西南戦争(一)挙兵~熊本城攻防戦

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  • Опубликовано: 16 окт 2024
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    「仏教の伝来」「清少納言と紫式部」など、日本史の名場面を、一回10分程度で楽しくわかりやすく語った解説音声です。全58章10.8時間。社会人の学びなおしにもどうぞ。あと長距離バスで移動中とかいいと思います。
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Комментарии • 4

  • @taka3399-n6n
    @taka3399-n6n 6 месяцев назад +2

    熊本城内の政府軍には多くの鹿児島出身の軍人たちがいたが、誰一人内通し西郷軍に味方した者はいなかった。これも西郷隆盛はじめ桐野利秋、篠原国幹たちの読みが外れた。残念

    • @taka3399-n6n
      @taka3399-n6n 4 месяца назад +1

      熊本鎮台の政府軍の幹部たちには熊本藩の士族がおらず、谷司令官は土佐出身、参謀長の樺山は薩摩出身、参謀の児玉は長州出身と熊本城ヘの畏怖と愛着はなかった。故に攻防戦直前の自焼にためらいはなかった。熊本城天守閣自焼した鎮台に地元の多くの熊本士族が怒りで蜂起した。間違いない。

  • @satsumaneko1877
    @satsumaneko1877 5 месяцев назад +2

    訂正させていただきます。
    池上四郎は(いけのうえ)です。
    砲隊は別に編制されています。
    薩軍の出発は15日六・七番連合大隊が加治木からの出発で東目街道、一番大隊は西目街道、二番大隊が東目街道です。
    16日出発が三番大隊は西目街道、四番大隊が東目街道。
    17日出発は五番大隊が西目街道、砲隊が東目街道です。
    西郷隆盛は砲隊を率いて東目街道から加久藤筋より人吉に入り、球磨川を経て八代に向かってます。
    訂正していただけたら助かります。

  • @taka3399-n6n
    @taka3399-n6n 4 месяца назад +1

    守りがやや弱い熊本城の西側の段山方面から攻めたのは正解だったが、会津戦争の時のような大砲でもっと熊本城を砲撃できなかったのか。気力と鉄砲だけでは天下の名城の熊本城は落とせない。鹿児島出身の城内の兵士の反乱もなかった。残念。