Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
時が今よりゆっくり流れ、いい時代だったね。これぞ旅列車
せまい日本 そんなに急いで どこへ行くこれ1973年の全国交通標語ね今より殺伐としてたんじゃね
女性二人のブルトレ旅行で日本盛がドーンと置かれているのが凄い
中学生時代、始発から乗りたくて東京まで新幹線で行って、西鹿児島迄乗りとおしました。昭和52、3年だったかと。彗星にも乗りました。当時は都城まで走っていました。なぜか日豊本線経由の列車が好きでした。いい思い出です。
良い思い出でしたね~私は昭和57年にリニアモーターカー実験線を見たくて富士に乗車しました(東京・宮崎間)
あの頃は今と同じ時間だけどなんだか時間がゆっくり流れてたと思います。夜の車窓から線路沿いの家の光を見るとあの家の家族はどんな話しをしているのだろうと思ってました。なんだか懐かしいです❗️昭和48年頃の思い出。あぁあの日に戻りたい⁉️
今では考えられない24時間以上の日常を忘れて贅沢な鉄道旅。新幹線と違い車窓からは地域の暮らし、手を振る子供、夜の静寂の風景が見えて旅情を満喫、憧れました
まあそれに昔は違う愛称で経由する路線は別でも行き先が同じとか、かつてのあさかぜや出雲のように一日に複数の本数運転していたしね。まあ最近でも北斗星も最盛期には片道3本、上下合わせて6本運転していたけど。
無駄ではないのでは😂人間にはこれくらいの時間がちょうどいい😊
時間を無駄に過ごす、表現が難しいので、替えました。
midori3203 無駄=贅沢 よく分かりました!私の文書理解能力不足で申し訳ありませんでした。
営業運転の時間が24時間を超えるということはおなじ愛称をもつ列車同士が片道2回行き違うということすなわち、基本編成を3本必要とするところがすごい。
1:05 このお辞儀何かかわいい。
富士は大分人につき20系の頃から乗っていたな 食堂車や下関駅ホームのうどん等食の楽しみも満喫できて素晴らしい列車やった
この時代は、西鹿児島に行く列車にA寝台個室と食堂車を連結していたんですね!
人、風景、機械も温かみを感じる素敵な時代でした。
ホントにいい時代だよね
まだ24系が新しい時期か絵幕じゃないテールマークも味があっていいね
夜行列車で、宮崎に行ってましたネ!懐かしい大学時代の思い出
今から42年程前、大学生だった頃、名古屋から西鹿児島まで富士のA寝台乗りました。蛇足ですが、名古屋駅ホームのきしめん屋さんは富士が出発する22時50分頃までやってた記憶があります。
この時代へ行ってみたいなーー
この時代は飛行機乗るだけで自慢できたですね。今タイに居て時間あれば極力夜行列車使ってる。飛行機が安いでしょう?と言われても高くても寝台車。優等寝台車利用客の多くが白人。旅をわかってらっしゃると思う
タイムマシン・・・一家に一台欲しいです。 後生涯独身男の為に掃除洗濯食事をしてくれるロボットも。
@丹後良玄 言えてる
スマホなくてイライラすっぞ
判りますその気持ちもうさぁ鈍行でもいいから、こんな列車の設定してほしいよ
岸ユキさんが出ていた動画で見た富士を見てから、宮崎以南が非電化の頃の富士に興味を持ちこちらにたどり着きました。大分で半分切り離したあとの西鹿児島までの編成に食堂車が組み込まれているのに感動しました。岸ユキさんが出てる動画よりこちらの方が鮮明に食堂車が確認できます。宮崎駅でディーゼル機関車牽引のブルートレイン食堂車編成が走っていた鮮明な動画を見る事ができ感激です。☺️
夜中に廊下の椅子にひっそりと座り外を眺めるのが楽しかった。
確か西鹿児島到着が夕方6時台でしたね。電化で少し早まったと記憶していますが、さすがに時間がかかりすぎたのか、80年頃に宮崎終着に改められましたね。
DF50牽引の富士もレアだが、門司ですれ違う山陰まわりのキハ82まつかぜも相当レアだ。日豊まわりで西鹿児島とか山陰まわりで大阪とか。一度乗り通してみたかった。
中学の時 まつかぜで大阪~博多のり通した。親には新幹線の方が速くつくで~あんたアホやなと言われた。
確かに。でもスピードじゃないんですよね。大阪から山陰まわり博多ゆきなんて、夢のある列車だったなあ。山陰のクィーンとか呼ばれていましたっけ。
@@sunami808 様親はアホやなぁって言ったけど吾輩はあんた偉い👏と言います 魂入っとる👍吾輩も東京から熊本帰るに長崎~島原鉄道~フェリー~三角~熊本東京から四国行くのに別府~フェリー~宇和島等 多種多様を利用した人です😄同じビョーキ持ち😅相憐れむ
寝台特急富士号の車内と電気機関車の交換。昭和50年代懐かしいですね。
8mmで持ってます。38年前、新宿ヨドバシカメラで祖父に買ってもらいました。
素晴らしい❤
東京から西鹿児島まで24時間26分西鹿児島到着前に、東京発の富士が発車。
いい時代だなぁ〜
ホームタウン急行 がよく似合う。
良い時代だねw
オシが基本編成に連結、テールマークが文字、宮崎から先が非電化なので53/10より前でしょう。
昭和レトロを、思い出す、光景でした。寝台特急富士号は、西鹿児島行だった事を、覚えています。時間が、ゆっくり過ぎていた。時代でした。
