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当時働いていた者です。福岡玉屋を取り上げて頂いてありがとうございました。深く感謝いたします。
玉屋さんには、何べんも遊びに行きました^^ありがとうございます。
私は玉屋グループ全体と取引してました、今では佐賀玉屋しかありませんが引退した私にはいい思い出しかないデパートでした。自然と涙が出ました!ありがとうごさいました
幼稚園の頃、今は亡き母と叔母が働いていた玉屋さんへ買い物に行きました。後に叔母に聞いたところ、催事の前などは凄く忙しかったけれど、夜遅くまで他の売り場の人たちと準備したりしてとても楽しい職場だったそうです。懐かしいですね。ありがとうございました。
玉屋のランプが素敵で老舗の風格を感じるものでした。取り壊しを知ったとき、あのランプは残してほしいと思っていましたが、あった!!!。楽しい中州あそびの思い出とは切っても切れぬ玉屋。電車で母と行きましたね。玉屋は風格があったのです。ランプの話をしてくれた時に涙がでました。ありがとうございました。うれしいです。あのランプを見に行ってみます。😊
閉店1日前に行ってセカンドバッグかいました、閉店当時は他の岩田屋、大丸と比べ天井が極端に低いイメージがあります、子供の頃は高かったのに!小さい頃は須崎に住んでいたのでばぁちゃんに連れられて買いもんは玉屋ではなく渕上ばっかりでした屋上の遊園地で遊んでいました、帰りに、かろのうろんか英ちゃんうどんでいつも食べて帰ってたのを覚えています、懐かしいですね。今度今はなき博多のごっつぉうも紹介して下さい、湖月カレー、鹿鳴春、食道園etc宜しくお願いします。
私は田中丸呉服店発祥の地、牛津の出身です。田中丸さんは牛津の誇りなんです。両親が成人式の振り袖を、何故か佐賀でなく福岡玉屋まで行って作ってくれました。たまには田舎から出たかったのでしょう。拝見して、もう他界した両親との日々を思い出し涙してしまいました。ありがとうございました。
戦前、小倉市にも出店してきたでも玉屋と名乗れずに菊屋という名称だった戦後、小倉玉屋となりました叔母が務めていたので小倉玉屋は懐かしいですまさか消えるとは思いもしませんでした
高校まで福岡にすんでました。岩田屋・大丸もあったのですが、玉屋の方が印象に残ってます。子供なのでお金もなく買い物はできなかったはずですが、それでも懐かしいのは夢の世界だったのでしょうね。配信有難うございました。
夏休みの暑い日に玉屋へ行ったとき、入口ドアから超冷たい風が流れてきて、思わず「涼しい!と叫びましたよ^^
懐かしいです・・・・。博多っ子なので天神の岩田屋ではなく中洲の玉屋と呉服町の大丸によく行きました。田中丸一族は博多の名家でしたもんね・・・・。今は博多を離れましたからゲイツにも行った事はありませんが、街灯を見てグッときました(T_T)
機会があったら、ぜひ街灯を見てください。ありがとうございます。
離れたのは福岡市のはずだ福博はきちんと使い分けようね
博多を離れて福岡で生活しています。福博の区別はついていますよ。
地下で栗おこわをよく買いました。懐かしいですね。
玉屋、父が地下の惣菜売場に若い頃お世話になっていたり、後々父が独立した後も玉屋と取引があったりして、月に1回は必ず行きました😊日曜日は早くから「よそ行き」の服を着て玉屋に行きオモチャ売場を徘徊し、夕方になると玉屋の近くにあった「ふくよし」という天麩羅やフク料理を出すお店に行き夕飯を食べてバスで帰る…懐かしいです🥲三越と同じ薔薇の袋、なんとも優雅でしたよね。
同感ですね^^ オモチャ売り場は今でも鮮明に覚えています。懐かしいですね~
全国の百貨店に屋上遊園地とかあった時代が懐かしいなあ。まだ20代やけど小さい頃は買い物・遊ぶとなったら百貨店やった。今はイオンとかドンキホーテとか、雰囲気も価格帯も庶民的なショッピングモールが流行るのもあって、全国の名だたる百貨店の閉店ラッシュ…
博多玉屋。幼いころから良く行ったものだ。福岡市民としては、岩田屋なんだろうけど、博多っ子においては、玉屋が一等。近くには博多大丸(後に寿屋)もあったが、高級感は玉屋があったなあ。まあ、博多だけでなく動画にもあったように、佐賀・伊万里・佐世保・長崎各玉屋に行った思い出もあります。最上階はお決まりの様にペットショップと遊戯施設が在り、毎度の様に訪れるのが決まりでした。昔から住んでいる者として、今の福岡は無機質な街となってしまった。昔は雨が似合う街並みだったなあ。・・・・
無機質な街。同感です。行くとさびしくなりますもんね
大正生まれの祖父母によく連れて行ってもらいました。岩田屋や大丸もあり、当時の自分は違いは分からなったのですがおそらく祖父母にとっては玉屋で買い物をする事がステータスだったんじゃないかなとこの動画を観て思いました。
私の思い出は佐世保、玉屋ですね、祖母の家から近く当時3歳(S 11年)の頃、売り場の陳列越しに伝わって来る蛍光灯の温もりは忘れる事はありませんね。今の博多駅辺りには渕上デパートもありました。
中身の濃い動画で、勉強になりました。
懐かしいですね。福岡玉屋は祖父によく連れっていってもらってました。伊万里の玉屋はまだ建物だけはそのまま残っていますが、何か活用できればいいですね。
おじいちゃんの思い出はいっぱいあるようですね、コメントありがとうございます😊
初めてオヤジに買ってもらった、木造の電車のおもちゃ❣️玉屋で親父が思案して買ってくれました。親父は、一昨年亡くなりました。死んでから、親父の優しさを感じています
