【物申す】詭弁を説明するのに宗教を例に出すのは不適切では?
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- Опубликовано: 18 окт 2024
- 視聴者の皆さん、目を覚ましてください! 今こそ真剣に耳を傾けてください!
この動画では、詭弁の例として宗教を使うことに対する深い怒りを表現しています。
私たちは、詭弁の教育や議論の中で、宗教的テキストや教義を軽視し、誤解を招くような使い方をしてはなりません。
宗教とは、何千年もの歴史を持ち、無数の人々に影響を与えてきた深い思想です。この尊い教えを、単なる詭弁の例として軽んじることは許されません!
特に、聖書やその他の宗教的テキストを循環論法の例として用いることは、信仰心を持つ人々への侮辱であり、知識の欠如を露呈するものです。我々はこのような無知と偏見に対して声を上げ、真実を追求しなければなりません。
この問題に対する私の怒りは、ただの感情的な反応ではありません。このような方法が、宗教的教義の真の意味や価値を歪め、誤った解釈を広めることにつながるからです。私たちは知識と理解を深め、宗教的なテキストを尊重し、その教えの本質を理解する責任があります。この動画を通じて、宗教と詭弁に関する議論の中での倫理的なアプローチの重要性を浮き彫りにし、視聴者の皆様に深く考えるきっかけを提供したいと思います。
皆さんのコメントや意見を歓迎しますが、尊重と理解の精神を忘れずに交流してください。この議論を通じて、宗教の真の理解と詭弁への洞察を深めることができればと思います。
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ある宗教を生活の中で信仰し、体得体現しようと日々努めている人々と暮らしてみたら、こんな例示はしないと思います。ネオさんは、頭だけでなく、心で考える人です。そこが好きです。本当に優しい人ですね🎉
言われてみれば!でした。
「宗教とは?」が、そもそも人類全体の未解決の問いであり
しかも人類史全体に関わる壮大なもの。。
なので、一面的な部分を「例としてあげる」ことは確かに軽率だと思いました。
真っ当な意見だと思ってコメントさせていただきました。詭弁の例を説明するなら“国民の借金”とか言えば良いんじゃないでしょうか。
同意です。このような内容を教科書に乗せることは宗教を馬鹿にすると同様です。
多様性な社会を築くには宗教を社会の一部で民族との繋がりがあるので尊重すべきだと学生に教えるべきですね。
これと同じ論法で個別訪問の布教をされたことがあります。
「xxxと神は言われました」
「なぜそれが神の言葉だとわかるんですか?」
「聖書にそう書いてあるからです!」(キリッ)
って、感じでしたね。
輸血を断るあれですね。
ネオさんの言いたいことはわかりますが。
そういう人たちも実在します。
wikipedia以外でも見たことあります。聖書は引用元としての性能が高いだけに有名な例として定着してしまってるんでしょうね。慣習にとらわれず見直されるべきだと思いました。
古事記や日本書紀ではなく聖書ってところにもイヤなものを感じます・・・
笑いながらブチギレるところに、目指すべき道を見出しました。
私も宗教を例えにするのは良くないと思います。
無邪気無自覚な批判ほど人を傷つけるものはないと思います。
宗教が循環論法であること自体は単に誰にも文法的に(だけ)理解しうるが、それが詭弁であると言えることを理解することの方は、その理解力が現実に(つまり、あるその人が)何であるかによって、理解可能だったり理解不可能だったり、間違って理解したりしてしまうものではないでしょうか。1+1=2、2×3=6、チョコは甘い、夏は暑い、明るい時に見える(暗い時に見えない)…等が正しく理解可能なのは、単にそう感じたり考えたりする人が多いから、ではないでしょう。なぜか実際に私自身が(/も)そう感じられたりそう考えられたりすることで初めてそういった事実の判明として有効に理解が及ぶように出来ているのです。この宗教の例も、それが他の詭弁では無いものとの違いが自分の中で全く感じられず、詭弁であるとはどうしても感じられない人には、それは端的に真理でしかなかったりするに違いない、そういう意味であれば私も同じ考えですね。
