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幼少の頃、家で晩ごはんで出ていたすいとんは美味しかったです😅😅😅😅
おじいちゃんはすいとんは嫌いになったけど、蒸かし芋はこの上なく好きだったな
ぜいたくは素敵だ!!!
座布1枚😉
実際書いてた者がいた。
最後の方で、缶入りドロップの映像が少し出てましたけど、これを視ると(節子!これドロップやない!おはじきや!)を思い出しました。
亡くなった父親が戦時中の話を何回もしていたけど、本当のすいとんは団子なんて入ってなくて、さつまいものツルしか入ってなくて味はしなかったって私が子供の頃に語ってました。それに、お米も白米は特別な時しか食べらなくて、じゃがいもやさつまいも、かぼちゃを米代わりに食べていたと聞いてます。ひどい時は川にいき食用ガエルなどとって、それを調理して食べていたと聞いて、戦時中の食事は残酷だと思いました。今の私たちは普通に食事が出来てるって幸せだと思う。好き嫌い言えてるって本当に贅沢だと思います。
私の両親の実家の佐賀県ですが昭和18年からサトウキビを畑で植えたと母が言っていました。
祖父も両祖母も戦時中を経験しましたが、あまり戦争の話をすることはありませんでした。そのため戦争の悲惨さを知るためにこの動画を視聴しました…
あの時の芋が不味いと言われるのは、配給用に農家が供出した芋が、本来燃料用アルコールを作るために開発された収穫量は多いけど味は二の次のものだったのもあると聞いた。又供出する農家も、肥料や人手が十分ではなくて生産量は落ちるけど、供出量は絶対だから、そうせざるを得なかった。一部の裕福な豪農は関係なかったようだけど。又、兎に角必要な量を確保で、国も供出を求めるときに作物の質には拘らなかった。後、日本は当時も食糧自給率が高いわけでなくて、日本国内だけではとても間に合わなかったと言うのを読んだことがある。それと輸送も、陸も海も空襲等でまともに機能しなかった。それに、資源もない日本だから戦争が長引いて、にっちもさっちも行かなくなったのかもしれない。食糧・調味料・衣服・燃料用・日用品・医薬品・衛生材料と言った、生活に必要なありとあらゆる物も配給とは名ばかりで、欠配が続いてどうにもならなかったと言うが、最も酷いのは終戦後ララ物資の輸入が始まるまでの期間だったと、無き父が話してくれた。他の動画では触れられない、調味料不足・燃料不足にもとても詳しく作られている動画だと思いました。素晴らしい内容でした。とても勉強になりました。
うちの祖母戦時中子供だったはずなのに、食べ物の好き嫌いないなあ…芋類や(勝手なイメージだけど)すいとんに似てるワンタンも食べるしこんな話聞いてると不思議… 食べ物に困らなかった地域もあったのかな?
大きめの農家さんはあまり苦労されずにいたみたいですよ。
私の母も子沢山の末っ子の農家の出だけど、太平洋戦争直前に生まれた母の記憶では、食べ物はあっても日用品が不足していて、近くの神社で日用品売りに来た時に祖母にくっついて買いに行ったということを聞いていた😲
ドイツのコーヒーはドングリコーヒーで今でもドイツでは販売していて好きな人も多く、私の会社ドイツ人もドングリコーヒーを何時も飲んでいました。私も飲ませて貰いましたが良いのではないかと思いました。
日本では煎り大豆から作られた「マメヒー」が飲まれていました。
終戦記念日に家ですいとんを食べる習慣になってました。最初に出された時に「何これ?」ですいとんだよ!と。「うえ~…」とか言って当時のすいとんよりよっぽど良いもんだよ!とどっちかられた覚えがあります…
色々な作品で当時の食生活を知ることはできるが、「この世界の片隅に」の描写は衝撃的だった…
動画中では「貰う」という表現を使われていますが、戦時中の日本の配給制度は食料を無料で貰うのではなく購入していたはずです。価格や量が決められてはいましたが。
戦時中子供だった祖母、すいとんは二度と食べたくないと強く言ってますね…味も具も薄いすいとんばかりの毎日を思い出すそうです
NHKでそれの再現メニュー見たけど(;^ω^)あんな惨めな状況下はヤバ過ぎると思いますわトラウマになるのも納得な壮絶さ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
2合3尺でよく食べる人で2~3食分昔の日本人が食べてた米の量をナメてるな1日で4合は当たり前体を使う人なら5合もざらにこれだけを味噌汁ともの凄く塩辛い漬物をメインに食べるのが普段の食生活だ 4:53
1950年代までは白米を食べる習慣はなかったたし昔の人は粗食なので一日4合も食べない
おかず無いからその分御飯を食べていたと聞きました
今年100歳になる祖母は豪農の生まれだったので、基本的に食料に不足することはなかったけど、米は大切な売り物だから、戦局が厳しくなってきた1944年頃からは、お金があっても麦や粟入りのご飯を食べていたそう。作物は沢山取れるので、カボチャやさつまいもをこれでもかという位食べたそうです。好き嫌い無しの祖母ですが、今でもカボチャやさつまいもは余り食べたくないそうです。味についても当時は今より甘みがなく、調味料も戦時中は大変貴重なので薄味にするしかなく、不味かったそうです。今でもカボチャやさつまいもが苦手という高齢者はいるかもですね。
長生きしてるね 曾祖母は100歳まであと3年ぱだこさんはおいくつかな?
