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凄いの一言につきます。竹田さん凄い
2600年を強弁しなかったのに高評価。
いろんなことが腑に落ちました!
BC660年2月11日を暦サイトで入力したら日本書紀の記述通り「辛酉の年庚辰の日」になりました。他にも奈良の橿原では2600年±200年前のイチイガシが出土したり、神武東征に出てくる奈良の地名が昔あった湖のほとりの縄文遺跡の場所だったり、浜名湖のようになってた大阪の河内の記述があったり、そのまんま信用はできませんが色々神武天皇の足跡が残されていますね
竹田さん。長浜浩明さんはご存知ですか?彼と神武天皇の東征年について、いつか対談して下さい。長浜さんは理系の建築&土木技師さんです。彼は大阪平野が元々海だったところから、徐々に陸に変わる大阪湾の変遷を詳しく調べていて、BC1050年~BC50 年までの間に存在した「河内潟の時代」にこそ神武天皇は東征された主張されています。理由は書記にある「難波碕に着こうとする時、速い潮流があって、大変早く着いた」との記述を重視しています。この記述はまさに、河内潟の時代であればこそ、磐余彦命のご一行が実現させる事が可能なんだそうです。つまり河内潟の狭い開口部から流入する潮流に乗って、一気に潟の内部に侵入し難波碕に着いたという様子であり、この時代の前であっても、後であっても、書記の記述の行動は不可能なんだそうです。つまりこの書記の記述こそが、科学的証明の根拠となり、ピッタリと推定する時代に合うそうです。【古代日本「謎」の時代を解き明かす神武天皇即位は紀元前70年だった!】著書:長浜浩明
神武天皇が即位されたのは紀元前60年です。 神武天皇は紀元前107に生まれ45年に崩御され畝傍山北稜に葬られました。 このことは池田任三氏著の画像解析によって判明した古墳墓碑に掲載されています。
長浜浩明氏によれば、神武東征を紀元前70年とすれば、記紀の記述(春秋年)とも、大阪平野の発達史ともピタリと合致する。非常に説得力があるこの説が中々認められない史学界に、病があると感じる。
病というより、何か重大な問題があるのではと感じる。
チャンネル登録済みました。大変勉強になりました。
神宮は2000年前に今の伊勢に鎮座と聞いていますが本当は何年なんですか。
春秋年説に納得です。
大昔の年は収穫するたびに年代わりなので、西日本は2期作なので2倍となっています。これは、小名木善行さん、長浜浩明さんも述べています。
二倍年歴説はデマですよ。「日本書紀」の記述を見れば分かります。もしもそれが採用されているのならば、隔年で例えば1~6月の記述、7~12月の記述になっていないとおかしいですが、そんな話にはなっていませんから「魏略」の魚豢がガセネタを掴まされたということでしょう(*^^)v
刮目天一 けどまあ、半分にすればちょうど良くなるのよな。
いつも竹田学校を拝聴しています。春秋年(二倍年歴)の解説ありがとうございました神武天皇は 一世紀前後のお方とのこと一方「後漢書 倭伝」に建武中元二年(AD57) 倭奴国(ゐどこく)貢を奉って朝賀す 光武賜うに印綬を以ってす (有名な志賀島の金印) 『漢 倭奴 国王』AD57年だとすると 神武天皇は この金印(or金印を押した布or板)を実見したかも知れません。少なくとも「倭」という 漢字を見て 文字を知っていたと推察できます。【この金印は 元々 細石(さざれいし)神社の御神宝だったが 江戸時代藩主が取り上げたという異説があります】 【参考】「二倍年歴」「倭人伝」に魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀「魏略いわく、その習俗では正月(陰暦)や四節を知らない。ただ春に耕し、秋に収穫したことを数えて年紀としている
九州にある地名と同じ地名が奈良にも多数有るようなのですが、関係性を調べると面白そうですね。
神武東征を、1世紀前後にスライドすると、考古学的にはいろいろ辻褄が合うみたいに感じますね
最近古事記、日本書記の研究が見直されています戦前に記載されて、正しいものでも否定され、歴代天皇の一部はいなかった、神話の時代と茶化されていますがその神話でも土地土地によって伝承された話が最近の研究発掘で実証されるものが沢山出て来ていますから、一概に神話のを否定しない方が賢明です。例えば古事記、日本書記の神話と伝承された出雲大社の社殿は神話の時代、高層建物だったいう伝承が、最近の境内発掘で実証されました。巨大な丸太を三本束ねて一本にし、それを随所に巡らせて土台にし、その上に社殿を乗せ、階段は緩やかに設けていて現在の丸の内にある丸ビルに指摘するほどの建物だったことがわかりました。ですから一概に神話の時代の話でと片付けない方が賢明です。大阪周辺の天皇稜の発掘を行えば古事記、日本書記の記載が実証される可能性が大であり、先般神武天皇稜の一部を発掘許可され調査した前方後円墳は樹木が無いのが理想なお墓で墳墓本来の姿です。神武天皇稜も歴史の伝承でなく墓の主の銘板が実証されると思います。また初代天皇神武天皇も実在の可能性があるようです。さらなる進展を期待しています。この神功皇后はほぼ実在の可能性が高いようです。戦後の左派系の学者の歴史証も段々否定され始めています。その当時の年齢の計測は一年を二分割でやっていたようで、例:123歳の神武天皇は60歳~61歳と言う事になります。
世界的に見れば当時春秋年(2倍年暦)は珍しくなかったそうですね。
私は紀元前100年頃のお生まれで、紀元前70年頃に大阪平野に突入という説を信じています。 「記紀」に描かれる神武天皇の大阪突入の風景が「記紀」に掛かれていて、又、おおさか平野の歴史を見ると、紀元前70年頃が良く似ているという事です。古代、大阪平野は海であり、沼地になり、湖になり、平野になったと言う歴史から、「記紀」書かれる、大阪・上町台地の北端より侵入しようとすれば、沼地であった(所々は湖)頃しかないからです。大阪平野が長年の川からの土砂が運ばれ埋め立てられると言う歴史から、神武天皇の大阪突入時は大阪平野と大阪湾が満潮・干潮時に海水と川の水が行き来していた頃で、満潮時に突入して日下まで船で乗り進めるんです。「記紀」には川の流れに逆らって日下に進むという写実が書かれています。海・湖の時代なら長れなどありませんからね。そして湖の最後の時代に仁徳天皇により、大阪城南に大川の開削があります。そして湖の水が抜けて後大阪平野の出来上がりになります。なので現在でも「島」と名乗る土地が残っています。
長浜浩明氏も唱えているその論が自分も最も説得力のある説明だと思います。
欽明天皇の時代に暦博士が来ていますから、それ以前は春秋暦だったのではないだろうか。各天皇の御即位の年齢も半分で計算するほうがしっくり来ることが多い。神武東征開始も書紀には45歳の時となっているが、半分だと20代前半でお若い頃となる。
祖母が紀元2600年とお祝いをしたと話しておりました。当時自分は日本の歴史を知らず紀元は西暦だと祖母の話を何かの勘違いだと思っておりましたが、当時日本の建国2600年のお祝いをしたということでした。2700年が近付いて来ましたが、それまでには日本の建国を国を上げて堂々とお祝いするような世の中になっていて欲しいです。実際の年代が違っていたとしても、日本は建国2700年ですと内外に大いに発信して欲しいです。日本は世界に誇れる国だと。
九州での火山の噴火が神武東征につながったか(20:00)という話。食料生産が減って争いが増えて九州を出奔した。ありそうな感じもする。神武は4人兄弟なのに九州を出たのはイツセと二人だけなのも食い扶持減らしな印象も。
いろいろな考察があって当然でしょう。明治時代に、単純に足し算した、ということが皇室への敬意からだとは思いますが学問的には問題だと考えます。むしろ今後さまざまな学問的見地から議論が活発化することこそが皇室への敬意につながると思います。
二倍歴は50年も前から、安本美典、古田武彦が主張している。安本氏は宮中や各地に残る神事や、祝詞、風土記、万葉歌など12の例を挙げて、春秋二期説を支持している。また、古事記に崩御日が記されている天皇(成務-ー允恭、雄略、継体、安閑、敏達-推古)は13人がいるが、崩御日はいずれも月のうち15日以内であること根拠に、新月から満月までをひと月、満月から新月までをひと月と数えていたのではないかと推定している。
魏志倭人伝には「其人寿考 或百年或八九十年=その人々は長寿で、あるいは百歳、あるいは八・九十歳」とあります。あくまで参考までに。
長浜先生の著書によると難波から白肩の津へ至ったルートは古代河内湖の地形のある時期に一致するそうです。細かい話は忘れましたが帰ってからもう一度読み直します。古代史が面白いです
春秋年説はまだしも、神武東征に関する長浜氏の説は信じすぎちゃいけませんよ。日本書紀原文には「川を遡って」などという記述はありませんから。そう訳しているのは、講談社出版の宇治谷孟氏本のみです。宇治谷氏自身も、「手軽に読める現代語訳」を目指したと明記しており、情景をイメージしやすいように所々原文に無い記述を挿入しています。現代語訳されたものしか読みたくないと言うのなら、せめていくつかの現代語訳を突き合わせて考えるべきなのに、長浜氏はそれをしていません。残念ながら、本当に歴史について何か主張することは、原文を自分で読むことでしか成せないと心得るべきです。
