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どんな手段でも観測できないのなら、原子論の原子は現実的には「ない」ですか?
あります。原子は物質なのに、感覚ではなく知性によって知られるものだというのが、デモクリトスの原子論のきわめておもしろくて不思議なところです。ちなみにアリストテレスはこの原子のことを数のようなものだと理解しています。
空虚はないから運動はないというパルメニデスより空虚はあると考えたデモクリトスの方が正しい感じがします。私はパルメニデスがどうしてもわかりません。走って移動しても実は移動してないんだよというのは論理的なのでしょうか?それとも映画のスクリーンが(ある)や存在なら私たちは映像ということでしょうか?
パルメニデスの場合は、走って移動してるのが思惑ということです。実は移動してないのが正しいとかでもなくて、全部思惑つまり虚偽です。女神の真理を尺度にすれば、われわれの世界はなにもかも虚偽です。圧倒的な否定なのです。何も言えないのです。しかもそれらは、「ないはない」という圧倒的に正しい話から導かれることです。。。
@@neomin ご返信ありがとうございます。パルメニデスにはプラトンのようなイデアの世界はなさそうですね。パルメニデス、難しいです。
ある パルメニデスの女神の真理ない 考えることもできないあり、かつ、ない 世界世界は私たちの視点や尺度では「ある」のですが、女神の尺度では「ありかつない」ものです。あると、ありかつないの混同を自覚することが、まず女神の真理のポイントです。
@@neomin ご返信ありがとうございます。「ない」は考えることもできない絶対ないから除外 「ある」だけ取り上げて考えると女神から見たら、「ある」の正体は「ありかつない」 という事ですか。
私たちが「ある」と思ってる世界の正体は「ありかつない」だった。そのことは女神の「ある(端的にあるとしか言えないような、ある)」を聞くことで初めてわかる。ということです。いったん私たちの生きる世界や運動のことは脇に置いて、思考において、純粋に「ある」と「ない」を考えてみる。すると、「ない」は考えることもできないものそして「ある」は決して「ない」を含まないもの、それゆえ「ある」としかいえないようなものと考えることができます。思考において、「ある」と「ない」という言葉の意味を純粋に考えた、そのうえで、私たちの生きる世界や運動のことに考えを向けると、世界や運動は「あり、かつ、ない」とでも呼ぶべきものとして理解することが可能になる。それが本当に正しいかどうかは別として、今までとは別の仕方で、世界や運動をとらえることができる、という意義もあるかと思います。そういうプロセス、思考における体験という感じですかね。
どんな手段でも観測できないのなら、原子論の原子は現実的には「ない」ですか?
あります。原子は物質なのに、感覚ではなく知性によって知られるものだというのが、デモクリトスの原子論のきわめておもしろくて不思議なところです。
ちなみにアリストテレスはこの原子のことを数のようなものだと理解しています。
空虚はないから運動はないというパルメニデスより空虚はあると考えたデモクリトスの方が正しい感じがします。私はパルメニデスがどうしてもわかりません。走って移動しても実は移動してないんだよというのは論理的なのでしょうか?それとも映画のスクリーンが(ある)や存在なら私たちは映像ということでしょうか?
パルメニデスの場合は、走って移動してるのが思惑ということです。実は移動してないのが正しいとかでもなくて、全部思惑つまり虚偽です。
女神の真理を尺度にすれば、われわれの世界はなにもかも虚偽です。圧倒的な否定なのです。何も言えないのです。
しかもそれらは、「ないはない」という圧倒的に正しい話から導かれることです。。。
@@neomin ご返信ありがとうございます。パルメニデスにはプラトンのようなイデアの世界はなさそうですね。パルメニデス、難しいです。
ある パルメニデスの女神の真理
ない 考えることもできない
あり、かつ、ない 世界
世界は私たちの視点や尺度では「ある」のですが、女神の尺度では「ありかつない」ものです。あると、ありかつないの混同を自覚することが、まず女神の真理のポイントです。
@@neomin ご返信ありがとうございます。「ない」は考えることもできない絶対ないから除外 「ある」だけ取り上げて考えると女神から見たら、「ある」の正体は「ありかつない」 という事ですか。
私たちが「ある」と思ってる世界の正体は「ありかつない」だった。そのことは女神の「ある(端的にあるとしか言えないような、ある)」を聞くことで初めてわかる。ということです。
いったん私たちの生きる世界や運動のことは脇に置いて、思考において、純粋に「ある」と「ない」を考えてみる。
すると、「ない」は考えることもできないもの
そして「ある」は決して「ない」を含まないもの、それゆえ「ある」としかいえないようなもの
と考えることができます。
思考において、「ある」と「ない」という言葉の意味を純粋に考えた、そのうえで、私たちの生きる世界や運動のことに考えを向けると、世界や運動は「あり、かつ、ない」とでも呼ぶべきものとして理解することが可能になる。
それが本当に正しいかどうかは別として、今までとは別の仕方で、世界や運動をとらえることができる、という意義もあるかと思います。
そういうプロセス、思考における体験という感じですかね。