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二荒山は(ふたらさん)ではなかったですか?昔読んだ小説に、そのようにルビふってがあった記憶ですし、試しに(ふたらさん)で入力してみたら変換候補で出て来ましたから。
コメントありがとうございます仰る通り日光の二荒山神社はフタラサンジンジャと読みます二荒山は男体山の古称で、その音読み「ニコウ」から日光山(にっこうさん)となったという説があり、当時は両方の字が併用されていたと考えられています。説明不足で申し訳ありませんこの説の記述は複数ありましたが一例(ニッポンドットコムより転載)二荒山は男体山の古称で、観世音菩薩(ぼさつ)の住む「補陀落山(ふだらくせん)」が語源とされ、「二荒」の音読み「にこう」から「日光」の地名が生まれた
@@terasen なるほど納得。それで変換第1候補が二荒山神社だったのですねぇ。ありがとうございました😊
昨年と今年は初詣は二荒山神社だったいつも靖国神社だったけど・・・
まってましたーーー兜が豪華w天海。家康が「天海を知るのがあまりに遅すぎた・・」と言ったとかなんとか。
魔理沙の被り物が楽しみのひとつ。かっけぇです。
いつも楽しみにしてます、魔理沙のおやつ代です。
Thanksありがとうございます。魔理沙に代わって御礼申し上げます
日光男体山は高い所に登らなくても、板橋区の荒川堤防まで来ると見える。当時は江戸城天守から良く見えたと思う。
とても深堀りした内容で聞き入りました。4月に初めて日光に行くのでNiceTimingでした。有り難うございます😊
日光東照宮の杉並木は明治維新後に売り飛ばされそうになったものの、あまりに立派で値が付かず結果的に残されたといますね。でも使う事が出来たなら東大寺大仏殿を鉄骨で修理しなくて済んだんですが…。
太さが全然足りんでしょ?
うぽつです。ウチの神社には家康に関係のあるものが色々あるので、参拝者に話すネタを提供してもらって嬉しいです。
この動画は本当に有益な動画だと思います。一般的な歴史の定説から他の例や異論まで細かく歴史検証をしている、無駄な落ちやコントも無く「さらっと」次の題に移行し、タイトルに偽りの無い全体を通しての丁寧な説明や解説、動画の邪魔にならないBGMの選曲も見て飽きない。30分と言う解説動画では長い時間をあっという間に過ぎてしまう。話に纏まりがあり歴史好きの正面に突き刺さる、日本の歴史を学ぶならば教育機関では無く、この動画で学ぶ方が非常に有益です。私個人は料金を支払って有料でも視聴をしたい位に勉強になります。
日光御神領は下野国全体の5分の1くらいの面積を占めてるのに2万5000石なんですね。ちなみに千人同心の故事もあって八王子と日光は姉妹都市になってたはずです。
東武スペーシア八王子日光号は偶然?
