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分かりやすかったです😊有難うございます
このシルエット演出すごくいいですよね。いいポジション先生見つけたんですね。なんだか先生がタイムトラベラーになって当時の世界に潜り込んだみたい…。
吉野ケ里遺跡で発見された石棺墓の開封調査が始まりましたね。副葬品も楽しみですが、文字が見つからないかとワクワクしています。
万葉仮名の専門家曰く、邪馬壹は普通にヤマトと読むらしい。ポイント 文字はつくりの部分を発音する。邪馬壹の中に豆が入っている。これを音読みすると、「トウ」。だから、「ヤマト」。邪馬台の「台」は単に誤植。吉野ヶ里周辺に「伊香賀(いこうが)」という姓が集中する。この姓はここと、大阪にしかない。物部氏の本拠地付近。物部の祖に伊香色雄命との関係している可能性大。旧事本紀の饒速日の東征の出発地、つまり、吉野ヶ里は物部の本貫地であったみている。さらに、この一帯の「神埼(神幸)」は景行天皇が命名している。それ以前の地名を長年探しているが、一向に見つかりません。
すばらしい
吉野ケ里の「謎エリア」には比叡山から日吉社が勧請されていますが、伊香賀一族が日吉社とセットで移住して来たのでしょうかね。景行天皇の熊襲討伐もこれが由来だったりして。
吉野ヶ里は伊都国。邪馬台国は沖縄本島、女王の居城は北谷の海底に沈んだ神殿だと思います。
先生、有難うございました。昨年吉野ヶ里に行きましたが、この度ご解説を頂き、大変よくわかりました。
「女性はつつましやかで焼きもちを焼かない」絶対に畿内ではないですね。ww
外ヅラは良いのですよw
人々の苦しみがこの頃からはじまツた
現役の頃、会社の先輩には邪馬台国スイッチがあり、私が纒向遺跡などの畿内説を言うと、ムキになって九州説を力説しました。
「超日本史」が届いて今読んでるとこです、茂木さんは教育者なんですね、やはり教育の立場の方の歴史書とうことがわかります、中身は決して左翼のものでなく正しい歴史を教えておられることに安心しました、そして「われわれは何者か?」という文言は、百田さんの「日本国紀」(65万部)で有本さんが考えた「私たちは何者なのか」というタイトルと重なります、「超日本史」の方が早く発行されているので、有本さんがパクったとは思えませんが、これは茂木さんに軍配が上がります、読み終わったらまた感想を入れます。
左翼教授が作った検定教科書と入試問題の枠の中で、「合法的に」歴史を正常化しようと悪戦苦闘しております。
壱岐島が300里だから一里は約500mで約15km.女王国までは1200里は約600km。女王国は福岡県内にあるはず。
当時、シナの測量術は「周ヒ算経」などでもわかるように方位は大変正確である。「帯方の東南、12000里」は当時の「一尺千里の法」で言えば1里=76m。従ってヤマト国は四国徳島となる。「丹」が産出しているのも阿波、阿南市の遺跡だけである。白鳥、内藤の論争は何だったのか?
