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不期遭遇戦説って実はそんなに新しくないのですが、解説してる動画なかったから思い切ってやってみました!悲しいことに日本の軍事史研究は戦後から鈍足で日本戦史は発展途上らしい・・・だから戦史好きが増えたらもっと進むはず!という崇高な動機で動画を作ってたりする副社長なんですよ~どしどしチャンネル登録、評価、コメよろです~
普通に通説を信じていたので新鮮で面白かったです。言われてみて犠牲の数が多いことにはじめて気づきました(^-^;
戦国時代でれっきとした戦術として確立していたのは島津の「釣り野伏」かと。いわゆるおとり戦術だけど、大戦で決まりすぎている。伊東氏、大友氏、龍造寺氏を一気に弱体化させ、豊臣との戦でも長宗我部家の嫡男をやっちまうのはちょっと異常。
@@一割蕎麦さん「戦国いい話悪い話」を検索してください。面白い話がありますぞ。
史学科にいって戦史調べてえなあ
こんにちは、毎回楽しく見させていただいております。自分もつい一か月ほど前、第四次川中島の合戦の考察動画を作ったのですが、場末の者で登録者数も再生数もなかなか伸びないので便乗させていただこうかと図々しくもコメさせていただきました。何かの参考にしていただけたら幸いです。ruclips.net/video/JWAvT1qdZfc/видео.html
レベルが高い同士が色々やった結果、全く予期しない遭遇戦になったってのは凄い面白い。
まさに神のいたずら神でさえ屈指の武将の決戦を見たくて霧を立ち込めさせたと私は補完してます
兵を二つを分ける愚行をおこすのはおかしいし、妻女山は大軍が登れないし。川中島はこの時期霧が多いし、それを見越した退却の際の遭遇戦が正しいかな。じゃないと、あれだけの被害はでないよ。
山下直人動画と全く同じことコメントしてて草。ちゃんと見たんか?あ
@@00008767 暇を持て余した神々の遊び!ですね
結果漁夫の利をさらったのが織田信長、豊臣秀吉、徳川家康だよな。上杉は明治まで生き延びたけどね。
俺は新潟県に住んでいるので上杉は誇りです
上杉謙信って家臣の謀反あり一向一揆ありという領土内が疲弊してる縛りプレイの中で戦争で負けてないんだよねあれだけの統率力はほんとすごいと思う
領内で家臣の反乱が相次いでおきながら上洛やら関東出兵したり戦場でも家臣の裏切りがないのは普通に政治力もすごいと思われ
その上杉さんに「この卑怯者が!」と挑発されて正面決戦挑んだ戦国最弱さんとかは、それでもついてくる家臣や民という違う意味で壮絶な統率力を持っていますw
そりゃ本人が僧侶みたいな質素な生活(酒と儀礼用の衣装は除く)して「俺は毘沙門天の生まれ変わりだ」と現人神化しているうえに衣料原料の青苧で現金収入がガッポガッポで超低金利の融資を家臣にしてるだからよほどの馬鹿(本庄繁長さん、あんたのことですよ)じゃない限り従いますわ。
関東の諸将に見限られて、家臣たちが相次いで謀反を起こす原因になったのが臼井城の戦いでの大敗が原因だろうから、その縛りプレイに陥ったのは謙信の失態で、その後は負けもしなかったけど、勝つこともできないから、何年も越中と越後と関東を行ったり来たりして右往左往し続けてた。そこで見限られなかったことが凄いといえば凄いけど、印象としてはぎりぎりの所で辛うじて踏みとどまっていたって感じだわ。
いちごう 誰ですか??
いつも楽しく観させていただいてます。私は長野市生まれで祖先は真田の陪臣であったので、墓参りのたびに善光寺から川中島を通って松代に行っていました。不期遭遇戦は最も納得できる説です。ただいくつかお伝えしたい。妻女山はそれほど高い山ではなく、武田に包囲され兵糧攻めにされたらイチコロです。また八千から一万五千の兵力を収容して長期耐えられるようなところではない。私は寧ろ西条山城塞群の髻山に謙信が本陣を敷いた説を支持します。ここは北国街道沿いでもあり、前進基地である横山城からは松代;海津城方面は良く見えます。補給・偵察両面から最適の場所です。横山城から丹波島の渡しを通ったとして、謙信の機動力ならば一刻で川中島に到達したでしょう。後世、西条山が妻女山と書かれたことによって間違われたと考える方が信憑性が高いように思えます。不期遭遇戦は互いの示威行動か威力偵察が深い霧の中で出会ったことから始まったのでは無いかと想像しています。今は少なくなりましたが、昔の善光寺平の朝霧は深く、視界が3−5m程しかなかった経験が幾度かあります。また霧の中では音は吸収されますから近距離にならないと気づかない。古戦場はその場所だけでなく、周囲の山から見下ろしたり、その戦のあった気象条件でみないと分からない事はたくさんありますね。それと千曲川も犀川も川筋が戦国のそれではありませんよ。川筋は時代で大きく変わりますので、そこも考証されると良いかと思います。Good Try! これからも期待しています。
ご意見ありがとうございます!非常におもしろいです!!実はですね今回、妻女山論争はぶっとばして「妻女山一帯」と言ってぼかしましたwたしかに妻女山の上だけだと上杉軍は収容できないらしいですね。前衛の偵察勢がぶつかって→混戦に発展は大いにあると思います。たしかにそちらの方がありそうですね。川筋はですね~僕も深く考えてなかったのですが、一応、戦場図では千曲川の方をなるべく昔の川筋で表現させてもらいましたw正確ではないですが
返信ありがとうございます。追加ですが、威力偵察と車懸りも霧の中の不期遭遇であったために状況が分からないまま兵力を逐次投入せざるを得なかった為ではないか、と考えています。両将共に霧の発生は読んでいた可能性があり、その条件下で行動して相手に対して有利なデモンストレーションを行いたかったのかと思ってます。また信繁戦死場所と伝わる場所に典厩寺が立っていますが、場所は海津城眼前の千曲川の手前。恐らくは兵の海津城への撤収を支援して戦死したのかなぁと想像しています。以上、愚考ですお笑いください。
@@flysnafkin818 二人が霧の発生を知って、互いが行動を起こして遭遇、混戦でバラバラに戦闘ってのはありますねぇ。おそらく霧はこの戦いで重要なファクターだったと僕も考えます。なるほど!典厩寺の場所はおもしろいですねぇ。色々情報ありがとうございます!
謙信「山に登ったぞー!包囲してくれー!」信玄「いやです」なんだこれ
武田の本体が霧に紛れて横山城狙ってた説、すごく納得しました! 同数以下の兵で妻女山から追い出すのは困難だから霧に紛れての陽動なら筋が通る。そして、遭遇時に少数なのに鶴翼の陣で迎えたというのも、攻城のための包囲隊形取ってたと考えたらこれも辻褄が合います。
遭遇した瞬間、戦闘狂の謙信が本気出した気がする。
戦と酒があればなにもいらない。を地で行く謙信公w
この戦いで信繁公を失ったのが非常に痛い、、、!!!!!!!!
通説がある、とかだと思う、等断言しないところがこの動画は信用できるところですね
素晴らしい考察ですね。少数の兵力で山に籠っている多数の兵を追い落とすことが出来るはずがないので(しかも相手は政虎)啄木鳥戦法はまずあり得ないと思っていましたがこの流れなら自然です。正しいかどうかは分かりませんが、少なくとも通説とは比較にならないくらい説得力があると思います。
「二万の軍勢の一万二千で謙信が陣を取る妻女山へ仕掛け、明日卯の刻(午前六時頃)に合戦を始めると、越後勢は負けても勝っても川を越え退くでしょう。そこに御旗本組と二の備衆をもって前後から押しはさんで討ち取るようになさるのがよいでしょう」と、山本勘助が申しあげたので、、、、、、追い落とすというよりも、ある程度戦えば上杉は引くだろうから撤退さえしてくれればその道中で待ち構えてる武田本隊(謙信に気付かれないように布陣)と別動隊の残存部隊とで挟撃できるみたいな作戦だと思いますよ。
@@soreoi4074 地理的優位、数的優位にある上杉軍が「ある程度戦ったら撤退する」とは考え難いですよ。
@@anaisno1 そこは時間的猶予の話が出てくるのだと思いますよ、積雪でもしたら地理的優位は孤立となりますし、敵勢力内では数的有利もいつまでも続くものではないですからね
遭遇戦にせよ、とっさに自在に陣を整えて屈強な武田軍をフルボッコして副将や重心を次々と討ち取り、別働隊にあわせて深追いせずに見事に退いた謙信の軍神っぷりが凄すぎる。
上杉方の死傷者もかなりの数にのぼっているので、一方的ではなかったですけどね。別働隊が来てからは逆にフルボッコになってなんとか撤退した感じだと思います。
武田よりも少ない兵で自軍より大きい損害を出したのがすごいですよね
武田家にとっては正に、痛恨の戦でしたよね。 国家の柱石を次々に喪う戦だったのですから。
確かに。副将の典厩信繁、参謀の山本勘助を一度に失ったのは大きすぎる。第4次川中島合戦は武田滅亡のケチのつき始めと言ってもいいのでは。
杉田竜馬 懐かしいな!新田次郎原作の武田信玄、クライマックスが川中島の戦いだったなー🤭
歴史はそう言う俯瞰が出来るから面白いですね。ここで勝ってたら、三方ヶ原も数年早くなって、天下(信玄は目指していなかった説もありますが)もどうなっていたか分からなかったかも。個人的には、信玄が天下とってたら日本の近代化は遅れに遅れたと思いますが。
国家の柱石という概念は武田の家臣団には当てはまらないと思いますけどね。豊臣政権時代になるとすでに国家や、その運営陣に国家の柱石という概念が芽生えて表現としても使われているのを見ることができます。
「だがこの通説には疑問が残る」みたいな戦いまだまだありそう地形と一緒の説明わかりやすいですね
めちゃくちゃありますね。関ヶ原なんて良い例です
キツツキの戦法つついて、出てこなかったらどうするんやろと長年疑問やったんですがここで解決してくれるとは
天才と天才が戦ってお互い死傷者多数ってのは確かに不可解な点だし、めちゃくちゃ納得できる考察だった。天才と天才が読み合った上に起こってしまった事故みたいな感じでおもしろい
川中島の八幡原近所で生まれ住んでいるものです。この度は大変すばらしい動画をありがとうございます。いつかやるさんのおっしゃるように、あの決戦は神のいたずらだったと思います。千曲川は暴れ川でしたので当時の川の位置・形状・水量が今と大分異なると思いますが、奇しくもその川が壁となってあたかもボクシングリングのような局地的な戦場となってしまいました。暗闇から突然知らないけどよく知ってる隣のおっさんが現れたらビビるのと同じように、お互い相当混乱したことでしょう。短時間で可能な限りまともな戦闘を行う努力をした両者のすごさを実感しました。善光寺・茶臼山・海津城・千曲川・犀川と現代でも地形的な側面から歴史を楽しめる面白い町なので、地元ということを置いといても大好きな古戦場です。
海上先生の川中島解説は、非常に深いと思う。天才の戦いって常人には理解できない。
「川中島複合城塞群」・・・初見の言葉でした。近所にコンビニや相手迎撃用にミサイル基地を配したものだとか。
私もこの説がとても理に適っていると思いました。おっしゃられる通り啄木鳥はまず無いでしょうね。日本史の戦いも扱われるのであれば機会があれば”沖田畷の戦い””戸次川の戦い”も拝見してみたいですね。
ありがとうございます!
