【ゆっくり解説】世界が恐れた武闘派!”薩摩藩士”の恐ろしさがわかる薩英戦争とは?果たして勝敗はいかに!
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- Опубликовано: 5 фев 2025
- 今回は、薩英戦争について解説します!
薩英戦争といえば、幕末でも最も苛烈を極めた外国人との戦争ですね。
ちょっとしたいざこざ程度に思っている方も多いかもしれませんが、その当時の薩摩藩士は本当に凄まじかったのです。
世界最強のイギリスと鹿児島県が戦うなんて…
#ゆっくり解説 #ゆっくり歴史解説 #日本史 #幕末
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よくよく考えると鹿児島対イギリスだよな。一藩でイギリス軍相手取ったわけだ。凄いね
生麦事件の際、リチャードソンが薩摩藩の行列に遭遇する前に、一人のアメリカ人が薩摩藩の行列に遭遇しているのですが、彼は街道の脇に寄り行列に御礼をして助かりました。
後にそのアメリカ人は新聞の取材を受けており「あれはリチャードソンが悪い」と語っております。
今まであまり感じた事はなかったけど、自分のふるさとの先人たちが本当に誇らしい
歴史を鑑みると、勇敢に戦い、確固たる意志を持って交渉することが相手から認めさせることに繋がり、
ひいては後々の平和や友好を生むということになる。
事なかれ主義だったり、「友好、友好」とおもねるだけでは相手に馬鹿にされ、
結果的に「友好」とは程遠いことになるということを現代人は歴史から学ばなければならないと思う。
その意味で太平洋戦争の終わらせ方は良かったのかも知れないですね。
南朝鮮の事ですな。
清国や李氏朝鮮がめちゃくちゃ弱いってわかって大本営の幕府の弱腰を見切って薩摩藩はオランダと内通して砲台を準備していたのは日本にとって本当に神風だったと思う
賛同いたします!
とてもとても、胸が熱くなるほど感動しました。^ ^
少年だった東郷平八郎は、この薩英戦争に初陣として従軍。
英艦からの砲火の中を弾薬運搬や伝令として砲台を駆けた。
講和後イギリスに留学し航海術を学んで日本海軍の基礎を作り、連合艦隊長官として日本海海戦を指揮し、ロシア海軍バルチック艦隊を完璧に撃破する。
凄い先輩達だ。
鹿児島のある集落から西郷兄弟、大久保、大山巌、東郷の偉人が出るなんて凄すぎ!
太平洋戦争時の米ニミッツ提督が東郷平八郎を「師」として生涯仰いでいたのは有名ですよね。これも薩摩隼人の武士道ならではで。
何といっても、戦う姿勢を見せたことが大きい。まずは戦う姿勢を見せなければ舐められる。平和のために武力は必要です。
島津の武勇は信じがたい程です。
その伝統は幕末での健在でした。
薩英戦争では世界を支配していた大英帝国に戦争を吹っ掛け、互角以上の戦いをしたのです。
旗艦ユーライアラスの艦長や副長も戦死した程です。
今でいうなら、鹿児島県が世界最強のアメリカに戦争をふっかけ、互角の戦いをする様なもの。
「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」
(ニューヨーク・タイムズ)
それを今の国会議員の連中がどう思っているのか、また、過去の出来事から学ぶべき事があることを認識しているのかどうか、ですね。
戦う姿勢より手を出してくる気が無いほど武力整える方が大事なんだがな。
朝日新聞の社員はこれを見た方がいいね
「翼をください」の歌詞のような平和論を撒き散らして、お花畑を広めた罪は重い
@@はらはら優 愚者
薩摩は「城をもって城とせず、人をもって城となす」
人材こそが国の礎。これは現代にも通ずると思います
信玄公 人は石垣人は城 人は堀 情けは味方 仇は敵なり 通ずる所ありますね
薩摩人は今も誇りを持って国を守っているらしい
この少し前、英国は清国相手の海戦や陸上へ砲撃で、損害がゼロで大勝利をしていた。
だから薩軍と戦いで将官を含む死傷者を何人もだしたのに驚愕したことだろう。英国は改めて薩摩は他の日本人とは全く違う事をはっきりと認識して、後の対日政策を進めた。当時の英国は世界最強の国家で、人類史上にその強さに匹敵するのはモンゴル帝国くらいのものだ。その英国に向かって喧嘩を売り、傷を負わせ、負けても膝を屈しない薩摩隼人がいたからこそ明治維新がなったのだと思う。逆に薩摩も英国の恐ろしさと強さを身に染みて味わったことだろう。
一地方藩が大国イギリスを相手にするのはすごいことですね。
薩摩人です。お互いに理解しようとしなければ、ただの譲歩でしょう。郷に入ったら郷に従う。日本のルールを守る気がない輩に対して一切引いてはならないと思います。
最近、勝手に日本に住んでるのに「日本人を教育してやる」たか勘違いしてるズレた外国人もたくさんいますよね
モラル・民度において日本人より格段に劣ってるのにね
先進国であるのは国民性による。日本にタカる隣国や途上国の人はそもそも学習能力がないということか・・
今の政治家に聞かせてやりたいな
いい動画だった。薩摩は凄いよね。武力と現状把握能力と交渉力が高い。島津は関ヶ原で敗れて逃げ帰った後に家康から本領安堵されるまでの交渉ぶりも凄い。
