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太古からこの感覚でそもそもの地図作成を渡来の知識でしてたとしたら卑弥呼のお墓の場所が変わりそう…
「行基図は京都を起点に描かれているから奈良時代に描かれたものではない」とするこの動画の解説は、重大な事柄を見落としていて、間違いです。日本の経済の中心地は、奈良時代から京都でした。そして、正確な地図を作成して持っていたのは、渡来氏族の交易武家商人の秦氏の統領の家=蘇我の宗家なのです。もちろん、国記や天皇記も蘇我本宗家が持っていました。まずは、日本の経済を支配する渡来氏族の秦氏の実態の確認が必要です。京都の御所は秦氏の統領の屋敷の跡に建っていることからも明らかなように、京の都の基礎を築いたのは秦氏であり“国譲り”している皇室最大のスポンサーです。秦氏の支配階級は父方がコーカソイド系の交易武家商人で、シルクロードの交易を仕切るのが家業ですから、日本国内でも一箇所に腰を据えて定住することはあまりありません。ある程度都市開発した京都を縄文系の皇室に譲っているのも、交易を家業とする集団だからです。秦氏は、太秦(うずまさ)の故事=絹を全国から集めて堆く積んだエピソードからも明らかなように、太秦=ローマ系の交易武家商人=エクィテスの末裔と認識してシルクロードの交易を行い、巨万の富を得ていました。秦氏の支配階級の祖先は素戔嗚とされますが、この牛神は大陸の山東半島付近では蚩尤や兵主神の名で祭祀されています。臨淄遺跡からは2500年前のコーカソイド系の人骨が数多く出ていますが、現在の秦氏の統領の家の者とDNAが一致することから、祖先が構えた商業都市だったことは確実視されています。牛神の素戔嗚はシルクロードの西側のウガリットではバアルの名で祭られ、インド&イラン共通文明時代には、ルドラ・シヴァの名でも祭祀されていました。インドから仏教が伝わって神道と習合したことは有名ですが、仏教が誕生する以前の古いインドの宗教が日本に入ってきて、神道に組み込まれていることは、時代が古いためあまり認識されていないようです。シルクロードの西側での牛神信仰はユダヤ教の成立以前に遡るので、秦氏がユダヤ教徒という偽史作家達の主張は通用しません。もしもユダヤ教徒がバアルの子孫ならば、ユダヤ人がバアルのことを蠅の悪魔の王と罵る事実と話が合いません。素戔嗚=バアルの子孫の秦氏とユダヤ教徒は、明確に線引き可能なルーツが異なる別者なのです。旧約聖書は、シュメールやウガリットの流れを汲むため、共通性が見られるというだけです。素戔嗚を奉斎する交易商人の一団の秦氏は、天の安川に宮を構えていた天照大神の奉斎集団と接触しますが、最初は領土を奪いに来たのではないかと疑われてしまいます。領土的野心を持たない商人の集団だと理解してもらうために、素戔嗚は天照大神に誓(うけい)=奉斎集団同士の神婚を申し出て大和しています。その結果素戔嗚の奉斎集団は、妻問婚をするのに相応しい三つの母系の家を見い出し、天照大神の奉斎集団は、妻問婚を受け入れるのに相応しい五つの父系の家を見い出しています。シルクロードの交易を支配した秦氏の支配階級が天照大神の奉斎集団=息長氏の姬姓斎皇家に妻問婚した理由は幾つかありますが、シルクロードの交易品の中でも最高級に位置付けられた小石丸系の三眠蚕のシルクを生産する社家だったことが最大の理由です。馬王堆漢墓から蝉の翅のように軽くて薄い単が出土していますが、中国の職人が再現しようとして失敗しています。現代の中国産の四眠蚕が吐く糸は太すぎて、到底不可能と判明しました。ところが、天の羽衣伝説を生み出した日本の小石丸系の三眠蚕が吐く糸は細いため、軽くて薄くてきめ細く肌触りが良くしなやかな極上のシルクを織ることが可能なのです。吉野ヶ里遺跡からも三眠蚕のシルクは出土しています。レジェンド級のシルクを扱うことは、シルクロードを征する交易武家商人にとってステータスですから、姬姓斎皇家への妻問婚は特別な意味を持っていました。息長氏の姬姓斎皇家は、神功皇后=息長帯姬&応神天皇&継体天皇などを輩出したことから、皇統を産み出した最も尊い母方の家とされ、天武天皇は遁甲の発想で忌家として存在を隠して護るように内々に命じています。日本の国姓は“姬”とされますが、皇室は姓を持っていません。この点については日本書紀などにいっさい記述がありませんが、朝廷が編纂した日本書紀読解の参考書“日本書紀私記”の問答集では、天照大神と神功皇后の名を挙げて講師が答えを示しています。つまり、天照大神の祭祀を行う神功皇后=息長帯姬の一族=日の巫女の王の家が、日本の国姓を母系継承しており、祭政一致体制の神託統治が行われてきた神国日本の中枢に位置するということです。父系の継承を重んじる皇室の祖先が女神の天照大神とされるのも、妻問婚の母系社会の名残りです。どんなに高貴な家であろうと、ルーツを辿れば母方の家に行き着くのです。姬姓斎皇家から見れば皇室は多くの父系の家と同じく入婿の分家となります。かぐや姬は、藤原不比等以下、朝廷のプレイボーイ達の求婚を、あの途方もない“恐怖の御強請り”によって悉く退けていますが、唯一例外的にシルクロードの交易を征した秦氏の支配階級ならば、レジェンド級の贈り物を用意して妻問婚を達成できます。天皇の求婚を簡単に断っていながら、その後もせっせと天皇と文通できるほど高貴な御身分の御姬様は、斎皇陛下以外に考えられません。蘇我と書いても素戔と書いてもソガと読みます。出雲大社で素戔嗚を祀る素鵞社(そがのやしろ)からも明らかなように、蘇我氏の正体は素戔嗚直系の子孫とされる姬姓斎皇家育ちの男衆です。蘇我馬子は、激しい敵意を向けてきた天皇=大王の排除を部下に命じて達成していますが、誰一人これをクーデターと認識していません。皇統母の家で生まれた男子なので、大王と身分は同格なのです。蘇我氏の者で冠位十二階を授かった者がいないのも、身分が天皇の臣下ではないからです。