【ゆっくり解説 】聖徳太子一族の滅亡!!!
HTML-код
- Опубликовано: 6 фев 2025
- 「やばい古代史」では、古代史に焦点を当てて歴史を紐解いていく番組です。
我々はどこから来たのか。その鍵を古代史から読み解きます。
※この動画は、過去に起こった出来事をわかりやすく伝えることを目的としています。視聴者に衝撃を与えるような目的はございせん。
※動画内に、死を連想させるような言葉を出てきますが、関係者を冒涜したり行動を助長するような意図は一切ございません。
※動画内の素材は全て引用であり、著作権や肖像権を侵害する目的は一切ございません。
著作権などに関するお問い合わせはこちらのアドレスまでお願い致します。
yabaikodaishi@gmail.com
ありがとうございます!
600年と607年に遣隋使で派遣された日本の使者は、隋の文帝に対し倭王の名は阿毎多利思比孤と言ったとあり、当時は日本書紀では推古天皇となっていますが実際はそうではなく蘇我馬子が大王であり用明天皇だった説が有力です。そして馬子が亡くなったのは626年ですが、その3年後の629年に馬子の子供の入鹿が摂政皇太子になったと思われます。629年は当時使われていた九州年号では聖徳ですから入鹿は聖徳太子と呼ばれたのではないでしょうか。聖徳太子の入鹿は645年大王に即位する式で反対派の中大兄皇子に暗殺されたのですが、斑鳩にいた太子一族も同時に殺害されたのではないでしょうか。
馬子が天皇で入鹿が皇太子であった場合、馬子が死去後、入鹿が即位するのが順当では無いでしょうか?てか、入鹿の父に蝦夷はなぜ皇太子じゃない?
また、蘇我王朝とした場合、入鹿が聖徳太子だとするならば、冠位十二階(603年)に関与するには早くないですか?蝦夷なら、まだ理解出来ます。
貴方の説だと蝦夷の事績がない。推古→舒明以降の繋がりは空想。乙巳の変で滅亡させられる意味が不明となります。
二重王朝なら潰される理由は有りますが…
@@貴之高瀬-k8m 蝦夷と入鹿は同一人物と書いてある当時の書物があり、蝦夷と入鹿は同一人物と思われます。また舒明天皇は影が薄く事績がほとんどなく架空天皇説があり、藤原氏により作られた架空天皇と思われます。当時は舒明天皇でなく蘇我入鹿が聖徳太子として摂政皇太子だったと思われます。藤原氏が書かせた日本書紀により日本の歴史はかなり藤原氏に都合の良いように改ざんされているようです。
神様の末裔である天皇家がなぜ仏教に帰依したのか不思議です。
頂いてたんやなぁ…。
簡単に書けば、聖徳太子の息子さんが、蘇我入鹿に襲撃されて自害したのでは!?。
一族滅亡については何も解説してなくないかな?
蘇我本家との政治方針で揉めて、
マジ切れした蘇我氏に滅ぼされた。