啄木鳥戦法は地形と兵数差を考えると名将が採る作戦ではない。むしろだれがこの説を創作したのか興味がある。
啄木鳥戦法で活用した霧は自軍(武田)の首を絞めもするけれど霧で身動き取れないのは上杉も同じはず!!と力説したから信玄は採用したとか…
通説では啄木鳥戦法を山本勘助が提案したとなってる。
とにかく聞きやすく分かりやすく、そして好きな事を一生懸命話している感じがあって面白いです。古代中国の解説なんかもやっていただけると嬉しいです。
副社長の戦史解説、分かりやすいし面白いので大好きです!これからも色々な戦史の解説をぜひよろしくお願いします。
大事なのはあくまで説だからどっちが正解かわからないというのは大事
現実味のある興味深い考察をいつもされていると思っておりました。海津城の周辺に砦をいくつも築いていたことは知りませんでした。他の動画や資料でもなかったと思います。大変参考になりました。
おお!川中島の戦い!自分も上杉軍が撤退途中の不期遭遇戦説だったのではと思ってますので、やはりか…と頷きながら見させて頂きました。合戦前の両軍の動きもわかりやすいですっ。
学生時代、歴史の授業だけ全然興味が持てなくて避けてきたけど、おっさんになってだんだん面白くなってきた。
甲陽軍鑑とは違ってとても面白かったです。
解説とても素晴らしかった👏江戸後期に作られた頼山陽の漢詩を聴くと合戦の様子が目に浮かびます川中島 頼山陽鞭声粛粛 夜河を過る曉に見る千兵の 大牙を擁するを遺恨なり十年 一剣を磨き流星光底 長蛇を逸す
関係ないけど、天と地との戦闘シーンメッチャカッコよかった
オンベイシラマンダヤソワカ
大河風林火山の勘助が「く、車懸かりの陣!?」ってびっくりするシーンもすこ
両軍の死傷者は4割に達し、話を聞いた今川や北条は「何て恐ろしい戦してるんだ、あんなのやったら10年はまともに動けなくなるぞ」と震え上がったとか
3%の損耗で翌年の税収が大幅減収になるのが足軽農民主力の軍の弱点ですし、4割とか…
キモ過ぎて草枯れる
9割近く戦死してる木崎原の戦いの島津…
あちちあちち 島津のやべーところは9割死亡とか幹部候補生の若手や指揮官クラスもバタバタ死んでるのに、戦の質が変わらんのが意味わからん
@@あちちあちち ま、あれは300vs3000だから(震え声
非常に面白い説です。素晴らしい!!確かに 永禄4年の川中島の9月9日早朝は濃い霧に覆われていた事実。両軍が意図せざる遭遇により、大混戦になった可能性は非常に高いと思います。上杉軍も前年の永禄3年に関東の北条氏を攻撃して長期の対陣をしているために、財政面を考慮して、川中島での全面衝突は考えていなかったのかと。謙信は京都へも行って大金使ってるし。一方、武田側も前年に今川義元死んでるため、南の駿河がゴタゴタし始めている。駿河進行の野心を考えれば、兵力温存は必須。北条側の強い要請もありの今回の川中島への出陣、上杉軍に対しての牽制のみを第一に考えていたのでは。まぁ興味は尽きませんが。
遺恨十年一剣を磨き 流星光底長蛇を逸す 場面がありありと浮かぶようで素敵な解説でした
歴史、戦史は男のロマンやね!
敵地の中の山に布陣するなんて水源退路経たれる馬謖レベルの愚かな事だから普通は攻めるんだけど、戦の天才である謙信がやったから信玄は絶対に裏があると思って攻められなかったんだよね。あの信玄にこの戦法するんだから謙信はやっぱ色んな意味で凄いわ
副社長さま。本当にわかりやすく、面白い解説ありがとうございます。いつも楽しみに観させていただいております。
車懸りの陣って、常識的にありえんなぁと思っていたが、なるほど!たぶん江戸時代あたりで謙信が神格化されてって、お話にインパクト出るから、ノリで創作されたんだろうなあ。今の漫画やアニメみたいなもんかな。となると、あと何百年も経ったら、今のアニメや漫画の話が、ホントにあったことみたいに語られるかもしれない。
素晴らしい説明で説得力がありますね。NHKの英雄たちの選択で城塞群という概念を知ったので海津城を中心とした城塞群説はすんなりと腹に落ちます。個人的には茶臼山から信玄が撤退した時点で謙信は川中島での撤退中の遭遇戦を想定していたと考えたています。その結果が不時遭遇戦における即座の少数備えの部隊による連続側面攻撃いわゆる車掛かりの陣(これにより自然、自然と側面に兵力が集中し中央が薄くなり、中央突破が容易になる)を発動できた理由だと思うからです。単なる遭遇戦にしては武田方が弟以下重臣まで戦死に対して上杉方は重臣は戦死なしと戦果に差がありすぎるからです。(武田上杉とも農兵が主体だから雑兵の死者数は考慮しません)
図解や地図にすると戦術や両軍の意図がわかりやすいありがとうございます楽しめて見れました
副社長の考察動画 わかりやすく話してくれるしおもしろいので、もっと下さい!!これからも応援します!歴史が好きになってきました♪
上杉謙信「炊煙が多いから武田は動くな。じゃあ逆にこっちから懐に飛び込んでやれ」こんな発想することが神。
自分から毘沙門天の化身を自称する人でしたから…
島津の関ヶ原敵中突破撤退の原型では
上杉謙信は桶狭間狙ってたつもりか従来だと
炊煙というと馬陵の戦いを思い出します
軍記物作者の盛り付けでしょうかね。きっと今頃さぞかし北楚笑むでいるかな。
大河ドラマ「風林火山」のラストの戦いですね。あれはあれで面白く、これはこれで興味深いです。これほどの人材が中央(京都)から離れたところで活躍してたんだから、日本て凄いなー。
当時は超地方分権だった。そのきっかけが応仁の乱
戦国のハンニバル武田信玄と戦国のスキピオ上杉謙信の戦いか。ただ信玄にとっては副官の信繁、参謀の山本勘助を失ったのは痛すぎた。この戦いが武田滅亡へ至るケチのつき始めだったのだから。
10:21 ここなんか歴史のロマンと現実に苦しんでる感じして好き
自分的には動画の説が熱くて好きなんですw
日本の戦解説面白いのでもっとしてほしいです!お願いします!
