@John Doe 通史を把握してる人にとっては正解なんてことは分かってんのよ。だけど地侍とか戦国大名や民衆の常識では源氏=征夷大将軍のイメージがあってもおかしくないって話。通史が普及してないのだから、正しい認識は世に広まってない。私が言ってるのは貴方のように史料が整った現代から当時の人々の判断を規定して、源氏=征夷大将軍は間違ってると史料的にしか考えない人への皮肉だよ。当時の人々の常識は正しい通史に基づいてるわけじゃないんだから、頭ごなしに史料を振りかざして「おまえは間違ってる」と言う前に、生きた当時を考えなよってことだ。
誰の著書か忘れたけど、現在の価値観イメージでは、征夷大将軍になり幕府を開くことだが、当時はそんな事はなく、征夷大将軍は元々臨時職という事もあり、決して征夷大将軍=幕府=最善という認識は持っていなかったという本を見たけど、なんだったかなぁ
これは勉強になった。やはり征夷大将軍として武家政権を最初に築いた
源頼朝の功績は大きい。人は皆義経に同情するがもっと頼朝を認めるべきだ。
直弼死後の彦根藩の賢明な判断は凄いと思う。
更に直愛市長時代に水戸市と親善都市を締結するのはその象徴的なものだろう。
150年経っても長州への遺恨を忘れずにニュースになる会津とは大違いだ
前者は単なる「暗殺」だが、後者は戦争という異常事態とはいえ女子供まで皆殺し、その遺体は葬ることを禁じられしばらく打ち捨てられた。とても人間のすることとは思えぬこの所業を率先したのは誰あろう長州が中心。恨みが続いて当然ではある。でもこの論理からいうと大陸のやつらがいまだに日本を敵国扱いしているのと変わらない。忘れろという立場ではないがそれに縛られて前に進めないのはどうかとも思う。
我が家も源氏の血を引いて糸4言われている。八幡太郎義家が奥州征伐に来た際にこの地を納めた東大将の子孫と言われている。だから苗字も平仮名で言えば「あずま」で、家紋も武田源氏の裏家紋の剣花菱なんだよ。そして、今の地に土着して百姓になったが、武家の出と言うので百姓の正月の農業の神事の「鍬入れ」をやらないと子どもの頃に祖母が言っていたことを思い出します。
家康の家系改ざんより、前例や格式を重んじる朝廷が秀吉を征夷大将軍ではなく関白に就任させたのは異例中の異例だよね
つまり往時の権力者には理由は後付けで何でもよかったってことですな
征夷大将軍なのに攘夷を行わないばかりか仲良くなるのはおかしいよね
2:21 このハードルを手前から順に一戸、ニ戸…という
役職や権威の名称は権力の創設者の数代後に効果を発揮するもので、
創設者の存命中はその個人が有する地盤に強力な力があるから関係はないんだよな
権力が三代目以降に衰退するのは、創設者と協力者が亡くなって、組織間の関係性が希薄になって
地盤がほころび始めるから
あというと足利将軍も2度将軍に就任した人物がいるから16代まで続いたとするのが正確だと思いますが通説では15代になっているようですね。
家康は征夷大将軍になるために源氏ってのは語弊があるかな。先に征夷大将軍を送ることが決まってから体裁を整えたのだと思います。戦国末期は、武家の血もない秀吉にも征夷大将軍などを打診して、(途中関白・左大臣の論争に付け込んだにせよ)前例のない関白職を養子の形で与えるなど、皇室周辺も前例は建前になってましたからね。摂家将軍の源氏も、父系にこだわる天皇家の社会で、母系でしかないから、欧州王室知識のある、現代の感覚でしょうね・・・。授与の儀式では、源氏に付与した方が体裁がいい程度じゃないかと・・・。
良かったです。重箱の隅をつついて。くじ引きについては否定的になっていますが、神意があると考えると当時は権威のあるものですね。
連合艦隊司令長官は海軍軍人じゃないとダメなのと同じってことね ォィ
織田信長は平氏でしたが太政大臣、関白、征夷大将軍のいづれかの官位を選べることを提示されたと云うことを聞きましたが、信長からの返答がないままに本能寺の変でなくなりました…信長は平氏ですが朝廷から征夷大将軍の話はありました。ちなみに秀吉は関白の話が来た時に藤原氏の養子になっています。藤原秀吉です。
@ゆめかけ 秀吉が足利義昭に養子を断られたというはデマらしいですよ。その文献が初めて出てくるのが江戸時代の林羅山の書いたもので、実際は義昭が存命にもかかわらず朝廷から征夷大将軍を打診されているので、義昭の養子に入る必要も当時それを断るほどの権力も義昭になかったらしいです。
参考文献
秀吉研究の最前線
豊臣政権と朝廷権力
征夷大将軍と聞くと、羽賀研二の「誠意大将軍」を思い出す。
當眞美喜男かぁ…
そのうち教科書にのるぞ
@@さるやまちゃる 様
梅宮辰夫「解せぬ」
吹き出した
本質を梅宮辰夫が見抜いて「稀代の悪」と命名し直された。
その後の事みれば、お見事です!!