子供の頃に母親に連れられて買い物に行ったのを思い出して懐かしかったです。あの頃(昭和40~50年代)は玉屋や川端商店街に行くのが好きでした。
地下にあった機械で焼いていた小さな饅頭が、懐かしい。
還暦を過ぎた男です。タバコを吸っていたところ、なぜか「福岡玉屋」が頭に浮かんだので検索したところ、このページに巡り会いました。およそ40年前、七隈にある大学の学生時代、2年の後期から卒業直前までの2年半、玉屋でアルバイトをしていました。地下食料品売り場が定位置でしたが、中元・歳暮の時期は「別注」と呼ばれる部署のアルバイトリーダーとして、指先が荒れるくらい包装しました。バレンタインデー直前には、「南新地」のお店までチョコレートを配達したこともあります。徒歩数分の大学より、中洲にいる時間が長かったと思います。卒業後は、そのまま就職できれば良いなとも考えていましたが、帰郷。卒業して数年後、閉店を報道で知ったときは強いショックを受けました。「当時、お世話になった社員さんやパートさんたちの処遇はどうなるのだろう?」それ以上に感じたのは、「俺の青春がなくなった」でした。
充実した青春時代を送られていたのですね、思い出の共有ありがとうございます 😊
ありがとうございます😭川端生まれで川端育ちの私にとって玉屋デパートは庭でもありシンボルでした。終盤の店舗大改修の際はフラワーコーディネーターとして関わりました。人生の半分くらいは玉屋デパートがバッググランドだと思います。映画館もありましたね!ゴンちゃんさんの心温まるナレーションに胸が熱くなりました。😂ありがとうございます。
ゴンちゃんも玉屋と映画館、青春のグラフティーでした😊コメントありがとうございます。
佐賀玉屋もいい雰囲気ですがかなり厳しそうでもあります。ちょっと通ってみたいと思っています。
当時中洲流の赤手拭いとして表敬させてもらいました。シャッター閉まるとき胸が締めつけられる想いでした
赤手拭ですか!当時は山笠の重要な役割されていたんですね。お疲れさまでした。今年は3年ぶりに追い山見てきました😊
バスの案内放送「次は東中洲・玉屋前」、今でも覚えています。もう少し古いと、市内電車の吊り革の広告は、全車両「楽しいお買い物 玉屋」でした。
いや~懐かしいコメントありがとうございます!
懐かしいね。 玉屋の横に那珂川があるけど、その上に駐車場があって玉屋が閉まった後は自由に車が駐めれて、そこに車を停めて中洲によく呑みに行っていた。 もちろん帰りは車に乗って帰っていた。当時は飲酒運転の検問は週末くらいしかしてなかったので割と平日はそんな人が多かったと思う。今では考えられないよね。
古き良き時代の名残りですね。
イメージ的には岩田屋の方が古い様に思っていましたが、玉屋の方が百貨店として創業は早かったのですね。凄く中身の深い内容で、楽しく拝見しました。
当時の社長さんが、よく館内を廻って、お客さんに挨拶されてました。オールバックでダンディな人でした
子供のころの記憶で定かではありませんが、玉屋の川沿いの道路側に中地下に下りる様な階段があった様な記憶があります。
昭和50年代ですが、当時は玉屋中洲口の手前の噴水が待ち合わせ場所の定番だった記憶がありますね
福岡市のデパートは、4つあるけど昔は福岡玉屋の閉店の歴史もようやくわかりました。福岡玉屋の歴史にはいろんなことがあったんですけどいい勉強になりました。博多大丸や福岡三越と岩田屋そして博多阪急の4つもあるけどとてもいい勉強になった。
玉屋、岩田屋、井筒屋、ダイエー、今や伝説です、時代が変わって行くのがわかります、寂しいですね。
母が玉屋が好きでしたので子供の頃よく連れて行ってもらってましたね若い人は知らないんですね当然ですがびっくりです
あの時代、デパートは聖地でしたよね
市民がまだデパート含め市の中心街行くのが一大イベントの時代だった昭和後期生まれです何だったんですかね、あれはwばあちゃんと玉屋の入り口でわくわくしながら開店を待っていたことを微かに思い出します…じいちゃんにもよく連れてってもらいましたファミリーレストラン(けしてイマドキの「ファミレス」ではない)ではお子様ランチとソフトクリームが定番、屋上遊園地は夢の楽園でした(末期は「そらとぶかいぞくせん」てモノレールみたいのがありましたが私が小さかった頃は機関車だった気がする。屋上遊園地から奥には人口の滝とゴーカート乗り場が昔ありました。ゴーカートは昭和末期?に廃止され夏はビヤガーデンがオープンしてましたが現在屋上は完全閉鎖されました…)エレベーターが屋上に近づくにつれ併設されていた小さなペットショップがあり鳥のさえずりとぷーんと漂ってくる獣臭…ああ屋上遊園地に来たんだと嬉しくなったことはあれから40数年たった今も心の奥底に刻まれています玉屋は私にとって楽しい夢の場所だと物心つく頃から洗脳されたみたいに擦り込まれてますタイムマシンがあったら昭和後期の自分がまだ幼いころの玉屋を隅から隅まで目に焼き付けたいですね以前佐賀玉屋の屋上へしれっと行きましたがガランとした屋上の出口付近に「お帰りはこちらです」って古びた案内が…かつての佐賀玉屋屋上遊園地の名残を見つけて寂しくなりました
玉屋の屋上にはペットショップやレストラン ゲームコーナーなどありましたね。1階に噴水があってそこにオウムを肩や頭にのせた、紳士なお爺ちゃんがいたのも覚えてます。また玉屋の前にマクドナルドがありましたね(現スプーンビル)懐かしい!
マクドやミスドは中洲のお姉さんたちとの待ち合わせの場所でもありました😊
懐かしいですね。子供の頃に上のペットコーナーでインコを買ってもらいました。玉屋行く時は朝からワクワクしたのを思い出します。
その気持ち同感です^^
ありがとうございます!
