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土屋家はこの働きにより家康の目に留まり、子孫は江戸幕府老中に上り、老中土屋正直が八代将軍吉宗擁立に奔走したとされる。
23:02 北条夫人は享年19歳。武田家に嫁いでわずか5年であった。
現在の大月市にある小山田信茂の岩殿城を目指したが、裏切られ現在の甲州市にある天目山を目指したのか…忠臣土屋の片手千人切りを取り上げてくれて嬉しい。
徳川家に再就職出来た武田旧臣たちは井伊直政の下で井伊の赤備えとして恐れられていきます
面白かったです!ありがとうございました!
勝頼の妹が上杉に嫁いでいるのだから息子だけは新府城出る時に越後に落とせばよかったのに。
なぜ四郎勝頼をNHK大河でドラマ化しないのか不思議。
いつも詳しい歴史解説を興味深く拝見しています。ありがとうございます。 懸賞を与えるとふれ回ったら、農民が次々と武田の家臣を討ち取ったということは初めて知りましたが、確かにうまい手だと思いました。これだと逃れることは難しかったでしょうね。あたかも落ち武者狩です。
勝頼が信長に滅ぼされたとき、当時16歳だった勝頼の嫡男の信勝は土屋山城守高久に伴われて落ち延びた。信勝は、武田家と同じく新羅三郎義光を祖とする上州羽沢村(群馬県甘楽郡南牧村羽沢)の羽沢城主市川四郎兵衛貞吉に匿われた。信勝は49才で没し南牧村大日方笹ノ平に埋葬された。その後、武田家の嫡流は市川の分家という立場で生き延びた。と、いう有力な説がある。この地域には、武田家の重臣だった工藤(内藤)や土屋、市川、金堀衆の小金沢らの末裔が今も住んでいる。また金堀衆の積んだ見事な石垣が至るところに見られる。なお、大正3年の大正天皇祖奥井式典に際し信玄公に従三位を贈位することになった。位記宣明を受け取る信玄公の正統の子孫を決めるにあたり、市川家伝承の古文書、墓等が山梨県によって詳細に調査されたが 正統と断定されるまでには至らなかった。
教えてくださりありがとうございます!信勝が生きていた説がもし、本当ならこれほど嬉しいことはないです!
武田家滅亡は、勝頼のミスも多々あったんでしょうけど根本的な原因は甲斐の貧しさとそれを打開する為の信玄の行動がその時点では最善あるいは最良であったが禍根を残し、勝頼の代に負の遺産として噴出したのが実像だろうなと思います。それなのに勝頼だけが無能扱いされるのは悲しい事です。 武田家滅亡は信玄の責任も大きいのにと思います。
義信はそれを分かってたから反抗したんでしょうね
@@pontarou01 確かに駿河侵攻は、その時点では最善あるいは最良でしたね。駿河に侵攻しなかったらいずれ駿河は松平やもしかしたら北条に取られてしまうかもしれない。 そうなったら武田はいつまで経っても海を手に入れる事はできず塩や鉄砲、硝石の交易に不利で貧しいままですから。
信玄があと十年、いや五年長く生きていたなら・・・と思ってしまいますね
@@名無しさん-b7x 信玄は信虎の時代と変わらず領内に重税をかけていて、他国に逃散する民が結構多かったらしいですから、5年や10年長生きしても天下統一や信長を倒す事は無理だったと私は思います。
@@名無しさん-b7x私は信玄が長生きしていたところで結果は信長に負けていたと思ってます。西上作戦の時、今の愛知県新城市辺りで進軍を止めたのも険しい山道を進まなきゃいけないから食糧や弾薬などの補給に苦労してその辺りか岩村城などの東美濃辺りが山梨を本拠地とする武田の攻勢限界だったのではないかと思うからです。 それに加えてただでさえ武田と織田では国力に圧倒的な差があるので。 朝倉も浅井の援軍の為には北国街道という険しい山道を進まないといけないから補給に苦労してそう何度も軍勢を動かせないから、各個撃破の対象になってしまうと思います。私個人としては、信玄が長生きするよりは駿河侵攻がひと段落した辺りで実権こそ握っていても勝頼に家督を譲り、その後西上作戦をする事なく死んでいた方が良かったのかもと思いました。ですが、家康が家臣達に恩賞を出すには領土を拡大するしかない、織田とは同盟しているから攻める先が武田しかないと何度も武田相手にちょっかいを出してくるのが嫌らしいですね。
勝頼が無能と言うより、潤沢な物資で挑んだ信長の作戦勝ちではないかと思いますね。上杉謙信が4年間に亡くなったのも痛手かなと思います。天正10年時点で武田と上杉は同盟関係でしたが、上杉も謙信の死→御館の乱→織田北陸軍と新発田重家の挟み撃ちで協調する余裕なかったので。