@@糞丸便器 アラフィフです(笑)
俺は31です
貧しい地域(田舎)だと、戦後生まれでも「カボチャとイモ類は散々食べさせられたから嫌い」と言う人が結構います。結構ほかより遅い時期まで貧しさが続いたようで。
もう死んでしまったが、うちの親父は昭和17年生まれ。かぼちゃの煮物だけは絶対に口にしなかったな。理由はあなたの祖母と同じだった。
地元の田舎では基本的に食べるものには困らず、都市部で困ってる人達がたくさんいるから質素を装ってたとか聞いた。
近くの定食屋のメニューに昔懐かしいすいとんって書いてあるのが気になって食べてみたら具だくさんでとても美味しかった。おそらく昔のすいとんってこんなに美味ではなかったんだろうと思いましたね。値段だってどんぶり一杯の汁物で900円でちょっと高かったな。😮
母がまだ生きていた時すいとんはよく作ってくれてました。終戦直後、米軍から支給された小麦粉を見て、戦時中の小麦粉とくらべてみたらあまりにもの質感の違いに当時の国力の差を思い知らされたそうです。残念ながらどれだけ両方の味が違ってたかまでは聞いてませんでしたが。
当時は小麦粉では無くメリケン粉と言っていましたね。アメリケンの粉だからメリケン粉だったそうです。今でも80歳後半の方はメリケン粉の方がピンとくるかもですね。
別に配給ったってタダでもらえたわけじゃないですよ。買える量が決められることを配給というわけですから。コメの通帳があって、あなたの家は今月の配給分はもう買ってるから今月はこれ以上買えませんよ、ってこと。衣料切符とかも同じ。要は買占めや転売ができないようにする仕組みです。コロナの時にティッシュペーパーが品薄になったことがありましたけど、あれがひどくなれば、配給制度になったでしょう。一か月に一人1セットまでしか買えない、とかマイナンバーカードで管理したりすることになったはずです。
小学生の時の給食にたまにすいとん出ていた覚えがありますが、あまり美味しくなかった思い出があります😅
ドイツ軍の糧食と言えば ライ麦パンとショカコーラショカコーラは 円盤状でカフェインが多量に入ってるチョコで円盤状の缶に 包装されたチョコが2枚入ってたとか
ヨーロッパではスイスの食料事情は最悪で敗戦国のドイツ・イタリアやドイツの占領国のオランダ・フランスよりも悪かった、その理由は永世中立国なので交戦国とは貿易が全く出来ないため、敗戦国よりも食料事情は酷かったのです。
連続テレビ小説「ごちそうさん」に出てきた「興亜パン」を取り上げてないじゃないか。
代用食 食べた?ひっつみ、!当時、くりくり広報に載ってて、作った!
少しトピズレを承知で言わせてください。この時代が舞台の火垂るの墓の主人公兄妹は、父が軍人(それも高官)で、軍人(とその家族)に優先的に(当時としては高級品の)食料が手に入れられ、その環境になれてた(プラスその他の家庭環境)から、当時の一般家庭である、西宮の小母さんの家での生活に適応できなかったのだろう。ちなみに、清太が自宅から持ってきた、卵やバター、母が存命だった時に妹と食べてたそうめんやカルピスが当時としては高級品と知ったのは大人になってからです。
アメちゃんは後方のベース地に野戦調理場を設営し、調理した食事を兵士に配給していたが太平洋戦線ではやたらスパムが出されてGIさんはうんざりしたという。スパム=嫌がらせ・迷惑の意味合いはこの時の野戦食が原因とする説があります。
貴方は陸自ではないですか、私も陸自時代にアメリカ軍の事をアメちゃんと聞きました。
@@kentaendou1190 さん自分は普通の一般人ですが、自衛隊は米軍のことをアメちゃんと言っていたんですね。「アメちゃん」の呼称は何かのコミックで読んだと思います。
@@ホヤぼーや-e8fさん たしか、ヒトラーの息子、という劇画漫画で、アメちゃん、という言葉が使われていた気がします。
「ペリリュー ─楽園のゲルニカ─」という漫画で、終戦間近の南方戦線の話が描かれてました。戦死した方の食べ物や水で繋いだり、米軍の食料庫から盗んでいたみたいです。
この惨状でも面積辺りの収穫量が多い米だからこれで済んでたって話もあるし米に感謝しろよとアメリカの民間でステーキは贅沢だからソールズベリーステーキ(ハンバーグ)食おうぜ!って運動始めたけど肉をハンバーグに加工するのが手間で結局ステーキ食ってたって話好き
戦後・・・最早戦後ではない。と言われ数年後の昭和40年生まれの私ですが、米穀通帳に名前の記載があったし昭和42年生まれの弟の名前も。実際には配給制はそこまでうるさくは無くなっていたそうだけど、購入出来る米屋は決められていて今のようにスーパーや小売店には米を売る権利が無く塩や米は専売特許権が厳しく決められていて昭和56年頃やっとどこでも販売出来るようになった。昭和の頃塩が扱える店には店頭青地に白色の《塩》と書かれた20㌢角くらいの看板が有った。
10人分の米を配給され、100人分の雑炊をつくれと命令された。(戦時中の食堂の証言)
母親は農地改革で没落した豪農の家だったから、子供の頃はある程度食べ物は有ったけど、さつま芋ばかり食べてたから視界に入るだけで嫌って言ってたなあ。おからと米を半々で炊いたご飯が不味かったとか
他になくてそればっかり食べてたから嫌いになった、というのは戦中戦後あるあるなんでしょうね。うちの亡くなった祖父も芋やカボチャが大嫌いでした。「爺ちゃんは若い頃、芋やカボチャは一生分食べたからもう食べなくていいの」って自分でよく言ってました😅
男手を失った上、農耕用の家畜も軍に強制徴用されたって言うし、農家の生産力は低下する一方だったろうな。
もし戦時中からタイムスリップして来た人がいたら肥満になるくらいご馳走してあげたい
特に幼い子供とかですねえ…。
成人なら戦後になってビール業界に参入したサントリーのビールを飲ませてやりたい。