川中島の戦いの新しい見方を知れました。見てて楽しい動画でした!!車懸りの陣は中央突破戦術みたいな感じだったのですね。
昨年 仕事で此所を通りました。文字での説明や「天と地と」では今一解りませんでした。 この様に地図上で解りやすい説明は初めてです。よく分かりました。ありがとうございます。
通説のくるまがかりはまるで北朝鮮のマスゲーム軍の衝突で渋滞が一度でも起きたら全体の動きが止まりますよね
とても面白かったです。長野県に住んでいます。なぜ上杉が妻女山のようなわざわざ武田に包囲されるようなところに陣を敷いたのかずっと不思議に思っていましたが、この動画を見てなんとなくわかりました。ありがとうございました。信濃より越後の方が積雪量が多く、万が一降雪が始まれば帰路は上杉の方がより厳しくなります。上杉には決着を急ぎたい心理があったかもしれません。一方で武田も信濃の植民地兵を連れていますし、長期化は避けたかったでしょう。ただ、必ずしも決戦はしなくても良かったのではないかと思います。両者の心理に少し違いがあったこともよくわかりました。
すごく分かりやすくて納得のいく話でした。面白い❗
いや良かった!久しぶりに戦国の話で新鮮な物を聞けた気がします👍ありがとう
車がかりが戦術としたら本当に上杉謙信と信玄の刀を軍配で受け止めたってのが現実味してくる気がする
軍配で受け止めたのは本当だけど、斬りかかったのは謙信の馬廻り衆の誰それって最近分かってきたらしいです。
確かに啄木鳥戦法には矛盾がありますね。面白かったです。
勘助は客将であるからどっちに対しても得を得るような策を用いたのかもな。
車懸かりの陣で一番納得したかもしれない。絶対あり得んだろその僕が考えた最強の陣形って思ってたけど、無形の陣というか、あり得ん練度の兵を小部隊ごとに臨機応変に用いて敵指揮官までの間隙を作り出し最精鋭部隊(謙信含む)で敵部隊の指揮官狙い撃ちとかどこのチートキャラやねん。と思ったらアレキサンダーって先人居たわ。ともかく相手からしたら規則性無く繰り出される小部隊の対応に一杯一杯で、対応できても出来なくても気づいたら目の前にヘタイロイ騎兵突っ込んでくるとか悪夢でしか無いわ。これも天才にしかできない戦術で継げる人はおろか理解できる人も居らんかったかもね。この説ではほんとに勉強になります
追伸:やられる方からしたら次から次へと延々と敵小部隊が現れるから、回転式の様な車懸かりの陣に思えたのかなぁと愚考
本能型なのもアレキサンダーっぽいね
アレキサンダーも戦陣きって突入してたの謙信も同じなんだよね。
祖父が管領の危機を助けたりして各地で活躍しまっくた関東管領には天使のような名将、親父は100近い戦歴をもち管領を討ち取った戦鬼とよばれた関東管領には悪魔のような名将。こんな戦闘一家に振り回され生き残った越後国人がサイヤ人化しないはずもなく。そんなやつらを14歳で寺から呼び出された子があれよあれよと7年くらいで武力統一。得意戦法は電撃作戦とかもうこれフリーザ様やろ
おつかれさまでしたーなるほどなーこれドラマ化しないかなー
本物の歴史好きが作ったクオリティの高い動画と言うことは理解したw
アチコチで語り尽くされた事も多いけど、集め→組み合わせ→構成のセンスは好きですよ。
素晴らしい解説です!納得出来ます。
面白い!さらに内容も歴史好きでも納得いく解釈!
I’m from America, I have no idea what you’re saying, but it sounds awesome so keep up the good work
最近戦略動画こないな〜と思っていたら力作がきた!!!
謙信は統率上、最大投入戦力は12000が限界と考えていたと言いますし、部隊編成も小部隊・中隊・大隊という感じでされていたとも聞きますね。部隊単位での行動を有機的に連携させたのが車懸りの陣と。
雪が積もるから謙信は撤退を考え始めたと言ってますが確か同年11月に関東出兵してるので、どちらかと言うと信玄側が先に焦れて動いたのが決戦のきっかけになったんやろな
家の隣にコンビニと薬局の例えおもしろいw 車懸かりの陣の説明初めて知ったけど「攻撃を仕掛けては退いて、攻撃を仕掛けては退いて」というのは攻撃の説明ではなく、攻撃を受けた側の感想なのでは?と思った 相手部隊(別動隊)を撃退→別の部隊がいる→攻撃終わった?退いた?→場所空けただけで上杉郡の本陣が攻めて来た。嘘やろーっていうのを経験した武田側の奴が「上杉軍の戦術すげーぞ。次々と別の部隊が攻撃してきて意味わかんねー!」って触れ回ったんでは?と妄想
待ってました!
撤退途中に霧が晴れて、右手を見てみるとなんと武田軍が!!横槍を突かれぬように先頭から右回りに迂回しつつ随時武田軍に向けて突撃。これが車がかりだったと何かで見た気がする。
川中島はいろんな説があって面白いですね。クララは謙信全部読んでた説を紹介してましたね。
めちゃめちゃ分かりやすくてビックリしました……他の動画も楽しみにしています。
日本の戦術戦略動画いいですね。他の戦も期待してます。
NHKだかが検証した車掛かりは、将とその部下(郎党)が1ユニットで戦い褒美の為に俺が俺がが常識だった時代に家ではなく兵科ごとで戦力を分けて最前列に弓→矢を降らせたら弓が下がり鉄砲→会敵距離には通常通り槍が先頭と、陣形は敵との距離に合わせて横ではなく縦に回ったのではないかってやっててちょっと納得した。実際上杉の戦闘記録って早い時代から将と人数じゃなく兵科と人数で書かれていたし、「車懸りの陣」というそれっぽいのはあとから付いた名前で、武田の方の記録に「くるくる入れ替わるおかしな戦法」に苦戦したことしか伝わってなんですよね。
川中島の戦い(第四次)は、謎が多き戦ですね、それを推察するのも面白いものですね。大変、分かり易い動画、ありがとうございます。
甲陽軍鑑にある西條山(通説では何故か妻女山)は、「さいじょう」ではなく「にしじょう」と読むという説もありますよね。海津のすぐ南東にも西条の地名がありますが、上杉別動隊5千が布陣した善光寺の北東にある上杉謙信の築いた若槻山城も西条にあります。妻女山には後に上杉景勝が布陣している為、江戸時代に書かれた甲陽軍鑑は記録を取り違えて第四次川中島を創作してしまった可能性はあります。仮に妻女山に上杉謙信が登った場合、上杉勢1万3千という大軍は諸将ごとにその麓に広く布陣する必要性がある為、海津城の城兵と会話できそうなぐらいの距離の陣もあったでしょう。同年、上杉謙信は旧小田原城を包囲したものの、北条氏康は籠城したまま出て来ず、結局鎌倉で関東管領就任式だけを行い越後に戻っています。果たしてその直後の第四次川中島で海津城を山の上から連日眺めているだけで満足したでしょうか。甲陽軍鑑の記述通りなら後方連絡線を断たせ袋のネズミ(謙信の衆は越後への通路を止められたとえは袋に入られたるごとく也と)になってまで武田信玄の到着を待った理由は、海津城をエサに武田勢を誘き寄せて後詰決戦に持ち込む目論見だったと思われます。八幡原での合戦は不意の遭遇戦ではなく上杉謙信からすればストレスを溜め込みながら待ちに待ったお祭り会場だった事でしょう。先述の通りに若槻山城で武田信玄を待った場合も同様で、武田でも北条でもとにかく野戦に持ち込みたい一心であった事は想像に難くありません。この場合、犀川を挟んで両軍は睨み合うことになりますが、どのような合戦経緯になるのかは予想が付きません。ただ言えることは武田勢は典厩信繁を始め名だたる諸将が討ち取られ、武田信玄自身や嫡男・義信も負傷するなどの大損害を出したものの、不思議と善光寺平を保持し続けたという事実です。上杉謙信は久し振りの野戦でストレスを発散出来たので大いに満足して帰ったのでしょうかね。
そもそも飯炊きの煙で武田が動くってバれたってのも武田側の推測だろうしなあ…武田が霧が発生するという情報をキャッチしているなら当然上杉側も霧が発生するという情報をキャッチしている可能性も高い
飯炊きとか以前に内通者が居ても不思議はないだろうしね
おそらく謙信も霧は把握してたと思われます。知っていたので霧に乗じて撤退→信玄の本隊と遭遇という考察もあります
両者共に霧は把握していて、その霧の中では動かないのが常識だったから動いた事に驚いて武田側は混乱した。とか、謙信は囲まれていて武田軍から逃げられないから霧の出ているうちに逃げようとなった?けど謙信だからそんなことはないかなー
@@buuuuuuyan 逃げるのではないのですよ。善光寺平からの撤兵です。ご存知のように妙高方面は日本でも屈指の大豪雪地帯ですからね。雪に閉ざされて孤立すれば、活路は善光寺平を制圧する事ですが、まあ無理です。カンナエのローマ軍と同じくらい絶望的です。
海津城の大手門の方角というのが、越後側の方角とは反対の方角を向いていたんですよね。城の攻守を考慮し、信濃領内の城や砦や棒道への導線を円滑にしようとする機能性と合理性を考えた城構えだとされています。
車掛りの陣は「陣形」ではなく「戦術」というのはなるほど。この動画でも参考文献に挙げられてる海上知明さんは、天才クライフの「トータルフットボール」ではないか、と言ってましたね。私は、「不期遭遇戦説」ではなく、海上説、すなわち、上杉謙信の奇妙な布陣(妻女山)から謙信の意図を読み解き、謙信の武田本陣突撃を、最初から計算されつくした「敵陣突破の退却戦」とみる海上説に説得力を感じます。
日本史の授業がこんなだったら、興味持って、しっかり勉強してた気がする。
在学中に鎌倉までで終わりそう笑
面白い!リアル!情景が浮かんできました。焦ったんだろな・・・
当時は激戦地でしたが、今はとても気持ちの良い場所になっているので行ってみてくださいその後に善光寺に行き、最後は権藤で副社長が大好きな大人のお店があるので1日楽しめると思います!
現地解説でいずれ絶対いきます!なるほど~権藤ですね覚えておきます(メモメモ)
すごく納得しました
凄い面白かった。分かりやすいし聴きやすいし戦国好きだし。
海上さんが車掛かりの陣はヨハンクライフのトータルフットボールであると言っておられました。その話は面白かったです。専門の攻撃の名手、守備の名手を置かない。ポジションが無い陣形だ。全員攻撃全員守備。いろいろ面白いですね。上杉謙信に聞いてみたい。。。
チャンネルくららのあの回は面白かったですね。謙信→ウルトラマン、信玄→ゼットン?、信長→レッドキングの例えは秀逸でした。
海上先生の話しも非常に興味深いですよね。くららのあの回は謙信を語る先生の嬉しさが伝わってきてニヤニヤしてしまいますwちなみに今回の動画では海上先生ではなく乃至先生の「車懸かり」を紹介させていただきました
戦国史の戦術戦略の動画もっと見たいです!お願いします!