結局薩摩藩は賠償金も他藩に肩代わりしてもらい支払っていない。犯人も引き渡していない。関ヶ原の敗戦の後も幕府からの要求をのらりくらりと交わし続けて薩摩藩のみ本領安堵を勝ち取っている。戦闘にも長けているがそれにも増して交渉力が抜きん出ている。
薩摩が鋭いのは、相手にした英国に対して賠償金交渉をしっかり行った事、戦いがどうのより交渉力が光る。
なお幕府に借金して踏み倒した模様
今のアメリカ奴隷の弱弱日本政府を当時の薩摩藩の人達が見たら、全員首チョンパにしそう。
この動画の良い所は、その後にこうなったと言う、歴史の流れも案内している所ですね。
生麦事件は、その直前に別の外国人が行列に対して敬意を示して、帽子をとって跪いた事から余計にこのあとのグループの行為が逆鱗に触れたとも言われています。
この戦争で参戦した東郷平八郎は、後に米国での留学の際に黄色人種である事から同級生たちからの侮蔑の対象となりますが、この戦を含む実戦に参加したということがわかると、周囲からは尊敬の眼差しで見られるようになったようですね。
スイカ売りの中には、他にも山本権兵衛も志願して入っていたらしい・・・僅か9歳か10歳の時である。
この山本権兵衛は、明治時代には軍人としても大活躍し、その後総理大臣にもなる。
そして関東大震災の時には、急遽返り咲いて後藤新平と共に大活躍をしたことは歴史に刻まれている。
それにしても薩摩人の凄みは、幕府に対しても大国に対しても怯まないことで、これがきっかけで薩摩とイギリスの関係は深くなり、今でもオレンジのことを「Satsuma」という銘柄でイギリス人に親しまれていますね。
ある説ではリチャードソンは不遜で平時から態度が悪かったとか。外国人の中でも日本のルールを守っている人はいたが、たまに悪意でルール無視の外国人がいてリチャードソンがそうであったとか。
こういうことは日本だけでなく他の有色人の国でも西洋列強の嫌がらせ、それにともない賠償請求をしていたという説もあります。
それはともかくこの薩英戦争の話は大好きな話です。
今の政治家にも毅然とした態度をとってもらいたいものです。
戦う事と引き際が大切なんだと分かる。
戦いを放棄する国に未来はない。
日本史の授業ではあっさり通り過ぎたが、薩英戦争はアヘン戦争の再現だ。バルチック艦隊撃破の前に既に世界一の艦隊と戦って退けていたのだから、薩摩藩は凄い。
よ〜く考えると、鎌倉時代の二度の元寇だけでなく、
この薩英戦争のときも神風が吹いたんだよね。
江戸末期の幕府と今の日本の政治家が、物凄くシンクロする。
大正の時代とも凄くシンクロするみたいですよ。
トップがアレで、そのツケが下っ端に回ってくる仕組みは今も変わらないですねぇ。
この戦争で薩摩がイギリスと互角に戦ったことがすごい自信になったろう
天皇もこれを見て薩摩に日本を任せようとしたのは間違いない
長年堅固にしてきた思想を変えるって意外と難しい。
薩英戦争を通して攘夷思想を転換、相手を理解しようとする姿勢が
後の好転に繋がったのは現代人も学ぶべきところ。
鹿児島県民です。
幼い頃から鶴丸城(鹿児島城)跡や城山、薩英戦争で活躍した天保山砲台跡を見て育ちました。
ああ!!こんな指導者が今こそ欲しい!!
居ないね
今の年寄りは腐ってるよ
残念だが
今は朝鮮系日本人政治家しかいないのでムリだ
むしろ朝鮮系政治屋は日本を潰そうと企んでいる
錦江湾での戦いでイギリスはまさか世界一の海軍に刃向うことなどしないだろうと
船の弾薬庫の扉の前には幕府の賠償金の箱が積み上げられていた。薩摩から攻撃された時
それらをどけるのに手間取って即座の反撃が出来なかった。また暴風雨により船が流され
いつの間にか射程の短い薩摩の砲台の圏内に入ってしまったようだ。
ここで薩摩がきちんと命中させているのは決してまぐれではなく、物理の法則を理解し
しっかりした狙いに基づいている。具体的には砲の仰角、装薬の量など三角関数や
ニュートンの運動力学を理解、応用した結果である。
戦いの後、着弾したイギリス船の砲弾を見た薩摩はその椎の実のような尖った形状に驚き、
ただ丸いだけの自身の物との違いに、世界との差を痛感した。それからの転換は
本当に見事で素晴らしい。面子にこだわって強硬姿勢を貫いていたらいずれイギリスに
潰されていたかも知れない。
島津公の為に命を投げ出す武士はいくらでもいるのに犯人だけは断じて英軍に渡さないって呆れるほど強硬姿勢だと思う
薩摩藩は戦国時代に種子島に火縄銃が伝来した時にいち早く導入して根来衆や織田信長みたいな大量配備は出来なかったが武将から足軽まで火縄銃を扱える様に訓練をしていたし、江戸時代に入って太平の世に成っても薩摩藩では武士教育に力を入れて臨戦体制の心構えをしていた。
九州人として、心から薩摩藩と島津一族を尊敬しています。
そういや、鹿児島には、知覧もありましたね!
東北の人は無意味な戦争を仕掛けられて国賊扱いされ未だに怒りが収まらないようですよ。不要な地方分断を招きましたね。
@@頑鉄-y4w そんな妄想史観を語っているのも貴方w
本当に昭和史観のまま生きている老〇なんですねw
てか、無意味って何よ?w
奥羽越列藩同盟は、会津藩に同情的で、共に赦免を願い出る旨を奨めたのに、会津藩は徹底抗戦を選んで、降伏勧告を蹴ったから戦闘になったんですよ?