春秋説の名残が‥日本のあちこちにある山の神信仰とかと言う話を‥昔聞いていた事があった‥春‥山の神が田に降り立ち‥お田の神となり‥稲刈りが終わると山へと帰り‥山の神になるとか‥それで古代の日本では‥農繁期と農閑期で二年とかと言う話でしたね‥
皇室は、「いつが初代なのかよくわからない」ことが尊いしすごいんだと思う。歴史がはっきりする前から存在していたのだから、それがすごい。
わからないことはわからない。尊くもスゴくもない。
むしろアホじゃん、良くわからん迷信を有難がって。
@@YANAGITAtokinori3年も前のコメントにする返信じゃないかもしれんが、そりゃただ「何もわからねえ」だけの状態は凄くねえよそういう「起源がわからない」ということ自体が凄くて尊いのではなくて「起源がハッキリとわからないくらい昔」という事が凄いんだぞ
殆どの国において建国の際の歴史が曖昧で、よくわからないことは当たり前で、別に凄いことではない。
長浜浩明氏の動画と書籍で、当時は春秋年を採用していて、紀元前後に即位したと大体知ってたけど火山活動が東征の原因かもという視点は面白かった。
昔は一年で二年と数えたっていうのはありそうですね!春と秋の収穫で二回。とても納得できる説です!私も昔の天皇は100歳も生きていられる?もしかして血縁者で影武者のような方もいたのかな?と考えていましたが、これは納得です。
オススメに流れて来たのを視聴させて頂いたので随分と時間が経っていて今更と思われるかも知れませんが、取り敢えず共有だけしておきたい事はこちらに残しておきます。竹田さんの説明は理路整然としていて最近歴史の再勉強をしている身としては他にもこの様な歴史関連の動画を上げている方の中でも思想に拠らず恣意的な歴史歪曲をせずに事実のみを追及している方々の仰られている事と非常に重なる部分があり、納得する物でした。しかし、一つ忘れてはならない事があります。それは神武天皇の東征の歴史的見地に於ける真実性に関して、どうやら学会ではかなり疑問視されているという話しを聞きました。とある方はこの点について古事記と日本書紀の記述を基に当時の地形や海洋条件の視点からの解明を試みられており、その結果神武天皇の(船での)大阪入りの実現性は紀元前50~1050年の間の大阪の海の状況であれば、記述通り船に乗ったまま河口から遡上して大阪の内陸部へと進み、川から上陸したとする記載に矛盾しない、即ちその後日本史上初めて天皇として即位した神武天皇の即位年は紀元前50年である、とされていました。個人的にはもう少し前ではと思いますが、まあその動画主さんの説を完全に信じるならという前提なら数年くらいの差なら誤差ですので然程問題は無いとも考えています。(実際には更にもう少し前だったのではと思っていますが素人考えなので全く当てになりません)つまり、紀元1世紀の人というよりは紀元前1世紀の人、というのが可能性としては大きいかも知れない、という話しです。もしもこちらのコメントを見る機会があったとして、いつか神武天皇の東征、特に大阪上陸についてをやって頂きたいです。私が前述した様な話しに関しての見解やその可能性、もし2000~2100年余り前の地形や海流状況、また気象等諸々の条件も含めた前提で考えた結果等も是非一度お聞きしたいと思っています。下らないと一笑に付されるかも知れませんが、こういう話しもありますよという情報共有が一番なので、伝わっていれば勿論それで構いません。
春秋年!なるほど。納得です。日本人だから、変に話を盛ったりしないだろうしと不思議に思っていたんですよね。
1年で2年分の年か?140才なんてあり得んからな❗ありがとうございます。
記紀を否定する説は聖徳太子にしろすぐ採用されるのに、肯定する説は物証や地質学的な整合性がでてきても採用されないのはどういうことだろう?普通に考えて聖徳太子とか発行の数十年前の人物だからとても捏造できるとは思えないけど
神武東征に限らず、九州から植民が行われると植民地には鉄器と製鉄技術が持ち込まれるので植民先で急に鉄器が出土が増えはじめるという現象が起こると思います。奈良県で急に鉄器が出土しはじめるのは3世紀からなので、その少し前、2世紀後半頃に神武東征があったのではないかと思います。2世紀後半は九州では倭国大乱が起こっていた時期なので、記紀の記述通り戦乱を避けたかったのではないでしょうか?天皇の在位に関しては日本書紀は外交用に装飾する度合いが高かったのであまりあてにならないと思っています。日本書紀より装飾の度合いが低い古事記だと崇神天皇の没年の干支は戊寅、西暦318年(258年の可能性もある)ここから10代遡ったあたりが神武天皇が即位した時期に近いのではないかと思います。一代あたりの在位年数ですが、即位した年がはっきりしている継体天皇から孝明天皇までの平均在位年数は約14年。崇神天皇の没年318年の140年前の西暦178年あたりではないかと推測します。
合ってるかどうかはわからないけど、そういうアプローチの思考が非常に好き
八木荘司説の181年とかなり近い
河内に水田稲作が伝来したのがちょうど-660年頃で、河内の地形が神武東征できる地形だったのもちょうど-660年頃だったから河内に水田稲作を伝来させたのが神武天皇だったのでは?!
鶴見岳は由布岳の隣です。大分県と宮崎県の境にあるのは祖母山と傾山です。
年数など、とても納得できる数字だと思います。とはいえ、創世記にも異様に長寿な人々の名前が並んでおりますし、古代の(有名な)人はなぜそうも長命なのか?についてはまだ「?」な気もするんです。現代の常識では考えられない何かがあったのかもしれません……!そういうIFは歴史にはならないかとは思いますが。あくまで合理的につきつめて考えていった場合、紀元前後になるというのには、ほんと、頷いてしまいました。(ファンタジイ脳ですみません~)
正月を初春というように日本では古来春から新年が始まる。未だに学校も会社も4月から新年度。そんな所に古代の名残があるかと。
>1年で2歳年をとった米作で起きた文明だから、南方の九州だと年に2回米が作れた(二期作)ので、とも言われてますね
好太王碑では現在のソウルあたりまで倭国の軍が侵入してきたと記述があり、これだけ半島内部まで軍を進めた記紀の記述は神功皇后の三韓征伐しかなく、記紀と考古学的な編年の比較の基準はここになるかと思います。最近の纒向遺跡の発掘結果と崇神天皇を関連付ければもう少し遡れそうですが、邪馬台国の扱いも関係してくるので、ここは微妙かな。竹田先生の九州の火山の活動期を基準にした説も鋭いですね!
邪馬台国は大和王権と同時に存在した北部九州の勢力だと思ってください。
⏰今時計を見て、昨日のあれ何時?って思っても、やはり昨日は昨日で時計を見ていないと正確な時間は記録出来ませんよね。天皇の在位期間を正確に記録出来ていないのは、当時暦を知らないからですね。ただし年齢なら「なんとなくわかる」ので在位期間ではなく、単に年齢を足し算して歴に当てはめて遡ると大変なことになる。10歳で天皇になって60歳までやって亡くなる場合や、40歳から50歳までの代もありますからね。
二回あるのはお盆ではなくお彼岸?
日本書紀 読みましたけど、これ各論併記なんですよね。こういう説もある、こういう言い伝えもある、と矛盾しそうなことがたくさん並べてある。その意味では誠実だし、昔の学者たちが古事記より日本書紀を正史として尊重した理由がよくわかります。
天岩戸の神話とも重なるように思います。
歴史よりも重要な事があるからね。歴史って、わざわざ中国に本当の事を教える必要はないんだよね。
…そういう考えもあったかと、目からウロコが出てます。あと、鶴見岳は大分県別府市にあります。
春秋年二倍暦と天皇任期四倍暦なんて話を聞きました。まるで企業が上半期下半期の決算をして、四半期ごとの営業成績と戦略会議をするみたいだなと思いました。そう思うと、創成期の初代の功績はよく残っていて中小企業時代の8代はあまり残っておらず、9代から中興期で規模拡大の過程がよく残っているなんてのはむしろ自然に感じました。
考古学的には神武東征はBC50頃という話が順当だと思います。ただ、だからといって日本の固有暦として「『今年は紀元2680年』と言ったらダメ」と言ってる人が意外に多くて困惑。それなら西暦2020年というのもイエスがぴったり西暦元年生まれなのか、そもそも本当に神の子なのか分からないんだから使えないですわ。
火山爆破指数の略はVEI(Volcanic Explosivity Index)なので念のため。
水田を整備する過程で土地を平らに均していくと大量の土砂が余りますからね。聖帝と称される仁徳天皇の御代では御陵の大きさに見合う面積の水田が開かれたのでしょう。
いきなり、日本各地に同じ古墳が現れる事は不可能。それまでの過程が無いと❗️例えば、創業者が居て、世界の企業まで行くのに、何10年かかる。今でさえ簡単に行かないよ。それが何千年も前にだよ。布石がなければ無理です。
たしか仁徳天皇陵に調査が入ったと思いますけど、あれはどうなったんでしょうか?
お堀のごく一部の調査だけです。吉備地方の埴輪が出土したようですよ
恭子川名 そうなんですね。教えて頂いてありがとうございます。やはり本格的な調査は難しいんですね。。
私は、天皇家存続の為、何代かに渡って継いで行く。フビライ・ハンも同じ事をしました。亡くなったたら同じ名で継いで行く。だから、神武天皇が長生きの事になる。
近現代史の御講義に半藤氏を採用して、又川島史観の再来を秋篠さんは望むのですかね?