スーパーサンクスいただきありがとうございます。情報収集にありがたく使わせていただきます。
子供の頃、玉屋の屋上のレストランでお子様ランチを食べるのが贅沢だった。残ったおかずを新聞紙に包んでもらって持ち帰って居ましたよ。そんな記憶がかすかにあります。大丸と並んで、大きなデパートでした。小学校に上がる頃に、新天町のあたりで、二階建てスーパーだったダイエーが、天神の中心地にステーションビル、センタービルの2つが建ち、そのビル間を渡り通路で渡り、更にシースルーエレベーターまで、屋内は地下から最上階までぶち抜きの大きな噴水塔が貫くなど、度肝を抜かれたものでした。
玉屋大好きな叔母が「天神のデパートは田舎者の行く所。博多の人間は玉屋たい!」と熱く言ってたのを思い出しました。この後百貨店不況が本格的に始まりましたね。自分の働いてた百貨店の売り上げ不振で閉店になりました。玉屋の名残を感じさせてくれるゲイツの照明いいですね!
歩ける距離に住んでいた小学生時代 、小遣いが無くても遊べる場所でした。階段室が独特な構造でしたね。
玉屋にはいっぱい思い出があります。最上階食堂のお子様ランチとクリームソーダ、ペット売り場も充実してた。学生時代に地下お菓子売り場やオモチャ売り場でのアルバイト、成人式も嫁入りの時の着物もここで…呉服町の大丸と共に懐かしい、ありがとう
ゴンちゃんも玉屋と大丸を往復していました😊
1980~84年まで東郷にいたので博多には時折遊びに行きましたが貧乏学生には玉屋さんの敷居は高かったですね。天神地下街やダイエーで買い物をしておりました。就職して北九州に行ってからは小倉玉屋さんに何度か行きましたがその小倉玉屋もなくなってしまいました。歴史ある老舗が消えてゆくのはほんとに寂しいものがありますね。百貨店ではなくスーパーですがダイエーに吸収され、消えていったユニードが好きでした。
地下のコーヒー豆店で売られていた「ジャワ・ロブスタ」が美味しかったです。安い豆なんですけどね、口に入れた時に強い苦味があるのに飲み込むと、口の中にふわっと甘みが広がってね。
サニーとマリノアシティもなくなりますね。淡い色の市営バスと緑色のサニー、観覧車のマリノアシティ、天神コアやキャナルの一部もなくなり平成の福岡とは街並みが変わるのが悲しいですね。
何だか泣けて来て。。。。
私は30年以上前 (83か84年かな) 植物園のそばにある高校に通ったんですが、1,2年の時その学校の寮で過ごしました。(人生の中で最も思い出したくない日々) そこに田中丸さんという一学年上の先輩がいらっしゃって、聞いたところによると中学浪人をされて入学されたそうなので私より2歳年上だったのでしょう。その人が玉屋と関係があるのかどうかわからないんですが、大層なお金持ちの息子だとのこと。なかなかのイケメンで背が高く運動神経も発達していて、テニスの大会でかなりいい成績をおさめていたらしいです。この人、この人と同学年の生徒からは「マルちゃん」と呼ばれてすごく慕われていましたが、私は苦手でしたねえ。同級生へのあたりはとてもよかったんでしょうが、後輩に対してはいつも高圧的で「俺は偉いだろ」といったような態度で接してきたんですよね。まあ他の先輩のようによく暴力を振ってくるようなことはなかった (その当時はそれが当たり前なんだけど) ので、私は苦手にしていたといってもそこまで嫌いではなかったんですが。でも今考えると、この人が後輩に対してそういう振る舞いをするのは、やはり同級生はみんな年下なのに友達のようにふるまわなければならないということもあって、ある程度年齢に対してコンプレックスもあったんでしょう。「2つも年下の奴らに舐められてはいけない」と思っていてそういう態度に出たのかもしれないですね。そういった後輩へ高圧的な態度がなければ、先輩としてすごく尊敬していたんでしょうけど。田中丸さん、今頃どうしてるかなあ。
泰星
@@ftyutegoursxsw8531 ご名答。今は名前が違うみたいですが。ちなみにその田中丸さんは私は苦手でしたが、嫌いではなかったです。男前である意味聡明で、後輩に対して威張り散らかすことがなかったら、いい先輩だと思っていたんでしょうが。
母親が玉屋デパートで働いてました
ゴンちゃんに代わって、思い出をお聴きになってください😊
子供時は岩田屋?玉屋?どちらでクリスマスのおもちゃ買ってもらうか?!結構悩みました。めっちゃ懐かしいです!
小学校の時の友達のお母さんが玉屋で働いてたのを思い出しました😊
大学生の時の夏冬のバイトは玉屋で地下の食料品や家具売り場、一番印象に残ってるのは夏休み、屋上でカブト虫やクワガタ虫を販売した事です。営業が終わってトラックに乗って多分早良区の方に虫を仕入れに行ってました。懐かしい想い出です。
子供の頃の1970年代は福岡玉屋よりは岩田屋、博多井筒屋の思い出が強いですね。(昔、ニュースステーションの地方あるあるコーナー(ネタ)で、贈答品が「岩田屋」の包み紙だと高級品と興奮する...というw)あと、ダイエーショッパーズプラザ福岡店と併設?していた「マツヤレディス」が行き慣れていました。もちろん、マツヤレディスはガン無視の通路扱いでしたが。😅
懐かしいですね。小倉にもあつたかなあ
小倉玉屋は2002年の暮に閉店致しました
確かに玉屋の閉店はさびしかったなぁ毎回屋上に向かってたけど
博多リバレインへの入居の件、当時の記憶では足下を見たように玉屋への割り当てフロアがあまりにも少なくて元の規模を維持できないから断ったんじゃなかったかな?元々今の福岡三越みたいな形でリバレインに入居できるような約束で市の再開発に協力してゲイツの場所を開けたのに騙し討ちにあった感じで胸糞悪かった記憶があります。丁度田中丸さんが同族経営の件で色々叩かれてた記憶があるので裏で色々あったのでしょう。結局リバレインも開業以降飲食店とアンパンマン以外は閑古鳥状態、跡地に建てられたゲイツは残念な結果に。再開発せずレトロな建物もそのまま残した形で玉屋を維持してた方が景観的にもよかったんじゃないでしょうか;
コメントとも玉屋存続は大賛成で😊
私はその再開発の最中に働いてました。その時代に働いていた仲間の怨念みたいものが今も残っているのではないでしょうか。
ほんとうに、おっしゃるとおりです!
