Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
竹田さんの先祖が神武天皇というのも凄い
動画楽しく拝見しています。興味が出て色々な動画を見ていますが、認識も色々あるようですね。私は学者ではないので自分のいいなと思った動画を信じて学びます。ですが、日本全体の学びで言えば愛国心が育つようになって欲しいと思っています。これからも広く情報を伝えてください
竹田先生いつもわかりやすい動画ありがとうございます。毎日楽しみに見ています。話は違いますが 私も9月入学反対です。日本人なら芽吹きの春に新たな気持ちで出発するのが絶対良いです。『そこまで言って委員会』を見て先生への対応がひどくて、ちょっと悔しかったです。これからも頑張ってください。応援しています。
僕もそう思います。諸外国がそうだから、それに合わせた方が効率がいいとか、経済的だとか、インフルが流行する時期が、受験シーズンになるのは受験生によくないとか、言う方がいらっしゃいますが、だからといって、それに合わせる必要はないと思います。冬眠していた動物が覚め、草木が芽吹き、自然界が活動を始める4月を人生の区切りとするのが、四季のある日本にはふさわしいと思います。草木の葉が散り、動物が冬眠の準備を始め、秋になり冬に向かっていく時期が、人生の区切りでは、寂しいですね。
明治の始まりは9月でしたけどね
4月が良いですね!
2年前のコメントに返信失礼しますが受験時に大雪が降ったりインフルエンザが流行したりするので変えて欲しいと学生さんとかは思ったりすると思います。
関西の地名が神話に基づいている事に感動しました!
白肩というのは山肌が白く剥き出しになっている部分で、人間の上半身を生駒山系に例えると肩に当たる部分で、東大阪から四條畷辺りの山の稜線で、生駒山系の四條畷の163号辺りは山肌がよく見えていたような気がします。山肌が剥き出しになった部分を船で航行する際の目印にしていたのでは。上陸の際には川の流れがあるので川上の枚方辺りまで上って、一気に流れを大勢で下りながら渡ったかもしれません。上陸、草香邑白肩之津→東大阪市日下辺り退却、盾津→東大阪市旧盾津飛行場辺り枚方の語源は白肩之津から取ったように思えます。
神武東征はRPGのような壮大さがある。
面白いです。でも神武東征の方が壮大な物語でしようね。
🇯🇵🎌🇯🇵🎌神武天皇陛下の凄さがわかりますね
神武天皇が実在したと考えますか?その時はまだ日本に国家の形も形成していなかったんですけど?
ひらかたは現在枚方ですが、前は白肩だったんですねー、津までついて。枚方には百済王神社や王仁公園などがあり、百済王や王仁は日本書紀や古事記に登場するみたいですね。
枚方市まで「海」
西日本の地図 おおらかなお絵描き♪いいですね✨
神武東征:大阪の戦いの地へ、船を進められる時代限界...縄文海進から観ると、時代が下っても紀元前50年くらいが妥当との説ありますね。 ただ大阪では、戦前戦後の大阪習俗も学び...戦後直ぐまで、多くが蓮レンコンに覆われた湿地帯。民は、丘を除いて小舟で移動していたと...私の子供の頃でも、古びた小舟が残っていました。たった何十年前まで、湖ではないが湿地(水深2~3m以上、底ぬかるみ粘土質)が多く...3~4世紀くらいなら、船で移動は可能だったと推測されます。 つまり、神武東征は、卑弥呼・台与の邪馬台国時代の後、3~4世紀の頃の話もありかと?
使われている本『現代語古事記』には多祁理宮について「広島県府中市」と書かれていますが、恐らく「広島県安芸郡府中町」の間違いかと思います。そこにある多家神社に神武天皇の碑があります。
先生の航路はいささか問題があります。瀬戸内海は、狭くて、複雑な海流のため、現在の技術を持ってしても、暗礁に船をやり、転覆丸になるような危険な航路です。そんな危険な航路を使わなくても、宮崎から、四国の南側を通るのが建設的かと思います。そしてどうして瀬戸内海の航路は、四国に立ち寄らないのですか?四国には、見えないバリアがあり、近寄ると消し炭になるのですか?
