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石田三成同様武官より文官・官僚として秀でてんだよね
子供は秀吉に因縁を付けられて、所領の大半を没収された。織田家、蒲生家、いずれも同じ目に、だから大阪の陣で、豊臣秀頼が、「亡き太閤殿下の御恩に報いるために参陣を!」って言ったけど、「今の天下人は家康公だし、太閤殿下のやり方は酷いものだったから無理ですわ」って事になったよね。
とはいえ、家康、秀忠もまた似たようなことをしてたからな。
秀吉もバカだよね、息子の長重をもっと大事にしていれば豊臣家の力になってくれたかもしれないのに、大名家として残ったのがせめてもの救いですね
秀吉はなんだかんだ、自分の後継者を家康にしているからね。試練を与えたり、義理の弟にしたり、高い官位を与えたり。関東平野を与えたり。上杉を会津に動かしたり、豊臣政権を崩壊させることばかりしていたからな。
秀吉は勿論、柴田も滝川も明智も方面軍指揮官として大権を与えられた将はみんな信長の代から織田家に仕え始めた言わば外様で、優秀な分待遇も良くして機嫌を取らないと離反されるリスクのある存在だった。それに比べて長秀の丹羽家は織田家と共に守護の斯波家に仕えていた間柄で縁戚関係もあった。長秀自身も小性として上の4人よりずっと早くから仕え始めた身で、そもそも名前の長は信長から自分と同じ字を使う事を許されて名乗った物。内政が活躍の中心になったのはむしろ「コイツは過剰に優遇しなくても自分を裏切らないしむしろ手元に置いておきたい」という信長からの別格レベルの絶対的な信頼があった事を証明してると言える。
信長にとって、才はあっても替えのきく秀吉や光秀に対し、幼きから仕える長秀は替えの効かない人物主役のおかずは変わっていっても、左手には常に変わらないご飯米五郎左という異名は、信長家臣団における丹羽長秀という人物を端的に現した傑作だと、改めて感じました
信長からしたら、そのポジションに信盛も着いて欲しかったのではないかと、個人的には思ってます
長秀は武将というよりも官僚タイプだったのだろうか…いずれにしても信長からの信頼は確かなものだったような気がしますね。もう少し強かに立ち回って秀吉をジリジリと追い込んで行けば、また違った展開もあったのかな?という気もする。
武官が乱世から治世になるにつれて、権力ダウンするパターンはよく見るけど、文官に転身したがゆえに権力から遠ざかるパターン珍しいな
丹羽長秀は織田家の縁の下の力持ち的ポジションの武将のイメージが強いな
長重は、あれだけ減封されまくっても、それでも秀吉に恩を感じて関ケ原では西軍だったんですからもし100万石のままであれば、家康に対する相当な重しとして豊臣のために働いていたでしょうねそういう意味では、秀吉には丹羽長重を見る目が無かったということかもですね
丹羽家が関ケ原で改易後短期間で大名に復活できたのは、築城等の土木工事に長けた家臣を多く抱えていたのが大きいですね。実は安土城築城の総奉行だったのが丹羽長秀であり、嫡男長重が大名復活後の居城だった棚倉城・白河城、嫡孫の光重が転封後の居城である二本松城の修築・拡大を実施していますから、幕府もその土木技術を最大限に利用したくて大名に復活させたのだと思います。
丹羽家の息子の仙丸が藤堂高虎の養子になってますが、藤堂高虎も確か築城が得意で家康からそれを評価されていましたので、両者がともに築城が得意というのは何か関係があるのでしょうかね??