小学生の頃、毎週のように玉屋に行って母から服を買ってもらっていました。他にも、クリスマスにもらったばかりの電子手帳型ゲーム機をどこかに置き忘れたり、あと、屋上のペットコーナーで苦手なのに毎回爬虫類を見るのが当時の楽しみでしたw
子供の頃(80年代)はまだ阪急も三越も無くて、玉屋、岩田屋(引っ越し前)、大丸、井筒屋玉屋、岩田屋、大丸には屋上遊園があって、その中でも玉屋は祖母のお気に入りの百貨店でしたスーパーより品質が良くて、他の百貨店より安くて一般家庭でも買いやすい価格帯だったと母が話してました最上階にはレストランとペットショップと屋上遊園があって、地下には回るお菓子売り場父が子供の頃は玉屋の屋上には動物園があったと聞いて驚いたのを覚えています閉店が悲しくて最後の日もお別れに行きました
屋上に象を置くときは地上からクレーンで上げていました。ゴンちゃん閉店日は行きました。
私の地元北九州にもかつて「小倉玉屋」がありましたリバーウォーク北九州への再開発で一度は立ち退き小倉駅前の「小倉そごう」跡地で仮営業を続けましたが結局リバーウォークには戻ることなくここで65年の歴史に幕を閉じました
昭和の戦前、菊屋の名称で小倉市にやってきたのでしたが・・・
長崎の玉屋の最後はかなり・・・。これでデパートのつもりって感じでした。立て直して小ぎれいにしてショッピングモールみたいなのを作るつもりのようでしたが結局断念でマンションが建つようです。なんだろう。。長崎もちょっと変な場所にあったぐらいなのでこういうところが岩田屋に水を開けられた感じになったのでしょうかね・・。。。
母は岩田屋より玉屋の方が高級だからと玉屋をメインに利用していました。確かに外観、店内共に玉屋の方が高級感はあるなとは子供心に思いました。近所のお姉さんが、玉屋でエレベーターガールをしていたのを思い出しました。
泣けた😂
大変懐かしいです八幡で育ちましたが母は何故か井筒屋では無く小倉玉屋で私も玉屋好きとなり結婚して福岡市に来てからは玉屋にしか行かなかったものですダンナや娘の物大変お世話になりました閉店時大変悲しく店員さんにどこで買い物していいのか……なんて愚痴ったのを思い出しました
井筒屋は、その名称は門司の井筒屋呉服店から、資本は九州電氣軌道(北九州の路面電車の地の西鉄 本社小倉市)でしたので、間違いなく北九州地場の百貨店でした。
大丸は最初寿町、大博から、今の場所に!住吉に住んでたから、玉屋や渕上には良く行ってましたよ!母に言わせたら同族経営するから、駄目にって言ってましたね、玉屋隣には日活ホテルが有りましたけどね中洲でも、今よりも昔の方が趣きが有りましたよね!喫茶店にしても、遠い思い出!
コメントありがとうございます。昔の町の方が絵になりますよね^^
玉屋に良く行ってました。でも西鉄福岡から遠い。天神方面が栄えるのは仕方が有りません。
「福岡玉屋」の面影を残すささやかなものが大牟田にありますそれは大牟田駅(西口/西鉄側)の前に保存されております旧西鉄路面電車の車内にある吊り革広告です
友達が勤めていた1985年頃、玉屋は場所が悪過ぎて、そしてお年寄りしか行かなかった。井筒屋同様終わりかけてた。
高島屋の人が、玉屋のマークウチに似てると言っていたので、お前の会社が真似したんじゃね!と言ってやりました。
最後の方に玉屋行ってたな。
今は昔、玉家は玩具売り場が充実していた記憶があります。母の実家「春吉」に泊まって、よく訪れました。博多荘のラーメン店も無くなり、博多にかえっても、いっちよん
つまらんごとなった。
福岡大丸じゃなくて博多大丸ですよ。
こんにちは佐賀玉屋田中丸膳蔵は牛津
私は佐世保の玉屋も知っています。たまや~は有名です。
玉屋ファンの方の心に、玉屋は今も営業中ですね😀
天神も 東急ハンズができて 天神の流れが 博多駅のハンズにお客さんの流れがいって 何気に三越、新天街もー厳しい状態でしたが イムズーコアビブレ があったお陰でハンズでお買物して イムズーコアビブレにはしご して帰るお客さんがいたし 天神の救世主でしたので 発展続たが 救世主が消えたので この後天神は心配ですし 歴史さんの解説で おっしゃるように 玉屋 天神に仮に玉屋が進出してたら 必ず 成功はしただろうが ビックバンで消えたのではないだろうか?
近くに渕上ってショッピングビルが在ったような今もあるのかな...
明治通りではなく、国体道路側ですね。川端商店街を抜けた先にありました渕上ユニード。(今はマックスバリューかな?)香椎にはその系列のアピロスが在りました。
玉屋、MATSUYAMA 、岩田屋、井筒屋、あたりかなぁ。新幹線で、大学進学でのアチラガワに行くときと帰省時と、小倉駅に到着するまでに、みたのだっけ?イヤ?離婚出戻りして、何度か博多に美術館とかにいったりするのに、眺めてたんだっけ?も、無理しない、その、ムカシの商い方式に、戻せるのでしたら、戻して下さいませ、と、願ってみたくなったり。。。どうなのでしょうね。名古屋も似たような雰囲気になってるみたいよね。。。黒崎ね。そしたら、兵庫近隣は、また違った意味で、泣けそう。。。トキハと書いて常盤でしょうね。鶴屋山形屋無理したのに、ソレでも時代の流れで見事な繁栄だった、かもしれないけどね。。。。行ったこともない百貨店も多いですけどね。
トキハは大分と別府にデパートを展開しています「トキハ」と書いて「トキワ」と読むのが特徴的です
いよいよデパートの時代は終わりかなぁ?次は…小倉か?