竹田先生は、持論を言っているわけではありません。古事記に書かれていることを説明しているだけです。なぜ瀬戸内海を通ったのか?四国にはなぜ行かなかったのか?もし、それが疑問ならば自分で調べたらどうですか?
北九州の岡田は、現在のJR黒崎駅より南にある岡田宮という神社のあたりだと思います。ここのご祭神は当然ながら神日本磐余彦命(神武天皇)です。
仁徳天皇陵と応神天皇陵は非常に大きいです^_^❗️。
亀に乗った老人といえば、浦島太郎ですねー浦島太郎のモデルは、古代の豪族だと言う説がありますまた、住吉大社に祀られていると言う説がありますよ
亀に乗る神様は、インドの神様で、バルナ神がいらっしゃる様です。その神様は亀に乗っていると言う事ですが、つまりは黒潮の事では無いのでしょうか?海亀は黒潮に乗って長い旅をします。
東雲暁人 ありがとうございます!
速吸門は鳴門海峡じゃないですか?
来たー!神武天皇!
せっかくの国が栄えてる印象には、できた。だから、神武天皇は、国が栄えてるという印象の国が本当か見て回った。どこへ行っても鳥居がもうあったのだ。要するに、鳥居が、縄文時代からもうあったので、どこがどうとか考えなくなった。平和かどうか分からない時も、人間は、どうすれば平和に暮らせるのかを、意外に、戦争よりも考える
八咫烏の霊の声が聞こえて、東征への道がレインロードやと!
浪速の語源は神武東征当時大阪から河内の平野は南から大阪城に掛けての丘陵で仕切られた内海でありその潮汐に伴い淀川に急流が発生していたためではありませんか。
ヤマトタケルノミコトの話がないですね?
日本書紀の神武天皇東征は時代が弥生時代で古すぎますが、モデルになった九州から大和の東征は2回あったと思います。1回目は300年頃で九州の邪馬台国が卑弥呼の死後トヨのあたりに大和に東遷し大和にあった出雲国を滅ぼし、崇神天皇が即位したもので出雲の国譲りと呼ばれたもの。もう一つは400年頃の応神天皇東征で九州倭国の王武内宿禰が九州から大和を東征して、大和に東遷していた邪馬台国を滅ぼして大王となり日本統一しヤマトタケルと呼ばれたものこちらが本物の神武天皇と思われます。すなわち東征は2回あったのではないでしょうかそれでハツクニシラススメラミコトと呼ばれる初代天皇も2人いるのではないでしょうか。
神武と崇仁
神武天皇の頃から、政体(統治)と国体(祭祀)の分業制が始まったんですよね?
たぶん
どうして、その時代の戦い用武器が出ないのかな❓️🤔 防衛側は武器がなかった って❓️🤔
竹田先生、日向って実は糸島市日向峠のことなんですよ!! 景行天皇がすっかり忘れて、宮崎県にいったときに「日向」って名付けたけど、そのときにはもう日向峠のことは忘れていたんです。ついでに、神武天皇の母の玉依姫の墓も糸島市にあって、平原遺跡なんですよ。三種の神器が発掘されています。
イエスキリストとイワレビトの相関が似すぎてる。
先生の話だと関西が「中央」に位置するとその時代に「知っていた」ことになりますね。興味深い…
神武東征が行われた時代 ちょうどアカホヤなど南九州は火山噴火で住めなくなっていたらしい。
アカホヤ火砕流は7,300年前で鉄器も青銅器も存在しなかった時なので、剣も鏡も作れませんが...
秦は一番西の国だった。つまり、どんどん新しい人類が東アジアに移動してきて、圧迫された人たちが日本列島に来るので争いが増える。東征といっても言葉の通じる遠い昔は親戚と思われる地域を統一して国力をまとめ国防を行うといったところだと思う。
Can you understand my English?
