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いつも楽しませていただいています。列車の音だけでなく当時の駅や切符の写真もよく保存されました。もう当時の列車旅は体験しようもないですが、こうして動画で振り返るしかないのです。急行ニセコがたどった函館本線も今では廃止の議論がされているくらいで、この現実は悲しくなります。鉄道は単なる移動手段ではなく旅を楽む大切な時間を提供していたと改めて感じます。
昔の録音テープに時刻表、切符類にスタンプなど、保存というよりも、捨てるに捨てられずに眠っていたものばかりです。自分が他界してゴミとして処分される前にスライドショーという形で一つにまとめ、多くの方に鑑賞して頂けて嬉しい限りです。
いつも懐かしく聞かせていただいております。函館駅での連絡船からの乗り継ぎ、遠い昔の記憶となってしまいました。おおぞら1号釧路行き(滝川経由)北海号網走行き(夏季臨時)ニセコ1号札幌行き(小樽経由)。3本の優等列車が並んだホームは活気がありましたね。また、ヤマ線も元気でしたね。森のいかめし、長万部のかにめし、忘れられません。
「おおぞら」「おおとり」「宗谷」が発車する昼の12時前のゴールデンタイムと同様の活気がありましたね。発車を待つ長い編成の気動車がエンジン音を響かせ、煙を上げている様は壮観でした。そんな眺めも遠い昔のことになってしまいました。幸い「いかめし」と「かにめし」は今でも食べられますので、昔を偲びつつ列車に揺られながら味わいたいです。
48年前大学生の時に北海道時刻表を持って夏休み1か月かけて北海道1周した時にニセコ号は乗った記憶があります。当時は札幌拠点に稚内、網走、根室、函館方面に夜行急行もあった記憶があります。青春18キップでお金のない学生にとっては節約のため夜行急行を宿泊代わりに利用したものです。
周遊券で夜行急行に何度車中泊したことか・・・。節約と言うよりは、宿の手配が面倒だったということもありました。パソコンやスマホで宿がとれる時代ではなく、常に10円玉を多めに持ち歩き、公衆電話から問い合わせして「安い部屋を・・・」などと交渉するのは苦手でしたし、不安もありました。車中泊は気軽なうえ、好きで夜汽車の旅を楽しんだものでした。
先日札幌駅へ行きましたが、新幹線の準備工事が始まっていました。駅前も変わり、電車もバンバン走ってました。東京と変わらない風景になり、かつて気動車急行が走ったいた時代と全然違う街になったなと感じました
札幌駅もしばらく訪れておりませんが、いろいろと変わったことと思います。気動車急行は消滅し、普通列車も大部分が近距離の電車になり、昔よりも頻繁に発着するようになりました。工事が遅れているとはいえ、やがて新幹線も乗り入れ、時代はどんどん移り変わっていくのですね。
いつも音声とその時の時刻表のアップ、有難う御座います。車掌さんの音声も美しく、いつも聞きいっています。時刻表アップが有難いです、小生、このニセコ号も70年代に札幌まで乗車したこともありました。元カニ族の一員として懐かしい限りです。この春、やっとのことで札幌と小樽を訪問することが出来ました。小樽では、過去から訪問したいと思っていた、手宮の鉄道博物館(正式名称 小樽市総合博物館本館)を訪問することができ、懐かしさのあまり感涙でした。小樽運河が美しく整備され、一日ゆっくり小樽で過ごしました。懐かしい!!
