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戦国武将、戦国大名で清廉潔白な奴を探す方が難しいのでは?
名将と言われる人間は皆が悪徳と背中合わせに生きている。
竹中半兵衛、高力清長、立花宗茂
@@無無-g8x上げた人物全員策略で人を嵌め、敵対する人間を殺しているが、それのどこが清廉潔白ですかな?
戦国時代においては「清廉潔白」とは自身の野心や欲望に忠実なことを指していたのではなかったかと思うこともあります。現代の視点における「清廉潔白」な人間は戦国時代だと逆に「自分を偽る卑怯者」とみなされたのかもしれません。
声が渋くてカッコいい✨
仙石秀久、いくら敵が強いといえ見捨てるのは良くないな、軍艦をまず誤った
軍監
卑怯と謀略の境界が難しいですよね。西の信長ともいわれた宇喜多直家のように謀略も極めれば実力として認められる例もありますし。
宇喜多直家や尼子経久、毛利元就、松永久秀、斎藤道三、真田昌幸は謀略の天才というイメージがあるが、織田信雄や徳川秀忠はただのバカ息子というのが定着している。
斎藤龍興、今川氏真らの評価が見直されつつある中、無能なエピソードしかない信雄くん。秀忠は一概に無能とも言えないところもあるけども。織田信雄のできることと言えば、使者として出向くことくらいやなw
@@あまのじゃく-g9f あと幸若舞を舞わせれば玄人はだしだったみたいですね。 武将より芸術家に向いていたのかも
本質的には卑怯と謀略は同じものだと思いますよ。どちらも陰で行うことですから。ただその策が『成功』か『失敗』かで名前が変わるだけだと思います
@@武田信玄-f9m 秀忠は関ヶ原の遅参が大チョンボでしたが決して無能ではなかったと思いますよ。そもそも相手が真田昌幸では役者が違い過ぎましたね。
命懸けの時代で慢心や油断が死に直結するだけに人間性が出やすかったんだろうなぁ😅
このように400年後も嘲笑と侮蔑の対象となっている事を考えると、末代までの恥という言い回しもあながち大袈裟でもないようですね
荒木村重は後に千宗易(利休)の弟子となり荒木道薫と名を改め茶人と成る小寺孝高(黒田)幽閉の件等も秀吉に許されたそうで
秀吉は、許しても、わしが許さん❗
@@正典高井 道薫じゃなくて道糞です。
5:48 大友方の鶴ヶ城は山城。写真は会津の鶴ヶ城。
不義と卑怯はだいぶ違いますね
淀殿は織田の血筋への執着の為に信雄を重用した事が仇となったのですね…
信雄の経歴を考えれば側近として置くような事は出来るはずがない淀君は豊臣の実権を握ったようだが、お嬢様育ちで政治的な能力は乏しかった
@@御神誉黎 幼少期と少女期に二度の落城を経験し、その度に肉親を失うという辛酸を舐めた淀殿には、自分の運命に対する復讐の執念しか無かったのかもしれませんね。そうでなければ自分の両親の仇である秀吉の妾にはならないでしょう…
織田有楽斎は大阪冬の陣唯一の現役大名として家臣共々大阪城にいて豊臣側で戦っていたから、信雄を外すということは淀君には出来なかったでしょうね。ほとんどが浪人の寄せ集めであり規律正しく豊臣家守っていたのが有楽斎嫡男率いる織田有楽斎の部下500人ぐらいだったからでしょうから織田家の信用失う訳にいかなかった。有楽斎はつく側間違えたの後悔して冬の陣和睦させて、息子や家臣共々退去させましたからね。有楽斎家臣や嫡男が戦闘で活躍したため織田家には手を出してこなかったが大阪城内浪人どおしが殺しあい荒れまくっていたらしいですからね。淀君もそんな状態だと信雄みたいな豊臣家直接危害加えてこない人も重用せざる得なかった部分はありそう。
@@SHOSHO319 他人の子供を「あなたの子よ」と言って育てさせるという復讐を...
仲間の取った大将首を自分が取ったかのように申告した奴は本当に卑怯ですね。
こういう視点で見ると、また面白味が倍増です❗ナレーションの声が素敵です❗
いやー、武士としてくずっぷりが残念すぎるいい動画をありがとうございました
浅はかだな
卑怯と謀略のボーダーラインが難しいですよね。手段を選ばない=正攻法では成功しないから、ありとあらゆる手段を考え抜いてヤらないとのし上がってイケないと言う戦国時代ならではのシビアな現実もありますしね。孫子の兵法兵は詭道なり敵の裏の裏をかけ。
敵や敵にした相手を騙す行為なら、まぁ謀略の範疇として、あの時代ならセーフなんじゃないですかね?ただ、仙石秀久や荒木村重の様に、執らなければならない責任放棄したり、部下に責任を押し付ける行為は、あの時代であっても(むしろあの時代だったからこそ)超えてはいけない一線として卑怯者として罵倒の対象になったんじゃないかと思います。そういう意味では、本来宗家の血筋を守るという義務を一門衆として負っていた織田有楽斎も、卑怯者の代名詞かな。後は、手柄欲しさに友軍を自らの軍勢で皆殺しにした、伊達政宗もなかなかに卑劣漢かと。
@@酔狂-i9o 伊達の味方撃ちの事でしたら手柄欲しさ云々は単なる講談話のネタです逆に言えばこんなネタを作られる=コイツならやりかねないと思われていた人物という当時の評判という事でもあります
@@真島吾郎-i2r なら、なんで伊達勢の目の前に居た、神保勢が後ろから撃たれたんですかね?手柄欲しさでなければ、単純に邪魔だから、味方であろうと構わず撃ったというだけですかね?それとも、神保勢が後ろから撃たれた事自体、後世の創作ということでしょうか?その辺、明確に書かれたソースが見当たらないので、ぜひ詳しく教えていただけると助かります。
@@酔狂-i9o まず伊達の味方撃ちに関してですが島津家の記録の薩摩旧記にしか記述がありません島津は夏の陣に参陣してませんので実際に観たわけではありませんなので実際はどうだったのか?そもそも本当にあったのかよく分かってないのが現状です(神保隊と一緒に巻き込まれたとされる水野家の記録にすら記述がない)ただ当時からそんな噂はあった事が事実らしくそこから色んな憶測が生まれて大坂の陣の講談話でネタにされたようです(ちなみに手柄を妬んだ以外にも休んでる神保隊に対していきなり一斉射撃食らわして皆殺しにしたというverもあります)そして実際に起きた事と仮定しても崩れた神保隊の敗戦兵に巻き込まれて同士討ちになるのを避ける為もしくは統制が取れてなかった説のどちらかが有力視されておりますそもそも自軍に他の敗戦兵が混じると軍の統制乱れるので入れされない事で自軍の統制を図るという事は戦術の基本です例えば同じく大阪の夏の陣で藤堂軍が前線で敗れて藤堂軍に助けを求めてきた敗戦兵に対して空砲や矢尻のない弓を射て自軍に入れさせないようにして軍の規律を統制したという記録があります関ヶ原でも撤退中の島津軍が助けを求めてきた宇喜多軍や小西軍の敗戦兵に対して敵の東軍諸共一緒に一斉射撃を食らわして彼等を射殺してでも自軍の統制を守ったという記録も残ってますあと伊達家の記録に夏の陣の伊達軍は都で雇った浪人衆を大部分鉄砲隊に回したという記述がありますこれが事実なら鉄砲隊は浪人衆の寄せ集めであったため指揮系統が上手くいかず誤射した可能性もありえますそして伊達家の事情なんですが冬の陣の功績で伊予国に領土を加増されていたので夏の陣でそんなに頑張る必要なかったんですよ実際に誉田の戦いで真田軍に手痛い反撃を食らっても追撃せず水野勝成の追撃要請も断り勝成をイラつかせるなど夏の陣では消極的です(この件から派生して大阪の陣の歴史小説なんかだとどさくさ紛れで徳川を裏切る為に敢えて真田に進路譲って彼に家康を討たせようと陰謀画策する政宗が描かれたりしてます)史料を見る限り伊達軍が手柄上げようと必死になっていた様子が見当たらないので手柄妬んで横取り説は可能性として1番低いと思います伊達としては自分達への損害を最小限にすればいい的な立ち位置だったと思われるので神保隊に巻き込まれて自軍に被害喰らう前に一斉射撃して全滅させちゃえ!説のが個人的にはしっくりきますどちらにせよやってる事は外道には変わりませんが
色々詳しく御存じですね♪ 素晴らしい!!!
戸次川の戦いではかつて長曾我部と敵対していた十河存保も戦死してそのあとに十河家は領地没収の憂き目にあい…長曾我部家も信親を失って失墜するし、四国の戦国大名にとってはバッドエンドに突入する戦いなんだよな
豊臣は地味に味方の恨みを買う事ばっかりやる政権だな・・・あれでは家康が居なくても、天下を奪われたんじゃないの?
