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陳是についての考察は、斬新だな。当たってるかも。景初二年には交戦中だから渡れないという論拠は、当時の公孫氏と呉の関係とか、海洋ルートの存在を全く無視しているよな。司馬懿派遣の時点で、用意周到に、海路で楽浪帶方を取って挟み撃ちという作戦が発動されていたのは間違いないだろう。この動画、ほぼ全面的に支持できますね。
岡さん、コメントありがとうございます。以前、邪馬台国遊園地ではお世話になりました。楽浪郡、帯方郡がどの時点で魏に帰したのかについて、東夷伝序文の時系列があいまいなのでややこしいのですが、公孫淵が独立を宣言した以上、明帝は即座に反応した(せざるを得なかった)と思います。そして、公孫淵のもとにいた両郡太守がどこまで独立に賛同していたかも不明ですから、比較的容易に新太守への権力移譲が行われたのではないかと思っています。今後ともよろしくお願いします。
印綬と共に、下賜された鏡が百枚の銅鏡でないと、読み取れました。そうなると日田で出土した鉄鏡がその時の鏡と推察できますが、如何でしょうか
あけましておめでとうございます。このチャンネルの考えるように「梯儁たちが届けた鏡が、明帝の下賜した銅鏡100枚とは異なる少帝からの鏡であった」とすれば、その可能性もあるかもしれません。ただ、日田の鉄鏡については出土状況が不明ですから、判断のしようがないというのが現実ではないでしょうか(後世に誰かが中国から手に入れたというような見方もあるようですから)。
それは卑弥呼は公孫氏滅亡の危機に際し命乞いに行ったのかも〜だから…処刑前に行かないと。
コメントありがとうございます。確かに、公孫氏と一体だと思われるのはまずいと考えたでしょうね。
RUclipsを見ていて思うことは、RUclipsrの漢籍の取り扱いには、総じて問題が多いと思います。まず校勘に関して、そのやり方や結果に関して異論があるというレベルではなく、そもそも何故校勘が必要になるのかわかっていないと思われることです。漢籍を色々見ていると、直感的にその文面が時代とともに、しだいに誤りを累積していったことが理解できます。これは実際に考古学敵に発見された、古い写本の文面が現在と異なっていることがあることで確認できます。だからこそ元の文面がどうだったかの検討が、必須になってくるのですが、当然そこで重要なのは書物の成立年代ではなく、実際に印刷されたり、書写された実物の年代になるのです。現存の三国志は南宋時代に刊行されたものです。それに対して14世紀に書写された、日本書紀には下記のようにあります。卅九年、是年也太歳己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」これは太歳己未に対する註なので、後に出てくる年は、己未年以外にあり得ず、引用元も景初三年であったことが確定できます。さらにこの条文には本文がなく、註だけとなっているので、日本書紀編纂時のものであり、八世紀初頭にこの朝貢が景初三年であったとする文面が存在したことが確定できます。従って唐代における三国志の文面は景初三年であったと考えられるのです。あと梁書の件ですが、景初三年がかかるのは卑弥呼の朝貢にかかるので、問題ありません。
コメントありがとうございます。『三国志』が陳寿によって撰述され、12世紀に版本になるまでは写本が繰り返されたことは理解しております。このチャンネルは『日本書紀』は紀年延長過程(文武朝以降)で、神功皇后を創作したと考えています。それは、卑弥呼を隠したことを意味します。卑弥呼の人物像を投影しながら、天皇には即位しない69年間を創作しています。(干支はこのときに儀鳳暦によって新たに推算されたと思われます)それを行った編纂者が、わざわざ『三国志』から遣使朝貢記事を引用するとは思えません。編纂者は遣使朝貢を隠したわけで、それは相反するものだからです。ですから、分注の遣使朝貢記事は後世に「神功皇后は卑弥呼では?」と連想した人によって追加挿入されたと考えています(ある意味、編纂者の思うつぼにはまったと言えます)。それも非常に雑な引用です。「明帝の景初三年」(これは是とする意見もあると思います)、「難斗米」、「鄧夏」と誤記しています。『日本書紀』編纂時に、編纂者の手元にあった『三国志』からの引用ではないのではと思います。