小樽、いい街ですね。古いものを簡単に撤去せず、昔の建物も線路も残っていて一日のんびり過ごせますね。一人で、あるいは母親を連れて何度か訪れています。コロナ以降、もう久しく訪れておりませんが思い出すと懐かしいです。遠い昔、整備される前の小樽運河に夜、訪れた時はなんだか怖かった記憶があります。
急行ニセコ1号の停車駅を見ていると、いかに当時の特急が特別急行であるかを実感します。
急行は停車するけれど特急は通過する・・・そんな役割分担ができていましたね。昔はそれだけ鉄道に乗る人が多かったのですね。
いつも貴重な音源等アップして頂きありがとうございます。大学は函館でしたので何回か乗車しました。青函トンネル1番列車、青函連絡船最終船にも乗車しました。その当時の記念切符も残っています。北海道を離れてはや40年、実家もなくなりもう行くことはないと思います。UP主さんの作品は、昔を思い出させてくれますね。これからも製作頑張ってください。応援しています。
この少し前のSL時代はC62重連の長大列車として運行されていました。急行ニセコと聞くとどうしてもその時代を思い出してしまいます。このDC急行ニセコも今では貴重な記録になってしまいました。函館本線すら存続が危ぶまれているくらいですからこれからも記録は残していただきたいです。
やはり急行「ニセコ」と言えば客車列車の方が注目されていましたね。14系に置き換えられてからもしばらくは存続していました。この録音時、気動車の急行「ニセコ」は廃止が目前でしたが、鉄道ファンで賑わいをみせることもなく、ひっそりと姿を消していった感じです。C62重連の「ニセコ」とは対照的ですね。
いつも素敵な音声をありがとうございます!青函の夜行便を降りてホームに向かうと、気動車が3編成、薄暗い中で豪音を響かせていて、そこに多くの乗客が向かって行く光景が目に焼き付いています。
青函連絡船を降りて長い通路を渡り、階段を下って函館駅のホームに降り立った時の印象は、きっと多くの方の脳裏に刻まれていることと思います。そんな光景を思い出していただけましたら嬉しいです。
効率厨からすると“こんな朝早い急行なんて意味ない”と必ず言うパターンしかし青函連絡船を知ってればこの列車の存在意義がわかる
青森が0時頃、函館が4時頃ならなんとか少しは寝られますね。夜中の2時、3時頃に乗り換えが発生しないように考慮してダイヤを作ったことと思います。
青函連絡船の1便からの北海・ニセコの流れ、懐かしいです。これが北海道へ渡る朝の黄金ルートでしたね。夜のすずらん・43列車も夜の代表的なルートで、両方乗車しました。時刻表のページが周遊券を使う旅人には効率的な接続だったと思います。当時は乗り継ぎの乗客が多く、自由席のいい場所を確保する為、青函連絡船からホームまでは大きいリュックを背負って走っていたので構内放送はあまり聞いてませんでした。中学2年時と高校時代の夏の一人旅の思い出です。
紹介する列車だけではなく、可能な限り時刻表の紙面を広く俯瞰できるような画面にしたいと常々思っております。広い紙面を取り込もうとすると、どうしても不鮮明になってしまうので、なかなか思い通りにはいかないのですが・・・連絡船の夜行便から乗り継ぎの旅を何度もされていたことと思います。早朝、連絡船を降りて眠い目で函館駅のホームに降り立つと、気動車のアイドリング音と朝の冷気で身が引き締まるようでした。「早く青函トンネルができて、夜行列車に乗ったまま北海道に渡れたら・・・」とその時は思ったものでした。やがて「北斗星」などでそれが実現したのですが、「北斗星」も「はまなす」もなくなってしまった今、早朝の函館駅での乗り継ぎを懐かしく思い出します。
急行ニセコ、同じ列車愛称で気動車と客車運用があったのも、この当時ならではですね。
「すずらん」「狩勝」「大雪」など夜行急行は客車でしたが、この頃すでに昼間の客車急行は全国的に見ても少なくなっていましたね。
宗谷と違って余市にも停まるのか
毎回楽しく拝聴しています。今回は函館本線余市経由の急行ニセコ1号ですね。青函連絡船11便と1便の深夜便を受けて、特急おおぞら号や臨時列車の特急北海号にわずかに遅れて函館駅を発車するものの、気動車急行にしてはなかなか快速で札幌まで所要5時間1分で、大沼駅や大沼公園駅など観光客がいそうな駅も通過して行きますね。先に述べましたが本当にニセコ1号に乗車していたとしたら席を確保した後で駅舎に舞い戻って牛乳と食パン1斤とバタージャムなどを買い求めて、その日の食料とする貧乏旅行だったでしょうね。その意味でも食堂車連結の特急列車は縁がありませんでした。札幌駅7番ホーム到着後も、千歳線はさておき、滝川経由の釧路行き気動車急行大雪3号や、天北線廻りの気動車急行天北号など、乗り換え列車も充実?していましたね。個人的にニセコ1号から乗り換える機会があれば、今は短縮された札沼線の今は無き新十津川行き普通列車に乗車して、終点新十津川駅から少々歩いた新十津川村役場前バス停から連絡する路線バスに乗車して滝川駅前に向かっていたと思います。懐かしい録音と時刻表を交えた動画の、編集制作アップロード作業誠にありがとうございました。次は何処だろうかと気長に待ちたいと思います。
いつもじっくりとご観賞頂き、丁寧なコメントを有難うございます。本来ならば5時間1分の旅なのですが、始発駅発車後と、終着駅到着前の放送を7分程度にまとめたスライドショーから、空想で夢を広げて頂き感激です。過ぎ去った遠い昔に戻って、ご一緒に北海道の大地を列車で駆け巡っているような気さえしてまいります。
懐かしい!歴史深い!
懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
いつも楽しく拝聴しております。ありがとうございます。9時10分を「くじじっぷん」と発音されてるのにちょっと感動
ご視聴とコメントありがとうございます。人それぞれ様々な感じ方をして頂けるものなのですね。
4:24小樽駅の北海道鉄道100年の垂れ幕が気になりました。気になって検索したら、北海道鉄道100年記念で梅小路のC56160号機がやって来て、11月22日から30日まで函館本線 小樽-札幌運転されたんですね。初めての渡道が翌年8月でした。復活C62ニセコだと張碓銭函の海岸線は楽しめないから、これ乗りたかったなぁ。
記念列車の写真をインターネットで見ることができますね。小樽-札幌間でこういう列車を走らせることができた時代だったのですね。
昭和54年にニセコから札幌まで乗車したけど、4両しかなかった記憶。
当時は時折減車がありましたね。新聞で国鉄叩きの記事が多かった時代、北海道での減車の記事も読んだことがあります。
4:08 函館発旭川行の普通列車があるのが、時代を感じますね(*^^*)この頃は函館が北海道の玄関口でしたね(^^)d
長距離客車鈍行は主に荷物車のためだったようですね。翌月の改正では千歳空港駅が開業し、いよいよ札幌中心のダイヤへと移り変わっていきますね。
「普通列車」のアクセントが良いですね。
夏季限定で復活すれば乗る人いっぱいいると思います😂
山線経由の臨時特急が季節によって走っていますが、それほど混んでいないとの情報もありますね。時間帯のせいか、特急という設定なのに時間がかかるせいか・・・でも山線が廃止になる前に一度乗ってみたいです。
当時の札幌着の連絡列車のダイヤを見てビックリ!!。この列車が到着した後に函館本線、千歳線とも普通列車の接続が現在だったら10~15分くらいであるのに平気で1時間近く待たされてようやく乗れるくらいに本数が少ないとは・・・(゚o゚;。その分当時の国鉄は遠距離を結ぶ役割に重点を置いていて函館から1便、11便の連絡船からの接続列車が特急おおぞら1号、特急北海だけで収まらずに当列車も運転させて補っていたんですねぇ。札幌~旭川についても当時は石北本線、宗谷本線方面への急行列車が多かったところで現在みたいに1時間に1本のヘッドでライラック、カムイが運転されている状況とは異なって急行列車と2時間に1本くらいの割合で北海道で唯一のL特急いしかりが運転されていたんですね。でも当時のああいったダイヤの組み方が懐かしいし味があるのを感じますね♪
北斗星が三往復あったのはおおぞら、北海、ニセコを意識していたのかな
@@user-up1sf4xf8p さん 北斗星のデビュー当時は2往復でした。満席だったので増便で臨時1往復を走らせていたのが定期列車化したのです。
昔は札幌周辺でも普通列車の本数が少なかったですね。札沼線も少なかったです。例えば札幌から江別や千歳に行く場合でも、普通列車がなく、しょうがなく急行券を買っていた人もいたことでしょう。
昭和52年中学卒業旅行で、深川ー青森の帰りで乗りました。懐かしいなー。あ、札幌で時間潰しでレコード店で宇宙戦艦ヤマトのレコードを買ったな~。
乗り継ぎ時間を利用して買ったレコードまで覚えているのですね。旅の記憶って不思議なものです。
もう一本が客車のほうですか?ニセコ四号は根室発じやない?