10代以降の各天皇も春秋暦で全ての辻褄が合うのであれば成立する話なんですが、どうなんだろうな。
10代どころか・・・20代ぐらいまで100歳超えの天皇が目白押しです。「祟神天皇」「応神天皇」「仁徳天皇」は、すべて100歳超え。むしろ、年齢がおかしいから、「欠史八代」という歴史学界が、上記の天皇の存在を疑わないことが不思議です。まさか、「仁徳天皇」は、中国の文献にある「倭の五王」の1人に相当するから問題なってことですか?わたしは、「欠史八代」といわれる天皇がいたか?いないか?よくわかりません。ただ、日本の文献は、すぐに疑うのに中国の文献を鵜呑みにする歴史学界は、すこし異常だとおもいますね。
歴史は歴史として解き明かしてほしい、個人的には少なくとも神話は入っていると思う
『魏略』曰「其俗不知正歳四節、但計春耕秋収為年紀」という『魏志』倭人伝における裴松之の註記が知られている。つまり倭国では3世紀当時「陰暦」の暦を知らず、春夏秋冬の四季でなくて水田耕作の田植えの時期と収穫の時期を季節の節目として認識していたというのである。これは一年を春夏秋冬という四季で認識していなかったということで一年を二季とみていたことである。一年を二年と見ていたということではない。天皇の年齢については所謂「欠史八代」に該当する天皇の年齢だけが百歳を超えて記録されている訳ではなく、崇神119歳、垂仁139歳、景行143歳、成務107歳、応神111歳、仁徳143歳などとなっている。併し所謂『倭の五王』の時代になると現代人から見ても極端に長寿の天皇の記録はなくなる。これにははっきりした理由が示されなければならない。例えば倭の五王の時代に南朝(宗)から暦を採り入れたとか、其れまでの天皇の年齢が明らかに変化していることが見てとれるからである。私見では干支は60年周期だか上代の日本暦では『ひとは(百)』は60年であってこれを後世の暦を使っていた『記紀』編纂者たちがなぜ干支表記なのか知らずに勘違いして記述したのである。「欠史」時代についても天皇の年齢が信じられないというだけの理由で『日本書紀』の特に上代の記述が「虚構」だと決めつけない方がよい。GHQの指令があった時代に『神代史』を真面目に研究出来なかったとしても、今は学問の自由があるのに邪馬台国論争の低次元な袋小路に陥っているのが現代の日本人である。世論形成でなく学問的探求をしなければならない。
つまり、古代天皇は宇宙人だった⁈(話を聞いていない
うーむ、春秋年をもってしても檀君の1000歳越えは理解し難いですね。
12倍年暦、24倍年暦もあるそうですよ。月の満ち欠けに基づくものだとか。
天皇一番の仕事は豊作祈願。だから亡くなったあと変な人を後継者にするより空位にしてご威光を期待した。つまり死んではいないことにしたとか。飢饉が来るとさすがに誰か新しい人をとなって新天皇が即位した。だから記録上長くなった。一つの自然な解釈に思う。他にも、新天皇が即位したけど若く亡くなってしまうことがあり、縁起が悪いから即位しなかったことにした。結果、先代が退位しなかったことになったが、退位しなかった=生きている、と解釈して後世の人により年齢が長く記録されてしまった。等々。
はじめに神武天皇について簡単にご紹介します。 ※ご存知の方はスルーしてくださいね。 画像引用:月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。 神武天皇は、日本を建国された初代天皇です。 天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫であり 天孫降臨された瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)のひ孫。 ←さっき検索すると書いてありました!!
竹田先生の歴史勉強の中で軍歌の話がありましたので 検索して様々聞いてましたら 当時の国民歌で素晴らしい歌がありますその中から 紀元は2600年のお祝いの歌が当時の映像付きでありました是非紹介してください 紀元2700年のお祝いしてほしい又マニラからシンガポールに向かう兵隊さんの自転車部隊の当時の映像と歌もみつけました すごい人数でマニラ英国から解放して シンガポールへこげこげ自転車部隊 道端で現地のマニラの人達が涙と笑顔て日の丸ちぎれるばかりふって見送る貴重な映像と歌があります 感動ものです 様々映像と歌があります中には 涙で画面が霞みます貴重な映像と軍歌 国民歌です歌の中に 万世一系が良く出てきます 一系で受け継がれた皇室の誇りすみません 今日の勉強と違うコメントですが
マニラ??!!マレーシアの事を言っているのか??
稲作は縄文時代には始まってるよ。当時は陸稲だけどね。大々的に水稲栽培が始まったのが弥生時代だよね。
神武天皇や欠史八代天皇は藤原氏が天皇を古くからあるように権威付けようと作った架空天皇と思われます。なぜなら古事記を書いた物部氏は崇神天皇だけをハツクニシラス初代天皇としているからです。ただし実際の本当の初代は邪馬台国の卑弥呼で北九州であり、2代目の台与が畿内に東遷して崇神天皇になったと思われます。大和朝廷も実際には神武天皇でなく卑弥呼をアマテラスとして祖神として祀っていますから邪馬台国大和朝廷の本当の初代は卑弥呼だと思います。
調べると長浜氏が紀元前70年頃らしいですよ、皇紀では紀元前660年てなるけども、昔は一年を2年に数えてたと中国の古文に書いてますもんね、
日本でまだ元号がない時代に「当年改元」「越年改元」って中国の元号のこと?それとも天皇(大王)の代替わりのこと?後者だとしたら神武~崇神の実年代乖離は10年の誤差にしかならないけど・・・。
数えたのは明治だからかなりズレるのでは?
「九州年号」ってのもあるけど。なかなか興味深い・・・
天皇又は日本人の起源がシュメール文明と類似性があると言う動画をみました竹田先生の見解を聞きたいです。
前方後円墳の出現は3世紀説と4世紀説に、大きく分かれているのです。私は4世紀説が妥当と考えています。
同感です。昔は三輪山麓の最も古い前方後円墳でも四世紀初頭か、早くて三世紀末というのが定説ではなかったかと思います。それを数十年から百年ほど早め、ヒミコの時代にまで遡るというのが近年のトレンドではないかと思いますが、私は無理があると思っています。
神の血筋の源流だから長生きは当たり前とか😌
実際、神武天皇は、7代目ぐらいになるそうですね!!!!!!
7代目とは?
超人的なエピソードがあるといなかったことになるのなら生き返ったキリストも死後に飛んでいったマホメットも海を割ったモーセもみんないなかったことになる
歴史、地層、人間関係などを勘案すると、2200年程前に生まれた人物と考えられます。
紀伊半島南部に上陸したのは(即位前の)神武天皇だったのか、徐福だったのか?それともこの二人は同一人物だったのか?基になる伝承があったのでしょうね。
神々の子孫なら長寿も有り得るし、聖書でも登場人物は長寿なので否定出来ないし、今の思想や常識で判断出来ないと思う。古代エジプトや他文明でも天体計算で暦を作っていたし年2度説もどうかな~?知的生命体は1~2000年位の寿命らしいですよ。
年齢に関しては2倍年歴で説明つきそう、享年80歳でもおかしくはないし60歳ぐらいが平均寿命だろうし。
「2倍年暦」ね。
後南朝では春秋歴と言います。
「春秋暦」では?
@@加藤勉-g5pさまご指摘ありがとうございます。確かに誤字でした。
死せる孔明生ける仲達を走らす、神武天皇らの勇猛な万乗の君が家督を譲る時に万乗の君を神武天皇らの名前を名乗っていたのじゃないの? 大丈夫と思われた万乗の君が出た時だけ名前(?)を変えたのじゃないの?
前方後円墳は人形(ひとがた)だよね
マナの壺の形です!
実在したとしても、1~2世紀ごろの人ではないかと
そうすると卑弥呼の時代と重なるけど、卑弥呼の正体とはいったい?天皇家の誰かか??
神武天皇の陵が前方後円墳でなかったら、橿原にあるのは何なのってなりますよ。何なんですかね〜。何回も行ったことがあるけど、土を盛った上に木が生えてるだけのようにしか思えない。
水月湖の年縞と比較して放射性炭素年代測定をやりなおしてみると,古墳の実際の造営年代が100~200年遡る可能性があります。
口伝で伝わったことを書いていたと考えても、年齢があまりに嘘とも思えない。全国の言い伝えを整理して、欠落した代を想像で補わず時系列の矛盾を年齢で帳尻合わせたと考えるのが妥当と感じます。内容を考えても、存在しないものを嘘で足した痕跡がないし、年齢が嘘とも思えない。137歳が嘘なのではなく、3代、4代まとめて一人の人物にされてしまったのではないでしょうか?
崇神以前は神話ですよね。万世1系も怪しいな。
紀元前660年って言うとアレキサンダー大王が500年くらいだったからそれよりもさらに古いのかー・・・って言う事は大王の東征が成功してたとしたら天皇v.s.大王があったとか思うと胸熱
いつも興味深く拝見しています昔の人間は実際に長寿だったとは考えられないでしょうか?生物の寿命はDNAの劣化の蓄積なので、宇宙線や環境の影響が少なくDNAの劣化が少なかったとすれば長寿であったと考えても何もおかしくない気がします。聖書でも年代をさかのぼるごとに人は長寿であったと書かれています。春秋年説はここだけ正確ではないと決めつけ、どうにかこじつけているようにも思えます。素人目線の意見です。
卑弥呼(ヒミコ)が天照大神(アマテラス)で太陽神の女神とすれば、ヒミコの玄孫(やしゃご、ひひ孫)が神武天皇で、親が15歳で早期婚姻と生殖(精通と初経)できるとして4代で60年ぐらい経過した年代かな。
日本書紀を信じ、神武天皇がいたのがBC660としたのが明治の頃だと聞いてなるほどなと思いました。明治という事は思いっきり儒教の影響受けてますね。まだ生きている天皇を現人神とする発想は儒教由来の発想で、仏教や古代神道、道教にはありません。中国では皇帝は神(天子様)として敬ってました。江戸時代の国学者の本居宣長は日本書紀はあまり信用しておらず、古事記の方の研究がメインでしたね。ちなみに彼は反朱子学派です。
架空の人物。
この年代の歴史は色々書き換えられてそう
CMが多すぎて本当にウザいです。3分おきですかね?流してみているとすぐ広告。タップしないと延々と広告。観るのやめました。内容が面白かっただけに残念です。地上波ってよくできてますね。15分おきに広告二本で本編に戻るので。
PCで見るのをお勧めします!