『梁書』を三年説の根拠とされる方が多いですが、何の先入観も持たずに読めば、「景初三年に公孫淵が誅殺された」のちに「卑弥呼が遣使朝貢した」としか読めません。『梁書』は公孫氏誅殺を景初三年と誤認している可能性が高いのではないでしょうか。その『梁書』から景初三年という認識が生まれたのだと思います。『三国志』は、『後漢書』が「会稽東冶」と誤認したにも拘わらず、「会稽東治」を堅持できています。東冶が東治に誤認されることはほぼないといってよいでしょう。東治は特殊な言葉だからです。それなのに、会稽東治としているのです。同様に、『梁書』以下が「三年」と誤認したにも拘わらず、『三国志』は「二年」を堅持し続けたとも考えられるのではないでしょうか。立証しようがないことばかりですが、『三国志』は誤認・誤記に対して復元力の強い(広く知られていた?)史書だった可能性もあると思います。引き続きよろしくお願いします。
>『三国志』が陳寿によって撰述され、12世紀に版本になるまでは写本が繰り返されたことは理解しております。それなのになぜ三国志は他の史料に比べて古いと、成立年で議論するのですか。>卑弥呼を隠したことを意味します。この日本書記の条文は、通常即位元年につけるべき太歳をわざわざここにつけたもので、卑弥呼を隠すどころか積極的に卑弥呼を神功皇后に比定したものと言えるでしょう。>「神功皇后は卑弥呼では?」と連想した人によって追加挿入されたと考えています太歳記事以下三条は本文ですが、本文を改ざんしたということですか。>それも非常に雑な引用です。十二世紀の魏志刊本が誤っている可能性は考えないのですか。>『梁書』は公孫氏誅殺を景初三年と誤認している可能性が高いのではないでしょうか。これはどうみても公孫氏誅殺の後の景初三年に卑弥呼が朝貢したと言っているのでしょう。>『三国志』は「二年」を堅持し続けたとも考えられるのではないでしょうか。どうして三国志だけが文面を誤らず伝えたと言えるのでしょうか。>『三国志』は誤認・誤記に対して復元力の強い(広く知られていた?)史書だった可能性もあると思います。それは三国志文面そのままに解釈したいという願望に過ぎないとおもいます。
@@shiroishakunage ご返信ありがとうございます。立証できないことですので、水掛け論になりそうなのでコメントは控えますが、ひとつだけ。神功皇后紀の、卑弥呼の遣使朝貢記事3件と、壹与(と思われる)の遣使朝貢記事1件は、分注では。
だからその条は註だけで本文がないのですよ。註があとからだとすると、39年、40年、41年、66年条は、年だけがあったことになって不自然です。これらの年表記を追加したなら本文の追加になります。全般に三国志の文面を正とする姿勢が有って、それとずれたものを誤としているようにしか見えません。三国志の文面が誤っている可能性を含めて考察しているようには見えません。
@@shiroishakunage ご返信ありがとうございます。おっしゃっている意味がよくわかりませんが、年だけの本文があるとは思われません。それでしたら、すべての年を記すのではないでしょうか。
普段、こちらのチャンネルは難解すぎて歯が立たないのですが、今回は2年間に焦点を絞って語られたせいか、ビックリするほど頭に入ってきました。今回の動画は「読み込み・解釈の深さ」に優れた岡上さんをも上回った出来だと感じました。勉強になりました。
コメントありがとうございます。お褒めいただき恐縮です。岡上さんは中国語をそのまま読めますから、まったく太刀打ちはできません。動画内の銅鏡の銘文も勝手に解釈しましたが、いろいろ調べてもあのような解釈をされている方は皆無ですから、逆にどこか間違っているのではないかと心配しています。今さら中国を習得することは不可能なので、やれる範囲でやるしかないと割り切っています。
アップ有難うございます。動画編集が相変わらず素晴らしいすぎて見入ってしまいました。順を追ってみていくと、見ているうちに景初二年説で問題ないような気になってきますねー。三国志原文をそのまま生かすという立場はやっぱり強いものがあります。
岡上さん、ありがとうございます。ぜひ「二年説」へ!(笑)
伊藤さん、 魏志倭人伝本文重視という立場を首尾一貫ということでは、二年説は潔いところがありますからねー。ただ、編纂上の問題を考える場合、時には本文の構成というか裏事情を考えるというのが私のスタンスですので。。。 今回も四者四様でおもしろく拝見できました!