@@tevalleyluckman8746家康いなければ毛利上杉伊達島津辺りが動くかな?
@@naoto9924 もし徳川が天下を取れなかった(関が原で敗れるなどした)場合、雌雄を決するのは伊達と黒田だと思う。伊達政宗なら天下を取れば、直江を通じて上杉を越後に戻すと約束して協力を取り付けることも出来そうだし、黒田官兵衛なら鬼島津不在の島津氏を追い詰めてからの駆け引きで島津を味方にできるという方策もある。
@@tevalleyluckman8746直江は大の伊達政宗嫌いだから降伏は絶対にしないとか言われるかもね近年では毛利が関ヶ原で石田と徳川が潰し合ってる間に領土拡大しようとした説が有力になってきてるからそれも期待
@@naoto9924 確かに直江は伊達を嫌っているが、あの男は好き嫌いだけで政治的決断を左右する男ではないね。それから毛利の内部にそのような思惑があってもおかしくは無いと思うが、元就無き毛利にそれほどの謀略を完遂する力量があるとも思えない。まあ、バレた時点で毛利は史実並みに追い詰められるだろうね。
こんなヤツ、今の方が多いやろ身近に何人かいる違いは裏切りがバレてしまうってこと
「北畠一族は根絶やしにされた」ってあるけどこの時、具教の嫡子具房のみが殺されずに幽閉されただけじゃなかったっけ?
5人の武将が全て織田家に繋がる(一族・直参・陪臣)という点が興味深い。
勝った者が正義と言うことですね家康さんだってかなりエグいことをやって天下をとってから書き換えて正当化していますね
これ言う人よく見るけど、じゃあ敗者は勝者に優越する道徳とかあるの?敗者は敗者で自己正当化を図らないの?
現代でも通用する「勝てば官軍」
織田信長の残虐なイメージとか全部江戸時代の創作だし、ほんとに徳川政権下で戦国時代は歪められまくった家康を神君にするために外交鬼下手な武田信玄を持ち上げまくって義信勝頼は無能認定するわ、信康持ち上げのために信忠を無能扱いするわ、家光お気に入りだったせいで伊達政宗が最強格扱いされるわetc全部徳川をいかに崇めるかを基準に歴史を改変して書き残してるからもうめちゃくちゃ、ほんとにひどい
仙石に関しては大友さんからの圧力があり行くしか無かったが正解だとも言われてますねまぁ結局仙石はアホなままではあったのだが
天下人になった家康は信雄に褒美を与えつつも内心呆れ返っていたかもね
好き嫌いや有能無能とは別に形として公平な論功行賞しないと周囲に示しがつきませんからね。信雄の人格や過去の行状はともかく、大阪の陣の当時は内部情報にそれなりの価値があったのでしょう。信長の血筋という家格もあるし、とりあえず独立した大名(一万石以上)にしとけみたいな?
エンディングに出てくるお城は何というお城ですか? お分かりでしたら、教えてください。
13:49 功名が辻で一領具足の虐殺を全部オリキャラである六平太のせいにしたのは本当に萎えた。一豊が人一倍領土や恩賞に執着してるからこそ、あそこは逃げないで欲しかった
最後の荒木村重は出家して何某道糞と自ら名乗っていたそうで自覚はあったようですのちに豊臣秀吉に名前が悪いから改名を勧められて文字だけ変えたとかやらかした後の処理が上手な珍しいタイプです
素晴らしい目的のためには手段を選ばず、人にどう思われようと屁とも思わないメンタル尊敬に値する
出来る男とはこういうヤツのことを言います。
@@paipan39 さゆさなかさささなさ
現代の道徳観や正義観では、到底図れない時代だったわけですが、とても興味深い内容です。ただ義に殉じる武将もいたはずですから、“武士の本懐”、“武士の誉れ” からすれば、当時もそこそこ(かなり?)悪評だったと推測します。
どうなんでしょうね、結局のところ今現在「武士のこうあるべき」の多くが葉隠れからきていると考えると1700年以前は案外普通だったのかもしれません。。
荒木がもしも毛利を呼び込めて織田を撃退してたら身内を顧みず単身抜け出しても任せられた城代の英雄譚や本人の苦労にピックアップした映画が流行ったんでしょうね。一族を犠牲にしてしまう力しか無かったから卑怯者にされただけで一族を裏切るつもりは無かったと思いますよ。現代の道徳観や正義観で分かるけどなー
織田信雄、滝川雄利、山内一豊の所業はわかるが、仙石秀久と荒木村重の所業はね・・・なお2人とも生き残り、仙谷秀久に至っては江戸時代に小諸藩として大名復帰したそうな。
五人のうち最終的にどうなったかをも教えてくれるとなおよいが。勿論知ってる人物で江戸時代仙谷氏は出石藩に移封されたが今でも家老屋敷が残存している。
忠臣蔵に、子孫の伯耆守が登場していました。
頼朝や武蔵にも卑怯者という印象を持っている。
荒木村重の息子は絵描きになり有名な大阪の陣を描いたんだよ
村重はこの後、秀吉の側近くに仕えてるからねぇ、一連の流れの中でせめて武士らしく果てれば溜飲も下がるが最後は武士ではなく茶人とは…死んでいった者たちも浮かばれんよ
@@pbba6523 コ自らを道糞(どうふん=道端のウ〇コ)と名乗ったがさすがにそれは哀れすぎるって事で秀吉から道薫と言う名前をもらった
荒木はそこまで卑怯ではないでしょう。尼崎に行ったのだって毛利を説得するためですし、尼崎が落ちても花隈で抵抗しているじゃないですか。
皆殺しされた人達は可哀想だけど、卑怯者ではないかと、村重を責める気にはなれないな。
どの大河か忘れたけど俳優の田中哲司さんが演じててクズっぷりがよく似合ってたわ(笑)
(23分18秒)城名を教えてくれませんか?すみませんが宜しくお願いします♪
木造、、こつくりと読むんでしたか。野望でも出てきてましたが大した武将じゃないからモクゾウと読んでました
荒木村重の知名度が知り渡ったのは大河ドラマ「軍師官兵衛」だったな。田中哲治さんの演技もあってか、同情してしまいました。。。
確か、だし役が桐谷美玲でしたね。うっすい演技だけが頭に残ってます(笑)
田中哲司さんの声が"あばれる君"に似てましたね。
ふみやん さんどんな名演技であろうと、同情は出来んなあ。だって、善意の家来も、嫁さんも、まだ幼い子供までも殺したんだぜ、自分だけ逃げて、自害もせずに、武将じゃねえぜ。だから、茶人になったって、そういう問題じゃねえし❗自分だけ、生き延びやがって‼️
昔である程に神事みたいな扱いされてそうな相撲を騙し討ちに使うのが一番評判ヤバそう
何だかんだで戦国時代の武将って人間味あるよな。
人間味のない人間て逆に機械化した現代人の話じゃないの?
山内一豊の卑怯ぶりはとても大河しゃ描けない。最も上士下士の差別のツケは幕末に回ってきたけど。
山内一豊にとっては人生の最後にやってきた難関だっただろうな・・・徳川幕府の目もあるので速攻で対処せにゃならんかったしな。
幕末の土佐の山内容堂のやり方はある意味藩祖である一豊の精神を受け継いでいたからなんだろうな。。。
山内一番嫌いですね、相撲と酒を飲まし皆殺しにしたからね。恨みを怖がり7人の影武者を用意したからね。人の知恵を自分ものにしてましたね、明治維新でも幕府を裏切る徹底ぶりの悪党でしたね。
@@川村信二-n5t 山内に親でも殺されたかのような勢い
@@syoboon-fj6np 土佐郷士の子孫の方だったりして
山内容堂…ただでさえ気に入らないことがあると大声で喚き散らす悪癖の上、酒飲んで会議に参加して反撃くらうとか…(鳥羽伏見の戦い直前の会議で酒乱状態で現れた山内容堂が「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し、権威をほしいままにしようとしている」と発言した挙句、岩倉具視から大叱責されたものの、泥酔状態だった容堂にまともな返答ができないとか…)
4賢侯と言われた容堂だけど、只の酔っぱらいよりもタチが悪い。
この時代情勢を見極めていかないと生きて行けない。ある意味生き残る為の考えや術を追求していたのではないだろうか?
