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盛親は司馬遼太郎の「戦雲の夢」を読んで大好きになりました。作品への思い入れが盛親への思い入れになっているのかもしれません。それにしても関ヶ原で心ゆくまで采配を振らせてみたかった将の一人です。
小学生の時のクラスメートに長宗我部さんがいらっしゃいました。 当時はまだ歴史にさほど興味がなかったので、出自の話は聞いたりしませんでしたが『長宗我部さんを調べる』が、立派な自由研究になりましたね😁
長宗我部盛親が昔から好きなのですごく嬉しいです。
色々言われてるけど、ほとんど戦の経験もないのに幕府最強の藤堂隊を戦闘不能に追い込んだのはマジですごいと思う。
長宗我部大河ドラマで見たいわあ山内一豊より長宗我部親子を大河で見たいよ
祖父の国親は細川高国から、父の元親は細川晴元、兄は信長から信親と来て豊臣家の「秀」じゃなくその取次の増田長盛の「盛」から諱を貰うってのがなんか長宗我部家の家の序列の低さが垣間見えて辛い そこは秀親か吉親、もしくは秀次の「次」から親次とかだろうに…秀頼は国替えに関しては四国を要求した(説?)とかあるけどそこは盛親からなんかいい話を聞いてたのか盛親の心象良くしたかったのかと思うと興味深い
南部とか地方の外様大名はみんなそんな感じだったので……政権での実質的な権力で言えば増田長盛もトップクラスですし()
盛親は元々庶子扱いだし元親も家督継がせるなんて考えてなかっただろうしな実際信親が戦死したあとも従兄弟の香宗我部家から養子迎えようとしたぐらいだし
4:25 仙石秀久は味方を見捨てて讃岐に逃げたために秀吉の怒りを買った。この失策(長宗我部信親をはじめの味方を死なせる)を秀吉に咎められた秀久は讃岐の領を召し上げの上、高野山に追放されるのである。
その息子(仙石秀範)と十河存英(仙石の采配で巻き添え食った十河存保の子)と出会った時一緒に組むことになるってどんな心境だったんだろうな…くっそ気まずそう 木曾義昌(武田滅亡時の裏切り者)の子の義春と御宿勘兵衛・真田信繁とかも気まずそう
短期だったり粗暴なイメージがあるがそうゆうのは後年の創作で割としっかりした領主だった可能性?京都での暮らしの様子も悪くなかったみたいなのに大阪に出陣した辺り家の事をちゃんと考えてたのかもね
最後の最後まで生に執着した様は、先に散った石田三成と共通する。もしかするとこのお家再興への執念が徳川方に生かしてはおけんと危機感を抱かせたのかもしれない。
系図見て思ったんですが長宗我部4兄弟は春日局といとこなんですね。
香宗我部氏が春日局の仲介で譜代の堀田氏に召し抱えられたり実際に親戚付き合いしてたみたいです。
よりによって藤堂高虎と戦うことになり、袂を分かった家臣同士がぶつかり合うのは余りに悲しい運命の悪戯と呼ぶ他ないですね
本当にそうですね。知り合い同士でも辛いのに、元は同じ主君に仕えていた家臣同士、思い切ってわりきっても心理的にかなり厳しいですよね!
@@cancan5892元家臣が高虎に支えた経緯を考えると少なくとも盛親は彼らを恨んでなかったでしょうしね敗戦後に自らの軍勢と藤堂隊の奮戦を讃える盛親の姿勢にもそれが現れてる気がしています
木村隊の残党とかもまとめて次の日の天王寺 岡山の戦い参加してたらもうちょい評価高かっただろうなぁそれも無理なぐらい壊滅してたならしゃーないけど
結論 全部仙石秀久のせい
長宗我部盛親の実像は動画の通りなのかと思う。長宗我部家の不運は優秀な外交官に恵まれなかったこと。優秀な外交官が居れば土佐一国に押し込められず、信親も失わず、幕末には長州薩摩以上に雄藩として活躍しただろう。坂本龍馬はじめ勤王志士達も脱藩せずに明治政府の重要人物として生き残っていた可能性もある。歴史のifだけど
丸橋忠弥?あの由比正雪に従って江戸で反乱を起こそうとした?あれ長曽我部の一族だなんて知らなかったわ-
本人が勝手に名乗っていただけという説もある
親族に春日局がおり、その縁で徳川に付けば家の再興もあったかもしれませんね。捕縛後徳川秀忠直々の詮議があったというのも関ヶ原合戦後の長宗我部氏に対する処分が重すぎたこともあり春日局より助命嘆願があったのかもしれませんね。
桑名吉成は浪人時代の盛親に援助もしているし、盛親の最後の戦いに身を持って花を持たせたんだと思う。表に出さないけど分かっててそれを許した藤堂家も懐が深い。
流石に徳川側に戦ってたら小藩ぐらいにはなれたやろ
なんもせんのに土佐一国を得た山内一豊は好かん😮
大河ドラマ長宗我部元親 盛親で長宗我部氏の興亡観たくなった
土佐一国もらったのに裏切る容堂
東軍諸将のまとめ役もしたし順当では?土佐自体難治で低く見られていただろうし