この頃はいろんな列車が走ってたからいいなー
DF50の走行映像、今では超貴重ですね。現在保存されているのは2両のみとのこと。
ブルートレイン富士は昔1回生で拝見したことがあります。あと、あかつきは短区間ですが、実際乗ったことがあります。
食堂車が大分回転に変更されるよりも前かぁ。いい時代だ。
いい時代だったな…と思うし、今(令和2年)だって、あと20年もすれば「あの頃は良かった」って言われるんだろうな。そうすると今、当たり前と思っていることにも、ありがたみを感じていたい。
ブルートレインは1度乗ってみたかった‼平成生まれで更に九州民だから一度もブルートレインに乗れないまま廃止されました。博多に来ていたブルートレインが廃止された2007年頃はまだ小学生でした。
25形で食堂車が全区間営業、宮崎からDF50だから昭和51後半〜53初頭ぐらいの撮影ですね。ちょうど車両が置き換わって個室寝台が話題になっていた頃だった。このころは確かジャスト10,000円。一晩の対価としては子供には天文学的数字だった。
詳しいですね!あの頃はまだ寝台特急に乗るのも憧れでした。
寝台特急列車富士🗻号の貴重な映像ありがとうございます。今から40年前の寝台特急列車富士🗻号は東京駅から西鹿児島駅現在の鹿児島中央駅まで24時間26分かかっていました。そしてこの動画の映像は食堂車🍴が基本編成にある事から昭和51年10月の映像であるが分かります。その前は確か3段式の24系24形でしたが24系24形の時代はわずか1年半しかもたず昭和51年10月からは2段式B寝台の24系25形に置き換えられていきました。この時に登場したのが全個室寝台客車のオロネ25形です。実は私も昭和57年3月19日に当時伯備線のL特急やくも号に使われていたキハ181系特急形気動車が昭和57年7月1日の伯備線電化によって引退する情報が流れました。そしてこのL特急やくも号に使われていたキハ181系特急形気動車には全室食堂車🍴のキサシ181形が編成の中央に連結されていて昭和57年7月1日の伯備線の電化によって全室食堂車🍴のキサシ181形も引退する事が決まりました。そしてこの全気動車で運転されていたL特急やくも号のキサシ181形を撮る目的で東京18時20分発の浜田行き寝台特別急行列車2001列車出雲1号の乗客となりました。そして実際にこの車両に感じた事は室内があまりにも狭くまるで刑務所の雑居房にいる形としか感じられませんでした。またこの全室個室寝台客車のオロネ25形客車の寝台料金は1万4000千円と高額でとても一般の庶民からすれば誰でもが気軽に利用できる寝台車ではありませんでした。また洗面器も浅く水が寝台のシーツの方に💦飛び散って濡れてしまいとても快適に過ごせると言うにはとても大変残念と言わざるを得ませんでした。せめてもの救いはブルートレインのタオルが記念に置いてあった事ではないのでしょうか?はやぶさ号富士号出雲号あさかぜ号の4種類の列車のヘッドマーク入りの記念タオルでしたが、そして基本編成にあった食堂車🍴は昭和53年2月1日に東京駅発着の寝台特急列車で最後まで20系客車で残っていたあさかぜ下り1号上り2号現在のあさかぜ下り1号上り4号が24系25形客車に置き換えられてから基本編成にあった食堂車🍴が付属編成に変わりました。また、昭和54年10月1日には日豊本線の南宮崎から西鹿児島現在の鹿児島中央までの交流電化が完成しましたが寝台特急列車富士🗻号の所要時間は24時03分と日豊本線の電化前と比べて23分の短縮されたに過ぎませんでした。それから1年後の昭和55年10月1日の減量ダイヤ改正では宮崎から西鹿児島現在の鹿児島中央までの区間が廃止されて寝台特急列車の富士号ははやぶさ号に長距離列車の座を明け渡しました。また、昭和51年当時の寝台特急列車富士号の東京駅発車は18時で西鹿児島駅現在の鹿児島中央駅の到着時刻は翌日の18時26分でした。そして、日豊本線の全線電化が完成した昭和54年10月1日からの寝台特急列車富士号の東京駅発車は18時と変わらずに西鹿児島駅現在の鹿児島中央駅の到着時刻は翌日の18時03分に変わりました。また、寝台特急列車の富士号の担当車掌区は東京から大分までが東京車掌区の担当で大分から西鹿児島駅現在の鹿児島中央駅までが大分車掌区の担当でした。私はこの寝台特急列車富士号の東京駅から西鹿児島駅現在の鹿児島中央駅までの全ての停車駅を時刻表なしでしっかりと覚えています。また、国鉄時代の昭和59年10月の初めに当時広島の河辺線で使われていた通勤形の73形旧型直流電車を撮りに行く時に寝台特急列車の富士号を東京から広島まで利用しました。その時は2段式のB寝台車でした。また、横浜から熱海を過ぎるまで寝台特急列車富士号の食堂車🍴で食事をしたことがあります。その時はビーフシチュー定食を注文して値段も千百円しました。
日豊本線全線電化は53-10では?😜
富士、まつかぜ、DF50機関車懐かしい国鉄時代の描写。
いつも いつも 通る夜汽車の 静かな・・・ 日豊本線 杵築駅通過5㎞程離れた八坂川の鉄橋から 毎晩聴こえてく来る レールウェイの轍音。一度乗って見たいと思いつつ・・・ブルートレイン 富士 そして 彗星。昭和50年前後の思い出です!