勝頼最大の失策は金に釣られて御館の乱で上杉景勝に加担して北条を裏切った事だなと思う。武田北条が組んでれば背後を気にせずもう少しマシな対応が出来ただろうなあ。
御館の乱で勝頼が兵を越後に差仕向けてる中駿河に家康が侵略しに来ているので景勝景虎の両者和睦して金銭や領土獲得して駿河に引き返してるけど結局のところどうしようもないんでは?仮に北条が完全に徳川と織田敵対して武田との同盟し続けても北条に益は無いし、御館の乱後の上野国での死に体の武田対北条の戦いで敗北して上野を取られているのに圧倒的な織田家に対応できるとは思えない。
上杉景虎が継いだら実質は北条が関東から北陸まで支配する、武田とは比べ物にならない大国になってしまう。同盟どころか事実上の属国として対織田の防波堤扱いされかねないので、武田としてはその選択は取りづらいかと。
御館の乱時点では武田北条は同盟国。それを失ってまで乱に介入すべきだったかな?長篠の戦いで失った傷を癒やすなら東西南に敵を増やしたのは愚策と思うよ。
@@uyotias 武田は乱に介入では無く景虎方への援軍で北条要請による出兵、出兵したが北条の出兵が遅すぎるのと前記の徳川の駿河侵攻が重なって打算的講和したけど、まず前提として俺個人的には北条武田同盟が続いたところで織田家はほぼ半分の日本の国土と石高や強大な経済圏や鉛や鉄、土木資源を持っている織田家には対抗不可能だし、御館の乱で景虎方が勝利しても北条が未来永劫武田の同盟国として自家が滅亡するまで支え続けることは無いし逆に裏切り武田領を織田徳川北条で分割するのが自然の流れだと思うよ。
そもそも謙信死後の上杉家は景勝が継ぐ事でまとまっていて、最初は景虎からも他の家臣からも異論はなく、諸大名に景勝が家督を継いだとの通達も行われていたらしいです。しかし、謙信時代の吏僚だった神余親綱という家臣が景勝に無断で領内の有力者から人質を集めている事を知った景勝は、神余が会津の蘆名と通じて謀反を企んでいるのではないかと疑いを持ったらしい。神余は自分の行動は蘆名の侵攻に備える為だと弁明し、上杉憲政や山本寺定長らが景勝と神余の間の仲裁に動いた。その後、本当に蘆名が侵攻してきて神余が撃退した事で景勝の器量に疑問を持つ家臣が多くなったらしい。しかし景勝は神余に対し自分に忠誠を誓うという誓紙を血判を入れて提出する事を求めるなど強硬姿勢だったらしい。この事に憤慨した神余が景勝派の家臣の城を攻撃、景勝が神余との間を仲裁していた自分達の面子を潰したと思ったのかは不明だが上杉憲政や山本寺定長らも神余に同調して反景勝派を形成し、自分達の行動を正当化する為の御輿として景虎を担ぎ出したのが御館の乱の実像だと思います。景虎に景勝を倒して上杉家当主になる意思があったにせよなかったにせよ、神余や上杉憲政ら反景勝派の御輿として動かざるを得なかったのでしょう。
勝頼を裏切って道を塞いだ小山田も信長に処刑されてるから、戦っても逃げても裏切っても、武田の有力武将は処刑されてる。本領で籠城して、少しでも有利な講和をした方が良かったかも。
あの時点では滅亡させる気しかない織田軍と講話出来る道は無かったのかと思います。武田家の戦闘力を背景にして振る舞って損なってきた周辺国との関係は、自身の死後に国力の差に加えて反感という大きな影を残していたと思います。
逆に岩櫃城に逃げてたら、真田は耐えられたのかが気になります。織田徳川vs昌幸、見てみたかったな〜^_^
@@MarceRonald712 後世では、真田は忠義の人みたいになってるけど、豊臣方、徳川方の両方から見ても敵の敵だから味方になってるぐらいしか思ってないんだよね。
聞き取りやすい良い声です
お褒めいただきありがとうございます!
信濃で対応したのは高遠だけだったのか、、また、勝頼らが自刃したあと、武田家や元武将は徹底的に追討や捜索とありますが、当時その人らは基本的には逃げ隠れするものなのでしょうか。家とかどうなてるんだろう。
降伏を許さなかった信長、恐るべし。勝頼も本領安堵は無理だから、甲斐以外を差し出しゃ命はあったかもなあ。
良い動画ですね。 武田家にとったら、信玄没後の10年で滅びたとみるか、10年もった。とみるか。
本年も大変に勉強になりました、細やかですが、、
いつもコメントとスーパーサンクスありがとうございます!とても励みになります!
