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僕は漫画とアニメが好きなオタクですが、このチャンネルを見て文学や神話や哲学を勉強するべきだなと思いました。文学であろうとサブカルであろうとどんなものにも創作物には共通の何かがあって、それを知るのは凄く有意義なことです。
最新作楽しみにしてました!眼差し、詩、コジェーブ、認識と今までの動画とな関係が感じられて非常に楽しい知的体験をさせて頂きました!また、認知科学/哲学と詩のつながりなど文理の垣根を越えた世界観の可能性にワクワクしました。ありがとうございます😊
こちらこそ、誠にありがとうございます。自分のことで手一杯でなかなか皆さんの動向をチェックできずにいるのですが、それでも最初の動画から一つ一つ拝見させていただいております。なかでも『生物から見た世界』の動画、めちゃくちゃ勉強になりました。……ってか、最新作『野生の思考』まだ拝見できてませんが、選書の段階で凄すぎます(笑)
文学だとか哲学に対してすごく真摯だと思います。他の方のチャンネルは本当にちゃんと読んでるのか?なんか倫理の教科書で聞いたことしか言ってないぞ、みたいなものばかりです。このチャンネルが一番信頼できます。ところで、Twitterはされてないのですか?
コメント、ありがとうございます。自分では野暮ったい動画だと思っているので、そのように評価していただけると大変嬉しいです。Twitterについてはちょいちょい訊かれるのですが、やってません。好きじゃないので、やる予定もありません。
20:26 否定神学
8:48以降のlecture、圧巻です。😂ブランショの言語表現への切り口が小気味良く、その余韻にうっとりと浸ってしまいました。改めて振り返ってみると、今までは点でしかなかったものが自分の中で繋がり、シナプスの様態を示し始めました。だからやめられない!至福の時間。今日もありがとうございました。ところで主さま、G.マルケス、もしくは大西巨人を探究される御予定はございますか?いつかまたお時間が許すようであれば、ご検討くださると嬉しいです。なにぶん私では鋼の巨星たちには歯が立ちません故😢
ガルシア・マルケスは数年後にやるかも、という感じです。中上健次、ないしは古川日出男さんに絡めて。大西巨人は、野間宏を扱うことがあったら言及するかも知れません。確か、野間との論争を経て書き上げられたのが『神聖喜劇』だったはずなので。
@@read- 😃愉しみは寝て待っ。芳醇なワインのごとく💕返信ありがとうございます🙋
楽しみにお待ちしておりました。
ありがとうございます!
今回はすごい力作なのが観て分かりました。面白い動画をありがとうございます。難解な部分が多々あり、浅学なわたしにはついていくのがやっと……というかついていけてないのでは?笑 とにかくまだうまく言語かできませんが「なにか分かりづらい」ものをどうにかこうにか言葉にしようとするその試み、ずっと前の動画で吉行淳之介さんが創作を虚空に花を掴むようなものと言っていたとありましたが、まさにその虚空とは何か、花とは何か、それを極限まで言語化し伝えようとしている、そういうことなのではないかなと思いました。今回も知の大冒険でした。繰りかえし観てみたいと思います! ありがとうございました!
こちらこそ。御視聴ならびに丁寧なコメント、誠にありがとうございます。「虚空に花をつかむ」とは詩人(マイナーポエット)としての創作態度を表したものなので、まさしくその通りですね。言われるまで気づきませんでした。……ただ、あの動画は出来がよくないので、そのうちリメイクしたいと考えています(笑)
知的で素晴らしい動画ありがとうございます。ところで分かりづらいさんは小説の創作はなさらないのですか?
