Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
皆様コメントありがとうございます。アンチ的内容でなくても、禁止ワード的な単語はお避け下さいませ。私の意思関係なく勝手にAIで消されてしまいますので。
何回見ても面白い(笑) やはり綿密な考証と独特な語り口が勝逸な物語を語る。日本の隠された闇、明かされない伝承、興味は湧くけれど、この語り口には脱帽する。未だある多くの語られない歴史、閉ざされゆく時間の記憶…次が待ち遠しい
恐れ入ります、ありがとうございます。
鹿児島市に来て下さりありがとうございます。以前、城山観光ホテルで義父の古希祝いのパーティをやりました。その晩に夢を見ました。若い男性が2人の赤子を連れてきて、「お願いします。この子らを預かって貰えませんか?」私「あれ?この子達のお母さんは?」「今は事情があって...でも必ず後ほど母親に迎えに行かせます!」私「良いですよ」と赤子を預かり夢から覚めました。何だろう?と調べたら、伊集院に妻子を残して城山で戦死した人が居たようです。夜中に伊集院まで走り、妻子に会ってまた夜中に城山に帰ってきた。幼子を残して戦死した。あの子達はどうなった?という思いが残りたまたま波長が合った私に思いが伝わった。その遺児等は立派に育ち、アメリカに留学して日米関係に尽くしたそうです。名前は失念しました😅
興味深い
@@marin-t1t なんとも切ない話ですね。
城山…良いところですねこの人と信じて最後の40人でいられたことに悔しさもあるでしょうが、誇りと喜びで散っていったのだろうな、と思います。人生でそんな人に出会えたのは羨ましいです。もっと西郷が生きた先の世界線を見たかったです。どんな日本になっていたのでしょう。私の浅〜い歴史観に新しい気づきを与えてくださりありがとうございます。隊長、素晴らしい動画でした
西郷もその前に、もう勝てないから、離れるものは離れろと言い、残ったメンバーでしょうからね。戦って散ると自分の意志で決めた者たちですね。
生まれも育ちも岩崎谷そして西郷隆盛終焉の地の近く中学は市電で涙橋を越えて谷山まで通いそして高校はハスラー50でこの岩崎谷から城山を越えて毎日通ったものですそんな訳で西郷さんを小さな頃から肌で感じながら育ちました西郷さんが撃たれた体を引きずりながら城山から下った岩崎谷そしてその60数年後には桜島を目掛け錦江湾を真珠湾に見立ててゼロ戦が城山から岩崎谷を下っていきましたやがて日本全土が焦土となる太平洋戦争への道をどんな思いで西郷さんは観ていただろうか?そんなことをよく考えたものですそんな遥か昔のことを懐かしく思い出しました本当にありがとうございました🙏
なるほど、ゼロ戦が桜島にいったのは演習ですかね。
いつも引き込まれるナレーション、感謝いたします。2:02:マッチ...のくだり、詮索するつもりはありませんが、年代的に親近感を感じました。
年齢のわりにはマッチは少し上かもです笑
政府軍の軍楽隊の演奏後に城山の薩軍からアコーディオンの返礼の演奏があったとも言われています。お互いの信念をかけた争いの中でも粋な振る舞いがあったと思うと感慨深いです。次回の動画も楽しみにしてます
それは知らなかった、、
@@淡雪大ちゃん 武門の礼か……。函館の戦争でも、榎本武揚が当時の貴重な書籍「海律全書」上下二巻を戦火で焼失させるのは惜しいからと薩摩の黒田清隆(当時は了介)へ送った際に、返礼として酒樽と鮪が贈られた話もありましたな……。
@@九戸政実-z6p 北は函館にもそのような史実、1つの物語があったのですね。自身でも調べてみましたがその後榎本武揚と黒田清隆が親戚関係に発展したというのも知れました。礼を尽くして生まれるものや縁というのもやっぱりあるのでしょうかね。私も新たな見聞を深めることができました!ありがとうございます!
待ってました!歴史に疎い私には聞き慣れない言葉が出てきますが毎回興味津々に観ています😊なにか引かれるモノがあるんですよねぇ。また楽しみに待っています。
大久保とせごどん。幼なじみで共に志し同じだったのにベクトルの違いか…せごどんの死を知って大久保はどんな気持ちだったのかな。ホテルや街中、至るところが心霊スポットじゃなかろうかと思いながら拝見致しました。マッチってすみません、近藤真彦ですか?そんなワインの飲み方するのか⁉️と気を取られてしまいました!今回も感慨深い動画おもしろかったです。ありがとうございました。鹿児島に想いを馳せて…
大久保は襲われて命を落としたとき、ちょうど西郷の生前の手紙を読んでいたという話もあります。
城山観光ホテルの裏にある墓地に実家の墓があります。今は実家に帰るときに行く墓参りでしか行くことはないですが、高校卒業まで何度もこの道を通りました。自分も西郷らは最後にここで何を考えて過ごしていたのだろうと思いながら墓参りに向かっていたのを思い出します。すぐ近くの島津のお城の城壁にも西南戦争の頃の銃弾跡が多く残っているので、鹿児島に訪れる方は見ていってほしいです。何発も銃弾跡があるので相当過激な戦いだったのだろうと思います。また、有名な話かもしれませんが、親友の大久保利通も政府に尽力し、亡くなった後数億の借金があったらしいのですがそれは今の日本を発展させるために公共事業に出資していたみたいですね。二人とも日本のために尽くしてくれた英雄の一人だと思います。長話失礼しました。
大久保は西郷と比べると人気がよわいですが、彼もまた日本のために尽力したのでしょう。
素晴らしい動画、アップありがとうございます。見終わったあとも涙が止まりません。
とても興味深くいつも楽しみにしております。全ての動画を、旧い作品順に何度も見返しています。知らない事ばかりで貴重な経験になります。ありがとうございます。
ありがとうございます。とても嬉しいです。私の動画は時事動画でなく、歴史の永久保存版的なものなので、いつでも見られます。
涙橋の南に処刑場がありました。鹿児島南駅の先に小さい彦四郎川があります。その川沿いが処刑場です。罪人の死骸はそこの谷山街道に並べられ晒されました。ヒエモン取りはあったのでしょうね。彦四郎川は今は途中からコンクリートで覆われて地下を流れています。紫原も西南戦争の激戦区でした。紫原の下の崖は地獄谷と呼ばれて年寄りは子や孫らにあそこには行くな!と注意していたとか。涙橋の北側には昔の牢屋がありました。今は唐湊墓地になり異様な景観を醸し出しています。その下のJR線のカーブには昔から飛び込みが絶えません😱処刑場近くのホンダ前交差点は事故多発地帯です。
らしいですね、、おもいっきり住宅街ですよね。跡地にお寺とかもない。。
@@marin-t1t 宮城県の七北田のような地区やな……😱。(仙台・伊達家の処刑場だった)
めっちゃ地元だ…
幕末から維新後の手を伸ばしたらあと一歩で届きそうな届かない時間に惹かれます。父が鹿児島出身なのですが、母が山口出身で結婚する時に大変だったと聞いています。大久保卿も西郷さんもどんな気持ちだったのでしょうか。維新志士の気持ちは計り知れません。いつか両親を連れて行きたいと思います。いつも見たいものを見せて下さってありがとうございます。
大変でしょうね、それは。。今でも色々あるみたいだから。
@@カナ-h9h え、そんなしがらみがあるんですか。私の知り合いに、福岡の人で、会津の人と結婚しようとしたら「福岡は毛利の土地だった事がある」とのことで相手の親に反対されたって怒ってましたけど、長州と薩摩にもあったんですか。
有名な薩長同盟 同盟の単語に隠された間に底しれぬ 疑心暗鬼があると 思います それが今の利権(資本主義)に繋がります 人間の欲の潜在的な意識の本質だと思います
西南戦争が始まる前の情報(スパイ)合戦!大事な役割だったと思います。西郷さんが東京でスパイをかわしながら薩摩へ帰る時お供をしたのが私の先祖です。その後直接西南戦争へ参加した記録が見当たりませんが大久保さんの秘書を務めています。寝返りも考えましたが西郷さんも頭の良い方なので私はおそらくスパイとして送り込んだのではないかと考えています。根拠は私の祖母が幼い私を連れてよく明治維新記念品などを加治屋町近辺で配っていたからです。楽しい配信ありがとうございました🙇♂️
なるほど
いいホテルだ景色もいい…宿は旅の楽しみですね。ギンギラギンにさりげなく九州編、内容はどれも素晴らしく楽しませていただきました。
ホテルはよかったです
西郷が最期に立ち向かう時がたった40人。そして最期の最期は敵に討たれるでなく自ら命を絶った。幼馴染と敵対し、互いに理想を掲げ、戦い抜いた西郷はきっと後悔はなかったのかもしれない。ラストサムライ。どうか安らかに眠って欲しい。
待ってました☺️
…桜島に行かないで、忌み地巡り…マニアック過ぎる。だがそれがいい
刑場跡や合戦場、忌み地とか、今回も本当に面白いです。毎回興味深くワクワク視聴すると同時に、いつどのタイミングでギンギラギンにさりげなく「マッチ」というパワーワードが出てくるかと期待している自分がいます。。。
マッチはたまにしかでません、笑
幕末から明治初期は動乱すぎて血が流れすぎてますね。いくら危険な思想があったとしても、危険因子だと断定して、結局歯車が噛み合ったように西郷隆盛率いる反乱軍を倒すという構図になってしまうのは悲しい。明治を作った中心人物達がなんの因果か誰かの手で倒されるのは偶然なのか疑いたくなりますね。
お疲れ様です!😊動画待ってました!涼しくなったので体調には寄与つけてください!