今の東京は高層ビルやマンションが立ち並び、その高層階や河川鉄橋などの上から出ないと周辺の山々が見渡せませんが、実は富士山を始め南アルプス、奥秩父、上越国境の山々、日光連山、那須連山、筑波山など、名だたる山々を一望できる立地にあり、日光の男体山は空気の澄んでいる日には結構はっきりと見えます。江戸から直接遥拝するのにもちょうど良かったのでしょうね。
魔理沙が被る兜は、故 滝田栄さん主演のNHK大河ドラマ「徳川家康」のタイトル画面に登場した伝 徳川家康兜でしょうか?実際には家康自身が被って出陣した記録はほとんど無く、家康本陣に掲げられていた程度らしいですが…。日光東照宮と輪王寺、二荒山神社の二社一寺は小学校の修学旅行で訪れた思い出の地です。さすがに小学生では知識が無くて、陽明門の華麗さと三猿の厩と鳴き龍、五重塔ぐらいしか覚えていません。それよりも宿泊地の日光湯元温泉に心は奪われていましたね。冗談はそれ位にして、家康薨去後の天海僧正の暗躍と祖父を慕うあまりに豪華絢爛な社殿に作り変えた三代将軍家光の指示で、世良田東照宮に移築された質素な社殿から壮麗壮大な日光東照宮になった事実は、もう少し知られても良いと思います。当初葬られた久能山東照宮に家康の亡き骸がまだ眠っている疑惑は、これまで聞いたことが無かったのでちょっと検索してみます。それでも徳川幕府の公式見解として日光東照宮に棺ごと移し替えて東照社、日光東照宮に永遠に眠っているのですから、野暮はよしましょう。正一位東照大権現として神号を賜まり、江戸時代を通じて崇敬を集めた薨去後の家康。維新政府の江戸城入城以降、朝廷から一時的に閉門蟄居に追い込まれたものの、最後には徳川将軍家とは別に徳川慶喜家として公爵位を賜って、薨去後は上野寛永寺横に神式で葬られた十五代将軍徳川慶喜。色々と考えさせられます。徳川家慶を最後に幕府が終わるまで行われなかった将軍の日光東照宮参拝、タラコ将軍こと徳川家斉はもう少し御先祖様を崇敬されては?歴代将軍月命日の御位牌供養だけで満足してしまったのでしょう。tera senゆっくり大江戸様の動画制作発表に感謝申し上げます。次回発表はどこを採り上げられるのか楽しみでなりません。
勉強になりました。魔理沙さんのはでてるので、これは、霊夢さんのおやつ代として使ってください。
Thanksありがとうございます。いつも頑張って解説していただいている霊夢さんのエネルギーにさせて頂きます
日光東照宮は最初は日光東照社でしたが、三代家光が豪華絢爛に造り替えて派手になってしまいかなりの幕府の予算を使ったんですよね。久能山から日光に移った経緯は天海がそうしたと言われていますね。
待ってました!!!今回も詳しく分かりやすい解説、ありがとうございます!!勉強になります!いつも魔理沙の被り物が楽しみです!個人的にはシャアが好きです!
今宵もおなじみの顔でござる待ってました!
今晩は(^o^)日光東照宮懐かしいです😣25年前観光して感動でした😁奥の院の家康の墓も参拝しました😁
日光も久能山も行った事あるけど、どうしても「神が祀られてる」より「偉人が眠っている」の感覚の方が強くて伊勢神宮参拝した時とかとは全然違う気分だったのを覚えてるあくまで歴史建造物観光の範疇だったというか
当時の後水尾天皇は、徳川幕府に対して苦々しい思いを抱いていましたが、結局は徳川家の圧力に屈し、「東照大権現」の称号を家康に与え、直筆の書簡を東照宮に奉納しています。後の戊辰戦争の際に、西郷隆盛は東照宮を焼き払おうとしたのですが、板垣退助が後水尾天皇直筆の書簡を引き合いにしたために、全焼を免れたらしいのです。
最後の会津藩主・松平容保公が先の大戦(戊辰戦争)後に宮司を務めていたり、太平洋戦争中に時の皇太子殿下(現在の上皇陛下)が疎開していたり、無条件降伏を受けて侍従達が山を越えて会津若松へお連れしようとしたものの細い林道しかなく断念したという話が新聞記事に残っていたり、日光はなかなか興味深い場所ですね。ちなみに、かつて会津西街道五十里(いかり)宿近傍に日光寺社領・宇都宮藩領・会津藩領の3つの境を示す大岩があったそうですが、数年前に五十里ダムの点検整備の為にダム湖の水をすべて抜き渇水させた際、湖底に残っていることが確認されています。次見られるのは果たしていつになるでしょうかね?
徳川家康 が神になったのは徳川家康 自身の野心というより孫の徳川家光の 「おじいちゃん リスペクトが凄すぎた😅」だけですね
家康が東照大権現の神号を宣下されたのは没後2年くらいで家光はまだ子供の頃だから関係ないで?