滝川隊4000も大損害を出して一益自身所望していた珠光小茄子を入手できなかった。この時滝川隊が勝頼の大軍を包囲した上で後続の到着を待って慎重に攻撃をしていればもっと少ない犠牲で済んだのに。
天目山は小遊三師匠の故郷である大月市にありますね
悲惨な話なのに逃げる時のSEがピュ~とコミカルなのはやめてほしい。
武田氏滅亡から僅か三か月後に本能寺の変・・・・諸行無常・・・・
甲斐源氏の名家も滅びるのか。信長秀吉の源氏狙いは度がすぎる。家格で負けてるから仕方ないが。
上田城が出てきましたが、この頃あったんでしたっけ?
「信勝」って黒澤作品の「影武者」で幼名「竹丸」で出てた坊やかな?😊
重要なポイントで度々判断を誤ってしまった勝頼は人心を失って滅びてしまう。
勝頼が陣を構えた場所は、上田城では無く、茅野の上原城ですかね?
教えてくださり、ありがとうございます!
素人が恐縮ですm(_ _)m 航空地図で解りやすく、いつも勉強させてもらってます。ありがとうございます。
13:27 勝頼が上田城にいた?上原城の誤りかな?そもそもまだ上田城築城前だし
コメントありがとうございます!上原城の誤りです。。。申し訳ありません。
木曾義昌や小山田信茂だけじゃなく多数の武将が寝返りしたんだな
所々間違いあるが本隊な!
追撃戦してたら滅んじゃうのは朝倉家も同じ
微妙に人物が違う
長野県では勝頼さんの方が人気あるわ
武田信玄を「信玄公」と呼び武田勝頼を同郷の誼(笑)でこよなく称賛する新田次郎氏はこの甲州征伐での雪崩式のような寝返りが悔しかったのか「武田勝頼」の中で文間から血涙が流れ出そうな文章で描写し、木曽・穴山を激しく批判していますwww
23:18 西暦が間違ってますね
ご指摘ありがとうございます!
2:28 確か信玄では、高天神城を落城させれなくて、勝頼が落城させたハズ。
寝返った武将のその後の説明があるのがよかったです北条のどなたかもそうだったですが、信長様は、意外とスジを通す方ですからね小山田さん、甘かったですね
信勝がこんな状態で家督譲られて貧乏くじ引かされるのクソワロタ
あまりにも、運が悪い😢
勝頼はよくやったとは思いますよ。あの噴火さえなければ滅亡まではいかなかったかも。設楽原の決戦後の戦略・行動もまずまず正しかったし、そもそも武田軍とは信玄軍のことでありまた真の味方とはいえなかった?ただ設楽原の決戦は信長の作戦勝ちというか鉄の船をつくる奴が直々来るということは、必勝の策がある~と読めなかったのかな。なら逃げ道は絶対確保のはずが長篠を失ったのは、痛かった。とにかく戦は徹底的に相手の立場からの読みが必要、場合によれば信長チームを組ませて目の前で勝頼チームとシュミレーションゲームをやらせてもいいぐらいだ。にしても、勝頼は不運が重なった感じたね。ただ吉川経家や柴田勝家のごとく見事な立派な最期でしたよ。男はこうでなくっちゃ。前田利家になってはいけないぞ。ありゃオオクズで、情けないよ。
設楽ヶ原の時も仕方なかったでしょうね。撤退したら「武田は織田や徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と喧伝されて三河や遠江、東美濃の国衆達の離反が加速していたでしょうし、甲斐や信濃の国衆達だって信玄や信虎、それ以前から続く重税で困窮する中わざわざ遠征したのに戦果無しで撤退したら恩賞が貰えない。戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、それを取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。家臣や国衆達も自分達の領地の民や陪臣(家臣の家臣)達に恩賞を出さなければならない立場だから、自分達が恩賞を貰えなければ、陪臣や民達に恩賞を出せない。 そうなったら陪臣や民達から自分に、更には武田家に対する不満が出てくる。当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。 武田家は鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門なのに対し、信長の織田家は元は守護代の家臣筋、徳川も三河の土豪出身。 武田から見たら織田や徳川は素性が怪しく身分も低い、卑しくて格下の家柄の相手。 そんな相手に尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら、武田家だけでなく武田家に従う家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。この事から考えたら長篠で撤退したらお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わった上に面子を潰された家臣や国衆達が不満を抱いて何をしでかすか分からないと思います。今後出兵に応じなくなる、反乱を起こす、別の誰かを担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとする、織田や徳川に寝返る者が出るなどして武田領に大混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は開く一方。次は今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。信玄が同盟や和睦を平気で反故にして他国への侵攻を繰り返した為に周辺諸国の武田家への信用は地に落ちている。 