荒木が裏切ったのは荒木の家臣が敵対していた石山本願寺に兵糧の横流しをしていた。そのため今さら詫びを入れても信長は許さないだろうと家臣の中川清秀が謀反をそそのかした。それなのに中川はあっさり信長に降伏しかも兵糧を横流ししていたのは中川の家臣だった。それなのに中川家は大名の地位を保った。
摂津の領主の荒木も中川も家臣領民に本願寺門徒が多いから、本願寺側につく家臣が出てくるのはやむを得ない。摂津の大名と言っても中心部は本願寺が実効支配していたから、一部しか領有していないぞ。森蘭丸と妙向尼の母子も本願寺門徒だが。
なぜに小早川秀秋がないと思ったりします
信雄の功績は写実のモデルになった事くらいか
(6分14秒)島津など「恐るる」に足りぬ&秀久の言う通り先鋒を秀久にさせれば良かったのに!
命を惜しむな名を惜しめこの言葉の正しさはこの動画の存在が証明してんだよね
と同時に、「名を惜しむな命を惜しめ」という考えもまた存在し得たのが戦国時代ではなかったかと思います。神も仏もない、親兄弟すら敵になりかねず、頼れるもの、信じられるものは己のみ、というのが常識でしたから。「我が振る舞いを笑わば笑え、悪名にまみれるならそれでよし、我はその上で生きて得られるものをこそ求める」と進んで嘲笑を浴び、悪名を甘受した人物もまた存在していたのではなかったかと思っています。
淀殿との信雄は叔父ではなくいとこ同士。淀殿の母と信雄の父は兄妹同士
5:50〜背景に使われている鶴ヶ城は大友氏の山城ではなく福島県にある同名の城ですねあえて同音ということで使用していたのかもしれませんが
戦国武将に対してのズルい卑怯は敗者のたわ言にも思えるなあ…
ナレーション・声優の安本さんに似てる
長宗我部はファンが多いから仙石には思う事あるだろうな。まぁ司馬史観かもしれんが。荒木はその事象だけ見れば確かにそうだけど、相手があの信長だったということ。そこは加味してやらんといかんかもしれん。
生き残る為には、卑怯な手も時には必要
面白い動画ありがとうございます。但、信雄の説明では天正10年(1582年)ですが、仙石の説明で天正14年(1587年)となっています。後者は正しいですか?
荒木村重は、これに加えて、秀吉に対する悪口がバレて、逃げたよね。
信勝も秀吉に逆らう胆力は尊敬する
主家を破滅させた久武親直は?
そうしなければ生きていけない時代だったんやろうなー。今とは何もかもが違う
明治維新の元勲たち、山形有朋とか井上馨とか、私利私欲まみれの鬼畜外道だし、アメリカのベンチャー企業のトップは九割「サイコパス」だという研究結果があるくらい。戦国時代も江戸も明治も現代も、エスタブリッシュメントの本質はそう変わらないと思いますよ。あと、荒木村重は実際は「裏切者」ではなかった、という研究も出てきてる
宮本武蔵も負ける戦いは避けていましたな。
北条高広だっけ?上杉と北条家を行ったり来たりしたんだったな
秀吉御用達の茶人になった説は有力
運昇さんを思い出すお声です・・・
@@佐々木曜-h5x た
信雄は今「信長の忍び」で活躍してるね、「信長のうつけ息子」としてw
秀吉だって、織田の嫡流がいるのに天下を奪ったじゃないか!
秀吉は織田の版図は奪っても天下は奪ってない。だって、織田家はまだ天下を取っていないのだから。信長は本能寺の時点で天下人に一番近い立場であっても、まだ天下人にはなっていない。
そもそも織田の嫡流は信忠亡き当時は三法師だし弔い合戦すら出来なかった信雄信孝は傍流、三法師の家臣筋でしかないのよ
長宗我部信親の早すぎる死が悔やまれる、、、
千代さんは自分の献策が卑怯な虐殺に使われたなんて知って、気の毒としか言い様がない。
全くその通りでございます!オチヨさんがせっかく一領具足から有能な人材を引き出そうとする純粋な気持ちを一豊は踏みにじったのですから。それでも一領具足の子孫は幕末時期、容堂という風見鶏主君に憎しみはあっても、辛抱強く仕えていたのは、忸怩たる思いだったでしょう。
津軽為信「儂は免れた」
生き残った家も、たいがい幕末でしっぺ返し食らうのが興味深い。
荒木村重の時に黒田官兵衛を幽閉した事を説明して欲しかった
流羽図 辺流斗がいないなぁ(時代も字もちがう)
卑怯者なんてのは立ち位置や言い回しの様な感じにも聞こえますよね、大きい意味で言えば織田信長と親交してた家康が最終天下取ったのも家臣やった秀吉が天下取ったのも裏切って言えば裏切りですよね😵
荒木村重やここには出ていないが小山田信茂は論外として、まあ戦国の時代はまずいかに生き残るかだからな、今の時代の価値観では測れないモノもある。
儒教的価値観が浸透するのもっと後だしな。せいぜい「酷い奴」くらいにしか思われなかっただろう。
命がかかった国盗り合戦とか出世競争する時代だっただろうから、卑怯もクソもないとか思ってしまうw変な倫理観とかプライド持ってるより突き抜けて卑怯な方が逆に清々しくて好きw
全く同感です。とにかく生き残らなければ話にならない。そのためにはどんな手段でも使う。それを卑怯と感じる人は所謂「甘ちゃん」ですよ。
同じく良くも悪くも人間味を感じます戦国武将に変な英雄像持ってる方がなんか気持ち悪くて
武士を現代の政治家と同じものと考えれば、卑怯未練なのは納得できるでしょう。
あなたが現代の政治家の何を知ってるんですか?まさかテレビや雑誌でみた情報を元にしてないですよね?今日投票行きました?ちゃんと自分で直接選挙区の政治家の話を聞きに行きましたか?自分がやらないのに、やってる人を評価してないですよね?
明治維新の元勲たち、山形有朋とか井上馨とか、私利私欲まみれの鬼畜外道だし、アメリカのベンチャー企業のトップは九割「サイコパス」だという研究結果があるくらい。戦国時代も江戸も明治も現代も、エスタブリッシュメントの本質はそう変わらないと思いますね
卑劣な振る舞いは信玄も当てはまりますね。諏訪家を盟約違反だとして攻めて、騙し討ちのような形で妹の夫だった諏訪頼重を殺して諏訪を乗っ取り、信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた。その他にも今川家が弱体化したから北条を敵に回してまで駿河を攻めたのは仕方ないかもしれないが、これらの事で周辺諸国の武田家への信用は地に落ち、信長は当時親交があった謙信への手紙に武田とは金輪際外交しないと書くほど激怒したらしいです。武田家への信用下落、度重なる戦や金山の枯渇による財政悪化とそれに対処する為の重税、勝頼への権威付けや権力移譲を不十分にした信玄の責任も武田家滅亡においては大きいと私は思ってます。
荒木村重については、彼よりもその部下の中川清秀を選出すべきだと思います。毛利方に通じて信長に村重への疑念を抱かせ、村重が信長に申し開きに行こうとすると止めて謀反を起こさせ、謀反が起きると自分はさっさと信長につく。いくらなんでも酷すぎる…
山内一豊は司馬遼太郎が功名が辻を書かなければほとんど知名度の無い武将だったと思う。小説内では動画の一件のあと千代との最後の会話シーンも一豊「わしが無能だからか…」千代「はい」で終わっている。司馬遼太郎も千代が書きたくて一豊は嫌いだったんじゃないの?と思うほどあっけなかった( ˙-˙ ; )
そもそもここで書かれている「相撲大会」の話。「功名が辻でのフィクションであって、事実ではない」とバッサリ切り捨てられるレベルの話です。郷士の一揆の鎮圧で、その参加者を斬首したという話は浦戸一揆などで確認できますがね。なんせ旧長宗我部の遺臣でも上士となったものがいます。そして一領具足をなんとか新制度に組み込み、土佐の新田開発に当てて、藩財政を好転させられないか、と生まれたのが郷士です。土佐藩と山内家絡みの話は司馬遼太郎の話を信じてはいけないと思います。
@@asakazefuji 私もあくまで小説の話をしてるんですけどねw小説に書かれなければ現代では大した知名度もなかったという事が主題です。司馬史観は司馬遼太郎本人が否定していても独り歩きしていますからねぇ…川中島合戦の信玄と謙信のくだりのようなものですよ。
昔から、内助の功といえば山内一豊の妻、というぐらい有名だったはずなんだけどね現代じゃ忘れられちゃっているが…
元一領具足の土佐郷士というのは、落とされたのではなく取り立てられた身分だ、ということは知っておいて貰っても良いと思う。長宗我部家の元重臣で上士に召し抱えられた一族が窓口になって、元一領具足が郷士に取り立てられたりしているのだよ。
功名が辻が出たあとの時代しか知らないけど、少なくとも戦前だったら「内助の功」で、それなりに知名度在ったんじゃないですかね?