芸姑はゲイコと呼びたいです。
どうぞ、お好きなように。ありがとうございます。
当時働いていた者です。福岡玉屋を取り上げて頂いてありがとうございました。深く感謝いたします。
玉屋さんには、何べんも遊びに行きました^^ありがとうございます。
私は玉屋グループ全体と取引してました、今では佐賀玉屋しかありませんが引退した私にはいい思い出しかないデパートでした。
自然と涙が出ました!
ありがとうごさいました
幼稚園の頃、今は亡き母と叔母が働いていた玉屋さんへ買い物に行きました。後に叔母に聞いたところ、催事の前などは凄く忙しかったけれど、夜遅くまで他の売り場の人たちと準備したりしてとても楽しい職場だったそうです。
懐かしいですね。
ありがとうございました。
玉屋のランプが素敵で老舗の風格を感じるものでした。取り壊しを知ったとき、あのランプは残してほしいと思っていましたが、あった!!!。楽しい中州あそびの思い出とは切っても切れぬ玉屋。電車で母と行きましたね。玉屋は風格があったのです。ランプの話をしてくれた時に涙がでました。ありがとうございました。うれしいです。あのランプを見に行ってみます。😊
閉店1日前に行ってセカンドバッグかいました、閉店当時は他の岩田屋、大丸と比べ天井が極端に低いイメージがあります、子供の頃は高かったのに!小さい頃は須崎に住んでいたのでばぁちゃんに連れられて買いもんは玉屋ではなく渕上ばっかりでした屋上の遊園地で遊んでいました、帰りに、かろのうろんか英ちゃんうどんでいつも食べて帰ってたのを覚えています、懐かしいですね。
今度今はなき博多のごっつぉうも紹介して下さい、湖月カレー、鹿鳴春、食道園etc宜しくお願いします。
私は田中丸呉服店発祥の地、牛津の出身です。田中丸さんは牛津の誇りなんです。
両親が成人式の振り袖を、何故か佐賀でなく福岡玉屋まで行って作ってくれました。
たまには田舎から出たかったのでしょう。
拝見して、もう他界した両親との日々を思い出し涙してしまいました。ありがとうございました。
戦前、小倉市にも出店してきた
でも玉屋と名乗れずに菊屋という名称だった
戦後、小倉玉屋となりました
叔母が務めていたので小倉玉屋は懐かしいです
まさか消えるとは思いもしませんでした
高校まで福岡にすんでました。岩田屋・大丸もあったのですが、玉屋の方が印象に残ってます。子供なのでお金もなく買い物はできなかったはずですが、それでも懐かしいのは夢の世界だったのでしょうね。配信有難うございました。
夏休みの暑い日に玉屋へ行ったとき、入口ドアから超冷たい風が流れてきて、思わず「涼しい!と叫びましたよ^^
懐かしいです・・・・。
博多っ子なので天神の岩田屋ではなく中洲の玉屋と呉服町の大丸によく行きました。
田中丸一族は博多の名家でしたもんね・・・・。
今は博多を離れましたからゲイツにも行った事はありませんが、街灯を見てグッときました(T_T)
機会があったら、ぜひ街灯を見てください。ありがとうございます。
離れたのは福岡市のはずだ
福博はきちんと使い分けようね
博多を離れて福岡で生活しています。
福博の区別はついていますよ。
地下で栗おこわをよく買いました。
懐かしいですね。
玉屋、父が地下の惣菜売場に若い頃お世話になっていたり、後々父が独立した後も玉屋と取引があったりして、月に1回は必ず行きました😊
日曜日は早くから「よそ行き」の服を着て玉屋に行きオモチャ売場を徘徊し、夕方になると玉屋の近くにあった「ふくよし」という天麩羅やフク料理を出すお店に行き夕飯を食べてバスで帰る…懐かしいです🥲
三越と同じ薔薇の袋、なんとも優雅でしたよね。
同感ですね^^ オモチャ売り場は今でも鮮明に覚えています。懐かしいですね~
全国の百貨店に屋上遊園地とかあった
時代が懐かしいなあ。
まだ20代やけど小さい頃は買い物・遊ぶとなったら百貨店やった。
今はイオンとかドンキホーテとか、
雰囲気も価格帯も庶民的なショッピングモールが流行るのもあって、全国の名だたる百貨店の閉店ラッシュ…
博多玉屋。幼いころから良く行ったものだ。福岡市民としては、岩田屋なんだろうけど、博多っ子においては、玉屋が一等。
近くには博多大丸(後に寿屋)もあったが、高級感は玉屋があったなあ。まあ、博多だけでなく動画にもあったように、佐賀・伊万里・佐世保・長崎各玉屋に行った思い出もあります。最上階はお決まりの様にペットショップと遊戯施設が在り、毎度の様に訪れるのが決まりでした。
昔から住んでいる者として、今の福岡は無機質な街となってしまった。昔は雨が似合う街並みだったなあ。・・・・
無機質な街。同感です。行くとさびしくなりますもんね
大正生まれの祖父母によく連れて行ってもらいました。
岩田屋や大丸もあり、当時の自分は違いは分からなったのですが
おそらく祖父母にとっては玉屋で買い物をする事がステータスだったんじゃないかなと
この動画を観て思いました。
私の思い出は佐世保、玉屋ですね、祖母の家から近く当時3歳(S 11年)の頃、売り場の陳列越しに伝わって来る蛍光灯の温もりは忘れる事はありませんね。
今の博多駅辺りには渕上デパートもありました。
中身の濃い動画で、勉強になりました。
懐かしいですね。福岡玉屋は祖父によく連れっていってもらってました。
伊万里の玉屋はまだ建物だけはそのまま残っていますが、何か活用できればいいですね。
おじいちゃんの思い出はいっぱいあるようですね、コメントありがとうございます😊
初めてオヤジに買ってもらった、木造の電車のおもちゃ❣️玉屋で親父が思案して買ってくれました。親父は、一昨年亡くなりました。死んでから、親父の優しさを感じています