聖徳太子の部下に秦氏がいるのも同族だから当然ですね。天智天皇よりも天武天皇の方が歳上なのに、表向きは弟とされているのは、天智天皇は蘇我馬子の孫、天武天皇は曽孫だからです。蘇我本宗家の滅亡は子孫を戒めるための“屠蘇説話”であって、実際には滅亡などしていません。姬姓斎皇家を構成する御三家は宗像三女神として祭祀されています。それに対して秦氏側の御五家は藤原氏へとその立場を譲られて、五摂家として現代まで伝わっています。素戔嗚の子孫の大国主の国譲りを見ても明らかですが、妻問婚に必要な世にも珍しい品を求めて交易の旅をすることが重要な秦氏の支配階級は、殆ど一箇所に居着かず、他の有力者に支配権を譲って統治を委ねる傾向があるのです。ただし、交易に必要な鉄器や貴金属や翡翠や辰砂などを生産するための鉱山技師や加工業を営む人々は定住して、考古学的な痕跡を残しています。つづく。
奈良の都を守護するように描かれた巨大図形として、畿内の大五芒星が有名です。この図形は、一辺が1緯度の長さ=約111キロメートルの正五角形をもとにしていますが、奈良の都を中心として三角測量すると得られる正三角形を五つ組み合わせることでも得られます。古墳なども、正確に測量しないと形が歪むため、三角測量の結果得られる正三角形&五角形を内包しています。畿内の大五芒星の角頂点には、皇室を取り囲む鉱山を営む五大豪族の氏神を祀る神社と神体山が配置されています。たとえば伊勢神宮には、紀州の丹土=辰砂の鉱山を営む丹生氏が奉斎する丹生都比売=丹生つ日女が祀られています。天野盆地は紀州の高天原とされ、息長氏の姬姓斎皇家の御三家の一つの斎宮がかつてあった場所です。畿内の大五芒星が1緯度長で描かれているということは、各神社を創建した時代の朝廷の担当者&神道関係者には、地球の大きさが分かっていたことになります。姬姓斎皇家の地下神蔵には、算木を用いた測量計算の算額が奉納されて残っています。地球を正二十面体として近似的に扱う考え方があったことも分かります。また、富士山と同じ緯度の奈良から見て西の等距離に出雲大社が建てられているので、富士山と奈良と出雲大社の位置関係を正確に測量して把握する技術があったことも明らかです。地球の大きさを求める方法はエジプト人が見い出しているので、それが日本に伝わったと見て良いでしょう。秦の都と奈良や京都の緯度が近いのも、偶然ではなく、天下を治める世界の中心はこの緯度にあるべき、という認識の結果のようです。秦の始皇帝の兵馬俑はペルシャ式の軍団編成。そして「始皇帝の本当の父親は呂不韋ではないのか?」という噂があることからも明らかなように、秦による中華圏の統一に、シルクロードの交易を征した交易武家商人の秦氏が大きく関わっていたことは明らかです。近畿の大五芒星を描いて奈良の都の守護とする高度な測量術を持っていた交易武家商人の秦氏が、巨大な凸面鏡の裏面に彫刻した日本地図を製作して姬姓斎皇家に奉納していますが、伊能忠敬の平面に記された歪んだ日本地図と違って、地球の正確な曲率の上に立体的に描かれているため、現代の日本地図に匹敵する精度が出ています。姬姓斎皇家傘下のとある私立の学園グループの教授陣は、紀元前500年ぐらいに、カラクリを備えた天球儀や現存していない地球儀とともに日本地図が造られたと推測しています。妻問婚社会では、生まれた子供は14歳になるまで母親の家で育てられ、男子ならば父親の家業を継ぐのが一般的です。シルクロードの交易を担う大商人になるには、西域の過酷な環境を踏破できる体力を養う必要があります。秦氏の男衆が基礎体力を付ける目的で創始したのが修験道です。彼らは父方が彫りの深い顔立ちのコーカソイド系+母方も彫りの深い縄文系ですから、鼻が高く見えるため“天狗”と呼ばれました。「天狗は人を化かす」と言われているのは、姬姓斎皇家が山中の磐座などで非公開神事を行うときには、天狗面を付けた修験者装束の出立ちで、彼らが人々を威嚇して斎場から人払いしていたからです。お遍路などの風習も、秦氏の修験者から派生していますが、鉱脈に沿った巡回ルートになっているケースが多いようです。つまり修行と称して修験者の姿で日本全国を歩き回って鉱脈を探査し、発見した鉱脈の位置や方向を伝えるための立体的な測量もしていたことになります。子供の頃から地球儀を見ながら京都で育った彼らからしてみれば、本物の日本地図は凸面に描かれるべきものですから、平面の紙に筆で描いた簡素な地図は、「おおよその国の配置や目的地が分かれば良い」程度のメモだったようです。行基の出身地は大阪の商業都市“堺”とされますが、姬州=紀州の高天原とされた天野の斎宮の境内都市群を代表する都市です。姬姓斎皇家に妻問婚した百済の王子の息子が、14歳で斎宮から外に出された後は、百済に帰らず僧になったとも考えられます。行基が面倒を見ていた母親とされる女性は、姬姓斎皇家の内家の者ではなく、乳母の可能性もあるでしょう。同じ斎宮で兄弟のように育った秦氏の男子達は商人になったので、行基達が全国から集めた情報をもとに簡略な地図を作るとしたら、当時の物流経済の中心地だった京が中心のほうが自然です。奈良の都は船で容易に物資が運べないので、当時の人々は陸路よりも海路運搬することのほうが多かった交易商人達は苦労していました。秦氏が大阪湾の堺や京都を重視して発展させていったのは当然でしょう。また、天武天皇は百済や高句麗を滅ぼして新羅を属国とした唐が日本列島を侵略する可能性を考えて、遁甲の書として日本書紀を編纂させたと考えられます。正確な日本列島の地図を唐の軍師達に入手させてしまっては、日本列島攻略の手掛かりを与えるようなものですから、正確な地図は忌家と定めた姬姓斎皇家の管理下にある地下神蔵の中に秘蔵して、外には出さなかったと思われます。【天惺靖智】
重要な知識や情報を持っていると知られる事は、いつの時代も一歩間違えると命を狙われます。どれもこれも『行基図』なのも丸っこいのも、その為ではないかと妄想してしまいます。