帰りに白米、味噌、醤油、塩、砂糖、食用油、マッチを沢山持たせるな。あと石鹸もね。
✮麦ごはんちょっと苦手やで〜😭😭健康にはいいけど〜😨😨
鍋と釜以外の鉄物も徴収されたと聞きました 材料も無いけど調理器具も限られて作るの大変だったでしょうね😢戦後のアニメで正義と悪が砂糖の取り合いをするって話も観た記憶があります
肉にする為に飼い犬まで徴収された話を聞いて泣きました…。
俺やったら日本兵やってでも飼い犬助けるわ 家族やからな 食われるなんて絶対に許せない
犬の毛皮も目的だったそうですし、大型犬は軍用犬として戦地で使役されたらしいです。私も、これを知った時、ショックでした。ちびまる子ちゃんには「私の好きな歌』と言う題名の漫画・アニメがありますが、可愛がっていた子馬を歌った内容が、実は最後の歌詞(もう当時は歌われてなかった)を先生が悲しそうに話してくれてと言う下りがあります。この馬も徴用されと軍用馬となり飼い主と永遠のお別れになるのですが、こうして大切な物も奪っていくのが戦争なのだと思いました。
すいとん....今は亡き両親は【だんご汁】と言ってました
東北地方でいう「ひっつみ」みたいな物でしょう。
戦争で食料事情が悪化する以前に、貧乏小作は、米の飯なんかまともに食えず、ブラジルや満州に移民するか、次男三男は食い扶持減らしで軍隊に下士官志願して残り、がむしゃらに戦った、戦前からの下地があったからですね。両親とも麦飯は嫌ってましたし、父は空きっ腹で勤労動員で働き、空襲が始まり寝不足がちで、腹一杯飯が食えたら死んでも良いで、軍に志願して程なく終戦でした。
両親・叔父叔母は戦中・戦後生まれでしたが、芋は嫌いでしたね。食関連の商売だったので、そこまで食べ物に苦労はしなかったそうですが・・。現在のお米、お肉、魚を自由に食せることには感謝しているそうです。すいとん=薄い・物足りない、脱脂粉乳=マズイ!!はよく聞きましたね。
昭和20年になると米が手に入りにくくなったらしい。母方の本家は豪農で米は手に入ったそうで鰻を食べに行くとき米を持って行ったそうだ。死んだ叔母が言っていたが幼い母は鰻の皮が嫌いで池の鯉に向かって鰻の皮を投げていたそうな。そんな母は機銃掃射にあったことがあり今でもプロペラ機の音を『グラマンの音がする』と言ったりします。
ガキの頃に、貧乏だったからバクシヤリ(麦飯の事)しか食え無かった、今は 白米より高いけど ~~😭今は、炭水化物オンリーで(お米、乾麺類)で立派な糖尿病です‼️昔は、糖尿病は贅沢病と言われましたが・・・.・.現在は、貧乏人が糖尿病に成る、肉も野菜も魚も・・買えない・・・高いから😭
ガキの頃も今も貧乏なんて可哀想。
ホント何も無かった時代 買いに行っても何もない女性には本当に申し訳ない時代でしたオボンにはオハカの前に座ってみてくださいねおばあちゃんお母さん申し訳ない
自分の母親はさつま芋が嫌いだった。紅あずまが出てからは言わなくなったけど、農林何号とかの白っぽい芋は大嫌いだと言ってた(鹿児島生まれ)父親はじゃがいもの蒸したのが嫌だと言ってる(喉に詰まるから)父親の田舎は半農だったから食べるものはそこまででは無かったみたい。でもさんまの塩干しが匂いが凄くてまた塩辛いので父親は嫌いだったみたい(岩手生まれ)
なんか嫌いなものばかりですねさつまいもは温暖な地域だけでなく東北や東京でも作れるし甘みもあるので昔は非常食やはれの日のごちそうに重宝されたと思う
@@糞丸便器 以外です。亡くなった母親と同じ名前の方からの返信とは。(字も同じ)ありがとうございます。母親からの話では、白い芋はデンプンが多く焼酎等に仕様するものでそのまま食べるとモソモソして美味しくなかったそうです。母親は人参芋と呼ばれていた芋が好きだったそうです。父親の方は只蒸かして塩味もついていない芋を喰わされた(食べたとは言わない)から嫌いだ!と言っていました。バターをのせたのは好きで縁日で屋台が出てたら買う様な人ですw
田舎で戦時中子供だった両親は、ひもじい思いはしなかったそう。街から買い出しに来る大人に、いも蔵からいもを出して、こずかい稼ぎしたそう。
とにかくモノがなかった話しはよく聞きました
日本以外の国でも食べ物に苦労していたんですね😢知りませんでした。😭
日本軍の名誉のために一言海上輸送が必須となる太平洋戦線で餓死者が多く出たのは、潜水艦攻撃による通商破壊で補給線が絶たれ最前線で戦う部隊まで兵站が行き届かなかったことが原因です自分の祖父は内地勤務の経理兵だったので食べ物には全く不自由せず、戦後の食糧不足の時期も大量の備蓄食料の横流しの恩恵を受けて非常に助かったと聞いています国による嗜好の違いはあれど、日本軍の糧食は当時の日本人にとっては極めて豪華で量も多く栄養十分で平時には食事の豪華さに釣られて軍に志願する人も多かったということを指摘しておきます
兵隊さんって究極の肉体労働だから摂取カロリーは高かったしそれゆえに本来決められていた配給量も結構たくさんだった飢餓に苦しめられたのは徹底的に輸送船が狙い撃ちされたからに他ならないんだけどそこまで知ってる人や考えられてるの方が少ない戦後教育のおかげで表層的にしか日本の敗戦を理解できてない人が多数派
日中戦争の時、現地調達だったのは何故何ですか? 豊富なら現地調達はおかしいと思うのですが....
@@zagumuchi1471 当時の日本軍において戦時における物資徴発は既定の行動であり、別におかしなことではありません調達できるものはなるべく現地で調達する方針であったということですただ少なくとも祖父が支那に駐屯していた昭和15年頃は、酒保には日本から輸送された菓子や酒も潤沢に揃っていたそうです
戦線が伸び切った所は厳しかったでしょう。艦船内の食料は十分でした。
あと、雑炊もこの当時の一般家庭のメインの食事では?