03:12宗太郎越え~~~。いーえふろくごー、いーえふはちいち、でぃーえふごーまるとアナウンサーが当時の国鉄の形式の読み方してるのにも感動。
Fukura Yuza ナレーションはTBSのロングおじさん、ロンちゃんこと吉村光夫さんですかね。
吉村さんって当時の「鉄道ジャーナル」誌の論客でもありましたよね。種村全盛時代の「乗車レポ」で何度か見ました。
3:12 この場面は海崎駅の手前だから、宗太郎越えはずっと先。
子供の頃の憧れ。あさかぜには乗れたけど、富士 はやぶさなど、九州行きの寝台特急は、乗る機会は無かったなぁ。
食堂車のお姉さんの制服好きだな(笑)
kazunori0202 様この動画は襟が大きいのが特徴ですね!日食門司(営)の方々です 1985年は襟が白で更に白い蝶ネクタイをしております門司から日食上野(営)に移管して紺色の制服 紺色の丸い小さな帽子 水色のネクタイ 長めの白いエプロン大きなポケット2つに変わりました想像出来ましたか?♥他にも昼行で都ホテル・帝国ホテル・聚楽・等複数の会社が経営しておりました😊
オシ24が、見慣れた8号車でなく、まだ5号車にいた時代。これだけ綺麗な映像は今や、貴重ですね
広島県福山市に居住しているころ、幼い子を連れての里帰り、福山に帰ってくる便で利用した「富士」静岡県内に停車し、福山に止まる便だったから、台風で富士川の鉄橋が影響受ける直前に通貨できて帰ってきたり主軸から発煙し、車内に煙が入ってくる事故、緊急停車したのに、小学生の息子は起きもしない。車掌さんから「どこか具合が悪いのですか?」と」聞かれて妻、「いえ起きないだけです」。帰宅し、聞きましたね。
食堂車って、西鹿児島駅までくっついていたんですね。大分で切り離しだと思ってた。
昭和53年初頭までだね😉
下関の駅で駅構内のそば屋のうどんをどんぶりごと車内(みずほ)持ち込み門司駅で駅そば屋に返却する、そんな制度があった気がします。 だって下関を出発したのに車内で駅そば食べてる人がけっこういました。 このあたりまで来るとうどんのスープが関西風のうすあじで子供心に驚いたのを記憶しております。
東京駅に着いてホームでうどんを食べようとすると真っ黒な汁にうどんが入っていて、なにこれ・・・って思った昭和のあの頃帰りは富士が一番いい時間に着いたよ3駅連続停車の真ん中の駅で東京の人は気持ち悪いイントネーションで呼ぶ駅です
この頃はまだ、基本編成に食堂車が付いていたのですね。😍
JRなって平成始めまで連結されてましたよ。食堂車無くなって新型の寝台車も出ないし、早晩廃止だろうとか思っていたがその後15年も持つとは思わなかった。寝台続ける気あるなら中国やタイみたいに新車投入するでしょうしね
@@psychedelicraspberry517 様、返信ありがとうございます。DF50が牽引するブルトレにどうしても乗りたくて、頑張って貯金してようやく念願叶い、上り特急富士のオロネ25に乗ることが出来たのは、昭和54年の夏休みでした。😌時はすでに、オシ24は付属編成に移り、ランチを食堂車で楽しむことは叶いませんでした。😢しかも、日豊本線全線電化も目前に控え、DF50牽引もギリギリでした。😅それでも、オロネ25の個室から錦江湾や桜島を眺め、オハネフ25の貫通扉の窓越しにDF50の姿と、マン型エンジンのサウンドを楽しめたことは、かけがえの無い思い出となりました。😚24時間を越える長旅も、飽きることなくあっという間に終わってしまいました。😂夢のような旅でしたね。💖✨
3:37 よく見ればオシが基本編成にいる 古い映像ですね
私はあなたのビデオが本当に好きです。 投稿ありがとうございます。 すみません、私は日本語が話せません。
DF50 かっけーな。当時、西鹿児島までいってたんだもんね。
4:05 宮崎連呼しすぎててなんか笑った笑
いいねこれ今の時代じゃあ有り得ないロングラン列車だね
懐かしい人が 遥かな君が~時の流れ~超えてほら~巡る~旅路さ~
売店で売ってるプロレス特集号の内容が気になる。
この頃 成人してたら バンバン乗ったのになけど、そうなると 今70過ぎだから 微妙やなw 中国大陸 2700km 二泊三日の寝台列車とかでしか、こういう旅が出来なくなってしまったしかも その列車、二段寝台コンパートメントタイプで、トータル15000円だし
今は新幹線のお陰で快適な旅が出来る。素晴らしい事ですね。ただ旅情と言った処が薄くなっています❗昔はよかったという思いはこの辺りかな❓個人的には狭い日本はゆったり旅をしたいと思います❗が新幹線は便利な事は間違いありません❗古い人間程昔を恋しがるものなんですかね❗72のオヤジです
この映像どこかの8ミリフィルムから引用したものでしょうか?以前、実家で観たものと似ていたものでしたので。
5:17 初見でびっくりしたわw
VIVE えっ⁉︎ そうなの?
目的地に朝着くようにすると、無駄なく観光できたのがよかったんだよな・・・
昔、いろいろな種類の車両が付録でもらえたキャラメルの菓子ありませんでした?たくさん集めていた記憶があります。
森永スポーツマンキャラメルじゃないかな?
94年生まれだからこの時代の鉄道はあまり知らないけどタイムマシンあれば乗りに行きたいwwwネットがない時代は嫌だけどこういうの見るともう少し早く生まれてみたかった 笑
オロネ25は素晴らしく快適でした。豪華寝台列車の様に気を使わなくて良いから。
懐かしいなあよき昭和の時代
「富士」は新幹線博多開業までは20系、開業直後は関西から転属された24系24形だったが、その1年後に24系25形に変更された。それまで25形はB寝台モノクラス編成だったが、二段B寝台とバランスを取るべくA個室寝台が新製され、この編成は博多「あさかぜ」にもやがて適用された。当時は一番豪華な寝台特急編成だった。
乗りたかったなぁ
懐かしいなぁ
タイムマシンがあればこの時代に行ってブルートレインに乗りに行きたい。
九州発着の山陰特急があった時代かあ、懐かしすぎる
よよよ 様熊本発鳥取行き急行やえがき 他に博多発の夜行列車さんべ等がありました!特急より急行が優等列車の代名詞かつ本数がたくさん 親しみ感じる時代💟
菱パンタのED76初期型(中・後期型は下枠交差型パンタ)、DF50型電気式ディーゼル機関車も懐かしい。
4:59やっぱDF50は今見てもカッコいいなぁ、KATOのNゲージモデルのDF50買っちゃおうかなぁ~~なんて思っちゃいました
2か月前にやっと買えました!!
良い時代だ。
令和の時代に復活をして欲しい寝台特急(ブルートレイン)です。
せめて復活させられるなら電車特急だね JR東海が通してくれない 新しい電車を設計して製造しないと無理 せめて超豪華特急でもいいから.............
商業的にうまく行かないのだろう、国営じゃないと無理
需要は確実にあるただどうしても大都市の朝ラッシュ&帰宅ラッシュに被るのが問題なんだ
@@akio21100 それよりも「需要はあるけど普通の価格設定では儲からない」だな。電車にすればラッシュの邪魔にはならない😉
@@sekiyayuzo JR東海は寝台特急は全然許可出すと思いますよ、自社で車両新造しちゃうくらいですし何より自社線内で折り返すことなんてほぼないし、通行料だけ稼げるのでむしろ乗り気です。
ゴールの西鹿児島も今や鹿児島中央駅となりました。今でも鹿児島の人は西駅って呼んでるのかしら?
俺は呼んでいますよ・・・西駅の方がスッキリするからね今でも・・・
私も未だに「宇都宮線」「東武スカイツリーライン」使いません@東京23区😁
食堂車オシ24が基本編成の5号車に連結されている。《富士》の24系25形化が76年10月、食堂車の付属編成8号車への組み換えが78年2月、従ってこの映像が撮影されたのは恐らく77年位と推測される。
2段寝台で、食堂車が基本編成だった期間は、1年半も無かったのですね。😢後には、オロネ25も基本編成から外されてしまいましたね。😭
浴衣ノリが効いていてバリバリだったな!