だから母成峠を突破された際に、勝負あったと他藩は早々に降伏を決定、会津藩は後ろ盾を失ってしまったんです。
会津藩士と家族が悲惨な目に遭ったのは事実だが、実は庶民の間では会津藩の徹底抗戦はそれが長引き過ぎたと評判が悪かった。
松平容保への同情は専ら藩士のみで、観戦武官の外国人は「もう彼は会津に戻って来れない」と記したほど。
何より会津戦争の戦闘序列を全く無視している。
会津攻略の総指揮官は板垣退助であり、松平容保が降伏の為に城下に進み出る時も輿の使用を許可して面目を保たせた。
一部の会津人で、長州を恨んでいる、という人がいたのも事実だが、何より若松城攻城戦に長州藩兵は殆ど参加していない。
薩摩藩の重鎮、大山巌の後妻は会津藩家老の娘、山川捨松ですからねw
彼は新島八重の銃撃を受けて負傷した説があるくらいですがw
@@skaku3835 アホらしいから読みません。
@@skaku3835 誰も史観の話なんかしてないのに一人相撲おつかれ。
長州藩はイギリス、アメリカ、フランス、オランダ船に砲撃して四か国連合艦隊からの報復の下関戦争が有り長州藩は敗れたがその事も解説して欲しいです。
歴史の教科書で、ちょっとしか触れてなかったから薩英戦争の実態がイマイチ分からなかったけど薩摩藩、めちゃくちゃ武闘派だったんですね。そこから討幕されるのも仕方ないですね。
めちゃくちゃ武闘派の薩摩藩と倒幕に燃える血気盛んな志士の集まりの長州藩が手を組めばもはや無敵。
土佐藩の入る余地なし。
薩摩藩と長州藩だけで十分幕府は倒せる。
@@hrk290 土佐藩で徳川幕府に恨みを持ったのは関ヶ原の戦いで敗れて改易された長宗我部の元家臣の子孫で土佐藩では元長宗我部家臣は身分が低い下士や郷士で山内に仕えて居た。
オーストラリア南東にタスマニア島がある。日本の某大手スーパーが店頭に並べるタスマニア・ビーフは現地と提携し、
輸入された牛肉だ。その島に生息する珍獣タスマニアデビルを知っていても、かつて先住民がいたのを知る人はあまりいない。
1803 年、イギリス人入植者がタスマニア島に侵入、タスマニア人との間で土地をめぐり紛争となる。原始時代並みの暮しを
していたタスマニア人は獣のように射殺さ れた。1830年、イギリスは通称「ブラックライン作戦」なるタスマニア人絶滅作戦を発動。
銃を持たぬタスマニア人への一方的虐殺行為の連続だった。 1803年当時、推定3~4千人とされるタスマニア人は、この作戦で
135人にまで激減、南東部のタスマニア半島に追い詰められる。
辛うじて生き残った生存者も過酷な運命が待ち構えていた。彼らはタスマニア島北東に位置するフリンダース島に強制連行
され、収容所でキリスト教や欧州文化を 洗脳する教育を施される。サンプルとしてタスマニア人を生かす計画もあったかも
しれぬが、既に彼らは人種としても民族としても生き残る力を奪われていた。
1845年には45人となり、1876年にはついに最後の一人も死去する。
タスマニア人はイギリス人と遭遇して百年も経ず地球上から根絶された。@@@@ 日本人もほんとうに危なかった!!!!
薩摩藩士、明治の元勲たちに感謝!!
原田伊織とかさ 薩長憎し史観でいまでもあれこれ書いてる人いるが明治の元勲たちにはひたすら感謝のほかない
薩摩の男らしい対応が、かえって尊敬を得たと思う。 大東亜戦争でも日本は戦った。だから世界から尊敬を得ている。
薩摩人80過ぎのじじぃですが、少年の頃は子ども同士の喧嘩が止まらないと「てげてげせい!」兄さんたちが
叱った。そして、弱い者いじめはするな!は「郷中教育」訓です。たいがいで止めと言う事で今でも言います。
藩でも国でも頃合いで和解せよという教えです。皆殺しは遺恨・怨念を残すから永年の争いが続きます。
これは面白い動画。歴史の偶然が次の時代にどう影響したのかがわかりやすい。日本は異文化を理解することで協調を学んだが、今問題なのは、日本に来る外国人がその点を理解していないということなんだよな…。時を経て、今度は日本がそれで悩むことになろうとは…
東大京大卒の揃ってる現在の日本政府よりも、江戸時代の薩摩藩の方が政治の立ち回りが上手というのはどういうことだろうか。
@@SaeedElAhmadi 修羅場をくぐり、真の学問ある人間が最強なのでしょう。
イギリス側からの要求文を急いで直訳したことで、島津側に誤解が生じて、犯人処刑の要求が久光処刑の要求と取られてしまったと聞いたことがあります。
ちなみにこの翻訳を行ったのは、当時幕府にに雇われていた福沢諭吉だと聞きました。
また、艦隊が島津軍の砲台射程内に停泊したのは、近いほうが威圧になると考えたからではないでしょうか。
戦後、住宅地への攻撃は必要以上の攻撃だと、議会や国際世論から非難されています。
イギリスも相手が悪かったよね。まさか日本人がここまでやるとは思わなかったんだろうし、
艦長達が戦死してしまったというのも大きいよね。
薩摩頭いいね、時代と次代を見ている
特筆しべきは、賠償交渉に終わらず、イギリスに軍艦購入とアームストロング砲の購入、軍艦の操船を学ぶための薩摩の若者の英国留学、これをすべてOKさせたことですね
自宅のすぐ近くに、薩英戦争本陣跡がある。なかなか海から遠いところに本陣ってあるんだなぁ…と思っていたが、動画を見て納得した気がする。
大変勉強になりました!