考古学って、ホンと古臭い手法で、古い事を考える。どうしようも無い学問ですよねw1つ間違いだったら全部嘘なのか?!って、頭ん中アメーバ並みでしょ🦠
神武天皇は数人の事績を統合したシンボル。即位した年代は、出雲王国が成立した年代で、初代出雲王、オオナモチは菅之八耳さま。同后で国巫女/祭主が稲田媛さま。竹田先生の紛うこと無き直系ご先祖様。場所はもちろん出雲の松江。系図上に神武天皇と改ざんして据えたのは、徐福の孫で大和政権(王朝)初代大王、海(天)ムラクモ大王。后は大和の葛城に移住の後に三輪山に出雲王国の国教、幸の神を鎮め祭り、亡き父、出雲王国第八代スクナヒコ(副王)八重波津身命(竹田先生の直系ご先祖様)をも併せまつり初代祭主、姫巫女に就任、奉仕為さっていた媛踏鞴五十鈴姫命。(兄はクシヒカタ。登美家初代)九州から大和に侵攻して平定したのも時代の異なる数人を統合した。九州や大和攻めの前半は物部彦渚武王の3人の御子たちが語らい出征。宗家で総帥は五瀬命。瀬戸内海は敵勢下にある為危険なので土佐沖を迂回。高知に一時休憩、一部は定住しました。名残が物部川や物部村。紀伊水道に入り淡路島南岸を東に舵を切って紀ノ川を遡上した物部軍は橋本(地名)の紀ノ川南岸に着陣。物部襲来を聞いて待ち構えていた大彦(太子)率いる大和王朝軍の迎撃を受けて物部東征軍は押返され再び大阪湾/紀伊水道に浮かび、紀伊半島を南に迂回する事にしました。この緒戦で物部東征軍の総帥で宗家の物部五瀬命が大和軍の放った猛毒トリカブトが塗布された毒矢を受けて負傷〜死亡。和歌山の竈山に葬られて御子/子孫は竈山に残り祭祀を続けて竈山神社の社家神主家となった。一方、2人の弟たちに率いられた物部軍は熊野に迂回、上陸。すると、またしても待ち構えていた大和王朝側の紀伊国造(ムラクモ大王の兄弟の高倉下命の子孫)軍の迎撃に晒され、熊野川沿いをジリジリと退却、上流に追い詰められ大きな中洲(川中島)に陣地を築いて防戦。この中洲に五瀬命を祀り祭祀を行ったのが熊野本宮大社の起源。
物部東征軍は正に進退窮まった状態に陥りました。一方、物部の大軍を追い払った大和王朝ですが、内実は長年、豪族同士が覇権争いに明け暮れる内乱状態(大和大乱/孝が付与された歴代天皇は大乱時代を表す/大王家とは名ばかりで衰微して一豪族化した)にあり、偶々、磯城大王家の大彦(太子)自ら外敵の物部の大軍の迎撃に、当たった事で豪族たちは一時休戦して大同団結した事(外敵に侵攻されて滅ぼされたら元も子もない為)で何とか撃退に成功。(7代大王の孝霊天皇は但馬軍の播磨侵攻(物部に唆され播磨に侵攻したが物部軍は来なかった)に出雲王国と連合して対処のため播磨に出征、戦後PKOで駐留中。物部の計略で大和の勢力が分散させられた形)大彦さまはひとごちて、「再びあの様な大軍で攻められたら(大和は)危うい」。と曰われたらしい
大和の7代大王、孝霊天皇や所謂、吉備津彦らは大和を席巻した物部により帰る場所を喪い半ば占領状態の播磨から出雲王国の直轄領の吉備を占領。吉備王国を建国。その吉備王国が出雲王国の鉄を欲して(義理も信義や仁義、礼や道理もへったくれも無く)いきなり本家本宗の出雲王国に侵攻。出雲王国は孝霊天皇らを大和を逐われた可哀想な親戚くらいに思って気を許していたため、防備等全く無いに等しい状態だった事から総崩れ。吉備軍は快進撃を続けて西出雲の神門臣王家は敢え無く降伏して西出雲を占領、西出雲が吉備の属国となった事で出雲王国は実質、東西に分裂。(物部の猛攻に晒されたクナト王国(近江)の大彦自らが出雲王国に援軍を要請してきたのもこの頃)東出雲の富王家は態勢を建て直して吉備軍に対峙。地の利を活かして「神出鬼没のゲリラ戦を展開」して吉備軍を大いに悩ませた様です。この出雲軍のゲリラ戦部隊を隠忍(忍者の祖)と言ったのが後にオニになり、鬼にされました。孝霊天皇が東出雲攻略の為に本陣を置いた伯耆大山の麓の小山が後世、孝霊山と呼ばれるようになりました。正に何処もかしこも戦乱状態の倭国大乱の時代。古事記編纂にあたり、大和入りした物部兄弟の内、どちらが物部王と成ったかが不明だった(当時で約五百年前の事ですから)事から、架空のウマシマジを創作。また、この「第一次物部侵攻」をニギハヤヒの降臨、神武東征(前半)等とした。結局、この時の物部侵攻は太田多禰彦が大和の大王に即位して三輪大王と称され(=孝元天皇)、その姉妹のモモソ媛命が三輪山の祭り主、姫巫女に就任すると、特にモモソ媛命の機転による斬新な祭祀方法(物部が自分たちのシンボルとして拝礼を強要した道教に由来した神獣鏡(平縁)を方便と機転を駆使して三輪山の天照大神(出雲族の太陽の女神)の形代とした端緒)により上手いこと丸め込まれて物部は大和平定迄は行かずに結果的には失敗に帰して大半が九州に帰郷した。
出雲王国の元王家伝承に言う「第一物部侵攻」から約三代百年有余年過ぎた、物部イニエ王の時(大和政権はオオヒビ大王(開化/母に物部を持つ最初の大王)~10代彦坐大王の時代) 大陸では魏、呉、蜀の三国が覇権を争う三国鼎立時代、いわゆる三国時代。(三国時代末期には戦乱により中国の三国の総人口は1千万人を大きく割り込んでいたらしい(これ、重要です) )長年に渡る戦乱で兵員不足を来していた呉国王の孫権は、台湾~九州(和国)に掛けて大々的な奴隷狩りを行って十万人単位で捕獲する事とし、二人の将軍に二万の軍を与えて出発させました。天候や諸々の理由から結局、九州の手前、琉球(奄美)迄は到達しましたがそこで引き返して帰還しました。結果、一万人にも満たない「戦果」に呉国王孫権は激怒!職務怠慢、命令不励行を問い、御苦労様の二人の将軍を処刑しました。(和国には幸い、)呉国は再び同様な軍事行動を起こす事はなかった。(古事記では一切触れられていませんが)この話が佐賀の吉野ヶ里を都とする筑紫王国/物部王国の物部イニエ王にもたらされたらしい。イニエ王は驚愕、胆を冷やし、中国大陸に開けた北、西九州地方に居ては再び物量共に勝る中国の大軍に攻撃されたらひとたまりもない事は火を見るより明らか。どこか安全な場所に移るにしくは無し!と成るのは自明の理。慌てて?祖、徐福以来の都、吉野ヶ里を放棄。九州を南下してイニエ王は球磨地方で兵を集め(後に物部の精鋭、主力となる久米軍)、、、天の磐坐放ち天の八重雲を千別に千別きて天下り、、、等と言うような一見?雄壮な話ではなかった。(「天下り」は現代でも「都落ち」、、、落ちぶれた様。=慌てふためいて急いで逃げ出した)鹿児島の出雲神族の豪族(国王//大山祇神はクナト大神の事で出雲族を比喩)のドエライベッピンの阿多津姫に一目惚れしたイニエ王はソッコーでヨバイ(結婚)をして溜まりに溜まった濃厚な一発必中の濃厚な種水にによりオボコの阿多津姫は一夜でご懐妊。生目で元気な御子を出産しました。この御子は出生地の生目に因み、「イクメの御子」と呼ばれました。、、、後の物部イクメ大王。(系図上の垂仁天皇。//この方が実際に東征して大和政権と出雲王国を滅ぼし大和に物部王朝を開いた物部王朝の初代。神武の実体。また、スサノオ、ウガヤフキアエズ、山幸彦、崇神、)
竹田さんあなた長寿なんですよそしてアダムとイブそしてアベルとカインそして1〇代目ノアは何才まで生きたのなぜか寿命がみじかくなってくるどうして学者はバカなの(笑)
九州筑前から出土したと推定されている漢委奴国王印は、建武中元二年(57年)とされていますが、それを受け取った王(天皇)は誰なんでしょう?神武天皇なのでしょうか?
奴国は北九州の小さな一王国(部族国家)でした。神武天皇とは全然関係ありません。
天皇って中東の王族の人達と同じで勝手に王になった自称王族ですよね。
全て推測だよな(笑)事実ではないだろ(笑)
神武天皇は紀元前660年と言うのは極めて正しい、ジンムとは現在ではシンイディンと言う人物で人称格ではジンムディンとなる人物で30万人に人を引き連れ伽耶を作った、その三代目が来日して神武天皇朝をヤマトに建国したその後も10数代ジンムを名乗った、その後欠史8代に於いても各々数代を一纏めに表したものである、伽耶に残存した王朝はヤマト王朝と協力して始皇帝を支援協力してゴール人国家のサイを滅すその後朝鮮半島へ移動2世紀に句耶を朝鮮半島南部に建国2世紀末に日本へ移動を試みるがサーメ人のヤスキの人々に純血性を暴かれ、出雲入りを諦め現在の福井に入り軍勢も連れて来た、大国主のはからいでカガンの称号をイズモから頂く、しかし、お子に恵まれず、ヤマト朝廷と合体、多くの兵士を賄う為開墾の労役を与えた、その後水田を作る労役を与えた各地に水田を作った、それが古墳時代の始まりであった。シンイディンはモーゼと現在呼ばれる、のが森氏でエジプト王族にもなった、ナザレの人々を連れシャカ族の王シバ王から与えられた約束の地アシュールに都を作り森氏の孫の時代に栄えたその子孫がアッシリアを建国その22代目の長男が初代シンイディンで父と北イスラエルを解放ギリシャ勢力を追い出す、アッシリア王は4男に任せ自ら満洲を目指し息子の代に伽耶を建国、ここでヤマトと言うのは場所では無く最初のヤマトは九州にあった、紀元前2世紀に東へ移動を始める、特にサイを滅ぼした事と火山の影響もあり現在大和と呼ばれる地に定住する事になったが、その後歴代天皇は関西の中を移動し都を作った事もある。
神武天皇は卑弥呼から何代目かの王でしょう。神武の東征から以後、徐々に、或いは百済をめぐって高句麗、唐と戦って敗れたためにヤマトの国は奈良方面に遷都したと見たほうが正しいのではないでしょうか。何故なら、畿内、奈良方面にはナガスネヒコの国以外大きな国はなかったようですし。畿内は神武天皇により九州を本拠地とする国に併合されており、奈良方面にあったナガスネヒコの末裔の国が九州方面にあった神武天皇が出た国を亡ぼすことはありえないでしょう。
記紀でも年齢変わってる人がいるのにどうやってそんなの信用するん
春秋など間違いです。
曖昧模糊として根拠がないですね。もう少し勉強して下さい。
2600年前の天皇で660歳まで長生きしたとか❓(^O^)きゃはははは~♬ぷっ
いない人間の話どうでもよい
凄いの一言につきます。竹田さん凄い
2600年を強弁しなかったのに高評価。
いろんなことが腑に落ちました!