同感😁簡単にするところが☺️軍神~越後勢は雪にも戦にも強い~
ワイ愛知県民、茶臼山と聞いて(愛知にもあるよなぁ…)と思い調べる結果、日本全国に通称含めて200以上ある(wikipedia調べ)とのこと抹茶に挽く茶臼に似てるからって、山の名前とか案外テキトーかつ皆同じ発想で草
日本戦史は旧帝国陸軍の参謀本部や陸大が戦術教育の都合上想定を作ったので現実と乖離ができてしまっている。せっかく旧軍が無くなったのだからいろいろな意見がでることはとてもいい事だと思う。
面白かったです! 私も謙信は撤退しようとしたら武田本陣に遭遇しちゃった説に一票です。 あと、車がかりの陣は2~3隊に分けて、先行部隊が周囲を警戒している間に残りの部隊が追い越し進軍、追い越したらその部隊が周囲の警戒態勢を取り他の部隊が追い越し進軍という、交互進軍説もあってそれもありそうだなと思ってます(霧の中なので、常に周囲に警戒を張るのは大事だから)
おつかれさまでした! まってました決戦 川中島!
侍を目指している上杉謙信の大ファンです。今回の様な兵法、また別パートの剣術両方いつも楽しみながら見ています。第四次川中島の戦い、通説よりも、この動画で紹介されている戦況の方が信憑性がありますね。本当に面白いです。戦の才覚では上杉謙信の方が織田信長より上だと信じています。今後は日本史で言えば、上杉謙信と織田信長の戦いである手取川の戦いや、源平合戦にて大活躍した源義仲の倶利伽羅峠の戦い、世界史でいえばスキピオアフリカヌスのザマの会戦なども紹介して欲しいです。
なんかお互いが『なんでここにいんのぉ!Σ( ̄□ ̄;)』みたいな中で信繁が討たれたのかと思うと、今までのイメージがかなり違って来ますが、戦術レベルの話になるとその方が納得出来ますね💡
あれだけの人望と評価受けてる信繁って先陣きってるイメージ勝手に持ってるので、遭遇戦だと脆弱そう。。
ご存知だと思いますが、海上知明 先生が仰っていた川中島の戦いは、謙信が八幡原で決戦になる事を想定していた、仕向けていたとの事です。謙信の解説はをアレクサンダー大王に置き換えても違和感ないぐらい、彼は世界史的にみても超常現象だったと思います。信玄や北条、織田からしてみたらキングボンビー以外の何者でもありませんが。敵陣中央突破からの退却が、信玄の虚を突きつつ追っ手を抑えれる(信玄が部隊を二つに分けてくる事で数が減る事も想定した上で)と”最初から”考えていたのでは?という考察が海上知明 先生の話でした。
海上先生の説は僕も非常に興味深いです。いずれ紹介したいなぁ
頼むから、俺の中世史の先生になってくれ
車懸りの陣はゲームでとかなら出来るんだろうけど・・・流石に現実では厳しいですよね
車懸かりの陣は後世の創作の要素が強く、戦力の逐次投入的な戦法かつ軍勢の大半が無駄な動きをすることを強いられるのであまり効率的ではないようです。実際の上杉軍は、この動画にあるように反転攻撃を仕掛けて押しに押しまくって形勢不利になったら撤収するような戦い方をしたように思われます。実際、上杉軍も約3千4百人の戦死者(負傷者はそれ以上)を出したにもかかわらず大将クラスの戦死者は一切出ていませんし。
面白いっす。私も不期遭遇戦説派です。上杉謙信としては、春日山への退路をふさがれた形だったんでしょう。武田信玄もこれを機に上杉潰してまえ、みたいな感じだったのでは…「車掛かりの陣」は多分、縦陣で、武田の中央を突破しようとしたのではないてじょうかね?「車掛かり」には、一点を連続攻撃する。という意味もあったと聞いたことがあります。
この地形図を見ると、武田側の方が根本的に超有利な気がします。いくつもの要塞が連動していて、どこかが攻められても他が援護できそう。上杉軍もそれを承知でしょうから、妻女山に陣取ったものの、そこから上杉軍側から攻めるのは難しかったんじゃないでしょうか。だから、武田軍が茶臼山に布陣しても上杉軍は動かなかったというより、動けなかった。じゃあなんで上杉軍が妻女山なんかに布陣したのかって疑問がわいたんですが、上杉軍としては、武田軍に有利な山岳戦ではなく、川中島の平地戦に引きずり込みたかったんじゃないかという説はないでしょうか?つまり、妻女山の布陣はそもそも囮で、それにつられて武田軍が攻めてきたら、武田軍をひきつけながら川中島まで引く予定だった。武田軍もそれを読んでいたので、中途半端な数の別動隊でも十分、上杉軍を妻女山から追い落とせる(というか上杉軍の思惑に乗ってやる)と考え、そして川中島に本体を先に布陣させて挟撃しようとした。ただ、上杉軍が川中島まで移動する早さが予想より早かったので、想定通りの挟撃の構図になるまで時間がかかってしまい、戦死者が増えた。という考えはできないでしょうか?
歴史物や、市販のカラー版の戦術の本とかとは比べものの無いくらい理にかなっていて、わかりやすくて、面白い。こういう面白いひとが高校の日本史の先生だったら日本史がもっと面白かったんだろうなぁ。世界史の先生は面白かったけど。
本当の真実は誰にもわからない、戦国時代は歴史の中でも特におもしろい❗
お互いのレベル高すぎて凄いことになっとる…この名将を隣合わせはいかんよ…隣合わせてなかったら織田とか徳川もヤバかったろうなぁ
新説の方が一番有力説だと思われます。その理由として、もしも今までの通説だと上杉側の家臣達が誉れとして何かしらの証拠となる書面が見つかるはずだけど、それが一切ない。(逆に武田側の証言資料の方が信憑性が高いです。)因みに、『車懸かりの陣』による文献資料はほぼ皆無です。…が、少し面白い話(逸話)による文献書物があります。車懸かりの陣形:前方部隊・中堅部隊・後方部隊で1つの軍とし、それを凸型・鶴翼之囲に変則的に行動させるようにします。その前方部隊は攻撃すれば、すぐに外回りに移動し、後方部隊になります。次に中堅部隊が先方部隊となり、後方部隊だった部隊は中堅部隊となります。それを繰り返す事で部隊の建て直しと兵士達への休息時間と敵を行動を素早く観測する事で自らの部隊の安全性が高くなるという戦術です。因みに、この車懸かりの陣は全軍で陣形を整える時もあれば、一家臣武将達だけでも行えるようにしていたらしいです。それ故に、この陣形戦術は、古代中国で行われていた大中小の3軍を横一列によるカナメ戦術を縦一列にする戦術でもあるが故に、その陣形戦術を他の戦国大名家に見破られないようにする為に詳しい文献書物を残さないようにしていたようです。※(PS:補足として、車懸かりの陣形としては一部隊の中央から戦士を外回りに離脱させるようにしていたようです。)※(後、vs織田戦の時に、その動きを観察した織田家はその上杉部隊の連携さに驚愕していたようです。そもそも織田家の兵士達は尾張の弱兵として有名だったし、又、それを大幅に改善したのも織田信長時代でした。)※(もう1つ面白い話(逸話)を思い出したので書き込みます。関が原合戦前の事ですが、上杉家・前田家・宇喜多家の3家は仲良かったようです。それ故に、後々の宇喜多の陣立は上杉家が行っていた陣立に近い陣形戦術に切り替わったようです。その証拠に関が原合戦の際の宇喜多家の陣形は横一列の重層陣形でした。とある噂ですが、宇喜多家の陣形戦術は元々は無かったようです。その理由として、宇喜多家が戦国大名としてのし上がった経緯として陰謀智略故に、軍団戦術を行える程の陣構えする指揮官が居なかった事によります。よって、後々に陣形戦術を取り入れた戦術になったようです。そもそも宇喜多家は他家豪族一族の集まりでもあったから軍団戦術が不可能でもあったようです。)
日本の戦いに関しての動画はまだそこまでないっぽいので楽しかったです!
色々な説を見てきたけど、一番面白かった。遭遇戦ならではの無秩序混乱の中での死傷者多数だった。
謙信がどうやって小田原城に進攻したかを調べるとまた面白い事が見えてくるので興味ある方は是非調べてみるといいと思うよ
私はそれがきっかけで謙信の関東までのルートにも興味がわき、中2の自由研究で当時の上杉軍の行軍日程表をみながら春日山から沼田への上杉軍道を実際に全行程行って写真つきの記録をとったことあります。まあ発表会では歴史好き先生以外は( ゚д゚)でしたwwなんせ犬伏城などの土塁跡とかみても「??」ですもんね
@@crystalme3911 最高w思わずコメントしてしまいましたww
そうですね。関東管領というものが如何なるポジションであるか、おそらくは単純に武力だけではない政治的な根回しが少なからずあったんだと思われます。
不期遭遇戦説って実はそんなに新しくないのですが、解説してる動画なかったから思い切ってやってみました!