山内一豊の兜についてる「愛」は嘘?
山内一豊の大幅な加増の元となった家康への発言「居城献上」は大名:堀尾忠氏の案であり、それを先んじて発言し、横取りした。結果、堀尾は大した加増もなく、悶々としたところだろう。
堀尾忠氏は親父の吉晴が関ヶ原の前に水野忠重と宴会をしていた時に忠重が殺されて自分も傷を負いながらも犯人を返り討ちにしたのに水野家の家臣達に犯人扱いされて追っかけられてたし踏んだり蹴ったりですね…
実は大幅加増では無く、元々長曽我部時代の土佐は10万石無かった。でも山内が入国後に検地したら20万石あった。だから結果的に大幅加増になった。
貴方らしくもないとわらったとあききましたが?
仙石秀久が賢く行動すれば長曽我部家は無事子孫が存続したでしょうね。しかも島津得意の釣り野伏せも見抜けない。これは嘆きたくなります。
あの漫画とは違うよな
@@中段チェリ王 さん、すみません。何の漫画の話でしょうか?
なんでこうも島津を甘く見た武将が多いんだろうね、周辺で情報収集とかしないんだろうか。
@@神那岐凪-z7f さん、確かに多いですよね。可能性が有るとすれば、情報が少ない時代ですから策士が偽情報を流す若しくは外見からは賢さが分からなかった等で本来の能力を見誤った人が島津を軽く見たのでしょうね。
@@神那岐凪-z7f 九州征伐は戸次川以外は島津の総崩れだからむしろ戸次川と後の関ヶ原や朝鮮の役で島津の評価が上がったと考えるべきで。
荒木村重の絵で、頬が膨れて口の中が白いのは、信長に領地をねだった時に、餅を刺した刀の切先を突き付けられて、食ってみろと言われ、食べたところを絵にした物。この時から信長とは合わないと思っていたのかも…
摂津一国なんていい場所だからね、新参者が簡単にちょうだい言えるものじゃない
人間として、最低の人物を見せてくれて、ありがとうございます。こういう人物だけには、決っして成りたくない、と言うのが、私の人生観です。己が成仏も出来ませんから。
鶴ヶ城の写真、福島県会津の鶴ヶ城になってる・・・
仙石秀久の軍監は、秀吉がお気に入りを無理推しした、人災ですね(´・ω・`)
馬謖と同じ
@@naoto9924 全然違う
今も昔も同じなんですね。
龍造寺隆信「よし、赦されたな👍️」
基本卑怯汚いは敗者の戯言の精神だし、当時の武士の価値観的には問題なかったんじゃねえかなあ
秀久は新納忠元にも腰抜け言われていたしなw
手段を選ばない事を卑怯とは言わない。太刀への細工は褒められるべきものだ。兵は詭道。
現代の感覚で当時を断じるのは一番やってはいけない事だと思う。
呂布を凌ぐ裏切り者もやはり日本にも居たかw
戦国の卑怯者など、戊辰戦争の徳川慶喜に比べたら赤子。
信雄はそこまで悪くないと思う。秀吉よりは家康の天下を願ってもおかしくはない。
小牧・長久手の合戦の前には、秀吉の性格を見抜いていたのかもしれませんねうつけと言われながらも人を見る目はあった、ある意味では第六天魔王の息子、と言うべきでしょうね
織田家の実権を握った秀吉よりも最後まで同盟を切らなかった家康に着くのは当然だと思うけどな
津軽為信も入れなくちゃ。
土佐藩は下士もしくは郷士と呼ばれた人たちが倒幕へ向かって立ち上がったのです。なので土佐も薩摩や長州と同じく関ヶ原の負け組が倒幕へ導いたのだと思います。荒木村重の場合は当時は大将さえ生き延びればなんとかなると思ったからでしょう。当時は大将が死ねばそこで終わりになる運命でした。桶狭間の今川家のようにです。だから村重は何が何でも生き延びようと思ったのでしょう。
穴山梅雪は武田一門衆だったが信玄の後を継いだ勝頼を見下して、勝頼を見捨てて家康に降り本能寺の変後に家康とは別ルートで堺から脱出したが落武者狩りで殺されたのは因果応報
梅雪は落武者狩りではなく家康に始末されたようですよ(家康の家臣・松平家忠の日記)家康は三河に帰った後、甲斐を乗っ取るため死んだ梅雪の領地を利用したのです。…まぁどっちにしろ皮肉な最期ですがね
流石は家康、汚い
@@sazanami4728 別に汚くはない
@@ハリガネムシ-m5t 穴山信君は武田親族衆、武田勝頼は卑劣漢信君や小山田将監等、親族、譜代の重臣に見放され、裏切られて天目山の露と消えた無念は如何程ばかりでしたか、まことに哀れな武田家の滅亡です。しかし奥方は実家の北条に帰らず、夫勝頼に付き従い貞節を捧げ、婦人の鏡として今に称えられ、勝頼から勘当された小宮山内膳はご主君に最後のご奉公をとばかりに舞い戻り、天目山に忠烈無双の働きをし、土屋惣蔵は土屋の片手切りと云われた獅子奮迅の働きをした、まことに爽やかな話しも残ることに救われます。
6:13 遅るるにたりず? 恐るるにたりず?
信雄の放火については疑問
一豊は小山評定の前に堀尾忠氏が『城・領地を家康に差し出す』と言っていたのパクって評定の際に家康に提案したと言う説もありますね。
功名が辻では、堀尾は、先に言わなかった自分が悪いと気にしてませんでしたよ大河ドラマ(功名が辻、参照)
それもあるけど掛川は元々家康の領地もしも差し出さなかったら潰されると思ってビビったから焦って「俺の城家康さんに返します」って言っただけらしいと言う説もあります
確かに言ったと思いますが忠氏は「いざ実行!」までは考えていなかったでしょう。当時の人達がこの後どうなるか等分かる訳が無く、全財産渡すも同然な案等並大抵の意志では言い出すこと等出来ません。忠氏は一豊が口火切った際に「出し抜かれた」とは考えず「まさか本当に言い出すとは思わなかった」としてその度胸を認めたのでしょう。ですから忠氏は一豊に「あの時あんな事を言い出すとは日頃の貴方からは想像もつきませんでしたよ。(訳)」と笑って答えたのでしょう。
@@希望匿名-q8w 功名が辻でも、中々、徳川家康が恩賞のことを言わないから最初、言わなきゃ良かったと後悔してましたからね(大河ドラマ功名が辻参照)
@@呉志 成程、そういう過程も(ドラマ内とはいえ)あったのですか。そう考えると「他者の案を出し抜いて横取りした」というよりも「他社も考えたがリスクが高すぎるので実行に踏み切れない事を捨て身で敢行した」と言う見方も出来ますね。
(5分11秒)「天正14年=1586年」だし秀吉が天下統一して天下人になったのは天正18(1590)年なので宜しくお願いします♪
臆病で家臣に追い出されたともいわれる山名豊国も評判悪いけど、最終的には幕府の高級旗本として生き残ったので、先を見る目はあったのかもしれない
戸次川の戦い跡地の通りすがり、長宗我部信親他戦死者の墓地が有ったので車を降りて手を合わせようと思ったのですが信親の墓が見つからず残念だったのを思い出します。山内一豊も酷い所業をしたものです。それが後に幕末の龍馬や中岡慎太郎、武市半平太ら下士の脱藩、倒幕運動に繋がるわけですが。
山内家、幕末は失態が目立ちましたからね…だから薩長の面々に先を越された
現在信親の墓は高知県高知市の雪蹊寺にあります。当時の合戦直後は島津勢によって現地の戸次川に埋葬されたそうです。その後、島津勢が信親の遺体と遺品の返還に応じてくれたので、浦土城周辺で改めて埋葬したそうです。長宗我部家滅亡後は四国八十八か所の33番札所でもある雪蹊寺に墓を移され現在に至ります。雪蹊寺は長宗我部家縁の寺で、隣には戸次川の戦いで討死した長宗我部兵の大位牌や、長宗我部元親の木像が祀られている秦神社もあり、長宗我部家の聖地と言っても差し支えない場所かと思います。
@@saikawawawa ありがとうございました。戸次川戦跡地の側を通りすがり墓地を見つけたのものの四国に渡るフェリーの乗船時間が迫っておりゆっくり探す間も無く諦めましたが雪蹊寺なら知ってますので年内に参拝することにしました。
個人的には黒田長政が城井家にした仕打ちも酷いと思う卑怯どころか屑の所業
城井も転封に従っていたらこんな目にはあってなかったのだが
戦国武将、戦国大名で清廉潔白な奴を探す方が難しいのでは?