😮
超有名人のご先祖様がたくさんいて羨ましいのうw
岡田宮は地元にあり神宮皇后伝説も。 北九州市
イワレビコ一代の、仕事かな❓喩え話としては、本当かも知れませんが、史実としては、無理くりですね❗😅😊
初代天皇というと初めから天皇言ってたように思ってしまう。天武以降に天皇使い始めたのだから歴史的に正しく認識するなら天武より前は天皇言わない方が科学では。"いわれびこのみこと"で、初めはたくさんある国の一国の一王子に過ぎなかった。弥生語の成立と東征の共通点おもしろい。強い正義感があったと読者に思わせる策とか?山の神、海の神、日の巫子の子孫といってもー王子。他国の王族はどうだったんだろう?
まあ神武中心でいいよ
九州時代の神武天皇は邪馬台、或いは邪馬台連合国の国に寄ったんですかね。
小野田少尉は、自著で次のように語っています。自分の先祖は、不撓不屈の精神で神武天皇と戦い、今は、実家の神社にまつられている。また、北条氏に後鳥羽天皇の御陵の守護を命ぜられ、以後80代以上に渡って御料の守護をしておられる方もいます。20年に一度、宮内庁から制服が支給されるようです。特に神武天皇に関する伝承は、神武天皇実在論に向けて重要な史料になると思います。なにしろ文字のない時代のことですから、口で伝わった伝承や、後世書かれた伝承に頼るほかありません。誰か、そのような天皇に関する伝承が集められた本知っていますでしょうか?
> 誰か、そのような天皇に関する伝承が集められた本知っていますでしょうか? ↓そのような天皇に関する伝承が集められた書籍を、どなたか御存知ないでしょうか。…変な敬語を使わないようにw貴殿の御質問については、大部な叢書全集や専門書をおすすめしても金と暇が無いと難しいでしょうから、お手軽に入手可能なもので「神武天皇はたしかに存在した 神話と伝承を訪ねて 」(産経NF文庫)が御要望にかなうものではないかと思います。産経新聞に連載されている日本神話シリーズをまとめたうちの一冊です。
ついでに本書についてのAmazonレビューにあった的確な内容紹介を引用しておきます。「本書は神武天皇の実在を検証する学術論文ではない。産経新聞記者が神武東征伝承の足跡を丹念に辿り、各地に伝わる神社、伝承、神事、祭事などについて宮司、地元大学の教授、郷土史家ら関係者に取材したルポである。記紀に載っていない伝承も多い。その伝承の多彩さに驚かされる。」どうですか、読みたいと思いませんか。
日本書紀と古事記でいいよ
竹田皇族はぜひ次の天皇に
中国地方はモザイクが必要な地方だと、この図を見て初めて思ったw
亀仙人(さおねつひこ)と神武天皇の出会いは日本書紀だと豊予海峡らしいですね。古事記だと速吸門は明石海峡のようですが。どちらにせよ神武東征は、北九州〜瀬戸内に勢力があった海人族の支援を受けていたことは確かなようです。塩土老翁(シオツチノオジ)も海人族のようですので、神武東征は海人族の強い要請だったことが窺われます。
明石ではなく、鳴門海峡でしょう。神武軍はナガスネヒコや畿内の勢力にしてみれば侵略軍です。明石海峡を易々と通れるはずがないんです。ここの豪族は軍を敷いて関所のような機能を持たせ通行する者から通行料を巻き上げて莫大な利益を上げていたんですよ。その富で作ったのが五色塚古墳でしょう。ですから神武軍は鳴門海峡を通るしかないんです。うず潮は天体現象ですから地元の人にとってはいつ起こるかはわかっているはずです。塩土老翁のような水先案内人が必要なんです。
@@ohoyamato 東征の途中の行宮での滞在期間が長いことは、ヤマトの勢力にも強力な水軍があったことが伺えます。水軍の船を用意するには大量の木材と漕ぎ手が必要で、それはもっぱら紀伊国から供給されていたでしょう。後の時代でも熊野水軍が重要な役割をしていますね。神武軍が河内から一旦退き熊野に遠回りしたのは「日に向かって戦うのは良くない」という名目ですが、背後から水軍の攻撃を避け、かつ水軍の拠点を抑えるためだったと推測しています。(和歌山県人の説)奈良県の纒向遺跡の出土品には意外と北九州由来のものが少なく、ヤマト王権が始まった3世紀には畿内と北九州・半島との瀬戸内を通じての交易はまだ本格化していません。ヤマトの勢力は日本海沿岸の出雲を経由して大陸と交易していたものと思います。書き出すと長くなるのですが、倭国大乱や神武東征の背景には九州王朝と出雲王朝の大陸交易をめぐる対立が背景にあると考えています。