悲しいことに日本の軍事史研究は戦後から鈍足で日本戦史は発展途上らしい・・・だから戦史好きが増えたらもっと進むはず!という崇高な動機で動画を作ってたりする副社長なんですよ~
どしどしチャンネル登録、評価、コメよろです~
普通に通説を信じていたので新鮮で面白かったです。
言われてみて犠牲の数が多いことにはじめて気づきました(^-^;
戦国時代でれっきとした戦術として確立していたのは島津の「釣り野伏」かと。
いわゆるおとり戦術だけど、大戦で決まりすぎている。
伊東氏、大友氏、龍造寺氏を一気に弱体化させ、豊臣との戦でも長宗我部家の嫡男をやっちまうのはちょっと異常。
@@一割蕎麦さん
「戦国いい話悪い話」を検索してください。面白い話がありますぞ。
史学科にいって戦史調べてえなあ
こんにちは、毎回楽しく見させていただいております。
自分もつい一か月ほど前、第四次川中島の合戦の考察動画を作ったのですが、場末の者で登録者数も再生数もなかなか伸びないので便乗させていただこうかと図々しくもコメさせていただきました。
何かの参考にしていただけたら幸いです。
ruclips.net/video/JWAvT1qdZfc/видео.html
レベルが高い同士が色々やった結果、全く予期しない遭遇戦になったってのは凄い面白い。
まさに神のいたずら
神でさえ屈指の武将の決戦を見たくて霧を立ち込めさせたと私は補完してます
兵を二つを分ける愚行をおこすのはおかしいし、妻女山は大軍が登れないし。
川中島はこの時期霧が多いし、それを見越した退却の際の遭遇戦が正しいかな。じゃないと、あれだけの被害はでないよ。
山下直人
動画と全く同じことコメントしてて草。ちゃんと見たんか?あ
@@00008767 暇を持て余した神々の遊び!ですね
結果漁夫の利をさらったのが織田信長、豊臣秀吉、徳川家康だよな。上杉は明治まで生き延びたけどね。
俺は新潟県に住んでいるので上杉は誇りです
上杉謙信って家臣の謀反あり一向一揆ありという領土内が疲弊してる縛りプレイの中で戦争で負けてないんだよね
あれだけの統率力はほんとすごいと思う
領内で家臣の反乱が相次いでおきながら上洛やら関東出兵したり戦場でも家臣の裏切りがないのは普通に政治力もすごいと思われ
その上杉さんに「この卑怯者が!」と挑発されて正面決戦挑んだ戦国最弱さんとかは、それでもついてくる家臣や民という違う意味で壮絶な統率力を持っていますw
そりゃ本人が僧侶みたいな質素な生活(酒と儀礼用の衣装は除く)して「俺は毘沙門天の生まれ変わりだ」と
現人神化しているうえに衣料原料の青苧で現金収入がガッポガッポで超低金利の融資を家臣にしてるだから
よほどの馬鹿(本庄繁長さん、あんたのことですよ)じゃない限り従いますわ。
関東の諸将に見限られて、家臣たちが相次いで謀反を起こす原因になったのが臼井城の戦いでの大敗が原因だろうから、その縛りプレイに陥ったのは謙信の失態で、その後は負けもしなかったけど、勝つこともできないから、何年も越中と越後と関東を行ったり来たりして右往左往し続けてた。そこで見限られなかったことが凄いといえば凄いけど、印象としてはぎりぎりの所で辛うじて踏みとどまっていたって感じだわ。
いちごう 誰ですか??
いつも楽しく観させていただいてます。
私は長野市生まれで祖先は真田の陪臣であったので、墓参りのたびに善光寺から川中島を通って松代に行っていました。
不期遭遇戦は最も納得できる説です。ただいくつかお伝えしたい。
妻女山はそれほど高い山ではなく、武田に包囲され兵糧攻めにされたらイチコロです。また八千から一万五千の兵力を収容して長期耐えられるようなところではない。
私は寧ろ西条山城塞群の髻山に謙信が本陣を敷いた説を支持します。ここは北国街道沿いでもあり、前進基地である横山城からは松代;海津城方面は良く見えます。補給・偵察両面から最適の場所です。横山城から丹波島の渡しを通ったとして、謙信の機動力ならば一刻で川中島に到達したでしょう。後世、西条山が妻女山と書かれたことによって間違われたと考える方が信憑性が高いように思えます。
不期遭遇戦は互いの示威行動か威力偵察が深い霧の中で出会ったことから始まったのでは無いかと想像しています。今は少なくなりましたが、昔の善光寺平の朝霧は深く、視界が3−5m程しかなかった経験が幾度かあります。また霧の中では音は吸収されますから近距離にならないと気づかない。
古戦場はその場所だけでなく、周囲の山から見下ろしたり、その戦のあった気象条件でみないと分からない事はたくさんありますね。
それと千曲川も犀川も川筋が戦国のそれではありませんよ。川筋は時代で大きく変わりますので、そこも考証されると良いかと思います。
Good Try! これからも期待しています。
ご意見ありがとうございます!非常におもしろいです!!
実はですね今回、妻女山論争はぶっとばして「妻女山一帯」と言ってぼかしましたwたしかに妻女山の上だけだと上杉軍は収容できないらしいですね。
前衛の偵察勢がぶつかって→混戦に発展は大いにあると思います。たしかにそちらの方がありそうですね。
川筋はですね~僕も深く考えてなかったのですが、一応、戦場図では千曲川の方をなるべく昔の川筋で表現させてもらいましたw正確ではないですが
返信ありがとうございます。
追加ですが、威力偵察と車懸りも霧の中の不期遭遇であったために状況が分からないまま兵力を逐次投入せざるを得なかった為ではないか、と考えています。
両将共に霧の発生は読んでいた可能性があり、その条件下で行動して相手に対して有利なデモンストレーションを行いたかったのかと思ってます。
また信繁戦死場所と伝わる場所に典厩寺が立っていますが、場所は海津城眼前の千曲川の手前。恐らくは兵の海津城への撤収を支援して戦死したのかなぁと想像しています。
以上、愚考です
お笑いください。
@@flysnafkin818 二人が霧の発生を知って、互いが行動を起こして遭遇、混戦でバラバラに戦闘ってのはありますねぇ。おそらく霧はこの戦いで重要なファクターだったと僕も考えます。
なるほど!典厩寺の場所はおもしろいですねぇ。色々情報ありがとうございます!
謙信「山に登ったぞー!包囲してくれー!」
信玄「いやです」
なんだこれ
武田の本体が霧に紛れて横山城狙ってた説、すごく納得しました! 同数以下の兵で妻女山から追い出すのは困難だから霧に紛れての陽動なら筋が通る。そして、遭遇時に少数なのに鶴翼の陣で迎えたというのも、攻城のための包囲隊形取ってたと考えたらこれも辻褄が合います。
遭遇した瞬間、戦闘狂の謙信が本気出した気がする。
戦と酒があればなにもいらない。を地で行く謙信公w
この戦いで信繁公を失ったのが非常に痛い、、、!!!!!!!!
通説がある、とかだと思う、等断言しないところがこの動画は信用できるところですね
素晴らしい考察ですね。
少数の兵力で山に籠っている多数の兵を追い落とすことが出来るはずがないので(しかも相手は政虎)啄木鳥戦法はまずあり得ないと思っていましたがこの流れなら自然です。正しいかどうかは分かりませんが、少なくとも通説とは比較にならないくらい説得力があると思います。
「二万の軍勢の一万二千で謙信が陣を取る妻女山へ仕掛け、明日卯の刻(午前六時頃)に合戦を始めると、越後勢は負けても勝っても川を越え退くでしょう。そこに御旗本組と二の備衆をもって前後から押しはさんで討ち取るようになさるのがよいでしょう」と、山本勘助が申しあげたので、、、、、、
追い落とすというよりも、ある程度戦えば上杉は引くだろうから撤退さえしてくれればその道中で待ち構えてる武田本隊(謙信に気付かれないように布陣)と別動隊の残存部隊とで挟撃できるみたいな作戦だと思いますよ。
@@soreoi4074 地理的優位、数的優位にある上杉軍が「ある程度戦ったら撤退する」とは考え難いですよ。
@@anaisno1 そこは時間的猶予の話が出てくるのだと思いますよ、積雪でもしたら地理的優位は孤立となりますし、敵勢力内では数的有利もいつまでも続くものではないですからね
遭遇戦にせよ、とっさに自在に陣を整えて屈強な武田軍をフルボッコして副将や重心を次々と討ち取り、別働隊にあわせて深追いせずに見事に退いた謙信の軍神っぷりが凄すぎる。
上杉方の死傷者もかなりの数にのぼっているので、一方的ではなかったですけどね。別働隊が来てからは逆にフルボッコになってなんとか撤退した感じだと思います。
武田よりも少ない兵で自軍より大きい損害を出したのがすごいですよね
武田家にとっては正に、痛恨の戦でしたよね。 国家の柱石を次々に喪う戦だったのですから。
確かに。副将の典厩信繁、参謀の山本勘助を一度に失ったのは大きすぎる。第4次川中島合戦は武田滅亡のケチのつき始めと言ってもいいのでは。
杉田竜馬
懐かしいな!新田次郎原作の武田信玄、クライマックスが川中島の戦いだったなー🤭
歴史はそう言う俯瞰が出来るから面白いですね。ここで勝ってたら、三方ヶ原も数年早くなって、天下(信玄は目指していなかった説もありますが)もどうなっていたか分からなかったかも。個人的には、信玄が天下とってたら日本の近代化は遅れに遅れたと思いますが。
国家の柱石という概念は武田の家臣団には当てはまらないと思いますけどね。豊臣政権時代になるとすでに国家や、その運営陣に国家の柱石という概念が芽生えて表現としても使われているのを見ることができます。
「だがこの通説には疑問が残る」みたいな戦いまだまだありそう
地形と一緒の説明わかりやすいですね
めちゃくちゃありますね。関ヶ原なんて良い例です
キツツキの戦法
つついて、出てこなかった
らどうするんやろと
長年疑問やったんですが
ここで解決してくれるとは
天才と天才が戦ってお互い死傷者多数ってのは確かに不可解な点だし、めちゃくちゃ納得できる考察だった。
天才と天才が読み合った上に起こってしまった事故みたいな感じでおもしろい
川中島の八幡原近所で生まれ住んでいるものです。
この度は大変すばらしい動画をありがとうございます。
いつかやるさんのおっしゃるように、あの決戦は神のいたずらだったと思います。
千曲川は暴れ川でしたので当時の川の位置・形状・水量が今と大分異なると思いますが、奇しくもその川が壁となってあたかもボクシングリングのような局地的な戦場となってしまいました。
暗闇から突然知らないけどよく知ってる隣のおっさんが現れたらビビるのと同じように、お互い相当混乱したことでしょう。短時間で可能な限りまともな戦闘を行う努力をした両者のすごさを実感しました。
善光寺・茶臼山・海津城・千曲川・犀川と現代でも地形的な側面から歴史を楽しめる面白い町なので、地元ということを置いといても大好きな古戦場です。
海上先生の川中島解説は、非常に深いと思う。
天才の戦いって常人には理解できない。
「川中島複合城塞群」・・・初見の言葉でした。
近所にコンビニや相手迎撃用にミサイル基地を配したものだとか。
私もこの説がとても理に適っていると思いました。おっしゃられる通り啄木鳥はまず無いでしょうね。
日本史の戦いも扱われるのであれば機会があれば”沖田畷の戦い””戸次川の戦い”も拝見してみたいですね。
ありがとうございます!