名将と言われる人間は皆が悪徳と背中合わせに生きている。
竹中半兵衛、高力清長、立花宗茂
@@無無-g8x
上げた人物全員
策略で人を嵌め、敵対する人間を殺しているが、それのどこが清廉潔白ですかな?
戦国時代においては「清廉潔白」とは自身の野心や欲望に忠実なことを指していたのではなかったかと思うこともあります。
現代の視点における「清廉潔白」な人間は戦国時代だと逆に「自分を偽る卑怯者」とみなされたのかもしれません。
声が渋くてカッコいい✨
仙石秀久、いくら敵が強いといえ見捨てるのは良くないな、軍艦をまず誤った
軍監
卑怯と謀略の境界が難しいですよね。西の信長ともいわれた宇喜多直家のように
謀略も極めれば実力として認められる例もありますし。
宇喜多直家や尼子経久、毛利元就、松永久秀、斎藤道三、真田昌幸は謀略の天才というイメージがあるが、織田信雄や徳川秀忠はただのバカ息子というのが定着している。
斎藤龍興、今川氏真らの評価が見直されつつある中、無能なエピソードしかない信雄くん。秀忠は一概に無能とも言えないところもあるけども。
織田信雄のできることと言えば、使者として出向くことくらいやなw
@@あまのじゃく-g9f あと幸若舞を舞わせれば玄人はだしだったみたいですね。
武将より芸術家に向いていたのかも
本質的には卑怯と謀略は同じものだと思いますよ。どちらも陰で行うことですから。ただその策が『成功』か『失敗』かで名前が変わるだけだと思います
@@武田信玄-f9m
秀忠は関ヶ原の遅参が大チョンボでしたが決して無能ではなかったと思いますよ。そもそも相手が真田昌幸では役者が違い過ぎましたね。
命懸けの時代で慢心や油断が死に直結するだけに人間性が出やすかったんだろうなぁ😅
このように400年後も嘲笑と侮蔑の対象となっている事を考えると、末代までの恥という言い回しもあながち大袈裟でもないようですね
荒木村重は後に千宗易(利休)の弟子となり荒木道薫と名を改め茶人と成る小寺孝高(黒田)幽閉の件等も秀吉に許されたそうで
秀吉は、許しても、わしが許さん❗
@@正典高井 道薫じゃなくて道糞です。
5:48 大友方の鶴ヶ城は山城。写真は会津の鶴ヶ城。
不義と卑怯はだいぶ違いますね
淀殿は織田の血筋への執着の為に信雄を重用した事が仇となったのですね…
信雄の経歴を考えれば側近として置くような事は出来るはずがない
淀君は豊臣の実権を握ったようだが、お嬢様育ちで政治的な能力は乏しかった
@@御神誉黎 幼少期と少女期に二度の落城を経験し、その度に肉親を失うという辛酸を舐めた淀殿には、自分の運命に対する復讐の執念しか無かったのかもしれませんね。そうでなければ自分の両親の仇である秀吉の妾にはならないでしょう…
織田有楽斎は大阪冬の陣唯一の現役大名として家臣共々大阪城にいて豊臣側で戦っていたから、信雄を外すということは淀君には出来なかったでしょうね。
ほとんどが浪人の寄せ集めであり規律正しく豊臣家守っていたのが有楽斎嫡男率いる織田有楽斎の部下500人ぐらいだったからでしょうから織田家の信用失う訳にいかなかった。有楽斎はつく側間違えたの後悔して冬の陣和睦させて、息子や家臣共々退去させましたからね。
有楽斎家臣や嫡男が戦闘で活躍したため織田家には手を出してこなかったが大阪城内浪人どおしが殺しあい荒れまくっていたらしいですからね。
淀君もそんな状態だと信雄みたいな豊臣家直接危害加えてこない人も重用せざる得なかった部分はありそう。
@@SHOSHO319
他人の子供を「あなたの子よ」と言って育てさせるという復讐を...
仲間の取った大将首を自分が取ったかのように申告した奴は本当に卑怯ですね。
こういう視点で見ると、また面白味が倍増です❗ナレーションの声が素敵です❗
いやー、武士としてくずっぷりが残念すぎる
いい動画をありがとうございました
浅はかだな
卑怯と謀略のボーダーラインが難しいですよね。
手段を選ばない=正攻法では成功しないから、ありとあらゆる手段を考え抜いてヤらないとのし上がってイケないと言う戦国時代ならではのシビアな現実もありますしね。
孫子の兵法
兵は詭道なり
敵の裏の裏をかけ。
敵や敵にした相手を騙す行為なら、まぁ謀略の範疇として、あの時代ならセーフなんじゃないですかね?
ただ、仙石秀久や荒木村重の様に、執らなければならない責任放棄したり、部下に責任を押し付ける行為は、あの時代であっても(むしろあの時代だったからこそ)超えてはいけない一線として卑怯者として罵倒の対象になったんじゃないかと思います。
そういう意味では、本来宗家の血筋を守るという義務を一門衆として負っていた織田有楽斎も、卑怯者の代名詞かな。
後は、手柄欲しさに友軍を自らの軍勢で皆殺しにした、伊達政宗もなかなかに卑劣漢かと。
@@酔狂-i9o 伊達の味方撃ちの事でしたら手柄欲しさ云々は単なる講談話のネタです
逆に言えばこんなネタを作られる=コイツならやりかねないと思われていた人物という当時の評判という事でもあります
@@真島吾郎-i2r
なら、なんで伊達勢の目の前に居た、神保勢が後ろから撃たれたんですかね?
手柄欲しさでなければ、単純に邪魔だから、味方であろうと構わず撃ったというだけですかね?
それとも、神保勢が後ろから撃たれた事自体、後世の創作ということでしょうか?
その辺、明確に書かれたソースが見当たらないので、ぜひ詳しく教えていただけると助かります。
@@酔狂-i9o まず伊達の味方撃ちに関してですが島津家の記録の薩摩旧記にしか記述がありません
島津は夏の陣に参陣してませんので実際に観たわけではありません
なので実際はどうだったのか?そもそも本当にあったのかよく分かってないのが現状です(神保隊と一緒に巻き込まれたとされる水野家の記録にすら記述がない)
ただ当時からそんな噂はあった事が事実らしくそこから色んな憶測が生まれて大坂の陣の講談話でネタにされたようです(ちなみに手柄を妬んだ以外にも休んでる神保隊に対していきなり一斉射撃食らわして皆殺しにしたというverもあります)
そして実際に起きた事と仮定しても崩れた神保隊の敗戦兵に巻き込まれて同士討ちになるのを避ける為もしくは統制が取れてなかった説のどちらかが有力視されております
そもそも自軍に他の敗戦兵が混じると軍の統制乱れるので入れされない事で自軍の統制を図るという事は戦術の基本です
例えば同じく大阪の夏の陣で藤堂軍が前線で敗れて藤堂軍に助けを求めてきた敗戦兵に対して空砲や矢尻のない弓を射て自軍に入れさせないようにして軍の規律を統制したという記録があります
関ヶ原でも撤退中の島津軍が助けを求めてきた宇喜多軍や小西軍の敗戦兵に対して敵の東軍諸共一緒に一斉射撃を食らわして彼等を射殺してでも自軍の統制を守ったという記録も残ってます
あと伊達家の記録に夏の陣の伊達軍は都で雇った浪人衆を大部分鉄砲隊に回したという記述があります
これが事実なら鉄砲隊は浪人衆の寄せ集めであったため指揮系統が上手くいかず誤射した可能性もありえます
そして伊達家の事情なんですが冬の陣の功績で伊予国に領土を加増されていたので夏の陣でそんなに頑張る必要なかったんですよ
実際に誉田の戦いで真田軍に手痛い反撃を食らっても追撃せず水野勝成の追撃要請も断り勝成をイラつかせるなど夏の陣では消極的です(この件から派生して大阪の陣の歴史小説なんかだとどさくさ紛れで徳川を裏切る為に敢えて真田に進路譲って彼に家康を討たせようと陰謀画策する政宗が描かれたりしてます)
史料を見る限り伊達軍が手柄上げようと必死になっていた様子が見当たらないので手柄妬んで横取り説は可能性として1番低いと思います
伊達としては自分達への損害を最小限にすればいい的な立ち位置だったと思われるので神保隊に巻き込まれて自軍に被害喰らう前に一斉射撃して全滅させちゃえ!説のが個人的にはしっくりきます
どちらにせよやってる事は外道には変わりませんが
色々詳しく御存じですね♪ 素晴らしい!!!
戸次川の戦いではかつて長曾我部と敵対していた十河存保も戦死してそのあとに十河家は領地没収の憂き目にあい…
長曾我部家も信親を失って失墜するし、四国の戦国大名にとってはバッドエンドに突入する戦いなんだよな
豊臣は地味に味方の恨みを買う事ばっかりやる政権だな・・・
あれでは家康が居なくても、天下を奪われたんじゃないの?
