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「シシュフォスの神話」は、まさに 自分の思想の集大成がここにあり! と感じた本です。
返信が遅くなって申し訳ありません。おお、そうですか。「シーシュポスは幸福だと想像しなければならない」なんてかっこいいですものね。
ありがとうございます!シーシュポスの神話を読むのに役立ちます!本当に!!!
こちらこそご覧いただきありがとうございます。お役に立てたのであれば光栄です。
めちゃくちゃ分かりやすいかんしゃぁ
ご視聴ありがとうございます。そう言っていただけるとなによりです。
大変勉強になりました。ありがとうございます。
こちらこそありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
はじめまして、よすかといいます。カミュの作品である「異邦人」ムルソーをテーマにしたキャラクターがリンバスカンパニーというゲームで登場しているので先生の感想を拝読しなるほどなとムルソーという人間に対して認識を変えられました。昨日、先生のことを知りなんとか連絡を取って感謝の言葉と共に動画で紹介させてもらいたかったのですが連絡先がわからずここでコメントを残させてもらいます。
コメントありがとうございます。ネットでリンバスカンパニーを調べて見ましたが、ムルソー以外にもファウストとかドン・キホーテとかいるんですね。へえ……
@@演劇ユニットチーム銀河チャンネル はい、文学に入りやすいと思います。文豪とアルケミストなど文豪をモチーフとしたゲーム、アニメもあるので深く知りたい!!と思わせられますね。カミュが産み出したムルソーというキャラクターはアダルトチルドレンなのでは?と私は考えています
学ぶことには順序がある。生きることを学んでから、考えることを学ぶ。
ドストエフスキーの「悪霊」に登場するキリーロフとスタブローギンという二人の人物によって啓示(?)された概念が、カミュによって不条理と名付けられたということでしょうか?
カミュはドストエフスキーの影響をモロに受けていて、晩年には『悪霊』を舞台化もしています。また、『シーシュポスの神話』ではキリーロフに1章を割いています。そこでカミュはキリーロフは「自殺をするという一点を除いて、彼は不条理な人間だ」と述べています。カミュによれば、ドストエフスキーは最終的に「永遠の命(来世)への信仰」に「飛躍」することである意味不条理を裏切っていることになるのですが、しかしドストエフスキーの作品の価値は、人生には意味があるか、人生は生きる価値があるかという問題にドストエフスキーが与えた回答にあるのではなく、そういう問題を自らに提起し、全身全霊をかけてそれと格闘する人物たちを作り出した点にあるとしています。
全く別の話になりますが、この「演劇ユニット・チーム銀河チャンネル」にあげた芝居『オズの部屋探し』ではドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をキーモティーフに使っています。もしよければご覧ください。
@@演劇ユニットチーム銀河チャンネル さん。役者さんだったんですね!
@@演劇ユニットチーム銀河チャンネル さん。カミュが「悪霊」を舞台化しているとは知りませんでした。「異邦人」は「シーシュポスの神話」と対をなして成立している作品かもしれませんね。「悪霊」が「異邦人」に先立つこと数十年(一世紀近く?)に書かれたことを考えるとき、つくづくドストエフスキーは恐るべき作家だと思います。
フランス文学者で大学教授で役者で劇作家で一男一女の父親でもあります(笑)。
カミュ的意味における不条理の解釈の多様性はないのでしょうか? カミュ的意味における不条理は1つだというとれるような発言がありますが、こうでないといけないというのは無いと思うのですが。独創的なカミュ的意味における不条理解釈はないのでしょうか?
コメントありがとうございます。定義というのは基本的には一つのものであり、そうでなければ混乱が起きてしまうと思います。解釈は読者あるいは研究者側の問題ですから自由ですし、たくさんあっていいのでしょうが、「不条理」を「独創的に解釈」すれば、それはすでに「カミュ的意味」の不条理ではなくなってしまうように思えます。
@@演劇ユニットチーム銀河チャンネル 回答ありがとうございます。用語定義は、学問によって違うと思うのですが、カミュ文学では、作者が用語定義をしているのでしょうか? つまり、『「カミュ的意味」の不条理』はこういうものですと、最初に設定しているのでしょうか? 「解釈は読者あるいは研究者側の問題」は自由だが、作者カミュは、『「カミュ的意味」の不条理』を設定していて、これ以外の意味はありませんということになるのでしょうか?日本文学だと、あまり『「カミュ的意味」の不条理』のようなものを設定している作者が多くないように思えますが(けっこう曖昧に創作している作者が多い)、哲学の基盤があるフランス(アルジェリア)では一般的な事なのでしょうか?
はい、動画の中でも言っていますように、カミュ自身が『シーシュポスの神話』の中で定義しています。『シーシュポスの神話』は哲学書ですから、文学作品の場合とは少し違うのかもしれません。
山上徹也も逃げませんでした。まさに不条理に反抗した彼は何を語るのだろう。
全ての経験が等価なのであれば、多く生きる事も少なく生きる事も等価なのでは?