信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた事で、信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、織田との関係修復は無理。徳川との関係修復も共同で今川を攻めた時に、今川領を分ける時の約束を信玄が欲を出して破った事や三方ヶ原の戦いのせいで無理(家康も武田に無断で今川と和睦したり、上杉や北条と通じて武田包囲網を作ろうとしたり、信長に武田と手を切るように訴えていたらしいからどっちもどっちだが)。織田と敵対したせいで鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料の硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧され、武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだがいずれ敗れるのは時間の問題。これらの状況を打開するには、まだ織田が畿内で本願寺勢力と争っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与えて「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない。 そしてそれができるのは今しかないと判断したのも無理はないと思います。設楽ヶ原に出たのも戦術的には間違いじゃなかったと思います。全軍で長篠城を落としたとしても、そうなったら設楽ヶ原の織田・徳川軍が武田軍が落としたばかりの長篠城の守りを固める間もなく打って出てきて、武田軍を兵糧や弾薬の尽きた長篠城に押し込み、包囲殲滅しようとするかもしれない。 そうなったら遠征軍の武田は兵糧切れしたら全滅するしかないのに対し、徳川は自軍の本領。 そして織田の本領である尾張にも近いから、信長や織田軍主力が引き上げても、すぐに援軍を出して武田軍が兵糧切れするまで包囲を維持できればいい。 そして織田は長期の兵糧攻めが可能な財力と兵力がある。それならば勝頼率いる本体は設楽ヶ原に出て馬防柵に篭っている織田・徳川軍が出てこないように牽制する、仮に打って出てきた部隊があるならその時は戦えばいい。そうして睨み合い、小競り合いをしている間に鳶ヶ巣山砦に配置した軍勢で長篠城を落として退路を確保するという戦術は最善あるいは最良だったと思います。
なかなかの分析ですね、戦も人生も一発勝負?的な部分はある。要はやってみないとわからない →ので基本戦略はあるものの臨機応変に動くものがか勝つ場合が多いだろう。勝頼はヘマもあるが、今やるべきことはそれなりにやっている、余計なことはしていない。やはり結果的には不運が重なった?勝頼に与えられた運命?の気がします。でもよく戦ったし、諏訪と母の仇は取れた、最後は諏訪の者たちとともに見事な最後です。ご冥福をお祈りします。男の美学というか、最後は美しく散らないとね。
@@phoenixgold3593 私のコメントが表示されなくなってますが、確かに勝頼はやる事はしっかりやってますよね。 戦も内政も。長篠では撤退したら「武田は織田や徳川を恐れて逃げ出した」と喧伝されて外様の国衆達が離反してしまう。甲斐や信濃の国衆達も信玄や信虎、それ以前の代からの重税で困窮する中わざわざ遠征したのに戦果無しで撤退したら恩賞が貰えないし、自分達の陪臣や民達に恩賞を出せない、しかも面子も潰された事に不満を抱いてしまう。仮にそうならなかったとしても武田と織田の国力差は開き、時間が経つほど武田が不利になる。 武田と対織田で連携できる相手がいなくなり、鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料である硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。信玄の所業のせいで周辺諸国の武田家への信用は地に落ち、織田や徳川との関係修復は不可能。こんな状況でも長篠の戦い以降は鉄砲の弾薬の確保に力を入れ、内政についても湯治中に来た領内の村で起きた訴訟に対し、訴え出た側の一方が自分の重臣にして従兄弟の武田信豊の身内であっても忖度せず、信豊の身内じゃない方を勝訴にしたり、京に伝手がある商人を登用して財政再建に力を入れたりしたらしいです。
武田家は幹部を「分家筋」で固めていたのに「逃亡or寝返り」ばかり。勝頼は味方を捨てて、最後まで逃げて見苦しかった。北条のほうが、遥かに組織がしっかりしていた。
分家の人々は勝頼を正当な当主と認めていなかったし、勝頼もそんな味方を信用しなかった、できなかったしで組織自体がボロボロになっていたのでしょうね。
義信が生きていたら勝頼は戦場の働きに専念でき、幹部ら宿老も一つにまとまっていたのではないか?武田の滅亡はなかったと思う。
@@義和菊池 仮に滅亡したとしても勝頼の運命は違っていたかもしれませんね。 兄を守って壮絶な討ち死にして、敵味方から称賛される最期になっていたかもしれません。
勝頼は兵法とか全然勉強してなさそう
甲斐から全軍で駿河遠江って……なんか時系列も下手くそ
土屋家はこの働きにより家康の目に留まり、子孫は江戸幕府老中に上り、老中土屋正直が八代将軍吉宗擁立に奔走したとされる。
23:02 北条夫人は享年19歳。
武田家に嫁いでわずか5年であった。
現在の大月市にある小山田信茂の岩殿城を目指したが、裏切られ現在の甲州市にある天目山を目指したのか…忠臣土屋の片手千人切りを取り上げてくれて嬉しい。
徳川家に再就職出来た武田旧臣たちは井伊直政の下で井伊の赤備えとして恐れられていきます
面白かったです!ありがとうございました!