魔理沙の兜がゴージャスに・・・。そろそろ、霊夢にも何かオプションをつけてあげて欲しい
宗教的概念抜きに世界に誇れる遺産を所持する日本🗾って素晴らしいですよね😊欧州からの外国人観光客は民度も高く母国文化との違いを正しく認識してくれますから誇りに思いますね😊
いつも楽しく拝見させて頂いています。ちょうど京極夏彦の新刊を読んでおり、東照宮を舞台に天海僧正や家康の神号の件などを触れておりました。これも大権現のお導きですかね笑
徳川家は、明治維新後、公爵となり、貴族院議長を長年つとめていますので、織田家や豊臣家に比べるとめちゃくちゃ恵まれていますね😅
16代の家達が30年、17代の家正が数年やってて、しかも最後の貴族院議長だったという……。
小林一茶の解説をお願いします。農家の長男が奉公に出され俳句との出会いと継母との確執などを中心に
9:35 この時の話は石ノ森章太郎先生のマンガ日本の歴史の29巻や大河ドラマ葵徳川三代でもやっている。
日光は、中禅寺温泉の対岸に"明智平"という場所がありますが、その地名の謂れが気に掛ってます。昔は、いろは坂の起点・馬返から"明智平"までケーブルカーが走っており、大谷川を急勾配の鉄橋で渡っていました。残っていれば、名所の一つになってたかもしれんですね。
その馬返と東武日光駅を結ぶ路面電車もかつて存在しました。
土方歳三「ここで戦えば神君様のご加護があるはずだ!」 東照宮「そんなもんあるか!出てった出てった!」 中々リアリストな神社でもある日光東照宮の建てられた下野(栃木)は足利氏・新田氏に通ずる源氏の根源の地でもあるし、家康は新田源氏の「徳川(三河守任官経験有だった世良田の分家の徳川を採用)」改姓したからその縁を伝ってだったのかなぁ
発祥の地世良田にも世良田東照宮を建ててるからそこはあんま関係ないと思う。
配信お疲れ様ですナルホドね木が真っ直ぐ伸びるのか ふむふむ
お待ちしておりました♪
東照宮は小学校の頃は歴史に興味が無かったのもあり、何も感じなかったのですが、成人して参拝した時は歴史の重みにただただ圧倒されましたまた機会があれば、当時は行けなかった大猷院も含めて参拝したいですね
25:39 日光に行った時に東照宮の近くに家光の墓があるのは知らなかったから行かなかった。
色んな時代に分裂騒乱を繰り返していた関東が、徳川、江戸の裏庭になりました。そんな感覚を刷り込むことには間違いなく成功したんじゃないかなあ。土井家、戸田家、領民などもその責任感で幕府との連帯感を維持できたんじゃないかと思いました。最大の平原がそういう状態になったのは、3世紀近い天下泰平に寄与してそう。
徳川ご宗家は当代様に至るまで日光社参を欠かさないそうです。その際は冠位束帯をお召になるそうですよ。
現当主の家広さんが家督相続した時も日光と久能山にお参りしてましたねそれこそNHKで衣冠束帯着込んでる家広さんの姿が放送されてたので……。
家綱が1649年に将軍世子として日光社参を行った時には日光街道を越ヶ谷まで北上してから岩槻に行き、そこからは通常の日光社参と同じ経路で行われた。日光社参で江戸から岩槻まで日光御成道と別の経路が使われたのはこれが唯一の例だった。
明治政府軍が日光を燃やそうとした話にも触れてほしかった
古代ローマにおける「神格化」も似たようなものなんですかね。
生涯でただ一度の外出であった可能性もあるわけか。ここまで引きこもった将軍様は世界でも唯一だろうなぁw
兜が権現様だ!😂
現在日光東照宮は誰が管理しているんですかね?徳川家?