ちなみに、私はなぜかどの宗教も、1+1=2、2×3=6、チョコは甘い、夏は暑い、明るい時に見える(暗い時に見えない)…等とは、全く意味が違って、どこまでも自己に直結してこない(確信を与えない)詭弁に思えますね。勿論、これは残念ながら単なる私の感想になってしまいますが。でも、単なるその人の感想になってしまう、のは、実はもう全てのことが本当はそうなのですよ
しかし、ならば、ただ一つそれだけは、つまり、「単なるその人の感想になってしまう、のは、実はもう全てのことが本当はそう」であることだけは単なるその人の感想ではないのでなければならないことになるが、そもそもなぜこんな文章が有意味でありうるかというと実はそれだけは唯一、単なるその人の感想の側から殆ど自明に言えることだから、なのですね。より精確には、単なるその人(この人)の感想しかないことだけがわかっているために、そのことから、自分以外の誰もが(自分と同じく)単なるその人の感想に過ぎなく生きているしかないということが判明してしまうから。
だから、たとえば言葉や数式を「他者」と共有可能なのも、全く偶々みんな同じように考えているから。これは驚くべきことですよ。
ゆえに翻って、例えば、もし私の言語野が普通(なぜ普通というものが現実にあり得るのかはさておき)じゃなく、おかしく産まれていたとしたら、その私が普通の日本語を普通に論理的に理解したりしているということは無い筈ですね。だから、このことは「宗教」の場合にも自明に言えると思います。どこかにある特定の神がいるとしか思えない人と、どこかにある特定の神がいるとしか思えない状態にはいつまでたっても至れない人。
おっしゃる通りだと思いますね。
野矢先生はヴィトゲンシュタインを研究しているようなので、好意的に解せば宗教は「語り得ぬもの」で論理を超えている、という考えが念頭にあったのですかね。とはいえやはり配慮不足は否めないでしょう。
論理的な思惟だけが知的であるというのは近代人の偏狭な考えではないでしょうか。詭弁の例ではなく、宗教的真理は論理的思弁を超えており、神秘主義的直観も人間的な知性の現れであるという文脈ならよいのでは、と思いました。
語りえぬことを語るのが宗教なのだから、論理の外側の話ってことですね。
論理の外側の話をするのが「非論理を語る」ということなのですよ。
エンジョイ勢のにわかコメなんですが、一定の感覚器の発達とか言語・文化的背景がないと人間は議論そのものを構成できないから全ての議論は循環論法を回避できないし、高次の循環論法に到達することが思想的完成なんだ、みたいな感じですかね?
セクハラになる場合、ならない場合のように、当事者の関係に依存するのと同じく、
話す人、聞く人それぞれの関係に依存するのではないでしょうか?
牧師や神父が、信者に対して話すなら詭弁にはなりませんが、
そうでない人に話す場合、受け取った側に「詭弁」と認識されても仕方がないのかと思いました。
横展開して考えるとNHKの放送内容が「詭弁」であるということも、まあまあ、ありえるのかもしれませんね?🤔
最近「炎のランナー」のストーリーを知りました。
神は論理ではなく、ただ信じるものなのだと思います。
それが人を強くするのだと思います。
こんにちはorこんにちわ
NHK第2、NHK教育のファンです。
NHK高校講座 ロンリのちから 第5回改めて{最後まで}拝聴させて貰いました。本の事は見てないので言えません。
実際各国色々な宗教があり、広く観ればバランスが取れている様な現代社会。しかし、紛争もあり争い無くならないでしょう。
これを打破する事は出来ない。
信仰は日本人が考えるより深い。
その教育が罪ならば今世界が変えるべきでしょう。😂
同意ですね。「宗教は詭弁である」を詭弁の例として提示したい(笑)
実践的な面も兼ねるとすれば、詐欺商法の勧誘手口などを例に出した方が良いかもしれないですね。
印象も何も宗教が詭弁でないというなら、論理的に神の存在を証明できた宗教があるって事になる
そんな宗教あります?