武士達の最後の地、ですか、これも時代の流れに逆らえなかったですね、幕末から明治初期にかけてたくさんの志士たちが命を落としてるんですね、なんと儚いのでしょうか、いつも良き動画有難う御座います、。
私も西郷隆盛達が最後にこもった洞窟を観て来ました。何とも言えない気持ちになりました。
今は普通の住宅のそばですからね
鹿児島編、ありがとうございます🙏鈍く光る程の闇の旅人。今回も供に巡礼に赴くような想いで拝見しました。終わりを悟った西郷どんの眼に、故郷の海はどう映ったのでしょう。文字通り、LAST SAMURAI だったのですね。合掌🙏ホテルでのお食事の際に出て来られたのが可愛かったです
次は奈良あたり行きたいですね~
汚職政治家同士の足の引っ張り合いではなく最後の武士の戦
誠に
ホテルの動画、私は密かに楽しみにしております。ブッフェ料理を狙う小僧猫ちゃんが可愛いです。11月なのに変に暑かったりしますから、体調崩さないように、お身体お大事になさって下さいませ。
ありがとうございます。ホテル動画が好きなマニアックな応援、ありがたいです。
自分はこの西郷隆盛(隆永)の終焉の地や洞窟、城山や市内の場所を訪れた事があります。鹿児島の話では吉之助さあ(鹿児島ではこう呼ばれている)の首は生き残ったものが官軍の手に渡らぬ様に持ち去ったと書かれていましたね。個人の勝手な推量ですが、西郷は反乱が起きた時にはもう死を覚悟していたと思います。そして日本の未来を大久保らに託して、自ら不平分子や郷士と共に散っていったんだと思います。🙏これからは武士の時代ではないとゆう事を日本中にいる侍達に教える為に…
西郷は最初から覚悟してたでしょうね。ただ、熊本城がおとせなかったのは誤算だったはずです。官軍に負けたのではなく、加藤清正の築城に負けた、と西郷は言ったそう。
自分も その頃 鹿児島の吹上温泉にいました。西郷さんも来たことがあるみたいですね。みどり荘と中島温泉旅館に それぞれ1泊しました。みどり荘は特攻隊が最後に泊まっていたとのこと あまり当時と変わらず この景色を見ていたと思うと 涙が出てきました。中島温泉旅館は座敷わらし 神様がいる湯治部屋に泊まりましたが熟睡してしまい わかりませんでした。是非とも吹上温泉 面白いのでいらしてください。
座敷わらし、いいですね
城山は私も行きましたが動画にもあるように忌み地の坂道一帯が住宅街なのには驚きました。鹿児島の方々には聖地なんでしょう。南洲墓地では無数の墓石が西郷さんを中心に 桐野利秋、篠原国幹、村田新八など、そうそうたる武士が並ぶ景色に圧倒されました。
そう、伝説の人斬りとかもいますからね
マッチさんを克服したと思われる私です!やはり素晴らしい動画ですね。マッチさんに臆することなく拝見してよかったです!!!毎回、ご尊敬申し上げます。ショパンの「葬送〜」と戦闘シーンの絵図がマッチ(←(@△@;)ハッ!)していて、ちょっと泣きそうになりました。それにしても政府軍は楽隊連れで演奏する余裕を見せて、「なんか嫌味だなぁ〜」と、それもこの時代に わざとらしく外国の曲流すなんて、カブれてるなぁ〜と、「先鋭的だってこんなところでも示したいの?ダサ」と穿った見方をしてしまいます。それはそうと、「葬送〜」は序盤の有名なフレーズより、転調(?)した後の少しだけ明る目の運びとなる流れが余計に悲しく、叙情的で好きです。当然、他の戦もですが、西南戦争も壮絶ですね。。。説明を拝聴しながら、なぜか島原の乱を思い浮かべてしまいました。なぜかは不明ですが。。。また、岩の洞窟の映像では、なぜか鎌倉の「やぐら」や、護良親王 御土牢(鎌倉宮)を連想してしまいました。話は変わりますが、実家から徒歩10〜15分くらいに娘さんが「人柱」で有名な堰があります。場所は知らなかったのですが、調べに調べまくったら、実家のそばと分かり、心から驚愕しました。数日後、帰省するので、お参りに行ってみるつもりです。お花とお線香と甘いお菓子を持って。。。主様の動画と出会わなければ、「調べてみよう。そして行ってみる✊いや、行くべきだ」とは思わなかったです。どうもありがとうございます。次回の動画も楽しみにしております。お体ご自愛くださいませ。m(_ _)m
ありがとうございます。マッチを克服できてよかったです。人柱どこだろう、全国にありますからね。気になる。
@@怪奇な歴史研究室 さま人柱の場所ですが、もし興味がおありでしたらDMでお知らせさせていただければと…この人柱の話は「民話」として、子供の頃から随分と聞かされました。あまりにも信じられない話で、幼い私は勝手に「御伽噺」だと思っていましたが、物心着くころ「ガチ実話」と聞かされ、衝撃的でした。とある理由で、場所は全然違うところだと思っておりましたのに、つい数ヶ月前、実家の近くだと知り、重ね重ねショックでした。自分の無知さにも、です。で、改めて話の内容を精査してみますと、どうやら「私の先祖が当事者の1人なのでは…」と…。いつも長々すみません。大変失礼しました。m(_ _)m
興味ありますよ。そういえば福井の人柱のとか、行ったけどまだ動画にしてない。。ストック動画になってる。
楽しみにしてました~!w ネコちゃんもみたし、満足で~す!😊
ありがとうございます。
動画をありがとうございます!鹿児島市は昔からよく行っており、城山ホテルも何度もいきました。西郷洞窟も何度もいきましたが、昭和の頃は資料館もなく、西郷洞窟を見て終わり、なカンジでした(;´Д`)たしかに、夜にこの付近のトンネルを通るのは、何となく怖さがあるかも。ココで亡くなった人達は皆覚悟した武士なので、怨霊にはなっていない、と信じたい。大久保さんは西郷さんをどうにかして、助けようとしたんですよね。西南戦争の戦地に赴き、話をつけようとした。でも、三条実美等に邪魔されて、最後まで西郷さんに会うことが叶わなかった。「時代が変わる時には、誰かが死ななければならん」西郷さんと大久保さんの言葉、とても深くて、切ないなぁと思います。長文失礼しました!
あの資料館の洞窟は何の洞窟か気になりました。資料館にするためだけに掘ったのかな。。
@@怪奇な歴史研究室 さん多分、そうだと思います。昔はあの洞窟、無かったような🤔西郷さんが入っていた洞窟には、前は、座っている西郷さんの蝋人形が置いてあって、ちょっと怖かったのを覚えています😓
へー人形が昔はあったのか!
西郷洞窟の写真は様々な媒体に掲載されているので知っていました。でも西郷さん達が進んだ道を進み、景色を見る体験は初めてです。言葉に言い表せない感動を覚えました。城山のホテル素敵ですね。「むだにツイン」が刺さりました。
凄惨な戦いの地も今は住宅で。地元じゃ聖地みたいな感じでしょうね。
恥ずかしいことに日本の教育は10代まででその後海外移住したため、西郷隆盛の名前は知っていても詳しい史実を知らないまま、婆さんになってしまいました。この動画大変ありがたいです。楽しみにしています。ありがとうございます。
怪奇な歴史研究室のオーナー、おやっとさぁ。西南戦争は言われてる通り、最後の武士同士の戦いです。宮崎県も西南戦争の舞台になっちょります。宮崎県北部には、西郷軍が鹿児島県に帰る際、刀と牛を物々交換して生きながらえたとあります。山中には、今でも西郷軍の武士が切腹した場所や刀、銃弾、銃が出てきてます。地元に伝わる話では西郷軍は優しかったと言われています。
とくに田原坂、今でも土地を掘ると、銃弾が比較的容易に見つかるとか。。
地元鹿児島「せごどん」誇りに思いますいつか下甑のクロ宗など取り上げて欲しいです
クロ宗ね、フェリー乗らないといけないんですよね、あそこ。
ラストサムライのモデルと言われると「あ、なるほど」となりました😢大好きな映画で何回も観ました😊無駄にツインで不覚にも笑ってしまいました😂
西南戦争はアメリカ版南北戦争なのですが、あまりその感じはあの映画にはないですね。
更新を待っておりました。西郷隆盛の終焉の地、すっかり場所も人も変わってしまいましたが死しても尚、西郷隆盛の魂は今も踏み留まっていそうな気がしています。次はどこに行かれるのでしょうか?楽しみにしております。
奈良に行きたいんですよねえ、次。
黒すぎて輝きそうな闇✨サイコーです😂
悲しくてやるせない気持ちになりました。長いこと戦がなかったのに戦った幕末の武士達と同じ遺伝子は現代の選挙にすら行かない日本人に残っているのだろうか…
組織票があるから、どうせダメでしょ、と思う気持ちもわからなくはないが、皆そう思うから本当にそうなるという。。
西郷さんと言えば、昔西郷さんを見た事がある婆さんが生きてて「どの銅像や肖像画も本人には似て無い」と証言してましたな。結構な男前だった様です。忌地や悲しい話ばかりですが、私は戦国時代で戦って死にたかったです。太く短く。平和な世が悪いと言ってる訳ではありません。あくまで思想の問題なのです。毎回、勉強になります。ツインが無意味だったのかは問いませんw撮影お疲れ様でした😊
上野の西郷像も似てないみたいですね。ただ大男というのは間違いないですね。
グラバー(長崎のグラバー邸の人)が「ヘラクレスのような大男」と日記に書いていたそうで…ヨーロッパ人が神話の英雄にたとえるなんて、どんだけムキムキだったんだろう?と思います。
更新待ってました、さあこれを見たら選挙に行こうか皆の衆!