宗教法人東照宮ですな。徳川家は運営に携わっていないようです。
@@user-ponkotsukakumei ありがとうございます、自分でも調べたのですがその途中で宗教法人ではないかとは思っていたのですがやはりですかあと徳川家と現在繋がっていないかも調べたのですが、例大祭の時には徳川宗家が運営に関わっているとのことでした
最近行く事ができた。修繕されて綺麗になっていた建物多かったな
それも仕事のうちとは言え、参拝の日程が厳しい
アメリカによるイラク侵略年の黄金週間に日光東照宮を訪ねた時でした。宮司が施設説明時にやたらと御札や破魔矢を始めとした物販販売をゴリ押し感強めでして内心辟易ました。勧請瓦はしましたが、施設改修【耐震補強や老人対策】が予定されてるのが判りましたが何か世知辛いなぁ〜と思いました。
日光街道は明治期三島通庸によって整備されて江戸期のより若干変更がある(現在の旧四号線)例えば石橋で国道352号線と交差(南側)するところの地蔵なんかは反対向きになってて当時の道路幅員とかわかる(もっとも杉日光並木や分岐後の旧白川街道なんかでも一部が当時のままだったりするけどね)
家慶というと高嶋政伸の顔が出てきてしまう
この時でも大軍は城に入るんやな、設備揃ってるし当然か
確か10年くらい前にこの辺りで東照宮造営中くらいの築年のお屋敷が不動産系売ででてたっけ・・だれが落札したんだろ?
日光社参となれば小十人組や新番などの五番方、親衛隊が張り切っていたんだろうか。留守居も、留守居しているわけか。
散財魔王家光w
殿ときっちゃんは?🥺
???「俺は新世界の神になる!!」
土佐人は何かしらに形で「日本の歴史」に関わっております(ノ_ _)ノ
12代将軍の時の社参では水戸藩主徳川斉昭が激怒したと聞いた事がある。
CM多すぎw
廃仏棄釈はすべきでは無かったと思うけれど(明治維新後有名なお寺の数々が荒廃してボロボロに為ったので)神さんと仏さんの化身って考え方は賛同出来ないよね。まぁ、廃仏棄釈してなければ何も思わなかったと思うけどね。
いやそれきちんと神道史を理解した上で言ってる?
魔理沙、家康兜かぶってるやん
日光に参るだけで物凄い人数やからまるで戦やな。
二荒山は(ふたらさん)ではなかったですか?
昔読んだ小説に、そのようにルビふってがあった記憶ですし、試しに(ふたらさん)で入力してみたら変換候補で出て来ましたから。
コメントありがとうございます
仰る通り日光の二荒山神社はフタラサンジンジャと読みます
二荒山は男体山の古称で、その音読み「ニコウ」から日光山(にっこうさん)となったという説があり、当時は両方の字が併用されていたと考えられています。説明不足で申し訳ありません
この説の記述は複数ありましたが一例
(ニッポンドットコムより転載)
二荒山は男体山の古称で、観世音菩薩(ぼさつ)の住む「補陀落山(ふだらくせん)」が語源とされ、「二荒」の音読み「にこう」から「日光」の地名が生まれた
@@terasen
なるほど納得。それで変換第1候補が二荒山神社だったのですねぇ。
ありがとうございました😊
昨年と今年は初詣は二荒山神社だった
いつも靖国神社だったけど・・・
まってましたーーー
兜が豪華w
天海。家康が「天海を知るのがあまりに遅すぎた・・」と言ったとかなんとか。
魔理沙の被り物が楽しみのひとつ。かっけぇです。
いつも楽しみにしてます、
魔理沙のおやつ代です。
Thanksありがとうございます。魔理沙に代わって御礼申し上げます
日光男体山は高い所に登らなくても、板橋区の荒川堤防まで来ると見える。
当時は江戸城天守から良く見えたと思う。
とても深堀りした内容で聞き入りました。
4月に初めて日光に行くのでNiceTimingでした。
有り難うございます😊
日光東照宮の杉並木は明治維新後に売り飛ばされそうになったものの、あまりに立派で値が付かず結果的に残されたといますね。でも使う事が出来たなら東大寺大仏殿を鉄骨で修理しなくて済んだんですが…。
太さが全然足りんでしょ?