というかそれ宗教って呼びますかね
配慮とかそういう"お気持ち"の介入を絶対に許さないのが論理ですよ
だから論理に配慮や忖度を求める事自体が非常にナンセンス
それを求めたらもう論理でも何でもない
本地垂迹説や贖宥状、予定説とかは詭弁に該当しそう
MI🍀
もっともです!
ノイズの多すぎる例かな。よく数学屋さん達が「例が具体的すぎて分かりません」みたいに言ってるの思い出した。
事件を起こしたカルト宗教とは違うんだから、素朴に信仰している人に配慮できる世界の方がずっと良いよ。
確かにおかしい!
神学に通じていない一般大衆に対して「宗教は詭弁である」という例を持ち出すのはある意味その行為自体において詭弁であって、この本の著者はそれを意図的に行っているのではと思った。
宗教ってものをひっくるめて詭弁呼ばわりなんてしちゃったら国や時代によっては極刑ものでしょうな笑
まあ、神学は論理の対象ではない、とカントが示したんだよね。神学の適切な論じ方をかんとは追求した。まずはカントを勉強しよう。
たまたまこの動画を拝見しましたが、説明に違和感がありました。
循環論法の説明で宗教的議論を例にするのは、「宗教が詭弁を用いる」という誤解を与えるので良くない、という主張がこの動画ではされています。その主張は完全に正しいものです。
しかし、その良くなさの説明として、性差別的な主張をする循環論法の例を出しています。ここで出すべき例は全く逆で、男女平等を主張する循環論法の例ではないでしょうか。つまり、「宗教すなわち詭弁というわけじゃないのに、宗教を詭弁の例に出すのは良くない」と平行に、「男女平等論すなわち詭弁というわけじゃないのに、男女平等論を詭弁の例に出すのは良くない」という話ならよく分かります。
性差別的な主張というのはセンシティブでも何でもなく、シンプルに偽であり悪です。
そして、偽であり悪である議論を、誤った詭弁の例として使うなら、問題はないのではないでしょうか。
同意見です
例として出されているのは性差別的な主張をむしろ否定するようなものですよね
哲学徒を名乗る割に、反論できないコメントには黙殺を決め込むんよな。笑
確かに、なにかに熱中している人を気軽に「信者」と言ったりしますよね。
神はいる。
神に会えば分かる。
聖書は神の言葉である。
神に会えば分かる。
循環論法?やかましい!貴様も神に会え!
良動画。
確かに正しいとか間違っているとかの前に「扱いが雑」という指摘はその通りですね。
宗教や神を論理で扱えば、そもそも神が全ての前提になっている以上、詭弁的循環論法的になりがちだとは思いますが、そういう面白い話こそ正に別の所でやるべき。
詭弁の概念のざっくりとした説明に宗教を持ち出すのは、センシティブな配慮に欠けるし、詭弁のやばさ(なんかそう意図したわけじゃなくても詭弁になっちゃう的な)を理解する上でも支障となりそうです。
反キリスト教のイデオロギーがそう意識させない形で輸入されてるってことだよね。 ではそのイデオロギーは誰が始めたのだろう? 論理学の教科書の例文は以前に書かれた教科書からそのまま引いていることが多い。例えば「ソクラテスは死すべきものである」という例文を現代の論理学の教科書でも多くが掲載しているが、これはアリストテレス「オルガノン」に載っていたものだ。 最初に循環論法の例文として動画で問題とされているような議論を例として取り上げた論理学教科書は何だったのかを調べたら、特殊な切り口の思想史となって面白いと思う。 循環論法というものを歴史上最初に意識したのはピュロン派のアグリッパらしいが、懐疑主義と無神論の関係は当然深い(中世期には懐疑主義はその理由からほぼ忘れられていたそうだ)から、キリスト教以前でも何らかの教団について循環論法だと指摘するようなことはあったかもしれない。 