動画ありがとうございます^^*葬送行進曲からのナレーション、素晴らしい👏
ランチを狙う猫がじわじわ来る・・・!
ラストサムライ終焉の地。ぜひ一度は行ってみたいです。
ずっと見ています!マニアックでとても楽しいです。たまのボヤキがさらに楽しいですやっぱクール・ジャパン最高ですね!
西郷終焉の地にあった大きな木、、、あの木は西郷を見届けたのだろうか、、、
私の親父が若い頃「西南戦争」時に使用された刀剣を拝見したことがあったそうで、その時に見た刀が”プロペラ”の様に捻じ曲がっていたそうです。刀剣のわかる方なら首をかしげると思いますが、通常は折れるはずが折れずに捻じ曲がっている状態とは不思議ですね。しかも古刀ではなく、多分”新々刀”か”新刀”だと思うので鉄(カネ)質や焼刃からして折れて当然なのですが、、、。田原坂の戦だったのでしょうか、西郷軍の”斬り込み隊” VS 警視隊の”抜刀隊”がいかに想像以上に凄まじい戦いだったか物語っていると思います。因みに”抜刀隊”の編成は旧幕府(元会津藩など)がメインの印象ですが、実際は同じ元薩摩藩士(城外士)が多かったようですね。同じ郷士でも城下士からしたら城外士は底辺で差別されていたそうで、城外士からしたら相当恨みがあって”抜刀隊”に腕に覚えのある者が自ら志願したとのことです。
なるほど、興味深いです
ラスト・サムライの武士の妻が人前で、接吻するシーンは、、、映画ですから演出ですよねぇ。西郷の助命嘆願の話は、あったとも聞きます。子息の西郷菊次郎氏は、京都市長となり、蹴上インクライン、水力発電により京都市電を走らせ、行政手腕を高く評価されています。ホテルのフルーツ?から洞窟への急展開…ビビリました。再版の「アラシ 奥地に生きた犬と人間の物語」今野保 (山と渓谷社)読了しました。アイヌの人々と蝦夷狼の血を引くアラシや土着信仰、山犬など、ノンフィクションとして書かれていました。😮気温差が激しくなりました。主さまも、風邪などご体調管理にご自愛なされてください😊
助命は周りの者が試みてますが失敗してますね。西郷本人はもう命を預けてる覚悟でしたでしょうが。
お久しぶりでした😊又たのにしてますね。近頃戦で命を落とされた方達の事を、想像して、哀しくなります。今の時代に生まれた事は幸せだったと思いました
日本が維新の時代に変わる時は最も嫌な歴史ですね。そもそも西欧文化が入ってきてからの日本は、何だか人の命が軽くなったように受け取れます。合図への総攻撃にしろ今回の南北戦争にしろ、本当になんの触れ込みもない日本人の考えたやり方だったのか、後ろに今と同じで西側がバックヤードじゃないのか?って疑問があります。この時日本人は新しい西洋文明をと入れた時代と引き換えに何か日本人の魂を失ったんじゃないかと思います。選挙前にタイムリーな、まるで今の日本への警告のような動画、ありがとうございます。
それは一理あるかもしれませんね、でもまあ、日本は戦ばっかしてたからな。。
西田敏行と鹿賀丈史の大河ドラマを思い出す素晴らしい動画です。
いやぁ、今回も濃い内容で大変楽しめました!政府軍がショパンを演奏したエピソードは初耳です!怖い…🥶怖いといえば西南戦争で、旧幕府に属していた者の戦いぶりは戊辰戦争の借りがある分猛烈なものだったようですね。「ここぞとばかりに恨みを果たしてやった」云々。(斎藤一が言い遺してたんだっけか?間違ってたらスミマセン)ともあれ、ホテルの受付に笑顔を残して忌み地に向かうUP主様、これからも動画楽しみにしております。
いまでも、鹿児島では西郷の命日の前日に演奏するらしいです
@@ずんこ-o8b 会津の仇〜と言って突っ込んだのは嘘だったそうです。
@@ずんこ-o8b 第一次世界大戦の日独戦争で敗れ、捕虜として連れて来られたドイツ兵捕虜が、徳島の板東俘虜収容所で、ベートーヴェンの第9を日本人に演奏、合唱したと映画にありました。松平健さんが、会津出身の軍人として登場した映画でした。一部のドイツ人は、帰国せずにパン作りやソーセージなど製造指導したと映画にありました。当時また、日本から見てドイツは、先進国で、捕虜に対しても「ドイツさま」と頭をさげる人々がいたと聞きました。
城山観光ホテルか、金持ちや❤
外資頼みの政府軍 んで今は植民地西郷どんも今の日本を憂いているだろう
それはある
田原坂は激戦地として弾痕の建物や官軍墓地がありますが、心霊スポットとしても名高いですよね。近いけど怖くて行けない😅
今回の動画のも有名なスポットですね。
昔の人の精神力が物凄い❗今あの洞窟で過ごせる人いるかな、時代背景もありますが脅威にまで追い詰められても自己を失わない崇高さ、見事です
西南戦争で完全に武士の時代が終わりましたからね。まさに兵どもが夢の跡
@@wolverin00012 あんな事で死ぬより、日清日露戦争で戦って欲しかったですね。
鹿児島の街の夜景とても綺麗ですね。掃海艇で一度入港しましたが自分はお留守番で鹿児島に上陸する事は無かったです。😅当時の西郷隆盛公は象皮病を患い日常生活にも苦労する身体で戦場に立たれていました。設立した学校もあくまで後の日本の世を支える人材を育成する為に設立されています。願わくば自分を含め時代が移り変わっても日本人の心の片隅に侍の心、矜持が残り続けて行く事を願っております。😌
掃海艇、海自ですね
はい、☺️日向灘で行われる大規模な掃海訓練演習に参加した時に入港しました。☺️
私、スマホのオンラインゲームで戦争のやるのですが、自衛隊のかたがちょいちょいいる。戦争中の某国のリアル軍人もいるのだが、リアルで亡くなっていく。。アカウント沈黙する。
入隊した時に自分は戦人は戦って戦場で死するが宿命としました。宣誓は自衛官ではなく生涯の誓いとしました。市井に戻った今も変わりません。
鹿児島に移って1番驚いたのが、西郷隆盛と大久保利通の人気の差。西郷隆盛は立派な墓があるのに、大久保利通の墓はあるのか?と聞いたら「知らない、無いんじゃないの?」と老いも若きも興味なさそうに言う。大久保銅像は大河ドラマ『飛ぶが如く』で復権?したからできたそうな。ドラマの大久保利通役は、イケメンだろうが好感度が下がる場合も・・・川路利良の像が霧島市の山の中にあるのも、ヘイトが怖かったからなのかもしれない。(ご縁が有りましたら、宮崎県えびの市 木崎原合戦城跡地&首塚&元巣塚&伊東塚(小林市)あたりどうでしょうか?)