この吉野ケ里が魏志倭人伝に出てくる不弥国だったという説を信じているのですが違うんでしょうか
吉野ヶ里遺跡最大の謎エリアの発掘調査がはじまりました。未開の丘陵地です。ここから出ますよ!卑弥呼関係の何かが
一般に「やまたいこく」と呼んでいるけれど「やまとのくに」が本当なんじゃないのかなあとか、倭国も「わがくに」の当て字なんじゃないかなあ、と小さい頃から思ってて、でも理系なものできちんと調べたことなし。違うのかなあ。
先生、コメント失礼します。①邪馬台国、卑弥呼は中国人がつけた名前で日本での名称は別…。②魏志倭人伝(西暦230年ごろ?)の前、西暦100年代後半に、西日本を中心に倭国大乱があった…。③伊支馬、弥馬升、壹與に近い名前を記紀で探すと…。失礼しました。
たびたびすみません。理論的な茂木先生を心からリスペクトしていますが、本件に関しては投げ掛けをさせて下さい。④卑弥呼は部屋に閉じこもってひとりの男しか会えない、鬼道を司っていた宗教的な女性…。つまり政治は別の人がやっていたのではないか…?⑤第5代考昭天皇、第6代考安天皇、第7代孝霊天皇、第8代孝元天皇と、‟考”のつく天皇が4代つづいた。また、この天皇達の皇子には、なぜか「吉備」のつく名前を持つ者が多かった。⑥第7代孝霊天皇は鳥取県に、皇子のイサセリと稚武彦兄弟は吉備津彦として兵庫県や岡山県に、皇女の倭迹迹日百襲媛は香川県に、それぞれ西日本に伝承をもっている…。なぜ近畿や九州ではなく瀬戸内や山陰に…?そして吉備津彦兄弟は、岡山で百済渡来の温羅(ウラ)という鬼を倒している…。温羅は総社市に、鬼の城という朝鮮式山城を造っている…。⑦西日本を中心に、2世紀後半に高地性集落がたくさん建造された。中国の歴史書に記述された倭国大乱の時期…。稲作中心の弥生人が、わざわざ山の高い所に集落を造った理由は…?⑧崇神天皇には「ハツクニシラス」という名前があるが、他に「ミマキイリヒコ」という名前も持つ。また、崇神から大和王権は拡大期に入っていく。そして崇神には「トヨスキイリヒメ=豊鍬入媛」という皇女と、「イクメイリビコ=第11代 垂仁天皇」という皇子がいる…。ミマキ、イクメ、トヨ…。⑨そもそも「ひみこ=△巫女」とは、どういう宗教的な巫女さんだったか…?⑩現代でも皇室が崇めている最大の神様は誰だったか?「△△大御神」だったような…?そして我が国の国号は「日本」で、国旗に描かれている物体は太陽ではなかったか…?長々と失礼しました。今後も、茂木先生の動画を拝見させていただきたいと思います。
刺青の方の入浴は断れないよね❗️
筆者?の 体感 を実際の距離に当てはめると1里は40~60mでしょう。
末盧国から伊都国に向うのに、東南に行かず北東に行ったのは何故ですか?
RUclipsrが邪馬台国は、吉野ヶ里公園説見つけました😂
奄美大島徳之島の小泉館長説も!たけとりおきな博物館。京田辺にあります。対談を。吉野ヶ里は徐福軍と聞いたことが。
魏志倭人伝の考察をお願いします。魏志倭人伝は陳寿の偏向が色濃いので邪馬台国なんて無かったのではないかと思っているのですが茂木先生のご意見も聞きたいです。
「偏向」とは具体的に何のことですか?変更かどうか判断するには、何か基準が必要になります。
@@maomao96363 ご返信ありがとうございます。そもそもなぜ中国の魏志の中に日本のことが書かれているかということを考える必要があると思います。中国の歴史書は顕著ですが、「偏向」、つまり客観的事実だけでなく、「フィクション」が書かれていることが多いです。魏志倭人伝は西晋の司馬氏を称えるものですので、公孫氏を滅ぼした司馬仲達の手柄としてその結果朝貢してきた邪馬台国の卑弥呼を描いているように思えます。有名な水行十日陸行一月なら呉の真東に行きついてしまうのも司馬仲達のおかげで邪馬台国と同盟を結び、挟み撃ちのような形で呉を滅ぼすことができたという「ストーリー」を作り出しているという学説もあります。他にも「小人の国」みたいなのが書かれてたり、距離方角が極めて出鱈目だったり、当時の中華思想に基づいて風俗が描かれていたりと歴史書として極めて信憑性に欠けると自分は考えています。ですので何か基準というのは難しいですが、3世紀前半の日本の実態を基準にして考えると魏志倭人伝は西晋の皇帝の正統性をアピールするために書かれてた極めて実体とかけ離れた、又は実体のない歴史書なんじゃないかと思ってます。長文失礼しました。茂木先生の書籍(特に保守と地政学関連)に最近ハマっておりまして日本中国の歴史、思想に詳しい茂木先生のご意見をお聞きしたくご質問頂きました。
