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御菓子を「次に与えた」のではなくて、竹千代に二つ目を渡し、国松に与えさせた。 家康から直接もらえるのは嫡流の家光のみ。国松は家光の家来になるのだから家光から貰うべきと。
他の人も言っていたけど中国風のイラスト止めな
斎藤利三(としみつ)をトシゾーって呼んでて脱力した
元服後は家光は将軍として無難に政務をこなし、忠長は身分をわきまえず乱行に走ったので、結果的に家康の長子優先の差配は的中しましたね。忠長が分をわきまえて兄の家光を立てていたら、駿河徳川家として将軍を輩出できる家格に収まっていたでしょう。
春日局のお墓は春日の麟祥院にあるけど「あの世から徳川家の行く末が見られる様に墓石に穴を開けて欲しい」って遺言残したんだよねんで本当に穴が空いてる
箱根八里は馬でも超すが、越すに越されぬ大井川
この忠長すごいよお!さすが長七郎ぎみのお父さん!
忠長が改易にならなかったら、8代将軍は忠長の子孫がなっていたのかな?そして御三家も水戸では無くて駿河がなっていたのかな?
我々がよく知る御三家 成立前に付いては諸説あるみたいですね 将軍家と尾張 紀伊で御三家で 後に将軍家を別格 扱いにして 水戸を御三家に新たに入れた説尾張 紀伊 駿河で御三家で 駿河 が 取り潰されたので水戸が繰り上がった説駿河は将軍家の別家扱いで そもそも カウントされてなかった説
@MUSASI40 水戸は元々忠長存命中は松平で忠長が亡くなった後に徳川になったし、官位も下で、石高も尾張紀州駿河半分以下だった。だから光國の時に強引に25万石から35万石にした。
秀忠の御落胤 保科正之は幕末最後まで旧幕府に忠義を尽くした会津藩の初代藩主。
俺もAI画像嫌いだゎ
幼児死亡率の高かった時代、病弱な家光はいつ亡くなるか分からないので、健康で利発な忠長に両親が期待するのは当たり前。だから母親が溺愛して育てるのではなく、彼にも春日局のような厳しくも優しい乳母をつければよかったんだよな…😞💨
3代目って足利義満といい徳川家光といい優秀だとされてきた歴史があるけど忠長の件はともかく家光はとても優秀とは言えない。むしろかなりの無能ぶりが最近の歴史観ですね。逆に目立たない二代目と思われがちだった秀忠や足利義詮がむしろ優秀であったみたい。ただ初代の足利尊氏と徳川家康が化け物じみた人物すぎて周りの家臣が少し物足りないと感じただけだったのかもね
21:26 正之の解説は最近やっていた。
家光の幼名が竹千代というのが既に分かりやすいし、「家」という字がつかない将軍は元服時に将軍になる予定がなかった人だからそういうのも分かりやすい。秀忠、綱吉、吉宗、慶喜。
いいえ、それは正確ではありません。家宣と家茂も元服時に将軍になる予定はありませんでした。元服時の諱は家宣が綱豊、家茂が慶福でした。2代将軍の秀忠を除いて先代将軍の生前に将軍継嗣になっていたら通字の「家」が付きます。そうでない場合はそのままです。
@塞翁が馬-p9e そうだったんですか。ありがとうございます。
徳川に限らず当時武士は長子相続が基本で次男以降は『跡継ぎ予備軍』だから扱いに差があるのはしゃーない。其処から抜け出すには他所に婿養子に入るか、剣で身を立てるか、他の大名家に仕官するか、いっそのこと武士の身分を捨てて商人になるかしか無い。
幕末に活躍した徳川斉昭は三男で井伊直弼は14男で30代まで養子先も無くて冷や飯食いだった。まあ兄に子どもがいなかったからスペアとして残っていたけど。
私と弟は格差が有りましたよ!祖父は私には、ブランコとか滑り台とか超合金とかも全て私に買い与えられ、弟はお下がりです。両親は格差を埋めようと弟にも買い与えました。祖父母が出す小遣いも私が一万円の時は弟は三千円でした。一般でも此だけの差は有ります。
このチャンネル、中の人変わった?
まあ家光が徳川の跡取りとして申し分ない存在だったら、忠長もあきらめがついたんだろうけど…今でいえば社会不適合者そのものだからな。忠長は後に生まれた己の不幸を悔やんでも悔やみきれなかっただろうな…
忠長も家康の長男信康も素行が悪かったとか色々言われてますが、これは話半分に捉えた方がいいかもしれませんね。ですが私が忠長の立場なら、もういいと言わんばかりに家康から家光が将軍だと決められた時点で出家してどこかの寺に入れるように求めますね。
足利将軍は次男以下は原則出家だったけど、徳川将軍は早世以外は必ず大名になった。当時は皇室でも皇太子以外は出家だったのに。
お家騒動を防ぐ為に長幼の序は非常に優秀です官僚制度が確立した徳川将軍家では優秀かどうかではなく先に産まれたという明確さが必要です幕末に優秀と言われた(誤解でしたが)慶喜を将軍に据えた結果は滅亡でしたね家光の弟忠長も大人しく兄に仕えれば良かったのでしょうが側近の入れ知恵もあったのでしょうが家光の家臣になる事を潔しとしない態度で改易されちゃいますね同じく将軍家の兄弟だった秀康の家系は将軍家の家臣として幕末まで続いています(一度改易の上、秀康の功績に免じて再興という形ですが)
長七郎夢日記
松平長七郎頼長だったかな😊
竹千代は家康の幼名だから、その名を付けられた時点で跡継ぎとして認められていた訳でしょ?