啄木鳥戦法は地形と兵数差を考えると名将が採る作戦ではない。
むしろだれがこの説を創作したのか興味がある。
啄木鳥戦法で活用した霧は自軍(武田)の首を絞めもするけれど霧で身動き取れないのは上杉も同じはず!!と力説したから信玄は採用したとか…
通説では啄木鳥戦法を山本勘助が提案したとなってる。
とにかく聞きやすく分かりやすく、そして好きな事を一生懸命話している感じがあって面白いです。
古代中国の解説なんかもやっていただけると嬉しいです。
副社長の戦史解説、分かりやすいし面白いので大好きです!
これからも色々な戦史の解説をぜひよろしくお願いします。
大事なのはあくまで説だからどっちが正解かわからないというのは大事
現実味のある興味深い考察をいつもされていると思っておりました。
海津城の周辺に砦をいくつも築いていたことは知りませんでした。
他の動画や資料でもなかったと思います。大変参考になりました。
おお!川中島の戦い!
自分も上杉軍が撤退途中の不期遭遇戦説だったのではと思ってますので、やはりか…と頷きながら見させて頂きました。
合戦前の両軍の動きもわかりやすいですっ。
学生時代、歴史の授業だけ全然興味が持てなくて避けてきたけど、おっさんになってだんだん面白くなってきた。
甲陽軍鑑とは違ってとても面白かったです。
解説とても素晴らしかった👏
江戸後期に作られた頼山陽の漢詩を聴くと合戦の様子が目に浮かびます
川中島 頼山陽
鞭声粛粛 夜河を過る
曉に見る千兵の 大牙を擁するを
遺恨なり十年 一剣を磨き
流星光底 長蛇を逸す
関係ないけど、天と地と
の戦闘シーンメッチャカッコよかった
オンベイシラマンダヤソワカ
大河風林火山の勘助が「く、車懸かりの陣!?」ってびっくりするシーンもすこ
両軍の死傷者は4割に達し、話を聞いた今川や北条は「何て恐ろしい戦してるんだ、あんなのやったら10年はまともに動けなくなるぞ」と震え上がったとか
3%の損耗で翌年の税収が大幅減収になるのが足軽農民主力の軍の弱点ですし、4割とか…
キモ過ぎて草枯れる
9割近く戦死してる木崎原の戦いの島津…
あちちあちち
島津のやべーところは9割死亡とか幹部候補生の若手や指揮官クラスもバタバタ死んでるのに、戦の質が変わらんのが意味わからん
@@あちちあちち ま、あれは300vs3000だから(震え声
非常に面白い説です。素晴らしい!!確かに 永禄4年の川中島の9月9日早朝は濃い霧に覆われていた事実。両軍が意図せざる遭遇により、大混戦になった可能性は非常に高いと思います。上杉軍も前年の永禄3年に関東の北条氏を攻撃して長期の対陣をしているために、財政面を考慮して、川中島での全面衝突は考えていなかったのかと。謙信は京都へも行って大金使ってるし。一方、武田側も前年に今川義元死んでるため、南の駿河がゴタゴタし始めている。駿河進行の野心を考えれば、兵力温存は必須。北条側の強い要請もありの今回の川中島への出陣、上杉軍に対しての牽制のみを第一に考えていたのでは。まぁ興味は尽きませんが。
遺恨十年一剣を磨き 流星光底長蛇を逸す
場面がありありと浮かぶようで素敵な解説でした
歴史、戦史は男のロマンやね!
敵地の中の山に布陣するなんて水源退路経たれる馬謖レベルの愚かな事だから普通は攻めるんだけど、戦の天才である謙信がやったから信玄は絶対に裏があると思って攻められなかったんだよね。
あの信玄にこの戦法するんだから謙信はやっぱ色んな意味で凄いわ
副社長さま。本当にわかりやすく、面白い解説ありがとうございます。いつも楽しみに観させていただいております。
車懸りの陣って、常識的にありえんなぁと思っていたが、なるほど!
たぶん江戸時代あたりで謙信が神格化されてって、お話にインパクト出るから、ノリで創作されたんだろうなあ。
今の漫画やアニメみたいなもんかな。
となると、あと何百年も経ったら、今のアニメや漫画の話が、ホントにあったことみたいに語られるかもしれない。
素晴らしい説明で説得力がありますね。NHKの英雄たちの選択で城塞群という概念を知ったので海津城を中心とした
城塞群説はすんなりと腹に落ちます。個人的には茶臼山から信玄が撤退した時点で謙信は川中島での撤退中の遭遇戦
を想定していたと考えたています。その結果が不時遭遇戦における即座の少数備えの部隊による連続側面攻撃いわゆる
車掛かりの陣(これにより自然、自然と側面に兵力が集中し中央が薄くなり、中央突破が容易になる)を発動できた
理由だと思うからです。単なる遭遇戦にしては武田方が弟以下重臣まで戦死に対して上杉方は重臣は戦死なしと戦果
に差がありすぎるからです。(武田上杉とも農兵が主体だから雑兵の死者数は考慮しません)
図解や地図にすると戦術や
両軍の意図がわかりやすい
ありがとうございます
楽しめて見れました
副社長の考察動画 わかりやすく話してくれるしおもしろいので、もっと下さい!!これからも応援します!歴史が好きになってきました♪
上杉謙信「炊煙が多いから武田は動くな。じゃあ逆にこっちから懐に飛び込んでやれ」
こんな発想することが神。
自分から毘沙門天の化身を自称する人でしたから…
島津の関ヶ原敵中突破撤退の原型では
上杉謙信は桶狭間狙ってたつもりか従来だと
炊煙というと馬陵の戦いを思い出します
軍記物作者の盛り付けでしょうかね。
きっと今頃さぞかし北楚笑むでいるかな。
大河ドラマ「風林火山」のラストの戦いですね。あれはあれで面白く、これはこれで興味深いです。
これほどの人材が中央(京都)から離れたところで活躍してたんだから、日本て凄いなー。
当時は超地方分権だった。
そのきっかけが応仁の乱
戦国のハンニバル武田信玄と戦国のスキピオ上杉謙信の戦いか。ただ信玄にとっては副官の信繁、参謀の山本勘助を失ったのは痛すぎた。この戦いが武田滅亡へ至るケチのつき始めだったのだから。
10:21 ここなんか歴史のロマンと現実に苦しんでる感じして好き
自分的には動画の説が熱くて好きなんですw
日本の戦解説面白いのでもっとしてほしいです!お願いします!
川中島の戦いの新しい見方を知れました。見てて楽しい動画でした!!