BC660年2月11日を暦サイトで入力したら日本書紀の記述通り「辛酉の年庚辰の日」になりました。
他にも奈良の橿原では2600年±200年前のイチイガシが出土したり、神武東征に出てくる奈良の地名が昔あった湖のほとりの縄文遺跡の場所だったり、浜名湖のようになってた大阪の河内の記述があったり、そのまんま信用はできませんが色々神武天皇の足跡が残されていますね
竹田さん。長浜浩明さんはご存知ですか?彼と神武天皇の東征年について、いつか対談して下さい。
長浜さんは理系の建築&土木技師さんです。彼は大阪平野が元々海だったところから、徐々に陸に変わる大阪湾の変遷を詳しく調べていて、BC1050年~BC50 年までの間に存在した「河内潟の時代」にこそ神武天皇は東征された主張されています。理由は書記にある「難波碕に着こうとする時、速い潮流があって、大変早く着いた」との記述を重視しています。この記述はまさに、河内潟の時代であればこそ、磐余彦命のご一行が実現させる事が可能なんだそうです。つまり河内潟の狭い開口部から流入する潮流に乗って、一気に潟の内部に侵入し難波碕に着いたという様子であり、この時代の前であっても、後であっても、書記の記述の行動は不可能なんだそうです。つまりこの書記の記述こそが、科学的証明の根拠となり、ピッタリと推定する時代に合うそうです。
【古代日本「謎」の時代を解き明かす神武天皇即位は紀元前70年だった!】著書:長浜浩明
神武天皇が即位されたのは紀元前60年です。
神武天皇は紀元前107に生まれ45年に崩御され畝傍山北稜に葬られました。
このことは池田任三氏著の画像解析によって判明した古墳墓碑に掲載されています。
長浜浩明氏によれば、神武東征を紀元前70年とすれば、記紀の記述(春秋年)とも、大阪平野の発達史ともピタリと合致する。非常に説得力があるこの説が中々認められない史学界に、病があると感じる。
病というより、何か重大な問題があるのではと感じる。
チャンネル登録済みました。大変勉強になりました。
神宮は2000年前に今の伊勢に鎮座と聞いていますが本当は何年なんですか。
春秋年説に納得です。
大昔の年は収穫するたびに年代わりなので、西日本は2期作なので2倍となっています。これは、小名木善行さん、長浜浩明さんも述べています。
二倍年歴説はデマですよ。「日本書紀」の記述を見れば分かります。もしもそれが採用されているのならば、隔年で例えば1~6月の記述、7~12月の記述になっていないとおかしいですが、そんな話にはなっていませんから「魏略」の魚豢がガセネタを掴まされたということでしょう(*^^)v
刮目天一 けどまあ、半分にすればちょうど良くなるのよな。
いつも竹田学校を拝聴しています。
春秋年(二倍年歴)の解説ありがとうございました
神武天皇は 一世紀前後のお方とのこと
一方「後漢書 倭伝」に
建武中元二年(AD57) 倭奴国(ゐどこく)貢を奉って朝賀す
光武賜うに印綬を以ってす (有名な志賀島の金印)
『漢 倭奴 国王』
AD57年だとすると 神武天皇は この金印(or金印を押した布or板)を実見したかも知れません。少なくとも「倭」という 漢字を見て 文字を知っていたと推察できます。
【この金印は 元々 細石(さざれいし)神社の御神宝だったが 江戸時代藩主が取り上げたという異説があります】
【参考】「二倍年歴」
「倭人伝」に
魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀
「魏略いわく、その習俗では正月(陰暦)や四節を知らない。ただ春に耕し、秋に収穫したことを数えて年紀としている
九州にある地名と同じ地名が奈良にも多数有るようなのですが、関係性を調べると面白そうですね。
神武東征を、1世紀前後にスライドすると、考古学的にはいろいろ辻褄が合うみたいに感じますね
最近古事記、日本書記の研究が見直されています戦前に記載されて、正しいものでも否定され、歴代天皇の一部はいなかった、神話の時代と茶化されていますがその神話でも土地土地によって伝承された話が最近の研究発掘で実証されるものが沢山出て来ていますから、一概に神話のを否定しない方が賢明です。例えば古事記、日本書記の神話と伝承された出雲大社の社殿は神話の時代、高層建物だったいう伝承が、最近の境内発掘で実証されました。巨大な丸太を三本束ねて一本にし、それを随所に巡らせて土台にし、その上に社殿を乗せ、階段は緩やかに設けていて現在の丸の内にある丸ビルに指摘するほどの建物だったことがわかりました。ですから一概に神話の時代の話でと片付けない方が賢明です。大阪周辺の天皇稜の発掘を行えば古事記、日本書記の記載が実証される可能性が大であり、先般神武天皇稜の一部を発掘許可され調査した前方後円墳は樹木が無いのが理想なお墓で墳墓本来の姿です。神武天皇稜も歴史の伝承でなく墓の主の銘板が実証されると思います。また初代天皇神武天皇も実在の可能性があるようです。さらなる進展を期待しています。この神功皇后はほぼ実在の可能性が高いようです。戦後の左派系の学者の歴史証も段々否定され始めています。その当時の年齢の計測は一年を二分割でやっていたようで、例:123歳の神武天皇は60歳~61歳と言う事になります。
世界的に見れば当時春秋年(2倍年暦)は珍しくなかったそうですね。
私は紀元前100年頃のお生まれで、紀元前70年頃に大阪平野に突入という説を信じています。 「記紀」に描かれる神武天皇の大阪突入の風景が「記紀」に掛かれていて、又、おおさか平野の歴史を見ると、紀元前70年頃が良く似ているという事です。古代、大阪平野は海であり、沼地になり、湖になり、平野になったと言う歴史から、「記紀」書かれる、大阪・上町台地の北端より侵入しようとすれば、沼地であった(所々は湖)頃しかないからです。大阪平野が長年の川からの土砂が運ばれ埋め立てられると言う歴史から、神武天皇の大阪突入時は大阪平野と大阪湾が満潮・干潮時に海水と川の水が行き来していた頃で、満潮時に突入して日下まで船で乗り進めるんです。「記紀」には川の流れに逆らって日下に進むという写実が書かれています。海・湖の時代なら長れなどありませんからね。そして湖の最後の時代に仁徳天皇により、大阪城南に大川の開削があります。そして湖の水が抜けて後大阪平野の出来上がりになります。なので現在でも「島」と名乗る土地が残っています。
長浜浩明氏も唱えているその論が自分も最も説得力のある説明だと思います。
欽明天皇の時代に暦博士が来ていますから、それ以前は春秋暦だったのではないだろうか。
各天皇の御即位の年齢も半分で計算するほうがしっくり来ることが多い。神武東征開始も書紀には45歳の時となっているが、半分だと20代前半でお若い頃となる。
祖母が紀元2600年とお祝いをしたと話しておりました。
当時自分は日本の歴史を知らず紀元は西暦だと祖母の話を何かの勘違いだと思っておりましたが、当時日本の建国2600年のお祝いをしたということでした。
2700年が近付いて来ましたが、それまでには日本の建国を国を上げて堂々とお祝いするような世の中になっていて欲しいです。
実際の年代が違っていたとしても、日本は建国2700年ですと内外に大いに発信して欲しいです。
日本は世界に誇れる国だと。
九州での火山の噴火が神武東征につながったか(20:00)という話。食料生産が減って争いが増えて九州を出奔した。ありそうな感じもする。神武は4人兄弟なのに九州を出たのはイツセと二人だけなのも食い扶持減らしな印象も。
いろいろな考察があって当然でしょう。
明治時代に、単純に足し算した、ということが
皇室への敬意からだとは思いますが
学問的には問題だと考えます。
むしろ今後さまざまな学問的見地から
議論が活発化することこそが
皇室への敬意につながると思います。
二倍歴は50年も前から、安本美典、古田武彦が主張している。安本氏は宮中や各地に残る神事や、祝詞、風土記、万葉歌など12の例を挙げて、春秋二期説を支持している。また、古事記に崩御日が記されている天皇(成務-ー允恭、雄略、継体、安閑、敏達-推古)は13人がいるが、崩御日はいずれも月のうち15日以内であること根拠に、新月から満月までをひと月、満月から新月までをひと月と数えていたのではないかと推定している。
魏志倭人伝には「其人寿考 或百年或八九十年=その人々は長寿で、あるいは百歳、あるいは八・九十歳」とあります。あくまで参考までに。
長浜先生の著書によると難波から白肩の津へ至ったルートは古代河内湖の地形のある時期に一致するそうです。
細かい話は忘れましたが帰ってからもう一度読み直します。
古代史が面白いです
春秋年説はまだしも、神武東征に関する長浜氏の説は信じすぎちゃいけませんよ。
日本書紀原文には「川を遡って」などという記述はありませんから。そう訳しているのは、講談社出版の宇治谷孟氏本のみです。宇治谷氏自身も、「手軽に読める現代語訳」を目指したと明記しており、情景をイメージしやすいように所々原文に無い記述を挿入しています。現代語訳されたものしか読みたくないと言うのなら、せめていくつかの現代語訳を突き合わせて考えるべきなのに、長浜氏はそれをしていません。
残念ながら、本当に歴史について何か主張することは、原文を自分で読むことでしか成せないと心得るべきです。
春秋説の名残が‥日本のあちこちにある山の神信仰とかと言う話を‥昔聞いていた事があった‥春‥山の神が田に降り立ち‥お田の神となり‥稲刈りが終わると山へと帰り‥山の神になるとか‥
それで古代の日本では‥農繁期と農閑期で二年とかと言う話でしたね‥
皇室は、「いつが初代なのかよくわからない」ことが尊いしすごいんだと思う。歴史がはっきりする前から存在していたのだから、それがすごい。
わからないことはわからない。尊くもスゴくもない。
むしろアホじゃん、良くわからん迷信を有難がって。
@@YANAGITAtokinori3年も前のコメントにする返信じゃないかもしれんが、そりゃただ「何もわからねえ」だけの状態は凄くねえよ
そういう「起源がわからない」ということ自体が凄くて尊いのではなくて「起源がハッキリとわからないくらい昔」という事が凄いんだぞ
殆どの国において建国の際の歴史が曖昧で、よくわからないことは当たり前で、別に凄いことではない。
長浜浩明氏の動画と書籍で、当時は春秋年を採用していて、紀元前後に即位したと大体知ってたけど火山活動が東征の原因かもという視点は面白かった。
昔は一年で二年と数えたっていうのはありそうですね!春と秋の収穫で二回。とても納得できる説です!