勝頼の妹が上杉に嫁いでいるのだから
息子だけは新府城出る時に越後に落とせばよかったのに。
なぜ四郎勝頼をNHK大河でドラマ化しないのか不思議。
いつも詳しい歴史解説を興味深く拝見しています。ありがとうございます。
懸賞を与えるとふれ回ったら、農民が次々と武田の家臣を討ち取ったということは初めて知りましたが、確かにうまい手だと思いました。これだと逃れることは難しかったでしょうね。あたかも落ち武者狩です。
勝頼が信長に滅ぼされたとき、当時16歳だった勝頼の嫡男の信勝は土屋山城守高久に伴われて落ち延びた。信勝は、武田家と同じく新羅三郎義光を祖とする上州羽沢村(群馬県甘楽郡南牧村羽沢)の羽沢城主市川四郎兵衛貞吉に匿われた。信勝は49才で没し南牧村大日方笹ノ平に埋葬された。その後、武田家の嫡流は市川の分家という立場で生き延びた。
と、いう有力な説がある。
この地域には、武田家の重臣だった工藤(内藤)や土屋、市川、金堀衆の小金沢らの末裔が今も住んでいる。また金堀衆の積んだ見事な石垣が至るところに見られる。
なお、大正3年の大正天皇祖奥井式典に際し信玄公に従三位を贈位することになった。位記宣明を受け取る信玄公の正統の子孫を決めるにあたり、市川家伝承の古文書、墓等が山梨県によって詳細に調査されたが 正統と断定されるまでには至らなかった。
教えてくださりありがとうございます!
信勝が生きていた説がもし、本当ならこれほど嬉しいことはないです!
武田家滅亡は、勝頼のミスも多々あったんでしょうけど根本的な原因は甲斐の貧しさとそれを打開する為の信玄の行動がその時点では最善あるいは最良であったが禍根を残し、勝頼の代に負の遺産として噴出したのが実像だろうなと思います。
それなのに勝頼だけが無能扱いされるのは悲しい事です。 武田家滅亡は信玄の責任も大きいのにと思います。
義信はそれを分かってたから反抗したんでしょうね
@@pontarou01
確かに駿河侵攻は、その時点では最善あるいは最良でしたね。
駿河に侵攻しなかったらいずれ駿河は松平やもしかしたら北条に取られてしまうかもしれない。 そうなったら武田はいつまで経っても海を手に入れる事はできず塩や鉄砲、硝石の交易に不利で貧しいままですから。
信玄があと十年、いや五年長く生きていたなら・・・と思ってしまいますね
@@名無しさん-b7x
信玄は信虎の時代と変わらず領内に重税をかけていて、他国に逃散する民が結構多かったらしいですから、5年や10年長生きしても天下統一や信長を倒す事は無理だったと私は思います。
@@名無しさん-b7x
私は信玄が長生きしていたところで結果は信長に負けていたと思ってます。
西上作戦の時、今の愛知県新城市辺りで進軍を止めたのも険しい山道を進まなきゃいけないから食糧や弾薬などの補給に苦労してその辺りか岩村城などの東美濃辺りが山梨を本拠地とする武田の攻勢限界だったのではないかと思うからです。 それに加えてただでさえ武田と織田では国力に圧倒的な差があるので。 朝倉も浅井の援軍の為には北国街道という険しい山道を進まないといけないから補給に苦労してそう何度も軍勢を動かせないから、各個撃破の対象になってしまうと思います。
私個人としては、信玄が長生きするよりは駿河侵攻がひと段落した辺りで実権こそ握っていても勝頼に家督を譲り、その後西上作戦をする事なく死んでいた方が良かったのかもと思いました。
ですが、家康が家臣達に恩賞を出すには領土を拡大するしかない、織田とは同盟しているから攻める先が武田しかないと何度も武田相手にちょっかいを出してくるのが嫌らしいですね。
勝頼が無能と言うより、潤沢な物資で挑んだ信長の作戦勝ちではないかと思いますね。上杉謙信が4年間に亡くなったのも痛手かなと思います。
天正10年時点で武田と上杉は同盟関係でしたが、上杉も謙信の死→御館の乱→織田北陸軍と新発田重家の挟み撃ちで協調する余裕なかったので。
勝頼最大の失策は金に釣られて御館の乱で上杉景勝に加担して北条を裏切った事だなと思う。武田北条が組んでれば背後を気にせずもう少しマシな対応が出来ただろうなあ。