伊東家とかいいですね、たしかに。
なんかBGMの選曲いいっすね
刑場跡はそこから少し南の彦四郎川の谷間ですね。
泣く…
明治政府では参議、陸軍大将、近衛都督を務めた西郷隆盛の最期。約700年の武士の世を終わらせた、まさしく最後のサムライでしたね。知っていても動画に胸が熱くなりもした!合掌、落涙。
そう、最近、知っている有名な歴史でも、どのように動画を構成するかで新たな物語ぽく見られるので、取り上げるのも全然ありだなと思ってきました。
今回も詳しく、歴史を知りました。教科書には載らない、僕にとっては専門書です。
日本が大きく変わる中の出来事ですからね・・・世の中は動いても、全員が変われることは無いですが、西郷さん士族に順応させるために塾を作り、士族の未来を考えていたのですね・・・立場とは言え親友と袂を分けたことは、辛かったでしょうね。
征韓論も士族の仕事にもなるという事も西郷は考えていました、まあこれは韓国からすりゃたまったもんじゃないですが。
今回もしみじみ拝見させていただきました🙇 明治の乱戦後、日本が日本であり続けられたのは、諸外国の介入をよしとせずに日本人たち自身が血を流しあったから、とものの本で読んだ覚えがあります。自分は先人に恥じることなく、想いを受け継ぎながら生きているだろうか……考えさせられつつ、マッチ🍷に吹きました(笑)💦
それはそうですね、ほんとうにすぐ植民地だったかもしれない。まあ、戦争に負けた日本は今も見えない統治を米にされている部分はありますが。
更新を楽しみに首を長くしてお待ちしていました いつも素晴らしい
横浜市緑区の刑場跡地にも「泣坂」という坂があり、ここも交差点の名前になっていますね…
ああ、泣坂、ありますね。
良いホテルですなあ〜
ここ、とてもいいです
生きる道は違うともあの世では大久保は西郷によくやったよ、と握手を求めたかも。
西南の役 曽祖父も西郷軍に従軍し政府軍の残党狩りが厳しく曽祖父は隠れて過ごしたとか母親から何回も聴いて育ちました
更新を待っておりました。クールジャパン。同感です、世界を見廻しても日本のような文化風習は島国ならではだと知れば知るほど思います。時代は目まぐるしく変わりDXだと言いますが、同時に日本人の多くはこのような歴史を足を止めて一度向き合うべき時だと個人的には思います。何時もありがとうございます。
郷中教育で育った幼なじみが袂を分かつ結末を迎えたなんて悲しいな…勝ち目がないとわかっていても最期まで立ち向かった士族たち…ほんに内戦はつらいわ😢
葬送行進曲の話とか全く知らなかったですゾワッとしました
けっこうマイナーな話ですね、たしかに。
切ない話ですね、偉くなってお互いに立場ができると、少しの行き違いや意見の相違で殺し合い・戦争になってしまう。自分の半身を失った大久保利通卿は、どのような気持ちだったのでしょうか。
大久保はやりたくなかったでしょうね。せつない。
毎回楽しみにしておりました。どれくらい楽しみにしているかといえウ◯コ漏れるくらいだろうか(笑)旅費や撮影も大変だと思います。僕は動画内の広告は必ずクリックしてます。少しの足しにでもなればと思います。
笑、ありがとうございます。
城山、涙橋、田原坂、いづれも心霊スポットとして有名です。
ですよね
地元鹿児島を挙げて頂き有難うございます😊😊😊
鹿児島はまだまわりきれてないくらいです、またいつか行きたいですね。
せごどんより面白かったです!最高
恐れ入ります
マッチって言った後、笑い堪えながらナレーションしてませんか?😂なんか声のトーンが笑ってるように聞こえたものでw
いや、そんなことはないすよw
士族の最大最後の反乱である西南戦争ですね。蜂起する意思はなかったにも関わらず、押し切られた形で参加した西郷隆盛でしたが、大久保利通は最後まで不参加を信じていたとの事。西郷と敵対した大久保は近年まで、鹿児島に銅像も建てられなかったのも悲しい話。結局は西郷の運命は鹿児島に戻った時点で、定まっていたかのようにも思えます。個人的には大久保利通が暗殺されなかった日本がどうなるかも見てみたかったですね。
またこれ、秋月の乱やら神風連の乱やらと同時におこしてたら、戦局かなり変わったはず。そこは政府もやっかいだから、薩摩を最初はうまく抱き込んでたんですよね。これは明治政府もうまいと思う。
@@怪奇な歴史研究室 さすがに同時多発で乱が起きたら、当時の明治政府では対応しきれるものじゃないですね。佐幕派陣営の生き残りにとって、明治政府は恩讐ですし、内乱がタイミング的に頻発すれば付け入る隙があります。主さんのおっしゃる通り、そこら辺は明治政府の元勲たちの采配が老獪だったと思います。
鹿児島の町を飲み歩き楽しいのに勿体ない!魔の巣とかもあるよー
いや、疲れて夜はくたくたですよ
いつも楽しみに拝見してます。こういう歴史の闇に昔から惹かれるものがあります。大久保利通はヴェオリア麻生太郎の先祖だったような…薩摩と長州の子孫が嫌な世の中を作ってくれたものです
主さま、こんにちは。お待ちしておりました。ご苦労さまです。😮
明治政府の中堅の役職の7割は旧幕府の開明官僚達。それは、西郷と同志とも言えた、島津斉彬の盟友幕府老中阿部政弘の作った人材達。新政府の多くが外遊した中、数々の明治維新の改革を実行したのは西郷隆盛。明治6年の政変は本当にあったのか。いろいろと疑問や未解明の謎が多い西南戦争への道程。面白いです。日本近代化の重要な歴史の残照。
0608:「ひえもんとり」ってやつですかね?
です
西南戦争の勃発理由が言葉の聞き間違いだった説を聴くと、人間関係のトラブルって、お互いのコミュニケーション不足が原因な気がします。
それもありますが、決定的な思想の違いで、もう話が通じなくなるくらい熱くなってはいましたね。言葉の聞き違いてのがむしろ後付けかもしれません。
民衆のヒーローはいつも、、
明治10年、福岡の某商家の記録に残っている話です。明治政府の命令で、西南戦争に駆り出された福岡や小倉、久留米などの兵が、激戦でケガを負い、久留米の寺町に集められたそうです。有栖川の宮様が怪我人を見舞い、その後負傷者は大八車や戸板に載せられ、「エイヤ、エイヤ」のかけ声と共に、ガラガラと鳴る車の音や足音が一晩中街に響いていたと。薩摩は言うに及ばず、近隣の旧諸藩も相当な被害を受けたのでしょう。明治政府が如何に強力に、歯向かう者を力で押さえつけたかが色々と想像できます。
この西南戦争で明治政府の徴兵部隊も強くなった部分ありますからね。やはり実戦経験。
オーナーは、客観的・広角的(な説明)・理論的に企画されておられ興味が湧きました。年齢、結婚時にも依りますが幕末~明治(旧武士・村役人時代)は、曾祖父母~高祖父母の時代で田舎のような人流少ない地域は、価値観(世間的には古いと評されます)は未だ、微かに(団塊世代以上)伺えます。戦中、某帝大の先生の書から全国士族は6%前後、鹿児島は異常に多く20%(明治2年~4年の族称→士族・族卒族→明治五年新戸籍)~その鹿児島ならではの特異事情がありましたね。矜持(武士の帯刀・苗字・家屋・着物~)心は強かったろうと推察されます。私達平民(庶民)とオサムライさんの生活、社会価値観も全然違うと思っています。レクエムのショパンの曲は知りませんでした。有難う御座いました。藩政~明治当時の古地図・写真を眺めるのも好きな定年終えた高齢者です。まだ戦災(太平洋)薄い地域には、藩政色残る遺産を見る事が出来ますね。有難う御座いました。
切なくて涙が出てしまいます。関係ないことで恐縮ですが、宿泊されたのは超有名ホテルですよね。私の父親も出張で一度泊まったことがあります。
マッチのマーチが貴方の街にマッチするのマッチで合ってますか?
たとえ友であっても、いつの日にか敵になる、過去に激しく戦った敵であった者が味方になる、昨日は勝ったが明日には負ける、その逆もまたしかり、という無常観が、明治初期迄は存在していて、その精神が続いている限りでは、驕り高ぶることは控えられていたと思います。実際に戊辰戦争と西南戦争で無常を体験していたとなれば尚更のことだったでしょう。しかし、無常観を支えていた仏教が神道から分離され、一時期は破壊まで受けてしまい、神道が独善的なナショナリズムを担うようになると(西洋文明が流入したことも影響した)、何かがおかしくなった… 屈辱的な敗戦の一因になったような気がします… 庶民の間には無常観は残っていたのでしょうけど…
雨は降る降る人馬は濡れる越すに越されぬ田原坂チャカホイ〜 チャカホイ〜(=^x^=)
田原坂は今回行けなくて、いつか行きたい。今でもあそこは弾丸が土に埋もれて転がってるらしいですよ。
新時代には生きられない侍の残り滓のような者たちと共に◯んでやったのが土方であり西郷なんだと思う。
誠の武士、西郷隆盛!