理路整然、図解も分かりやすいですね。
コメントありがとうございます。「理路整然」と言っていただけると、動画を作った甲斐があります。引き続きよろしくお願いします。
論点のすべてを列挙しつつ わかりやすく緻密な論考!いつもながら芸術品のようにお見事です。これを見ると景初2年にしか思えなくなりますね。
古荘さん、ありがとうございます。今回、ちょっと手違いによりみなさまより20分ほど出遅れてしまいました(笑)。古荘さんも2年説でよかったです!9日のライブ楽しみにしています。
公孫淵、景初2年6月の時点でほぼ四面楚歌だった説ですね。仲達に毌丘検、帯方郡の2将に宮こと東川王。これだけガチで攻め込まれては、公孫淵もなすすべなしというのも説得力あります。卑弥呼率いる倭の面々、よほど情報網があれでない限りはゴーサイン出しても問題なしとみられますね。そして3~4月ほど難升米らは帯方郡で足止め状態だった、と。そこにありえない「景初4年の鏡~日本国内製造確定」が根拠に。伊藤さんのお考えもすじが通っています!
コメントありがとうございます。「説得力がある」「すじが通っている」と言っていただけるのがいちばんうれしいです。絶対的な立証のできない古代史論は、そこが勝負だと思っていますので。銅鏡については専門家ではありませんから自信をもって語ることはできないのですが、鏡の専門家の方でも「三角縁神獣鏡が魏(中国)で作られた」「景初三年銘鏡や四年銘鏡が後世に作られた」とおっしゃっているのはどうしても納得いきません。後世に踏み返し鏡(コピー)が作られることはあるでしょうが、わざわざ昔の年号を入れることはないように思うのです。引き続きよろしくお願いします。
伊藤先生の沈着冷静な景初二年説には説得力があります。魏志倭人伝が正しいと思いました。
コメント&ご賛同ありがとうございます。同時代の日本の史書はありませんから、『三国志』魏志倭人伝頼みにならざるをえません。ですが、『三国志』が辺境の倭地について嘘を書く必要はまったくありませんから、基本的に魏志倭人伝の記述はまずは信用すべきものだと思っています。
岡上先生へのコメント返しに1票 (笑)
いつもありがとうございます!感謝!通説の「三年説」に対して、「二年説」が盛り返していくことを願っています。今後ともよろしくお願いします。
卑弥呼の未来予知力が凄かった事が問題を生んだともいえますね。
コメントありがとうございます。おそらくですが、公孫氏の元に女王国の人間が、公式・非公式はわかりませんが、常駐していたのではと思います。ですから、公孫氏が危ないことは早くからわかっていたのではないでしょうか。それでも最終的に卑弥呼が公孫氏滅亡を予知したということにはなりますね。
いつも楽しく拝見させてもらってます。今日は、ひな祭り、スサノオとアマテラス、三人官女と五人囃子を見ながら、ひなあられを食べよう笑笑
コメント&いつもご視聴いただきありがとうございます。いいですね。私は兄弟も子どもも男ばかりだったので、ひな祭りとはほぼ無縁でした。ひなあられを食べた記憶もないような・・・。
合同企画3作目。おつかれさまです。これは、これは、(個人的には)一番納得できる動画でした。流石です。三国志魏書明帝記の景初元年に、『詔青兖幽冀四州大作海船』とあって、これが「帯方郡」の攻略用だと思ったんですよね。公孫淵の襄平は「内陸」なので、「海船」は必要ないからね。同じころ、呉が燕を助けにくる可能性もあったけれど、対呉用ならば、徐州や予州で造船するはず。帯方太守 劉昕 楽浪太守 鮮于嗣 とあるけれど、彼ら(武官)が「平定」したかと思っております。当然、手柄は全部「司馬懿」のものとして処理されたんだろうなぁ。
コメントありがとうございます。公孫氏統治下の楽浪郡・帯方郡がどのような体制だったかはわかりませんが、魏の新太守に対して、郡をあげて抵抗するとは思われませんから、比較的簡単に新太守の体制に移行したのではないでしょうか。劉昕らがどれほど評価されたかは記録がありませんが、結果的に手柄は「司馬懿の公孫氏討伐」に含まれてしまいましたね。
まるでモザイクをはめ込むようです。難解なテーマをわかりやすく解説していただきありがとうございます。以前の陳是の三角縁神獣鏡の回でその説得力に感銘をうけました。 その頃奈良の鏡作神社など巡ってた時期だったので納得のお話でした。 博物館で三角縁神獣鏡の前でジーッと見てました。銅鏡の年号は考古学的にも貴重な証拠です。論拠はそれをもとに唱えるのが筋だと思います。さて 地図をなぞってチャンネル拝見してきます。
コメントありがとうございます。おっしゃるように銅鏡に鋳出された年号は貴重なものだと思います。後世に製造されたと考える方もとても多いのですが、私としてはどうしても納得できません。今後ともよろしくお願いします。