戦時の食糧不足/貧乏の話しでは、開高健の「今日もトトチャブや~」を思い出す。要するに飯の代わりに水飲んで腹を膨らませてチャブチャブする事。彼の書く文章はまるで単語の料理の如くでした、合掌。
日本は離島での戦いが多かったからなぁ...通商破壊されたらそりゃな…日中戦争とか兵站が確保できる戦線なら他国と比べても差は無いみたいだが。海軍艦艇の食事だと割といい物食えてるけど他国と比べるとタンパク質不足はあるね。ドイツは第一次大戦でも配給経験してるからそれなりに経験あったのはあるのかな。
「カブラの冬」。
老人会が毎年夏に子供会とすいとんの炊き出し行事をやっていたんですがコロナで連続中止。しかもその間に中心メンバーが相次いで亡くなり、老人会すら戦後世代ばかりになって再開の目途立たず。こうして忘れられてしまうのかと残念無念…。
これって.....もしかしてナンマイダーカード??
初めての給食は水とん汁でした
戦時中配給の量もさることながら、質も最悪で魚等も場合によっては半分腐ったような物が出たこともあるようです😂。
トム&ジェリーにはたくさんの食材が詰め込まれている冷蔵庫や色とりどりのご馳走が登場するこれが第二次世界大戦の頃に作られたアニメと知った時は日本が負けるわけだよと痛感した
ちなみに当時の米軍兵士1日分の食事量は4500キロカロリーというフードファイト級のドカ盛り最初から負けてる
@@user-middlemountmirror更には(;^ω^)戦艦にアイスやサイダーが飲めたアメリカの軍艦
大和「………」
第二次大戦中も大リーグは継続してたなあ…。
現在の飽食の時代いつまでも続くとは思えないし、今の日本の食べ物の豊かさが逆に怖いです。テレビ番組も食べてばかりで異常とも思える。
麦100%と粟(あわ)100%のごはんは試したことあります('ω')どちらも非常に不味く、粟にいたっては食えなかった('ω')。今に生まれて良かったなって思いました('ω')
麦だけ飯普通に好き。あわやひえも普通に好き。俺は戦時中にでも生きていけるな!
ドイツ軍の糧食には国内で大声の主張をする派閥がありますが、あれは無知、我田引水と破壊的和訳の問題があるのでまずは海外資料を当たって下さい。
終戦日に戦争を忘れないようにって祖母がすいとんをつくってた。本当に薄い汁にすいとんをおとしただけのやつと皮のきんぴら毎日これが嫌なら、戦争なんてやめようねってばーさんが言ってた
うちの親父(1937年生まれ)も麦飯とか白米になんか混じるのを嫌う。 幼少期にそういうの毎日食べさせられた影響なんだろうな。進駐軍にもらったハーシーズのチョコが生涯で一番美味かったとか言ってるし。 こちらは子供の頃から腹いっぱい食わせてもらって感謝だ。
15:27 節子、何舐めとるんや。これおはじきやろ。ドロップちゃうやんか。
戦争に出ていた大伯父は、食料管理の部所だったそうで、それはそれは贅沢なラインナップだったと言います。そして、戦争関係ないケド、大伯母は就職した繊維工場の寮で、食事係部所にいて材料のリンゴとかは、一人につき四分一なのに対して、自分は丸々一個を食べていたと言ってました。だから、人より太ってたらしい😅食事部所を外されると、みるみる痩せたとか😅戦時中でも、あるとこにはある食料、いつの世にも不平等は、大きな顔してのさばるのヨ😢
今の人(スマホ世代)に言うてもわからないこと 自分はギリギリこの時代食を経験している田舎だから 母親にも聞いていたが 田舎ではさほど大きな問題では無かったと敷地内も畑?にされ 何でも作れたと だで戦時中を描いたTVドラマ内での食事は辛いものだった方で実際の田舎では 色々食べれたとも言うていた栄養は無い?が冬瓜などは自然に生えて来たからこれも有難い敷地内だけでも10本の柿の木 またミカンの木 イチゴなども作っていたと実際自分も10歳くらいまでは 母が育てた イチゴは熟すが早いか食べるが早いか?ですぐに食べてしまうから よく怒られたもの 田舎世帯には何処でもウサギや鶏は飼育していたしウサギは食べるために飼育している だで現代人の「カワイイウサギ」?を聴くたび(あれは食料なのだぞ)と今でも思うよ 親父も仕事帰りに農道でよくウシガエルを獲って帰宅したもの時期が来れば新月の夜にカーバイト焚いて波打ち際を歩き トラフグを獲ってきていたまた小学給食に出た 脱脂粉乳も当時ではすでにコーヒー味だので美味しく変わっていたから 俺は好きだったな まあっクソ不味い””と言うて 食べる俺達の前で「オマエこんなものよく喰うなあっ」と騒いでいた同級生は中学卒業時には独り これでもか?と言うほどのチビに変わり果てていた 食をバカにしたツケだろう
まあ「戦争に負ける」ってこういう事よね。時代を差し引いても、日清・日露じゃあまりこういう話も聞かないし。アメリカでWW2で食卓が貧しくなったエピソードと言ったら、アメリカンコーヒーが生まれた、ってことくらい?
戦時中の食事にイナゴの佃煮がないのはだめなんじゃねーの?自分が生まれた昭和40年代の都内でもイナゴの佃煮を食べてた家庭をちらほら見かけたし学童疎開の影響?でイナゴの佃煮(虫食)の習慣が少しだけ東京にも根付いていたのかもしれないけど現在では、昔の日本人が虫食を食べてた時期なんて完全に忘れ去られてるよな。あと主さんは朝の連続テレビ小説最高視聴率おしんは見てないの?おしんで出てくる食事も当時、結構話題だった思い出ある。正直、食べず嫌いでどちらも食べてないけどさw
昭和40年代前半にイナゴの佃煮は時々食べました。あとツクシ。
大根飯ですね
連続テレビ小説「ごちそうさん」で「興亜パン」を取り上げていました。
すいとんから戦時中の暮らしに繋げるのクッキングパパとダブる笑
幼少の頃、家で晩ごはんで出ていたすいとんは美味しかったです😅😅😅😅
おじいちゃんはすいとんは嫌いになったけど、蒸かし芋はこの上なく好きだったな
ぜいたくは素敵だ!!!