やっぱり稲作の発生が戦争の発生なんだな
弥生後期の「倭国大乱」は漢王朝の弱体化による影響が朝鮮半島、日本に波及したものと考えています。
戦争。食糧難
396.10 ~ 397.01
まさに亀仙人
天皇は 東の海を渡って 蘇我氏をつれて 大和に渡来したそして 京都に遷都を開いた なんか甲子園で優勝した京都国際高校の校歌に似ている。
倭人と東鯷人(とうていじん) 『漢書地理志 燕地』楽浪海中 倭人有り 分かれて百余国を為す歳時を以て来たり献見すと云う『漢書地理志 呉地』会稽海外 東鯷人有り 分かれて二十余国を為す歳時を以て来たり献見すと云うこの東鯷人(とうていじん) の 鯷は 日本の端っこを 意味し 神武天皇と戦った銅鐸圏の 長髄彦(ながすねひこ) の人々と 考えます。 長髄彦の本拠地は 東奈良遺跡 (大阪府茨木市)で 銅鐸の鋳型が多数発見され銅鐸圏の中心地です 第10代崇神天皇の時代になっても 未平定であった
古事記は国語の時間にやった方がいいのでは?歴史の授業でやるなら日本書紀なのでは?
歴史じゃないだろ。神話だろ(笑)
それなら先土器時代と縄文時代と弥生時代の今の教科書の記述は歴史じゃないだろ、考古学だろ(笑)と言わないとおかしいでしょw
@@六無斎-x4kまさに仰る通り !
朝鮮人
外国人として、私は良い面しか見当たりません。もう少し年長者を尊重すべきです
竹田さんの先祖が神武天皇というのも凄い
動画楽しく拝見しています。興味が出て色々な動画を見ていますが、認識も色々あるようですね。私は学者ではないので自分のいいなと思った動画を信じて学びます。
ですが、日本全体の学びで言えば愛国心が育つようになって欲しいと思っています。
これからも広く情報を伝えてください
竹田先生いつもわかりやすい動画ありがとうございます。
毎日楽しみに見ています。
話は違いますが 私も9月入学反対です。日本人なら芽吹きの春に新たな気持ちで出発するのが絶対良いです。
『そこまで言って委員会』を見て先生への対応がひどくて、ちょっと悔しかったです。
これからも頑張ってください。応援しています。
僕もそう思います。諸外国がそうだから、それに合わせた方が効率がいいとか、経済的だとか、
インフルが流行する時期が、受験シーズンになるのは受験生によくないとか、言う方がいらっしゃいますが、
だからといって、それに合わせる必要はないと思います。
冬眠していた動物が覚め、草木が芽吹き、自然界が活動を始める4月を人生の区切りとするのが、四季のある日本にはふさわしいと思います。
草木の葉が散り、動物が冬眠の準備を始め、秋になり冬に向かっていく時期が、人生の区切りでは、寂しいですね。
明治の始まりは9月でしたけどね
4月が良いですね!
2年前のコメントに返信失礼しますが受験時に大雪が降ったりインフルエンザが流行したりするので変えて欲しいと学生さんとかは思ったりすると思います。
関西の地名が神話に基づいている事に感動しました!
白肩というのは山肌が白く剥き出しになっている
部分で、人間の上半身を生駒山系に例えると肩に当たる部分で、
東大阪から四條畷辺りの山の稜線で、生駒山系の四條畷の163号
辺りは山肌がよく見えていたような気がします。
山肌が剥き出しになった部分を船で航行する際の目印にして
いたのでは。
上陸の際には川の流れがあるので川上の枚方辺りまで
上って、一気に流れを大勢で下りながら渡ったかもしれません。
上陸、草香邑白肩之津→東大阪市日下辺り
退却、盾津→東大阪市旧盾津飛行場辺り
枚方の語源は白肩之津から取ったように思えます。
神武東征はRPGのような壮大さがある。
面白いです。でも神武東征の方が壮大な物語でしようね。
🇯🇵🎌🇯🇵🎌神武天皇陛下の凄さがわかりますね
神武天皇が実在したと考えますか?