さすがです。動画のクオリティも凄いのですが、この問題についての説明が非常に丁寧で分かりやすいです。見習わなければと思いました。景初3年説が絶対ではないと言うのはおっしゃる通りだと思います。今回、動画を作りながら絶対的な根拠を探したのですが、結局、可能性の話以上には結論付けることができませんでした。(^^;
武田さん、ありがとうございます。おっしゃるように、景初二年説も景初三年説も絶対的な根拠を示せません。だから、この問題もいつまで経っても結論が出ないのだと思います。いま「三年説」が有力視されているのは、学者先生などいわゆる「声の大きい方」が三年説を支持されていることが大きいでしょう。(結論は出ないとしても)これからも「二年説だ!」「いや三年説だ!」と楽しく議論できればよいと思っています。
@@J-history おっしゃる通りに思います。そして、考えることが楽しいです。
@@takedaharuki まあ、私たちはこれで食べているわけではないので、いろいろなしがらみがあるわけでもなく、純粋に古代史と向き合えますからね。
@@J-history 確かに気楽な感じで楽しんでいます。
相変わらずの理路整然とした考察で景初2年説、説得力がすごく大変感銘を受けました😚紀年銘鏡は有力な手がかりですね。陳是が倭で作製して、後に大量生産した三角縁神獣鏡の鋳型がいつか見つかるかもしれませんね( ・ิω・ิ)
コメント&いつもご視聴いただきありがとうございます。おっしゃるように紀年銘鏡は重要な手掛かりになると思っています。ですが、専門家の方々でも「三角縁神獣鏡は、中国で一枚も出土していないけれど中国で製作した」とか、「後世に景初三年銘鏡や景初四年銘鏡を製作した」と平然とおっしゃるのは、どうなのかなと思います。後世に陳是が自身の経歴を書きつつ、昔の年号(景初三年など)を記すことは(ほぼ)絶対にありえないだろうと思います。
@@J-history 普通に考えれば、中国で1枚も出ない鏡は中国産とは言えないですよね(笑)
@@隆一西 普通はそう考えるのが妥当だと思います。
素晴らしいです。これもミナコケで3年ですね。
コメントありがとうございます。三年説、ですか?二年説が盛り返して、議論が盛り上がることを願います。
@@J-history リアルな陳寿派で2年説ですね!梁書の姚思廉の妄想コケたら皆コケタです。
@@dry301 ご返信ありがとうございます。安心いたしました!これからもよろしくお願いします。
三国志の記述を信用するという明確な立ち位置が好きです。個人的には景初二年六月から十二月の空白期間が景初二年説を補強している気がします。平定が終わった八月から洛陽に向かったのではと考えています。仮に景初三年の立場を取るのであれば、遣使は正始に改元されてからにするのではとも感じます。なぜあと一月待たせなかったのか。ただ、下賜が2回に分けてあったという点についてはちょっと破格過ぎる気がします。難升米と梯儁が同行していたと記載されていないという論点からすると、それでは鏡工人の一団については全く記述されていないのではと。。。
コメントありがとうございます。12月に難升米らが洛陽に着いたという趣旨の論考はよく見るのですが、12月は卑弥呼の遣使に対する処遇がすべて決まって、皇帝からの言い渡しがなされた月だと思います。難升米らは10月頃には到着していたのではないでしょうか。そうだとしても、改元を待って送り届けるというのは説得力のある説だと思います。2回の下賜については、検証しようがありません。3年説だと、おっしゃるように難升米と梯儁が同行したということになるのだと思います。ただ、難升米たちは12月に洛陽を出発しますが(陳是らが同行したとしたら一緒に)、梯儁たちはその後ワンクッションはさんで(洛陽から帯方郡へ金印紫綬を運んで、太守弓遵が検分し、倭国への使節を編成して梯儁を長に任命するなど)出発することになります。難升米たちは帰路、帯方郡に立ち寄ったとは思いますが、準備のあいだ帯方郡でのんびり休んでいたとは思えないのです。引き続きよろしくお願いします。
@@J-history ご返信ありがとうございます。おっしゃる通り12月は皇帝からの言い渡しがあった月だと考えています。遣使に先立って先ぶれがあり、既に洛陽内で処遇が決まっていたと思います。同じように難升米が帰国する際にも先ぶれ(例えば牛利)を倭国側へ出しているはずです。ですので、難升米本隊は正式な魏の使者と共に下賜品を伴い悠々と帰国するのもおかしくは無いかなと。いずれにしても楽しい動画でした!これからも頑張ってください!