源氏の嫡流(氏長者)は長らく村上源氏の久我家のもの(室町時代に半分は足利家、江戸時代は徳川家がやってますけど)で、清和源氏のと付けないと誤解を招くかなと。
確かに嵯峨源氏、醍醐源氏等々ありますものね。
個人的には「上将軍」も悪くない気がしますね。
もしそうなっていたら創作の世界ですが、水戸黄門は「天下の次将軍」になってたかもw
疑問に思✌️たことかいせつどうも
1割は勘違いしてないんだな😂
私「佐藤」なので関白目指して頑張ろうと決意しました🎉😊でも現実は恐妻家で女房関白の配下に甘んじております😂
ん~~~、もともと源氏なんて関係ない話だったんですよね
『関白は藤原氏でなければならない』
という理由と同じで、朝廷を牛耳る貴族が先例主義で脳みそが硬直してしまったので……征夷大将軍も義仲が就任して戦死して、頼朝がなったので……源氏が続いたので源氏じゃなきゃ、ってなったんじゃね~かなんて思ってた💦
だって頼朝以前は……令外の官だから常に置いていたわけじゃないし😰
とくに摂政と関白は皇族以外は藤原氏しかいないですからね。秀吉は近衞秀吉として任官した上で、賜姓されて6摂家体制にしているので。
@ゆめかけ さん
(*´∀`)ありがとうございます
動画再度見た時に気づいてはいたんですが……めんどくさくてほっぽおってしまいました💦
旭将軍……って呼び名を本で読んで、確かめもしないですっかり思い込んでいたのです
(*≧Δ≦)
よかった~。征夷大将軍勘違いしてなかった~。成り立ちも合ってた~
社会科教員ですが。。。
良い解説でした。「征夷大将軍は源氏でなければならない」と現代で言うと、摂家将軍などを引き合いに出して「間違いだ」と突っ込まれるものですが、それは資料・史料が充実した現代だから言える事なんですよね。満足な通史が普及していない当時の人々の意識では、"征夷大将軍=源氏"が定着してる事を見落としてる人に見てもらいたい動画です。
@John Doe 通史を把握してる人にとっては正解なんてことは分かってんのよ。だけど地侍とか戦国大名や民衆の常識では源氏=征夷大将軍のイメージがあってもおかしくないって話。通史が普及してないのだから、正しい認識は世に広まってない。私が言ってるのは貴方のように史料が整った現代から当時の人々の判断を規定して、源氏=征夷大将軍は間違ってると史料的にしか考えない人への皮肉だよ。当時の人々の常識は正しい通史に基づいてるわけじゃないんだから、頭ごなしに史料を振りかざして「おまえは間違ってる」と言う前に、生きた当時を考えなよってことだ。
当時にあって歴史の常識に詳しい人がいたって、世の中の大多数にその常識が浸透してなければ、それに逆らいにくいというのはあるでしょう?「鎖国は日本の祖法だ」との件を考えれば想像つきそうだけど。
ともかく、史料・資料が整った現代の神様的な視点だけじゃなくて、当時の生きた価値観を想像してくれって話。
@ゆめかけ
松平家そもそも清和源氏じゃないんだが
私見だけど信長は征夷大将軍にはならず息子信忠を征夷大将軍に就けるつもりだったのだろう。将軍の跡取りがなる近衛中将になっているし斯波氏の家督を継承してるから。
どうかな
信長は無神論に近いから
神の系譜とされた天皇制を
なくそうとしてたかもね
だから
朝廷の身分は家来だから
必要なかった
当時は信長の家臣も含めて
誰しもが本来朝廷の配下だから
明智光秀は朝廷を守るため
謀叛を起こし
それを察知していた秀吉は
光秀を討ったあと
朝廷に圧をかけ
関白職を要求し
主家織田と地位で逆転させた
とか考えてる
そもそも、信長は常設の右近衛大将であるし、右大臣も兼任していたので、征夷大将軍より権力がある立場。
征夷大将軍の役職は望んでいなかったんだろう。
自分が開いた世を維持させるのが信忠の役目で、信忠に征夷大将軍もしくは、今までの征夷大将軍=幕府政治体制では世が収まらないと考えて、別の位を与えようとしていた可能性までありますよね。
信長は幕府の存続を計るつもりはなかった。管領に就くことも頑なに拒み、官位を貰うことも無視した。将軍義昭を擁して畿内を制圧した時信長の官位はなんと弾正忠