行基の師は遣唐使の一員であった道昭であり、道明ではないと思います。
いかにも日本の国の成り立ちにふさわしい感じがする。確定は不可能でも、多くのひとのてでつくりあげられてきたのだろう。そして、めくじらたてて追求する必要もないのでしょう。それにしても、ご苦労さまな老作ですよ。ある意味、伊能忠敬さんより、大変だったかも。こんなご先祖を持つ日本人は幸せだ。
面白い課題を扱って頂き、有難う御座いました。個々の地図は当然、行基が作成しては居りませんが、最初の地図は行基が関わって居り、その後その改訂版と云う意味で、行基の名前が使われたのだと思います。謂わばブランドです。
地図に「行基」とあるのを、いにしへの僧名人名とこだわる二文字ではなさそう。地図なのだから、「行く(ところ)の基(もと)」ぐらいの字義・意味で取ってもつじつまは合う。「行基図」つまり、行脚(旅)するときに基(もと)に使える図、の意味で皆が代々つけた名称でないのかなぁ?
全国に行基伝説は山ほどあって、行基作とされる仏像が何体も残ってる
@@りか-d4h 「行基」という普通名詞と取ると、数の多さにもツジツマは合う。そりゃ僧「行基」作なのかも知れないけどね。
@@seorituhime. 高野聖が全国を行脚して弘法大師伝説(お大師さまが杖ついたら水が出た、湯が湧いた、開山した)を広めたような事が行基でも行われていたと推測する。本人も行脚したけど弟子も全国に散ったのかもしれない。それにしても行基さんの伝承と仏像は数が多いんですよ。自分も幾つか知ってる。
@@りか-d4h 行基様は、沢山の仏像を作ってますからね。池を作り堤防を作り、その他にも様々な社会事業を成し遂げ、又、貧しい人々に食事と宿泊場所を与え民衆の人気も鰻登り、行基様を恐れた朝廷は、一時は小僧呼ばわりで弾圧してました。聖武天皇が帰依し東大寺の建立を請負いました。調べれば調べる程過去の聖者の中で抜群の業績を上げているにも関わらず、知っている人の、少なさです。故意に無視かな。弘法大師は様々な業績を上げていますが、シナ留学中に様々な国の知識を身に着けた様に思えます。当時のシナは国際国家でしたからローマ、ギリシャ、インドから流入してきた人々の、思想、学問があったようです。それを短期間で学んでいた弘法大師も凄い方です。キリスト教にも造詣が深かったとか。日本の覚醒者達の業績は並外れています。キリスト教も回教徒もいらない程の賢者達の存在、これが我が日本なんだとしみじみ思います。
「基もと」ニシテ「行い」ク「図」。ととってもいいし。「行」クニ「基」トス図、とも読めるっちゃ読めるんだけど、学者さんたちは、「そんな前例はない」とか、「その時代には、そう読んでる事例はない」とか、「そうは読まないと○○先生がいってる」みたいな反応をしているかぎり、「真実の日本史」にはたどり着けない。
興味深く視聴致しました。☆奈良の春日大社境内・飛火野で「行基さん大感謝祭」が開催されます。令和5年(2023年)11月12日です。☆ご興味がございましたら、詳しいことはホームページをご覧ください。☆
いい年こいて恥ずかしながら名前だけしか認識が有りませんでした。人物に焦点を当てた歴史は面白いですね。年表覚えるだけの何関心も持てなかった社会科がこれ程面白いとは気付くのに数十年遅かった。街道を歩くだけでは地図作製はほぼ無理。当時の国を歩き回り地図作製は考えられない。徒歩で海岸線・山道を歩き切るには(道なき道を)どれ程の歳月が必要か想像もつかない。そして飲食・ねぐら確保はどうやって。各国府の支援・情報が無ければ生涯捧げても無理な気がします。仰る通り簡易図が有り、それを元に情報を集めたと言うのが事実の様な気がします。
当時はロシアそのものがまだなかった時代だからな。
この地図では薩摩の先に日向があります。やはり邪馬台国は初め日向の山中にあったのかも😊そして勢力を増すにつれ近畿に近付いて行ったんだろうな😊
伊能忠敬が。天文観測で経度をどのように測ったのでしょうか。初めて聞きました。教えて。
漫画になってるよ!うろ覚えだけど計測方法出てたよ。自分の歩幅を固定、その歩幅で歩けるように練習してるシーンしか覚えてないけど。
伊能図の正確さから考えてすべての個所について、1通りではなく複数通りの測量法で適宜修正を加えつつ進んだのではないかな?一行が数里いな数尺進むごとに計測と記録とをただただ繰り返したのだろう。とうぜん前班と後班に分かれてキョリを一定に保ちつつ、時刻と月日の角度など正確に計測計算しつつ。初日に定めた基点からの角度と距離は地上で手間はかかるが、なんとか3角形などを縦に横に描き山の高さなど修正しながら進んだのだと思う。GPSは「縦」を時間秒に変換してるけど、それができないだけだから「計測回数」さえむちゃくちゃたくさんすれば、なんとかなったのだと思う。
イエズス会が言えてないw
それにしても行基様を知らない人が多すぎる。彼がやった事業を見ると、その知識はどこから来たのだろうかと疑問に思う。私の家では行基様から頂いたと言われている仏像があるが、先祖様はこの菩薩様に戦争などで度々奇跡的に助けられたと伝わっています。秘仏として年数回しか公開してませんが、本当に不思議な仏像です。間違った生き方をしていると、冷や汗が流るくらい、恐ろしく見えます。
浅い見識見解だなぁいや、表現が醜い人の知識なんて放射の如く知らない人がいて当たり前その方々は他のことを知っている
@@21kai5後頭部にブーメラン刺さっとるよ
うちの先祖が代々守るお堂の仏像も行基作なんですよ。でも1200年頃までしか歴史を遡れないのです。確かに著名な方なのに知名度は低いですね。生駒の竹林寺さんとか人いません…。寂しいですね。
@@りか-d4h 自分の投げたブーメランは後頭部に刺さらないからご心配無用w
@@21kai5 すごい!王毅共産党政治局員兼外相の外交みたいな台詞だね!