@@hirouchida3068 ありがとうございます。
陳是についての考察は、斬新だな。当たってるかも。
景初二年には交戦中だから渡れないという論拠は、当時の公孫氏と呉の関係とか、海洋ルートの存在を全く無視しているよな。司馬懿派遣の時点で、用意周到に、海路で楽浪帶方を取って挟み撃ちという作戦が発動されていたのは間違いないだろう。
この動画、ほぼ全面的に支持できますね。
岡さん、コメントありがとうございます。以前、邪馬台国遊園地ではお世話になりました。
楽浪郡、帯方郡がどの時点で魏に帰したのかについて、東夷伝序文の時系列があいまいなのでややこしいのですが、公孫淵が独立を宣言した以上、明帝は即座に反応した(せざるを得なかった)と思います。
そして、公孫淵のもとにいた両郡太守がどこまで独立に賛同していたかも不明ですから、比較的容易に新太守への権力移譲が行われたのではないかと思っています。
今後ともよろしくお願いします。
印綬と共に、下賜された鏡が百枚の銅鏡でないと、読み取れました。そうなると日田で出土した鉄鏡がその時の鏡と推察できますが、如何でしょうか
あけましておめでとうございます。
このチャンネルの考えるように「梯儁たちが届けた鏡が、明帝の下賜した銅鏡100枚とは異なる少帝からの鏡であった」とすれば、その可能性もあるかもしれません。
ただ、日田の鉄鏡については出土状況が不明ですから、判断のしようがないというのが現実ではないでしょうか(後世に誰かが中国から手に入れたというような見方もあるようですから)。
それは卑弥呼は公孫氏滅亡の危機に際し命乞いに行ったのかも〜
だから…
処刑前に行かないと。
コメントありがとうございます。
確かに、公孫氏と一体だと思われるのはまずいと考えたでしょうね。
RUclipsを見ていて思うことは、RUclipsrの漢籍の取り扱いには、総じて問題が多いと思います。
まず校勘に関して、そのやり方や結果に関して異論があるというレベルではなく、そもそも何故校勘が必要になるのかわかっていないと思われることです。
漢籍を色々見ていると、直感的にその文面が時代とともに、しだいに誤りを累積していったことが理解できます。
これは実際に考古学敵に発見された、古い写本の文面が現在と異なっていることがあることで確認できます。
だからこそ元の文面がどうだったかの検討が、必須になってくるのですが、当然そこで重要なのは書物の成立年代ではなく、実際に印刷されたり、書写された実物の年代になるのです。
現存の三国志は南宋時代に刊行されたものです。
それに対して14世紀に書写された、日本書紀には下記のようにあります。
卅九年、是年也太歳己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」
これは太歳己未に対する註なので、後に出てくる年は、己未年以外にあり得ず、引用元も景初三年であったことが確定できます。
さらにこの条文には本文がなく、註だけとなっているので、日本書紀編纂時のものであり、八世紀初頭にこの朝貢が景初三年であったとする文面が存在したことが確定できます。
従って唐代における三国志の文面は景初三年であったと考えられるのです。
あと梁書の件ですが、景初三年がかかるのは卑弥呼の朝貢にかかるので、問題ありません。
コメントありがとうございます。
『三国志』が陳寿によって撰述され、12世紀に版本になるまでは写本が繰り返されたことは理解しております。
このチャンネルは『日本書紀』は紀年延長過程(文武朝以降)で、神功皇后を創作したと考えています。それは、卑弥呼を隠したことを意味します。
卑弥呼の人物像を投影しながら、天皇には即位しない69年間を創作しています。(干支はこのときに儀鳳暦によって新たに推算されたと思われます)
それを行った編纂者が、わざわざ『三国志』から遣使朝貢記事を引用するとは思えません。編纂者は遣使朝貢を隠したわけで、それは相反するものだからです。
ですから、分注の遣使朝貢記事は後世に「神功皇后は卑弥呼では?」と連想した人によって追加挿入されたと考えています(ある意味、編纂者の思うつぼにはまったと言えます)。
それも非常に雑な引用です。「明帝の景初三年」(これは是とする意見もあると思います)、「難斗米」、「鄧夏」と誤記しています。『日本書紀』編纂時に、編纂者の手元にあった『三国志』からの引用ではないのではと思います。
『梁書』を三年説の根拠とされる方が多いですが、何の先入観も持たずに読めば、「景初三年に公孫淵が誅殺された」のちに「卑弥呼が遣使朝貢した」としか読めません。『梁書』は公孫氏誅殺を景初三年と誤認している可能性が高いのではないでしょうか。
その『梁書』から景初三年という認識が生まれたのだと思います。