秀吉は丹羽家を弱体化させた時に長束正家・溝口秀勝等を豊臣の直臣として丹羽家から召し上げた。
羽柴秀吉は丹羽長秀の羽と柴田勝家の柴を貰って名乗るくらいだからね。愛知県民だから昔から丹羽長秀は知っている😂
遊撃部隊を任されたというのは名目上の話で、本来は諸将の監視とか牽制が本来の役割だったんじゃないか領国の若狭も日本海側の物流の一大拠点だから、ここを抑えてるというだけで軍事的にも経済的にも相当大きな影響力になる
長秀は、賤ヶ岳合戦に参加してます。大事な場面で琵琶湖から敵前上陸して、賤ヶ岳陣地を取り戻しているので隠れた殊勲賞です。なかなか凄い機動力+度胸です。この名場面を描いたドラマは見たことないですね・・・これが無ければ、佐久間盛政たちは無事に退却できていたかもです。
ちなみに賤ヶ岳砦を守っていた桑山重晴は丹羽長秀の家臣。
桑山重晴は、賤ヶ岳合戦時は長秀家臣か秀吉家臣かがよく分からないです。賤ヶ岳陣地から一度逃げたのは事実みたいですね。長秀が来なかったら逃げたままだった気がします。
その子孫は忠臣蔵の時に「突きだったら確実に仕留められたのに」と言って悔しがって煙草盆を凹ませたみたいで、今も当時の煙草盆を展示しています。
この人は真の意味での信長子飼いだし、手元に置いておきたかったのだろうからこうなるのも当然かな。
本当に大事な人って、階級与えないで側に置いておきたいもの今も昔も変わらないね
丹羽長秀の「羽」柴田勝家「柴」で羽柴秀吉。で、二人ともどうなったか・・・まぁ戦国時代なんてそんなもんだな。
丹羽家は幕末二本松城で有名な二本松少年隊を擁して壮絶なる防衛戦を展開してまね。まあ殿はこのとき避難してましたが😅
秀吉の大返しと明智討伐を目の当たりにして、こいつを敵に回さない方がいいと思ったかもしれない。
丹羽長秀時代は好待遇続いたでしょ?
10万石に復帰で幕末まで生き延びた・・・十分勝ち組じゃん。この時代の一番大事なことは家を残すこと。まして10万石なんて凄い。男は決して負ける戦をしてはならない。最後に残ったものが真の勝者です。丹羽氏天晴。
ぷw戦国一の覇王信長の戦の勝率知ってる?家康も秀吉も負け戦ばかり男は決して負ける戦いをしてはならない…って(^◇^;)戦国時代では土俵に上がってない意味になるよ
@@21kai5 だからこそ丹羽長秀こそ真の男って言ってるのでは?笑
@@No-js4tv こそは一回なたぶん理解してないからだからこそってどういう意味か説明してみて
@@21kai5 前の内容に対し、必然的であること、かくあるべし、かくすべしという後の内容を強調して述べる場合に使います。
@@No-js4tv マジか大丈夫?あなたのいう【だからこそ】がどういう意味で何を指してるかを聞いてるに決まってるだろww
礒野カズマサ、サザエさんの先祖・礒野モズクはその分家らしい。
全然使い捨てられてはいないですね。丹羽長秀自身は一早く秀吉の実力を見抜いて織田家宿老の中で唯一栄達しましたし生涯、秀吉から立てられています。改易になったのは子孫の不手際。もちろん秀吉は丹羽氏の勢力を温存する気はなかったでしょうけど、そこは子や子孫の器量。
どうする家康では清須会議の一瞬だけで出番終わり…?
確かに、一瞬だけでしたね。まあ家康にあまり関わり無いから仕方がない。
官僚として素晴らしい才能を発揮したと思う。武力では上には上がいるが、内政面は簡単に変えが効かない。太田牛一・戸田勝成・溝口秀勝・長束正家・建部寿徳・上田宗箇・青木一重・大島光義といった才能のある家臣も多い。無念な最期だったかもしれないが、織田家にとってかけがえのない存在だと思う。
丹羽長秀の生涯が、良く解りました👍👏🥰 この時代は、多くの戦国武将が、出て来ますが、一人、一人は、良く知らないので、とても勉強になりました。
なんでそんなに「、」が無駄に多いのか。読みにくいです。
長秀公は勝家、光秀に比べれば地味かもしれぬが、どの任務にも堅実にこなし、その謙虚さから信長公に一番信頼され、兄弟とまで言われたとか。長秀公はあえて軍団長に任命されなかったんじゃないかとも思える。"米五郎左のままで結構"と断ったところからも垣間見える謙虚さを信長公は知っていたからこそあえて任命せず、縁の下の力持ちとして織田家を支えてもらいたかったのではないか。なにせ秀吉に振り回された最期が残念でたまらない。長秀公の堅実、謙虚さは見習わねば。
丹羽長秀らに共通するのはもう少し寿命が長ければなという点かな。
蒲生氏郷とかに運命が似ている。
丹羽長秀、長重の二代を描いたドラマが見たいです。彼らから見た信長、秀吉、家康がどんな風に描かれるか興味あります。補記)ツイッター社の新しいロゴと丹羽家の家紋が同じですね。
用済みになったというより親子二代で織田家から正室をもらっているという織田家との強い繋がりを警戒されたのではないでしょうか?