生麦事件のイギリス人商人は、清に長いこと居たんだよね。で、清では馬上からムチで引っ叩けば逃げるか平伏するかどっちかだったから、日本人も同じだと思ってた節がある。
馬で大名行列を横切り「無礼者!」と詰められたときも、ムチで侍を引っ叩こうとしたらしい。
余談だが、侍のマナーは一旦抜いた刀は相手の命を奪うまで鞘に納めないという。薩摩の侍は傷を負った商人に止めを差したことが野蛮だとイギリス人から避難をされたが、彼らにしてみたら侍のマナーに従ったまで。むしろ止めを刺せなかった重傷者がいた事のほうがマナーを守れなかったんだ。
イギリスは烈火の如く怒ったが、日本に滞在していた各国の外国人の反応は「そりゃあのイギリス人が悪ぃわ」ってな感じだったらしい。
豊臣秀吉朝鮮半島侵攻にて、明帝国数万人の軍勢を6000人でフルボッコにした島津軍の子孫・薩摩藩はさすがです。
この話はジャンプの漫画のような展開が面白いのよw 敵同士だったのにいつの間にか懇意になっていって薩摩はイギリスのバックアップを得て後に倒幕に成功する。
もし島津久光が幕府へ異議申し立てのために上京してなければどうなった?もし生麦事件がなければどうなった?そうやって想像すると歴史の成り立ちってとても面白い。
ギニュー特戦隊を倒すために組んだベジータと悟飯&クリリンに通じますなあ。
薩摩『舐めたらコロス』
イギリス『怖い、でも所詮は地方だし、武力ちらつかせればだまるやろ』
薩摩『上等やゴラ!』
イギリス『話にならん、けどもしかしたら話せればワンチャン?』
薩摩『今回はこのぐらいにしちゃる(思ったより強いなこいつら、学ぶところ多いし、友好関係なれたら…)』
イギリス•薩摩『よろしく友よ!』
動画は大変為になったが、コメントも面白く全部読んだ。
薩英戦争でイギリス艦隊は最新鋭の後装式のアームストロング砲搭載して初めての実戦だったが不発等のトラブルが多発したので後に艦載砲は信頼性が有る前装式のタイプに成った。
アームストロング砲が 最新鋭であったが 不発が多かったので それを 薩摩藩が買い取ることができたんだよね
平伏するのは大名の籠が通る時だけw この一件はまぁ言語疎通の不在が生んだ不幸な事件なのだけど同時代の欧米でも被害者達を非難する意見が多かった。
現代の我々に置き換えても「外国要人の行列に割って入った」らどうなるか考えるまでもないのであり、前述の被害者達に対する非難もその点を指摘している。
生麦事件はさすがにイギリス人悪いだろ。
わたし、福岡出身なんですが関東の人に九州男児とか言われると本当に困るんです、九州男児は薩摩隼人のみ。
肥後のもっこすは九州男児に入らないのでしょうか。黒田武士もダメ?
@@user-banryok 私の浅い知識で申し訳ないのですが九州男児とは警視庁創設時の各藩士の中の薩摩人に対しての呼称だと認識しています。熊本は分かりませんが我が黒田藩は維新に何の貢献もしていません、維新派藩士2名が切腹したくらいです。佐賀、大分でさえ(失礼)偉人を排出しておきながら博多はどんたくと山笠しか興味がなかったのかまぁ町人文化のひょうげもんでしたね。
北九の成人式は北斗の拳のザコ役みたいな集まりですね
薩摩藩すごいな!イギリス艦隊を追い返すとは尊敬!
薩摩隼人ここにあり、あっぱれです。
ことなかれ主義で遺憾砲ばかりの
どこぞやの誰かさんとは大違い。
幕末の薩摩藩と藩士たちが
今の日本の衰退と政治家たちの情けなさを
見たらガッカリするぞ。
薩摩は凄いね。
どっかで読んだ本に、リチャードソンはもともと結構やんちゃというか考え無しなところがあって生麦事件を知ったリチャードソンの親戚が「そりゃ殺されても仕方ないよ」と語ったとか。
なんの本だったかな。
エドウィン、ベルツの本だよ
その親戚の人たちからすると
そこから戦争までになった感想を
知りたい
アームストロング砲はロケット砲ではないですよ。従来の砲は先込めで砲身が筒状の滑腔砲に対して射程の増大、弾道の安定のため、砲身にライフリングを切って元込めにしたのがアームストロング砲です。長崎奉行だった鍋島藩は、出島でイギリス戦艦搭載のアームストロング砲を見て研究開発を開始し実用化して城下に配備しています。
大山弥介や西郷信吾、黒田了介以外に西瓜売り決死隊の隊員には、奈良原喜左衛門(奈良原潔の兄)や有村俊斎(海江田信義)などがいました。
生麦事件は外国人にもあり得ないと言われていたな(日本の風習を無視したこと)
生麦事件が起きる少し前にアメリカ商人が乗馬中に薩摩藩の行列を出くわしたので、馬から降りて道の脇に寄り行列が来た時に頭を下げて礼をする行為をしたのでトラブルは起きずに済んだ。
そもそもVIP(護衛対象=島津久光)に近づいたのがマズい。普通に考えてイギリスも同じ事(偉い人に不用意に近づく)されたら何らかの対処したはずだし😒
とうのイギリス本国が異国で何しとんねんってまさかの薩摩擁護だったからな。結果イギリスとしては上手い事行ったし、薩摩も上手くいき、ただ振り回されただけの幕府はイギリスに金を取られ、信用を失い、薩摩に借金も踏み倒されるっていうとことんついてない被害者のまま時代が終わるんだから、ちょっと同情するわw
@@門脇歩-y3t 事件に会ったイギリス商人達は日本に来る前に清国に居てイギリスはアヘン戦争で勝ちイギリス人は清国で傲慢になって居たので日本人を清国人と同じだと思い、見下した態度をした。
@@73moto薩摩がそこに平手打ちどころか
戦争までしたのか………
まじ戦闘民族
薩摩藩は強い藩であり強かな藩でもある。
一方、長州藩は強い藩ではあるが強かさはなかったように思う。
江戸時代、日本全国様々な藩が存在したが薩摩藩こそ最強の藩ではなかったかと思う。
長州討伐を何回も撃退してます!