。これは義昭から見れば陪臣の地位だ。信長は室町幕府の秩序がもはや何の意味をなさないことを痛烈な皮肉をもって世に知らしめた。実力を持つ者が世を治めるべきと。
相変わらずの、余談多数、のみであーる。
征夷大将軍になったから幕府を開けるわけではないんだよね
大事なのは「源氏長者」になる事
だから仮に信長が征夷大将軍に任官されてたとしても
平氏の出である信長は源氏長者にはなれず幕府は開けなかったんだよね
架空の話になりますが、祖を頼朝の庶子とする島津や源氏の名門の佐竹や武田あたりが天下統一をしていた場合あっさりと幕府を開けたでしょうね。
関係ないですよ。頼朝は、源氏長者ですらなかった。
源氏の長者とは原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が任命される役職で、
清和源氏・嵯峨源氏・仁明源氏・村上源氏などなど全ての源氏の当主として祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権限が与えられていました。
最初の長者は嵯峨源氏の左大臣源信とされています。
やがて村上源氏が長者の権限を独占するようになりますが南北朝時代に村上源氏は衰退し、武家である清和源氏の足利義満が源氏の長者に任命されました。
義満以降、源氏の長者は清和源氏の足利氏と村上源氏の久我氏が交替で務めました。
ですが徳川家康以降、源氏の長者は徳川家が独占し公家と武家の掌握に利用したとされています。
明治維新になって武家源氏最後の当主徳川慶喜は源氏の長者の役職も朝廷に返上し、再び村上源氏の久我建通が源氏の長者に任命されました。
なお明治2年の華族の成立により久我家に侯爵の爵位が授けられたことで、源氏の長者の地位は廃止されました。
いい解説ですね。できたら『令外の官』という歴史用語を使用してもらえたら尚良かったです。
坂上田村麻呂の遠征で、馬が疲弊し苦戦中に野生の馬を手に入れ勝つことが出来た。この伝説により、福島県の三春駒の由来になります。又東北地方の馬が西側よりたくましく良かった可能性があります。坂上田村麻呂は平安京の北東に鎧つけて葬られ鬼門の守り神とされました。いつか発見され学術調査して貰いたいです。
うんと、大前提として「なぜ源氏」ではなくてはいけなかったか?つまり「清和源氏」の説明が必要だと思うけど?それがないと武士である源氏がなぜ朝廷から官職を貰えたかの説明が出来ないと思うけど?
動画を見る限り将軍になるのに源氏である必要はないみたいだけど 頼朝も尊氏も征夷大将軍になるときに源氏の血筋は問われていない 源氏というよりも源氏クラスの血筋のひとでないと官位すらもらえないということなのだと思う そしておそらくこの時代には「源平藤橘」の子孫は掃いて捨てるほどいたと思う
まあ要するに、足利尊氏(おそらくは弟の直義の構想かと思われる)が武家の棟梁としての地位を確立するためにでっち上げたものだという事です。
この当時に武家の棟梁としては征夷大将軍が最も相応しかったわけですが、鎌倉6代将軍宗尊親王以降は全て宮将軍であり後醍醐天皇に任命された征夷大将軍も護良親王や成良親王でした。
つまりは「征夷大将軍は親王でなければならない」というのがこの時代の前例だったのです。
当時の武家としての最高位は執権しかなく、それでは南朝の方で征夷大将軍を任命されてしまえば格下になってしまう。
だから足利尊氏らは、なんとかして自分が征夷大将軍になれる権威をでっち上げる必要があった。
そこで尊氏らは鎌倉4代目将軍藤原頼経以前の3代が源頼朝、頼家、実朝の清和源氏の一流河内源氏であったことに目を付け、
「征夷大将軍は親王、又は源氏でなければならない」という前例にすり替えたのです。
実際には源氏と親王の間には藤原氏もあるし、頼朝以前は世襲ですらありませんでした。
やろうと思えば前例など無くとも将軍にはなれたでしょうが、ただでさえ南北朝が分裂した状態で更に強引なことは出来なかったのです。
ーコメです
征夷大将軍なのに攘夷を行わないばかりか仲良くなるのはおかしいよね