家康が豊臣恩顧の大名を天下を取ってから警戒したようにか。なる程ね。信頼の度合いによって、畿内からの距離に反比例するんだろうね。朝鮮の役のための例外を除けば。
滝川一益と共に、織田家臣中最も影の薄い存在丹羽長秀ですが、信長の出世と連動し各家臣が方面軍司令官として昇進していく中、官位も得られず援軍専門のお手伝い部隊となっていくのは、悲しいですね。本能寺の変でも京に一番近い位置にいながら家来達の逃亡を防げず、ここぞ!という時に目立つ活躍ができないのが、歯がゆい感じです。でも信長には信頼されていたからこそ、安土城築城や朝廷工作などを任されていたはずで、親子二代に渡って信長の娘を娶っているわけですね。本能寺の変に顕著なように、一番おいしいところ、肝心のところを秀吉にさらわれているのが、いかにも残念です。おそらくダメ出しのできぬ謙虚な性格だったのでしょう。自己アピール最大家の秀吉には、軽く見られていたと思います。49歳で亡くなっていますが、その後の自家の没落を見なかったのはせめてもです。(それ以降の子孫の返り咲きは、年齢的に見られなかったでしょうから)こういう歴史上あまり評価されない人は意外といい人が多いので、身近にいたら愚痴を聞いてあげたいタイプです。😁😆😅
長秀にしても長重にしても他に替えの効かない能力があるので利用される、でもそこからは飛躍はできないって感じで、なんか歯がゆいですよね。
目立つ武功が無いにも関わらず、信長の側近として重宝されたことで有能さがわかる
福島県二本松城に行ったら立派なお城が有りました。子孫の方はパナソニックに勤務されていたそうで随分昔ですが子孫としてのコメントを新聞で見たことが有ります。明治維新まで大名でいると言うことは勝ち組みと思いますヨ。
羽柴の羽の字は丹羽長秀から取ってるんだよね
信長に北へも西へも主力として武力的に使われず、内政的なことに従事させられたのはかわりがいなかったからでしょうね。柴田勝家のかわりは羽柴秀吉ができますし、羽柴秀吉のかわりもまた柴田勝家ができますが、丹羽長秀のかわりは二人ではできませんもの。要領もよかったんでしょうね。柴田も豊臣も織田さえも大名としては残りませんでしたが、丹羽は立派に残りましたし。後年は地味でしたが立派な人だったのかとおもいます
個人的にやけど長秀は織田家古参と言えど信長がいなくなる=織田家の終焉やと元々覚悟持ってたんやろなと思ってる。自分には天下を収める器量は無いことも秀吉の才能も見抜いた上で安定を築いたと思ってる
ここまで減封されて西軍に属するとか復活するとかなんでだったんだろ
西軍所属は多分、長重が本当に秀吉に恩義を感じていたから後に人質として預かってた前田利常に梨を剥いてやっていた時、『自分も子供の頃に太閤殿下に梨を剥いてもらったんだ』と懐かしそうに話していたと、利常が語っていたらしい 復活できたのは、小田原城攻めの時に父親譲りの堅実な用兵を見た家康が、その手腕を気に入って秀忠の義兄弟に推したのが分岐点穏やかな性格だった二人は意気投合して直ぐに親密になったそうで(後に衆道の間柄になったとの説もある)、秀忠は関ヶ原の後もずっと長重を気に掛けていて、家康の機嫌が良さそうな時を見計らって『今なら親父の機嫌良いから、挨拶に来たら?』と手紙を送って仲介してくれたその後は持ち前の堅実な用兵と内政能力と築城技術で秀忠の御伽衆(相談役)まで出世して、十万石に盛り返した