この時はすでに下り奇数号、上り偶数号になっていました。下り1号と上り4号が気動車、下り3号と上り2号が客車でした。かつては根室始発だった「ニセコ2号」もこの時点では根室→札幌が「狩勝4号」、札幌→函館が「ニセコ4号」でした。
久しぶりに拝聴しました😄今の時代に、ちょい鈍速だけど割安に移動できる急行列車は受けると思うんですよね…🤔
特急の指定席化を進めている現状を見ると、自由席主体で「乗車券、急行券を拝見いたします・・・」という手間さえかけたくないのかなぁ・・・などと考えてしまいます。停車駅が少なく指定席主体の特急、停車駅が多く自由席主体の急行と昔は選択肢がありました。
C62時代の「ニセコ」に乗車した事がありますが、1.2号車が荷物車で、デッキから機関車を見る事が、出来なかったなぁ~😅
C62牽引の「ニセコ」には乗ったことがありませんでした。羨ましい。
冒頭の編成表を見て、あぁ、この頃にはすでに相方の上りは根室始発ではなくなっていたんだ。と思ってしまいました...
そうですね。かつては根室始発の「ニセコ2号」が函館に停泊した翌朝の運用でしたね。これまた遠い昔になってしまいました。
5時間かかっての運行か。車掌さんの放送は丁寧ですねと網走回り釧路行き大雪と言うのも長距離列車の代名詞ですね。
特急「北海」でも4時間25分ですからまあ健闘しているかと思います。
北海は旭川駅発着時で6時間はかかっていなかったかなです。ふと思いました。
停車駅だけ見れば特急並みですね。「大沼」「大沼公園」通過か。
まだ朝が早く、大沼公園駅では観光客の乗降が見込めないので通過にしたものと思います。
いつも楽しませていただいています。列車の音だけでなく当時の駅や切符の写真もよく保存されました。
もう当時の列車旅は体験しようもないですが、こうして動画で振り返るしかないのです。
急行ニセコがたどった函館本線も今では廃止の議論がされているくらいで、この現実は悲しくなります。
鉄道は単なる移動手段ではなく旅を楽む大切な時間を提供していたと改めて感じます。
昔の録音テープに時刻表、切符類にスタンプなど、保存というよりも、捨てるに捨てられずに眠っていたものばかりです。
自分が他界してゴミとして処分される前にスライドショーという形で一つにまとめ、多くの方に鑑賞して頂けて嬉しい限りです。
いつも懐かしく聞かせていただいております。函館駅での連絡船からの乗り継ぎ、遠い昔の記憶となってしまいました。おおぞら1号釧路行き(滝川経由)北海号網走行き(夏季臨時)ニセコ1号札幌行き(小樽経由)。3本の優等列車が並んだホームは活気がありましたね。また、ヤマ線も元気でしたね。森のいかめし、長万部のかにめし、忘れられません。
「おおぞら」「おおとり」「宗谷」が発車する昼の12時前のゴールデンタイムと同様の活気がありましたね。
発車を待つ長い編成の気動車がエンジン音を響かせ、煙を上げている様は壮観でした。
そんな眺めも遠い昔のことになってしまいました。
幸い「いかめし」と「かにめし」は今でも食べられますので、昔を偲びつつ列車に揺られながら味わいたいです。
48年前大学生の時に北海道時刻表を持って夏休み1か月かけて北海道1周した時にニセコ号は乗った記憶があります。
当時は札幌拠点に稚内、網走、根室、函館方面に夜行急行もあった記憶があります。青春18キップでお金のない学生にとっては節約のため夜行急行を宿泊代わりに利用したものです。