元は819BC高度上空より描かれた…答えは記紀原本ホツマツタヱ第6章22に…。😄
蝦夷は江戸時代以前はロシアだったので地図に含まれていませんね
ロシアではありませんよ。江戸時代にロシアはシベリアへと領土を拡張します。やがてベーリング海峡に到達して(シベリアの東端に達した)、次は南下を始めます。それが江戸時代末期。ロシアの南下により、幕府も蝦夷地の調査に乗り出し、それまで大陸の半島かと思われていた樺太(サハリン)が島であることを間宮林蔵が発見します。江戸時代を通じて北海道の南端は日本の松前藩が置かれていて、松前藩以外の北海道の大半やサハリン、千島列島にはアイヌやニブヒ、ウィルタなどの先住民族が住んでいた土地であり、ロシアにも日本にも属していませんでした。幕末にはサハリンは日露混在の島となっていて国境もどちらの領有かもはっきりしていませんでした。明治以降、サハリン全島をロシア、千島列島すべてを日本が領有することになったり、ミナミ樺太が日本のものとなったり、第二次大戦の後に領有を争うことになったりしましたが、少なくとも北海道がロシアだったことはありません。
蝦夷は日本領
@@user-xl3xy8ll4d 違いますタルタリア領
@@user-xl3xy8ll4d 鹿児島、沖縄と南に行けば行くほど訛りがきつくなっていますね?北も福島、青森と北に行けば行くほど訛りがきつくなっていますしかし北海道の住人は標準語とまでは行かないが言葉が綺麗です道民からみたら津軽弁は外国でしょう明治からですよ本州から住み着いたのはそれまでは先住民族アイヌが住みタルタリア(ロシア)の領土でした
@@MAX-nj5bo アイヌは先住民族ではないです。アイヌがある程度確定したのは13世紀ごろだったかな縄文人とオホーツク文化圏の混血。オホーツク文化圏に蹂躙されて混じった結果。 単語には古日本語に通ずるものがあるようにも感じるものもあるが、文法体系がまるで違うのは文化が塗り替えられた結果でしょう。 その前、先住は縄文人です。系統として日本列島の民族で現日本人の先祖が元々は東北から北海道という蝦夷地域に居たわけですね 朝廷とは距離を取っていて時折朝廷勢力と争いながらも交易をしていた人たちです。 あなたの言い分を勘案すれば、タルタリアに占領されていたところを奪還したそう解釈も出来ます。まぁ都合の良い事ですが、大和の朝廷が全国を知らす前の縄文時代や弥生時代において同じ民族で交流の有った同じ日本列島の縄文文明文化圏に属していました。なので日本領というのもある種の間違いではありません。人の歴史はそんなものです。 奪還後に植民したので方言が希薄で、特に札幌圏では特に綺麗な標準語だと言われていますね。それはその通りでしょう。ただし入植した各藩の色や言葉は各地にあると思います。と言っても地方に行けばどぎつい放言が無くても年寄り訛りはまだ残っていますね。まぁよく津軽弁や沖縄弁が通じない方言で取り上げられますけど方言については若者に放言訛りが少ないのはTVの影響明治に日本全国で標準語が制定された江戸時代の参勤交代で全国の交流がなされ方言が緩和この三弾があって現在の日本人は全国どこでもある程度会話が成立できる状態になったのですよ。北海道は他文化に蹂躙されたせいで毛色の違う文化が形成されたわけだが江戸時代初期までは欧州の各国言語ほど日本の方言は離れていたと言われている 地理的距離で津軽弁が通じないから別文化圏だった。よって日本領ではないという論法が混じっているのでしょうけど まぁそもそも別文化に占領されたのですからそうなるでしょうね。では、そうなったのは何時でその前はどうだったかが抜けていて、アイヌを先住だというのはそれはそれで早計だとも考えられます。
お疲れ様です。優しい語りと、はっきりとした口調、実にいいですね~👍。行基の一生を懸けた一大プロジエクト、素晴らしいですね。大変勉強になりました。ありがとうございました🙇。
太古からこの感覚でそもそもの地図作成を渡来の知識でしてたとしたら卑弥呼のお墓の場所が変わりそう…
「行基図は京都を起点に描かれているから奈良時代に描かれたものではない」とするこの動画の解説は、重大な事柄を見落としていて、間違いです。日本の経済の中心地は、奈良時代から京都でした。そして、正確な地図を作成して持っていたのは、渡来氏族の交易武家商人の秦氏の統領の家=蘇我の宗家なのです。
もちろん、
国記や天皇記も蘇我本宗家が持っていました。
まずは、日本の経済を支配する渡来氏族の秦氏の実態の確認が必要です。京都の御所は秦氏の統領の屋敷の跡に建っていることからも明らかなように、京の都の基礎を築いたのは秦氏であり“国譲り”している皇室最大のスポンサーです。
秦氏の支配階級は父方がコーカソイド系の交易武家商人で、シルクロードの交易を仕切るのが家業ですから、日本国内でも一箇所に腰を据えて定住することはあまりありません。ある程度都市開発した京都を縄文系の皇室に譲っているのも、交易を家業とする集団だからです。
秦氏は、太秦(うずまさ)の故事=絹を全国から集めて堆く積んだエピソードからも明らかなように、太秦=ローマ系の交易武家商人=エクィテスの末裔と認識してシルクロードの交易を行い、巨万の富を得ていました。