それでも息子が家を残しました
肖像画と福澤アナ似すぎだな
勢力が小さいときには縦横無尽に動けたけど、大きくなって智将猛将が集まってくると影が薄くなっちゃった感じかな。ただ信長にとっては信頼できる古参だし安心して後詰を任せられる貴重な縁の下の力持ちといったところでしょうか。ただしっかり家名を保ったのはさすが。
あと年齢的な問題やろ
痒い所に手が届く武将
尾張美濃勢からしたら伊勢で自前の家臣団を抱えていた北畠信雄や神戸信孝に主導権を渡すわけにはいかなかった。別に織田から秀吉に乗り換えたわけじゃないのでは
彼はガンに侵され、病で死ぬのを恥じて切腹して亡くなったとか。
10万石にまで復帰したのは丹羽長秀の筋を通した生き方を長い年月を経て見ていた徳川家康の仁義かも。関が原合戦で西軍に居た大名で加増までされた家は他にないと思うわ。
天下人の話は、織田家とは関係ないのかも知れない。
レキショック様長秀は合戦も上手い蕭何といったところでしょうか。大河ドラマ「秀吉」では、長秀は病気の為身を引き、秀吉も快く送り出す…で余り取り上げられていなかったと記憶しています。長秀死後は秀吉からは目をつけられるのは仕方なかったでしょうね。
これ(14:56)完全に秀吉の言いがかりですよね。丹羽家の力を削ぎたいと言う狙いがあったように見える。
当初信長と敵対していた勝家や中途採用的な光秀や秀吉とは違い、信長最初期から仕えた者のうち、小身から織田家の宿老にまでになったのはこの人だけ。米五郎左と言われるほど信長にとってなくてはならない存在だったがのちに秀吉についたことで織田家の衰退を招いてしまった、中々罪深い人。控えめで打算的振る舞い方はどこかサラリーマン的な悲哀さがある。彼を描いた松本清張の「腹中の敵」はオススメ。
織田を見捨てて豊臣に豊臣を見捨てて徳川に徳川を見捨てて薩長に武士ってけっこうしたたかだよね。
織田版関ヶ原
大名から家老へと格下げされたと思っていたのではないかな。丁度、織田家中央集権化の気配があったから特に感じていたのではないかな。
家名は残ったし、布団で死ねたし、もしかしたら良い人生かも不安の中で死んだ秀吉より、安らかそうだ。
最期に丹羽長秀は腹の腫瘍を腹を裂いて秀吉に送りつけたんですね丹羽長秀自身は秀吉を見抜けないで協力したんだと、思う
秀吉の無能ぶりが分かる動画。
妥協を重ねて素早く天下をとったけど、杜撰だった。
上洛を求める秀吉宛に自身のハラワタを贈った話があるくらい武将としてのプライドは本当は高かったんだろうなぁ。分家になった名張藤堂家も名張騒動が元で…。
秀吉が織田家を乗っ取る過程で、秀勝の存在を忘れてはならない。信雄・信孝は信長存命中は他家の養子になっており、その意味では、秀吉の養子である秀勝も同等の存在である点は大きい。丹羽長秀が、秀吉の三法師を織田家を相続する意見に同調したのは、信雄・信孝のいずれかに相続するなら、秀勝の織田家相続も可能となってしまうからであろう。丹羽長秀が、秀吉の勢力拡大に協力したのは、結果的に、信長の四男がその勢力を相続することになると思ってのことと思われる。
何を見ても秀吉苦手やわ
戦国で最大の謎だわ
石田三成同様武官より文官・官僚として秀でてんだよね