安永裕 様それを丁寧に剥がして着る帯を締める まだごわごわ感残る その内いつの間にか柔らかくなっている😊朝 よれよれ😅
懐かしい… 岡山から 乗ったなー
この当時富士は、東京から西鹿児島までを24時間かけて走り抜いていた時代ですね。前日東京を出発した富士が西鹿児島に着く前に東京駅を発車しましたからね、県庁所在地の静岡駅は通過と個性的なダイヤも組まれてました。新時代のブルートレイン、夜行列車が復活する日が来るのを楽しみにしております。
俺が生まれ育った時代と地域はブルトレといえばDF50!
客車の所属表記が南シナ(東京南管理局 品川運転所)ってのも時代を感じる
品川「客車区」だよ😉
@@psychedelicraspberry517 運転所は東シナになってからでしたね。失念です
列車の表示が文字だけということは1978年以前ということになりますね。
53・10ダイヤ大改正で宮崎以南も電化したので、それ以前ですね
懐かしいよ宮崎駅のアナウンス。
50年生まれだけど懐かし過ぎる
みやざきーみやざきーみやざきーみやざきーw
日豊本線の完全電化が1979年9月25日だから、この映像はそれ以前のものだというのが分かる。
食堂車が基本編成に入っていたので78年1月以前ですね。
53-10じゃない?😜
主ですけど、大分で切り離した車両オハネフ24じゃないんですね。いま、気がつきました。どうしてたんだろうか?
オハネフ25-100番台ですね。窓枠が横長になった25型100番台シリーズの緩急車です。コストカットの代わりに電源車に背を向ける向きでしか使えないようになってます。なので切り離し位置に入った時の為に両妻面に尾灯が付いてて、切り離し時には点灯させていたと。(大分切り離しの時の妻面ではつけてないみたいですが)なお現場から文句が上がったらしく、翌年にはどの向きでも使えるオハネフ25-200番台がロールアウトして順次差し替えられたそうです。
ナレーションはロンちゃんかな?
今の観光列車のレストランみたいに洒落たものじゃなくていいから、サービスエリアの食堂程度でいいから、庶民向けの食堂車が新幹線でもいいから、欲しい
よき時代過ぎ
鹿児島まで新幹線で行けるんですよね!今の時代
新大阪で乗り換えがめんどくさい。日本の列車はくそ高いクセに荷物預けすら無いのが頭にくる そう考えれば飛行機の方が良いですね。
今は余程の方でない限り、東京~鹿児島は飛行機✈️やろね。新幹線🚅の方が高くて長時間だなんて。そして、この時代は死者こそ出なかったもののブルトレ事故が名古屋・西明石と立て続けに😭
@@psychedelicraspberry517 あぁ飲酒運転……あれで3両しかないオハネフ24改造のスハネフ14のうち1両(102)が廃車に……
富士で名古屋からお袋の実家が有る博多まで学生時代乗りました。降りて直ぐは身体が揺れて真っ直ぐ歩けないのには苦笑でした。
下関駅は今と変わらないね。
下関でサンマルや銀のハチイチが頭についてピーッと鳴いて動き出したら、いよいよ次が故郷の駅だ右に下関運転所の機関車や客車電車、気動車などを見て左に故郷の山々とふもとの街並みと工場群、そして関門海峡よ・・・鉄橋を渡って彦島に入りトンネルへ、沈んでいくように深く深く、そして必死にのぼっていく明るくなったらトロトロとホームに入線「もじ~、もじ~」の駅員さんの案内を耳にしながらいつものホップの臭いにおいが漂う駅構内を階段を下りて地下道を左に、そして改札へのぼっていく改札を出ると、フォーンと路面電車の音がした帰ってきた、うん、帰ってきたんちゃ
いいねぇ!
にちりん長っ!
ナレーションが吉村光夫さんだから、TBSの番組なんだろうなぁ。
全盛期の映像が見れてうれしいです。本屋で売っていた『ラストラン』的なDVDはあまり好きじゃないのです。
4:13 4代目くじらクラウンだ!
面白いところに目を着けますね それもまたいい!
初めて東京行きの寝台特急はやぶさに乗車した時、トイレやロビーカーから自分の車両に戻る際、食堂車の人の食事してる通路を通らないといけなかったので何かもどかしいかった記憶がある。
『地震・雷・火事・親父』の良い時代だったな😊😊
Perfect sacrifices....