こちらこそ、御視聴ありがとうございます。私はもう、小説は遊びでも書きません。結果こそ残せませんでしたが、全身全霊でひとつのことを納得のいくところまでやり抜けたわけですから、私はこれを幸福なことだと思っています。
理論を勉強しすぎて書けなくなった感があってちょっともったいない気がしました。
とっても面白い解説、ありがとうございます!劇作家の平田オリザさんが著作「演劇入門」中で、観客にシチュエーションを伝える台詞にはそのものからなるべく遠い語句を使わなければならない、と仰っていたことを思い出しました\\ꐕ ꐕ ꐕ//私も歌を作るのですが、伝えたい何かがある時はその外側をひたすら別の言葉で囲んでそれを浮かび上がらせるように表現しようと試みていて、そうしていた理由がこの動画でなんとなくわかった気がします!
こちらこそ、御視聴並びに丁寧なコメント、誠にありがとうございます。ちょっとでも創作活動の助けになっていたら嬉しいです。【追記】チャンネルをお持ちだったとは……。作詞作曲だけでなく、イラストと動画も御自身で手掛けられているなんて凄いです。応援しています!ruclips.net/p/PL-_eiIqHx28VibKnWYhwaQRc6WBaLeSvN
@@read- 観てくださってありがとうございます!嬉しいです!!URLまで貼ってくださって…🙏お言葉を励みにコツコツがんばります〜𓀠
音楽については全く分かりませんが、ヴァイオレットの花言葉は誠実だとか誠意なのだそうで、それが逆さ吊りになって揺れているというのだから言葉をおろそかにしない人だというのは判りました。そんな感想を持つくらいには「ハルシネイト」を聴いてます。私は好きですよ、もっと広まってほしいです。がんばってください。「ハルシネイト」ruclips.net/video/4dbJWjqkSMU/видео.html
とても勉強になりました…ありがとうございます。拝見していて気づいたのですが、日本文学で『作者の死』を実践していた(意識的無意識的にかかわらず)作家として徳田秋声と古井由吉が挙げられるのではないかと思いました。海外文学だとフローベールなんかもそうですが、彼らが拘ったのは『文体』であり、つまりは客観性のあるフラットな目線で書かれた言葉を重視することを意味しますが、その意味するところが何なのか長年わからずもやもやしていました。しかし本動画で目を覚まさせられました。客観のある文体とは突き詰めれば神の目線となるわけですが、そこに到達することは不可能。しかしそこへ接近する行為そのものが『作者の死』を要請する。彼らは不断に全体への接近を試み、その有様を読者に開示してくれていた。そう考えると腑に落ちました。とても良い気づきを得られました。感謝します。(意味不明だったらすみません…)
こちらこそ、ご視聴並びに丁寧なコメント、誠にありがとうございます。『盗作の文学史』に詳しかったですが、秋声は確か分業制を敷いていたそうです。当時の慣習からいったら褒められた話ではありませんけれども、しかし現代の漫画家のような創作体制を採っていたわけで、それだけ「私」にこだわりがなく捌けていたとも見なせるかと思います。古井さんは文体に定評がありますが、個々人に独自の文体が宿るというのではなく、時代背景が文体を作るという考えの持ち主でした。煎じ詰めれば、「私」は状況によって形作られるという立場を採っていたと見なしていいかと思います。この二人の作家が全体性を志向していたかどうかは、私には判りかねます。ただ、「作者の死」を体現していたというのはおっしゃる通りだと思います。古井さんに関しては柄谷さんが初期から指摘しているものの、秋声は慧眼ですね。なるほどと唸らされました。自然主義の作家には、この種の新しさが見出だせるかも知れません。示唆に富むコメント、改めてありがとうございました。
文学が説明でも理解でもないというのがいたく心に響きました、つまらない文章というのはむしろそれらに切磋琢磨しているように思われます特別文学に従事せずとも、いつでも舌足らずな言葉。またテキストに表れている空白というのも、作者内で言葉にしきった上で伏せたものと、意識せざる内に空白となったもので、結果は同じでも随分と意味は違いそうですそこにあるものを拾い上げる、網の目の子細を突き詰めることが、やはり作家、読者の完成、作品の大成には重大であるのでしょうね
サルトルが求めた散文的な言葉がステファヌ・マラルメが提唱した「なまの言葉」であり、ブランショが求めた詩的な言葉が「本質の言葉」なのかもですね。解釈の自由度が低い状態が前者。高い状態が後者であり、パキッと区別する物では無く、グラデーション的に、分人主義的にこの言葉を捉えるべきなのかなと思いました。どちらの言葉を用いるにせよ、発生してしまう実存の否定が、近代病とも呼べる硬直性、それこと物事をパキッと区別してしまう問題を引き起こしているならば、言語的定義に基づいた理解を超克する活動や『なめらかな社会とその敵』自体やその読者に見られる多元主義を実現しようとする活動、我々(読者側)の認知能力を拡張しようとする技術は、「文学」から逸脱はするものの、より自由度を高めた記号を用いたコミュニケーションを提供し、なにかとしか言いようのない経験を語ろうとする権利がより実感を帯びて現れるかもしれませんね。それとも、実存、霊感なんてものはなく、自由エネルギー原理に基づいて統計的に行動しているだけだったとなるかもしれないですが...どちらにせよ、期待は高まるばかりです。いつも刺激を与えてくれる動画ありがとうございます。今後も気長に新動画を楽しみに待っております!