その時はまだ日本に国家の形も形成していなかったんですけど?
ひらかたは現在枚方ですが、前は白肩だったんですねー、津までついて。枚方には百済王神社や王仁公園などがあり、百済王や王仁は日本書紀や古事記に登場するみたいですね。
枚方市まで「海」
西日本の地図 おおらかなお絵描き♪いいですね✨
神武東征:大阪の戦いの地へ、船を進められる時代限界...縄文海進から観ると、時代が下っても紀元前50年くらいが妥当との説ありますね。
ただ大阪では、戦前戦後の大阪習俗も学び...戦後直ぐまで、多くが蓮レンコンに覆われた湿地帯。民は、丘を除いて小舟で移動していたと...私の子供の頃でも、古びた小舟が残っていました。たった何十年前まで、湖ではないが湿地(水深2~3m以上、底ぬかるみ粘土質)が多く...3~4世紀くらいなら、船で移動は可能だったと推測されます。
つまり、神武東征は、卑弥呼・台与の邪馬台国時代の後、3~4世紀の頃の話もありかと?
使われている本『現代語古事記』には多祁理宮について「広島県府中市」と書かれていますが、恐らく「広島県安芸郡府中町」の間違いかと思います。そこにある多家神社に神武天皇の碑があります。
先生の航路はいささか問題があります。瀬戸内海は、狭くて、複雑な海流のため、現在の技術を持ってしても、暗礁に船をやり、転覆丸になるような危険な航路です。
そんな危険な航路を使わなくても、宮崎から、四国の南側を通るのが建設的かと思います。
そしてどうして瀬戸内海の航路は、四国に立ち寄らないのですか?
四国には、見えないバリアがあり、近寄ると消し炭になるのですか?
竹田先生は、持論を言っているわけではありません。
古事記に書かれていることを説明しているだけです。
なぜ瀬戸内海を通ったのか?四国にはなぜ行かなかったのか?もし、それが疑問ならば自分で調べたらどうですか?
北九州の岡田は、現在のJR黒崎駅より南にある岡田宮という神社のあたりだと思います。
ここのご祭神は当然ながら神日本磐余彦命(神武天皇)です。
仁徳天皇陵と応神天皇陵は非常に大きいです^_^❗️。
亀に乗った老人といえば、浦島太郎ですねー
浦島太郎のモデルは、古代の豪族だと言う説があります
また、住吉大社に祀られていると言う説がありますよ
亀に乗る神様は、インドの神様で、バルナ神がいらっしゃる様です。
その神様は亀に乗っていると言う事ですが、つまりは黒潮の事では無いのでしょうか?
海亀は黒潮に乗って長い旅をします。
東雲暁人 ありがとうございます!
速吸門は鳴門海峡じゃないですか?
来たー!神武天皇!
せっかくの国が栄えてる印象には、できた。だから、神武天皇は、国が栄えてるという印象の国が本当か見て回った。どこへ行っても鳥居がもうあったのだ。要するに、鳥居が、縄文時代からもうあったので、どこがどうとか考えなくなった。平和かどうか分からない時も、人間は、どうすれば平和に暮らせるのかを、意外に、戦争よりも考える
八咫烏の霊の声が聞こえて、東征への道がレインロードやと!
浪速の語源は神武東征当時大阪から河内の平野は南から大阪城に掛けての丘陵で仕切られた内海であり
その潮汐に伴い淀川に急流が発生していたためではありませんか。
ヤマトタケルノミコトの話がないですね?