なるほど。そういう考え方もあるかもしれませんね。それがニヒリズム(虚無主義)と呼ばれるものだろうと思います。
「シシュフォスの神話」は、まさに 自分の思想の集大成がここにあり! と感じた本です。
返信が遅くなって申し訳ありません。おお、そうですか。「シーシュポスは幸福だと想像しなければならない」なんてかっこいいですものね。
ありがとうございます!シーシュポスの神話を読むのに役立ちます!本当に!!!
こちらこそご覧いただきありがとうございます。お役に立てたのであれば光栄です。
めちゃくちゃ分かりやすい
かんしゃぁ
ご視聴ありがとうございます。そう言っていただけるとなによりです。
大変勉強になりました。ありがとうございます。
こちらこそありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
はじめまして、よすかといいます。カミュの作品である「異邦人」ムルソーをテーマにしたキャラクターがリンバスカンパニーというゲームで登場しているので先生の感想を拝読しなるほどなとムルソーという人間に対して認識を変えられました。
昨日、先生のことを知りなんとか連絡を取って感謝の言葉と共に動画で紹介させてもらいたかったのですが連絡先がわからずここでコメントを残させてもらいます。
コメントありがとうございます。ネットでリンバスカンパニーを調べて見ましたが、ムルソー以外にもファウストとかドン・キホーテとかいるんですね。へえ……
@@演劇ユニットチーム銀河チャンネル
はい、文学に入りやすいと思います。文豪とアルケミストなど文豪をモチーフとしたゲーム、アニメもあるので深く知りたい!!と思わせられますね。カミュが産み出したムルソーというキャラクターはアダルトチルドレンなのでは?と私は考えています
学ぶことには順序がある。生きることを学んでから、考えることを学ぶ。
ドストエフスキーの「悪霊」に登場するキリーロフとスタブローギンという二人の人物によって啓示(?)された概念が、カミュによって不条理と名付けられたということでしょうか?
カミュはドストエフスキーの影響をモロに受けていて、晩年には『悪霊』を舞台化もしています。また、『シーシュポスの神話』ではキリーロフに1章を割いています。そこでカミュはキリーロフは「自殺をするという一点を除いて、彼は不条理な人間だ」と述べています。カミュによれば、ドストエフスキーは最終的に「永遠の命(来世)への信仰」に「飛躍」することである意味不条理を裏切っていることになるのですが、しかしドストエフスキーの作品の価値は、人生には意味があるか、人生は生きる価値があるかという問題にドストエフスキーが与えた回答にあるのではなく、そういう問題を自らに提起し、全身全霊をかけてそれと格闘する人物たちを作り出した点にあるとしています。
全く別の話になりますが、この「演劇ユニット・チーム銀河チャンネル」にあげた芝居『オズの部屋探し』ではドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をキーモティーフに使っています。もしよければご覧ください。
@@演劇ユニットチーム銀河チャンネル さん。役者さんだったんですね!
@@演劇ユニットチーム銀河チャンネル さん。カミュが「悪霊」を舞台化しているとは知りませんでした。「異邦人」は「シーシュポスの神話」と対をなして成立している作品かもしれませんね。「悪霊」が「異邦人」に先立つこと数十年(一世紀近く?)に書かれたことを考えるとき、つくづくドストエフスキーは恐るべき作家だと思います。
フランス文学者で大学教授で役者で劇作家で一男一女の父親でもあります(笑)。
カミュ的意味における不条理の解釈の多様性はないのでしょうか? カミュ的意味における不条理は1つだというとれるような発言がありますが、こうでないといけないというのは無いと思うのですが。
独創的なカミュ的意味における不条理解釈はないのでしょうか?
コメントありがとうございます。
定義というのは基本的には一つのものであり、そうでなければ混乱が起きてしまうと思います。
解釈は読者あるいは研究者側の問題ですから自由ですし、たくさんあっていいのでしょうが、「不条理」を「独創的に解釈」すれば、それはすでに「カミュ的意味」の不条理ではなくなってしまうように思えます。
@@演劇ユニットチーム銀河チャンネル 回答ありがとうございます。
用語定義は、学問によって違うと思うのですが、カミュ文学では、作者が用語定義をしているのでしょうか? つまり、『「カミュ的意味」の不条理』はこういうものですと、最初に設定しているのでしょうか?
「解釈は読者あるいは研究者側の問題」は自由だが、作者カミュは、『「カミュ的意味」の不条理』を設定していて、これ以外の意味はありませんということになるのでしょうか?
日本文学だと、あまり『「カミュ的意味」の不条理』のようなものを設定している作者が多くないように思えますが(けっこう曖昧に創作している作者が多い)、哲学の基盤があるフランス(アルジェリア)では一般的な事なのでしょうか?
はい、動画の中でも言っていますように、カミュ自身が『シーシュポスの神話』の中で定義しています。『シーシュポスの神話』は哲学書ですから、文学作品の場合とは少し違うのかもしれません。
山上徹也も逃げませんでした。まさに不条理に反抗した彼は何を語るのだろう。
全ての経験が等価なのであれば、多く生きる事も少なく生きる事も等価なのでは?
なるほど。そういう考え方もあるかもしれませんね。それがニヒリズム(虚無主義)と呼ばれるものだろうと思います。