うぽつです。ウチの神社には家康に関係のあるものが色々あるので、参拝者に話すネタを提供してもらって嬉しいです。
この動画は本当に有益な動画だと思います。
一般的な歴史の定説から他の例や異論まで細かく歴史検証をしている、
無駄な落ちやコントも無く「さらっと」次の題に移行し、
タイトルに偽りの無い全体を通しての丁寧な説明や解説、
動画の邪魔にならないBGMの選曲も見て飽きない。
30分と言う解説動画では長い時間をあっという間に過ぎてしまう。
話に纏まりがあり歴史好きの正面に突き刺さる、
日本の歴史を学ぶならば教育機関では無く、
この動画で学ぶ方が非常に有益です。
私個人は料金を支払って有料でも視聴をしたい位に勉強になります。
日光御神領は下野国全体の5分の1くらいの面積を占めてるのに2万5000石なんですね。ちなみに千人同心の故事もあって八王子と日光は姉妹都市になってたはずです。
東武スペーシア八王子日光号は偶然?
今の東京は高層ビルやマンションが立ち並び、その高層階や河川鉄橋などの上から出ないと
周辺の山々が見渡せませんが、実は富士山を始め南アルプス、奥秩父、上越国境の山々、日光連山、
那須連山、筑波山など、名だたる山々を一望できる立地にあり、日光の男体山は空気の澄んでいる日には
結構はっきりと見えます。江戸から直接遥拝するのにもちょうど良かったのでしょうね。
魔理沙が被る兜は、故 滝田栄さん主演のNHK大河ドラマ「徳川家康」のタイトル画面に登場した伝 徳川家康兜でしょうか?実際には家康自身が被って出陣した記録はほとんど無く、家康本陣に掲げられていた程度らしいですが…。
日光東照宮と輪王寺、二荒山神社の二社一寺は小学校の修学旅行で訪れた思い出の地です。さすがに小学生では知識が無くて、陽明門の華麗さと三猿の厩と鳴き龍、五重塔ぐらいしか覚えていません。それよりも宿泊地の日光湯元温泉に心は奪われていましたね。
冗談はそれ位にして、家康薨去後の天海僧正の暗躍と祖父を慕うあまりに豪華絢爛な社殿に作り変えた三代将軍家光の指示で、世良田東照宮に移築された質素な社殿から壮麗壮大な日光東照宮になった事実は、もう少し知られても良いと思います。当初葬られた久能山東照宮に家康の亡き骸がまだ眠っている疑惑は、これまで聞いたことが無かったのでちょっと検索してみます。それでも徳川幕府の公式見解として日光東照宮に棺ごと移し替えて東照社、日光東照宮に永遠に眠っているのですから、野暮はよしましょう。
正一位東照大権現として神号を賜まり、江戸時代を通じて崇敬を集めた薨去後の家康。
維新政府の江戸城入城以降、朝廷から一時的に閉門蟄居に追い込まれたものの、最後には徳川将軍家とは別に徳川慶喜家として公爵位を賜って、薨去後は上野寛永寺横に神式で葬られた十五代将軍徳川慶喜。色々と考えさせられます。
徳川家慶を最後に幕府が終わるまで行われなかった将軍の日光東照宮参拝、タラコ将軍こと徳川家斉はもう少し御先祖様を崇敬されては?歴代将軍月命日の御位牌供養だけで満足してしまったのでしょう。
tera senゆっくり大江戸様の動画制作発表に感謝申し上げます。次回発表はどこを採り上げられるのか楽しみでなりません。
勉強になりました。
魔理沙さんのはでてるので、これは、霊夢さんのおやつ代として使ってください。
Thanksありがとうございます。いつも頑張って解説していただいている霊夢さんのエネルギーにさせて頂きます
日光東照宮は最初は日光東照社でしたが、三代家光が豪華絢爛に造り替えて派手になってしまいかなりの幕府の予算を使ったんですよね。
久能山から日光に移った経緯は天海がそうしたと言われていますね。
待ってました!!!
今回も詳しく分かりやすい解説、ありがとうございます!!
勉強になります!
いつも魔理沙の被り物が楽しみです!
個人的にはシャアが好きです!
今宵もおなじみの顔でござる
待ってました!