犬派猫派を喩えから垣間みることができるんですね笑
分かります(笑)
コメント失礼します。いつも動画を、有り難く頭を抱えながら拝見させていただいております。恥ずかしながら、お尋ねしたいことがあります。ブランショは解釈以前の何かを実存として定義していると仰っていますが、同じく解釈以前の何かである本質をそれに見出すというのは、およそ次のような認識で間違っていませんでしょうか。「実存」は文学における本質を意味し、それと普遍的本質とは異なったものである。が、ブランショにいわせれば、それらは最終的には言い換え可能なもの、と。あまりに初歩的な部分だと思うので、わざわざアップロード者様のお手を煩わせるのもなあと考えたのですが、それよりも誤解はどうしても避けたかったことでしたので、このようなコメントを投稿させていただきました。ご返信いただけると、幸いです。
まず大前提として、「実存」や「本質」というのは非科学的な領域の話題なんですね。私たち人間には正解が分からない。答えがないと言った方が適切かも知れませんが、だからこそ思想家によって「実存」や「本質」の解釈(定義)が異なるということは往々にしてあります。で、私はその違いをすり合わせて共通項を導き出そうとしていると大雑把に受け止めておいてください。ブランショに限定して言うと、彼は解釈以前の何かを実存として定義していますが、本質については触れていません。この動画で本質というキーワードが出てくるのは、私なりに分かりやすく整理するためです。ブランショのいう実存が個体的本質なのか普遍的本質なのか、そこのところは解説してないので分からなくて当然というか、強いて言うなら、その人が言葉や目の前の対象とどう向き合うかによって変わってくるでしょうね。『意識と本質』の動画で紹介した通り、リルケの場合だと個体的本質になるでしょうし、マラルメの場合だと普遍的本質になるといった具合です。一般的に近代文学、殊に小説で実存が問題になる場合は登場人物自身の本質――自分はいったい何者なのか、自分は如何にして生きるべきなのかという個体的な本質を指す場合が多いように思います。『実存主義とは何か』の動画を見るとイメージしやすくなるはずです。以上、ざっくりとですが。
三浦つとむ氏の認識論・言語論は読まれたことがないでしょうか。認識とは像である、像とは対象・外界を写し出し、脳を座にしてそこに憑依されたものであり、実体は向こうにありその像はこちら頭の中にあるという認識論は私には貴重で、敢えていえば正しいと思われます。外界に身体臓器の生体的化学反応を自覚的に加えれば、本能としての像もはっきりと捉えられ、認識論として結構が整います。全部読んだ訳でも十分に咀嚼したともとても言えませんが、氏の認識論には脳に対してもう一つの外界である言わば内蔵界が自覚的には考慮されていないように見受けられます。認識は頭の中にしかなく、それが外に表れる場合は必ず物質に担われた、憑依された像としてであるというのが氏の認識論・表現論の肝であると受け取っております。認識と実体のどちらがどちらか分からないような論に惑わされて、ぐにゃぐにゃになっていた思考に終止符を打ち、あるべきところにあるべきものを、しかもあるべき仕方で置いてくれたという経験がございます。貴殿の思考がぐにゃぐにゃだと言っているのではもちろんございません、難しいながらも楽しく拝見させて頂きました。残念ながら、氏には文学論(文体論)が十分に展開されてないように見受けられますが、一度興味が湧きましたら読んでいただけたらと思いましたので。失礼いたしました。