子供は秀吉に因縁を付けられて、所領の大半を没収された。
織田家、蒲生家、いずれも同じ目に、だから大阪の陣で、豊臣秀頼が、「亡き太閤殿下の御恩に報いるために参陣を!」って言ったけど、「今の天下人は家康公だし、太閤殿下のやり方は酷いものだったから無理ですわ」って事になったよね。
とはいえ、家康、秀忠もまた似たようなことをしてたからな。
秀吉もバカだよね、息子の長重をもっと大事にしていれば豊臣家の力になってくれたかもしれないのに、大名家として残ったのがせめてもの救いですね
秀吉はなんだかんだ、自分の後継者を家康にしているからね。試練を与えたり、義理の弟にしたり、高い官位を与えたり。関東平野を与えたり。上杉を会津に動かしたり、豊臣政権を崩壊させることばかりしていたからな。
秀吉は勿論、柴田も滝川も明智も方面軍指揮官として大権を与えられた将はみんな信長の代から織田家に仕え始めた言わば外様で、優秀な分待遇も良くして機嫌を取らないと離反されるリスクのある存在だった。
それに比べて長秀の丹羽家は織田家と共に守護の斯波家に仕えていた間柄で縁戚関係もあった。長秀自身も小性として上の4人よりずっと早くから仕え始めた身で、そもそも名前の長は信長から自分と同じ字を使う事を許されて名乗った物。
内政が活躍の中心になったのはむしろ「コイツは過剰に優遇しなくても自分を裏切らないしむしろ手元に置いておきたい」という信長からの別格レベルの絶対的な信頼があった事を証明してると言える。
信長にとって、才はあっても替えのきく秀吉や光秀に対し、幼きから仕える長秀は替えの効かない人物
主役のおかずは変わっていっても、左手には常に変わらないご飯
米五郎左という異名は、信長家臣団における丹羽長秀という人物を端的に現した傑作だと、改めて感じました
信長からしたら、そのポジションに信盛も着いて欲しかったのではないかと、個人的には思ってます
長秀は武将というよりも官僚タイプだったのだろうか…
いずれにしても信長からの信頼は確かなものだったような気がしますね。
もう少し強かに立ち回って秀吉をジリジリと追い込んで行けば、また違った展開もあったのかな?という気もする。
武官が乱世から治世になるにつれて、権力ダウンするパターンはよく見るけど、文官に転身したがゆえに権力から遠ざかるパターン珍しいな
丹羽長秀は織田家の縁の下の力持ち的ポジションの武将のイメージが強いな
長重は、あれだけ減封されまくっても、それでも秀吉に恩を感じて関ケ原では西軍だったんですから
もし100万石のままであれば、家康に対する相当な重しとして豊臣のために働いていたでしょうね
そういう意味では、秀吉には丹羽長重を見る目が無かったということかもですね
丹羽家が関ケ原で改易後短期間で大名に復活できたのは、築城等の土木工事に長けた家臣を多く抱えていたのが大きいですね。
実は安土城築城の総奉行だったのが丹羽長秀であり、嫡男長重が大名復活後の居城だった棚倉城・白河城、嫡孫の光重が転封後の居城である二本松城の修築・拡大を実施していますから、幕府もその土木技術を最大限に利用したくて大名に復活させたのだと思います。
丹羽家の息子の仙丸が藤堂高虎の養子になってますが、藤堂高虎も確か築城が得意で家康からそれを評価されていましたので、両者がともに築城が得意というのは何か関係があるのでしょうかね??