@@tevalleyluckman8746
家康いなければ毛利上杉伊達島津辺りが動くかな?
@@naoto9924 もし徳川が天下を取れなかった(関が原で敗れるなどした)場合、雌雄を決するのは伊達と黒田だと思う。
伊達政宗なら天下を取れば、直江を通じて上杉を越後に戻すと約束して協力を取り付けることも出来そうだし、黒田官兵衛なら鬼島津不在の島津氏を追い詰めてからの駆け引きで島津を味方にできるという方策もある。
@@tevalleyluckman8746
直江は大の伊達政宗嫌いだから降伏は絶対にしないとか言われるかもね
近年では毛利が関ヶ原で石田と徳川が潰し合ってる間に領土拡大しようとした説が有力になってきてるからそれも期待
@@naoto9924 確かに直江は伊達を嫌っているが、あの男は好き嫌いだけで政治的決断を左右する男ではないね。
それから毛利の内部にそのような思惑があってもおかしくは無いと思うが、元就無き毛利にそれほどの謀略を完遂する力量があるとも思えない。
まあ、バレた時点で毛利は史実並みに追い詰められるだろうね。
こんなヤツ、今の方が多いやろ
身近に何人かいる
違いは裏切りがバレてしまうってこと
「北畠一族は根絶やしにされた」ってあるけどこの時、具教の嫡子具房のみが殺されずに幽閉されただけじゃなかったっけ?
5人の武将が全て織田家に繋がる(一族・直参・陪臣)という点が興味深い。
勝った者が正義と言うことですね
家康さんだってかなりエグいことをやって天下をとってから書き換えて正当化していますね
これ言う人よく見るけど、じゃあ敗者は勝者に優越する道徳とかあるの?敗者は敗者で自己正当化を図らないの?
現代でも通用する「勝てば官軍」
織田信長の残虐なイメージとか全部江戸時代の創作だし、ほんとに徳川政権下で戦国時代は歪められまくった
家康を神君にするために外交鬼下手な武田信玄を持ち上げまくって義信勝頼は無能認定するわ、信康持ち上げのために信忠を無能扱いするわ、家光お気に入りだったせいで伊達政宗が最強格扱いされるわetc
全部徳川をいかに崇めるかを基準に歴史を改変して書き残してるからもうめちゃくちゃ、ほんとにひどい
仙石に関しては
大友さんからの圧力があり行くしか無かったが正解だとも言われてますね
まぁ結局仙石はアホなままではあったのだが
天下人になった家康は信雄に褒美を与えつつも内心呆れ返っていたかもね
好き嫌いや有能無能とは別に形として公平な論功行賞しないと周囲に示しがつきませんからね。信雄の人格や過去の行状はともかく、大阪の陣の当時は内部情報にそれなりの価値があったのでしょう。信長の血筋という家格もあるし、とりあえず独立した大名(一万石以上)にしとけみたいな?
エンディングに出てくるお城は何というお城ですか? お分かりでしたら、教えてください。
13:49 功名が辻で一領具足の虐殺を全部オリキャラである六平太のせいにしたのは本当に萎えた。一豊が人一倍領土や恩賞に執着してるからこそ、あそこは逃げないで欲しかった
最後の荒木村重は出家して何某道糞と自ら名乗っていたそうで自覚はあったようです
のちに豊臣秀吉に名前が悪いから改名を勧められて文字だけ変えたとか
やらかした後の処理が上手な珍しいタイプです
素晴らしい
目的のためには手段を選ばず、人にどう思われようと屁とも思わないメンタル
尊敬に値する
出来る男とはこういうヤツのことを言います。
@@paipan39 さゆさなかさささなさ
現代の道徳観や正義観では、到底図れない時代だったわけですが、とても興味深い内容です。ただ義に殉じる武将もいたはずですから、“武士の本懐”、“武士の誉れ” からすれば、当時もそこそこ(かなり?)悪評だったと推測します。
どうなんでしょうね、結局のところ今現在「武士のこうあるべき」の多くが葉隠れからきていると考えると1700年以前は案外普通だったのかもしれません。。
荒木がもしも毛利を呼び込めて織田を撃退してたら身内を顧みず単身抜け出しても任せられた城代の英雄譚や本人の苦労にピックアップした映画が流行ったんでしょうね。
一族を犠牲にしてしまう力しか無かったから卑怯者にされただけで一族を裏切るつもりは無かったと思いますよ。
現代の道徳観や正義観で分かるけどなー
織田信雄、滝川雄利、山内一豊の所業はわかるが、仙石秀久と荒木村重の所業はね・・・
なお2人とも生き残り、仙谷秀久に至っては江戸時代に小諸藩として大名復帰したそうな。
五人のうち最終的にどうなったかをも教えてくれるとなおよいが。勿論知ってる人物で江戸時代仙谷氏は出石藩に移封されたが今でも家老屋敷が残存している。
忠臣蔵に、子孫の伯耆守が登場していました。
頼朝や武蔵にも卑怯者という印象を持っている。
荒木村重の息子は絵描きになり有名な大阪の陣を描いたんだよ
村重はこの後、秀吉の側近くに仕えてるからねぇ、一連の流れの中でせめて武士らしく果てれば溜飲も下がるが最後は武士ではなく茶人とは…
死んでいった者たちも浮かばれんよ
@@pbba6523 コ
自らを道糞(どうふん=道端のウ〇コ)
と名乗ったがさすがにそれは哀れすぎるって事で
秀吉から道薫と言う名前をもらった
荒木はそこまで卑怯ではないでしょう。尼崎に行ったのだって毛利を説得するためですし、尼崎が落ちても花隈で抵抗しているじゃないですか。
皆殺しされた人達は可哀想だけど、卑怯者ではないかと、村重を責める気にはなれないな。
どの大河か忘れたけど俳優の田中哲司さんが演じててクズっぷりがよく似合ってたわ(笑)
(23分18秒)城名を教えてくれませんか?すみませんが宜しくお願いします♪
木造、、こつくりと読むんでしたか。野望でも出てきてましたが大した武将じゃないからモクゾウと読んでました
荒木村重の知名度が知り渡ったのは大河ドラマ「軍師官兵衛」だったな。
田中哲治さんの演技もあってか、同情してしまいました。。。
確か、だし役が桐谷美玲でしたね。うっすい演技だけが頭に残ってます(笑)
田中哲司さんの声が"あばれる君"に似てましたね。
ふみやん さん
どんな名演技であろうと、同情は出来んなあ。
だって、善意の家来も、嫁さんも、まだ幼い子供までも殺したんだぜ、
自分だけ逃げて、自害もせずに、武将じゃねえぜ。だから、茶人になったって、そういう問題じゃねえし❗
自分だけ、生き延びやがって‼️
昔である程に神事みたいな扱いされてそうな相撲を騙し討ちに使うのが一番評判ヤバそう
何だかんだで戦国時代の武将って人間味あるよな。
人間味のない人間て逆に機械化した現代人の話じゃないの?
山内一豊の卑怯ぶりはとても大河しゃ描けない。
最も上士下士の差別のツケは幕末に回ってきたけど。
山内一豊にとっては人生の最後にやってきた難関だっただろうな・・・
徳川幕府の目もあるので速攻で対処せにゃならんかったしな。
幕末の土佐の山内容堂のやり方はある意味藩祖である一豊の精神を受け継いでいたからなんだろうな。。。
山内一番嫌いですね、相撲と酒を飲まし皆殺しにしたからね。恨みを怖がり7人の影武者を用意したからね。人の知恵を自分ものにしてましたね、明治維新でも幕府を裏切る徹底ぶりの悪党でしたね。
@@川村信二-n5t 山内に親でも殺されたかのような勢い
@@syoboon-fj6np
土佐郷士の子孫の方だったりして
山内容堂…ただでさえ気に入らないことがあると大声で喚き散らす悪癖の上、酒飲んで会議に参加して反撃くらうとか…
(鳥羽伏見の戦い直前の会議で酒乱状態で現れた山内容堂が「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し、権威をほしいままにしようとしている」と発言した挙句、岩倉具視から大叱責されたものの、泥酔状態だった容堂にまともな返答ができないとか…)
4賢侯と言われた容堂だけど、只の酔っぱらいよりもタチが悪い。
この時代情勢を見極めていかないと生きて行けない。ある意味生き残る為の考えや術を追求していたのではないだろうか?