今晩は(^o^)日光東照宮懐かしいです😣25年前観光して感動でした😁奥の院の家康の墓も参拝しました😁
日光も久能山も行った事あるけど、どうしても「神が祀られてる」より「偉人が眠っている」の感覚の方が強くて伊勢神宮参拝した時とかとは全然違う気分だったのを覚えてる
あくまで歴史建造物観光の範疇だったというか
当時の後水尾天皇は、徳川幕府に対して苦々しい思いを抱いていましたが、結局は徳川家の圧力に屈し、「東照大権現」の称号を家康に与え、直筆の書簡を東照宮に奉納しています。後の戊辰戦争の際に、西郷隆盛は東照宮を焼き払おうとしたのですが、板垣退助が後水尾天皇直筆の書簡を引き合いにしたために、全焼を免れたらしいのです。
最後の会津藩主・松平容保公が先の大戦(戊辰戦争)後に宮司を務めていたり、太平洋戦争中に時の皇太子殿下(現在の上皇陛下)が疎開していたり、無条件降伏を受けて侍従達が山を越えて会津若松へお連れしようとしたものの細い林道しかなく断念したという話が新聞記事に残っていたり、日光はなかなか興味深い場所ですね。
ちなみに、かつて会津西街道五十里(いかり)宿近傍に日光寺社領・宇都宮藩領・会津藩領の3つの境を示す大岩があったそうですが、数年前に五十里ダムの点検整備の為にダム湖の水をすべて抜き渇水させた際、湖底に残っていることが確認されています。
次見られるのは果たしていつになるでしょうかね?
徳川家康 が神になったのは
徳川家康 自身の野心というより
孫の徳川家光の 「おじいちゃん リスペクトが凄すぎた😅」だけですね
家康が東照大権現の神号を宣下されたのは没後2年くらいで家光はまだ子供の頃だから関係ないで?
魔理沙の兜がゴージャスに・・・。
そろそろ、霊夢にも何かオプションをつけてあげて欲しい
宗教的概念抜きに世界に誇れる遺産を所持する日本🗾って素晴らしいですよね😊
欧州からの外国人観光客は民度も高く母国文化との違いを正しく認識してくれますから誇りに思いますね😊
いつも楽しく拝見させて頂いています。
ちょうど京極夏彦の新刊を読んでおり、東照宮を舞台に天海僧正や家康の神号の件などを触れておりました。
これも大権現のお導きですかね笑
徳川家は、明治維新後、公爵となり、貴族院議長を長年つとめていますので、織田家や豊臣家に比べるとめちゃくちゃ恵まれていますね😅
16代の家達が30年、
17代の家正が数年やってて、しかも最後の貴族院議長だったという……。
小林一茶の解説をお願いします。
農家の長男が奉公に出され俳句との出会いと継母との確執などを中心に
9:35 この時の話は石ノ森章太郎先生のマンガ日本の歴史の29巻や大河ドラマ葵徳川三代でもやっている。
日光は、中禅寺温泉の対岸に"明智平"という場所がありますが、その地名の謂れが気に掛ってます。
昔は、いろは坂の起点・馬返から"明智平"までケーブルカーが走っており、大谷川を急勾配の鉄橋で渡っていました。
残っていれば、名所の一つになってたかもしれんですね。
その馬返と東武日光駅を結ぶ路面電車もかつて存在しました。
土方歳三「ここで戦えば神君様のご加護があるはずだ!」 東照宮「そんなもんあるか!出てった出てった!」 中々リアリストな神社でもある
日光東照宮の建てられた下野(栃木)は足利氏・新田氏に通ずる源氏の根源の地でもあるし、家康は新田源氏の「徳川(三河守任官経験有だった世良田の分家の徳川を採用)」改姓したからその縁を伝ってだったのかなぁ
発祥の地世良田にも世良田東照宮を建ててるからそこはあんま関係ないと思う。
配信お疲れ様です
ナルホドね木が真っ直ぐ伸びるのか ふむふむ
お待ちしておりました♪
東照宮は小学校の頃は歴史に興味が無かったのもあり、何も感じなかったのですが、成人して参拝した時は歴史の重みにただただ圧倒されました