秀吉は丹羽家を弱体化させた時に長束正家・溝口秀勝等を豊臣の直臣として丹羽家から召し上げた。
羽柴秀吉は丹羽長秀の羽と柴田勝家の柴を貰って名乗るくらいだからね。
愛知県民だから昔から丹羽長秀は知っている😂
遊撃部隊を任されたというのは名目上の話で、本来は諸将の監視とか牽制が本来の役割だったんじゃないか
領国の若狭も日本海側の物流の一大拠点だから、ここを抑えてるというだけで軍事的にも経済的にも相当大きな影響力になる
長秀は、賤ヶ岳合戦に参加してます。大事な場面で琵琶湖から敵前上陸して、賤ヶ岳陣地を取り戻しているので隠れた殊勲賞です。なかなか凄い機動力+度胸です。この名場面を描いたドラマは見たことないですね・・・これが無ければ、佐久間盛政たちは無事に退却できていたかもです。
ちなみに賤ヶ岳砦を守っていた桑山重晴は丹羽長秀の家臣。
桑山重晴は、賤ヶ岳合戦時は長秀家臣か秀吉家臣かがよく分からないです。賤ヶ岳陣地から一度逃げたのは事実みたいですね。長秀が来なかったら逃げたままだった気がします。
その子孫は忠臣蔵の時に「突きだったら確実に仕留められたのに」と言って悔しがって煙草盆を凹ませたみたいで、今も当時の煙草盆を展示しています。
この人は真の意味での信長子飼いだし、手元に置いておきたかったのだろうからこうなるのも当然かな。
本当に大事な人って、階級与えないで側に置いておきたいもの
今も昔も変わらないね
丹羽長秀の「羽」柴田勝家「柴」で羽柴秀吉。
で、二人ともどうなったか・・・まぁ戦国時代なんてそんなもんだな。
丹羽家は幕末二本松城で有名な二本松少年隊を擁して壮絶なる防衛戦を展開してまね。まあ殿はこのとき避難してましたが😅
秀吉の大返しと明智討伐を目の当たりにして、こいつを敵に回さない方がいいと思ったかもしれない。
丹羽長秀時代は好待遇続いたでしょ?
10万石に復帰で幕末まで生き延びた・・・十分勝ち組じゃん。この時代の一番大事なことは家を残すこと。まして10万石なんて凄い。男は決して負ける戦をしてはならない。最後に残ったものが真の勝者です。丹羽氏天晴。
ぷw
戦国一の覇王
信長の戦の勝率知ってる?
家康も秀吉も負け戦ばかり
男は決して負ける戦いを
してはならない
…って(^◇^;)
戦国時代では
土俵に上がってない意味になるよ
@@21kai5 だからこそ丹羽長秀こそ真の男って言ってるのでは?笑
@@No-js4tv
こそは一回な
たぶん理解してないから
だからこそって
どういう意味か
説明してみて
@@21kai5 前の内容に対し、必然的であること、かくあるべし、かくすべしという後の内容を強調して述べる場合に使います。
@@No-js4tv
マジか
大丈夫?
あなたのいう
【だからこそ】が
どういう意味で
何を指してるかを
聞いてるに
決まってるだろww
礒野カズマサ、サザエさんの先祖・礒野モズクはその分家らしい。
全然使い捨てられてはいないですね。丹羽長秀自身は一早く秀吉の実力を見抜いて織田家宿老の中で唯一栄達しましたし生涯、秀吉から立てられています。
改易になったのは子孫の不手際。もちろん秀吉は丹羽氏の勢力を温存する気はなかったでしょうけど、そこは子や子孫の器量。
どうする家康では清須会議の一瞬だけで出番終わり…?
確かに、一瞬だけでしたね。まあ家康にあまり関わり無いから仕方がない。
官僚として素晴らしい才能を発揮したと思う。武力では上には上がいるが、内政面は簡単に変えが効かない。太田牛一・戸田勝成・溝口秀勝・長束正家・建部寿徳・上田宗箇・青木一重・大島光義といった才能のある家臣も多い。無念な最期だったかもしれないが、織田家にとってかけがえのない存在だと思う。
丹羽長秀の生涯が、良く解りました👍👏🥰
この時代は、多くの戦国武将が、出て来ますが、一人、一人は、良く知らないので、とても勉強になりました。
なんでそんなに「、」が無駄に多いのか。読みにくいです。
長秀公は勝家、光秀に比べれば地味かもしれぬが、どの任務にも堅実にこなし、その謙虚さから信長公に一番信頼され、兄弟とまで言われたとか。長秀公はあえて軍団長に任命されなかったんじゃないかとも思える。"米五郎左のままで結構"と断ったところからも垣間見える謙虚さを信長公は知っていたからこそあえて任命せず、縁の下の力持ちとして織田家を支えてもらいたかったのではないか。なにせ秀吉に振り回された最期が残念でたまらない。長秀公の堅実、謙虚さは見習わねば。
丹羽長秀らに共通するのはもう少し寿命が長ければなという点かな。
蒲生氏郷とかに運命が似ている。
丹羽長秀、長重の二代を描いたドラマが見たいです。彼らから見た信長、秀吉、家康がどんな風に描かれるか興味あります。補記)ツイッター社の新しいロゴと丹羽家の家紋が同じですね。
用済みになったというより親子二代で織田家から正室をもらっているという織田家との強い繋がりを警戒されたのではないでしょうか?
