郡で現・石川県加賀市の5世紀末の首長墳といえる二子塚狐山古墳は、
      大王家に繋がる考古学的論拠の実証が可能です。
       つまり、『記』『紀』伝承の一面は考古学的にも証明でき、振媛の母方の豪族である「江沼臣」は、大和の蘇我氏や葛
      城氏などと同族の「武内宿禰」の末子という氏族系譜を引いていて、その5世紀末の首長(族長)が二子塚狐山古墳の主
      なので、仮に血が薄くなっていても、母方でも大王家に繋がることが論証できます(『先代旧事本紀』巻十「国造本紀」に
      記載された「江沼国造」は、「武内宿禰の四世孫が反正朝に国造に任じられた」と伝承されるが、約半世紀後となる造営
      の二子塚狐山古墳の実態と符合しているので、文献史学的にも背反しない)。
       一方、若狭の大首長は大王家に繋がる「膳臣」であり、有名な「大彦命」の血を引く七男子の内の一人の後裔。考古学
      的にも、墳形や立地、副葬品も含め、全国的観点からしても実に特異な存在であり、厳しい言い方をすれば、文献史学研
      究者が戦後の考古学的な新成果を十分咀嚼し得ていないのが実状であって、決して学界で汎称されているような地元若狭
      の在地豪族(後の「若狭国造」となる地元豪族とする説が多い)ではありません。
       つまり、若狭では畿内より早く5世紀中葉には横穴式石室が伝来、かつ朝鮮半島からの渡来品も豊富であり、『紀』雄
      略八年条の新羅救援時の高句麗軍との戦闘の伝承は、そのまま旧・上中町所在の若狭の盟主墳の理解に役立ちます。もち
      ろん、この若狭の大型古墳の系譜は膳臣の歴代族長墓ではあるが、決して一族が若狭に常住していたわけではなく、古墳
      の造営のみが確認しうる遺例で、居館は恐らく奈良県橿原市膳夫町周辺ではないかと提起されている説が穏当といえる
      (日常的には歴代族長は常に大王に近待)。
       念のため、こうした見解は、戦後70余年を経ながら、未だに津田左右吉の「いわゆる津田史観」に依拠しつつ、『記』
      『紀』伝承の大半を先験的に後代の創作に過ぎない、とみなしがちな立場を執る現学界の大多数とは、対極的な立場を執
      るグループでは共通認識となっています。

    • @user-dy2qh3xo9k
      @user-dy2qh3xo9k 27 дней назад

      こうしたコメントでは詳しい解説が困難だが、『紀』雄略八年条では、「膳臣斑鳩」と「吉備臣小梨」ら計3人が、ともに
      倭国の軍の将軍として半島出兵した事を伝えている。それにまさに符合するかのように、「斑鳩」の墓かと推定されている
      若狭・西塚古墳では、大多数を占める在地系の埴輪に、ごく一部(数本?)の吉備型埴輪の混在が確認されています。憶測
      を逞しくすれば、斑鳩の葬儀にあたり、吉備臣(か、その使者)が吉備製の埴輪を馬で運搬、葬儀に参列したことが推察さ
      れます(一部混在の吉備型埴輪は、その胎土や色調から判断して、まず吉備の地での生産品)。

  • @user-on1nb9wy9h
    @user-on1nb9wy9h 2 дня назад

    やっぱり日本の基礎にあるのは、アカホヤの噴火から逃れた東国の縄文からの国なのかなあ。例えば、東国の後継者争いで負けた後継者が、畿内のや西の最新技術や文化を持つ渡来人(出戻り縄文人)と組んで独立して、うちが本家だ元祖だとか言いながら争ったり纏まったりしながら続いて来たのかなあと思うようになって来ました。だから追い出された東国や富士山の事を記紀に書かれず自分が元祖だとしたり、東征する話があるのかなあとかw。渡来人からしてもバックアップに徹して王族の後継者を立てればお墨付きをもらえますからねえ、秦氏みたいに。それが摂関政治にもなって行ったのかなあとか。知らんけどw。記紀に書かれていない東国の話が面白そうです!!