荒木が裏切ったのは荒木の家臣が敵対していた石山本願寺に兵糧の横流しをしていた。そのため今さら詫びを入れても信長は許さないだろうと家臣の中川清秀が謀反をそそのかした。それなのに中川はあっさり信長に降伏しかも兵糧を横流ししていたのは中川の家臣だった。それなのに中川家は大名の地位を保った。
摂津の領主の荒木も中川も家臣領民に本願寺門徒が多いから、本願寺側につく家臣が出てくるのはやむを得ない。摂津の大名と言っても中心部は本願寺が実効支配していたから、一部しか領有していないぞ。
森蘭丸と妙向尼の母子も本願寺門徒だが。
なぜに小早川秀秋がないと思ったりします
信雄の功績は写実のモデルになった事くらいか
(6分14秒)島津など「恐るる」に足りぬ&秀久の言う通り先鋒を秀久にさせれば良かったのに!
命を惜しむな名を惜しめ
この言葉の正しさはこの動画の存在が証明してんだよね
と同時に、
「名を惜しむな命を惜しめ」
という考えもまた存在し得たのが戦国時代ではなかったかと思います。
神も仏もない、親兄弟すら敵になりかねず、頼れるもの、信じられるものは己のみ、というのが常識でしたから。
「我が振る舞いを笑わば笑え、悪名にまみれるならそれでよし、我はその上で生きて得られるものをこそ求める」
と進んで嘲笑を浴び、悪名を甘受した人物もまた存在していたのではなかったかと思っています。
淀殿との信雄は叔父ではなくいとこ同士。
淀殿の母と信雄の父は兄妹同士
5:50〜背景に使われている鶴ヶ城は大友氏の山城ではなく福島県にある同名の城ですね
あえて同音ということで使用していたのかもしれませんが
戦国武将に対してのズルい卑怯は敗者のたわ言にも思えるなあ…
ナレーション・声優の安本さんに似てる
長宗我部はファンが多いから仙石には思う事あるだろうな。
まぁ司馬史観かもしれんが。
荒木はその事象だけ見れば確かにそうだけど、相手があの信長だったということ。
そこは加味してやらんといかんかもしれん。
生き残る為には、卑怯な手も時には必要
面白い動画ありがとうございます。但、信雄の説明では天正10年(1582年)ですが、仙石の説明で天正14年(1587年)となっています。後者は正しいですか?
荒木村重は、これに加えて、秀吉に対する悪口がバレて、逃げたよね。
信勝も秀吉に逆らう胆力は尊敬する
主家を破滅させた久武親直は?
そうしなければ生きていけない時代だったんやろうなー。
今とは何もかもが違う
明治維新の元勲たち、山形有朋とか井上馨とか、私利私欲まみれの鬼畜外道だし、アメリカのベンチャー企業のトップは九割「サイコパス」だという研究結果があるくらい。戦国時代も江戸も明治も現代も、エスタブリッシュメントの本質はそう変わらないと思いますよ。あと、荒木村重は実際は「裏切者」ではなかった、という研究も出てきてる
宮本武蔵も負ける戦いは避けていましたな。
北条高広だっけ?上杉と北条家を行ったり来たりしたんだったな
秀吉御用達の茶人になった説は有力
運昇さんを思い出すお声です・・・
@@佐々木曜-h5x
た
信雄は今「信長の忍び」で活躍してるね、「信長のうつけ息子」としてw
秀吉だって、織田の嫡流がいるのに天下を奪ったじゃないか!
秀吉は織田の版図は奪っても天下は奪ってない。だって、織田家はまだ天下を取っていないのだから。
信長は本能寺の時点で天下人に一番近い立場であっても、まだ天下人にはなっていない。
そもそも織田の嫡流は信忠亡き当時は三法師だし
弔い合戦すら出来なかった信雄信孝は傍流、三法師の家臣筋でしかないのよ
長宗我部信親の早すぎる死が悔やまれる、、、
千代さんは自分の献策が卑怯な虐殺に使われたなんて知って、気の毒としか言い様がない。
全くその通りでございます!オチヨさんがせっかく一領具足から有能な人材を引き出そうとする純粋な気持ちを一豊は踏みにじったのですから。それでも一領具足の子孫は幕末時期、容堂という風見鶏主君に憎しみはあっても、辛抱強く仕えていたのは、忸怩たる思いだったでしょう。
津軽為信「儂は免れた」
生き残った家も、たいがい幕末でしっぺ返し食らうのが興味深い。
荒木村重の時に黒田官兵衛を幽閉した事を説明して欲しかった
流羽図 辺流斗がいないなぁ
(時代も字もちがう)
卑怯者なんてのは立ち位置や言い回しの様な感じにも聞こえますよね、大きい意味で言えば織田信長と親交してた家康が最終天下取ったのも家臣やった秀吉が天下取ったのも裏切って言えば裏切りですよね😵
荒木村重やここには出ていないが小山田信茂は論外として、まあ戦国の時代はまずいかに生き残るかだからな、今の時代の価値観では測れないモノもある。
儒教的価値観が浸透するのもっと後だしな。せいぜい「酷い奴」くらいにしか思われなかっただろう。
命がかかった国盗り合戦とか出世競争する時代だっただろうから、卑怯もクソもないとか思ってしまうw
変な倫理観とかプライド持ってるより突き抜けて卑怯な方が逆に清々しくて好きw
全く同感です。とにかく生き残らなければ話にならない。そのためにはどんな手段でも使う。それを卑怯と感じる人は所謂「甘ちゃん」ですよ。
同じく
良くも悪くも人間味を感じます
戦国武将に変な英雄像持ってる方がなんか気持ち悪くて
武士を現代の政治家と同じものと考えれば、卑怯未練なのは納得できるでしょう。
あなたが現代の政治家の何を知ってるんですか?
まさかテレビや雑誌でみた情報を元にしてないですよね?
今日投票行きました?ちゃんと自分で直接選挙区の政治家の話を聞きに行きましたか?
自分がやらないのに、やってる人を評価してないですよね?
明治維新の元勲たち、山形有朋とか井上馨とか、私利私欲まみれの鬼畜外道だし、アメリカのベンチャー企業のトップは九割「サイコパス」だという研究結果があるくらい。戦国時代も江戸も明治も現代も、エスタブリッシュメントの本質はそう変わらないと思いますね
卑劣な振る舞いは信玄も当てはまりますね。
諏訪家を盟約違反だとして攻めて、騙し討ちのような形で妹の夫だった諏訪頼重を殺して諏訪を乗っ取り、信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた。
その他にも今川家が弱体化したから北条を敵に回してまで駿河を攻めたのは仕方ないかもしれないが、これらの事で周辺諸国の武田家への信用は地に落ち、信長は当時親交があった謙信への手紙に武田とは金輪際外交しないと書くほど激怒したらしいです。
武田家への信用下落、度重なる戦や金山の枯渇による財政悪化とそれに対処する為の重税、勝頼への権威付けや権力移譲を不十分にした信玄の責任も武田家滅亡においては大きいと私は思ってます。
荒木村重については、彼よりもその部下の中川清秀を選出すべきだと思います。
毛利方に通じて信長に村重への疑念を抱かせ、村重が信長に申し開きに行こうとすると止めて謀反を起こさせ、謀反が起きると自分はさっさと信長につく。
いくらなんでも酷すぎる…
山内一豊は司馬遼太郎が功名が辻を
書かなければほとんど知名度の無い
武将だったと思う。
小説内では動画の一件のあと千代との
最後の会話シーンも
一豊「わしが無能だからか…」
千代「はい」
で終わっている。
司馬遼太郎も千代が書きたくて
一豊は嫌いだったんじゃないの?
と思うほどあっけなかった( ˙-˙ ; )
そもそもここで書かれている「相撲大会」の話。
「功名が辻でのフィクションであって、事実ではない」とバッサリ切り捨てられるレベルの話です。
郷士の一揆の鎮圧で、その参加者を斬首したという話は浦戸一揆などで確認できますがね。
なんせ旧長宗我部の遺臣でも上士となったものがいます。
そして一領具足をなんとか新制度に組み込み、土佐の新田開発に当てて、藩財政を好転させられないか、と生まれたのが郷士です。
土佐藩と山内家絡みの話は司馬遼太郎の話を信じてはいけないと思います。
@@asakazefuji
私もあくまで小説の話をしてるんですけどねw
小説に書かれなければ現代では
大した知名度もなかったという事が
主題です。
司馬史観は司馬遼太郎本人が否定して
いても独り歩きしていますからねぇ…
川中島合戦の信玄と謙信のくだりの
ようなものですよ。
昔から、内助の功といえば山内一豊の妻、というぐらい有名だったはずなんだけどね
現代じゃ忘れられちゃっているが…
元一領具足の土佐郷士というのは、落とされたのではなく取り立てられた身分だ、ということは知っておいて貰っても良いと思う。
長宗我部家の元重臣で上士に召し抱えられた一族が窓口になって、元一領具足が郷士に取り立てられたりしているのだよ。
功名が辻が出たあとの時代しか知らないけど、少なくとも戦前だったら「内助の功」で、それなりに知名度在ったんじゃないですかね?