兵一人一人の肝の座り方が現代人とは比較にならない。
国防には国民の覚悟が要る
この事件の原因の生麦事件で、幕府は日本の風習などの説明もせず、イギリスに莫大な賠償金を支払った。
そして、イギリス軍はさらに図に乗り、薩摩藩からも賠償金をとろうとした。だが、こちらは敢然とはねつけ、戦闘に入る。そしてイギリスの艦1隻を撃破、2隻を中破させて、艦長1人まで戦死させた。薩摩の市街地は10分の1が焼ける被害を出したが、イギリス側も負傷者合わせると60名を越える損害を出した。これはイギリス国内からも、よけいな戦闘だったと非難されている。
この薩英戦争の後、幕府はイギリスに完全に腰抜けとみなされ、逆に己の意見を堂々と伝え、敢然と戦った薩摩藩は敬意を抱かれ、互いに交流するようになる。
たかが一藩が、海外の強国と直接交流などという前代未聞の事態になったのは、当時の幕府がいかに無能卑屈だったかを示す、好事例である。
民明書房刊『薩摩隼人の勇気!』より。
財務官僚は無能とか思ってそうw
@@hirose795
キミ、私に粘着してどーすんの(^_^;)
そんなに好かれてもこまるなぁ。
イギリス人は大名行列になんで馬に乗って割り込んだりしたんだろ?
それにしても薩摩藩の仲間を差し出さず戦うのは漢だなぁ〜
今の日本人にもこれくらいのガッツが欲しいですね。
いらねーわ
令和5年1月5日
ガッツとは何語でしょう。心意気というところでしょうか。
人間にとって大切なもの。それにしても写真の袴姿の鹿児島人が逞しい。鹿児島を背負う顔してます。
@@にょっす-k6p あなたもいらねぇ
@@にょっす-k6p ゆとりは黙っとけ
@@安岡惠美 Guts=内蔵。ググレカス先生は根性と訳していますが、私見では胆力 位でしょうか。
薩摩の天才軍師 伊地知正治も解説して欲しい
昔は薩摩が一方的にボコられたとか言われてましたが実際は殴り合いの果てに友情が産まれちゃった感じだったんですかねぇ・・・
その後日本海軍が英国海軍を手本として今に至ることを考えるとなかなか感慨深いものがありますねぇ
イギリスって戦った相手と後に手を組むことが多いですね。
グルカ戦争でイギリス軍を苦しめたグルカ兵は今でもイギリス正規軍の精鋭部隊ですし。
それは日本人が都合良く歴史を解釈してるだけなんです。残念ながら、英国は叩き潰した後、薩摩を反政府地方勢力の使い易いコマとして操って親英政権を樹立したに過ぎません。世界中でそうしてます。リアルにモノをみましょう。
@@hrushchev1984 言い換えれば、グルカは未だにイヌな訳です。
@@頑鉄-y4w
もちろん、当時の覇権国家はイギリスだったし、戊辰戦争でイギリスはアメリカの南北戦争で余った兵器を日本に輸入して大儲けしたのも事実。
ただ薩英戦争でイギリスが日本の武力、あるいは行政能力の高さを恐れ軍事侵攻よりも経済を選んだのは事実。
もし軍事力や行政能力が低いと判断してたら、確実に清国の二の舞になっていただろう。
グルカでも確かにイギリスの尖兵にはなっているが、農業もろくに出来ない貧しい国にとって傭兵というのは現金収入を得られる事業でもある。
スイスでもそうだったし戦国時代の日本でも山岳地帯の人間は忍びだったり雑賀衆のように鉄砲の技術を活かして日本各地の戦国大名に傭兵として覇権されていた。
薄っぺらい人権意識から見たら全くもって容認出来ない事実ではあるけど、
当時も今もお金がないから傭兵として働く現実はある。
問題は当事者がお互いウインウインの関係(ネパールではグルカ兵になる事はエリートとして扱われている。
事実それでネパール経済は回っているし、グルカ兵の強さは世界中で認識されている)と認識していればそれで良い訳で、第三者が狗だなんだと蔑む権利はない。
もし覇権国家をなくして世界平等の世界を築こうとか思っている理想主義者であれば紀元前1万年くらい前からの人間の歴史を学んだ方が良いよ。
世界は覇権国家で回っているクソみたいな現実、それを変えるのはタイムマシンを作るよりも難しい現実を。