@@ポリさん-e5uまぁ家臣が突出したって感じやし…板垣退助とか。
家康に城を明け渡す事で、裏切らない確証を与えて家康を安心させた事で諸将が真似(城の明け渡し)をする流れを作りまた、これが高評価となり土佐を貰える事になったのです。
関ヶ原の毛利勢だったり若江の木村重成だったりとことん味方のせいで敗走する人生…。にしてもどうして任官がないまま家督相続したんでしょうかね
久武親直がさほど悪い奴でもなかった……だと……?!今回は目から鱗が落ちまくりですね。この話の通りなら、京都で復帰のために長年活動していたことも分かりますし、ぐだぐだだった毛利家より余程しっかりしていた様に感じます。長男を亡くしてバランスが崩れて、それでも頑張って体勢を立て直そうしていたものの、ついには墜落してしまった……という感じなのかなぁ、長宗我部家は。
長宗我部、四国統一間近までいったので強大なイメージがあるのですが実際は当主権力意外と弱いんですよね。久武親直のイメージなどは前提を履き違えた結果の産物だと思っています。
全部仙石秀久のせい。
外道で陰湿な山内は好かん
長兄信親は1566年生まれでは(´・ω・`)?戸次川の戦いは旧暦は1586年で新暦では1587年なんだよな😅
藤堂勢に無駄な被害を出させたとして渡辺了は奉公構されることに成るんだけど動画を観ると御家(藤堂家)より勝ちに拘った了が悪いのがよく判る。
山内より長宗我部のほうが藩主のほうがいいね。
高知県だと山之内はさほど評価高くないので、相対的に長宗我部の評価があるみたいですね
信長の野望では彼の活躍を考慮した能力に変えています。立派の一言です!逆に真田は一発屋感が強くどう見ても毛利勝永のが凄いので真田は低く変更補正してます
盛親は司馬遼太郎の「戦雲の夢」を読んで大好きになりました。作品への思い入れが盛親への思い入れになっているのかもしれません。
それにしても関ヶ原で心ゆくまで采配を振らせてみたかった将の一人です。
小学生の時のクラスメートに長宗我部さんがいらっしゃいました。
当時はまだ歴史にさほど興味がなかったので、出自の話は聞いたりしませんでしたが『長宗我部さんを調べる』が、立派な自由研究になりましたね😁
長宗我部盛親が昔から好きなのですごく嬉しいです。
色々言われてるけど、ほとんど戦の経験もないのに幕府最強の藤堂隊を戦闘不能に追い込んだのはマジですごいと思う。
長宗我部大河ドラマで見たいわあ
山内一豊より長宗我部親子を大河で見たいよ
祖父の国親は細川高国から、父の元親は細川晴元、兄は信長から信親と来て豊臣家の「秀」じゃなくその取次の増田長盛の「盛」から諱を貰うってのがなんか長宗我部家の家の序列の低さが垣間見えて辛い そこは秀親か吉親、もしくは秀次の「次」から親次とかだろうに…
秀頼は国替えに関しては四国を要求した(説?)とかあるけどそこは盛親からなんかいい話を聞いてたのか盛親の心象良くしたかったのかと思うと興味深い
南部とか地方の外様大名はみんなそんな感じだったので……
政権での実質的な権力で言えば増田長盛もトップクラスですし()
盛親は元々庶子扱いだし元親も家督継がせるなんて考えてなかっただろうしな
実際信親が戦死したあとも従兄弟の香宗我部家から養子迎えようとしたぐらいだし
4:25 仙石秀久は味方を見捨てて讃岐に逃げたために秀吉の怒りを買った。この失策(長宗我部信親をはじめの味方を死なせる)を秀吉に咎められた秀久は讃岐の領を召し上げの上、高野山に追放されるのである。
その息子(仙石秀範)と十河存英(仙石の采配で巻き添え食った十河存保の子)と出会った時一緒に組むことになるってどんな心境だったんだろうな…
くっそ気まずそう 木曾義昌(武田滅亡時の裏切り者)の子の義春と御宿勘兵衛・真田信繁とかも気まずそう
短期だったり粗暴なイメージがあるがそうゆうのは後年の創作で割としっかりした領主だった可能性?京都での暮らしの様子も悪くなかったみたいなのに大阪に出陣した辺り家の事をちゃんと考えてたのかもね
最後の最後まで生に執着した様は、先に散った石田三成と共通する。もしかするとこのお家再興への執念が徳川方に生かしてはおけんと危機感を抱かせたのかもしれない。
系図見て思ったんですが長宗我部4兄弟は春日局といとこなんですね。
香宗我部氏が春日局の仲介で譜代の堀田氏に召し抱えられたり実際に親戚付き合いしてたみたいです。
よりによって藤堂高虎と戦うことになり、袂を分かった家臣同士がぶつかり合うのは余りに悲しい
運命の悪戯と呼ぶ他ないですね
本当にそうですね。知り合い同士でも辛いのに、元は同じ主君に仕えていた家臣同士、思い切ってわりきっても心理的にかなり厳しいですよね!