丁寧なコメント、誠にありがとうございます。三浦つとむさんは読んだことがありませんが、検索したところ、1950年に時枝文法を擁護して共産党を除名ですか。このあたりの経緯に興味を惹かれました。頭に入れておきます。改めてありがとうございました。
僕は漫画とアニメが好きなオタクですが、このチャンネルを見て文学や神話や哲学を勉強するべきだなと思いました。文学であろうとサブカルであろうとどんなものにも創作物には共通の何かがあって、それを知るのは凄く有意義なことです。
最新作楽しみにしてました!眼差し、詩、コジェーブ、認識と今までの動画とな関係が感じられて非常に楽しい知的体験をさせて頂きました!また、認知科学/哲学と詩のつながりなど文理の垣根を越えた世界観の可能性にワクワクしました。ありがとうございます😊
こちらこそ、誠にありがとうございます。自分のことで手一杯でなかなか皆さんの動向をチェックできずにいるのですが、それでも最初の動画から一つ一つ拝見させていただいております。なかでも『生物から見た世界』の動画、めちゃくちゃ勉強になりました。……ってか、最新作『野生の思考』まだ拝見できてませんが、選書の段階で凄すぎます(笑)
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コメント、ありがとうございます。自分では野暮ったい動画だと思っているので、そのように評価していただけると大変嬉しいです。Twitterについてはちょいちょい訊かれるのですが、やってません。好きじゃないので、やる予定もありません。
20:26 否定神学
8:48以降のlecture、圧巻です。😂ブランショの言語表現への切り口が小気味良く、その余韻にうっとりと浸ってしまいました。改めて振り返ってみると、今までは点でしかなかったものが自分の中で繋がり、シナプスの様態を示し始めました。だからやめられない!至福の時間。今日もありがとうございました。ところで主さま、G.マルケス、もしくは大西巨人を探究される御予定はございますか?いつかまたお時間が許すようであれば、ご検討くださると嬉しいです。なにぶん私では鋼の巨星たちには歯が立ちません故😢
ガルシア・マルケスは数年後にやるかも、という感じです。中上健次、ないしは古川日出男さんに絡めて。大西巨人は、野間宏を扱うことがあったら言及するかも知れません。確か、野間との論争を経て書き上げられたのが『神聖喜劇』だったはずなので。
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楽しみにお待ちしておりました。
ありがとうございます!
今回はすごい力作なのが観て分かりました。面白い動画をありがとうございます。
難解な部分が多々あり、浅学なわたしにはついていくのがやっと……というかついていけてないのでは?笑 とにかくまだうまく言語かできませんが「なにか分かりづらい」ものをどうにかこうにか言葉にしようとするその試み、ずっと前の動画で吉行淳之介さんが創作を虚空に花を掴むようなものと言っていたとありましたが、まさにその虚空とは何か、花とは何か、それを極限まで言語化し伝えようとしている、そういうことなのではないかなと思いました。今回も知の大冒険でした。繰りかえし観てみたいと思います! ありがとうございました!
こちらこそ。御視聴ならびに丁寧なコメント、誠にありがとうございます。「虚空に花をつかむ」とは詩人(マイナーポエット)としての創作態度を表したものなので、まさしくその通りですね。言われるまで気づきませんでした。……ただ、あの動画は出来がよくないので、そのうちリメイクしたいと考えています(笑)
知的で素晴らしい動画ありがとうございます。ところで分かりづらいさんは小説の創作はなさらないのですか?