秦氏の支配階級の祖先は素戔嗚とされますが、この牛神は大陸の山東半島付近では蚩尤や兵主神の名で祭祀されています。臨淄遺跡からは2500年前のコーカソイド系の人骨が数多く出ていますが、現在の秦氏の統領の家の者とDNAが一致することから、祖先が構えた商業都市だったことは確実視されています。
牛神の素戔嗚はシルクロードの西側のウガリットではバアルの名で祭られ、インド&イラン共通文明時代には、ルドラ・シヴァの名でも祭祀されていました。インドから仏教が伝わって神道と習合したことは有名ですが、仏教が誕生する以前の古いインドの宗教が日本に入ってきて、神道に組み込まれていることは、時代が古いためあまり認識されていないようです。
シルクロードの西側での牛神信仰はユダヤ教の成立以前に遡るので、秦氏がユダヤ教徒という偽史作家達の主張は通用しません。もしもユダヤ教徒がバアルの子孫ならば、ユダヤ人がバアルのことを蠅の悪魔の王と罵る事実と話が合いません。素戔嗚=バアルの子孫の秦氏とユダヤ教徒は、明確に線引き可能なルーツが異なる別者なのです。
旧約聖書は、シュメールやウガリットの流れを汲むため、共通性が見られるというだけです。
素戔嗚を奉斎する交易商人の一団の秦氏は、天の安川に宮を構えていた天照大神の奉斎集団と接触しますが、最初は領土を奪いに来たのではないかと疑われてしまいます。領土的野心を持たない商人の集団だと理解してもらうために、素戔嗚は天照大神に誓(うけい)=奉斎集団同士の神婚を申し出て大和しています。
その結果素戔嗚の奉斎集団は、妻問婚をするのに相応しい三つの母系の家を見い出し、天照大神の奉斎集団は、妻問婚を受け入れるのに相応しい五つの父系の家を見い出しています。
シルクロードの交易を支配した秦氏の支配階級が天照大神の奉斎集団=息長氏の姬姓斎皇家に妻問婚した理由は幾つかありますが、シルクロードの交易品の中でも最高級に位置付けられた小石丸系の三眠蚕のシルクを生産する社家だったことが最大の理由です。
馬王堆漢墓から蝉の翅のように軽くて薄い単が出土していますが、中国の職人が再現しようとして失敗しています。現代の中国産の四眠蚕が吐く糸は太すぎて、到底不可能と判明しました。ところが、天の羽衣伝説を生み出した日本の小石丸系の三眠蚕が吐く糸は細いため、軽くて薄くてきめ細く肌触りが良くしなやかな極上のシルクを織ることが可能なのです。吉野ヶ里遺跡からも三眠蚕のシルクは出土しています。
レジェンド級のシルクを扱うことは、シルクロードを征する交易武家商人にとってステータスですから、姬姓斎皇家への妻問婚は特別な意味を持っていました。
息長氏の姬姓斎皇家は、神功皇后=息長帯姬&応神天皇&継体天皇などを輩出したことから、皇統を産み出した最も尊い母方の家とされ、天武天皇は遁甲の発想で忌家として存在を隠して護るように内々に命じています。
日本の国姓は“姬”とされますが、皇室は姓を持っていません。この点については日本書紀などにいっさい記述がありませんが、朝廷が編纂した日本書紀読解の参考書“日本書紀私記”の問答集では、天照大神と神功皇后の名を挙げて講師が答えを示しています。つまり、天照大神の祭祀を行う神功皇后=息長帯姬の一族=日の巫女の王の家が、日本の国姓を母系継承しており、祭政一致体制の神託統治が行われてきた神国日本の中枢に位置するということです。
父系の継承を重んじる皇室の祖先が女神の天照大神とされるのも、妻問婚の母系社会の名残りです。どんなに高貴な家であろうと、ルーツを辿れば母方の家に行き着くのです。姬姓斎皇家から見れば皇室は多くの父系の家と同じく入婿の分家となります。
かぐや姬は、藤原不比等以下、朝廷のプレイボーイ達の求婚を、あの途方もない“恐怖の御強請り”によって悉く退けていますが、唯一例外的にシルクロードの交易を征した秦氏の支配階級ならば、レジェンド級の贈り物を用意して妻問婚を達成できます。天皇の求婚を簡単に断っていながら、その後もせっせと天皇と文通できるほど高貴な御身分の御姬様は、斎皇陛下以外に考えられません。
蘇我と書いても素戔と書いてもソガと読みます。出雲大社で素戔嗚を祀る素鵞社(そがのやしろ)からも明らかなように、蘇我氏の正体は素戔嗚直系の子孫とされる姬姓斎皇家育ちの男衆です。
蘇我馬子は、激しい敵意を向けてきた天皇=大王の排除を部下に命じて達成していますが、誰一人これをクーデターと認識していません。皇統母の家で生まれた男子なので、大王と身分は同格なのです。蘇我氏の者で冠位十二階を授かった者がいないのも、身分が天皇の臣下ではないからです。聖徳太子の部下に秦氏がいるのも同族だから当然ですね。
天智天皇よりも天武天皇の方が歳上なのに、表向きは弟とされているのは、天智天皇は蘇我馬子の孫、天武天皇は曽孫だからです。
蘇我本宗家の滅亡は子孫を戒めるための“屠蘇説話”であって、実際には滅亡などしていません。
姬姓斎皇家を構成する御三家は宗像三女神として祭祀されています。それに対して秦氏側の御五家は藤原氏へとその立場を譲られて、五摂家として現代まで伝わっています。