まあ、忠長の話は少しもってあると思う。ただ、長子が継続するというルールを作るのは安定長期政権には不可欠。あれだけ強大だったモンゴル帝国があんなに早く滅んだのも長子相続じゃなかったからて、理由が大きいと思う。
フランク王国もそうだな・・・
お江の長男て言うか親が子供がとか産んだんやからわかるやろ 春日局の子供って言うけど 余りにもアホうさい説やな
しかも父親が家康なんてあり得ない説まである。
有り得ない説ですね。まぁ、家光が春日の局を母のように慕っていたことは間違いない。
忠長の蛮行は歴史的敗者で史実以上におとしめられた可能背もあるから話半分にとらえた方が良いかもしれない。それでも将軍になれなくなったと知ったときからぐれた感は拭えない。時代劇の「長七郎江戸日記」は忠長の忘れ形見松平長七郎という架空の人物が主人公(里見浩太朗)だが、忠長への同情の産物かもしれない。
徳川じゃ無くても嫡子以外は格差しか無いでしょ…
そういえば毛利元就も、三男以下は虫ケラとか言っていたような気がしますね・・・
@@峻-k5k皮肉にも後の長州藩主は元就の4男の子孫。
今の大阪城は秀吉が築いた城を破却し埋めてその上に江戸幕府が築いた物。
いやいや、名市長・関一が築いたもの。 全額市民・府民の寄付金で建てた。
国千代じゃなくて国松って呼ばれて無かったかな?
徳川幕府は跡継ぎについても争いにならない様上手くやっていましたね。幕末期を除いては・・・・・・青天を衝けでも慶喜と慶福(家茂)の跡継ぎ争いも描かれていたのも見て改めて思ったけど、慶福が勝っても結局それから10年も経たない内に大政奉還になってしまったのも無理もあるまいでした。
秀忠は江のケツに引かれて頭が上がらなかったらしい!
家光は春日局が生母といわれて忠長は父親が浅井家ゆかりの人といわれています
ーコメです
御菓子を「次に与えた」のではなくて、竹千代に二つ目を渡し、国松に与えさせた。
家康から直接もらえるのは嫡流の家光のみ。国松は家光の家来になるのだから家光から貰うべきと。
他の人も言っていたけど中国風のイラスト止めな
斎藤利三(としみつ)をトシゾーって呼んでて脱力した
元服後は家光は将軍として無難に政務をこなし、忠長は身分をわきまえず乱行に走ったので、結果的に家康の長子優先の差配は的中しましたね。
忠長が分をわきまえて兄の家光を立てていたら、駿河徳川家として将軍を輩出できる家格に収まっていたでしょう。
春日局のお墓は春日の麟祥院にあるけど
「あの世から徳川家の行く末が見られる様に墓石に穴を開けて欲しい」って遺言残したんだよね
んで本当に穴が空いてる
箱根八里は馬でも超すが、越すに越されぬ大井川
この忠長すごいよお!さすが長七郎ぎみのお父さん!
忠長が改易にならなかったら、8代将軍は忠長の子孫がなっていたのかな?そして御三家も水戸では無くて駿河がなっていたのかな?
我々がよく知る御三家 成立前に付いては諸説あるみたいですね 将軍家と尾張 紀伊で御三家で 後に将軍家を別格 扱いにして 水戸を御三家に新たに入れた説
尾張 紀伊 駿河で御三家で 駿河 が 取り潰されたので水戸が繰り上がった説
駿河は将軍家の別家扱いで そもそも カウントされてなかった説
@MUSASI40 水戸は元々忠長存命中は松平で忠長が亡くなった後に徳川になったし、官位も下で、石高も尾張紀州駿河半分以下だった。だから光國の時に強引に25万石から35万石にした。
秀忠の御落胤 保科正之は幕末最後まで旧幕府に忠義を尽くした会津藩の初代藩主。
俺もAI画像嫌いだゎ
幼児死亡率の高かった時代、病弱な家光はいつ亡くなるか分からないので、健康で利発な忠長に両親が期待するのは当たり前。だから母親が溺愛して育てるのではなく、彼にも春日局のような厳しくも優しい乳母をつければよかったんだよな…😞💨
3代目って足利義満といい徳川家光といい優秀だとされてきた歴史があるけど忠長の件はともかく家光はとても優秀とは言えない。むしろかなりの無能ぶりが最近の歴史観ですね。逆に目立たない二代目と思われがちだった秀忠や足利義詮がむしろ優秀であったみたい。ただ初代の足利尊氏と徳川家康が化け物じみた人物すぎて周りの家臣が少し物足りないと感じただけだったのかもね
21:26 正之の解説は最近やっていた。
家光の幼名が竹千代というのが既に分かりやすいし、「家」という字がつかない将軍は元服時に将軍になる予定がなかった人だからそういうのも分かりやすい。秀忠、綱吉、吉宗、慶喜。
いいえ、それは正確ではありません。家宣と家茂も元服時に将軍になる予定はありませんでした。元服時の諱は家宣が綱豊、家茂が慶福でした。2代将軍の秀忠を除いて先代将軍の生前に将軍継嗣になっていたら通字の「家」が付きます。そうでない場合はそのままです。
@塞翁が馬-p9e
そうだったんですか。ありがとうございます。
徳川に限らず当時武士は長子相続が基本で次男以降は『跡継ぎ予備軍』だから扱いに差があるのはしゃーない。其処から抜け出すには他所に婿養子に入るか、剣で身を立てるか、他の大名家に仕官するか、いっそのこと武士の身分を捨てて商人になるかしか無い。
幕末に活躍した徳川斉昭は三男で井伊直弼は14男で30代まで養子先も無くて冷や飯食いだった。まあ兄に子どもがいなかったからスペアとして残っていたけど。
私と弟は格差が有りましたよ!