家康が豊臣恩顧の大名を天下を取ってから警戒したようにか。なる程ね。信頼の度合いによって、畿内からの距離に反比例するんだろうね。朝鮮の役のための例外を除けば。
滝川一益と共に、織田家臣中最も影の薄い存在丹羽長秀ですが、信長の出世と連動し各家臣が方面軍司令官として昇進していく中、官位も得られず援軍専門のお手伝い部隊となっていくのは、悲しいですね。本能寺の変でも京に一番近い位置にいながら家来達の逃亡を防げず、ここぞ!という時に目立つ活躍ができないのが、歯がゆい感じです。でも信長には信頼されていたからこそ、安土城築城や朝廷工作などを任されていたはずで、親子二代に渡って信長の娘を娶っているわけですね。本能寺の変に顕著なように、一番おいしいところ、肝心のところを秀吉にさらわれているのが、いかにも残念です。おそらくダメ出しのできぬ謙虚な性格だったのでしょう。自己アピール最大家の秀吉には、軽く見られていたと思います。49歳で亡くなっていますが、その後の自家の没落を見なかったのはせめてもです。(それ以降の子孫の返り咲きは、年齢的に見られなかったでしょうから)こういう歴史上あまり評価されない人は意外といい人が多いので、身近にいたら愚痴を聞いてあげたいタイプです。😁😆😅
長秀にしても長重にしても他に替えの効かない能力があるので利用される、でもそこからは飛躍はできないって感じで、なんか歯がゆいですよね。
目立つ武功が無いにも関わらず、信長の側近として重宝されたことで有能さがわかる
福島県二本松城に行ったら立派なお城が有りました。子孫の方はパナソニックに勤務されていたそうで随分昔ですが
子孫としてのコメントを新聞で見たことが有ります。明治維新まで大名でいると言うことは勝ち組みと思いますヨ。
羽柴の羽の字は丹羽長秀から取ってるんだよね
信長に北へも西へも主力として武力的に使われず、内政的なことに従事させられたのはかわりがいなかったからでしょうね。柴田勝家のかわりは羽柴秀吉ができますし、羽柴秀吉のかわりもまた柴田勝家ができますが、丹羽長秀のかわりは二人ではできませんもの。要領もよかったんでしょうね。柴田も豊臣も織田さえも大名としては残りませんでしたが、丹羽は立派に残りましたし。後年は地味でしたが立派な人だったのかとおもいます
個人的にやけど長秀は織田家古参と言えど信長がいなくなる=織田家の終焉やと元々覚悟持ってたんやろなと思ってる。自分には天下を収める器量は無いことも秀吉の才能も見抜いた上で安定を築いたと思ってる
ここまで減封されて西軍に属するとか復活するとかなんでだったんだろ
西軍所属は多分、長重が本当に秀吉に恩義を感じていたから
後に人質として預かってた前田利常に梨を剥いてやっていた時、『自分も子供の頃に太閤殿下に梨を剥いてもらったんだ』と懐かしそうに話していたと、利常が語っていたらしい
復活できたのは、小田原城攻めの時に父親譲りの堅実な用兵を見た家康が、その手腕を気に入って秀忠の義兄弟に推したのが分岐点
穏やかな性格だった二人は意気投合して直ぐに親密になったそうで(後に衆道の間柄になったとの説もある)、秀忠は関ヶ原の後もずっと長重を気に掛けていて、家康の機嫌が良さそうな時を見計らって『今なら親父の機嫌良いから、挨拶に来たら?』と手紙を送って仲介してくれた