岡田英弘説ですね。中国史書を無批判に受け入れていた日本史学者に対する強烈なカウンターでした。私も好きです。
@@maomao96363 岡田英弘先生は東洋史の天才とも言える先生です。結局邪馬台国論争をどうお考えでしょうか?自分は日本の文献に卑弥呼が全く登場しないのは不自然過ぎるので半分冗談で非実在か少なくとも後の大和王権に繋がる機内ではないと思っているのですが…
弥生佐ン賀吉野狩りして監獄生活
九州説と大和説と今もう一つあります、邪馬台国は存在しなかったです、さてどちらでしょうか、一世紀にわたり1000冊の出版物が出て、多くの歴史のプロと町の歴史家が謎の解明に励んだか結論は今だかって出ず、さて茂木さんはどういう結論を出されるのでしょうか楽しみにしています。
誰かと思えば、茂木ちゃんかよ。
卑弥呼はエイリアンでUFOで移動していました、魏へは自分が作った銅鏡を持参し国王に渡しました。魏から頂いたのではありません。魏からたくさんの宝物をいただいたのは卑弥呼の位が上だということです。以上のような理由で邪馬台国の所在地論争は無意味です。林宏司先生の動画を見ればわかります。
頭おかしなるで
嫁の地元にヒミコの墓と言われていた。遺跡があります。ヒミコは日ノ御子ではなく、地方豪族の一人。
苦し紛れに 豆があるから トウ? なら 三國志 全文から証明すべき当時 本当に ヤマトと発音 したのなら「邪馬都」と明記したはず 伊都国の 都=ト と 正確に記されている。1700年前の日本語を 邪馬=ヤマ 伊都=イト(糸島市) など 正確に 表記している。
分かりやすかったです😊有難うございます
このシルエット演出すごくいいですよね。
いいポジション先生見つけたんですね。なんだか先生がタイムトラベラーになって当時の世界に潜り込んだみたい…。
吉野ケ里遺跡で発見された石棺墓の開封調査が始まりましたね。
副葬品も楽しみですが、文字が見つからないかとワクワクしています。
万葉仮名の専門家曰く、邪馬壹は普通にヤマトと読むらしい。
ポイント 文字はつくりの部分を発音する。
邪馬壹の中に豆が入っている。これを音読みすると、「トウ」。
だから、「ヤマト」。
邪馬台の「台」は単に誤植。
吉野ヶ里周辺に「伊香賀(いこうが)」という姓が集中する。
この姓はここと、大阪にしかない。
物部氏の本拠地付近。物部の祖に伊香色雄命との関係している可能性大。
旧事本紀の饒速日の東征の出発地、つまり、吉野ヶ里は物部の本貫地であったみている。
さらに、この一帯の「神埼(神幸)」は景行天皇が命名している。それ以前の地名を長年探しているが、一向に見つかりません。
すばらしい
吉野ケ里の「謎エリア」には比叡山から日吉社が勧請されていますが、伊香賀一族が日吉社とセットで移住して来たのでしょうかね。
景行天皇の熊襲討伐もこれが由来だったりして。
吉野ヶ里は伊都国。邪馬台国は沖縄本島、女王の居城は北谷の海底に沈んだ神殿だと思います。
先生、有難うございました。昨年吉野ヶ里に行きましたが、この度ご解説を頂き、大変よくわかりました。
「女性はつつましやかで焼きもちを焼かない」絶対に畿内ではないですね。ww
外ヅラは良いのですよw
人々の苦しみがこの頃からはじまツた
現役の頃、会社の先輩には邪馬台国スイッチがあり、私が纒向遺跡などの畿内説を
言うと、ムキになって九州説を力説しました。
「超日本史」が届いて今読んでるとこです、茂木さんは教育者なんですね、やはり教育の立場の方の歴史書とうことがわかります、中身は決して左翼のものでなく正しい歴史を教えておられることに安心しました、そして「われわれは何者か?」という文言は、百田さんの「日本国紀」(65万部)で有本さんが考えた「私たちは何者なのか」というタイトルと重なります、「超日本史」の方が早く発行されているので、有本さんがパクったとは思えませんが、これは茂木さんに軍配が上がります、読み終わったらまた感想を入れます。
左翼教授が作った検定教科書と入試問題の枠の中で、「合法的に」歴史を正常化しようと悪戦苦闘しております。
壱岐島が300里だから一里は約500mで約15km.女王国までは1200里は約600km。女王国は福岡県内にあるはず。
当時、シナの測量術は「周ヒ算経」などでもわかるように方位は大変正確である。「帯方の東南、12000里」は当時の「一尺千里の法」で言えば1里=76m。従ってヤマト国は四国徳島となる。「丹」が産出しているのも阿波、阿南市の遺跡だけである。白鳥、内藤の論争は何だったのか?