座布1枚😉
実際書いてた者がいた。
最後の方で、缶入りドロップの映像が少し出てましたけど、これを視ると(節子!これドロップやない!おはじきや!)
を思い出しました。
亡くなった父親が戦時中の話を何回もしていたけど、本当のすいとんは団子なんて入ってなくて、さつまいものツルしか入ってなくて味はしなかったって私が子供の頃に語ってました。
それに、お米も白米は特別な時しか食べらなくて、じゃがいもやさつまいも、かぼちゃを米代わりに食べていたと聞いてます。
ひどい時は川にいき食用ガエルなどとって、それを調理して食べていたと聞いて、戦時中の食事は残酷だと思いました。今の私たちは普通に食事が出来てるって幸せだと思う。
好き嫌い言えてるって本当に贅沢だと思います。
私の両親の実家の佐賀県ですが昭和18年からサトウキビを畑で植えたと母が言っていました。
祖父も両祖母も戦時中を経験しましたが、あまり戦争の話をすることはありませんでした。そのため戦争の悲惨さを知るためにこの動画を視聴しました…
あの時の芋が不味いと言われるのは、配給用に農家が供出した芋が、本来燃料用アルコールを作るために開発された収穫量は多いけど味は二の次のものだったのもあると聞いた。又供出する農家も、肥料や人手が十分ではなくて生産量は落ちるけど、供出量は絶対だから、そうせざるを得なかった。一部の裕福な豪農は関係なかったようだけど。
又、兎に角必要な量を確保で、国も供出を求めるときに作物の質には拘らなかった。
後、日本は当時も食糧自給率が高いわけでなくて、日本国内だけではとても間に合わなかったと言うのを読んだことがある。それと輸送も、陸も海も空襲等でまともに機能しなかった。
それに、資源もない日本だから戦争が長引いて、にっちもさっちも行かなくなったのかもしれない。
食糧・調味料・衣服・燃料用・日用品・医薬品・衛生材料と言った、生活に必要なありとあらゆる物も配給とは名ばかりで、欠配が続いてどうにもならなかったと言うが、最も酷いのは終戦後ララ物資の輸入が始まるまでの期間だったと、無き父が話してくれた。
他の動画では触れられない、調味料不足・燃料不足にもとても詳しく作られている動画だと思いました。素晴らしい内容でした。とても勉強になりました。
うちの祖母戦時中子供だったはずなのに、食べ物の好き嫌いないなあ…
芋類や(勝手なイメージだけど)すいとんに似てるワンタンも食べるし
こんな話聞いてると不思議… 食べ物に困らなかった地域もあったのかな?
大きめの農家さんはあまり苦労されずにいたみたいですよ。
私の母も子沢山の末っ子の農家の出だけど、太平洋戦争直前に生まれた母の記憶では、食べ物はあっても日用品が不足していて、近くの神社で日用品売りに来た時に祖母にくっついて買いに行ったということを聞いていた😲
ドイツのコーヒーはドングリコーヒーで今でもドイツでは販売していて好きな人も多く、
私の会社ドイツ人もドングリコーヒーを何時も飲んでいました。私も飲ませて貰いましたが良いのではないかと思いました。
日本では煎り大豆から作られた「マメヒー」が飲まれていました。
終戦記念日に家ですいとんを食べる習慣になってました。
最初に出された時に「何これ?」ですいとんだよ!と。「うえ~…」とか言って当時のすいとんよりよっぽど良いもんだよ!とどっちかられた覚えがあります…
色々な作品で当時の食生活を知ることはできるが、「この世界の片隅に」の描写は衝撃的だった…
動画中では「貰う」という表現を使われていますが、戦時中の日本の配給制度は食料を無料で貰うのではなく購入していたはずです。価格や量が決められてはいましたが。
戦時中子供だった祖母、すいとんは二度と食べたくないと強く言ってますね…
味も具も薄いすいとんばかりの毎日を思い出すそうです
NHKでそれの再現メニュー見たけど(;^ω^)
あんな惨めな状況下はヤバ過ぎると思いますわ
トラウマになるのも納得な壮絶さ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
2合3尺でよく食べる人で2~3食分
昔の日本人が食べてた米の量をナメてるな
1日で4合は当たり前
体を使う人なら5合もざらに
これだけを味噌汁ともの凄く塩辛い漬物をメインに食べるのが普段の食生活だ 4:53
1950年代までは白米を食べる習慣はなかったたし昔の人は粗食なので一日4合も食べない
おかず無いからその分御飯を食べていたと聞きました
今年100歳になる祖母は豪農の生まれだったので、基本的に食料に不足することはなかったけど、米は大切な売り物だから、戦局が厳しくなってきた1944年頃からは、お金があっても麦や粟入りのご飯を食べていたそう。作物は沢山取れるので、カボチャやさつまいもをこれでもかという位食べたそうです。好き嫌い無しの祖母ですが、今でもカボチャやさつまいもは余り食べたくないそうです。味についても当時は今より甘みがなく、調味料も戦時中は大変貴重なので薄味にするしかなく、不味かったそうです。今でもカボチャやさつまいもが苦手という高齢者はいるかもですね。
長生きしてるね 曾祖母は100歳まであと3年
ぱだこさんはおいくつかな?