🙏🙏🙏
そういえば、幕府の首切り、山田浅右衛門が死体の胆嚢、後の「仁丹」と関係したという話も聞いたな
ありますね、その話
皆様コメントありがとうございます。
アンチ的内容でなくても、禁止ワード的な単語はお避け下さいませ。
私の意思関係なく勝手にAIで消されてしまいますので。
何回見ても面白い(笑) やはり綿密な考証と独特な語り口が勝逸な物語を語る。日本の隠された闇、明かされない伝承、興味は湧くけれど、この語り口には脱帽する。未だある多くの語られない歴史、閉ざされゆく時間の記憶…次が待ち遠しい
恐れ入ります、ありがとうございます。
鹿児島市に来て下さりありがとうございます。以前、城山観光ホテルで義父の古希祝いのパーティをやりました。その晩に夢を見ました。若い男性が2人の赤子を連れてきて、
「お願いします。この子らを預かって貰えませんか?」
私「あれ?この子達のお母さんは?」
「今は事情があって...でも必ず後ほど母親に迎えに行かせます!」
私「良いですよ」と赤子を預かり夢から覚めました。
何だろう?と調べたら、伊集院に妻子を残して城山で戦死した人が居たようです。夜中に伊集院まで走り、妻子に会ってまた夜中に城山に帰ってきた。幼子を残して戦死した。あの子達はどうなった?という思いが残りたまたま波長が合った私に思いが伝わった。その遺児等は立派に育ち、アメリカに留学して日米関係に尽くしたそうです。名前は失念しました😅
興味深い
@@marin-t1t
なんとも切ない話ですね。
城山…良いところですね
この人と信じて最後の40人でいられたことに悔しさもあるでしょうが、誇りと喜びで散っていったのだろうな、と思います。
人生でそんな人に出会えたのは羨ましいです。
もっと西郷が生きた先の世界線を見たかったです。
どんな日本になっていたのでしょう。
私の浅〜い歴史観に新しい気づきを与えてくださりありがとうございます。
隊長、素晴らしい動画でした
西郷もその前に、
もう勝てないから、離れるものは離れろと言い、残ったメンバーでしょうからね。
戦って散ると自分の意志で決めた者たちですね。
生まれも育ちも岩崎谷そして西郷隆盛終焉の地の近く
中学は市電で涙橋を越えて谷山まで通い
そして高校はハスラー50でこの岩崎谷から城山を越えて毎日通ったものです
そんな訳で西郷さんを小さな頃から肌で感じながら育ちました
西郷さんが撃たれた体を引きずりながら城山から下った岩崎谷
そしてその60数年後には桜島を目掛け錦江湾を真珠湾に見立てて
ゼロ戦が城山から岩崎谷を下っていきました
やがて日本全土が焦土となる太平洋戦争への道をどんな思いで西郷さんは観ていただろうか?
そんなことをよく考えたものです
そんな遥か昔のことを懐かしく思い出しました
本当にありがとうございました🙏
なるほど、ゼロ戦が桜島にいったのは演習ですかね。
いつも引き込まれるナレーション、感謝いたします。2:02:マッチ...のくだり、詮索するつもりはありませんが、年代的に親近感を感じました。
年齢のわりにはマッチは少し上かもです笑
政府軍の軍楽隊の演奏後に城山の薩軍からアコーディオンの返礼の演奏があったとも言われています。お互いの信念をかけた争いの中でも粋な振る舞いがあったと思うと感慨深いです。
次回の動画も楽しみにしてます
それは知らなかった、、
@@淡雪大ちゃん
武門の礼か……。
函館の戦争でも、榎本武揚が当時の貴重な書籍「海律全書」上下二巻を戦火で焼失させるのは惜しいからと薩摩の黒田清隆(当時は了介)へ送った際に、返礼として酒樽と鮪が贈られた話もありましたな……。
@@九戸政実-z6p
北は函館にもそのような史実、1つの物語があったのですね。自身でも調べてみましたがその後榎本武揚と黒田清隆が親戚関係に発展したというのも知れました。
礼を尽くして生まれるものや縁というのもやっぱりあるのでしょうかね。私も新たな見聞を深めることができました!ありがとうございます!
待ってました!歴史に疎い私には聞き慣れない言葉が出てきますが毎回興味津々に観ています😊なにか引かれるモノがあるんですよねぇ。また楽しみに待っています。
大久保とせごどん。幼なじみで共に志し同じだったのにベクトルの違いか…せごどんの死を知って大久保はどんな気持ちだったのかな。
ホテルや街中、至るところが心霊スポットじゃなかろうかと思いながら拝見致しました。マッチってすみません、近藤真彦ですか?そんなワインの飲み方するのか⁉️と気を取られてしまいました!今回も感慨深い動画おもしろかったです。
ありがとうございました。鹿児島に想いを馳せて…
大久保は襲われて命を落としたとき、
ちょうど西郷の生前の手紙を読んでいたという話もあります。
城山観光ホテルの裏にある墓地に実家の墓があります。今は実家に帰るときに行く墓参りでしか行くことはないですが、高校卒業まで何度もこの道を通りました。自分も西郷らは最後にここで何を考えて過ごしていたのだろうと思いながら墓参りに向かっていたのを思い出します。すぐ近くの島津のお城の城壁にも西南戦争の頃の銃弾跡が多く残っているので、鹿児島に訪れる方は見ていってほしいです。何発も銃弾跡があるので相当過激な戦いだったのだろうと思います。また、有名な話かもしれませんが、親友の大久保利通も政府に尽力し、亡くなった後数億の借金があったらしいのですがそれは今の日本を発展させるために公共事業に出資していたみたいですね。二人とも日本のために尽くしてくれた英雄の一人だと思います。長話失礼しました。
大久保は西郷と比べると人気がよわいですが、彼もまた日本のために尽力したのでしょう。
素晴らしい動画、アップありがとうございます。
見終わったあとも涙が止まりません。
とても興味深くいつも楽しみにしております。
全ての動画を、旧い作品順に何度も見返しています。
知らない事ばかりで貴重な経験になります。
ありがとうございます。
ありがとうございます。とても嬉しいです。
私の動画は時事動画でなく、歴史の永久保存版的なものなので、いつでも見られます。
涙橋の南に処刑場がありました。鹿児島南駅の先に小さい彦四郎川があります。その川沿いが処刑場です。罪人の死骸はそこの谷山街道に並べられ晒されました。ヒエモン取りはあったのでしょうね。彦四郎川は今は途中からコンクリートで覆われて地下を流れています。紫原も西南戦争の激戦区でした。紫原の下の崖は地獄谷と呼ばれて年寄りは子や孫らにあそこには行くな!と注意していたとか。涙橋の北側には昔の牢屋がありました。今は唐湊墓地になり異様な景観を醸し出しています。その下のJR線のカーブには昔から飛び込みが絶えません😱処刑場近くのホンダ前交差点は事故多発地帯です。
らしいですね、、おもいっきり住宅街ですよね。跡地にお寺とかもない。。
@@marin-t1t
宮城県の七北田のような地区やな……😱。
(仙台・伊達家の処刑場だった)
めっちゃ地元だ…
幕末から維新後の手を伸ばしたらあと一歩で届きそうな届かない時間に惹かれます。父が鹿児島出身なのですが、母が山口出身で結婚する時に大変だったと聞いています。大久保卿も西郷さんもどんな気持ちだったのでしょうか。維新志士の気持ちは計り知れません。いつか両親を連れて行きたいと思います。
いつも見たいものを見せて下さってありがとうございます。
大変でしょうね、それは。。今でも色々あるみたいだから。
@@カナ-h9h
え、そんなしがらみがあるんですか。
私の知り合いに、福岡の人で、会津の人と結婚しようとしたら「福岡は毛利の土地だった事がある」とのことで相手の親に反対されたって怒ってましたけど、長州と薩摩にもあったんですか。
有名な薩長同盟 同盟の単語に隠された間に底しれぬ 疑心暗鬼があると 思います それが今の利権(資本主義)に繋がります 人間の欲の潜在的な意識の本質だと思います
西南戦争が始まる前の情報(スパイ)合戦!大事な役割だったと思います。西郷さんが東京でスパイをかわしながら薩摩へ帰る時お供をしたのが私の先祖です。その後直接西南戦争へ参加した記録が見当たりませんが大久保さんの秘書を務めています。寝返りも考えましたが西郷さんも頭の良い方なので私はおそらくスパイとして送り込んだのではないかと考えています。根拠は私の祖母が幼い私を連れてよく明治維新記念品などを加治屋町近辺で配っていたからです。楽しい配信ありがとうございました🙇♂️
なるほど
いいホテルだ景色もいい…
宿は旅の楽しみですね。
ギンギラギンにさりげなく九州編、内容はどれも素晴らしく楽しませていただきました。
ホテルはよかったです
西郷が最期に立ち向かう時がたった40人。そして最期の最期は敵に討たれるでなく自ら命を絶った。幼馴染と敵対し、互いに理想を掲げ、戦い抜いた西郷はきっと後悔はなかったのかもしれない。ラストサムライ。どうか安らかに眠って欲しい。
待ってました☺️
…桜島に行かないで、忌み地巡り…マニアック過ぎる。だがそれがいい
刑場跡や合戦場、忌み地とか、今回も本当に面白いです。毎回興味深くワクワク視聴すると同時に、いつどのタイミングでギンギラギンにさりげなく「マッチ」というパワーワードが出てくるかと期待している自分がいます。。。
マッチはたまにしかでません、笑
幕末から明治初期は動乱すぎて血が流れすぎてますね。
いくら危険な思想があったとしても、危険因子だと断定して、結局歯車が噛み合ったように西郷隆盛率いる反乱軍を倒すという構図になってしまうのは悲しい。
明治を作った中心人物達がなんの因果か誰かの手で倒されるのは偶然なのか疑いたくなりますね。
お疲れ様です!😊動画待ってました!涼しくなったので体調には寄与つけてください!