この吉野ケ里が魏志倭人伝に出てくる不弥国だったという説を信じているのですが違うんでしょうか
吉野ヶ里遺跡最大の謎エリアの発掘調査がはじまりました。未開の丘陵地です。ここから出ますよ!卑弥呼関係の何かが
一般に「やまたいこく」と呼んでいるけれど「やまとのくに」が本当なんじゃないのかなあとか、倭国も「わがくに」の当て字なんじゃないかなあ、と小さい頃から思ってて、でも理系なものできちんと調べたことなし。違うのかなあ。
先生、コメント失礼します。
①邪馬台国、卑弥呼は中国人がつけた名前で日本での名称は別…。
②魏志倭人伝(西暦230年ごろ?)の前、西暦100年代後半に、西日本を中心に倭国大乱があった…。
③伊支馬、弥馬升、壹與に近い名前を記紀で探すと…。
失礼しました。
たびたびすみません。
理論的な茂木先生を心からリスペクトしていますが、本件に関しては投げ掛けをさせて下さい。
④卑弥呼は部屋に閉じこもってひとりの男しか会えない、鬼道を司っていた宗教的な女性…。つまり政治は別の人がやっていたのではないか…?
⑤第5代考昭天皇、第6代考安天皇、第7代孝霊天皇、第8代孝元天皇と、‟考”のつく天皇が4代つづいた。また、この天皇達の皇子には、なぜか「吉備」のつく名前を持つ者が多かった。
⑥第7代孝霊天皇は鳥取県に、皇子のイサセリと稚武彦兄弟は吉備津彦として兵庫県や岡山県に、皇女の倭迹迹日百襲媛は香川県に、それぞれ西日本に伝承をもっている…。なぜ近畿や九州ではなく瀬戸内や山陰に…?そして吉備津彦兄弟は、岡山で百済渡来の温羅(ウラ)という鬼を倒している…。温羅は総社市に、鬼の城という朝鮮式山城を造っている…。
⑦西日本を中心に、2世紀後半に高地性集落がたくさん建造された。中国の歴史書に記述された倭国大乱の時期…。稲作中心の弥生人が、わざわざ山の高い所に集落を造った理由は…?
⑧崇神天皇には「ハツクニシラス」という名前があるが、他に「ミマキイリヒコ」という名前も持つ。また、崇神から大和王権は拡大期に入っていく。そして崇神には「トヨスキイリヒメ=豊鍬入媛」という皇女と、「イクメイリビコ=第11代 垂仁天皇」という皇子がいる…。
ミマキ、イクメ、トヨ…。
⑨そもそも「ひみこ=△巫女」とは、どういう宗教的な巫女さんだったか…?
⑩現代でも皇室が崇めている最大の神様は誰だったか?「△△大御神」だったような…?そして我が国の国号は「日本」で、国旗に描かれている物体は太陽ではなかったか…?