子供の頃に母親に連れられて買い物に行ったのを思い出して懐かしかったです。あの頃(昭和40~50年代)は玉屋や川端商店街に行くのが好きでした。
地下にあった機械で焼いていた小さな饅頭が、懐かしい。
還暦を過ぎた男です。タバコを吸っていたところ、なぜか「福岡玉屋」が頭に浮かんだので検索したところ、このページに巡り会いました。
およそ40年前、七隈にある大学の学生時代、2年の後期から卒業直前までの2年半、玉屋でアルバイトをしていました。
地下食料品売り場が定位置でしたが、中元・歳暮の時期は「別注」と呼ばれる部署のアルバイトリーダーとして、指先が荒れるくらい包装しました。
バレンタインデー直前には、「南新地」のお店までチョコレートを配達したこともあります。
徒歩数分の大学より、中洲にいる時間が長かったと思います。卒業後は、そのまま就職できれば良いなとも考えていましたが、帰郷。
卒業して数年後、閉店を報道で知ったときは強いショックを受けました。「当時、お世話になった社員さんやパートさんたちの処遇はどうなるのだろう?」
それ以上に感じたのは、「俺の青春がなくなった」でした。
充実した青春時代を送られていたのですね、思い出の共有ありがとうございます 😊
ありがとうございます😭
川端生まれで川端育ちの私にとって玉屋デパートは庭でもありシンボルでした。終盤の店舗大改修の際はフラワーコーディネーターとして関わりました。人生の半分くらいは玉屋デパートがバッググランドだと思います。映画館もありましたね!ゴンちゃんさんの心温まるナレーションに胸が熱くなりました。
😂ありがとうございます。
ゴンちゃんも玉屋と映画館、青春のグラフティーでした😊コメントありがとうございます。
佐賀玉屋もいい雰囲気ですがかなり厳しそうでもあります。ちょっと通ってみたいと思っています。
当時中洲流の赤手拭いとして表敬させてもらいました。シャッター閉まるとき胸が締めつけられる想いでした
赤手拭ですか!当時は山笠の重要な役割されていたんですね。お疲れさまでした。今年は3年ぶりに追い山見てきました😊
バスの案内放送「次は東中洲・玉屋前」、今でも覚えています。もう少し古いと、市内電車の吊り革の広告は、全車両「楽しいお買い物 玉屋」でした。
いや~懐かしいコメントありがとうございます!
懐かしいね。 玉屋の横に那珂川があるけど、その上に駐車場があって玉屋が閉まった後は自由に車が駐めれて、そこに車を停めて中洲によく呑みに行っていた。 もちろん帰りは車に乗って帰っていた。当時は飲酒運転の検問は週末くらいしかしてなかったので割と平日はそんな人が多かったと思う。今では考えられないよね。
古き良き時代の名残りですね。
イメージ的には岩田屋の方が古い様に思っていましたが、玉屋の方が百貨店として創業は早かったのですね。凄く中身の深い内容で、楽しく拝見しました。
当時の社長さんが、よく館内を廻って、お客さんに挨拶されてました。オールバックでダンディな人でした
子供のころの記憶で定かではありませんが、玉屋の川沿いの道路側に中地下に下りる様な階段があった様な記憶があります。
昭和50年代ですが、当時は玉屋中洲口の手前の噴水が待ち合わせ場所の定番だった記憶がありますね
福岡市のデパートは、4つあるけど昔は福岡玉屋の閉店の歴史もようやくわかりました。
福岡玉屋の歴史にはいろんなことがあったんですけどいい勉強になりました。
博多大丸や福岡三越と岩田屋そして博多阪急の4つもあるけどとてもいい勉強になった。
玉屋、岩田屋、井筒屋、ダイエー、今や伝説です、時代が変わって行くのがわかります、寂しいですね。
母が玉屋が好きでしたので子供の頃よく連れて行ってもらってましたね
若い人は知らないんですね
当然ですがびっくりです
あの時代、デパートは聖地でしたよね
市民がまだデパート含め市の中心街行くのが一大イベントの時代だった昭和後期生まれです
何だったんですかね、あれはw
ばあちゃんと玉屋の入り口でわくわくしながら開店を待っていたことを微かに思い出します…
じいちゃんにもよく連れてってもらいました
ファミリーレストラン(けしてイマドキの「ファミレス」ではない)ではお子様ランチとソフトクリームが定番、屋上遊園地は夢の楽園でした(末期は「そらとぶかいぞくせん」てモノレールみたいのがありましたが私が小さかった頃は機関車だった気がする。屋上遊園地から奥には人口の滝とゴーカート乗り場が昔ありました。ゴーカートは昭和末期?に廃止され夏はビヤガーデンがオープンしてましたが現在屋上は完全閉鎖されました…)
エレベーターが屋上に近づくにつれ併設されていた小さなペットショップがあり鳥のさえずりとぷーんと漂ってくる獣臭…ああ屋上遊園地に来たんだと嬉しくなったことはあれから40数年たった今も心の奥底に刻まれています
玉屋は私にとって楽しい夢の場所だと物心つく頃から洗脳されたみたいに擦り込まれてます
タイムマシンがあったら昭和後期の自分がまだ幼いころの玉屋を隅から隅まで目に焼き付けたいですね
以前佐賀玉屋の屋上へしれっと行きましたがガランとした屋上の出口付近に「お帰りはこちらです」って古びた案内が…かつての佐賀玉屋屋上遊園地の名残を見つけて寂しくなりました
玉屋の屋上にはペットショップやレストラン ゲームコーナーなどありましたね。1階に噴水があってそこにオウムを肩や頭にのせた、紳士なお爺ちゃんがいたのも覚えてます。また玉屋の前にマクドナルドがありましたね(現スプーンビル)懐かしい!
マクドやミスドは中洲のお姉さんたちとの待ち合わせの場所でもありました😊
懐かしいですね。子供の頃に上のペットコーナーでインコを買ってもらいました。玉屋行く時は朝からワクワクしたのを思い出します。
その気持ち同感です^^
ありがとうございます!