素戔嗚の子孫の大国主の国譲りを見ても明らかですが、妻問婚に必要な世にも珍しい品を求めて交易の旅をすることが重要な秦氏の支配階級は、殆ど一箇所に居着かず、他の有力者に支配権を譲って統治を委ねる傾向があるのです。
ただし、
交易に必要な鉄器や貴金属や翡翠や辰砂などを生産するための鉱山技師や加工業を営む人々は定住して、考古学的な痕跡を残しています。
つづく。
奈良の都を守護するように描かれた巨大図形として、畿内の大五芒星が有名です。
この図形は、一辺が1緯度の長さ=約111キロメートルの正五角形をもとにしていますが、奈良の都を中心として三角測量すると得られる正三角形を五つ組み合わせることでも得られます。
古墳なども、正確に測量しないと形が歪むため、三角測量の結果得られる正三角形&五角形を内包しています。
畿内の大五芒星の角頂点には、皇室を取り囲む鉱山を営む五大豪族の氏神を祀る神社と神体山が配置されています。
たとえば伊勢神宮には、紀州の丹土=辰砂の鉱山を営む丹生氏が奉斎する丹生都比売=丹生つ日女が祀られています。天野盆地は紀州の高天原とされ、息長氏の姬姓斎皇家の御三家の一つの斎宮がかつてあった場所です。
畿内の大五芒星が1緯度長で描かれているということは、各神社を創建した時代の朝廷の担当者&神道関係者には、地球の大きさが分かっていたことになります。
姬姓斎皇家の地下神蔵には、算木を用いた測量計算の算額が奉納されて残っています。地球を正二十面体として近似的に扱う考え方があったことも分かります。
また、
富士山と同じ緯度の奈良から見て西の等距離に出雲大社が建てられているので、富士山と奈良と出雲大社の位置関係を正確に測量して把握する技術があったことも明らかです。
地球の大きさを求める方法はエジプト人が見い出しているので、それが日本に伝わったと見て良いでしょう。
秦の都と奈良や京都の緯度が近いのも、偶然ではなく、天下を治める世界の中心はこの緯度にあるべき、という認識の結果のようです。
秦の始皇帝の兵馬俑はペルシャ式の軍団編成。そして「始皇帝の本当の父親は呂不韋ではないのか?」という噂があることからも明らかなように、秦による中華圏の統一に、シルクロードの交易を征した交易武家商人の秦氏が大きく関わっていたことは明らかです。
近畿の大五芒星を描いて奈良の都の守護とする高度な測量術を持っていた交易武家商人の秦氏が、巨大な凸面鏡の裏面に彫刻した日本地図を製作して姬姓斎皇家に奉納していますが、伊能忠敬の平面に記された歪んだ日本地図と違って、地球の正確な曲率の上に立体的に描かれているため、現代の日本地図に匹敵する精度が出ています。
姬姓斎皇家傘下のとある私立の学園グループの教授陣は、紀元前500年ぐらいに、カラクリを備えた天球儀や現存していない地球儀とともに日本地図が造られたと推測しています。
妻問婚社会では、生まれた子供は14歳になるまで母親の家で育てられ、男子ならば父親の家業を継ぐのが一般的です。シルクロードの交易を担う大商人になるには、西域の過酷な環境を踏破できる体力を養う必要があります。秦氏の男衆が基礎体力を付ける目的で創始したのが修験道です。彼らは父方が彫りの深い顔立ちのコーカソイド系+母方も彫りの深い縄文系ですから、鼻が高く見えるため“天狗”と呼ばれました。
「天狗は人を化かす」と言われているのは、姬姓斎皇家が山中の磐座などで非公開神事を行うときには、天狗面を付けた修験者装束の出立ちで、彼らが人々を威嚇して斎場から人払いしていたからです。
お遍路などの風習も、秦氏の修験者から派生していますが、鉱脈に沿った巡回ルートになっているケースが多いようです。
つまり修行と称して修験者の姿で日本全国を歩き回って鉱脈を探査し、発見した鉱脈の位置や方向を伝えるための立体的な測量もしていたことになります。
子供の頃から地球儀を見ながら京都で育った彼らからしてみれば、本物の日本地図は凸面に描かれるべきものですから、平面の紙に筆で描いた簡素な地図は、「おおよその国の配置や目的地が分かれば良い」程度のメモだったようです。
行基の出身地は大阪の商業都市“堺”とされますが、姬州=紀州の高天原とされた天野の斎宮の境内都市群を代表する都市です。姬姓斎皇家に妻問婚した百済の王子の息子が、14歳で斎宮から外に出された後は、百済に帰らず僧になったとも考えられます。
行基が面倒を見ていた母親とされる女性は、姬姓斎皇家の内家の者ではなく、乳母の可能性もあるでしょう。
同じ斎宮で兄弟のように育った秦氏の男子達は商人になったので、行基達が全国から集めた情報をもとに簡略な地図を作るとしたら、当時の物流経済の中心地だった京が中心のほうが自然です。奈良の都は船で容易に物資が運べないので、当時の人々は陸路よりも海路運搬することのほうが多かった交易商人達は苦労していました。秦氏が大阪湾の堺や京都を重視して発展させていったのは当然でしょう。
また、天武天皇は百済や高句麗を滅ぼして新羅を属国とした唐が日本列島を侵略する可能性を考えて、遁甲の書として日本書紀を編纂させたと考えられます。
正確な日本列島の地図を唐の軍師達に入手させてしまっては、日本列島攻略の手掛かりを与えるようなものですから、正確な地図は忌家と定めた姬姓斎皇家の管理下にある地下神蔵の中に秘蔵して、外には出さなかったと思われます。