また機会があれば、当時は行けなかった大猷院も含めて参拝したいですね
25:39 日光に行った時に東照宮の近くに家光の墓があるのは知らなかったから行かなかった。
色んな時代に分裂騒乱を繰り返していた関東が、徳川、江戸の裏庭になりました。
そんな感覚を刷り込むことには間違いなく成功したんじゃないかなあ。
土井家、戸田家、領民などもその責任感で幕府との連帯感を維持できたんじゃないかと思いました。
最大の平原がそういう状態になったのは、3世紀近い天下泰平に寄与してそう。
徳川ご宗家は当代様に至るまで日光社参を欠かさないそうです。
その際は冠位束帯をお召になるそうですよ。
現当主の家広さんが家督相続した時も日光と久能山にお参りしてましたね
それこそNHKで衣冠束帯着込んでる家広さんの姿が放送されてたので……。
家綱が1649年に将軍世子として日光社参を行った時には日光街道を越ヶ谷まで北上してから岩槻に行き、そこからは通常の日光社参と同じ経路で行われた。日光社参で江戸から岩槻まで日光御成道と別の経路が使われたのはこれが唯一の例だった。
明治政府軍が日光を燃やそうとした話にも触れてほしかった
古代ローマにおける「神格化」も似たようなものなんですかね。
生涯でただ一度の外出であった可能性もあるわけか。ここまで引きこもった将軍様は世界でも唯一だろうなぁw
兜が権現様だ!😂
現在日光東照宮は誰が管理しているんですかね?
徳川家?
宗教法人東照宮ですな。
徳川家は運営に携わっていないようです。
@@user-ponkotsukakumei ありがとうございます、自分でも調べたのですがその途中で宗教法人ではないかとは思っていたのですがやはりですか
あと徳川家と現在繋がっていないかも調べたのですが、例大祭の時には徳川宗家が運営に関わっているとのことでした
最近行く事ができた。修繕されて綺麗になっていた建物多かったな
それも仕事のうちとは言え、参拝の日程が厳しい
アメリカによるイラク侵略年の黄金週間に日光東照宮を訪ねた時でした。
宮司が施設説明時にやたらと御札や破魔矢を始めとした物販販売をゴリ押し感強めでして内心辟易ました。
勧請瓦はしましたが、施設改修【耐震補強や老人対策】が予定されてるのが判りましたが何か世知辛いなぁ〜と思いました。
日光街道は明治期三島通庸によって整備されて江戸期のより若干変更がある
(現在の旧四号線)
例えば石橋で国道352号線と交差(南側)するところの地蔵なんかは反対向きになってて当時の道路幅員とかわかる
(もっとも杉日光並木や分岐後の旧白川街道なんかでも一部が当時のままだったりするけどね)
家慶というと高嶋政伸の顔が出てきてしまう
この時でも大軍は城に入るんやな、設備揃ってるし当然か
確か10年くらい前にこの辺りで東照宮造営中くらいの築年のお屋敷が不動産系売ででてたっけ・・だれが落札したんだろ?
日光社参となれば小十人組や新番などの五番方、親衛隊が張り切っていたんだろうか。
留守居も、留守居しているわけか。
散財魔王家光w
殿ときっちゃんは?🥺
???「俺は新世界の神になる!!」
土佐人は何かしらに形で「日本の歴史」に関わっております(ノ_ _)ノ
12代将軍の時の社参では水戸藩主徳川斉昭が激怒したと聞いた事がある。
CM多すぎw
廃仏棄釈はすべきでは無かったと思うけれど(明治維新後有名なお寺の数々が荒廃してボロボロに為ったので)神さんと仏さんの化身って考え方は賛同出来ないよね。まぁ、廃仏棄釈してなければ何も思わなかったと思うけどね。
いやそれきちんと神道史を理解した上で言ってる?
魔理沙、家康兜かぶってるやん
日光に参るだけで物凄い人数やからまるで戦やな。