スーパーサンクスいただきありがとうございます。情報収集にありがたく使わせていただきます。
子供の頃、玉屋の屋上のレストランでお子様ランチを食べるのが贅沢だった。残ったおかずを新聞紙に包んでもらって持ち帰って居ましたよ。そんな記憶がかすかにあります。大丸と並んで、大きなデパートでした。小学校に上がる頃に、新天町のあたりで、二階建てスーパーだったダイエーが、天神の中心地にステーションビル、センタービルの2つが建ち、そのビル間を渡り通路で渡り、更にシースルーエレベーターまで、屋内は地下から最上階までぶち抜きの大きな噴水塔が貫くなど、度肝を抜かれたものでした。
玉屋大好きな叔母が「天神のデパートは田舎者の行く所。博多の人間は玉屋たい!」と熱く言ってたのを思い出しました。この後百貨店不況が本格的に始まりましたね。自分の働いてた百貨店の売り上げ不振で閉店になりました。玉屋の名残を感じさせてくれるゲイツの照明いいですね!
歩ける距離に住んでいた小学生時代 、小遣いが無くても遊べる場所でした。階段室が独特な構造でしたね。
玉屋にはいっぱい思い出があります。最上階食堂のお子様ランチとクリームソーダ、ペット売り場も充実してた。学生時代に地下お菓子売り場やオモチャ売り場でのアルバイト、成人式も嫁入りの時の着物もここで…呉服町の大丸と共に懐かしい、ありがとう
ゴンちゃんも玉屋と大丸を往復していました😊
1980~84年まで東郷にいたので博多には時折遊びに行きましたが貧乏学生には玉屋さんの敷居は高かったですね。
天神地下街やダイエーで買い物をしておりました。
就職して北九州に行ってからは小倉玉屋さんに何度か行きましたがその小倉玉屋もなくなってしまいました。
歴史ある老舗が消えてゆくのはほんとに寂しいものがありますね。
百貨店ではなくスーパーですがダイエーに吸収され、消えていったユニードが好きでした。
地下のコーヒー豆店で売られていた「ジャワ・ロブスタ」が美味しかったです。
安い豆なんですけどね、口に入れた時に強い苦味があるのに飲み込むと、口の中にふわっと甘みが広がってね。
サニーとマリノアシティもなくなりますね。淡い色の市営バスと緑色のサニー、観覧車のマリノアシティ、天神コアやキャナルの一部もなくなり平成の福岡とは街並みが変わるのが悲しいですね。
何だか泣けて来て。。。。
私は30年以上前 (83か84年かな) 植物園のそばにある高校に通ったんですが、1,2年の時その学校の寮で過ごしました。(人生の中で最も思い出したくない日々) そこに田中丸さんという一学年上の先輩がいらっしゃって、聞いたところによると中学浪人をされて入学されたそうなので私より2歳年上だったのでしょう。その人が玉屋と関係があるのかどうかわからないんですが、大層なお金持ちの息子だとのこと。なかなかのイケメンで背が高く運動神経も発達していて、テニスの大会でかなりいい成績をおさめていたらしいです。この人、この人と同学年の生徒からは「マルちゃん」と呼ばれてすごく慕われていましたが、私は苦手でしたねえ。同級生へのあたりはとてもよかったんでしょうが、後輩に対してはいつも高圧的で「俺は偉いだろ」といったような態度で接してきたんですよね。まあ他の先輩のようによく暴力を振ってくるようなことはなかった (その当時はそれが当たり前なんだけど) ので、私は苦手にしていたといってもそこまで嫌いではなかったんですが。でも今考えると、この人が後輩に対してそういう振る舞いをするのは、やはり同級生はみんな年下なのに友達のようにふるまわなければならないということもあって、ある程度年齢に対してコンプレックスもあったんでしょう。「2つも年下の奴らに舐められてはいけない」と思っていてそういう態度に出たのかもしれないですね。そういった後輩へ高圧的な態度がなければ、先輩としてすごく尊敬していたんでしょうけど。田中丸さん、今頃どうしてるかなあ。
泰星
@@ftyutegoursxsw8531 ご名答。今は名前が違うみたいですが。ちなみにその田中丸さんは私は苦手でしたが、嫌いではなかったです。男前である意味聡明で、後輩に対して威張り散らかすことがなかったら、いい先輩だと思っていたんでしょうが。
母親が玉屋デパートで働いてました
ゴンちゃんに代わって、思い出をお聴きになってください😊
子供時は岩田屋?玉屋?どちらでクリスマスのおもちゃ買ってもらうか?!結構悩みました。めっちゃ懐かしいです!
小学校の時の友達のお母さんが玉屋で働いてたのを思い出しました😊
大学生の時の夏冬のバイトは玉屋で地下の食料品や家具売り場、一番印象に残ってるのは夏休み、屋上でカブト虫やクワガタ虫を販売した事です。営業が終わってトラックに乗って多分早良区の方に虫を仕入れに行ってました。懐かしい想い出です。
子供の頃の1970年代は福岡玉屋よりは岩田屋、博多井筒屋の思い出が強いですね。(昔、ニュースステーションの地方あるあるコーナー(ネタ)で、贈答品が「岩田屋」の包み紙だと高級品と興奮する...というw)
あと、ダイエーショッパーズプラザ福岡店と併設?していた「マツヤレディス」が行き慣れていました。もちろん、マツヤレディスはガン無視の通路扱いでしたが。😅
懐かしいですね。
小倉にもあつたかなあ
小倉玉屋は2002年の暮に閉店致しました
確かに玉屋の閉店はさびしかったなぁ
毎回屋上に向かってたけど
博多リバレインへの入居の件、当時の記憶では足下を見たように玉屋への割り当てフロアがあまりにも少なくて元の規模を維持できないから断ったんじゃなかったかな?元々今の福岡三越みたいな形でリバレインに入居できるような約束で市の再開発に協力してゲイツの場所を開けたのに騙し討ちにあった感じで胸糞悪かった記憶があります。丁度田中丸さんが同族経営の件で色々叩かれてた記憶があるので裏で色々あったのでしょう。
結局リバレインも開業以降飲食店とアンパンマン以外は閑古鳥状態、跡地に建てられたゲイツは残念な結果に。再開発せずレトロな建物もそのまま残した形で玉屋を維持してた方が景観的にもよかったんじゃないでしょうか;
コメントとも玉屋存続は大賛成で😊
私はその再開発の最中に働いてました。その時代に働いていた仲間の怨念みたいものが今も残っているのではないでしょうか。
ほんとうに、おっしゃるとおりです!