私も昔の天皇は100歳も生きていられる?もしかして血縁者で影武者のような方もいたのかな?と考えていましたが、これは納得です。
オススメに流れて来たのを視聴させて頂いたので随分と時間が経っていて今更と思われるかも知れませんが、取り敢えず共有だけしておきたい事はこちらに残しておきます。
竹田さんの説明は理路整然としていて最近歴史の再勉強をしている身としては他にもこの様な歴史関連の動画を上げている方の中でも思想に拠らず恣意的な歴史歪曲をせずに事実のみを追及している方々の仰られている事と非常に重なる部分があり、納得する物でした。
しかし、一つ忘れてはならない事があります。
それは神武天皇の東征の歴史的見地に於ける真実性に関して、どうやら学会ではかなり疑問視されているという話しを聞きました。
とある方はこの点について古事記と日本書紀の記述を基に当時の地形や海洋条件の視点からの解明を試みられており、その結果神武天皇の(船での)大阪入りの実現性は紀元前50~1050年の間の大阪の海の状況であれば、記述通り船に乗ったまま河口から遡上して大阪の内陸部へと進み、川から上陸したとする記載に矛盾しない、即ちその後日本史上初めて天皇として即位した神武天皇の即位年は紀元前50年である、とされていました。
個人的にはもう少し前ではと思いますが、まあその動画主さんの説を完全に信じるならという前提なら数年くらいの差なら誤差ですので然程問題は無いとも考えています。(実際には更にもう少し前だったのではと思っていますが素人考えなので全く当てになりません)
つまり、紀元1世紀の人というよりは紀元前1世紀の人、というのが可能性としては大きいかも知れない、という話しです。
もしもこちらのコメントを見る機会があったとして、いつか神武天皇の東征、特に大阪上陸についてをやって頂きたいです。
私が前述した様な話しに関しての見解やその可能性、もし2000~2100年余り前の地形や海流状況、また気象等諸々の条件も含めた前提で考えた結果等も是非一度お聞きしたいと思っています。
下らないと一笑に付されるかも知れませんが、こういう話しもありますよという情報共有が一番なので、伝わっていれば勿論それで構いません。
春秋年!なるほど。納得です。日本人だから、変に話を盛ったりしないだろうしと不思議に思っていたんですよね。
1年で2年分の年か?
140才なんてあり得んからな❗
ありがとうございます。
記紀を否定する説は聖徳太子にしろすぐ採用されるのに、肯定する説は物証や地質学的な整合性がでてきても採用されないのはどういうことだろう?普通に考えて聖徳太子とか発行の数十年前の人物だからとても捏造できるとは思えないけど
神武東征に限らず、九州から植民が行われると植民地には鉄器と製鉄技術が持ち込まれるので植民先で急に鉄器が出土が増えはじめるという現象が起こると思います。
奈良県で急に鉄器が出土しはじめるのは3世紀からなので、その少し前、2世紀後半頃に神武東征があったのではないかと思います。
2世紀後半は九州では倭国大乱が起こっていた時期なので、記紀の記述通り戦乱を避けたかったのではないでしょうか?
天皇の在位に関しては日本書紀は外交用に装飾する度合いが高かったのであまりあてにならないと思っています。
日本書紀より装飾の度合いが低い古事記だと崇神天皇の没年の干支は戊寅、西暦318年(258年の可能性もある)ここから10代遡ったあたりが神武天皇が即位した時期に近いのではないかと思います。
一代あたりの在位年数ですが、即位した年がはっきりしている継体天皇から孝明天皇までの平均在位年数は約14年。
崇神天皇の没年318年の140年前の西暦178年あたりではないかと推測します。
合ってるかどうかはわからないけど、そういうアプローチの思考が非常に好き
八木荘司説の181年とかなり近い
河内に水田稲作が伝来したのがちょうど-660年頃で、河内の地形が神武東征できる地形だったのもちょうど-660年頃だったから河内に水田稲作を伝来させたのが神武天皇だったのでは?!
鶴見岳は由布岳の隣です。
大分県と宮崎県の境にあるのは祖母山と傾山です。
年数など、とても納得できる数字だと思います。
とはいえ、創世記にも異様に長寿な人々の名前が並んでおりますし、古代の(有名な)人はなぜそうも長命なのか?についてはまだ「?」な気もするんです。
現代の常識では考えられない何かがあったのかもしれません……!
そういうIFは歴史にはならないかとは思いますが。
あくまで合理的につきつめて考えていった場合、紀元前後になるというのには、ほんと、頷いてしまいました。
(ファンタジイ脳ですみません~)
正月を初春というように日本では古来春から新年が始まる。未だに学校も会社も4月から新年度。
そんな所に古代の名残があるかと。
>1年で2歳年をとった
米作で起きた文明だから、南方の九州だと年に2回米が作れた(二期作)ので、とも言われてますね
好太王碑では現在のソウルあたりまで倭国の軍が侵入してきたと記述があり、これだけ半島内部まで軍を進めた記紀の記述は神功皇后の三韓征伐しかなく、記紀と考古学的な編年の比較の基準はここになるかと思います。
最近の纒向遺跡の発掘結果と崇神天皇を関連付ければもう少し遡れそうですが、邪馬台国の扱いも関係してくるので、ここは微妙かな。
竹田先生の九州の火山の活動期を基準にした説も鋭いですね!
邪馬台国は大和王権と同時に存在した北部九州の勢力だと思ってください。
⏰今時計を見て、昨日のあれ何時?って思っても、やはり昨日は昨日で時計を見ていないと正確な時間は記録出来ませんよね。天皇の在位期間を正確に記録出来ていないのは、当時暦を知らないからですね。ただし年齢なら「なんとなくわかる」ので在位期間ではなく、単に年齢を足し算して歴に当てはめて遡ると大変なことになる。
10歳で天皇になって60歳までやって亡くなる場合や、40歳から50歳までの代もありますからね。
二回あるのはお盆ではなくお彼岸?
日本書紀 読みましたけど、これ各論併記なんですよね。こういう説もある、こういう言い伝えもある、と矛盾しそうなことがたくさん並べてある。その意味では誠実だし、昔の学者たちが古事記より日本書紀を正史として尊重した理由がよくわかります。
天岩戸の神話とも重なるように思います。
歴史よりも重要な事があるからね。
歴史って、わざわざ中国に本当の事を教える必要はないんだよね。
…そういう考えもあったかと、目からウロコが出てます。
あと、鶴見岳は大分県別府市にあります。
春秋年二倍暦と天皇任期四倍暦なんて話を聞きました。まるで企業が上半期下半期の決算をして、四半期ごとの営業成績と戦略会議をするみたいだなと思いました。そう思うと、創成期の初代の功績はよく残っていて中小企業時代の8代はあまり残っておらず、9代から中興期で規模拡大の過程がよく残っているなんてのはむしろ自然に感じました。
考古学的には神武東征はBC50頃という話が順当だと思います。
ただ、だからといって日本の固有暦として「『今年は紀元2680年』と言ったらダメ」と言ってる人が意外に多くて困惑。それなら西暦2020年というのもイエスがぴったり西暦元年生まれなのか、そもそも本当に神の子なのか分からないんだから使えないですわ。
火山爆破指数の略はVEI(Volcanic Explosivity Index)なので念のため。
水田を整備する過程で土地を平らに均していくと大量の土砂が余りますからね。聖帝と称される仁徳天皇の御代では御陵の大きさに見合う面積の水田が開かれたのでしょう。
いきなり、日本各地に同じ古墳が現れる事は不可能。それまでの過程が無いと❗️例えば、創業者が居て、世界の企業まで行くのに、何10年かかる。今でさえ簡単に行かないよ。それが何千年も前にだよ。布石がなければ無理です。
たしか仁徳天皇陵に調査が入ったと思いますけど、あれはどうなったんでしょうか?
お堀のごく一部の調査だけです。吉備地方の埴輪が出土したようですよ
恭子川名 そうなんですね。教えて頂いてありがとうございます。やはり本格的な調査は難しいんですね。。
私は、天皇家存続の為、何代かに渡って継いで行く。フビライ・ハンも同じ事をしました。亡くなったたら同じ名で継いで行く。だから、神武天皇が長生きの事になる。
近現代史の御講義に半藤氏を採用して、又川島史観の再来を秋篠さんは望むのですかね?
10代以降の各天皇も春秋暦で全ての辻褄が合うのであれば成立する話なんですが、どうなんだろうな。
10代どころか・・・20代ぐらいまで100歳超えの天皇が目白押しです。
「祟神天皇」「応神天皇」「仁徳天皇」は、すべて100歳超え。
むしろ、年齢がおかしいから、「欠史八代」という歴史学界が、上記の天皇の存在を疑わないことが不思議です。
まさか、「仁徳天皇」は、中国の文献にある「倭の五王」の1人に相当するから問題なってことですか?