@@hrushchev1984 仰っている内容は理解できますし、異論はありませんが、あまりに自画自賛、自国中心の理解は世界史や国際政治を理解する際に妨げとなると申し上げたかったのです。世界史も国際政治もリアルに見て欲しいものです。私は家族に英国人もおり、今この家のセキュリティもグルカ人ですからシニカルに物事を見てます。先日も某国に駐留してる英国グルカ連隊を訪問したばかりです。「手を組む」とは使用する側と使用される側で使う言葉ではありません。日本人の一部のロマンチストがなんかしら薩摩の行動を自尊心を満たす為に利用するのは、なかなか世界史的にみると恥ずかし話であります。何が自慢なんでしょうか。皆さん大好きな西郷や大久保が、アーネストサトウ等という一介の書記官に媚び諂い武器供与を受けて政権交代する様は、英国とその傀儡が世界中でやって来た、その後の米国も行ったよくある出来事であり、ことさら「薩摩の武勇を認めた」だの「交渉力の高さを買った」だの甚だ失笑を禁じ得ないおかしな話です。敗北して外国の手先となり、自分達の利益の為に主君に弓引いた勢力の何が立派なんでしょうか。「薩摩凄い」説は、外国の若年外交官に絵図を描いてもらい、武器を与えられて宮中クーデターを起こし政権交代した恥ずべき歴史を覆い隠すカバーストーリーです。
二次大戦が終わって77年、未だ神話から目覚めない日本人をお目出度い方々だと嘲笑する事も出来ますが、悲しく思うし哀れだとさえ思うだけです。
映画化されてほしいですね。
ドラマ「田原坂」で多少描かれてはいましたが。
鹿児島弁で醤油のことを『そい』と言います。
英語の『soy sauce』は、この戦争で仲良くなった薩摩藩から伝わったと真しやかに鹿児島では言われています。(笑
薩英戦争の開戦理由は薩摩側の通訳の誤訳にあった、という説がおもしろい。事件首謀者の身柄を提出せよ、を誤訳して「薩摩国首領の首を差し出せ」的に伝えちゃったもんだからそんなん聞けるか!ってなったらしい。優秀な通訳って大事。
それ 面白いですね!
ググったら
その翻訳者 福沢諭吉らしい!笑笑
追記: 更にググったら 真偽不明らしく 福沢諭吉の翻訳が薩英戦争の原因になったという事はないらしい!笑笑
@@BullLRED 薩英戦争がなければ開国も無かったと思うから、歴史を変えた誤訳ってことですよね。福沢先生が教育熱心なのもわかる気がします。
「相互理解」と「お花畑的に無防備に受け入れること」は、違うモノと理解したい。
薩摩藩は相手を理解して怯えませんでしたね。
イギリスとの対話も成立させて。
祖父母の出身地で、英国系教会会員として心に残ります❗
ドリフターズ見たんで少し調べたけど、関ヶ原では安全な方に逃げるんじゃなく敵に突っ込んで活路を開いて脱出するとか、殿が応戦しながら下がるんじゃなく戦死するまで敵をくいとめるとか正気どころか現実ともおもえない。
島図軍は200人しか残ってなかったそうだし島津豊久本人も13人だけ連れて行って全員戦死、しかし島津豊久は敵の大将にたどり着いて短筒で撃って大将はその傷が元で死んでる…
凄いとかなんとかよりも、皆正気なのか?
島津の前進撤退ですね。
西方への退避は、既に西軍の大半が同方面へ逃走しており、敗軍で街道が埋まり、早晩追い付かれ掃討される事は目に見えていました。
そこで史上稀に見る迫る敵陣の中を一丸となって搔い潜り、伊勢街道へ抜ける事を決定します。
普通なら徳川旗本軍に食い止められる程度の人数なのですが、福島正則隊との間隙を一糸乱れぬ陣形で突き抜け、突破に成功します。
必死に体勢を立て直し、追い掛けて来たのは有名な本多忠勝と井伊直政。
本多忠勝は落馬させられ、井伊直政は豊久を討ち取りますが、島津義弘本隊に迫る中で銃撃を受け負傷。
しかし直政は、薩摩征伐に向かうべきか悩む家康に諫言し、自ら仲裁を買って出て、交渉半ばで戦傷が元で亡くなるという劇的な生涯でした。
捨て奸という独特の作戦?で、死ぬまで相手を食い止めるというのですが、本当に壮絶過ぎるのと、本当にそんな事が出来るのか?不思議でもあります。
素晴らしい😂😂やはり鹿児島は血気盛んだなぁ😊😊
15:03 細かいことですが・・・
イギリス海軍の伝統は「見敵必殺」ではなく「見敵必戦」です。
「見敵必殺」の方が一見威勢が良いですが、実は「見敵必戦」というのは「どんなに劣勢でも戦う」という
たとえ小舟一隻でも大艦隊に挑むという、まことに勇壮なものです。
さすが薩摩だな 斉彬公かっこいいな
久光公ですね。
@@gzunda55 いやこの動画関係ないで 純粋に斉彬公がかっこいいなと思っただけです
@@胡麻ポン酢 了解しました。
斉彬公が生前に薩摩藩の近代化に着手した結果で薩摩藩が軍備を整えたからイギリス艦隊と戦う事が出来た。
薩英戦争の話で驚いたのはイギリス世論が市街地への攻撃を非難したこと。薩摩は賢いねえ。
恫喝紛いの武力行使を
良しとしないイギリス国民の
民意とバーサーカー鹿児島県人
のぶつかり合い
民間人を盾にするとは、さすがの戦術ですよね!勝利にどん欲な武士っぽくてかっこいいと思います!