『三国志』は、『後漢書』が「会稽東冶」と誤認したにも拘わらず、「会稽東治」を堅持できています。東冶が東治に誤認されることはほぼないといってよいでしょう。東治は特殊な言葉だからです。それなのに、会稽東治としているのです。
同様に、『梁書』以下が「三年」と誤認したにも拘わらず、『三国志』は「二年」を堅持し続けたとも考えられるのではないでしょうか。
立証しようがないことばかりですが、『三国志』は誤認・誤記に対して復元力の強い(広く知られていた?)史書だった可能性もあると思います。
引き続きよろしくお願いします。
>『三国志』が陳寿によって撰述され、12世紀に版本になるまでは写本が繰り返されたことは理解しております。
それなのになぜ三国志は他の史料に比べて古いと、成立年で議論するのですか。
>卑弥呼を隠したことを意味します。
この日本書記の条文は、通常即位元年につけるべき太歳をわざわざここにつけたもので、卑弥呼を隠すどころか積極的に卑弥呼を神功皇后に比定したものと言えるでしょう。
>「神功皇后は卑弥呼では?」と連想した人によって追加挿入されたと考えています
太歳記事以下三条は本文ですが、本文を改ざんしたということですか。
>それも非常に雑な引用です。
十二世紀の魏志刊本が誤っている可能性は考えないのですか。
>『梁書』は公孫氏誅殺を景初三年と誤認している可能性が高いのではないでしょうか。
これはどうみても公孫氏誅殺の後の景初三年に卑弥呼が朝貢したと言っているのでしょう。
>『三国志』は「二年」を堅持し続けたとも考えられるのではないでしょうか。
どうして三国志だけが文面を誤らず伝えたと言えるのでしょうか。
>『三国志』は誤認・誤記に対して復元力の強い(広く知られていた?)史書だった可能性もあると思います。
それは三国志文面そのままに解釈したいという願望に過ぎないとおもいます。
@@shiroishakunage ご返信ありがとうございます。
立証できないことですので、水掛け論になりそうなのでコメントは控えますが、ひとつだけ。
神功皇后紀の、卑弥呼の遣使朝貢記事3件と、壹与(と思われる)の遣使朝貢記事1件は、分注では。
だからその条は註だけで本文がないのですよ。註があとからだとすると、39年、40年、41年、66年条は、年だけがあったことになって不自然です。これらの年表記を追加したなら本文の追加になります。
全般に三国志の文面を正とする姿勢が有って、それとずれたものを誤としているようにしか見えません。三国志の文面が誤っている可能性を含めて考察しているようには見えません。
@@shiroishakunage ご返信ありがとうございます。
おっしゃっている意味がよくわかりませんが、年だけの本文があるとは思われません。それでしたら、すべての年を記すのではないでしょうか。
普段、こちらのチャンネルは難解すぎて歯が立たないのですが、今回は2年間に焦点を絞って語られたせいか、ビックリするほど頭に入ってきました。
今回の動画は「読み込み・解釈の深さ」に優れた岡上さんをも上回った出来だと感じました。勉強になりました。
コメントありがとうございます。
お褒めいただき恐縮です。
岡上さんは中国語をそのまま読めますから、まったく太刀打ちはできません。
動画内の銅鏡の銘文も勝手に解釈しましたが、いろいろ調べてもあのような解釈をされている方は皆無ですから、逆にどこか間違っているのではないかと心配しています。
今さら中国を習得することは不可能なので、やれる範囲でやるしかないと割り切っています。
アップ有難うございます。動画編集が相変わらず素晴らしいすぎて見入ってしまいました。順を追ってみていくと、見ているうちに景初二年説で問題ないような気になってきますねー。三国志原文をそのまま生かすという立場はやっぱり強いものがあります。
岡上さん、ありがとうございます。
ぜひ「二年説」へ!(笑)
伊藤さん、 魏志倭人伝本文重視という立場を首尾一貫ということでは、二年説は潔いところがありますからねー。ただ、編纂上の問題を考える場合、時には本文の構成というか裏事情を考えるというのが私のスタンスですので。。。 今回も四者四様でおもしろく拝見できました!
理路整然、図解も分かりやすいですね。
コメントありがとうございます。
「理路整然」と言っていただけると、動画を作った甲斐があります。
引き続きよろしくお願いします。
論点のすべてを列挙しつつ わかりやすく緻密な論考!いつもながら芸術品のようにお見事です。これを見ると景初2年にしか思えなくなりますね。
古荘さん、ありがとうございます。
今回、ちょっと手違いによりみなさまより20分ほど出遅れてしまいました(笑)。
古荘さんも2年説でよかったです!