わたしは、「欠史八代」といわれる天皇がいたか?いないか?よくわかりません。
ただ、日本の文献は、すぐに疑うのに中国の文献を鵜呑みにする歴史学界は、すこし異常だとおもいますね。
歴史は歴史として解き明かしてほしい、個人的には少なくとも神話は入っていると思う
『魏略』曰「其俗不知正歳四節、但計春耕秋収為年紀」という『魏志』倭人伝における裴松之の註記が知られている。つまり倭国では3世紀当時「陰暦」の暦を知らず、春夏秋冬の四季でなくて水田耕作の田植えの時期と収穫の時期を季節の節目として認識していたというのである。これは一年を春夏秋冬という四季で認識していなかったということで一年を二季とみていたことである。一年を二年と見ていたということではない。天皇の年齢については所謂「欠史八代」に該当する天皇の年齢だけが百歳を超えて記録されている訳ではなく、崇神119歳、垂仁139歳、景行143歳、成務107歳、応神111歳、仁徳143歳などとなっている。併し所謂『倭の五王』の時代になると現代人から見ても極端に長寿の天皇の記録はなくなる。これにははっきりした理由が示されなければならない。例えば倭の五王の時代に南朝(宗)から暦を採り入れたとか、其れまでの天皇の年齢が明らかに変化していることが見てとれるからである。私見では干支は60年周期だか上代の日本暦では『ひとは(百)』は60年であってこれを後世の暦を使っていた『記紀』編纂者たちがなぜ干支表記なのか知らずに勘違いして記述したのである。「欠史」時代についても天皇の年齢が信じられないというだけの理由で『日本書紀』の特に上代の記述が「虚構」だと決めつけない方がよい。GHQの指令があった時代に『神代史』を真面目に研究出来なかったとしても、今は学問の自由があるのに邪馬台国論争の低次元な袋小路に陥っているのが現代の日本人である。世論形成でなく学問的探求をしなければならない。
つまり、古代天皇は宇宙人だった⁈(話を聞いていない
うーむ、春秋年をもってしても檀君の1000歳越えは理解し難いですね。
12倍年暦、24倍年暦もあるそうですよ。
月の満ち欠けに基づくものだとか。
天皇一番の仕事は豊作祈願。だから亡くなったあと変な人を後継者にするより空位にしてご威光を期待した。つまり死んではいないことにしたとか。飢饉が来るとさすがに誰か新しい人をとなって新天皇が即位した。だから記録上長くなった。一つの自然な解釈に思う。他にも、新天皇が即位したけど若く亡くなってしまうことがあり、縁起が悪いから即位しなかったことにした。結果、先代が退位しなかったことになったが、退位しなかった=生きている、と解釈して後世の人により年齢が長く記録されてしまった。等々。
はじめに神武天皇について簡単にご紹介します。 ※ご存知の方はスルーしてくださいね。 画像引用:月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。 神武天皇は、日本を建国された初代天皇です。 天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫であり 天孫降臨された瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)のひ孫。 ←さっき検索すると書いてありました!!
竹田先生の歴史勉強の中で軍歌の話がありましたので 検索して様々聞いてましたら 当時の国民歌で素晴らしい歌があります
その中から 紀元は2600年のお祝いの歌が当時の映像付きでありました
是非紹介してください 紀元2700年のお祝いしてほしい
又マニラからシンガポールに向かう兵隊さんの自転車部隊の当時の映像と歌もみつけました すごい人数でマニラ英国から解放して シンガポールへこげこげ自転車部隊 道端で
現地のマニラの人達が涙と笑顔て日の丸ちぎれるばかりふって見送る貴重な映像と歌があります 感動ものです 様々映像と歌があります
中には 涙で画面が霞みます
貴重な映像と軍歌 国民歌です
歌の中に 万世一系が良く出てきます 一系で受け継がれた皇室の誇り
すみません 今日の勉強と違うコメントですが
マニラ??!!
マレーシアの事を言っているのか??
稲作は縄文時代には始まってるよ。
当時は陸稲だけどね。
大々的に水稲栽培が始まったのが弥生時代だよね。
神武天皇や欠史八代天皇は藤原氏が天皇を古くからあるように権威付けようと作った架空天皇と思われます。なぜなら古事記を書いた物部氏は崇神天皇だけをハツクニシラス初代天皇としているからです。ただし実際の本当の初代は邪馬台国の卑弥呼で北九州であり、2代目の台与が畿内に東遷して崇神天皇になったと思われます。大和朝廷も実際には神武天皇でなく卑弥呼をアマテラスとして祖神として祀っていますから邪馬台国大和朝廷の本当の初代は卑弥呼だと思います。
調べると長浜氏が紀元前70年頃らしいですよ、皇紀では紀元前660年てなるけども、昔は一年を2年に数えてたと中国の古文に書いてますもんね、
日本でまだ元号がない時代に「当年改元」「越年改元」って中国の元号のこと?それとも天皇(大王)の代替わりのこと?後者だとしたら神武~崇神の実年代乖離は10年の誤差にしかならないけど・・・。
数えたのは明治だからかなりズレるのでは?
「九州年号」ってのもあるけど。
なかなか興味深い・・・
天皇又は日本人の起源がシュメール文明と類似性があると言う動画をみました
竹田先生の見解を聞きたいです。
前方後円墳の出現は3世紀説と4世紀説に、大きく分かれているのです。私は4世紀説が妥当と考えています。
同感です。昔は三輪山麓の最も古い前方後円墳でも四世紀初頭か、早くて三世紀末というのが定説ではなかったかと思います。それを数十年から百年ほど早め、ヒミコの時代にまで遡るというのが近年のトレンドではないかと思いますが、私は無理があると思っています。
神の血筋の源流だから長生きは当たり前とか😌
実際、神武天皇は、7代目ぐらいになるそうですね!!!!!!
7代目とは?
超人的なエピソードがあるといなかったことになるのなら
生き返ったキリストも死後に飛んでいったマホメットも海を割ったモーセも
みんないなかったことになる
歴史、地層、人間関係などを勘案すると、2200年程前に生まれた人物と考えられます。
紀伊半島南部に上陸したのは(即位前の)神武天皇だったのか、徐福だったのか?それともこの二人は同一人物だったのか?
基になる伝承があったのでしょうね。
神々の子孫なら長寿も有り得るし、聖書でも登場人物は長寿なので否定出来ないし、今の思想や常識で判断出来ないと思う。古代エジプトや他文明でも天体計算で暦を作っていたし年2度説もどうかな~?知的生命体は1~2000年位の寿命らしいですよ。
年齢に関しては2倍年歴で説明つきそう、享年80歳でもおかしくはないし60歳ぐらいが平均寿命だろうし。
「2倍年暦」ね。
後南朝では春秋歴と言います。
「春秋暦」では?
@@加藤勉-g5pさま
ご指摘ありがとうございます。
確かに誤字でした。
死せる孔明生ける仲達を走らす、神武天皇らの勇猛な万乗の君が家督を譲る時に万乗の君を神武天皇らの名前を名乗っていたのじゃないの? 大丈夫と思われた万乗の君が出た時だけ名前(?)を変えたのじゃないの?
前方後円墳は人形(ひとがた)だよね
マナの壺の形です!
実在したとしても、1~2世紀ごろの人ではないかと
そうすると卑弥呼の時代と重なるけど、卑弥呼の正体とはいったい?天皇家の誰かか??
神武天皇の陵が前方後円墳でなかったら、橿原にあるのは何なのってなりますよ。
何なんですかね〜。
何回も行ったことがあるけど、土を盛った上に木が生えてるだけのようにしか思えない。
水月湖の年縞と比較して放射性炭素年代測定をやりなおしてみると,古墳の実際の造営年代が100~200年遡る可能性があります。
口伝で伝わったことを書いていたと考えても、年齢があまりに嘘とも思えない。
全国の言い伝えを整理して、欠落した代を想像で補わず時系列の矛盾を年齢で帳尻合わせたと考えるのが妥当と感じます。
内容を考えても、存在しないものを嘘で足した痕跡がないし、年齢が嘘とも思えない。
137歳が嘘なのではなく、3代、4代まとめて一人の人物にされてしまったのではないでしょうか?
崇神以前は神話ですよね。万世1系も怪しいな。
紀元前660年って言うとアレキサンダー大王が500年くらいだったからそれよりもさらに古いのかー・・・
って言う事は大王の東征が成功してたとしたら天皇v.s.大王があったとか思うと胸熱
いつも興味深く拝見しています
昔の人間は実際に長寿だったとは考えられないでしょうか?
生物の寿命はDNAの劣化の蓄積なので、宇宙線や環境の影響が少なくDNAの劣化が少なかったとすれば長寿であったと考えても何もおかしくない気がします。
聖書でも年代をさかのぼるごとに人は長寿であったと書かれています。
春秋年説はここだけ正確ではないと決めつけ、どうにかこじつけているようにも思えます。
素人目線の意見です。
卑弥呼(ヒミコ)が天照大神(アマテラス)で太陽神の女神とすれば、ヒミコの玄孫(やしゃご、ひひ孫)が神武天皇で、親が15歳で早期婚姻と生殖(精通と初経)できるとして4代で60年ぐらい経過した年代かな。
日本書紀を信じ、神武天皇がいたのがBC660としたのが明治の頃だと聞いてなるほどなと思いました。明治という事は思いっきり儒教の影響受けてますね。
まだ生きている天皇を現人神とする発想は儒教由来の発想で、仏教や古代神道、道教にはありません。中国では皇帝は神(天子様)として敬ってました。
江戸時代の国学者の本居宣長は日本書紀はあまり信用しておらず、古事記の方の研究がメインでしたね。ちなみに彼は反朱子学派です。
架空の人物。
この年代の歴史は色々書き換えられてそう
CMが多すぎて本当にウザいです。3分おきですかね?流してみているとすぐ広告。タップしないと延々と広告。
観るのやめました。
内容が面白かっただけに残念です。地上波ってよくできてますね。15分おきに広告二本で本編に戻るので。
PCで見るのをお勧めします!