関ヶ原の島津の退き口で、追撃してきた井伊直政を狙撃して島津義弘は戦場脱出に成功、その後、井伊直政を通じて徳川と交渉し、島津の領土安堵が決まったんだけど、薩英戦争はそれを思い起こさせるね。井伊直政を倒した一発の銃弾と同様にユリアラス号に命中した大砲の一弾が薩摩を救った。
今も昔も大将首を取るのは重要ですね。
霊夢様💓
生麦事件では、薩摩
は国内法の武家諸法度を遵守しただけで御座いますね! 薩摩藩は法度に従い大名行列の通過刻を神奈川奉行所に通知して、奉行所は外国公使館に行列を妨害しない様に通達しておりますね。良いですか! 修好通商条約は商売の自由は認めましたが、文化の破壊を認めておりませんね😡
そういや、30年くらい前、日本の高校生がアメリカでFreezeと言われたにも関わらず、動いて撃たれて、犯人は、無罪になった前例もありましたね。
生麦事件について、薩摩の行列は形式化していたとはいえ、武士=軍人の移動で
立派な軍事行動である。だから行列の宿舎は本陣と呼ばれる。決して物見遊山の
旅行ではない。幕府も予め外国人には注意を促していた。だから軍事行動中の
部隊に乱入する者があれば排除するのが当然である。もし天安門で習近平が閲兵中に
観光客がのこのこと近づいたら、どんなメに遭うか。お互いの文化を理解して~で
解決などできないだろう。島津の対応はある意味当然と思える。
そして藩は犯人(実行者)を当然把握していたが、最後まで差し出すことは無かった。
彼は鹿児島(錦江)湾での戦いにもしっかり参加している。
だから、相手はその大名行列の意味を理解していなかったし、急なことで、馬の踵を返して去ろうとして、逆に行列の前を横切る羽目になってしまったんじゃないの?
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私は若い頃、ウィーンに資料研究滞在のために到着直後に、市庁舎裏のマギストラート(住民登録をする区役所)に転入届け出をするための印紙代を払うために、本拠地のドイツの口座からの預金が引き出せる銀行のATMを探していて、うっかり、市庁舎に隣接する国会議事堂敷地内に入ってしまったことがあります。
警備の人に「ここで何をしているのか?」と呼び止められ、悪びれもせず、「銀行のATMを探しているんです。どこにあるかご存じですか?」と尋ねたら、その警備の方、呆れ顔で、「ATMなら、この先を右に曲がったところにあります。とにかく、すぐにここから立ち去って下さい」と。
普段は、国会議事堂前を観光客などが横切っても、そこまで厳しくは言われないと思うのですが、多分、何か特別な警備が必要な人でも来ていたのでしょう。
ウィーン国立歌劇場なども、外国からの賓客などがあると、ロイヤルボックスとその背後のロイヤルティーサロン付近を閉め切って、普段は入れる場所でも入れないことがありますから。
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いずれにしても、ドイツに既に10年以上滞在していて、ドイツ語会話に支障がなくても、特別な状況が咄嗟に理解できなかったら、そういうことになります。
現代の、ウィーンのように国際的かつ民主的で自由な街ですら、王宮や市庁舎などに、政府機関と、国立図書館、ウィーン図書館などの研究施設、それに博物館などの観光施設が混在し、政府関係の施設には特別警備が必要なこともありうるとなると、そういうことは起こりうるのです。
「無礼な」と思っても、「切り捨て御免」ではなく、外国人には事情が通じていないことを考慮して、身振り手振りででも立ち去らせて穏便に済ませる配慮が欲しかったと思います。
そんなことを言いだしたら、現代の我々、在外日本人でも、へまをやることはいくらでもありますからね。
19世紀までの世界では乗馬したまま、身分が高い人に接近することは最上級の無礼でしたので、斬られても仕方がない行為でした。
戦国時代の最上級無礼は関東管領に就任した上杉謙信に乗馬したまま謁見した成田氏が上杉謙信から乗馬ムチでボコボコにされて上杉謙信遠征軍は崩壊・解散しました。
日露戦争でロシアを打ち破った薩摩軍人だよなー。
「お互い激しく罵り合えるのは、仲が良い証拠」っていう、イギリス人気質を感じるw
異論は有ったにせよ生麦事件の賠償金をすんなり払う幕府の姿勢を見て、幕府はチョロいと判断したのはイギリスだけでは無かったでしょうね。其れが下関戦争後の条約改定にも影響したかもね。
賠償金は幕府から借りて踏み倒し、軈て尊皇攘夷から倒幕に切り替わる?
兵器の殺傷能力が違いすぎるとはいえ薩摩藩の学ぶべき所は相手を知るという戦うための一歩を疎かにしなかったところかなと思う 常に相手に備えて慢心しない冷静沈着なところが島津家は優れていたように思う
冒頭、勘違いがあるので。大名行列への平伏は御三家に限られていた。普通の大名なら道の脇へよけて、立って通過を眺めていればいい。リチャードソン一行にもそれは伝わっていたはずなのだが。
良い事教えてくれます。まだ日本は捨てたものではないと感謝します🤣
あの大英帝国海軍と互角どころか薩摩藩のほうが死傷者少なかったらしいから…
ある意味、薩摩藩は隣の清国より遥かに強かったということw
そりゃ日本が植民地支配されないわけだw
恐るべし薩摩藩。
大英帝国海軍(七隻)じゃん。アヘン戦争だと、イギリスは開戦時だけでも軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社の武装汽船4隻ぐらいの軍勢はあったよ。イギリスは中国の片手間で来ただけなのに、なんでそんな解釈ができるのかわからない。
まとめ方も秀逸で、素晴らしい動画でした。有難うございます(^-^)
西瓜売り決死隊のことは初めて知りました。
面白かった
『和平』『講和』外交が極めて国や国民人々を守るために極めて大事です。鹿児島にルーツがある者としては.. 争いや戦いは問題の本当の解決策にはならないと言う事を学んで欲しい気持ちです。天璋院篤姫が..刀を抜きましたか? とられた行いに学びや徳を得て欲しいと思います。西郷にしても.. 一方的主張をするのではなく話し合いを優先しています。
一度、戦争や紛争になれば..