長々と失礼しました。
今後も、茂木先生の動画を拝見させていただきたいと思います。
刺青の方の入浴は断れないよね❗️
筆者?の 体感 を実際の距離に当てはめると1里は40~60mでしょう。
末盧国から伊都国に向うのに、東南に行かず北東に行ったのは何故ですか?
RUclipsrが邪馬台国は、吉野ヶ里公園説見つけました😂
奄美大島徳之島の小泉館長説も!たけとりおきな博物館。京田辺にあります。対談を。吉野ヶ里は徐福軍と聞いたことが。
魏志倭人伝の考察をお願いします。魏志倭人伝は陳寿の偏向が色濃いので邪馬台国なんて無かったのではないかと思っているのですが茂木先生のご意見も聞きたいです。
「偏向」とは具体的に何のことですか?変更かどうか判断するには、何か基準が必要になります。
@@maomao96363 ご返信ありがとうございます。そもそもなぜ中国の魏志の中に日本のことが書かれているかということを考える必要があると思います。中国の歴史書は顕著ですが、「偏向」、つまり客観的事実だけでなく、「フィクション」が書かれていることが多いです。魏志倭人伝は西晋の司馬氏を称えるものですので、公孫氏を滅ぼした司馬仲達の手柄としてその結果朝貢してきた邪馬台国の卑弥呼を描いているように思えます。有名な水行十日陸行一月なら呉の真東に行きついてしまうのも司馬仲達のおかげで邪馬台国と同盟を結び、挟み撃ちのような形で呉を滅ぼすことができたという「ストーリー」を作り出しているという学説もあります。他にも「小人の国」みたいなのが書かれてたり、距離方角が極めて出鱈目だったり、当時の中華思想に基づいて風俗が描かれていたりと歴史書として極めて信憑性に欠けると自分は考えています。ですので何か基準というのは難しいですが、3世紀前半の日本の実態を基準にして考えると魏志倭人伝は西晋の皇帝の正統性をアピールするために書かれてた極めて実体とかけ離れた、又は実体のない歴史書なんじゃないかと思ってます。
長文失礼しました。茂木先生の書籍(特に保守と地政学関連)に最近ハマっておりまして日本中国の歴史、思想に詳しい茂木先生のご意見をお聞きしたくご質問頂きました。
岡田英弘説ですね。中国史書を無批判に受け入れていた日本史学者に対する強烈なカウンターでした。私も好きです。
@@maomao96363 岡田英弘先生は東洋史の天才とも言える先生です。結局邪馬台国論争をどうお考えでしょうか?自分は日本の文献に卑弥呼が全く登場しないのは不自然過ぎるので半分冗談で非実在か少なくとも後の大和王権に繋がる機内ではないと思っているのですが…
弥生佐ン賀
吉野狩りして
監獄生活
九州説と大和説と今もう一つあります、邪馬台国は存在しなかったです、さてどちらでしょうか、一世紀にわたり1000冊の出版物が出て、多くの歴史のプロと町の歴史家が謎の解明に励んだか結論は今だかって出ず、さて茂木さんはどういう結論を出されるのでしょうか楽しみにしています。
誰かと思えば、茂木ちゃんかよ。
卑弥呼はエイリアンでUFOで移動していました、魏へは自分が作った銅鏡を持参し国王に渡しました。魏から頂いたのではありません。魏からたくさんの宝物をいただいたのは卑弥呼の位が上だということです。以上のような理由で邪馬台国の所在地論争は無意味です。林宏司先生の動画を見ればわかります。
頭おかしなるで
嫁の地元にヒミコの墓と言われていた。遺跡があります。
ヒミコは日ノ御子ではなく、地方豪族の一人。
苦し紛れに 豆があるから トウ?
なら 三國志 全文から証明すべき
当時 本当に ヤマトと発音 したのなら
「邪馬都」と明記したはず
伊都国の 都=ト と
正確に記されている。
1700年前の日本語を
邪馬=ヤマ 伊都=イト(糸島市)
など 正確に 表記している。