ナレーターは、元TBSのロンおじさんですね。
「ロンちゃん」の愛称の方ですかね。
「ロングおじさん」こと吉村光夫さん京急、大本命の人でしたね。上大岡に京急博物館の監修し、出版本の「京浜急行のすべて」をよく拝見してました。
まんがはじめて物語を思い出します。このナレーターさんもまた鉄道ファンで好きだった京浜急行電鉄に関する自筆本を書いてましたね。
@@よこいち-s6u さん「ロングおじさん」事、故吉村光夫さんは、慶応大学鉄道研究会OBで、「鉄道友の会」の役員も務められたはずですよ。
未だに書かれてないので。オハネフ25-100を逆向きに連結してる時代とか、、、かなり貴重な資料です。100番台登場の翌年にはオハネフ25-200が製造されてこのようなつなぎ方は解消されたので、実質この形態は一年足らずだけのものでした。
オハネフ25-100は所謂、異端車みたいな印象ですが同形式のなかでいちばん製造両数が多いというのが不思議です。
山田雅寛 製造工程の簡易化と、想像ですが片栓にすることでのコストカットが狙いだったのかと。あとは基本と付属編成での運用共通化を目的としていたようです。なお後には8本程度が方向転換(瀬戸充当用改造)されましたが、その後はハネフ達の中でわりと早く落ちた印象が
@@紺野木綿稀 そだね~。基本的に逆側はカニだからね😉
なおせっかく両渡りにした200番台も青森に集められた時には全部100番台の向きに揃えられたというのが……まぁ、切り離さないのならカニ側向く必要も無いですしね…
時が今よりゆっくり流れ、いい時代だったね。これぞ旅列車
せまい日本 そんなに急いで どこへ行く
これ1973年の全国交通標語ね
今より殺伐としてたんじゃね
女性二人のブルトレ旅行で日本盛がドーンと置かれているのが凄い
中学生時代、始発から乗りたくて東京まで新幹線で行って、西鹿児島迄乗りとおしました。
昭和52、3年だったかと。彗星にも乗りました。当時は都城まで走っていました。
なぜか日豊本線経由の列車が好きでした。いい思い出です。
良い思い出でしたね~私は昭和57年にリニアモーターカー実験線を見たくて富士に乗車しました(東京・宮崎間)
あの頃は今と同じ時間だけどなんだか時間がゆっくり流れてたと思います。夜の車窓から線路沿いの家の光を見るとあの家の家族はどんな話しをしているのだろうと思ってました。なんだか懐かしいです❗️昭和48年頃の思い出。あぁあの日に戻りたい⁉️
今では考えられない24時間以上の日常を忘れて贅沢な鉄道旅。新幹線と違い車窓からは地域の暮らし、手を振る子供、夜の静寂の風景が見えて旅情を満喫、憧れました
まあそれに昔は違う愛称で経由する路線は別でも行き先が同じとか、かつてのあさかぜや出雲のように一日に複数の本数運転していたしね。
まあ最近でも北斗星も最盛期には片道3本、上下合わせて6本運転していたけど。
無駄ではないのでは😂
人間にはこれくらいの時間がちょうどいい😊
時間を無駄に過ごす、表現が難しいので、替えました。
midori3203
無駄=贅沢
よく分かりました!私の文書理解能力不足で申し訳ありませんでした。
営業運転の時間が24時間を超えるということはおなじ愛称をもつ列車同士が片道2回行き違うということ
すなわち、基本編成を3本必要とするところがすごい。
1:05 このお辞儀何かかわいい。
富士は大分人につき20系の頃から乗っていたな 食堂車や下関駅ホームのうどん等食の楽しみも満喫できて素晴らしい列車やった
この時代は、西鹿児島に行く列車にA寝台個室と食堂車を連結していたんですね!
人、風景、機械も温かみを感じる素敵な時代でした。
ホントにいい時代だよね
まだ24系が新しい時期か
絵幕じゃないテールマークも味があっていいね
夜行列車で、宮崎に行ってましたネ!懐かしい大学時代の思い出
今から42年程前、大学生だった頃、名古屋から西鹿児島まで富士のA寝台乗りました。蛇足ですが、名古屋駅ホームのきしめん屋さんは富士が出発する22時50分頃までやってた記憶があります。
この時代へ行ってみたいなーー
この時代は飛行機乗るだけで自慢できたですね。今タイに居て時間あれば極力夜行列車使ってる。飛行機が安いでしょう?と言われても高くても寝台車。優等寝台車利用客の多くが白人。旅をわかってらっしゃると思う
タイムマシン・・・一家に一台欲しいです。 後生涯独身男の為に掃除洗濯食事をしてくれるロボットも。
@丹後良玄 言えてる
スマホなくてイライラすっぞ
判りますその気持ち
もうさぁ鈍行でもいいから、こんな列車の設定してほしいよ
岸ユキさんが出ていた動画で見た富士を見てから、宮崎以南が非電化の頃の富士に興味を持ちこちらにたどり着きました。
大分で半分切り離したあとの西鹿児島までの編成に食堂車が組み込まれているのに感動しました。
岸ユキさんが出てる動画よりこちらの方が鮮明に食堂車が確認できます。
宮崎駅でディーゼル機関車牽引のブルートレイン食堂車編成が走っていた鮮明な動画を見る事ができ感激です。☺️
夜中に廊下の椅子にひっそりと座り外を眺めるのが楽しかった。
確か西鹿児島到着が夕方6時台でしたね。
電化で少し早まったと記憶していますが、さすがに時間がかかりすぎたのか、
80年頃に宮崎終着に改められましたね。
DF50牽引の富士もレアだが、門司ですれ違う山陰まわりのキハ82まつかぜも相当レアだ。日豊まわりで西鹿児島とか山陰まわりで大阪とか。一度乗り通してみたかった。
中学の時 まつかぜで大阪~博多のり通した。親には新幹線の方が速くつくで~あんたアホやなと言われた。
確かに。でもスピードじゃないんですよね。大阪から山陰まわり博多ゆきなんて、夢のある列車だったなあ。山陰のクィーンとか呼ばれていましたっけ。
@@sunami808 様
親はアホやなぁって言ったけど吾輩はあんた偉い👏と言います 魂入っとる👍
吾輩も東京から熊本帰るに長崎~島原鉄道~フェリー~三角~熊本