その犠牲になるのは争いの当事者ではない普通のpureな一般の市民達大勢です。それは、その酷い悲惨さは、過去の歴史も現在も現実に証明 全ての人が学んでいるはずです。
ひとつの国の中で 民族や文化習慣の違いで摩擦が生じ、その結果国が二分 三分する事のないよう。互いを理解尊重する姿勢を学び 平和な社会が維持される事が最も重要です🌏
今の日本政府は、なめられっぱなし。
当時の幕府と変わらないかもっと酷いかも
今は日本の中に外国人が多すぎるからね 日本人のふりしてる外国人も多すぎて足引っ張られてる
惚れ惚れするぐらい環境も味方したんだな
イギリスは、16世紀に日本の植民地支配を狙ったが、日本には50万丁の鉄砲が有り植民地化を狙えば300万兵の犠牲が出るとの試算によって諦めた。300年後に再度、日本の植民地化を狙ったが島津藩の一藩で思わぬ反撃から甚大な被害を受けたため、日本を相手にすれば致命的な損害が生じることから懐柔に方向転換した。
今でも砲台跡は錦江湾沿いにあります。埋め立ての影響もありますが、湾から市街地迄の距離はだいぶあります。それでも艦隊の大砲射程は薩摩大砲の2倍程度あったのだろうと思います。斬り込みの方法等は、都会の合理的な考えには無い薩摩独特の感性…ぼっけもん…の考えた作戦ですね!今でも鹿児島には、ぼっけもん的感性の男性は多いと思います。「泣こかい 飛ぼかい…泣くごったればひっ飛べ」…荒さは無いが賢さより勇気ある男子…ぼっけもん…!薩摩人としては少しアホっぽくても大真面目に作戦を立てて本気で実行した先人達をなんだか誇らしく思います😊
アヘン戦争の時、戦争が終了して負けた清側が賠償金を支払うことで一度は終了した。清側がちゃんと支払えばそれで終わっていたのに、薩摩藩と違って、清側が約束を守らなかったり、前言を翻したりして、不誠実な態度だったために、英側の怒りを買って、最後には香港まで取られてしまったのが真相だとこのチャンネルで知りました。
アヘンを売った英もどうかと思うが、国際法を守らなかった清側にも、半分の責任はある。
当時の薩摩藩の現実を見据えた攘夷の破棄の英断には、頭が下がります。
幕府がイギリスにぺこぺこしている態度が、今の日本政府がアメリカ、チャイナにやっていることにそっくりで、びっくり。
英国艦隊の船に乗り込みを果たした
五代友厚がアームストロング砲の原理を理解し
尋問の際に英国陸戦隊の白兵戦に薩摩藩士は捨て身の切り込みするから英国艦隊の被害は甚大になると説いた
某テレビ番組で薩摩は幕府に向こうが何かして来たら遠慮なくやりますからねって言ってたらしいし😅生麦事件の原因は日本語も満足に理解出来てないのに向こうがフラフラしてたのが原因だよね…自分の国と同じ様に好きにしようとしたのが原因の様な気もするんだけどな😮💨
ゆっくりで一番好き
いい動画ですね! 今回のウクライナを見てると切に思うのだが、綺麗ごとでなく最後まで守り抜くっていう気概が必要!
そこは左巻きの方々も理解してるので、あれやこれや甘言を弄して、まずそこから崩していこうって考えてるわけでw
団塊の世代までは通用してたんだけどね いい時代になったもんだ👍
薩英交渉で通訳した福沢諭吉の誤訳が交渉決裂の原因とも言われています。
白人至上主義を打ち破ったのは、黄色い猿と言われていた日本人なんですよね。大東亜戦争でも植民地解放したし、日本人の偉業を有色人種には、もっと知って欲しい。
白人至上主義なんて滑稽な勘違い理論が蔓延ってるこの2世紀は世界史全体で見たら異常なんよな。
中東のアラブ人に圧倒され、中華に敗れた匈奴にやぶれた北方騎馬民族やフン族に圧倒され、モンゴル帝国に圧倒されてきたヨーロッパ人がラッキータイムでイケイケな時代。
大東亜戦争に勝ちましたね。
@@skt-h4n 戦争目的の遂行という意味では「勝利」と位置づけるも可也。しかし、開戦の詔勅の意味するところが黄禍論等の蔑視排除を指していたのか、封じ込めに対するヤケっぱちだったのかの位置づけというか解析は必要。
@@user-banryok 確かに。
結果的にそうなったけど
やってることは白人たちと変わらなかった
強さあっての友好・交流・尊敬なんだよね、それが今も昔も国際社会の真理真理
最初から平和主義、友愛主義じゃ、相手に喰われてしまうだけだ
早くその基本に戻らないと
薩摩の気概に立ち戻らないと