武士達の最後の地、ですか、これも時代の流れに逆らえなかったですね、幕末から明治初期にかけてたくさんの志士たちが命を落としてるんですね、なんと儚いのでしょうか、いつも良き動画有難う御座います、。
私も西郷隆盛達が最後にこもった洞窟を観て来ました。
何とも言えない気持ちになりました。
今は普通の住宅のそばですからね
鹿児島編、ありがとうございます🙏
鈍く光る程の闇の旅人。今回も供に巡礼に赴くような想いで拝見しました。
終わりを悟った西郷どんの眼に、故郷の海はどう映ったのでしょう。
文字通り、LAST SAMURAI だったのですね。合掌🙏
ホテルでのお食事の際に出て来られたのが可愛かったです
次は奈良あたり行きたいですね~
汚職政治家同士の足の引っ張り合いではなく最後の武士の戦
誠に
ホテルの動画、私は密かに楽しみにしております。
ブッフェ料理を狙う小僧猫ちゃんが可愛いです。
11月なのに変に暑かったりしますから、体調崩さないように、お身体お大事になさって下さいませ。
ありがとうございます。ホテル動画が好きなマニアックな応援、ありがたいです。
自分はこの西郷隆盛(隆永)の終焉の地や洞窟、城山や市内の場所を訪れた事があります。鹿児島の話では吉之助さあ(鹿児島ではこう呼ばれている)の首は生き残ったものが官軍の手に渡らぬ様に持ち去ったと書かれていましたね。個人の勝手な推量ですが、西郷は反乱が起きた時にはもう死を覚悟していたと思います。そして日本の未来を大久保らに託して、自ら不平分子や郷士と共に散っていったんだと思います。🙏
これからは武士の時代ではないとゆう事を日本中にいる侍達に教える為に…
西郷は最初から覚悟してたでしょうね。
ただ、熊本城がおとせなかったのは誤算だったはずです。
官軍に負けたのではなく、加藤清正の築城に負けた、と西郷は言ったそう。
自分も その頃 鹿児島の
吹上温泉にいました。西郷さんも来たことがあるみたいですね。みどり荘と中島温泉旅館に それぞれ1泊しました。みどり荘は
特攻隊が最後に泊まっていたとのこと あまり当時と変わらず この景色を見ていたと思うと 涙が出てきました。中島温泉旅館は
座敷わらし 神様がいる
湯治部屋に泊まりましたが
熟睡してしまい わかりませんでした。是非とも
吹上温泉 面白いので
いらしてください。
座敷わらし、いいですね
城山は私も行きましたが
動画にもあるように忌み地の坂道一帯が住宅街なのには驚きました。
鹿児島の方々には聖地なんでしょう。
南洲墓地では無数の墓石が西郷さんを中心に 桐野利秋、篠原国幹、村田新八など、そうそうたる武士が並ぶ景色に圧倒されました。
そう、伝説の人斬りとかもいますからね
マッチさんを克服したと思われる私です!
やはり素晴らしい動画ですね。マッチさんに臆することなく拝見してよかったです!!!
毎回、ご尊敬申し上げます。
ショパンの「葬送〜」と戦闘シーンの絵図がマッチ(←(@△@;)ハッ!)していて、ちょっと泣きそうになりました。
それにしても政府軍は楽隊連れで演奏する余裕を見せて、「なんか嫌味だなぁ〜」と、
それもこの時代に わざとらしく外国の曲流すなんて、カブれてるなぁ〜と、
「先鋭的だってこんなところでも示したいの?ダサ」と穿った見方をしてしまいます。
それはそうと、「葬送〜」は序盤の有名なフレーズより、転調(?)した後の少しだけ明る目の運びとなる流れが余計に悲しく、
叙情的で好きです。
当然、他の戦もですが、西南戦争も壮絶ですね。。。
説明を拝聴しながら、なぜか島原の乱を思い浮かべてしまいました。なぜかは不明ですが。。。
また、岩の洞窟の映像では、なぜか鎌倉の「やぐら」や、護良親王 御土牢(鎌倉宮)を連想してしまいました。
話は変わりますが、実家から徒歩10〜15分くらいに娘さんが「人柱」で有名な堰があります。
場所は知らなかったのですが、調べに調べまくったら、実家のそばと分かり、心から驚愕しました。
数日後、帰省するので、お参りに行ってみるつもりです。お花とお線香と甘いお菓子を持って。。。
主様の動画と出会わなければ、「調べてみよう。そして行ってみる✊いや、行くべきだ」とは思わなかったです。
どうもありがとうございます。
次回の動画も楽しみにしております。
お体ご自愛くださいませ。m(_ _)m
ありがとうございます。マッチを克服できてよかったです。
人柱どこだろう、全国にありますからね。気になる。
@@怪奇な歴史研究室 さま
人柱の場所ですが、もし興味がおありでしたらDMでお知らせさせていただければと…
この人柱の話は「民話」として、子供の頃から随分と聞かされました。
あまりにも信じられない話で、幼い私は勝手に「御伽噺」だと思っていましたが、
物心着くころ「ガチ実話」と聞かされ、衝撃的でした。
とある理由で、場所は全然違うところだと思っておりましたのに、
つい数ヶ月前、実家の近くだと知り、重ね重ねショックでした。自分の無知さにも、です。
で、改めて話の内容を精査してみますと、どうやら「私の先祖が当事者の1人なのでは…」と…。
いつも長々すみません。大変失礼しました。m(_ _)m
興味ありますよ。そういえば福井の人柱のとか、行ったけどまだ動画にしてない。。ストック動画になってる。
楽しみにしてました~!w ネコちゃんもみたし、満足で~す!😊
ありがとうございます。
動画をありがとうございます!
鹿児島市は昔からよく行っており、城山ホテルも何度もいきました。
西郷洞窟も何度もいきましたが、昭和の頃は資料館もなく、西郷洞窟を見て終わり、なカンジでした(;´Д`)
たしかに、夜にこの付近のトンネルを通るのは、何となく怖さがあるかも。
ココで亡くなった人達は皆覚悟した武士なので、怨霊にはなっていない、と信じたい。
大久保さんは西郷さんをどうにかして、助けようとしたんですよね。西南戦争の戦地に赴き、話をつけようとした。
でも、三条実美等に邪魔されて、最後まで西郷さんに会うことが叶わなかった。
「時代が変わる時には、誰かが死ななければならん」
西郷さんと大久保さんの言葉、とても深くて、切ないなぁと思います。
長文失礼しました!
あの資料館の洞窟は何の洞窟か気になりました。
資料館にするためだけに掘ったのかな。。
@@怪奇な歴史研究室 さん
多分、そうだと思います。
昔はあの洞窟、無かったような🤔
西郷さんが入っていた洞窟には、前は、座っている西郷さんの蝋人形が置いてあって、ちょっと怖かったのを覚えています😓
へー人形が昔はあったのか!
西郷洞窟の写真は様々な媒体に掲載されているので知っていました。
でも西郷さん達が進んだ道を進み、景色を見る体験は初めてです。言葉に言い表せない感動を覚えました。
城山のホテル素敵ですね。「むだにツイン」が刺さりました。
凄惨な戦いの地も今は住宅で。地元じゃ聖地みたいな感じでしょうね。
恥ずかしいことに日本の教育は10代まででその後海外移住したため、西郷隆盛の名前は知っていても詳しい史実を知らないまま、婆さんになってしまいました。この動画大変ありがたいです。楽しみにしています。ありがとうございます。
ありがとうございます。
怪奇な歴史研究室のオーナー、おやっとさぁ。
西南戦争は言われてる通り、最後の武士同士の戦いです。
宮崎県も西南戦争の舞台になっちょります。
宮崎県北部には、西郷軍が鹿児島県に帰る際、刀と牛を物々交換して生きながらえたとあります。
山中には、今でも西郷軍の武士が切腹した場所や刀、銃弾、銃が出てきてます。
地元に伝わる話では西郷軍は優しかったと言われています。
とくに田原坂、今でも土地を掘ると、銃弾が比較的容易に見つかるとか。。
地元鹿児島
「せごどん」誇りに思います
いつか下甑のクロ宗など取り上げて欲しいです
クロ宗ね、フェリー乗らないといけないんですよね、あそこ。
ラストサムライのモデルと言われると「あ、なるほど」となりました😢
大好きな映画で何回も観ました😊
無駄にツインで不覚にも笑ってしまいました😂
西南戦争はアメリカ版南北戦争なのですが、あまりその感じはあの映画にはないですね。
更新を待っておりました。
西郷隆盛の終焉の地、すっかり場所も人も変わってしまいましたが死しても尚、西郷隆盛の魂は今も踏み留まっていそうな気がしています。
次はどこに行かれるのでしょうか?楽しみにしております。
奈良に行きたいんですよねえ、次。
黒すぎて輝きそうな闇✨
サイコーです😂
悲しくてやるせない気持ちになりました。
長いこと戦がなかったのに戦った幕末の武士達と同じ遺伝子は
現代の選挙にすら行かない日本人に残っているのだろうか…
組織票があるから、どうせダメでしょ、
と思う気持ちもわからなくはないが、皆そう思うから本当にそうなるという。。
西郷さんと言えば、昔西郷さんを見た事がある婆さんが生きてて「どの銅像や肖像画も本人には似て無い」と証言してましたな。結構な男前だった様です。
忌地や悲しい話ばかりですが、私は戦国時代で戦って死にたかったです。太く短く。
平和な世が悪いと言ってる訳ではありません。
あくまで思想の問題なのです。
毎回、勉強になります。ツインが無意味だったのかは問いませんw
撮影お疲れ様でした😊
上野の西郷像も似てないみたいですね。ただ大男というのは間違いないですね。
グラバー(長崎のグラバー邸の人)が「ヘラクレスのような大男」と日記に書いていたそうで…ヨーロッパ人が神話の英雄にたとえるなんて、どんだけムキムキだったんだろう?と思います。
更新待ってました、さあこれを見たら選挙に行こうか皆の衆!