小学生の頃、毎週のように玉屋に行って母から服を買ってもらっていました。
他にも、クリスマスにもらったばかりの電子手帳型ゲーム機をどこかに置き忘れたり、
あと、屋上のペットコーナーで苦手なのに毎回爬虫類を見るのが当時の楽しみでしたw
子供の頃(80年代)はまだ阪急も三越も無くて、玉屋、岩田屋(引っ越し前)、大丸、井筒屋
玉屋、岩田屋、大丸には屋上遊園があって、その中でも玉屋は祖母のお気に入りの百貨店でした
スーパーより品質が良くて、他の百貨店より安くて一般家庭でも買いやすい価格帯だったと母が話してました
最上階にはレストランとペットショップと屋上遊園があって、地下には回るお菓子売り場
父が子供の頃は玉屋の屋上には動物園があったと聞いて驚いたのを覚えています
閉店が悲しくて最後の日もお別れに行きました
屋上に象を置くときは地上からクレーンで上げていました。ゴンちゃん閉店日は行きました。
私の地元北九州にもかつて「小倉玉屋」がありました
リバーウォーク北九州への再開発で一度は立ち退き小倉駅前の「小倉そごう」跡地で仮営業を続けましたが結局リバーウォークには戻ることなくここで65年の歴史に幕を閉じました
昭和の戦前、菊屋の名称で小倉市にやってきたのでしたが・・・
長崎の玉屋の最後はかなり・・・。
これでデパートのつもりって感じでした。
立て直して小ぎれいにしてショッピングモールみたいなのを作るつもりのようでしたが
結局断念でマンションが建つようです。
なんだろう。。
長崎もちょっと変な場所にあったぐらいなのでこういうところが岩田屋に水を開けられた
感じになったのでしょうかね・・。。。
母は岩田屋より玉屋の方が高級だからと玉屋をメインに利用していました。
確かに外観、店内共に玉屋の方が高級感はあるなとは子供心に思いました。
近所のお姉さんが、玉屋でエレベーターガールをしていたのを思い出しました。
泣けた😂
大変懐かしいです
八幡で育ちましたが母は何故か井筒屋では無く小倉玉屋で私も玉屋好きとなり結婚して福岡市に来てからは玉屋にしか行かなかったものです
ダンナや娘の物大変お世話になりました
閉店時大変悲しく店員さんにどこで買い物していいのか……
なんて愚痴ったのを思い出しました
井筒屋は、その名称は門司の井筒屋呉服店から、資本は九州電氣軌道(北九州の路面電車の地の西鉄 本社小倉市)でしたので、間違いなく北九州地場の百貨店でした。
大丸は最初寿町、大博から、今の場所に!住吉に住んでたから、玉屋や渕上には良く行ってましたよ!母に言わせたら同族経営するから、駄目にって言ってましたね、玉屋隣には日活ホテルが有りましたけどね中洲でも、今よりも昔の方が趣きが有りましたよね!喫茶店にしても、遠い思い出!
コメントありがとうございます。昔の町の方が絵になりますよね^^
玉屋に良く行ってました。でも西鉄福岡から遠い。天神方面が栄えるのは仕方が有りません。
「福岡玉屋」の面影を残すささやかなものが大牟田にあります
それは大牟田駅(西口/西鉄側)の前に保存されております旧西鉄路面電車の車内にある吊り革広告です
友達が勤めていた1985年頃、玉屋は場所が悪過ぎて、そしてお年寄りしか行かなかった。井筒屋同様終わりかけてた。
高島屋の人が、玉屋のマークウチに似てると言っていたので、お前の会社が真似したんじゃね!と言ってやりました。
最後の方に玉屋行ってたな。
今は昔、玉家は玩具売り場が充実していた記憶があります。母の実家「春吉」に泊まって、よく訪れました。博多荘のラーメン店も無くなり、博多にかえっても、いっちよん
つまらんごとなった。
福岡大丸じゃなくて博多大丸ですよ。
こんにちは佐賀玉屋田中丸膳蔵は牛津
私は佐世保の玉屋も知っています。たまや~は有名です。
玉屋ファンの方の心に、玉屋は今も営業中ですね😀
天神も 東急ハンズができて 天神の流れが 博多駅のハンズにお客さんの流れがいって 何気に三越、新天街もー厳しい状態でしたが イムズーコアビブレ があったお陰でハンズでお買物して イムズーコアビブレにはしご して帰るお客さんがいたし 天神の救世主でしたので 発展続たが 救世主が消えたので この後天神は心配ですし 歴史さんの解説で おっしゃるように 玉屋 天神に仮に玉屋が進出してたら 必ず 成功はしただろうが ビックバンで消えたのではないだろうか?
近くに渕上ってショッピングビルが在ったような今もあるのかな...
明治通りではなく、国体道路側ですね。川端商店街を抜けた先にありました渕上ユニード。(今はマックスバリューかな?)
香椎にはその系列のアピロスが在りました。
玉屋、MATSUYAMA 、岩田屋、井筒屋、あたりかなぁ。
新幹線で、大学進学でのアチラガワに行くときと帰省時と、小倉駅に到着するまでに、みたのだっけ?イヤ?離婚出戻りして、何度か博多に美術館とかにいったりするのに、眺めてたんだっけ?
も、無理しない、その、ムカシの商い方式に、戻せるのでしたら、戻して下さいませ、と、願ってみたくなったり。。。どうなのでしょうね。
名古屋も似たような雰囲気になってるみたいよね。。。
黒崎ね。
そしたら、兵庫近隣は、また違った意味で、泣けそう。。。
トキハと書いて常盤でしょうね。
鶴屋
山形屋
無理したのに、ソレでも時代の流れで見事な繁栄だった、かもしれないけどね。。。。
行ったこともない百貨店も多いですけどね。
トキハは大分と別府にデパートを展開しています
「トキハ」と書いて
「トキワ」と読むのが特徴的です
いよいよデパートの時代は終わりかなぁ?次は…小倉か?
芸姑はゲイコと呼びたいです。
どうぞ、お好きなように。ありがとうございます。