日本書紀の神武天皇東征は時代が弥生時代で古すぎますが、モデルになった九州から大和の東征は2回あったと思います。1回目は300年頃で九州の邪馬台国が卑弥呼の死後トヨのあたりに大和に東遷し大和にあった出雲国を滅ぼし、崇神天皇が即位したもので出雲の国譲りと呼ばれたもの。もう一つは400年頃の応神天皇東征で九州倭国の王武内宿禰が九州から大和を東征して、大和に東遷していた邪馬台国を滅ぼして大王となり日本統一しヤマトタケルと呼ばれたものこちらが本物の神武天皇と思われます。すなわち東征は2回あったのではないでしょうかそれでハツクニシラススメラミコトと呼ばれる初代天皇も2人いるのではないでしょうか。
神武と崇仁
神武天皇の頃から、政体(統治)と国体(祭祀)の分業制が始まったんですよね?
たぶん
どうして、その時代の戦い用武器が出ないのかな❓️🤔
防衛側は武器がなかった って❓️🤔
竹田先生、日向って実は糸島市日向峠のことなんですよ!! 景行天皇がすっかり忘れて、宮崎県にいったときに「日向」って名付けたけど、そのときにはもう日向峠のことは忘れていたんです。
ついでに、神武天皇の母の玉依姫の墓も糸島市にあって、平原遺跡なんですよ。三種の神器が発掘されています。
イエスキリストとイワレビトの相関が似すぎてる。
先生の話だと関西が「中央」に位置するとその時代に「知っていた」ことになりますね。
興味深い…
神武東征が行われた時代 ちょうど
アカホヤなど南九州は火山噴火で住めなくなっていたらしい。
アカホヤ火砕流は7,300年前で鉄器も青銅器も存在しなかった時なので、剣も鏡も作れませんが...
秦は一番西の国だった。つまり、どんどん新しい人類が東アジアに移動してきて、圧迫された人たちが日本列島に来るので争いが増える。
東征といっても言葉の通じる遠い昔は親戚と思われる地域を統一して国力をまとめ国防を行うといったところだと思う。
Can you understand my English?
😮
超有名人のご先祖様がたくさんいて羨ましいのうw
岡田宮は地元にあり神宮皇后伝説も。 北九州市
イワレビコ一代の、仕事かな❓
喩え話としては、本当かも知れませんが、史実としては、無理くりですね❗😅😊
初代天皇というと初めから天皇言ってたように思ってしまう。天武以降に天皇使い始めたのだから歴史的に正しく認識するなら天武より前は天皇言わない方が科学では。"いわれびこのみこと"で、初めはたくさんある国の一国の一王子に過ぎなかった。
弥生語の成立と東征の共通点おもしろい。
強い正義感があったと読者に思わせる策とか?山の神、海の神、日の巫子の子孫といってもー王子。他国の王族はどうだったんだろう?
まあ神武中心でいいよ
九州時代の神武天皇は邪馬台、或いは邪馬台連合国の国に寄ったんですかね。
小野田少尉は、自著で次のように語っています。
自分の先祖は、不撓不屈の精神で神武天皇と戦い、今は、実家の神社にまつられている。
また、北条氏に後鳥羽天皇の御陵の守護を命ぜられ、以後80代以上に渡って御料の守護をしておられる方もいます。20年に一度、宮内庁から制服が支給されるようです。
特に神武天皇に関する伝承は、神武天皇実在論に向けて重要な史料になると思います。なにしろ文字のない時代のことですから、口で伝わった伝承や、後世書かれた伝承に頼るほかありません。誰か、そのような天皇に関する伝承が集められた本知っていますでしょうか?
> 誰か、そのような天皇に関する伝承が集められた本知っていますでしょうか?