御館の乱で勝頼が兵を越後に差仕向けてる中駿河に家康が侵略しに来ているので景勝景虎の両者和睦して金銭や領土獲得して駿河に引き返してるけど結局のところどうしようもないんでは?仮に北条が完全に徳川と織田敵対して武田との同盟し続けても北条に益は無いし、御館の乱後の上野国での死に体の武田対北条の戦いで敗北して上野を取られているのに圧倒的な織田家に対応できるとは思えない。
上杉景虎が継いだら実質は北条が関東から北陸まで支配する、武田とは比べ物にならない大国になってしまう。
同盟どころか事実上の属国として対織田の防波堤扱いされかねないので、武田としてはその選択は取りづらいかと。
御館の乱時点では武田北条は同盟国。それを失ってまで乱に介入すべきだったかな?長篠の戦いで失った傷を癒やすなら東西南に敵を増やしたのは愚策と思うよ。
@@uyotias 武田は乱に介入では無く景虎方への援軍で北条要請による出兵、出兵したが北条の出兵が遅すぎるのと前記の徳川の駿河侵攻が重なって打算的講和したけど、まず前提として俺個人的には北条武田同盟が続いたところで織田家はほぼ半分の日本の国土と石高や強大な経済圏や鉛や鉄、土木資源を持っている織田家には対抗不可能だし、御館の乱で景虎方が勝利しても北条が未来永劫武田の同盟国として自家が滅亡するまで支え続けることは無いし逆に裏切り武田領を織田徳川北条で分割するのが自然の流れだと思うよ。
そもそも謙信死後の上杉家は景勝が継ぐ事でまとまっていて、最初は景虎からも他の家臣からも異論はなく、諸大名に景勝が家督を継いだとの通達も行われていたらしいです。
しかし、謙信時代の吏僚だった神余親綱という家臣が景勝に無断で領内の有力者から人質を集めている事を知った景勝は、神余が会津の蘆名と通じて謀反を企んでいるのではないかと疑いを持ったらしい。
神余は自分の行動は蘆名の侵攻に備える為だと弁明し、上杉憲政や山本寺定長らが景勝と神余の間の仲裁に動いた。
その後、本当に蘆名が侵攻してきて神余が撃退した事で景勝の器量に疑問を持つ家臣が多くなったらしい。
しかし景勝は神余に対し自分に忠誠を誓うという誓紙を血判を入れて提出する事を求めるなど強硬姿勢だったらしい。
この事に憤慨した神余が景勝派の家臣の城を攻撃、景勝が神余との間を仲裁していた自分達の面子を潰したと思ったのかは不明だが上杉憲政や山本寺定長らも神余に同調して反景勝派を形成し、自分達の行動を正当化する為の御輿として景虎を担ぎ出したのが御館の乱の実像だと思います。
景虎に景勝を倒して上杉家当主になる意思があったにせよなかったにせよ、神余や上杉憲政ら反景勝派の御輿として動かざるを得なかったのでしょう。
勝頼を裏切って道を塞いだ小山田も信長に処刑されてるから、戦っても逃げても裏切っても、武田の有力武将は処刑されてる。本領で籠城して、少しでも有利な講和をした方が良かったかも。
あの時点では滅亡させる気しかない織田軍と講話出来る道は無かったのかと思います。
武田家の戦闘力を背景にして振る舞って損なってきた周辺国との関係は、自身の死後に国力の差に加えて反感という大きな影を残していたと思います。
逆に岩櫃城に逃げてたら、真田は耐えられたのかが気になります。
織田徳川vs昌幸、見てみたかったな〜^_^
@@MarceRonald712 後世では、真田は忠義の人みたいになってるけど、豊臣方、徳川方の両方から見ても敵の敵だから味方になってるぐらいしか思ってないんだよね。
聞き取りやすい良い声です
お褒めいただきありがとうございます!
信濃で対応したのは高遠だけだったのか、、
また、
勝頼らが自刃したあと、武田家や元武将は徹底的に追討や捜索とありますが、
当時その人らは基本的には逃げ隠れするものなのでしょうか。
家とかどうなてるんだろう。
降伏を許さなかった信長、恐るべし。
勝頼も本領安堵は無理だから、甲斐以外を差し出しゃ命はあったかもなあ。
良い動画ですね。 武田家にとったら、信玄没後の10年で滅びたとみるか、10年もった。とみるか。
本年も大変に勉強になりました、細やかですが、、
いつもコメントとスーパーサンクスありがとうございます!