周遊券で夜行急行に何度車中泊したことか・・・。節約と言うよりは、宿の手配が面倒だったということもありました。パソコンやスマホで宿がとれる時代ではなく、常に10円玉を多めに持ち歩き、公衆電話から問い合わせして「安い部屋を・・・」などと交渉するのは苦手でしたし、不安もありました。
車中泊は気軽なうえ、好きで夜汽車の旅を楽しんだものでした。
先日札幌駅へ行きましたが、新幹線の準備工事が始まっていました。駅前も変わり、電車もバンバン走ってました。東京と変わらない風景になり、かつて気動車急行が走ったいた時代と全然違う街になったなと感じました
札幌駅もしばらく訪れておりませんが、いろいろと変わったことと思います。
気動車急行は消滅し、普通列車も大部分が近距離の電車になり、昔よりも頻繁に発着するようになりました。
工事が遅れているとはいえ、やがて新幹線も乗り入れ、時代はどんどん移り変わっていくのですね。
いつも音声とその時の時刻表のアップ、有難う御座います。車掌さんの音声も美しく、いつも聞きいっています。時刻表アップが有難いです、小生、このニセコ号も70年代に札幌まで乗車したこともありました。元カニ族の一員として懐かしい限りです。
この春、やっとのことで札幌と小樽を訪問することが出来ました。小樽では、過去から訪問したいと思っていた、手宮の鉄道博物館(正式名称 小樽市総合博物館本館)を訪問することができ、懐かしさのあまり感涙でした。小樽運河が美しく整備され、一日ゆっくり小樽で過ごしました。懐かしい!!
小樽、いい街ですね。古いものを簡単に撤去せず、昔の建物も線路も残っていて一日のんびり過ごせますね。
一人で、あるいは母親を連れて何度か訪れています。
コロナ以降、もう久しく訪れておりませんが思い出すと懐かしいです。
遠い昔、整備される前の小樽運河に夜、訪れた時はなんだか怖かった記憶があります。
急行ニセコ1号の停車駅を見ていると、いかに当時の特急が特別急行であるかを実感します。
急行は停車するけれど特急は通過する・・・そんな役割分担ができていましたね。
昔はそれだけ鉄道に乗る人が多かったのですね。
いつも貴重な音源等アップして頂きありがとうございます。
大学は函館でしたので何回か乗車しました。
青函トンネル1番列車、青函連絡船最終船にも乗車しました。その当時の記念切符も残っています。
北海道を離れてはや40年、実家もなくなりもう行くことはないと思います。
UP主さんの作品は、昔を思い出させてくれますね。
これからも製作頑張ってください。応援しています。
この少し前のSL時代はC62重連の長大列車として運行されていました。
急行ニセコと聞くとどうしてもその時代を思い出してしまいます。
このDC急行ニセコも今では貴重な記録になってしまいました。
函館本線すら存続が危ぶまれているくらいですからこれからも記録は残していただきたいです。
やはり急行「ニセコ」と言えば客車列車の方が注目されていましたね。
14系に置き換えられてからもしばらくは存続していました。
この録音時、気動車の急行「ニセコ」は廃止が目前でしたが、鉄道ファンで賑わいをみせることもなく、ひっそりと姿を消していった感じです。C62重連の「ニセコ」とは対照的ですね。
いつも素敵な音声をありがとうございます!青函の夜行便を降りてホームに向かうと、気動車が3編成、薄暗い中で豪音を響かせていて、そこに多くの乗客が向かって行く光景が目に焼き付いています。
青函連絡船を降りて長い通路を渡り、階段を下って函館駅のホームに降り立った時の印象は、きっと多くの方の脳裏に刻まれていることと思います。