東京から四国行くのに別府~フェリー~宇和島等 多種多様を利用した人です😄同じビョーキ持ち😅相憐れむ
寝台特急富士号の車内と電気機関車の交換。昭和50年代懐かしいですね。
8mmで持ってます。
38年前、新宿ヨドバシカメラで祖父に買ってもらいました。
素晴らしい❤
東京から西鹿児島まで24時間26分
西鹿児島到着前に、東京発の富士が発車。
いい時代だなぁ〜
ホームタウン急行 がよく似合う。
良い時代だねw
オシが基本編成に連結、テールマークが文字、宮崎から先が非電化なので53/10より前でしょう。
昭和レトロを、思い出す、光景でした。寝台特急富士号は、西鹿児島行だった事を、覚えています。時間が、ゆっくり過ぎていた。時代でした。
この頃はいろんな列車が走ってたからいいなー
DF50の走行映像、今では超貴重ですね。現在保存されているのは2両のみとのこと。
ブルートレイン富士は昔1回生で拝見したことがあります。あと、あかつきは短区間ですが、実際乗ったことがあります。
食堂車が大分回転に変更されるよりも前かぁ。いい時代だ。
いい時代だったな…と思うし、今(令和2年)だって、あと20年もすれば「あの頃は良かった」って言われるんだろうな。
そうすると今、当たり前と思っていることにも、ありがたみを感じていたい。
ブルートレインは1度乗ってみたかった‼平成生まれで更に九州民だから一度もブルートレインに乗れないまま廃止されました。博多に来ていたブルートレインが廃止された2007年頃はまだ小学生でした。
25形で食堂車が全区間営業、宮崎からDF50だから昭和51後半〜53初頭ぐらいの撮影ですね。ちょうど車両が置き換わって個室寝台が話題になっていた頃だった。このころは確かジャスト10,000円。一晩の対価としては子供には天文学的数字だった。
詳しいですね!あの頃はまだ寝台特急に乗るのも憧れでした。
寝台特急列車富士🗻号の貴重な映像ありがとうございます。今から40年前の寝台特急列車富士🗻号は東京駅から西鹿児島駅現在の鹿児島中央駅まで24時間26分かかっていました。そしてこの動画の映像は食堂車🍴が基本編成にある事から昭和51年10月の映像であるが分かります。その前は確か3段式の24系24形でしたが24系24形の時代はわずか1年半しかもたず昭和51年10月からは2段式B寝台の24系25形に置き換えられていきました。この時に登場したのが全個室寝台客車のオロネ25形です。実は私も昭和57年3月19日に当時伯備線のL特急やくも号に使われていたキハ181系特急形気動車が昭和57年7月1日の伯備線電化によって引退する情報が流れました。そしてこのL特急やくも号に使われていたキハ181系特急形気動車には全室食堂車🍴のキサシ181形が編成の中央に連結されていて昭和57年7月1日の伯備線の電化によって全室食堂車🍴のキサシ181形も引退する事が決まりました。そしてこの全気動車で運転されていたL特急やくも号のキサシ181形を撮る目的で東京18時20分発の浜田行き寝台特別急行列車2001列車出雲1号の乗客となりました。そして実際にこの車両に感じた事は室内があまりにも狭くまるで刑務所の雑居房にいる形としか感じられませんでした。またこの全室個室寝台客車のオロネ25形客車の寝台料金は1万4000千円と高額でとても一般の庶民からすれば誰でもが気軽に利用できる寝台車ではありませんでした。また洗面器も浅く水が寝台のシーツの方に💦飛び散って濡れてしまいとても快適に過ごせると言うにはとても大変残念と言わざるを得ませんでした。せめてもの救いはブルートレインのタオルが記念に置いてあった事ではないのでしょうか?はやぶさ号富士号出雲号あさかぜ号の4種類の列車のヘッドマーク入りの記念タオルでしたが、そして基本編成にあった食堂車🍴は昭和53年2月1日に東京駅発着の寝台特急列車で最後まで20系客車で残っていたあさかぜ下り1号上り2号現在のあさかぜ下り1号上り4号が24系25形客車に置き換えられてから基本編成にあった食堂車🍴が付属編成に変わりました。また、昭和54年10月1日には日豊本線の南宮崎から西鹿児島現在の鹿児島中央までの交流電化が完成しましたが寝台特急列車富士🗻号の所要時間は24時03分と日豊本線の電化前と比べて23分の短縮されたに過ぎませんでした。それから1年後の昭和55年10月1日の減量ダイヤ改正では宮崎から西鹿児島現在の鹿児島中央までの区間が廃止されて寝台特急列車の富士号ははやぶさ号に長距離列車の座を明け渡しました。また、昭和51年当時の寝台特急列車富士号の東京駅発車は18時で西鹿児島駅現在の鹿児島中央駅の到着時刻は翌日の18時26分でした。そして、日豊本線の全線電化が完成した昭和54年10月1日からの寝台特急列車富士号の東京駅発車は18時と変わらずに西鹿児島駅現在の鹿児島中央駅の到着時刻は翌日の18時03分に変わりました。また、寝台特急列車の富士号の担当車掌区は東京から大分までが東京車掌区の担当で大分から西鹿児島駅現在の鹿児島中央駅までが大分車掌区の担当でした。私はこの寝台特急列車富士号の東京駅から西鹿児島駅現在の鹿児島中央駅までの全ての停車駅を時刻表なしでしっかりと覚えています。また、国鉄時代の昭和59年10月の初めに当時広島の河辺線で使われていた通勤形の73形旧型直流電車を撮りに行く時に寝台特急列車の富士号を東京から広島まで利用しました。その時は2段式のB寝台車でした。また、横浜から熱海を過ぎるまで寝台特急列車富士号の食堂車🍴で食事をしたことがあります。その時はビーフシチュー定食を注文して値段も千百円しました。
日豊本線全線電化は53-10では?😜
富士、まつかぜ、DF50機関車懐かしい国鉄時代の描写。
いつも いつも 通る夜汽車の 静かな・・・ 日豊本線 杵築駅通過
5㎞程離れた八坂川の鉄橋から 毎晩聴こえてく来る レールウェイの轍音。
一度乗って見たいと思いつつ・・・
ブルートレイン 富士 そして 彗星。昭和50年前後の思い出です!