@@糞丸便器 アラフィフです(笑)
俺は31です
貧しい地域(田舎)だと、戦後生まれでも「カボチャとイモ類は散々食べさせられたから嫌い」と言う人が結構います。
結構ほかより遅い時期まで貧しさが続いたようで。
もう死んでしまったが、うちの親父は昭和17年生まれ。
かぼちゃの煮物だけは絶対に口にしなかったな。
理由はあなたの祖母と同じだった。
地元の田舎では基本的に食べるものには困らず、都市部で困ってる人達がたくさんいるから質素を装ってたとか聞いた。
近くの定食屋のメニューに昔懐かしいすいとんって書いてあるのが気になって食べてみたら具だくさんでとても美味しかった。おそらく昔のすいとんってこんなに美味ではなかったんだろうと思いましたね。値段だってどんぶり一杯の汁物で900円でちょっと高かったな。😮
母がまだ生きていた時すいとんはよく作ってくれてました。
終戦直後、米軍から支給された小麦粉を見て、戦時中の小麦粉とくらべてみたら
あまりにもの質感の違いに当時の国力の差を思い知らされたそうです。
残念ながらどれだけ両方の味が違ってたかまでは聞いてませんでしたが。
当時は小麦粉では無くメリケン粉と言っていましたね。アメリケンの粉だからメリケン粉だったそうです。
今でも80歳後半の方はメリケン粉の方がピンとくるかもですね。
別に配給ったってタダでもらえたわけじゃないですよ。買える量が決められることを配給というわけですから。コメの通帳があって、あなたの家は今月の配給分はもう買ってるから今月はこれ以上買えませんよ、ってこと。衣料切符とかも同じ。要は買占めや転売ができないようにする仕組みです。コロナの時にティッシュペーパーが品薄になったことがありましたけど、あれがひどくなれば、配給制度になったでしょう。一か月に一人1セットまでしか買えない、とかマイナンバーカードで管理したりすることになったはずです。
小学生の時の給食にたまにすいとん出ていた覚えがありますが、あまり美味しくなかった思い出があります😅
ドイツ軍の糧食と言えば ライ麦パンとショカコーラ
ショカコーラは 円盤状でカフェインが多量に入ってるチョコで
円盤状の缶に 包装されたチョコが2枚入ってたとか
ヨーロッパではスイスの食料事情は最悪で敗戦国のドイツ・イタリアやドイツの占領国のオランダ・フランスよりも
悪かった、その理由は永世中立国なので交戦国とは貿易が全く出来ないため、敗戦国よりも食料事情は酷かったのです。
連続テレビ小説「ごちそうさん」に出てきた「興亜パン」を取り上げてないじゃないか。
代用食 食べた?ひっつみ、!
当時、くりくり広報に載ってて、作った!
少しトピズレを承知で言わせてください。
この時代が舞台の火垂るの墓の主人公兄妹は、父が軍人(それも高官)で、軍人(とその家族)に優先的に(当時としては高級品の)食料が手に入れられ、その環境になれてた(プラスその他の家庭環境)から、当時の一般家庭である、西宮の小母さんの家での生活に適応できなかったのだろう。
ちなみに、清太が自宅から持ってきた、卵やバター、母が存命だった時に妹と食べてたそうめんやカルピスが当時としては高級品と知ったのは大人になってからです。
アメちゃんは後方のベース地に野戦調理場を設営し、調理した食事を兵士に配給していたが太平洋戦線ではやたらスパムが出されてGIさんはうんざりしたという。スパム=嫌がらせ・迷惑の意味合いはこの時の野戦食が原因とする説があります。
貴方は陸自ではないですか、私も陸自時代にアメリカ軍の事をアメちゃんと聞きました。
@@kentaendou1190 さん
自分は普通の一般人ですが、自衛隊は米軍のことをアメちゃんと言っていたんですね。「アメちゃん」の呼称は何かのコミックで読んだと思います。
@@ホヤぼーや-e8fさん たしか、ヒトラーの息子、という劇画漫画で、アメちゃん、という言葉が使われていた気がします。
「ペリリュー ─楽園のゲルニカ─」という漫画で、終戦間近の南方戦線の話が描かれてました。
戦死した方の食べ物や水で繋いだり、米軍の食料庫から盗んでいたみたいです。
この惨状でも面積辺りの収穫量が多い米だからこれで済んでたって話もあるし米に感謝しろよと
アメリカの民間でステーキは贅沢だからソールズベリーステーキ(ハンバーグ)食おうぜ!って運動始めたけど肉をハンバーグに加工するのが手間で結局ステーキ食ってたって話好き
戦後・・・最早戦後ではない。と言われ数年後の昭和40年生まれの私ですが、米穀通帳に名前の記載があったし昭和42年生まれの弟の名前も。
実際には配給制はそこまでうるさくは無くなっていたそうだけど、購入出来る米屋は決められていて今のようにスーパーや小売店には米を売る権利が無く塩や米は専売特許権が厳しく決められていて昭和56年頃やっとどこでも販売出来るようになった。昭和の頃塩が扱える店には店頭青地に白色の《塩》と書かれた20㌢角くらいの看板が有った。
10人分の米を配給され、100人分の雑炊をつくれと命令された。
(戦時中の食堂の証言)
母親は農地改革で没落した豪農の家だったから、子供の頃はある程度食べ物は有ったけど、さつま芋ばかり食べてたから
視界に入るだけで嫌って言ってたなあ。おからと米を半々で炊いたご飯が不味かったとか
他になくてそればっかり食べてたから嫌いになった、というのは戦中戦後あるあるなんでしょうね。
うちの亡くなった祖父も芋やカボチャが大嫌いでした。
「爺ちゃんは若い頃、芋やカボチャは一生分食べたからもう食べなくていいの」って自分でよく言ってました😅
男手を失った上、農耕用の家畜も軍に強制徴用されたって言うし、
農家の生産力は低下する一方だったろうな。
もし戦時中からタイムスリップして来た人がいたら肥満になるくらいご馳走してあげたい
特に幼い子供とかですねえ…。
成人なら戦後になってビール業界に参入したサントリーのビールを飲ませてやりたい。