@@cancan5892元家臣が高虎に支えた経緯を考えると少なくとも盛親は彼らを恨んでなかったでしょうしね
敗戦後に自らの軍勢と藤堂隊の奮戦を讃える盛親の姿勢にもそれが現れてる気がしています
木村隊の残党とかもまとめて次の日の天王寺 岡山の戦い参加してたらもうちょい評価高かっただろうなぁ
それも無理なぐらい壊滅してたならしゃーないけど
結論 全部仙石秀久のせい
長宗我部盛親の実像は動画の通りなのかと思う。長宗我部家の不運は優秀な外交官に恵まれなかったこと。優秀な外交官が居れば土佐一国に押し込められず、信親も失わず、幕末には長州薩摩以上に雄藩として活躍しただろう。坂本龍馬はじめ勤王志士達も脱藩せずに明治政府の重要人物として生き残っていた可能性もある。歴史のifだけど
丸橋忠弥?あの由比正雪に従って江戸で反乱を起こそうとした?あれ長曽我部の一族だなんて知らなかったわ-
本人が勝手に名乗っていただけという説もある
親族に春日局がおり、その縁で徳川に付けば家の再興もあったかもしれませんね。捕縛後徳川秀忠直々の詮議があったというのも関ヶ原合戦後の長宗我部氏に対する処分が重すぎたこともあり春日局より助命嘆願があったのかもしれませんね。
桑名吉成は浪人時代の盛親に援助もしているし、盛親の最後の戦いに身を持って花を持たせたんだと思う。表に出さないけど分かっててそれを許した藤堂家も懐が深い。
流石に徳川側に戦ってたら小藩ぐらいにはなれたやろ
なんもせんのに土佐一国を得た山内一豊は好かん😮
大河ドラマ
長宗我部元親 盛親で長宗我部氏の興亡観たくなった
土佐一国もらったのに裏切る容堂
東軍諸将のまとめ役もしたし順当では?土佐自体難治で低く見られていただろうし
@@ポリさん-e5uまぁ家臣が突出したって感じやし…
板垣退助とか。
家康に城を明け渡す事で、
裏切らない確証を与えて家康を安心させた事で諸将が真似(城の明け渡し)をする流れを作りまた、これが高評価となり土佐を貰える事になったのです。
関ヶ原の毛利勢だったり若江の木村重成だったりとことん味方のせいで敗走する人生…。
にしてもどうして任官がないまま家督相続したんでしょうかね
久武親直がさほど悪い奴でもなかった……だと……?!
今回は目から鱗が落ちまくりですね。
この話の通りなら、京都で復帰のために長年活動していたことも分かりますし、ぐだぐだだった毛利家より余程しっかりしていた様に感じます。
長男を亡くしてバランスが崩れて、それでも頑張って体勢を立て直そうしていたものの、ついには墜落してしまった……という感じなのかなぁ、長宗我部家は。
長宗我部、四国統一間近までいったので強大なイメージがあるのですが実際は当主権力意外と弱いんですよね。
久武親直のイメージなどは前提を履き違えた結果の産物だと思っています。
全部仙石秀久のせい。
外道で陰湿な山内は好かん
長兄信親は1566年生まれでは(´・ω・`)?戸次川の戦いは旧暦は1586年で新暦では1587年なんだよな😅
藤堂勢に無駄な被害を出させたとして渡辺了は奉公構されることに成るんだけど
動画を観ると御家(藤堂家)より勝ちに拘った了が悪いのがよく判る。
山内より長宗我部のほうが藩主のほうがいいね。
高知県だと山之内はさほど評価高くないので、相対的に長宗我部の評価があるみたいですね
信長の野望では彼の活躍を考慮した能力に変えています。立派の一言です!
逆に真田は一発屋感が強くどう見ても毛利勝永のが凄いので真田は低く変更補正してます