また反教会のイデオロギーを広めた思想といえば18世紀の啓蒙思想が真っ先に思いつく(例えば、教会が地動説を弾圧したという史観は啓蒙思想家によって作り上げられた虚像というのが科学史ではほぼ定説であるように)が、カントが「純粋理性批判」でアンセルムスやデカルトの神の存在証明を循環論法としてまともに論駁したのはこの時代だから、この動画で問題とされているような過度に単純化された例文が普通だったとは考えにくいかもしれないな。 個人的に19世紀末の論理実証主義の影響を受けた教科のどれかではないかと思う、論理実証主義者には無神論者が多い(ラッセル、シュリック、カルナップ)から。 あるいはインドやイスラームで発展した論理学ということも考えられる。 まあとにかく、深堀りしたらちゃんと思想史の一部として組み込めそうな話題だと思います。
ネオミンさんの意見にはだいたい賛同することがおおいですが、今回はあんまりです…(笑
絶対的なものなどない、人それぞれでいいんだという時代ですから、絶対的と言われていたものの権威が落ちるの仕方ないかなと考えます。自由に宗教批判もできる時代は割と気が楽な気がします。もちろんどんな時代の風潮にも良し悪しはつきものですが。
ネオさん、おっしゃる通りです。
全く同感です、宗教の扱いが雑ですね。
神、霊魂の不滅、自由、哲学の三つの重き課題。多くの日本人は西洋哲学の知識無く、国学「もののあわれ」すら理解していない。
サムネのとおり『不適切』だと思います。自分は介護福祉系ですが、最近のEテレは時々表現の自由・問題提起と称して、刺激性や話題性を重視しているか(倫理観の欠如した)極めて雑な情報発信をしています。
要はこれもトロールの一種だと思います🎣
1:10の図が、藁人形論法の図に見えたw
???「こういうと宗教っぽいけど…」
いや宗教なめとんのかと
お前が言いたいことは宗教そのものやからヘタに濁さずにこれがうちの教義です!ドグマです!って言い切れよって思う事が本当に多い
初めまして。そもそもNHKがやっている事なので、そんな物かと。ブチギレていい案件だと思います。
私はネオ民さんの意見に賛同しますけど、大多数の現代日本人からすれば、宗教とは関係ない日常的な会話を例にしたほうが、嫌な感じがするんだと思います。これは推測ですが、いまは日本人の殆どが宗教から距離を置いて生きていて、しかし宗教を持たずに生きられるほど強くはないので、俗世の中に一種の宗教を見出している気がします。具体的には、世間という場を心の拠り所にしちゃっているのです。そうなると、キリスト教などの伝統宗教に対しては「異教徒め!」という気持ちで、循環論法の例にしたりしているんだと思います。
壺を売ると、完全に邪教。
本を売ると、ちょこっと邪教。
スパモン教を宣伝すると、笑いが生れる(^^♪
私は、人の様に人格がある神様像(こうしなさい、ああしなさいと言ってくる。)には懐疑的ですが、「神」の存在証明は無理ではないかと思うので、聖書=神の言葉か証明する事もまた無理なので、詭弁と決めつける事は出来ないという事になるのかなと感じます。確かに、公の見解として宗教=詭弁はまずいのかなと感じます。また一方で、信仰心の無い方、少ない方が人としておかしい、冒涜しているという見方も、まずいのではないかと感じます。循環論法の例に宗教を挙げるのは、不適切が私の結論です。
詭弁でいいんじゃ無いんですかね…
まずこの例は良くないね。仰る通りだわ。
まぁ、この本が全体的に倫理観ない感じだったら、ダメだけど。
この1ページだけなら、許してやろうぜ!
また東大か(呆)。
中堅の教授の方がよっぽどわかりやすくて個性的な本出してますよね。