帰りに白米、味噌、醤油、塩、砂糖、食用油、マッチを沢山持たせるな。あと石鹸もね。
✮麦ごはんちょっと苦手やで〜😭😭健康にはいいけど〜😨😨
鍋と釜以外の鉄物も徴収されたと聞きました 材料も無いけど調理器具も限られて作るの大変だったでしょうね😢
戦後のアニメで正義と悪が砂糖の取り合いをするって話も観た記憶があります
肉にする為に飼い犬まで徴収された話を聞いて泣きました…。
俺やったら日本兵やってでも飼い犬助けるわ 家族やからな 食われるなんて絶対に許せない
犬の毛皮も目的だったそうですし、大型犬は軍用犬として戦地で使役されたらしいです。
私も、これを知った時、ショックでした。
ちびまる子ちゃんには「私の好きな歌』と言う題名の漫画・アニメがありますが、可愛がっていた子馬を歌った内容が、実は最後の歌詞(もう当時は歌われてなかった)を先生が悲しそうに話してくれてと言う下りがあります。この馬も徴用されと軍用馬となり飼い主と永遠のお別れになるのですが、こうして大切な物も奪っていくのが戦争なのだと思いました。
すいとん....今は亡き両親は【だんご汁】と言ってました
東北地方でいう「ひっつみ」みたいな物でしょう。
戦争で食料事情が悪化する以前に、貧乏小作は、米の飯なんかまともに食えず、ブラジルや満州に移民するか、次男三男は食い扶持減らしで軍隊に下士官志願して残り、がむしゃらに戦った、戦前からの下地があったからですね。
両親とも麦飯は嫌ってましたし、父は空きっ腹で勤労動員で働き、空襲が始まり寝不足がちで、腹一杯飯が食えたら死んでも良いで、軍に志願して程なく終戦でした。
両親・叔父叔母は戦中・戦後生まれでしたが、芋は嫌いでしたね。
食関連の商売だったので、そこまで食べ物に苦労はしなかったそうですが・・。
現在のお米、お肉、魚を自由に食せることには感謝しているそうです。
すいとん=薄い・物足りない、脱脂粉乳=マズイ!!はよく聞きましたね。
昭和20年になると米が手に入りにくくなったらしい。母方の本家は豪農で米は手に入ったそうで鰻を食べに行くとき米を持って行ったそうだ。死んだ叔母が言っていたが幼い母は鰻の皮が嫌いで池の鯉に向かって鰻の皮を投げていたそうな。そんな母は機銃掃射にあったことがあり今でもプロペラ機の音を『グラマンの音がする』と言ったりします。
ガキの頃に、貧乏だったから
バクシヤリ(麦飯の事)しか食え
無かった、今は 白米より高い
けど ~~😭
今は、炭水化物オンリーで
(お米、乾麺類)で立派な
糖尿病です‼️昔は、糖尿病は
贅沢病と言われましたが・・・.・.
現在は、貧乏人が糖尿病に成る、肉も野菜も魚も・・買えない・・・高いから😭
ガキの頃も今も貧乏なんて可哀想。
ホント
何も無かった時代
買いに行っても
何もない
女性には
本当に申し訳ない時代でした
オボンには
オハカの前に座ってみてくださいね
おばあちゃん
お母さん
申し訳ない
自分の母親はさつま芋が嫌いだった。紅あずまが出てからは言わなくなったけど、農林何号とかの白っぽい芋は大嫌いだと言ってた(鹿児島生まれ)父親はじゃがいもの蒸したのが嫌だと言ってる(喉に詰まるから)
父親の田舎は半農だったから食べるものはそこまででは無かったみたい。でもさんまの塩干しが匂いが凄くてまた塩辛いので父親は嫌いだったみたい(岩手生まれ)
なんか嫌いなものばかりですね
さつまいもは温暖な地域だけでなく東北や東京でも作れるし甘みもあるので昔は非常食やはれの日のごちそうに重宝されたと思う
@@糞丸便器 以外です。亡くなった母親と同じ名前の方からの返信とは。(字も同じ)
ありがとうございます。母親からの話では、白い芋はデンプンが多く焼酎等に仕様するものでそのまま食べるとモソモソして美味しくなかったそうです。母親は人参芋と呼ばれていた芋が好きだったそうです。
父親の方は只蒸かして塩味もついていない芋を喰わされた(食べたとは言わない)から嫌いだ!と言っていました。バターをのせたのは好きで縁日で屋台が出てたら買う様な人ですw
田舎で戦時中子供だった両親は、ひもじい思いはしなかったそう。
街から買い出しに来る大人に、いも蔵からいもを出して、こずかい稼ぎしたそう。
とにかくモノがなかった話しはよく聞きました
日本以外の国でも食べ物に苦労していたんですね😢知りませんでした。😭
日本軍の名誉のために一言
海上輸送が必須となる太平洋戦線で餓死者が多く出たのは、潜水艦攻撃による通商破壊で補給線が絶たれ
最前線で戦う部隊まで兵站が行き届かなかったことが原因です
自分の祖父は内地勤務の経理兵だったので食べ物には全く不自由せず、戦後の食糧不足の時期も
大量の備蓄食料の横流しの恩恵を受けて非常に助かったと聞いています
国による嗜好の違いはあれど、日本軍の糧食は当時の日本人にとっては極めて豪華で量も多く栄養十分で
平時には食事の豪華さに釣られて軍に志願する人も多かったということを指摘しておきます
兵隊さんって究極の肉体労働だから摂取カロリーは高かったし
それゆえに本来決められていた配給量も結構たくさんだった
飢餓に苦しめられたのは徹底的に輸送船が狙い撃ちされたからに他ならないんだけど
そこまで知ってる人や考えられてるの方が少ない
戦後教育のおかげで表層的にしか日本の敗戦を理解できてない人が多数派
日中戦争の時、現地調達だったのは何故何ですか? 豊富なら現地調達はおかしいと思うのですが....
@@zagumuchi1471
当時の日本軍において戦時における物資徴発は既定の行動であり、別におかしなことではありません
調達できるものはなるべく現地で調達する方針であったということです
ただ少なくとも祖父が支那に駐屯していた昭和15年頃は、酒保には日本から輸送された菓子や酒も潤沢に揃っていたそうです
戦線が伸び切った所は厳しかったでしょう。艦船内の食料は十分でした。
あと、雑炊もこの当時の一般家庭のメインの食事では?