考古学って、ホンと古臭い手法で、古い事を考える。どうしようも無い学問ですよねw
1つ間違いだったら全部嘘なのか?!って、頭ん中アメーバ並みでしょ🦠
神武天皇は数人の事績を統合したシンボル。
即位した年代は、出雲王国が成立した年代で、初代出雲王、オオナモチは菅之八耳さま。同后で国巫女/祭主が稲田媛さま。
竹田先生の紛うこと無き直系ご先祖様。場所はもちろん出雲の松江。
系図上に神武天皇と改ざんして据えたのは、
徐福の孫で大和政権(王朝)初代大王、海(天)ムラクモ大王。
后は大和の葛城に移住の後に三輪山に出雲王国の国教、幸の神を鎮め祭り、亡き父、出雲王国第八代スクナヒコ(副王)八重波津身命(竹田先生の直系ご先祖様)をも併せまつり初代祭主、姫巫女に就任、奉仕為さっていた
媛踏鞴五十鈴姫命。(兄はクシヒカタ。登美家初代)
九州から大和に侵攻して平定したのも時代の異なる数人を統合した。
九州や大和攻めの前半は物部彦渚武王の3人の御子たちが語らい出征。宗家で総帥は五瀬命。瀬戸内海は敵勢下にある為危険なので
土佐沖を迂回。高知に一時休憩、一部は定住しました。名残が物部川や物部村。
紀伊水道に入り淡路島南岸を東に舵を切って紀ノ川を遡上した物部軍は橋本(地名)の紀ノ川南岸に着陣。
物部襲来を聞いて待ち構えていた大彦(太子)率いる大和王朝軍の迎撃を受けて
物部東征軍は押返され再び大阪湾/紀伊水道に浮かび、紀伊半島を南に迂回する事にしました。
この緒戦で物部東征軍の総帥で宗家の物部五瀬命が
大和軍の放った猛毒トリカブトが塗布された毒矢を受けて負傷〜死亡。
和歌山の竈山に葬られて御子/子孫は竈山に残り祭祀を続けて竈山神社の社家神主家となった。
一方、2人の弟たちに率いられた物部軍は熊野に迂回、上陸。
すると、またしても待ち構えていた大和王朝側の紀伊国造(ムラクモ大王の兄弟の高倉下命の子孫)軍の迎撃に晒され、熊野川沿いをジリジリと退却、上流に追い詰められ大きな中洲(川中島)に陣地を築いて防戦。
この中洲に五瀬命を祀り祭祀を行ったのが熊野本宮大社の起源。
物部東征軍は正に進退窮まった状態に陥りました。
一方、物部の大軍を追い払った大和王朝ですが、内実は長年、豪族同士が覇権争いに明け暮れる内乱状態(大和大乱/孝が付与された歴代天皇は大乱時代を表す/大王家とは名ばかりで衰微して一豪族化した)にあり、
偶々、磯城大王家の大彦(太子)自ら外敵の物部の大軍の迎撃に、当たった事で
豪族たちは一時休戦して大同団結した事(外敵に侵攻されて滅ぼされたら元も子もない為)で何とか撃退に成功。
(7代大王の孝霊天皇は但馬軍の播磨侵攻(物部に唆され播磨に侵攻したが物部軍は来なかった)に出雲王国と連合して対処のため播磨に出征、戦後PKOで駐留中。物部の計略で大和の勢力が分散させられた形)
大彦さまはひとごちて、「再びあの様な大軍で攻められたら(大和は)危うい」。と曰われたらしい
大和の7代大王、孝霊天皇や所謂、吉備津彦らは大和を席巻した物部により帰る場所を喪い
半ば占領状態の播磨から出雲王国の直轄領の吉備を占領。吉備王国を建国。
その吉備王国が出雲王国の鉄を欲して(義理も信義や仁義、礼や道理もへったくれも無く)
いきなり本家本宗の出雲王国に侵攻。
出雲王国は孝霊天皇らを大和を逐われた可哀想な親戚くらいに思って気を許していたため、
防備等全く無いに等しい状態だった事から総崩れ。
吉備軍は快進撃を続けて西出雲の神門臣王家は敢え無く降伏して西出雲を占領、
西出雲が吉備の属国となった事で出雲王国は実質、東西に分裂。(物部の猛攻に晒されたクナト王国(近江)の大彦自らが出雲王国に援軍を要請してきたのもこの頃)
東出雲の富王家は態勢を建て直して吉備軍に対峙。地の利を活かして「神出鬼没のゲリラ戦を展開」して吉備軍を大いに悩ませた様です。
この出雲軍のゲリラ戦部隊を隠忍(忍者の祖)と言ったのが後にオニになり、鬼にされました。
孝霊天皇が東出雲攻略の為に本陣を置いた伯耆大山の麓の小山が後世、孝霊山と呼ばれるようになりました。
正に何処もかしこも戦乱状態の倭国大乱の時代。
古事記編纂にあたり、大和入りした物部兄弟の内、どちらが物部王と成ったかが不明だった(当時で約五百年前の事ですから)
事から、架空のウマシマジを創作。
また、この「第一次物部侵攻」をニギハヤヒの降臨、神武東征(前半)等とした。
結局、この時の物部侵攻は太田多禰彦が大和の大王に即位して三輪大王と称され(=孝元天皇)、その姉妹のモモソ媛命が三輪山の祭り主、姫巫女に就任すると、
特にモモソ媛命の機転による斬新な祭祀方法(物部が自分たちのシンボルとして拝礼を強要した道教に由来した神獣鏡(平縁)を方便と機転を駆使して三輪山の天照大神(出雲族の太陽の女神)の形代とした端緒)により
上手いこと丸め込まれて物部は大和平定迄は行かずに結果的には失敗に帰して大半が九州に帰郷した。
出雲王国の元王家伝承に言う「第一物部侵攻」から約三代百年有余年過ぎた、
物部イニエ王の時(大和政権はオオヒビ大王(開化/母に物部を持つ最初の大王)~10代彦坐大王の時代)
大陸では魏、呉、蜀の三国が覇権を争う三国鼎立時代、いわゆる三国時代。(三国時代末期には戦乱により中国の三国の総人口は1千万人を大きく割り込んでいたらしい(これ、重要です) )
長年に渡る戦乱で兵員不足を来していた呉国王の孫権は、
台湾~九州(和国)に掛けて大々的な奴隷狩りを行って十万人単位で捕獲する事とし、
二人の将軍に二万の軍を与えて出発させました。
天候や諸々の理由から結局、九州の手前、琉球(奄美)迄は到達しましたが
そこで引き返して帰還しました。
結果、一万人にも満たない「戦果」に呉国王孫権は激怒!
職務怠慢、命令不励行を問い、御苦労様の二人の将軍を処刑しました。
(和国には幸い、)呉国は再び同様な軍事行動を起こす事はなかった。
(古事記では一切触れられていませんが)
この話が佐賀の吉野ヶ里を都とする筑紫王国/物部王国の物部イニエ王にもたらされたらしい。
イニエ王は驚愕、胆を冷やし、中国大陸に開けた北、西九州地方に居ては
再び物量共に勝る中国の大軍に攻撃されたらひとたまりもない事は火を見るより明らか。
どこか安全な場所に移るにしくは無し!
と成るのは自明の理。
慌てて?祖、徐福以来の都、吉野ヶ里を放棄。
九州を南下してイニエ王は球磨地方で兵を集め(後に物部の精鋭、主力となる久米軍)
、、、天の磐坐放ち天の八重雲を千別に千別きて天下り、、、
等と言うような一見?雄壮な話ではなかった。
(「天下り」は現代でも「都落ち」、、、落ちぶれた様。=慌てふためいて急いで逃げ出した)
鹿児島の出雲神族の豪族(国王//大山祇神はクナト大神の事で出雲族を比喩)のドエライベッピンの阿多津姫に一目惚れしたイニエ王は
ソッコーでヨバイ(結婚)をして溜まりに溜まった濃厚な一発必中の濃厚な種水にによりオボコの阿多津姫は一夜でご懐妊。
生目で元気な御子を出産しました。
この御子は出生地の生目に因み、「イクメの御子」と呼ばれました。
、、、後の物部イクメ大王。
(系図上の垂仁天皇。//この方が実際に東征して大和政権と出雲王国を滅ぼし大和に物部王朝を開いた物部王朝の初代。神武の実体。また、スサノオ、ウガヤフキアエズ、山幸彦、崇神、)
竹田さんあなた長寿なんですよそしてアダムとイブそしてアベルとカインそして1〇代目ノアは何才まで生きたのなぜか寿命がみじかくなってくるどうして学者はバカなの(笑)
九州筑前から出土したと推定されている漢委奴国王印は、建武中元二年(57年)とされていますが、それを受け取った王(天皇)は誰なんでしょう?神武天皇なのでしょうか?
奴国は北九州の小さな一王国(部族国家)でした。
神武天皇とは全然関係ありません。
天皇って中東の王族の人達と同じで勝手に王になった自称王族ですよね。
全て推測だよな(笑)事実ではないだろ(笑)
神武天皇は紀元前660年と言うのは極めて正しい、ジンムとは現在ではシンイディンと言う人物で人称格ではジンムディンとなる人物で30万人に人を引き連れ伽耶を作った、その三代目が来日して神武天皇朝をヤマトに建国したその後も10数代ジンムを名乗った、その後欠史8代に於いても各々数代を一纏めに表したものである、伽耶に残存した王朝はヤマト王朝と協力して始皇帝を支援協力してゴール人国家のサイを滅すその後朝鮮半島へ移動2世紀に句耶を朝鮮半島南部に建国2世紀末に日本へ移動を試みるがサーメ人のヤスキの人々に純血性を暴かれ、出雲入りを諦め現在の福井に入り軍勢も連れて来た、大国主のはからいでカガンの称号をイズモから頂く、しかし、お子に恵まれず、ヤマト朝廷と合体、多くの兵士を賄う為開墾の労役を与えた、その後水田を作る労役を与えた各地に水田を作った、それが古墳時代の始まりであった。シンイディンはモーゼと現在呼ばれる、のが森氏でエジプト王族にもなった、ナザレの人々を連れシャカ族の王シバ王から与えられた約束の地アシュールに都を作り森氏の孫の時代に栄えたその子孫がアッシリアを建国その22代目の長男が初代シンイディンで父と北イスラエルを解放ギリシャ勢力を追い出す、アッシリア王は4男に任せ自ら満洲を目指し息子の代に伽耶を建国、ここでヤマトと言うのは場所では無く最初のヤマトは九州にあった、紀元前2世紀に東へ移動を始める、特にサイを滅ぼした事と火山の影響もあり現在大和と呼ばれる地に定住する事になったが、その後歴代天皇は関西の中を移動し都を作った事もある。
神武天皇は卑弥呼から何代目かの王でしょう。
神武の東征から以後、徐々に、或いは百済をめぐって高句麗、唐と戦って敗れたためにヤマトの国は奈良方面に遷都したと見たほうが正しいのではないでしょうか。
何故なら、畿内、奈良方面にはナガスネヒコの国以外大きな国はなかったようですし。
畿内は神武天皇により九州を本拠地とする国に併合されており、奈良方面にあったナガスネヒコの末裔の国が九州方面にあった神武天皇が出た国を亡ぼすことはありえないでしょう。
記紀でも年齢変わってる人がいるのにどうやってそんなの信用するん
春秋など間違いです。
曖昧模糊として根拠がないですね。もう少し勉強して下さい。
2600年前の天皇で660歳まで長生きしたとか❓(^O^)きゃはははは~♬ぷっ
いない人間の話どうでもよい