【天惺靖智】
重要な知識や情報を持っていると知られる事は、いつの時代も一歩間違えると命を狙われます。どれもこれも『行基図』なのも丸っこいのも、その為ではないかと妄想してしまいます。
行基の師は遣唐使の一員であった道昭であり、道明ではないと思います。
いかにも日本の国の成り立ちにふさわしい感じがする。確定は不可能でも、多くのひとのてでつくりあげられてきたのだろう。そして、めくじらたてて追求する必要もないのでしょう。それにしても、ご苦労さまな老作ですよ。ある意味、伊能忠敬さんより、大変だったかも。こんなご先祖を持つ日本人は幸せだ。
面白い課題を扱って頂き、有難う御座いました。個々の地図は当然、行基が作成しては居りませんが、最初の地図は行基が関わって居り、その後その改訂版と云う意味で、行基の名前が使われたのだと思います。謂わばブランドです。
地図に「行基」とあるのを、いにしへの僧名人名とこだわる二文字ではなさそう。地図なのだから、「行く(ところ)の基(もと)」ぐらいの字義・意味で取ってもつじつまは合う。「行基図」つまり、行脚(旅)するときに基(もと)に使える図、の意味で皆が代々つけた名称でないのかなぁ?
全国に行基伝説は山ほどあって、行基作とされる仏像が何体も残ってる
@@りか-d4h 「行基」という普通名詞と取ると、数の多さにもツジツマは合う。そりゃ僧「行基」作なのかも知れないけどね。
@@seorituhime.
高野聖が全国を行脚して弘法大師伝説(お大師さまが杖ついたら水が出た、湯が湧いた、開山した)を広めたような事が行基でも行われていたと推測する。本人も行脚したけど弟子も全国に散ったのかもしれない。それにしても行基さんの伝承と仏像は数が多いんですよ。自分も幾つか知ってる。
@@りか-d4h 行基様は、沢山の仏像を作ってますからね。
池を作り堤防を作り、その他にも様々な社会事業を成し遂げ、又、貧しい人々に食事と宿泊場所を与え民衆の人気も鰻登り、行基様を恐れた朝廷は、一時は小僧呼ばわりで弾圧してました。
聖武天皇が帰依し東大寺の建立を請負いました。
調べれば調べる程過去の聖者の中で抜群の業績を上げているにも関わらず、知っている人の、少なさです。
故意に無視かな。
弘法大師は様々な業績を上げていますが、シナ留学中に様々な国の知識を身に着けた様に思えます。
当時のシナは国際国家でしたからローマ、ギリシャ、インドから流入してきた人々の、思想、学問があったようです。
それを短期間で学んでいた弘法大師も凄い方です。
キリスト教にも造詣が深かったとか。
日本の覚醒者達の業績は並外れています。
キリスト教も回教徒もいらない程の賢者達の存在、これが我が日本なんだとしみじみ思います。
「基もと」ニシテ「行い」ク「図」。ととってもいいし。「行」クニ「基」トス図、とも読めるっちゃ読めるんだけど、学者さんたちは、「そんな前例はない」とか、「その時代には、そう読んでる事例はない」とか、「そうは読まないと○○先生がいってる」みたいな反応をしているかぎり、「真実の日本史」にはたどり着けない。
興味深く視聴致しました。☆
奈良の春日大社境内・飛火野で「行基さん大感謝祭」が開催されます。
令和5年(2023年)11月12日です。☆
ご興味がございましたら、詳しいことはホームページをご覧ください。☆
いい年こいて恥ずかしながら名前だけしか認識が有りませんでした。
人物に焦点を当てた歴史は面白いですね。年表覚えるだけの何関心も持てなかった
社会科がこれ程面白いとは気付くのに数十年遅かった。
街道を歩くだけでは地図作製はほぼ無理。当時の国を歩き回り地図作製は考えられない。
徒歩で海岸線・山道を歩き切るには(道なき道を)どれ程の歳月が必要か想像もつかない。
そして飲食・ねぐら確保はどうやって。各国府の支援・情報が無ければ生涯捧げても無理な気がします。
仰る通り簡易図が有り、それを元に情報を集めたと言うのが事実の様な気がします。
当時はロシアそのものがまだなかった時代だからな。
この地図では薩摩の先に日向があります。やはり邪馬台国は初め日向の山中にあったのかも😊そして勢力を増すにつれ近畿に近付いて行ったんだろうな😊
伊能忠敬が。天文観測で経度をどのように測ったのでしょうか。初めて聞きました。
教えて。
漫画になってるよ!うろ覚えだけど計測方法出てたよ。自分の歩幅を固定、その歩幅で歩けるように練習してるシーンしか覚えてないけど。
伊能図の正確さから考えてすべての個所について、1通りではなく複数通りの測量法で適宜修正を加えつつ進んだのではないかな?一行が数里いな数尺進むごとに計測と記録とをただただ繰り返したのだろう。とうぜん前班と後班に分かれてキョリを一定に保ちつつ、時刻と月日の角度など正確に計測計算しつつ。初日に定めた基点からの角度と距離は地上で手間はかかるが、なんとか3角形などを縦に横に描き山の高さなど修正しながら進んだのだと思う。GPSは「縦」を時間秒に変換してるけど、それができないだけだから「計測回数」さえむちゃくちゃたくさんすれば、なんとかなったのだと思う。
イエズス会が言えてないw
それにしても行基様を知らない人が多すぎる。