山内一豊の兜についてる「愛」は嘘?
山内一豊の大幅な加増の元となった家康への発言「居城献上」は大名:堀尾忠氏の案であり、それを先んじて発言し、横取りした。結果、堀尾は大した加増もなく、悶々としたところだろう。
堀尾忠氏は親父の吉晴が関ヶ原の前に水野忠重と宴会をしていた時に忠重が殺されて自分も傷を負いながらも犯人を返り討ちにしたのに水野家の家臣達に犯人扱いされて追っかけられてたし踏んだり蹴ったりですね…
実は大幅加増では無く、元々長曽我部時代の土佐は10万石無かった。でも山内が入国後に検地したら20万石あった。だから結果的に大幅加増になった。
貴方らしくもないとわらったとあききましたが?
仙石秀久が賢く行動すれば長曽我部家は無事子孫が存続したでしょうね。しかも島津得意の釣り野伏せも見抜けない。これは嘆きたくなります。
あの漫画とは違うよな
@@中段チェリ王 さん、すみません。何の漫画の話でしょうか?
なんでこうも島津を甘く見た武将が多いんだろうね、周辺で情報収集とかしないんだろうか。
@@神那岐凪-z7f さん、確かに多いですよね。可能性が有るとすれば、情報が少ない時代ですから策士が偽情報を流す若しくは外見からは賢さが分からなかった等で本来の能力を見誤った人が島津を軽く見たのでしょうね。
@@神那岐凪-z7f 九州征伐は戸次川以外は島津の総崩れだからむしろ戸次川と後の関ヶ原や朝鮮の役で島津の評価が上がったと考えるべきで。
荒木村重の絵で、頬が膨れて口の中が白いのは、信長に領地をねだった時に、餅を刺した刀の切先を突き付けられて、食ってみろと言われ、食べたところを絵にした物。この時から信長とは合わないと思っていたのかも…
摂津一国なんていい場所だからね、新参者が簡単にちょうだい言えるものじゃない
人間として、最低の人物を見せてくれて、ありがとうございます。こういう人物だけには、決っして成りたくない、と言うのが、私の人生観です。己が成仏も出来ませんから。
鶴ヶ城の写真、福島県会津の鶴ヶ城になってる・・・
仙石秀久の軍監は、秀吉がお気に入りを無理推しした、人災ですね(´・ω・`)
馬謖と同じ
@@naoto9924 全然違う
今も昔も同じなんですね。
龍造寺隆信「よし、赦されたな👍️」
基本卑怯汚いは敗者の戯言の精神だし、当時の武士の価値観的には問題なかったんじゃねえかなあ
秀久は新納忠元にも腰抜け言われていたしなw
手段を選ばない事を卑怯とは言わない。太刀への細工は褒められるべきものだ。兵は詭道。
現代の感覚で当時を断じるのは一番やってはいけない事だと思う。
呂布を凌ぐ裏切り者もやはり日本にも居たかw
戦国の卑怯者など、戊辰戦争の徳川慶喜に比べたら赤子。
信雄はそこまで悪くないと思う。秀吉よりは家康の天下を願ってもおかしくはない。
小牧・長久手の合戦の前には、秀吉の性格を見抜いていたのかもしれませんね
うつけと言われながらも人を見る目はあった、ある意味では第六天魔王の息子、と言うべきでしょうね
織田家の実権を握った秀吉よりも最後まで同盟を切らなかった家康に着くのは当然だと思うけどな
津軽為信も入れなくちゃ。
土佐藩は下士もしくは郷士と呼ばれた人たちが倒幕へ向かって立ち上がったのです。
なので土佐も薩摩や長州と同じく関ヶ原の負け組が倒幕へ導いたのだと思います。
荒木村重の場合は当時は大将さえ生き延びればなんとかなると思ったからでしょう。
当時は大将が死ねばそこで終わりになる運命でした。
桶狭間の今川家のようにです。
だから村重は何が何でも生き延びようと思ったのでしょう。
穴山梅雪は武田一門衆だったが信玄の後を継いだ勝頼を見下して、勝頼を見捨てて家康に降り本能寺の変後に家康とは別ルートで堺から脱出したが落武者狩りで殺されたのは因果応報
梅雪は落武者狩りではなく家康に始末されたようですよ(家康の家臣・松平家忠の日記)
家康は三河に帰った後、甲斐を乗っ取るため死んだ梅雪の領地を利用したのです。
…まぁどっちにしろ皮肉な最期ですがね
流石は家康、汚い
@@sazanami4728 別に汚くはない
@@ハリガネムシ-m5t
穴山信君は武田親族衆、武田勝頼は卑劣漢信君や小山田将監等、親族、譜代の重臣に見放され、裏切られて天目山の露と消えた無念は如何程ばかりでしたか、まことに哀れな武田家の滅亡です。しかし奥方は実家の北条に帰らず、夫勝頼に付き従い貞節を捧げ、婦人の鏡として今に称えられ、勝頼から勘当された小宮山内膳はご主君に最後のご奉公をとばかりに舞い戻り、天目山に忠烈無双の働きをし、土屋惣蔵は土屋の片手切りと云われた獅子奮迅の働きをした、まことに爽やかな話しも残ることに救われます。
6:13 遅るるにたりず? 恐るるにたりず?
信雄の放火については疑問
一豊は小山評定の前に堀尾忠氏が
『城・領地を家康に差し出す』と言っていたのパクって
評定の際に家康に提案したと言う説もありますね。
功名が辻では、堀尾は、先に言わなかった自分が悪いと
気にしてませんでしたよ
大河ドラマ(功名が辻、参照)
それもあるけど
掛川は元々家康の領地
もしも差し出さなかったら潰されると思ってビビったから
焦って「俺の城家康さんに返します」って言っただけらしい
と言う説もあります
確かに言ったと思いますが忠氏は「いざ実行!」までは考えていなかったでしょう。
当時の人達がこの後どうなるか等分かる訳が無く、全財産渡すも同然な案等並大抵の意志では言い出すこと等出来ません。
忠氏は一豊が口火切った際に「出し抜かれた」とは考えず「まさか本当に言い出すとは思わなかった」としてその度胸を認めたのでしょう。
ですから忠氏は一豊に「あの時あんな事を言い出すとは日頃の貴方からは想像もつきませんでしたよ。(訳)」と笑って答えたのでしょう。
@@希望匿名-q8w
功名が辻でも、中々、徳川家康が恩賞のことを言わないから
最初、言わなきゃ良かったと後悔してましたからね
(大河ドラマ功名が辻参照)
@@呉志
成程、そういう過程も(ドラマ内とはいえ)あったのですか。
そう考えると「他者の案を出し抜いて横取りした」というよりも「他社も考えたがリスクが高すぎるので実行に踏み切れない事を捨て身で敢行した」と言う見方も出来ますね。
(5分11秒)「天正14年=1586年」だし秀吉が天下統一して天下人になったのは天正18(1590)年なので宜しくお願いします♪
臆病で家臣に追い出されたともいわれる山名豊国も評判悪いけど、最終的には幕府の高級旗本として生き残ったので、先を見る目はあったのかもしれない
戸次川の戦い跡地の通りすがり、長宗我部信親他戦死者の墓地が有ったので車を降りて手を合わせようと思ったのですが信親の墓が見つからず残念だったのを思い出します。山内一豊も酷い所業をしたものです。それが後に幕末の龍馬や中岡慎太郎、武市半平太ら下士の脱藩、倒幕運動に繋がるわけですが。
山内家、幕末は失態が目立ちましたからね…
だから薩長の面々に先を越された
現在信親の墓は高知県高知市の雪蹊寺にあります。
当時の合戦直後は島津勢によって現地の戸次川に埋葬されたそうです。
その後、島津勢が信親の遺体と遺品の返還に応じてくれたので、浦土城周辺で改めて埋葬したそうです。
長宗我部家滅亡後は四国八十八か所の33番札所でもある雪蹊寺に墓を移され現在に至ります。
雪蹊寺は長宗我部家縁の寺で、隣には戸次川の戦いで討死した長宗我部兵の大位牌や、長宗我部元親の木像が祀られている秦神社もあり、長宗我部家の聖地と言っても差し支えない場所かと思います。
@@saikawawawa ありがとうございました。戸次川戦跡地の側を通りすがり
墓地を見つけたのものの四国に渡るフェリーの乗船時間が迫っており
ゆっくり探す間も無く諦めましたが雪蹊寺なら知ってますので年内に
参拝することにしました。
個人的には黒田長政が城井家にした仕打ちも酷いと思う
卑怯どころか屑の所業
城井も転封に従っていたらこんな目にはあってなかったのだが