動画ありがとうございます^^*
葬送行進曲からのナレーション、素晴らしい👏
ランチを狙う猫がじわじわ来る・・・!
ラストサムライ終焉の地。ぜひ一度は行ってみたいです。
ずっと見ています!マニアックでとても楽しいです。たまのボヤキがさらに楽しいです
やっぱクール・ジャパン最高ですね!
ありがとうございます。
西郷終焉の地にあった大きな木、、、あの木は西郷を見届けたのだろうか、、、
私の親父が若い頃「西南戦争」時に使用された刀剣を拝見したことがあったそうで、その時に見た刀が”プロペラ”の様に
捻じ曲がっていたそうです。
刀剣のわかる方なら首をかしげると思いますが、通常は折れるはずが折れずに捻じ曲がっている状態とは不思議ですね。
しかも古刀ではなく、多分”新々刀”か”新刀”だと思うので鉄(カネ)質や焼刃からして折れて当然なのですが、、、。
田原坂の戦だったのでしょうか、西郷軍の”斬り込み隊” VS 警視隊の”抜刀隊”がいかに想像以上に凄まじい戦いだったか
物語っていると思います。
因みに”抜刀隊”の編成は旧幕府(元会津藩など)がメインの印象ですが、実際は同じ元薩摩藩士(城外士)が多かったようですね。
同じ郷士でも城下士からしたら城外士は底辺で差別されていたそうで、城外士からしたら相当恨みがあって”抜刀隊”に
腕に覚えのある者が自ら志願したとのことです。
なるほど、興味深いです
ラスト・サムライの武士の妻が人前で、接吻するシーンは、、、映画ですから演出ですよねぇ。
西郷の助命嘆願の話は、あったとも聞きます。
子息の西郷菊次郎氏は、京都市長となり、蹴上インクライン、水力発電により京都市電を走らせ、行政手腕を高く評価されています。
ホテルのフルーツ?から洞窟への急展開…ビビリました。
再版の「アラシ 奥地に生きた犬と人間の物語」今野保 (山と渓谷社)読了しました。アイヌの人々と蝦夷狼の血を引くアラシや土着信仰、山犬など、ノンフィクションとして書かれていました。😮
気温差が激しくなりました。主さまも、風邪などご体調管理にご自愛なされてください😊
助命は周りの者が試みてますが失敗してますね。
西郷本人はもう命を預けてる覚悟でしたでしょうが。
お久しぶりでした😊又たのにしてますね。近頃戦で命を落とされた方達の事を、想像して、哀しくなります。今の時代に生まれた事は幸せだったと思いました
日本が維新の時代に変わる時は最も嫌な歴史ですね。そもそも西欧文化が入ってきてからの日本は、何だか人の命が軽くなったように受け取れます。合図への総攻撃にしろ今回の南北戦争にしろ、本当になんの触れ込みもない日本人の考えたやり方だったのか、後ろに今と同じで西側がバックヤードじゃないのか?って疑問があります。この時日本人は新しい西洋文明をと入れた時代と引き換えに何か日本人の魂を失ったんじゃないかと思います。選挙前にタイムリーな、まるで今の日本への警告のような動画、ありがとうございます。
それは一理あるかもしれませんね、でもまあ、日本は戦ばっかしてたからな。。
西田敏行と鹿賀丈史の大河ドラマを思い出す素晴らしい動画です。
いやぁ、今回も濃い内容で大変楽しめました!
政府軍がショパンを演奏したエピソードは初耳です!怖い…🥶
怖いといえば西南戦争で、旧幕府に属していた者の戦いぶりは戊辰戦争の借りがある分猛烈なものだったようですね。「ここぞとばかりに恨みを果たしてやった」云々。
(斎藤一が言い遺してたんだっけか?間違ってたらスミマセン)
ともあれ、ホテルの受付に笑顔を残して忌み地に向かうUP主様、これからも動画楽しみにしております。
いまでも、鹿児島では西郷の命日の前日に演奏するらしいです
@@ずんこ-o8b
会津の仇〜
と言って突っ込んだのは嘘だったそうです。
@@ずんこ-o8b 第一次世界大戦の日独戦争で敗れ、捕虜として連れて来られたドイツ兵捕虜が、徳島の板東俘虜収容所で、ベートーヴェンの第9を日本人に演奏、合唱したと映画にありました。松平健さんが、会津出身の軍人として登場した映画でした。一部のドイツ人は、帰国せずにパン作りやソーセージなど製造指導したと映画にありました。当時また、日本から見てドイツは、先進国で、捕虜に対しても「ドイツさま」と頭をさげる人々がいたと聞きました。
城山観光ホテルか、金持ちや❤
外資頼みの政府軍 んで今は植民地
西郷どんも今の日本を憂いているだろう
それはある
田原坂は激戦地として弾痕の建物や官軍墓地がありますが、心霊スポットとしても名高いですよね。近いけど怖くて行けない😅
今回の動画のも有名なスポットですね。
昔の人の精神力が物凄い❗今あの洞窟で過ごせる人いるかな、時代背景もありますが脅威にまで追い詰められても自己を失わない崇高さ、見事です
西南戦争で完全に武士の時代が終わりましたからね。
まさに兵どもが夢の跡
@@wolverin00012
あんな事で死ぬより、日清日露戦争で戦って欲しかったですね。
鹿児島の街の夜景とても綺麗ですね。掃海艇で一度入港しましたが自分はお留守番で鹿児島に上陸する事は無かったです。😅
当時の西郷隆盛公は象皮病を患い日常生活にも苦労する身体で戦場に立たれていました。
設立した学校もあくまで後の日本の世を支える人材を育成する為に設立されています。
願わくば自分を含め時代が移り変わっても日本人の心の片隅に侍の心、矜持が残り続けて行く事を願っております。😌
掃海艇、海自ですね
はい、☺️
日向灘で行われる大規模な掃海訓練演習に参加した時に入港しました。☺️
私、スマホのオンラインゲームで戦争のやるのですが、自衛隊のかたがちょいちょいいる。
戦争中の某国のリアル軍人もいるのだが、リアルで亡くなっていく。。アカウント沈黙する。
入隊した時に自分は戦人は戦って戦場で死するが宿命としました。
宣誓は自衛官ではなく生涯の誓いとしました。
市井に戻った今も変わりません。
鹿児島に移って1番驚いたのが、西郷隆盛と大久保利通の人気の差。
西郷隆盛は立派な墓があるのに、大久保利通の墓はあるのか?と聞いたら
「知らない、無いんじゃないの?」
と老いも若きも興味なさそうに言う。
大久保銅像は大河ドラマ『飛ぶが如く』で復権?したからできたそうな。
ドラマの大久保利通役は、イケメンだろうが好感度が下がる場合も・・・
川路利良の像が霧島市の山の中にあるのも、ヘイトが怖かったからなのかもしれない。
(ご縁が有りましたら、宮崎県えびの市 木崎原合戦城跡地&首塚&元巣塚&伊東塚(小林市)あたりどうでしょうか?)