戦時の食糧不足/貧乏の話しでは、開高健の「今日もトトチャブや~」を思い出す。要するに飯の代わりに水飲んで腹を膨らませてチャブチャブする事。彼の書く文章はまるで単語の料理の如くでした、合掌。
日本は離島での戦いが多かったからなぁ...通商破壊されたらそりゃな…日中戦争とか兵站が確保できる戦線なら他国と比べても差は無いみたいだが。海軍艦艇の食事だと割といい物食えてるけど他国と比べるとタンパク質不足はあるね。ドイツは第一次大戦でも配給経験してるからそれなりに経験あったのはあるのかな。
「カブラの冬」。
老人会が毎年夏に子供会とすいとんの炊き出し行事をやっていたんですがコロナで連続中止。しかもその間に中心メンバーが相次いで亡くなり、老人会すら戦後世代ばかりになって再開の目途立たず。こうして忘れられてしまうのかと残念無念…。
これって.....もしかしてナンマイダーカード??
初めての給食は水とん汁でした
戦時中配給の量もさることながら、質も最悪で魚等も場合によっては半分腐ったような物が出たこともあるようです😂。
トム&ジェリーにはたくさんの食材が詰め込まれている冷蔵庫や色とりどりのご馳走が登場する
これが第二次世界大戦の頃に作られたアニメと知った時は日本が負けるわけだよと痛感した
ちなみに当時の米軍兵士1日分の食事量は4500キロカロリーというフードファイト級のドカ盛り
最初から負けてる
@@user-middlemountmirror更には(;^ω^)戦艦にアイスやサイダーが飲めたアメリカの軍艦
大和「………」
第二次大戦中も大リーグは継続してたなあ…。
現在の飽食の時代いつまでも続くとは思えないし、今の日本の食べ物の豊かさが逆に怖いです。テレビ番組も食べてばかりで異常とも思える。
麦100%と粟(あわ)100%のごはんは試したことあります('ω')
どちらも非常に不味く、粟にいたっては食えなかった('ω')。
今に生まれて良かったなって思いました('ω')
麦だけ飯普通に好き。あわやひえも普通に好き。俺は戦時中にでも生きていけるな!
ドイツ軍の糧食には国内で大声の主張をする派閥がありますが、あれは無知、我田引水と破壊的和訳の問題があるのでまずは海外資料を当たって下さい。
終戦日に戦争を忘れないようにって祖母がすいとんをつくってた。
本当に薄い汁にすいとんをおとしただけのやつと皮のきんぴら
毎日これが嫌なら、戦争なんてやめようねってばーさんが言ってた
うちの親父(1937年生まれ)も麦飯とか白米になんか混じるのを嫌う。 幼少期にそういうの毎日食べさせられた影響なんだろうな。進駐軍にもらったハーシーズのチョコが生涯で一番美味かったとか言ってるし。 こちらは子供の頃から腹いっぱい食わせてもらって感謝だ。
15:27 節子、何舐めとるんや。これおはじきやろ。ドロップちゃうやんか。
戦争に出ていた大伯父は、食料管理の部所だったそうで、それはそれは贅沢なラインナップだったと言います。
そして、戦争関係ないケド、大伯母は就職した繊維工場の寮で、食事係部所にいて材料のリンゴとかは、一人につき四分一なのに対して、自分は丸々一個を食べていたと言ってました。
だから、人より太ってたらしい😅
食事部所を外されると、みるみる痩せたとか😅
戦時中でも、あるとこにはある食料、いつの世にも不平等は、大きな顔してのさばるのヨ😢
今の人(スマホ世代)に言うてもわからないこと 自分はギリギリこの時代食を経験している
田舎だから 母親にも聞いていたが 田舎ではさほど大きな問題では無かったと
敷地内も畑?にされ 何でも作れたと だで戦時中を描いたTVドラマ内での食事は
辛いものだった方で実際の田舎では 色々食べれたとも言うていた
栄養は無い?が冬瓜などは自然に生えて来たからこれも有難い
敷地内だけでも10本の柿の木 またミカンの木 イチゴなども作っていたと
実際自分も10歳くらいまでは 母が育てた イチゴは熟すが早いか食べるが早いか?で
すぐに食べてしまうから よく怒られたもの 田舎世帯には何処でもウサギや鶏は飼育していたし
ウサギは食べるために飼育している だで現代人の「カワイイウサギ」?を聴くたび
(あれは食料なのだぞ)と今でも思うよ 親父も仕事帰りに農道でよくウシガエルを獲って帰宅したもの
時期が来れば新月の夜にカーバイト焚いて波打ち際を歩き トラフグを獲ってきていた
また小学給食に出た 脱脂粉乳も当時ではすでにコーヒー味だので美味しく変わっていたから
俺は好きだったな まあっクソ不味い””と言うて 食べる俺達の前で「オマエこんなものよく喰うなあっ」
と騒いでいた同級生は中学卒業時には独り これでもか?と言うほどのチビに変わり果てていた
食をバカにしたツケだろう
まあ「戦争に負ける」ってこういう事よね。
時代を差し引いても、日清・日露じゃあまりこういう話も聞かないし。
アメリカでWW2で食卓が貧しくなったエピソードと言ったら、アメリカンコーヒーが生まれた、ってことくらい?
戦時中の食事にイナゴの佃煮がないのはだめなんじゃねーの?
自分が生まれた昭和40年代の都内でもイナゴの佃煮を食べてた家庭をちらほら見かけたし
学童疎開の影響?でイナゴの佃煮(虫食)の習慣が少しだけ東京にも根付いていたのかもしれないけど
現在では、昔の日本人が虫食を食べてた時期なんて完全に忘れ去られてるよな。
あと
主さんは朝の連続テレビ小説最高視聴率おしんは見てないの?
おしんで出てくる食事も当時、結構話題だった思い出ある。
正直、食べず嫌いでどちらも食べてないけどさw
昭和40年代前半にイナゴの佃煮は時々食べました。あとツクシ。
大根飯ですね
連続テレビ小説「ごちそうさん」で「興亜パン」を取り上げていました。
すいとんから戦時中の暮らしに繋げるの
クッキングパパとダブる笑