とても励みになります!
滝川隊4000も大損害を出して一益自身所望していた珠光小茄子を入手できなかった。この時滝川隊が勝頼の大軍を包囲した上で後続の到着を待って慎重に攻撃をしていればもっと少ない犠牲で済んだのに。
天目山は小遊三師匠の故郷である大月市にありますね
悲惨な話なのに逃げる時のSEがピュ~とコミカルなのはやめてほしい。
武田氏滅亡から僅か三か月後に本能寺の変・・・・
諸行無常・・・・
甲斐源氏の名家も滅びるのか。信長秀吉の源氏狙いは度がすぎる。家格で負けてるから仕方ないが。
上田城が出てきましたが、この頃あったんでしたっけ?
「信勝」って黒澤作品の「影武者」で幼名「竹丸」で出てた坊やかな?😊
重要なポイントで度々判断を誤ってしまった勝頼は人心を失って滅びてしまう。
勝頼が陣を構えた場所は、上田城では無く、茅野の上原城ですかね?
教えてくださり、ありがとうございます!
素人が恐縮ですm(_ _)m 航空地図で解りやすく、いつも勉強させてもらってます。ありがとうございます。
13:27 勝頼が上田城にいた?上原城の誤りかな?そもそもまだ上田城築城前だし
コメントありがとうございます!上原城の誤りです。。。申し訳ありません。
木曾義昌や小山田信茂だけじゃなく多数の武将が寝返りしたんだな
所々間違いあるが本隊な!
追撃戦してたら滅んじゃうのは朝倉家も同じ
微妙に人物が違う
長野県では勝頼さんの方が人気あるわ
武田信玄を「信玄公」と呼び武田勝頼を同郷の誼(笑)でこよなく称賛する新田次郎氏はこの甲州征伐での雪崩式のような寝返りが悔しかったのか「武田勝頼」の中で文間から血涙が流れ出そうな文章で描写し、木曽・穴山を激しく批判していますwww
23:18 西暦が間違ってますね
ご指摘ありがとうございます!
2:28 確か信玄では、高天神城を落城させれなくて、勝頼が落城させたハズ。
寝返った武将のその後の説明があるのがよかったです
北条のどなたかもそうだったですが、信長様は、意外とスジを通す方ですからね
小山田さん、甘かったですね
信勝がこんな状態で家督譲られて貧乏くじ引かされるのクソワロタ
あまりにも、運が悪い😢
勝頼はよくやったとは思いますよ。あの噴火さえなければ滅亡まではいかなかったかも。設楽原の決戦後の戦略・行動もまずまず正しかったし、そもそも武田軍とは信玄軍のことでありまた真の味方とはいえなかった?ただ設楽原の決戦は信長の作戦勝ちというか鉄の船をつくる奴が直々来るということは、必勝の策がある~と読めなかったのかな。なら逃げ道は絶対確保のはずが長篠を失ったのは、痛かった。とにかく戦は徹底的に相手の立場からの読みが必要、場合によれば信長チームを組ませて目の前で勝頼チームとシュミレーションゲームをやらせてもいいぐらいだ。にしても、勝頼は不運が重なった感じたね。ただ吉川経家や柴田勝家のごとく見事な立派な最期でしたよ。男はこうでなくっちゃ。前田利家になってはいけないぞ。ありゃオオクズで、情けないよ。
設楽ヶ原の時も仕方なかったでしょうね。
撤退したら「武田は織田や徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と喧伝されて三河や遠江、東美濃の国衆達の離反が加速していたでしょうし、甲斐や信濃の国衆達だって信玄や信虎、それ以前から続く重税で困窮する中わざわざ遠征したのに戦果無しで撤退したら恩賞が貰えない。
戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、それを取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。
家臣や国衆達も自分達の領地の民や陪臣(家臣の家臣)達に恩賞を出さなければならない立場だから、自分達が恩賞を貰えなければ、陪臣や民達に恩賞を出せない。 そうなったら陪臣や民達から自分に、更には武田家に対する不満が出てくる。
当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。 武田家は鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門なのに対し、信長の織田家は元は守護代の家臣筋、徳川も三河の土豪出身。 武田から見たら織田や徳川は素性が怪しく身分も低い、卑しくて格下の家柄の相手。 そんな相手に尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら、武田家だけでなく武田家に従う家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。
この事から考えたら長篠で撤退したらお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わった上に面子を潰された家臣や国衆達が不満を抱いて何をしでかすか分からないと思います。
今後出兵に応じなくなる、反乱を起こす、別の誰かを担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとする、織田や徳川に寝返る者が出るなどして武田領に大混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。
仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は開く一方。