伊東家とかいいですね、たしかに。
なんかBGMの選曲いいっすね
ありがとうございます。
刑場跡はそこから少し南の彦四郎川の谷間ですね。
泣く…
明治政府では参議、陸軍大将、近衛都督を務めた西郷隆盛の最期。約700年の武士の世を終わらせた、まさしく最後のサムライでしたね。知っていても動画に胸が熱くなりもした!合掌、落涙。
そう、最近、知っている有名な歴史でも、どのように動画を構成するかで
新たな物語ぽく見られるので、取り上げるのも全然ありだなと思ってきました。
今回も詳しく、歴史を知りました。教科書には載らない、僕にとっては専門書です。
日本が大きく変わる中の出来事ですからね・・・
世の中は動いても、全員が変われることは無いですが、
西郷さん士族に順応させるために塾を作り、士族の未来を考えていたのですね・・・
立場とは言え親友と袂を分けたことは、辛かったでしょうね。
征韓論も士族の仕事にもなるという事も西郷は考えていました、
まあこれは韓国からすりゃたまったもんじゃないですが。
今回もしみじみ拝見させていただきました🙇 明治の乱戦後、日本が日本であり続けられたのは、諸外国の介入をよしとせずに日本人たち自身が血を流しあったから、とものの本で読んだ覚えがあります。自分は先人に恥じることなく、想いを受け継ぎながら生きているだろうか……考えさせられつつ、マッチ🍷に吹きました(笑)💦
それはそうですね、ほんとうにすぐ植民地だったかもしれない。
まあ、戦争に負けた日本は今も見えない統治を米にされている部分はありますが。
更新を楽しみに首を長くしてお待ちしていました いつも素晴らしい
横浜市緑区の刑場跡地にも「泣坂」という坂があり、ここも交差点の名前になっていますね…
ああ、泣坂、ありますね。
良いホテルですなあ〜
ここ、とてもいいです
生きる道は違うとも
あの世では大久保は西郷
によくやったよ、と握手を
求めたかも。
西南の役
曽祖父も西郷軍に従軍し
政府軍の残党狩りが厳しく
曽祖父は隠れて過ごしたとか
母親から何回も聴いて育ちました
更新を待っておりました。クールジャパン。同感です、世界を見廻しても日本のような文化風習は島国ならではだと知れば知るほど思います。時代は目まぐるしく変わりDXだと言いますが、同時に日本人の多くはこのような歴史を足を止めて一度向き合うべき時だと個人的には思います。何時もありがとうございます。
郷中教育で育った幼なじみが袂を分かつ結末を迎えたなんて悲しいな…勝ち目がないとわかっていても最期まで立ち向かった士族たち…ほんに内戦はつらいわ😢
葬送行進曲の話とか全く知らなかったです
ゾワッとしました
けっこうマイナーな話ですね、たしかに。
切ない話ですね、偉くなってお互いに立場ができると、少しの行き違いや意見の相違で殺し合い・戦争になってしまう。
自分の半身を失った大久保利通卿は、どのような気持ちだったのでしょうか。
大久保はやりたくなかったでしょうね。せつない。
毎回楽しみにしておりました。どれくらい楽しみにしているかといえウ◯コ漏れるくらいだろうか(笑)
旅費や撮影も大変だと思います。僕は動画内の広告は必ずクリックしてます。少しの足しにでもなればと思います。
笑、ありがとうございます。
城山、涙橋、田原坂、いづれも心霊スポットとして有名です。
ですよね
地元鹿児島を挙げて頂き有難うございます😊😊😊
鹿児島はまだまわりきれてないくらいです、またいつか行きたいですね。
せごどんより面白かったです!最高
恐れ入ります
マッチって言った後、笑い堪えながらナレーションしてませんか?😂なんか声のトーンが笑ってるように聞こえたものでw
いや、そんなことはないすよw
士族の最大最後の反乱である西南戦争ですね。
蜂起する意思はなかったにも関わらず、押し切られた形で参加した西郷隆盛でしたが、大久保利通は最後まで不参加を信じていたとの事。
西郷と敵対した大久保は近年まで、鹿児島に銅像も建てられなかったのも悲しい話。
結局は西郷の運命は鹿児島に戻った時点で、定まっていたかのようにも思えます。
個人的には大久保利通が暗殺されなかった日本がどうなるかも見てみたかったですね。
またこれ、秋月の乱やら神風連の乱やらと同時におこしてたら、戦局かなり変わったはず。
そこは政府もやっかいだから、薩摩を最初はうまく抱き込んでたんですよね。これは明治政府もうまいと思う。
@@怪奇な歴史研究室
さすがに同時多発で乱が起きたら、当時の明治政府では対応しきれるものじゃないですね。
佐幕派陣営の生き残りにとって、明
治政府は恩讐ですし、内乱がタイミング的に頻発すれば付け入る隙があります。
主さんのおっしゃる通り、そこら辺は明治政府の元勲たちの采配が老獪だったと思います。
鹿児島の町を飲み歩き楽しいのに勿体ない!
魔の巣とかもあるよー
いや、疲れて夜はくたくたですよ
いつも楽しみに拝見してます。こういう歴史の闇に昔から惹かれるものがあります。大久保利通はヴェオリア麻生太郎の先祖だったような…薩摩と長州の子孫が嫌な世の中を作ってくれたものです
主さま、こんにちは。
お待ちしておりました。
ご苦労さまです。😮
明治政府の中堅の役職の7割は旧幕府の開明官僚達。それは、西郷と同志とも言えた、島津斉彬の盟友幕府老中阿部政弘の作った人材達。新政府の多くが外遊した中、数々の明治維新の改革を実行したのは西郷隆盛。明治6年の政変は本当にあったのか。いろいろと疑問や未解明の謎が多い西南戦争への道程。面白いです。日本近代化の重要な歴史の残照。
0608:「ひえもんとり」ってやつですかね?
です
西南戦争の勃発理由が言葉の聞き間違いだった説を聴くと、人間関係のトラブルって、お互いのコミュニケーション不足が原因な気がします。
それもありますが、決定的な思想の違いで、もう話が通じなくなるくらい熱くなってはいましたね。
言葉の聞き違いてのがむしろ後付けかもしれません。
民衆のヒーローはいつも、、
それはある
明治10年、福岡の某商家の記録に残っている話です。
明治政府の命令で、西南戦争に駆り出された福岡や小倉、久留米などの兵が、激戦でケガを負い、久留米の寺町に集められたそうです。
有栖川の宮様が怪我人を見舞い、その後負傷者は大八車や戸板に載せられ、「エイヤ、エイヤ」のかけ声と共に、ガラガラと鳴る車の音や足音が一晩中街に響いていたと。
薩摩は言うに及ばず、近隣の旧諸藩も相当な被害を受けたのでしょう。
明治政府が如何に強力に、歯向かう者を力で押さえつけたかが色々と想像できます。
この西南戦争で明治政府の徴兵部隊も強くなった部分ありますからね。やはり実戦経験。
オーナーは、客観的・広角的(な説明)・理論的に企画されておられ興味が湧きました。年齢、結婚時にも依りますが幕末~明治(旧武士・村役人時代)は、曾祖父母~高祖父母の時代で田舎のような人流少ない地域は、価値観(世間的には古いと評されます)は未だ、微かに(団塊世代以上)伺えます。戦中、某帝大の先生の書から全国士族は6%前後、鹿児島は異常に多く20%(明治2年~4年の族称→士族・族卒族→明治五年新戸籍)~その鹿児島ならではの特異事情がありましたね。矜持(武士の帯刀・苗字・家屋・着物~)心は強かったろうと推察されます。私達平民(庶民)とオサムライさんの生活、社会価値観も全然違うと思っています。レクエムのショパンの曲は知りませんでした。有難う御座いました。藩政~明治当時の古地図・写真を眺めるのも好きな定年終えた高齢者です。まだ戦災(太平洋)薄い地域には、藩政色残る遺産を見る事が出来ますね。有難う御座いました。
切なくて涙が出てしまいます。
関係ないことで恐縮ですが、宿泊されたのは超有名ホテルですよね。
私の父親も出張で一度泊まったことがあります。
マッチのマーチが貴方の街にマッチするのマッチで合ってますか?
たとえ友であっても、いつの日にか敵になる、過去に激しく戦った敵であった者が味方になる、昨日は勝ったが明日には負ける、その逆もまたしかり、という無常観が、明治初期迄は存在していて、その精神が続いている限りでは、驕り高ぶることは控えられていたと思います。実際に戊辰戦争と西南戦争で無常を体験していたとなれば尚更のことだったでしょう。しかし、無常観を支えていた仏教が神道から分離され、一時期は破壊まで受けてしまい、神道が独善的なナショナリズムを担うようになると(西洋文明が流入したことも影響した)、何かがおかしくなった… 屈辱的な敗戦の一因になったような気がします… 庶民の間には無常観は残っていたのでしょうけど…
雨は降る降る
人馬は濡れる
越すに越されぬ
田原坂
チャカホイ〜
チャカホイ〜
(=^x^=)
田原坂は今回行けなくて、いつか行きたい。
今でもあそこは弾丸が土に埋もれて転がってるらしいですよ。
新時代には生きられない侍の残り滓のような者たちと共に◯んでやったのが土方であり西郷なんだと思う。
誠の武士、西郷隆盛!
🙏🙏🙏
そういえば、幕府の首切り、山田浅右衛門が死体の胆嚢、後の「仁丹」と関係したという話も聞いたな
ありますね、その話