彼がやった事業を見ると、その知識はどこから来たのだろうかと疑問に思う。
私の家では行基様から頂いたと言われている仏像があるが、先祖様はこの菩薩様に戦争などで度々奇跡的に助けられたと伝わっています。
秘仏として年数回しか公開してませんが、本当に不思議な仏像です。
間違った生き方をしていると、冷や汗が流るくらい、恐ろしく見えます。
浅い見識見解だなぁ
いや、表現が醜い
人の知識なんて
放射の如く
知らない人がいて当たり前
その方々は
他のことを知っている
@@21kai5
後頭部にブーメラン刺さっとるよ
うちの先祖が代々守るお堂の仏像も行基作なんですよ。でも1200年頃までしか歴史を遡れないのです。
確かに著名な方なのに知名度は低いですね。生駒の竹林寺さんとか人いません…。寂しいですね。
@@りか-d4h
自分の投げたブーメランは
後頭部に刺さらないから
ご心配無用w
@@21kai5
すごい!王毅共産党政治局員兼外相の外交みたいな台詞だね!
元は819BC高度上空より描かれた…答えは記紀原本ホツマツタヱ第6章22に…。😄
蝦夷は江戸時代以前はロシアだったので地図に含まれていませんね
ロシアではありませんよ。
江戸時代にロシアはシベリアへと領土を拡張します。
やがてベーリング海峡に到達して(シベリアの東端に達した)、次は南下を始めます。それが江戸時代末期。
ロシアの南下により、幕府も蝦夷地の調査に乗り出し、それまで大陸の半島かと思われていた樺太(サハリン)が島であることを間宮林蔵が発見します。
江戸時代を通じて北海道の南端は日本の松前藩が置かれていて、松前藩以外の北海道の大半やサハリン、千島列島にはアイヌやニブヒ、ウィルタなどの先住民族が住んでいた土地であり、ロシアにも日本にも属していませんでした。
幕末にはサハリンは日露混在の島となっていて国境もどちらの領有かもはっきりしていませんでした。
明治以降、サハリン全島をロシア、千島列島すべてを日本が領有することになったり、ミナミ樺太が日本のものとなったり、第二次大戦の後に領有を争うことになったりしましたが、少なくとも北海道がロシアだったことはありません。
蝦夷は日本領
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違います
タルタリア領
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鹿児島、沖縄と南に行けば行くほど訛りがきつくなっていますね?
北も福島、青森と北に行けば行くほど訛りがきつくなっています
しかし北海道の住人は標準語とまでは行かないが言葉が綺麗です
道民からみたら津軽弁は外国でしょう
明治からですよ
本州から住み着いたのは
それまでは先住民族アイヌが住み
タルタリア(ロシア)の領土でした
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アイヌは先住民族ではないです。
アイヌがある程度確定したのは13世紀ごろだったかな
縄文人とオホーツク文化圏の混血。オホーツク文化圏に蹂躙されて混じった結果。
単語には古日本語に通ずるものがあるようにも感じるものもあるが、文法体系がまるで違うのは文化が塗り替えられた結果でしょう。
その前、先住は縄文人です。系統として日本列島の民族で現日本人の先祖が元々は東北から北海道という蝦夷地域に居たわけですね
朝廷とは距離を取っていて時折朝廷勢力と争いながらも交易をしていた人たちです。
あなたの言い分を勘案すれば、タルタリアに占領されていたところを奪還したそう解釈も出来ます。まぁ都合の良い事ですが、大和の朝廷が全国を知らす前の縄文時代や弥生時代において同じ民族で交流の有った同じ日本列島の縄文文明文化圏に属していました。なので日本領というのもある種の間違いではありません。人の歴史はそんなものです。
奪還後に植民したので方言が希薄で、特に札幌圏では特に綺麗な標準語だと言われていますね。それはその通りでしょう。ただし入植した各藩の色や言葉は各地にあると思います。と言っても地方に行けばどぎつい放言が無くても年寄り訛りはまだ残っていますね。
まぁよく津軽弁や沖縄弁が通じない方言で取り上げられますけど
方言については
若者に放言訛りが少ないのはTVの影響
明治に日本全国で標準語が制定された
江戸時代の参勤交代で全国の交流がなされ方言が緩和
この三弾があって現在の日本人は全国どこでもある程度会話が成立できる状態になったのですよ。
北海道は他文化に蹂躙されたせいで毛色の違う文化が形成されたわけだが
江戸時代初期までは欧州の各国言語ほど日本の方言は離れていたと言われている
地理的距離で津軽弁が通じないから別文化圏だった。よって日本領ではないという論法が混じっているのでしょうけど
まぁそもそも別文化に占領されたのですからそうなるでしょうね。
では、そうなったのは何時でその前はどうだったかが抜けていて、アイヌを先住だというのはそれはそれで早計だとも考えられます。
お疲れ様です。
優しい語りと、はっきりとした口調、実にいいですね~👍。行基の一生を懸けた一大プロジエクト、素晴らしいですね。大変勉強になりました。ありがとうございました🙇。