こちらこそ、御視聴ありがとうございます。私はもう、小説は遊びでも書きません。結果こそ残せませんでしたが、全身全霊でひとつのことを納得のいくところまでやり抜けたわけですから、私はこれを幸福なことだと思っています。
理論を勉強しすぎて書けなくなった感があってちょっともったいない気がしました。
とっても面白い解説、ありがとうございます!
劇作家の平田オリザさんが著作「演劇入門」中で、観客にシチュエーションを伝える台詞にはそのものからなるべく遠い語句を使わなければならない、と仰っていたことを思い出しました\\ꐕ ꐕ ꐕ//
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「ハルシネイト」ruclips.net/video/4dbJWjqkSMU/видео.html
とても勉強になりました…ありがとうございます。
拝見していて気づいたのですが、日本文学で『作者の死』を実践していた(意識的無意識的にかかわらず)作家として徳田秋声と古井由吉が挙げられるのではないかと思いました。
海外文学だとフローベールなんかもそうですが、彼らが拘ったのは『文体』であり、つまりは客観性のあるフラットな目線で書かれた言葉を重視することを意味しますが、その意味するところが何なのか長年わからずもやもやしていました。
しかし本動画で目を覚まさせられました。
客観のある文体とは突き詰めれば神の目線となるわけですが、そこに到達することは不可能。
しかしそこへ接近する行為そのものが『作者の死』を要請する。
彼らは不断に全体への接近を試み、その有様を読者に開示してくれていた。
そう考えると腑に落ちました。
とても良い気づきを得られました。
感謝します。(意味不明だったらすみません…)
こちらこそ、ご視聴並びに丁寧なコメント、誠にありがとうございます。『盗作の文学史』に詳しかったですが、秋声は確か分業制を敷いていたそうです。当時の慣習からいったら褒められた話ではありませんけれども、しかし現代の漫画家のような創作体制を採っていたわけで、それだけ「私」にこだわりがなく捌けていたとも見なせるかと思います。
古井さんは文体に定評がありますが、個々人に独自の文体が宿るというのではなく、時代背景が文体を作るという考えの持ち主でした。煎じ詰めれば、「私」は状況によって形作られるという立場を採っていたと見なしていいかと思います。
この二人の作家が全体性を志向していたかどうかは、私には判りかねます。ただ、「作者の死」を体現していたというのはおっしゃる通りだと思います。古井さんに関しては柄谷さんが初期から指摘しているものの、秋声は慧眼ですね。なるほどと唸らされました。自然主義の作家には、この種の新しさが見出だせるかも知れません。示唆に富むコメント、改めてありがとうございました。
文学が説明でも理解でもないというのがいたく心に響きました、つまらない文章というのはむしろそれらに切磋琢磨しているように思われます
特別文学に従事せずとも、いつでも舌足らずな言葉。またテキストに表れている空白というのも、作者内で言葉にしきった上で伏せたものと、意識せざる内に空白となったもので、結果は同じでも随分と意味は違いそうです
そこにあるものを拾い上げる、網の目の子細を突き詰めることが、やはり作家、読者の完成、作品の大成には重大であるのでしょうね
サルトルが求めた散文的な言葉がステファヌ・マラルメが提唱した「なまの言葉」であり、ブランショが求めた詩的な言葉が「本質の言葉」なのかもですね。解釈の自由度が低い状態が前者。高い状態が後者であり、パキッと区別する物では無く、グラデーション的に、分人主義的にこの言葉を捉えるべきなのかなと思いました。どちらの言葉を用いるにせよ、発生してしまう実存の否定が、近代病とも呼べる硬直性、それこと物事をパキッと区別してしまう問題を引き起こしているならば、言語的定義に基づいた理解を超克する活動や『なめらかな社会とその敵』自体やその読者に見られる多元主義を実現しようとする活動、我々(読者側)の認知能力を拡張しようとする技術は、「文学」から逸脱はするものの、より自由度を高めた記号を用いたコミュニケーションを提供し、なにかとしか言いようのない経験を語ろうとする権利がより実感を帯びて現れるかもしれませんね。それとも、実存、霊感なんてものはなく、自由エネルギー原理に基づいて統計的に行動しているだけだったとなるかもしれないですが...どちらにせよ、期待は高まるばかりです。いつも刺激を与えてくれる動画ありがとうございます。今後も気長に新動画を楽しみに待っております!