車懸りの陣は中央突破戦術みたいな感じだったのですね。
昨年 仕事で此所を通りました。文字での説明や「天と地と」では今一解りませんでした。 この様に地図上で解りやすい説明は初めてです。よく分かりました。ありがとうございます。
通説のくるまがかりはまるで北朝鮮のマスゲーム
軍の衝突で渋滞が一度でも起きたら全体の動きが止まりますよね
とても面白かったです。
長野県に住んでいます。
なぜ上杉が妻女山のようなわざわざ武田に包囲されるようなところに陣を敷いたのかずっと不思議に思っていましたが、この動画を見てなんとなくわかりました。ありがとうございました。
信濃より越後の方が積雪量が多く、万が一降雪が始まれば帰路は上杉の方がより厳しくなります。上杉には決着を急ぎたい心理があったかもしれません。一方で武田も信濃の植民地兵を連れていますし、長期化は避けたかったでしょう。ただ、必ずしも決戦はしなくても良かったのではないかと思います。両者の心理に少し違いがあったこともよくわかりました。
すごく分かりやすくて納得のいく話でした。面白い❗
いや良かった!久しぶりに戦国の話で新鮮な物を聞けた気がします👍ありがとう
車がかりが戦術としたら
本当に上杉謙信と信玄の
刀を軍配で受け止めたってのが
現実味してくる気がする
軍配で受け止めたのは本当だけど、斬りかかったのは謙信の馬廻り衆の誰それって最近分かってきたらしいです。
確かに啄木鳥戦法には矛盾がありますね。面白かったです。
勘助は客将であるからどっちに対しても得を得るような策を用いたのかもな。
車懸かりの陣で一番納得したかもしれない。絶対あり得んだろその僕が考えた最強の陣形って思ってたけど、無形の陣というか、あり得ん練度の兵を小部隊ごとに臨機応変に用いて敵指揮官までの間隙を作り出し最精鋭部隊(謙信含む)で敵部隊の指揮官狙い撃ちとかどこのチートキャラやねん。と思ったらアレキサンダーって先人居たわ。
ともかく相手からしたら規則性無く繰り出される小部隊の対応に一杯一杯で、対応できても出来なくても気づいたら目の前にヘタイロイ騎兵突っ込んでくるとか悪夢でしか無いわ。これも天才にしかできない戦術で継げる人はおろか理解できる人も居らんかったかもね。この説では
ほんとに勉強になります
追伸:やられる方からしたら次から次へと延々と敵小部隊が現れるから、回転式の様な車懸かりの陣に思えたのかなぁと愚考
本能型なのもアレキサンダーっぽいね
アレキサンダーも戦陣きって突入してたの謙信も同じなんだよね。
祖父が管領の危機を助けたりして各地で活躍しまっくた関東管領には天使のような名将、
親父は100近い戦歴をもち管領を討ち取った戦鬼とよばれた関東管領には悪魔のような名将。
こんな戦闘一家に振り回され生き残った越後国人がサイヤ人化しないはずもなく。
そんなやつらを14歳で寺から呼び出された子があれよあれよと7年くらいで武力統一。
得意戦法は電撃作戦とかもうこれフリーザ様やろ
おつかれさまでしたー
なるほどなー
これドラマ化しないかなー
本物の歴史好きが作ったクオリティの高い動画と言うことは理解したw
アチコチで語り尽くされた事も多いけど、
集め→組み合わせ→構成
のセンスは好きですよ。
素晴らしい解説です!
納得出来ます。
面白い!さらに内容も歴史好きでも納得いく解釈!
I’m from America, I have no idea what you’re saying, but it sounds awesome so keep up the good work
最近戦略動画こないな〜と思っていたら力作がきた!!!
謙信は統率上、最大投入戦力は12000が限界と考えていたと言いますし、部隊編成も小部隊・中隊・大隊という感じでされていたとも聞きますね。
部隊単位での行動を有機的に連携させたのが車懸りの陣と。
雪が積もるから謙信は撤退を考え始めたと言ってますが確か同年11月に関東出兵してるので、どちらかと言うと信玄側が先に焦れて動いたのが決戦のきっかけになったんやろな
家の隣にコンビニと薬局の例えおもしろいw
車懸かりの陣の説明初めて知ったけど
「攻撃を仕掛けては退いて、攻撃を仕掛けては退いて」というのは攻撃の説明ではなく、攻撃を受けた側の感想なのでは?と思った
相手部隊(別動隊)を撃退→別の部隊がいる→攻撃終わった?退いた?→場所空けただけで上杉郡の本陣が攻めて来た。嘘やろー
っていうのを経験した武田側の奴が
「上杉軍の戦術すげーぞ。次々と別の部隊が攻撃してきて意味わかんねー!」って触れ回ったんでは?
と妄想
待ってました!
撤退途中に霧が晴れて、右手を見てみるとなんと武田軍が!!
横槍を突かれぬように先頭から右回りに迂回しつつ随時武田軍に向けて突撃。これが車がかりだったと何かで見た気がする。
川中島はいろんな説があって面白いですね。
クララは謙信全部読んでた説を紹介してましたね。
めちゃめちゃ分かりやすくてビックリしました……
他の動画も楽しみにしています。
日本の戦術戦略動画いいですね。
他の戦も期待してます。
NHKだかが検証した車掛かりは、
将とその部下(郎党)が1ユニットで戦い褒美の為に俺が俺がが常識だった時代に家ではなく兵科ごとで戦力を分けて
最前列に弓→矢を降らせたら弓が下がり鉄砲→会敵距離には通常通り槍が先頭と、
陣形は敵との距離に合わせて横ではなく縦に回ったのではないかってやっててちょっと納得した。
実際上杉の戦闘記録って早い時代から将と人数じゃなく兵科と人数で書かれていたし、「車懸りの陣」というそれっぽいのはあとから付いた名前で、武田の方の記録に「くるくる入れ替わるおかしな戦法」に苦戦したことしか伝わってなんですよね。
川中島の戦い(第四次)は、謎が多き戦ですね、それを推察するのも面白いものですね。
大変、分かり易い動画、ありがとうございます。
甲陽軍鑑にある西條山(通説では何故か妻女山)は、「さいじょう」ではなく「にしじょう」と読むという説もありますよね。
海津のすぐ南東にも西条の地名がありますが、上杉別動隊5千が布陣した善光寺の北東にある上杉謙信の築いた若槻山城も西条にあります。
妻女山には後に上杉景勝が布陣している為、江戸時代に書かれた甲陽軍鑑は記録を取り違えて第四次川中島を創作してしまった可能性はあります。
仮に妻女山に上杉謙信が登った場合、上杉勢1万3千という大軍は諸将ごとにその麓に広く布陣する必要性がある為、海津城の城兵と会話できそうなぐらいの距離の陣もあったでしょう。
同年、上杉謙信は旧小田原城を包囲したものの、北条氏康は籠城したまま出て来ず、結局鎌倉で関東管領就任式だけを行い越後に戻っています。
果たしてその直後の第四次川中島で海津城を山の上から連日眺めているだけで満足したでしょうか。
甲陽軍鑑の記述通りなら後方連絡線を断たせ袋のネズミ(謙信の衆は越後への通路を止められたとえは袋に入られたるごとく也と)になってまで武田信玄の到着を待った理由は、海津城をエサに武田勢を誘き寄せて後詰決戦に持ち込む目論見だったと思われます。
八幡原での合戦は不意の遭遇戦ではなく上杉謙信からすればストレスを溜め込みながら待ちに待ったお祭り会場だった事でしょう。
先述の通りに若槻山城で武田信玄を待った場合も同様で、武田でも北条でもとにかく野戦に持ち込みたい一心であった事は想像に難くありません。
この場合、犀川を挟んで両軍は睨み合うことになりますが、どのような合戦経緯になるのかは予想が付きません。
ただ言えることは武田勢は典厩信繁を始め名だたる諸将が討ち取られ、武田信玄自身や嫡男・義信も負傷するなどの大損害を出したものの、不思議と善光寺平を保持し続けたという事実です。
上杉謙信は久し振りの野戦でストレスを発散出来たので大いに満足して帰ったのでしょうかね。
そもそも飯炊きの煙で武田が動くってバれたってのも
武田側の推測だろうしなあ…
武田が霧が発生するという情報をキャッチしているなら
当然上杉側も霧が発生するという情報をキャッチしている可能性も高い
飯炊きとか以前に内通者が居ても不思議はないだろうしね
おそらく謙信も霧は把握してたと思われます。知っていたので霧に乗じて撤退→信玄の本隊と遭遇という考察もあります
両者共に霧は把握していて、その霧の中では動かないのが常識だったから動いた事に驚いて武田側は混乱した。とか、
謙信は囲まれていて武田軍から逃げられないから霧の出ているうちに逃げようとなった?
けど謙信だからそんなことはないかなー
@@buuuuuuyan 逃げるのではないのですよ。善光寺平からの撤兵です。ご存知のように妙高方面は日本でも屈指の大豪雪地帯ですからね。雪に閉ざされて孤立すれば、活路は善光寺平を制圧する事ですが、まあ無理です。カンナエのローマ軍と同じくらい絶望的です。
海津城の大手門の方角というのが、越後側の方角とは反対の方角を向いていたんですよね。
城の攻守を考慮し、信濃領内の城や砦や棒道への導線を円滑にしようとする機能性と合理性を考えた城構えだとされています。
車掛りの陣は「陣形」ではなく「戦術」というのはなるほど。この動画でも参考文献に挙げられてる海上知明さんは、天才クライフの「トータルフットボール」ではないか、と言ってましたね。私は、「不期遭遇戦説」ではなく、海上説、すなわち、上杉謙信の奇妙な布陣(妻女山)から謙信の意図を読み解き、謙信の武田本陣突撃を、最初から計算されつくした「敵陣突破の退却戦」とみる海上説に説得力を感じます。
日本史の授業がこんなだったら、興味持って、しっかり勉強してた気がする。
在学中に鎌倉までで終わりそう笑
面白い!リアル!
情景が浮かんできました。
焦ったんだろな・・・
当時は激戦地でしたが、今はとても気持ちの良い場所になっているので行ってみてください
その後に善光寺に行き、最後は権藤で副社長が大好きな大人のお店があるので1日楽しめると思います!