↓
そのような天皇に関する伝承が集められた書籍を、どなたか御存知ないでしょうか。
…変な敬語を使わないようにw
貴殿の御質問については、大部な叢書全集や専門書をおすすめしても金と暇が無いと難しいでしょうから、お手軽に入手可能なもので「神武天皇はたしかに存在した 神話と伝承を訪ねて 」(産経NF文庫)が御要望にかなうものではないかと思います。産経新聞に連載されている日本神話シリーズをまとめたうちの一冊です。
ついでに本書についてのAmazonレビューにあった的確な内容紹介を引用しておきます。
「本書は神武天皇の実在を検証する学術論文ではない。産経新聞記者が神武東征伝承の足跡を丹念に辿り、各地に伝わる神社、伝承、神事、祭事などについて宮司、地元大学の教授、郷土史家ら関係者に取材したルポである。記紀に載っていない伝承も多い。その伝承の多彩さに驚かされる。」
どうですか、読みたいと思いませんか。
日本書紀と古事記でいいよ
竹田皇族はぜひ次の天皇に
中国地方はモザイクが必要な地方だと、この図を見て初めて思ったw
亀仙人(さおねつひこ)と神武天皇の出会いは日本書紀だと豊予海峡らしいですね。古事記だと速吸門は明石海峡のようですが。
どちらにせよ神武東征は、北九州〜瀬戸内に勢力があった海人族の支援を受けていたことは確かなようです。
塩土老翁(シオツチノオジ)も海人族のようですので、神武東征は海人族の強い要請だったことが窺われます。
明石ではなく、鳴門海峡でしょう。神武軍はナガスネヒコや畿内の勢力にしてみれば侵略軍です。明石海峡を易々と通れるはずがないんです。ここの豪族は軍を敷いて関所のような機能を持たせ通行する者から通行料を巻き上げて莫大な利益を上げていたんですよ。その富で作ったのが五色塚古墳でしょう。
ですから神武軍は鳴門海峡を通るしかないんです。うず潮は天体現象ですから地元の人にとってはいつ起こるかはわかっているはずです。塩土老翁のような水先案内人が必要なんです。
@@ohoyamato 東征の途中の行宮での滞在期間が長いことは、ヤマトの勢力にも強力な水軍があったことが伺えます。
水軍の船を用意するには大量の木材と漕ぎ手が必要で、それはもっぱら紀伊国から供給されていたでしょう。後の時代でも熊野水軍が重要な役割をしていますね。
神武軍が河内から一旦退き熊野に遠回りしたのは「日に向かって戦うのは良くない」という名目ですが、背後から水軍の攻撃を避け、かつ水軍の拠点を抑えるためだったと推測しています。(和歌山県人の説)
奈良県の纒向遺跡の出土品には意外と北九州由来のものが少なく、ヤマト王権が始まった3世紀には畿内と北九州・半島との瀬戸内を通じての交易はまだ本格化していません。ヤマトの勢力は日本海沿岸の出雲を経由して大陸と交易していたものと思います。
書き出すと長くなるのですが、倭国大乱や神武東征の背景には九州王朝と出雲王朝の大陸交易をめぐる対立が背景にあると考えています。
やっぱり稲作の発生が戦争の発生なんだな
弥生後期の「倭国大乱」は漢王朝の弱体化による影響が朝鮮半島、日本に波及したものと考えています。
戦争。食糧難
396.10 ~ 397.01
まさに亀仙人
天皇は 東の海を渡って 蘇我氏をつれて 大和に渡来したそして 京都に遷都を開いた なんか甲子園で優勝した京都国際高校の校歌に似ている。
倭人と東鯷人(とうていじん)
『漢書地理志 燕地』
楽浪海中 倭人有り 分かれて百余国を為す
歳時を以て来たり献見すと云う
『漢書地理志 呉地』
会稽海外 東鯷人有り 分かれて二十余国を為す
歳時を以て来たり献見すと云う
この東鯷人(とうていじん) の 鯷は
日本の端っこを 意味し 神武天皇と戦った
銅鐸圏の 長髄彦(ながすねひこ) の人々と
考えます。
長髄彦の本拠地は 東奈良遺跡 (大阪府茨木市)で
銅鐸の鋳型が多数発見され銅鐸圏の中心地です
第10代崇神天皇の時代になっても 未平定であった
古事記は国語の時間にやった方がいいのでは?歴史の授業でやるなら日本書紀なのでは?
歴史じゃないだろ。神話だろ(笑)
それなら
先土器時代と縄文時代と弥生時代の今の教科書の記述は歴史じゃないだろ、考古学だろ(笑)
と言わないとおかしいでしょw
@@六無斎-x4k
まさに仰る通り !
朝鮮人
外国人として、私は良い面しか見当たりません。もう少し年長者を尊重すべきです