03:12宗太郎越え~~~。
いーえふろくごー、いーえふはちいち、でぃーえふごーまる
とアナウンサーが当時の国鉄の形式の読み方してるのにも感動。
Fukura Yuza
ナレーションはTBSのロングおじさん、ロンちゃんこと吉村光夫さんですかね。
吉村さんって当時の「鉄道ジャーナル」誌の論客でもありましたよね。
種村全盛時代の「乗車レポ」で何度か見ました。
3:12 この場面は海崎駅の手前だから、宗太郎越えはずっと先。
子供の頃の憧れ。あさかぜには乗れたけど、富士 はやぶさなど、九州行きの寝台特急は、乗る機会は無かったなぁ。
食堂車のお姉さんの制服好きだな(笑)
kazunori0202 様
この動画は襟が大きいのが特徴ですね!日食門司(営)の方々です 1985年は襟が白で更に白い蝶ネクタイをしております
門司から日食上野(営)に移管して紺色の制服 紺色の丸い小さな帽子 水色のネクタイ 長めの白いエプロン大きなポケット2つに変わりました
想像出来ましたか?♥
他にも昼行で都ホテル・帝国ホテル・聚楽・等複数の会社が経営しておりました😊
オシ24が、見慣れた
8号車でなく、まだ
5号車にいた時代。
これだけ綺麗な映像
は今や、貴重ですね
広島県福山市に居住しているころ、幼い子を連れての里帰り、福山に帰ってくる便で利用した「富士」静岡県内に停車し、福山に止まる便だったから、台風で富士川の鉄橋が影響受ける直前に通貨できて帰ってきたり主軸から発煙し、車内に煙が入ってくる事故、緊急停車したのに、小学生の息子は起きもしない。車掌さんから「どこか具合が悪いのですか?」と」聞かれて妻、「いえ起きないだけです」。帰宅し、聞きましたね。
食堂車って、西鹿児島駅までくっついていたんですね。大分で切り離しだと思ってた。
昭和53年初頭までだね😉
下関の駅で駅構内のそば屋のうどんをどんぶりごと車内(みずほ)持ち込み門司駅で駅そば屋に返却する、そんな制度が
あった気がします。 だって下関を出発したのに車内で駅そば食べてる人がけっこういました。 このあたりまで来ると
うどんのスープが関西風のうすあじで子供心に驚いたのを記憶しております。
東京駅に着いてホームでうどんを食べようとすると
真っ黒な汁にうどんが入っていて、なにこれ・・・
って思った昭和のあの頃
帰りは富士が一番いい時間に着いたよ
3駅連続停車の真ん中の駅で東京の人は気持ち悪いイントネーションで呼ぶ駅です
この頃はまだ、基本編成に食堂車が付いていたのですね。😍
JRなって平成始めまで連結されてましたよ。食堂車無くなって新型の寝台車も出ないし、早晩廃止だろうとか思っていたがその後15年も持つとは思わなかった。寝台続ける気あるなら中国やタイみたいに新車投入するでしょうしね
昭和53年初頭までだね😉
@@psychedelicraspberry517 様、
返信ありがとうございます。
DF50が牽引するブルトレにどうしても乗りたくて、頑張って貯金してようやく念願叶い、上り特急富士のオロネ25に乗ることが出来たのは、昭和54年の夏休みでした。😌
時はすでに、オシ24は付属編成に移り、ランチを食堂車で楽しむことは叶いませんでした。😢
しかも、日豊本線全線電化も目前に控え、DF50牽引もギリギリでした。😅
それでも、オロネ25の個室から錦江湾や桜島を眺め、オハネフ25の貫通扉の窓越しにDF50の姿と、マン型エンジンのサウンドを楽しめたことは、かけがえの無い思い出となりました。😚
24時間を越える長旅も、飽きることなくあっという間に終わってしまいました。😂
夢のような旅でしたね。💖✨
3:37 よく見ればオシが基本編成にいる 古い映像ですね
私はあなたのビデオが本当に好きです。 投稿ありがとうございます。 すみません、私は日本語が話せません。
DF50 かっけーな。
当時、西鹿児島までいってたんだもんね。
4:05 宮崎連呼しすぎててなんか笑った笑
いいねこれ
今の時代じゃあ有り得ないロングラン列車だね
懐かしい人が 遥かな君が~時の流れ~超えて
ほら~巡る~旅路さ~
売店で売ってるプロレス特集号の内容が気になる。
この頃 成人してたら バンバン乗ったのにな
けど、そうなると 今70過ぎだから 微妙やなw
中国大陸 2700km 二泊三日の寝台列車とかでしか、こういう旅が出来なくなってしまった
しかも その列車、二段寝台コンパートメントタイプで、トータル15000円だし
今は新幹線のお陰で快適な旅が出来る。素晴らしい事ですね。ただ旅情と言った処が薄くなっています❗昔はよかったという思いはこの辺りかな❓個人的には狭い日本はゆったり旅をしたいと思います❗が新幹線は便利な事は間違いありません❗古い人間程昔を恋しがるものなんですかね❗72のオヤジです
この映像どこかの8ミリフィルムから引用したものでしょうか?以前、実家で観たものと似ていたものでしたので。
5:17 初見でびっくりしたわw
VIVE えっ⁉︎ そうなの?
目的地に朝着くようにすると、無駄なく観光できたのがよかったんだよな・・・
昔、いろいろな種類の車両が付録でもらえたキャラメルの菓子ありませんでした?
たくさん集めていた記憶があります。
森永スポーツマンキャラメルじゃないかな?
94年生まれだからこの時代の鉄道はあまり知らないけどタイムマシンあれば乗りに行きたいwww
ネットがない時代は嫌だけどこういうの見るともう少し早く生まれてみたかった 笑
オロネ25は素晴らしく快適でした。豪華寝台列車の様に気を使わなくて良いから。
懐かしいなあよき昭和の時代
「富士」は新幹線博多開業までは20系、開業直後は関西から転属された24系24形だったが、その1年後に24系25形に変更された。それまで25形はB寝台モノクラス編成だったが、二段B寝台とバランスを取るべくA個室寝台が新製され、この編成は博多「あさかぜ」にもやがて適用された。当時は一番豪華な寝台特急編成だった。
乗りたかったなぁ
懐かしいなぁ
タイムマシンがあればこの時代に行ってブルートレインに乗りに行きたい。
九州発着の山陰特急があった時代かあ、懐かしすぎる
よよよ 様
熊本発鳥取行き急行やえがき 他に博多発の夜行列車さんべ等がありました!
特急より急行が優等列車の代名詞かつ本数がたくさん 親しみ感じる時代💟
菱パンタのED76初期型(中・後期型は下枠交差型パンタ)、DF50型電気式ディーゼル機関車も懐かしい。
4:59やっぱDF50は今見てもカッコいいなぁ、KATOのNゲージモデルのDF50買っちゃおうかなぁ~~なんて思っちゃいました
2か月前にやっと買えました!!
良い時代だ。
令和の時代に復活をして欲しい
寝台特急(ブルートレイン)です
。
せめて復活させられるなら電車特急だね JR東海が通してくれない 新しい電車を設計して製造しないと無理 せめて超豪華特急でもいいから.............
商業的にうまく行かないのだろう、国営じゃないと無理
需要は確実にある
ただどうしても大都市の朝ラッシュ&帰宅ラッシュに被るのが問題なんだ
@@akio21100 それよりも「需要はあるけど普通の価格設定では儲からない」だな。電車にすればラッシュの邪魔にはならない😉
@@sekiyayuzo JR東海は寝台特急は全然許可出すと思いますよ、自社で車両新造しちゃうくらいですし
何より自社線内で折り返すことなんてほぼないし、通行料だけ稼げるのでむしろ乗り気です。
ゴールの西鹿児島も今や鹿児島中央駅となりました。今でも鹿児島の人は西駅って呼んでるのかしら?