現地解説でいずれ絶対いきます!なるほど~権藤ですね覚えておきます(メモメモ)
すごく納得しました
凄い面白かった。
分かりやすいし聴きやすいし戦国好きだし。
海上さんが車掛かりの陣はヨハンクライフのトータルフットボールであると言っておられました。その話は面白かったです。専門の攻撃の名手、守備の名手を置かない。ポジションが無い陣形だ。全員攻撃全員守備。いろいろ面白いですね。上杉謙信に聞いてみたい。。。
チャンネルくららのあの回は面白かったですね。謙信→ウルトラマン、信玄→ゼットン?、信長→レッドキングの例えは秀逸でした。
海上先生の話しも非常に興味深いですよね。くららのあの回は謙信を語る先生の嬉しさが伝わってきてニヤニヤしてしまいますw
ちなみに今回の動画では海上先生ではなく乃至先生の「車懸かり」を紹介させていただきました
戦国史の戦術戦略の動画もっと見たいです!お願いします!
同感😁簡単にするところが☺️軍神~越後勢は雪にも戦にも強い~
ワイ愛知県民、茶臼山と聞いて(愛知にもあるよなぁ…)と思い調べる
結果、日本全国に通称含めて200以上ある(wikipedia調べ)とのこと
抹茶に挽く茶臼に似てるからって、山の名前とか案外テキトーかつ皆同じ発想で草
日本戦史は旧帝国陸軍の参謀本部や陸大が戦術教育の都合上想定を作ったので現実と乖離ができてしまっている。せっかく旧軍が無くなったのだからいろいろな意見がでることはとてもいい事だと思う。
面白かったです! 私も謙信は撤退しようとしたら武田本陣に遭遇しちゃった説に一票です。 あと、車がかりの陣は2~3隊に分けて、先行部隊が周囲を警戒している間に残りの部隊が追い越し進軍、追い越したらその部隊が周囲の警戒態勢を取り他の部隊が追い越し進軍という、交互進軍説もあってそれもありそうだなと思ってます(霧の中なので、常に周囲に警戒を張るのは大事だから)
おつかれさまでした! まってました決戦 川中島!
侍を目指している上杉謙信の大ファンです。
今回の様な兵法、また別パートの剣術両方いつも楽しみながら見ています。第四次川中島の戦い、通説よりも、この動画で紹介されている戦況の方が信憑性がありますね。本当に面白いです。
戦の才覚では上杉謙信の方が織田信長より上だと信じています。
今後は日本史で言えば、上杉謙信と織田信長の戦いである手取川の戦いや、源平合戦にて大活躍した源義仲の倶利伽羅峠の戦い、世界史でいえばスキピオアフリカヌスのザマの会戦なども紹介して欲しいです。
なんかお互いが『なんでここにいんのぉ!Σ( ̄□ ̄;)』みたいな中で信繁が討たれたのかと思うと、今までのイメージがかなり違って来ますが、戦術レベルの話になるとその方が納得出来ますね💡
あれだけの人望と評価受けてる信繁って先陣きってるイメージ勝手に持ってるので、遭遇戦だと脆弱そう。。
ご存知だと思いますが、海上知明 先生が仰っていた川中島の戦いは、謙信が八幡原で決戦になる事を想定していた、仕向けていたとの事です。
謙信の解説はをアレクサンダー大王に置き換えても違和感ないぐらい、彼は世界史的にみても超常現象だったと思います。
信玄や北条、織田からしてみたらキングボンビー以外の何者でもありませんが。
敵陣中央突破からの退却が、信玄の虚を突きつつ追っ手を抑えれる(信玄が部隊を二つに分けてくる事で数が減る事も想定した上で)と”最初から”考えていたのでは?という考察が海上知明 先生の話でした。
海上先生の説は僕も非常に興味深いです。いずれ紹介したいなぁ
頼むから、俺の中世史の先生になってくれ
車懸りの陣はゲームでとかなら出来るんだろうけど・・・流石に現実では厳しいですよね
車懸かりの陣は後世の創作の要素が強く、戦力の逐次投入的な戦法かつ軍勢の大半が無駄な動きをすることを強いられるのであまり効率的ではないようです。実際の上杉軍は、この動画にあるように反転攻撃を仕掛けて押しに押しまくって形勢不利になったら撤収するような戦い方をしたように思われます。実際、上杉軍も約3千4百人の戦死者(負傷者はそれ以上)を出したにもかかわらず大将クラスの戦死者は一切出ていませんし。
面白いっす。私も不期遭遇戦説派です。上杉謙信としては、春日山への退路をふさがれた形だったんでしょう。武田信玄もこれを機に上杉潰してまえ、みたいな感じだったのでは…
「車掛かりの陣」は多分、縦陣で、武田の中央を突破しようとしたのではないてじょうかね?
「車掛かり」には、一点を連続攻撃する。という意味もあったと聞いたことがあります。
この地形図を見ると、武田側の方が根本的に超有利な気がします。いくつもの要塞が連動していて、どこかが攻められても他が援護できそう。上杉軍もそれを承知でしょうから、妻女山に陣取ったものの、そこから上杉軍側から攻めるのは難しかったんじゃないでしょうか。だから、武田軍が茶臼山に布陣しても上杉軍は動かなかったというより、動けなかった。じゃあなんで上杉軍が妻女山なんかに布陣したのかって疑問がわいたんですが、上杉軍としては、武田軍に有利な山岳戦ではなく、川中島の平地戦に引きずり込みたかったんじゃないかという説はないでしょうか?つまり、妻女山の布陣はそもそも囮で、それにつられて武田軍が攻めてきたら、武田軍をひきつけながら川中島まで引く予定だった。武田軍もそれを読んでいたので、中途半端な数の別動隊でも十分、上杉軍を妻女山から追い落とせる(というか上杉軍の思惑に乗ってやる)と考え、そして川中島に本体を先に布陣させて挟撃しようとした。ただ、上杉軍が川中島まで移動する早さが予想より早かったので、想定通りの挟撃の構図になるまで時間がかかってしまい、戦死者が増えた。という考えはできないでしょうか?
歴史物や、市販のカラー版の戦術の本とかとは比べものの無いくらい理にかなっていて、わかりやすくて、面白い。
こういう面白いひとが高校の日本史の先生だったら日本史がもっと面白かったんだろうなぁ。
世界史の先生は面白かったけど。
本当の真実は誰にもわからない、戦国時代は歴史の中でも特におもしろい❗
お互いのレベル高すぎて凄いことになっとる…
この名将を隣合わせはいかんよ…
隣合わせてなかったら織田とか徳川もヤバかったろうなぁ
新説の方が一番有力説だと思われます。
その理由として、
もしも今までの通説だと上杉側の家臣達が誉れとして何かしらの証拠となる書面が見つかるはずだけど、それが一切ない。
(逆に武田側の証言資料の方が信憑性が高いです。)
因みに、
『車懸かりの陣』による文献資料はほぼ皆無です。
…が、
少し面白い話(逸話)による文献書物があります。
車懸かりの陣形:
前方部隊・中堅部隊・後方部隊で1つの軍とし、
それを凸型・鶴翼之囲に変則的に行動させるようにします。
その前方部隊は攻撃すれば、すぐに外回りに移動し、後方部隊になります。
次に中堅部隊が先方部隊となり、後方部隊だった部隊は中堅部隊となります。
それを繰り返す事で部隊の建て直しと兵士達への休息時間と敵を行動を素早く観測する事で自らの部隊の安全性が高くなるという戦術です。
因みに、
この車懸かりの陣は全軍で陣形を整える時もあれば、
一家臣武将達だけでも行えるようにしていたらしいです。
それ故に、この陣形戦術は、
古代中国で行われていた大中小の3軍を横一列によるカナメ戦術を縦一列にする戦術でもあるが故に、
その陣形戦術を他の戦国大名家に見破られないようにする為に詳しい文献書物を残さないようにしていたようです。
※(PS:補足として、車懸かりの陣形としては一部隊の中央から戦士を外回りに離脱させるようにしていたようです。)
※(後、vs織田戦の時に、その動きを観察した織田家はその上杉部隊の連携さに驚愕していたようです。そもそも織田家の兵士達は尾張の弱兵として有名だったし、又、それを大幅に改善したのも織田信長時代でした。)
※(もう1つ面白い話(逸話)を思い出したので書き込みます。関が原合戦前の事ですが、上杉家・前田家・宇喜多家の3家は仲良かったようです。それ故に、後々の宇喜多の陣立は上杉家が行っていた陣立に近い陣形戦術に切り替わったようです。その証拠に関が原合戦の際の宇喜多家の陣形は横一列の重層陣形でした。とある噂ですが、宇喜多家の陣形戦術は元々は無かったようです。その理由として、宇喜多家が戦国大名としてのし上がった経緯として陰謀智略故に、軍団戦術を行える程の陣構えする指揮官が居なかった事によります。よって、後々に陣形戦術を取り入れた戦術になったようです。そもそも宇喜多家は他家豪族一族の集まりでもあったから軍団戦術が不可能でもあったようです。)
日本の戦いに関しての動画はまだそこまでないっぽいので楽しかったです!
色々な説を見てきたけど、一番面白かった。
遭遇戦ならではの無秩序混乱の中での死傷者多数だった。
謙信がどうやって小田原城に進攻したかを調べるとまた面白い事が見えてくるので興味ある方は是非調べてみるといいと思うよ
私はそれがきっかけで謙信の関東までのルートにも興味がわき、中2の自由研究で当時の上杉軍の行軍日程表をみながら春日山から沼田への上杉軍道を実際に全行程行って写真つきの記録をとったことあります。
まあ発表会では歴史好き先生以外は( ゚д゚)でしたww
なんせ犬伏城などの土塁跡とかみても「??」ですもんね
@@crystalme3911 最高w思わずコメントしてしまいましたww
そうですね。関東管領というものが如何なるポジションであるか、おそらくは単純に武力だけではない政治的な根回しが少なからずあったんだと思われます。