そんな光景を思い出していただけましたら嬉しいです。
効率厨からすると
“こんな朝早い急行なんて意味ない”と必ず言うパターン
しかし
青函連絡船を知ってれば
この列車の存在意義がわかる
青森が0時頃、函館が4時頃ならなんとか少しは寝られますね。夜中の2時、3時頃に乗り換えが発生しないように考慮してダイヤを作ったことと思います。
青函連絡船の1便からの北海・ニセコの流れ、懐かしいです。これが北海道へ渡る朝の黄金ルートでしたね。
夜のすずらん・43列車も夜の代表的なルートで、両方乗車しました。時刻表のページが周遊券を使う旅人には効率的な接続だったと思います。
当時は乗り継ぎの乗客が多く、自由席のいい場所を確保する為、青函連絡船からホームまでは大きいリュックを背負って走っていたので構内放送はあまり聞いてませんでした。中学2年時と高校時代の夏の一人旅の思い出です。
紹介する列車だけではなく、可能な限り時刻表の紙面を広く俯瞰できるような画面にしたいと常々思っております。広い紙面を取り込もうとすると、どうしても不鮮明になってしまうので、なかなか思い通りにはいかないのですが・・・
連絡船の夜行便から乗り継ぎの旅を何度もされていたことと思います。
早朝、連絡船を降りて眠い目で函館駅のホームに降り立つと、気動車のアイドリング音と朝の冷気で身が引き締まるようでした。「早く青函トンネルができて、夜行列車に乗ったまま北海道に渡れたら・・・」とその時は思ったものでした。
やがて「北斗星」などでそれが実現したのですが、「北斗星」も「はまなす」もなくなってしまった今、早朝の函館駅での乗り継ぎを懐かしく思い出します。
急行ニセコ、同じ列車愛称で気動車と客車運用があったのも、この当時ならではですね。
「すずらん」「狩勝」「大雪」など夜行急行は客車でしたが、この頃すでに昼間の客車急行は全国的に見ても少なくなっていましたね。
宗谷と違って余市にも停まるのか
毎回楽しく拝聴しています。今回は函館本線余市経由の急行ニセコ1号ですね。
青函連絡船11便と1便の深夜便を受けて、特急おおぞら号や臨時列車の特急北海号にわずかに遅れて函館駅を発車するものの、気動車急行にしてはなかなか快速で札幌まで所要5時間1分で、大沼駅や大沼公園駅など観光客がいそうな駅も通過して行きますね。先に述べましたが本当にニセコ1号に乗車していたとしたら席を確保した後で駅舎に舞い戻って牛乳と食パン1斤とバタージャムなどを買い求めて、その日の食料とする貧乏旅行だったでしょうね。その意味でも食堂車連結の特急列車は縁がありませんでした。
札幌駅7番ホーム到着後も、千歳線はさておき、滝川経由の釧路行き気動車急行大雪3号や、天北線廻りの気動車急行天北号など、乗り換え列車も充実?していましたね。個人的にニセコ1号から乗り換える機会があれば、今は短縮された札沼線の今は無き新十津川行き普通列車に乗車して、終点新十津川駅から少々歩いた新十津川村役場前バス停から連絡する路線バスに乗車して滝川駅前に向かっていたと思います。
懐かしい録音と時刻表を交えた動画の、編集制作アップロード作業誠にありがとうございました。次は何処だろうかと気長に待ちたいと思います。
いつもじっくりとご観賞頂き、丁寧なコメントを有難うございます。
本来ならば5時間1分の旅なのですが、始発駅発車後と、終着駅到着前の放送を7分程度にまとめたスライドショーから、空想で夢を広げて頂き感激です。
過ぎ去った遠い昔に戻って、ご一緒に北海道の大地を列車で駆け巡っているような気さえしてまいります。
懐かしい!歴史深い!
懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
いつも楽しく拝聴しております。ありがとうございます。
9時10分を「くじじっぷん」と発音されてるのにちょっと感動
ご視聴とコメントありがとうございます。人それぞれ様々な感じ方をして頂けるものなのですね。
4:24小樽駅の北海道鉄道100年の垂れ幕が気になりました。気になって検索したら、北海道鉄道100年記念で梅小路のC56160号機がやって来て、11月22日から30日まで函館本線 小樽-札幌運転されたんですね。初めての渡道が翌年8月でした。復活C62ニセコだと張碓銭函の海岸線は楽しめないから、これ乗りたかったなぁ。
記念列車の写真をインターネットで見ることができますね。
小樽-札幌間でこういう列車を走らせることができた時代だったのですね。
昭和54年にニセコから札幌まで乗車したけど、4両しかなかった記憶。
当時は時折減車がありましたね。
新聞で国鉄叩きの記事が多かった時代、北海道での減車の記事も読んだことがあります。
4:08 函館発旭川行の普通列車があるのが、時代を感じますね(*^^*)
この頃は函館が北海道の玄関口でしたね(^^)d
長距離客車鈍行は主に荷物車のためだったようですね。
翌月の改正では千歳空港駅が開業し、いよいよ札幌中心のダイヤへと移り変わっていきますね。
「普通列車」のアクセントが良いですね。
夏季限定で復活すれば乗る人いっぱいいると思います😂
山線経由の臨時特急が季節によって走っていますが、それほど混んでいないとの情報もありますね。
時間帯のせいか、特急という設定なのに時間がかかるせいか・・・でも山線が廃止になる前に一度乗ってみたいです。
当時の札幌着の連絡列車のダイヤを見てビックリ!!。
この列車が到着した後に函館本線、千歳線とも普通列車の接続が現在だったら10~15分くらいであるのに平気で1時間近く待たされてようやく乗れるくらいに本数が少ないとは・・・(゚o゚;。
その分当時の国鉄は遠距離を結ぶ役割に重点を置いていて函館から1便、11便の連絡船からの接続列車が特急おおぞら1号、特急北海だけで収まらずに当列車も運転させて補っていたんですねぇ。
札幌~旭川についても当時は石北本線、宗谷本線方面への急行列車が多かったところで現在みたいに1時間に1本のヘッドでライラック、カムイが運転されている状況とは異なって急行列車と2時間に1本くらいの割合で北海道で唯一のL特急いしかりが運転されていたんですね。
でも当時のああいったダイヤの組み方が懐かしいし味があるのを感じますね♪
北斗星が三往復あったのはおおぞら、北海、ニセコを意識していたのかな
@@user-up1sf4xf8p さん 北斗星のデビュー当時は2往復でした。満席だったので増便で臨時1往復を走らせていたのが定期列車化したのです。
昔は札幌周辺でも普通列車の本数が少なかったですね。札沼線も少なかったです。
例えば札幌から江別や千歳に行く場合でも、普通列車がなく、しょうがなく急行券を買っていた人もいたことでしょう。
昭和52年中学卒業旅行で、深川ー青森の帰りで乗りました。懐かしいなー。あ、札幌で時間潰しでレコード店で宇宙戦艦ヤマトのレコードを買ったな~。
乗り継ぎ時間を利用して買ったレコードまで覚えているのですね。旅の記憶って不思議なものです。
もう一本が客車のほうですか?
ニセコ四号は根室発じやない?
この時はすでに下り奇数号、上り偶数号になっていました。
下り1号と上り4号が気動車、下り3号と上り2号が客車でした。
かつては根室始発だった「ニセコ2号」もこの時点では根室→札幌が「狩勝4号」、札幌→函館が「ニセコ4号」でした。
久しぶりに拝聴しました😄
今の時代に、ちょい鈍速だけど割安に移動できる急行列車は受けると思うんですよね…🤔
特急の指定席化を進めている現状を見ると、自由席主体で「乗車券、急行券を拝見いたします・・・」という手間さえかけたくないのかなぁ・・・などと考えてしまいます。
停車駅が少なく指定席主体の特急、停車駅が多く自由席主体の急行と昔は選択肢がありました。
C62時代の「ニセコ」に乗車した事がありますが、1.2号車が荷物車で、デッキから機関車を見る事が、出来なかったなぁ~😅
C62牽引の「ニセコ」には乗ったことがありませんでした。羨ましい。
冒頭の編成表を見て、あぁ、この頃にはすでに相方の上りは根室始発ではなくなっていたんだ。と思ってしまいました...
そうですね。かつては根室始発の「ニセコ2号」が函館に停泊した翌朝の運用でしたね。
これまた遠い昔になってしまいました。
5時間かかっての運行か。車掌さんの放送は丁寧ですねと網走回り釧路行き大雪と言うのも長距離列車の代名詞ですね。
特急「北海」でも4時間25分ですからまあ健闘しているかと思います。
北海は旭川駅発着時で6時間はかかっていなかったかなです。ふと思いました。
停車駅だけ見れば特急並みですね。「大沼」「大沼公園」通過か。
まだ朝が早く、大沼公園駅では観光客の乗降が見込めないので通過にしたものと思います。