俺は呼んでいますよ・・・
西駅の方がスッキリするからね
今でも・・・
私も未だに「宇都宮線」「東武スカイツリーライン」使いません@東京23区😁
食堂車オシ24が基本編成の5号車に連結されている。《富士》の24系25形化が76年10月、食堂車の付属編成8号車への組み換えが78年2月、従ってこの映像が撮影されたのは恐らく77年位と推測される。
2段寝台で、食堂車が基本編成だった期間は、1年半も無かったのですね。😢
後には、オロネ25も基本編成から外されてしまいましたね。😭
浴衣ノリが効いていてバリバリだったな!
安永裕 様
それを丁寧に剥がして着る帯を締める まだごわごわ感残る その内いつの間にか柔らかくなっている😊朝 よれよれ😅
懐かしい… 岡山から 乗ったなー
この当時富士は、東京から西鹿児島までを24時間かけて走り抜いていた時代ですね。前日東京を出発した富士が西鹿児島に着く前に東京駅を発車しましたからね、県庁所在地の静岡駅は通過と個性的なダイヤも組まれてました。新時代のブルートレイン、夜行列車が復活する日が来るのを楽しみにしております。
俺が生まれ育った時代と地域はブルトレといえばDF50!
客車の所属表記が南シナ(東京南管理局 品川運転所)ってのも時代を感じる
品川「客車区」だよ😉
@@psychedelicraspberry517
運転所は東シナになってからでしたね。失念です
列車の表示が文字だけということは1978年以前ということになりますね。
53・10ダイヤ大改正で宮崎以南も電化したので、それ以前ですね
懐かしいよ宮崎駅のアナウンス。
50年生まれだけど懐かし過ぎる
みやざきーみやざきーみやざきーみやざきーw
日豊本線の完全電化が1979年9月25日だから、この映像はそれ以前のものだというのが分かる。
食堂車が基本編成に入っていたので78年1月以前ですね。
53-10じゃない?😜
主ですけど、大分で切り離した車両オハネフ24じゃないんですね。
いま、気がつきました。
どうしてたんだろうか?
オハネフ25-100番台ですね。窓枠が横長になった25型100番台シリーズの緩急車です。コストカットの代わりに電源車に背を向ける向きでしか使えないようになってます。なので切り離し位置に入った時の為に両妻面に尾灯が付いてて、切り離し時には点灯させていたと。(大分切り離しの時の妻面ではつけてないみたいですが)
なお現場から文句が上がったらしく、翌年にはどの向きでも使えるオハネフ25-200番台がロールアウトして順次差し替えられたそうです。
ナレーションはロンちゃんかな?
今の観光列車のレストランみたいに洒落たものじゃなくていいから、サービスエリアの食堂程度でいいから、庶民向けの食堂車が新幹線でもいいから、欲しい
よき時代過ぎ
鹿児島まで新幹線で行けるんですよね!今の時代
新大阪で乗り換えがめんどくさい。日本の列車はくそ高いクセに荷物預けすら無いのが頭にくる そう考えれば飛行機の方が良いですね。
今は余程の方でない限り、東京~鹿児島は飛行機✈️やろね。新幹線🚅の方が高くて長時間だなんて。そして、この時代は死者こそ出なかったもののブルトレ事故が名古屋・西明石と立て続けに😭
@@psychedelicraspberry517
あぁ飲酒運転……
あれで3両しかないオハネフ24改造のスハネフ14のうち1両(102)が廃車に……
富士で名古屋からお袋の実家が有る博多まで学生時代乗りました。
降りて直ぐは身体が揺れて真っ直ぐ歩けないのには苦笑でした。
下関駅は今と変わらないね。
下関でサンマルや銀のハチイチが頭について
ピーッと鳴いて動き出したら、いよいよ次が故郷の駅だ
右に下関運転所の機関車や客車電車、気動車などを見て
左に故郷の山々とふもとの街並みと工場群、そして関門海峡よ・・・
鉄橋を渡って彦島に入りトンネルへ、
沈んでいくように深く深く、そして必死にのぼっていく
明るくなったらトロトロとホームに入線
「もじ~、もじ~」の駅員さんの案内を耳にしながら
いつものホップの臭いにおいが漂う駅構内を階段を下りて
地下道を左に、そして改札へのぼっていく
改札を出ると、フォーンと路面電車の音がした
帰ってきた、うん、帰ってきたんちゃ
いいねぇ!
にちりん長っ!
ナレーションが吉村光夫さんだから、TBSの番組なんだろうなぁ。
全盛期の映像が見れてうれしいです。本屋で売っていた『ラストラン』的なDVDはあまり好きじゃないのです。
4:13 4代目くじらクラウンだ!
面白いところに目を着けますね それもまたいい!
初めて東京行きの寝台特急はやぶさに乗車した時、
トイレやロビーカーから自分の車両に戻る際、食堂車の人の食事してる通路を通らないといけなかったので何かもどかしいかった記憶がある。
『地震・雷・火事・親父』の良い時代だったな😊😊
Perfect sacrifices....
ナレーターは、元TBSのロンおじさんですね。
「ロンちゃん」の愛称の方ですかね。
「ロングおじさん」こと
吉村光夫さん
京急、大本命の人でしたね。
上大岡に京急博物館の監修し、
出版本の「京浜急行のすべて」をよく拝見してました。
まんがはじめて物語を思い出します。
このナレーターさんもまた鉄道ファンで
好きだった京浜急行電鉄に関する自筆本を書いてましたね。
@@よこいち-s6u さん
「ロングおじさん」事、故吉村光夫さんは、慶応大学鉄道研究会OBで、「鉄道友の会」の役員も務められたはずですよ。
未だに書かれてないので。
オハネフ25-100を逆向きに連結してる時代とか、、、かなり貴重な資料です。100番台登場の翌年にはオハネフ25-200が製造されてこのようなつなぎ方は解消されたので、実質この形態は一年足らずだけのものでした。
オハネフ25-100は所謂、異端車みたいな印象ですが同形式のなかで
いちばん製造両数が多いというのが不思議です。
山田雅寛 製造工程の簡易化と、想像ですが片栓にすることでのコストカットが狙いだったのかと。あとは基本と付属編成での運用共通化を目的としていたようです。
なお後には8本程度が方向転換(瀬戸充当用改造)されましたが、その後はハネフ達の中でわりと早く落ちた印象が
@@紺野木綿稀 そだね~。基本的に逆側はカニだからね😉
なおせっかく両渡りにした200番台も青森に集められた時には全部100番台の向きに揃えられたというのが……
まぁ、切り離さないのならカニ側向く必要も無いですしね…