祖父は私には、ブランコとか滑り台とか超合金とかも全て私に買い与えられ、弟はお下がりです。
両親は格差を埋めようと弟にも買い与えました。
祖父母が出す小遣いも私が一万円の時は弟は三千円でした。
一般でも此だけの差は有ります。
このチャンネル、中の人変わった?
まあ家光が徳川の跡取りとして申し分ない存在だったら、忠長もあきらめがついたんだろうけど…
今でいえば社会不適合者そのものだからな。忠長は後に生まれた己の不幸を悔やんでも悔やみきれなかっただろうな…
忠長も家康の長男信康も素行が悪かったとか色々言われてますが、これは話半分に捉えた方がいいかもしれませんね。
ですが私が忠長の立場なら、もういいと言わんばかりに家康から家光が将軍だと決められた時点で出家してどこかの寺に入れるように求めますね。
足利将軍は次男以下は原則出家だったけど、徳川将軍は早世以外は必ず大名になった。当時は皇室でも皇太子以外は出家だったのに。
お家騒動を防ぐ為に長幼の序は非常に優秀です
官僚制度が確立した徳川将軍家では優秀かどうかではなく先に産まれたという明確さが必要です
幕末に優秀と言われた(誤解でしたが)慶喜を将軍に据えた結果は滅亡でしたね
家光の弟忠長も大人しく兄に仕えれば良かったのでしょうが側近の入れ知恵もあったのでしょうが家光の家臣になる事を潔しとしない態度で改易されちゃいますね
同じく将軍家の兄弟だった秀康の家系は将軍家の家臣として幕末まで続いています(一度改易の上、秀康の功績に免じて再興という形ですが)
長七郎夢日記
松平長七郎頼長だったかな😊
竹千代は家康の幼名だから、その名を付けられた時点で跡継ぎとして認められていた訳でしょ?
まあ、忠長の話は少しもってあると思う。
ただ、長子が継続するというルールを作るのは安定長期政権には不可欠。
あれだけ強大だったモンゴル帝国があんなに早く滅んだのも長子相続じゃなかったから
て、理由が大きいと思う。
フランク王国もそうだな・・・
お江の長男て言うか親が子供がとか産んだんやからわかるやろ 春日局の子供って言うけど 余りにもアホうさい説やな
しかも父親が家康なんてあり得ない説まである。
有り得ない説ですね。
まぁ、家光が春日の局を母のように慕っていたことは間違いない。
忠長の蛮行は歴史的敗者で史実以上におとしめられた可能背もあるから話半分にとらえた方が良いかもしれない。それでも将軍になれなくなったと知ったときからぐれた感は拭えない。時代劇の「長七郎江戸日記」は忠長の忘れ形見松平長七郎という架空の人物が主人公(里見浩太朗)だが、忠長への同情の産物かもしれない。
徳川じゃ無くても嫡子以外は格差しか無いでしょ…
そういえば毛利元就も、三男以下は虫ケラとか言っていたような気がしますね・・・
@@峻-k5k皮肉にも後の長州藩主は元就の4男の子孫。
今の大阪城は秀吉が築いた城を破却し埋めてその上に江戸幕府が築いた物。
いやいや、名市長・関一が築いたもの。 全額市民・府民の寄付金で建てた。
国千代じゃなくて国松って呼ばれて無かったかな?
徳川幕府は跡継ぎについても争いにならない様上手くやっていましたね。幕末期を除いては・・・・・・青天を衝けでも慶喜と慶福(家茂)の跡継ぎ争いも描かれていたのも見て改めて思ったけど、慶福が勝っても結局それから10年も経たない内に大政奉還になってしまったのも無理もあるまいでした。
秀忠は江のケツに引かれて頭が上がらなかったらしい!
家光は春日局が生母といわれて忠長は父親が浅井家ゆかりの人といわれています
ーコメです