次は今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。
信玄が同盟や和睦を平気で反故にして他国への侵攻を繰り返した為に周辺諸国の武田家への信用は地に落ちている。
信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた事で、信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、織田との関係修復は無理。
徳川との関係修復も共同で今川を攻めた時に、今川領を分ける時の約束を信玄が欲を出して破った事や三方ヶ原の戦いのせいで無理(家康も武田に無断で今川と和睦したり、上杉や北条と通じて武田包囲網を作ろうとしたり、信長に武田と手を切るように訴えていたらしいからどっちもどっちだが)。
織田と敵対したせいで鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料の硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。
浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧され、武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだがいずれ敗れるのは時間の問題。
これらの状況を打開するには、まだ織田が畿内で本願寺勢力と争っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与えて「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない。 そしてそれができるのは今しかないと判断したのも無理はないと思います。
設楽ヶ原に出たのも戦術的には間違いじゃなかったと思います。
全軍で長篠城を落としたとしても、そうなったら設楽ヶ原の織田・徳川軍が武田軍が落としたばかりの長篠城の守りを固める間もなく打って出てきて、武田軍を兵糧や弾薬の尽きた長篠城に押し込み、包囲殲滅しようとするかもしれない。
そうなったら遠征軍の武田は兵糧切れしたら全滅するしかないのに対し、徳川は自軍の本領。 そして織田の本領である尾張にも近いから、信長や織田軍主力が引き上げても、すぐに援軍を出して武田軍が兵糧切れするまで包囲を維持できればいい。 そして織田は長期の兵糧攻めが可能な財力と兵力がある。
それならば勝頼率いる本体は設楽ヶ原に出て馬防柵に篭っている織田・徳川軍が出てこないように牽制する、仮に打って出てきた部隊があるならその時は戦えばいい。
そうして睨み合い、小競り合いをしている間に鳶ヶ巣山砦に配置した軍勢で長篠城を落として退路を確保するという戦術は最善あるいは最良だったと思います。
なかなかの分析ですね、戦も人生も一発勝負?的な部分はある。要はやってみないとわからない →ので基本戦略はあるものの臨機応変に動くものがか勝つ場合が多いだろう。勝頼はヘマもあるが、今やるべきことはそれなりにやっている、余計なことはしていない。やはり結果的には不運が重なった?勝頼に与えられた運命?の気がします。でもよく戦ったし、諏訪と母の仇は取れた、最後は諏訪の者たちとともに見事な最後です。ご冥福をお祈りします。男の美学というか、最後は美しく散らないとね。
@@phoenixgold3593
私のコメントが表示されなくなってますが、確かに勝頼はやる事はしっかりやってますよね。 戦も内政も。
長篠では撤退したら「武田は織田や徳川を恐れて逃げ出した」と喧伝されて外様の国衆達が離反してしまう。
甲斐や信濃の国衆達も信玄や信虎、それ以前の代からの重税で困窮する中わざわざ遠征したのに戦果無しで撤退したら恩賞が貰えないし、自分達の陪臣や民達に恩賞を出せない、しかも面子も潰された事に不満を抱いてしまう。
仮にそうならなかったとしても武田と織田の国力差は開き、時間が経つほど武田が不利になる。
武田と対織田で連携できる相手がいなくなり、鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料である硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。
信玄の所業のせいで周辺諸国の武田家への信用は地に落ち、織田や徳川との関係修復は不可能。
こんな状況でも長篠の戦い以降は鉄砲の弾薬の確保に力を入れ、内政についても湯治中に来た領内の村で起きた訴訟に対し、訴え出た側の一方が自分の重臣にして従兄弟の武田信豊の身内であっても忖度せず、信豊の身内じゃない方を勝訴にしたり、京に伝手がある商人を登用して財政再建に力を入れたりしたらしいです。
武田家は幹部を「分家筋」で固めていたのに「逃亡or寝返り」ばかり。
勝頼は味方を捨てて、最後まで逃げて見苦しかった。
北条のほうが、遥かに組織がしっかりしていた。
分家の人々は勝頼を正当な当主と認めていなかったし、勝頼もそんな味方を信用しなかった、できなかったしで組織自体がボロボロになっていたのでしょうね。
義信が生きていたら勝頼は戦場の働きに専念でき、幹部ら宿老も一つにまとまっていたのではないか?武田の滅亡はなかったと思う。
@@義和菊池
仮に滅亡したとしても勝頼の運命は違っていたかもしれませんね。 兄を守って壮絶な討ち死にして、敵味方から称賛される最期になっていたかもしれません。
勝頼は兵法とか全然勉強してなさそう
甲斐から全軍で駿河遠江って……
なんか時系列も下手くそ