その後は持ち前の堅実な用兵と内政能力と築城技術で秀忠の御伽衆(相談役)まで出世して、十万石に盛り返した
それでも息子が家を残しました
肖像画と福澤アナ似すぎだな
勢力が小さいときには縦横無尽に動けたけど、大きくなって智将猛将が集まってくると影が薄くなっちゃった感じかな。ただ信長にとっては信頼できる古参だし安心して後詰を任せられる貴重な縁の下の力持ちといったところでしょうか。
ただしっかり家名を保ったのはさすが。
あと年齢的な問題やろ
痒い所に手が届く武将
尾張美濃勢からしたら伊勢で自前の家臣団を抱えていた北畠信雄や神戸信孝に主導権を渡すわけにはいかなかった。別に織田から秀吉に乗り換えたわけじゃないのでは
彼はガンに侵され、病で死ぬのを恥じて切腹して亡くなったとか。
10万石にまで復帰したのは丹羽長秀の筋を通した生き方を長い年月を経て見ていた徳川家康の仁義かも。関が原合戦で西軍に居た大名で加増までされた家は他にないと思うわ。
天下人の話は、織田家とは関係ないのかも知れない。
レキショック様
長秀は合戦も上手い蕭何といったところでしょうか。
大河ドラマ「秀吉」では、長秀は病気の為身を引き、秀吉も快く送り出す…で余り取り上げられていなかったと記憶しています。
長秀死後は秀吉からは目をつけられるのは仕方なかったでしょうね。
これ(14:56)完全に秀吉の言いがかりですよね。丹羽家の力を削ぎたいと言う狙いがあったように見える。
当初信長と敵対していた勝家や中途採用的な光秀や秀吉とは違い、
信長最初期から仕えた者のうち、小身から織田家の宿老にまでになったのはこの人だけ。
米五郎左と言われるほど信長にとってなくてはならない存在だったが
のちに秀吉についたことで織田家の衰退を招いてしまった、中々罪深い人。
控えめで打算的振る舞い方はどこかサラリーマン的な悲哀さがある。
彼を描いた松本清張の「腹中の敵」はオススメ。
織田を見捨てて豊臣に
豊臣を見捨てて徳川に
徳川を見捨てて薩長に
武士ってけっこうしたたかだよね。
織田版関ヶ原
大名から家老へと格下げされたと思っていたのではないかな。丁度、織田家中央集権化の気配があったから特に感じていたのではないかな。
家名は残ったし、布団で死ねたし、もしかしたら良い人生かも
不安の中で死んだ秀吉より、安らかそうだ。
最期に丹羽長秀は腹の腫瘍を腹を裂いて秀吉に送りつけたんですね
丹羽長秀自身は秀吉を見抜けないで協力したんだと、思う
秀吉の無能ぶりが分かる動画。
妥協を重ねて素早く天下をとったけど、杜撰だった。
上洛を求める秀吉宛に自身のハラワタを贈った話があるくらい
武将としてのプライドは本当は高かったんだろうなぁ。
分家になった名張藤堂家も名張騒動が元で…。
秀吉が織田家を乗っ取る過程で、秀勝の存在を忘れてはならない。信雄・信孝は信長存命中は他家の養子になっており、その意味では、秀吉の養子である秀勝も同等の存在である点は大きい。丹羽長秀が、秀吉の三法師を織田家を相続する意見に同調したのは、信雄・信孝のいずれかに相続するなら、秀勝の織田家相続も可能となってしまうからであろう。丹羽長秀が、秀吉の勢力拡大に協力したのは、結果的に、信長の四男がその勢力を相続することになると思ってのことと思われる。
何を見ても秀吉苦手やわ
戦国で最大の謎だわ