9日のライブ楽しみにしています。
公孫淵、景初2年6月の時点でほぼ四面楚歌だった説ですね。仲達に毌丘検、帯方郡の2将に宮こと東川王。これだけガチで攻め込まれては、公孫淵もなすすべなしというのも説得力あります。卑弥呼率いる倭の面々、よほど情報網があれでない限りはゴーサイン出しても問題なしとみられますね。そして3~4月ほど難升米らは帯方郡で足止め状態だった、と。そこにありえない「景初4年の鏡~日本国内製造確定」が根拠に。伊藤さんのお考えもすじが通っています!
コメントありがとうございます。「説得力がある」「すじが通っている」と言っていただけるのがいちばんうれしいです。絶対的な立証のできない古代史論は、そこが勝負だと思っていますので。
銅鏡については専門家ではありませんから自信をもって語ることはできないのですが、鏡の専門家の方でも「三角縁神獣鏡が魏(中国)で作られた」「景初三年銘鏡や四年銘鏡が後世に作られた」とおっしゃっているのはどうしても納得いきません。
後世に踏み返し鏡(コピー)が作られることはあるでしょうが、わざわざ昔の年号を入れることはないように思うのです。
引き続きよろしくお願いします。
伊藤先生の沈着冷静な景初二年説には説得力があります。魏志倭人伝が正しいと思いました。
コメント&ご賛同ありがとうございます。
同時代の日本の史書はありませんから、『三国志』魏志倭人伝頼みにならざるをえません。ですが、『三国志』が辺境の倭地について嘘を書く必要はまったくありませんから、基本的に魏志倭人伝の記述はまずは信用すべきものだと思っています。
岡上先生へのコメント返しに1票 (笑)
いつもありがとうございます!感謝!
通説の「三年説」に対して、「二年説」が盛り返していくことを願っています。
今後ともよろしくお願いします。
卑弥呼の未来予知力が凄かった事が問題を生んだともいえますね。
コメントありがとうございます。
おそらくですが、公孫氏の元に女王国の人間が、公式・非公式はわかりませんが、常駐していたのではと思います。ですから、公孫氏が危ないことは早くからわかっていたのではないでしょうか。
それでも最終的に卑弥呼が公孫氏滅亡を予知したということにはなりますね。
いつも楽しく拝見させてもらってます。今日は、ひな祭り、スサノオとアマテラス、三人官女と五人囃子を見ながら、ひなあられを食べよう笑笑
コメント&いつもご視聴いただきありがとうございます。
いいですね。
私は兄弟も子どもも男ばかりだったので、ひな祭りとはほぼ無縁でした。ひなあられを食べた記憶もないような・・・。
合同企画3作目。おつかれさまです。
これは、これは、(個人的には)一番納得できる動画でした。流石です。
三国志魏書明帝記の景初元年に、『詔青兖幽冀四州大作海船』とあって、これが「帯方郡」の攻略用だと思ったんですよね。
公孫淵の襄平は「内陸」なので、「海船」は必要ないからね。
同じころ、呉が燕を助けにくる可能性もあったけれど、対呉用ならば、徐州や予州で造船するはず。
帯方太守 劉昕 楽浪太守 鮮于嗣 とあるけれど、彼ら(武官)が「平定」したかと思っております。
当然、手柄は全部「司馬懿」のものとして処理されたんだろうなぁ。
コメントありがとうございます。
公孫氏統治下の楽浪郡・帯方郡がどのような体制だったかはわかりませんが、魏の新太守に対して、郡をあげて抵抗するとは思われませんから、比較的簡単に新太守の体制に移行したのではないでしょうか。
劉昕らがどれほど評価されたかは記録がありませんが、結果的に手柄は「司馬懿の公孫氏討伐」に含まれてしまいましたね。
まるでモザイクをはめ込むようです。
難解なテーマをわかりやすく解説していただきありがとうございます。
以前の陳是の三角縁神獣鏡の回でその説得力に感銘をうけました。 その頃奈良の鏡作神社など巡ってた時期だったので納得のお話でした。 博物館で三角縁神獣鏡の前でジーッと見てました。
銅鏡の年号は考古学的にも貴重な証拠です。論拠はそれをもとに唱えるのが筋だと思います。
さて 地図をなぞってチャンネル拝見してきます。
コメントありがとうございます。
おっしゃるように銅鏡に鋳出された年号は貴重なものだと思います。
後世に製造されたと考える方もとても多いのですが、私としてはどうしても納得できません。
今後ともよろしくお願いします。
さすがです。動画のクオリティも凄いのですが、この問題についての説明が非常に丁寧で分かりやすいです。見習わなければと思いました。景初3年説が絶対ではないと言うのはおっしゃる通りだと思います。今回、動画を作りながら絶対的な根拠を探したのですが、結局、可能性の話以上には結論付けることができませんでした。(^^;