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恥ずかしながら、お尋ねしたいことがあります。ブランショは解釈以前の何かを実存として定義していると仰っていますが、同じく解釈以前の何かである本質をそれに見出すというのは、およそ次のような認識で間違っていませんでしょうか。
「実存」は文学における本質を意味し、それと普遍的本質とは異なったものである。が、ブランショにいわせれば、それらは最終的には言い換え可能なもの、と。
あまりに初歩的な部分だと思うので、わざわざアップロード者様のお手を煩わせるのもなあと考えたのですが、それよりも誤解はどうしても避けたかったことでしたので、このようなコメントを投稿させていただきました。ご返信いただけると、幸いです。
まず大前提として、「実存」や「本質」というのは非科学的な領域の話題なんですね。私たち人間には正解が分からない。答えがないと言った方が適切かも知れませんが、だからこそ思想家によって「実存」や「本質」の解釈(定義)が異なるということは往々にしてあります。で、私はその違いをすり合わせて共通項を導き出そうとしていると大雑把に受け止めておいてください。
ブランショに限定して言うと、彼は解釈以前の何かを実存として定義していますが、本質については触れていません。この動画で本質というキーワードが出てくるのは、私なりに分かりやすく整理するためです。ブランショのいう実存が個体的本質なのか普遍的本質なのか、そこのところは解説してないので分からなくて当然というか、強いて言うなら、その人が言葉や目の前の対象とどう向き合うかによって変わってくるでしょうね。
『意識と本質』の動画で紹介した通り、リルケの場合だと個体的本質になるでしょうし、マラルメの場合だと普遍的本質になるといった具合です。一般的に近代文学、殊に小説で実存が問題になる場合は登場人物自身の本質――自分はいったい何者なのか、自分は如何にして生きるべきなのかという個体的な本質を指す場合が多いように思います。『実存主義とは何か』の動画を見るとイメージしやすくなるはずです。以上、ざっくりとですが。
三浦つとむ氏の認識論・言語論は読まれたことがないでしょうか。認識とは像である、像とは対象・外界を写し出し、脳を座にしてそこに憑依されたものであり、実体は向こうにありその像はこちら頭の中にあるという認識論は私には貴重で、敢えていえば正しいと思われます。外界に身体臓器の生体的化学反応を自覚的に加えれば、本能としての像もはっきりと捉えられ、認識論として結構が整います。全部読んだ訳でも十分に咀嚼したともとても言えませんが、氏の認識論には脳に対してもう一つの外界である言わば内蔵界が自覚的には考慮されていないように見受けられます。認識は頭の中にしかなく、それが外に表れる場合は必ず物質に担われた、憑依された像としてであるというのが氏の認識論・表現論の肝であると受け取っております。認識と実体のどちらがどちらか分からないような論に惑わされて、ぐにゃぐにゃになっていた思考に終止符を打ち、あるべきところにあるべきものを、しかもあるべき仕方で置いてくれたという経験がございます。貴殿の思考がぐにゃぐにゃだと言っているのではもちろんございません、難しいながらも楽しく拝見させて頂きました。残念ながら、氏には文学論(文体論)が十分に展開されてないように見受けられますが、一度興味が湧きましたら読んでいただけたらと思いましたので。失礼いたしました。
丁寧なコメント、誠にありがとうございます。三浦つとむさんは読んだことがありませんが、検索したところ、1950年に時枝文法を擁護して共産党を除名ですか。このあたりの経緯に興味を惹かれました。頭に入れておきます。改めてありがとうございました。