武田さん、ありがとうございます。
おっしゃるように、景初二年説も景初三年説も絶対的な根拠を示せません。だから、この問題もいつまで経っても結論が出ないのだと思います。
いま「三年説」が有力視されているのは、学者先生などいわゆる「声の大きい方」が三年説を支持されていることが大きいでしょう。
(結論は出ないとしても)これからも「二年説だ!」「いや三年説だ!」と楽しく議論できればよいと思っています。
@@J-history おっしゃる通りに思います。そして、考えることが楽しいです。
@@takedaharuki
まあ、私たちはこれで食べているわけではないので、いろいろなしがらみがあるわけでもなく、純粋に古代史と向き合えますからね。
@@J-history 確かに気楽な感じで楽しんでいます。
相変わらずの理路整然とした考察で景初2年説、説得力がすごく大変感銘を受けました😚紀年銘鏡は有力な手がかりですね。陳是が倭で作製して、後に大量生産した三角縁神獣鏡の鋳型がいつか見つかるかもしれませんね( ・ิω・ิ)
コメント&いつもご視聴いただきありがとうございます。
おっしゃるように紀年銘鏡は重要な手掛かりになると思っています。
ですが、専門家の方々でも「三角縁神獣鏡は、中国で一枚も出土していないけれど中国で製作した」とか、「後世に景初三年銘鏡や景初四年銘鏡を製作した」と平然とおっしゃるのは、どうなのかなと思います。
後世に陳是が自身の経歴を書きつつ、昔の年号(景初三年など)を記すことは(ほぼ)絶対にありえないだろうと思います。
@@J-history 普通に考えれば、中国で1枚も出ない鏡は中国産とは言えないですよね(笑)
@@隆一西
普通はそう考えるのが妥当だと思います。
素晴らしいです。これもミナコケで3年ですね。
コメントありがとうございます。
三年説、ですか?
二年説が盛り返して、議論が盛り上がることを願います。
@@J-history リアルな陳寿派で2年説ですね!梁書の姚思廉の妄想コケたら皆コケタです。
@@dry301 ご返信ありがとうございます。
安心いたしました!
これからもよろしくお願いします。
三国志の記述を信用するという明確な立ち位置が好きです。
個人的には景初二年六月から十二月の空白期間が景初二年説を補強している気がします。平定が終わった八月から洛陽に向かったのではと考えています。
仮に景初三年の立場を取るのであれば、遣使は正始に改元されてからにするのではとも感じます。なぜあと一月待たせなかったのか。
ただ、下賜が2回に分けてあったという点についてはちょっと破格過ぎる気がします。難升米と梯儁が同行していたと記載されていないという論点からすると、それでは鏡工人の一団については全く記述されていないのではと。。。
コメントありがとうございます。
12月に難升米らが洛陽に着いたという趣旨の論考はよく見るのですが、12月は卑弥呼の遣使に対する処遇がすべて決まって、皇帝からの言い渡しがなされた月だと思います。難升米らは10月頃には到着していたのではないでしょうか。
そうだとしても、改元を待って送り届けるというのは説得力のある説だと思います。
2回の下賜については、検証しようがありません。3年説だと、おっしゃるように難升米と梯儁が同行したということになるのだと思います。
ただ、難升米たちは12月に洛陽を出発しますが(陳是らが同行したとしたら一緒に)、梯儁たちはその後ワンクッションはさんで(洛陽から帯方郡へ金印紫綬を運んで、太守弓遵が検分し、倭国への使節を編成して梯儁を長に任命するなど)出発することになります。
難升米たちは帰路、帯方郡に立ち寄ったとは思いますが、準備のあいだ帯方郡でのんびり休んでいたとは思えないのです。
引き続きよろしくお願いします。
@@J-history
ご返信ありがとうございます。おっしゃる通り12月は皇帝からの言い渡しがあった月だと考えています。遣使に先立って先ぶれがあり、既に洛陽内で処遇が決まっていたと思います。
同じように難升米が帰国する際にも先ぶれ(例えば牛利)を倭国側へ出しているはずです。
ですので、難升米本隊は正式な魏の使者と共に下賜品を伴い悠々と帰国するのもおかしくは無いかなと。
いずれにしても楽しい動画でした!これからも頑張ってください!
@@hirouchida3068
ありがとうございます。