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伊東先生の中西さんの意見を尊重してわかりやすく解説してくれる話し方や、難しい話もわかりやすく説明てくれる感じが好きすぎてこの番組が本当に大好き!!
家康は好きな武将なので、本編楽しみにしてます
伊東先生の優しい語り口や中西さんの意見を聞く所が好きです。落ち着いて番組を楽しめます。好きな日本史が もっと好きになりました。
いざという時に農民を兵に使う為に、農民に良い政治を心掛けたとも言えると思う。一石二鳥の政策かな。伊賀超えは、通ったとされる道を見たけど、ずっとドキドキしていました。木々の生い茂る山道を登り降りするだけで、今、生きている事に感謝せずにはいられない。
家康が凄いのは戦いに弱い武将だった源頼朝をよく研究して、弱虫で短気な自分の強みにしたことかなと思っています。本番で答え合わせしたいです。
武田旧臣は徳川時代も幕府内で非常に厚遇され活躍したことからいかに優秀な武士団だったかわかります武田旧臣から少なくとも下記の大名クラスを輩出しております三河譜代の次ぐらいに厚遇されていたかもしれないです・柳沢氏・保科氏・真田氏・奥平氏・土屋氏・諏訪氏・菅沼氏肝心の武田家も高家旗本として存続しました家康の信玄信仰は人事からも分かります
前回の徳川家康は、若い時の三方ヶ原の戦いの教訓を学びましたが、今回は豊臣秀吉相手の小牧・長久手の戦いなので、どんな教訓があるのか楽しみです。また、三河の一向一揆や伊賀越えを題材とした教訓の番組の企画もお願いいたします。
伊東先生に質問です。徳川家康が大御所となり、二代秀忠になってから、西軍についた立花宗茂が御書院番頭に取り立てられ、やがて弟の直次も身上復活し、それで大坂の陣となるのですが、二代秀忠にとってはこの事はとても重要だったのではと思います。何故なら、二代秀忠には実戦を知る有力な家臣が見当たらないからです。何故?この事は、あまり取り上げられないのでしょうか。
改易されて唯一大名に復帰できたのは宗茂公だけすごすぎる
旧領にまで復帰したのは宗茂だけですが、弟の直次は大坂の陣後、若くして江戸で亡くなったので、その子種次の代で旧領に封じられています。実質的には、立花兄弟の2人だったことになります。
確かに家康の評価も伊東先生のおっしゃっておられる様に山岡荘八先生の頃とは随分変わってきたとは自分も感じます。自分は常に様々な人の意見を聴く事ができた(聴くフリができた)人だと感じています。後、後半秀吉の領民の為の政策が少ないというのは少し異論があります。今日の大阪市内の元となった町割り、特に曲線の多かった当時の大坂を道路整備を行って直線中心の町割りに変えた事、荒れ果てていた京都の復興は領民の為の政策として評価されるべきと思いますし、バテレン追放令もあのタイミングで出されていなければ、更に多くの民がヨーロッパに奴隷として売られていた可能性が高いと思います。家康に比べれば確かに少ないかもしれませんが、秀吉の領民政策も一定の評価はされるべきと考えます。
伊藤先生、分かりやすい。家康が凡人で、特に秀でた才能が無かったと言うのはそうだろうと思う。側近達の、中にはずば抜けた酒井忠次や石川数正がいたから、それが土台を先ず作り、武田に三方ヶ原で大負けしたり、信長がやられたりとかが結果自分の(精神的な)力になって、成長したんじゃないかな?後、堤防を作ったのは私も前から、信玄堤を見習って作ったと思っていたよ。
家康の領民思いは、関東移封で北条領国を支配することになったのも大きいと思います
上杉鷹山を取り上げてほしいのだけど、『敗北からの教訓』では取り上げにくい人物か
家康は、懐が深く器が大きい。客観的な資料から見てもそうだし。ほかの武将の対応からしてもそれを裏付けている。反対に豊臣秀吉や豊臣方は、信用もなければ、器も狭量。秀吉は部下を動かすときには報酬は大きいが、大体が脅し。そして失敗したら一発アウト。家康は部下を動かすときには大体が説得したり報酬で動かす。そして失敗したら挽回のチャンスを与えたり、何回かやり直しの機会を与える。
あなたが同じ人種だと気づき、びっくり‼️
羽柴までの時代と豊臣時代の秀吉は全く別物なのです。一つの行動気質が全人生で貫かれるわけではありません。二つ三つが重なり合います。現代では少なくなりましたが。信長・羽柴秀吉・家康三人の行動気質は戦略脳+闘将なのです。北条義時・足利尊氏・島津久光も同じです。天下を動かすには戦略家と同時に闘将の気質を持つかどうかで決まります。闘将とは立花宗茂や島津義弘のような戦上手の武将たちです。家康の最大の危機は伊賀越です。明智光秀は家康にとっては天敵、生き延びた家康に天運があったのです。もう一人の天敵は豊臣秀吉。小牧長久手の戦いで豊臣でなく羽柴秀吉と戦ったお陰で助かった。同じ気質同士戦うと膠着なかなか決着がつかない。謙信と信玄のように。豊臣になっておれば圧倒的戦力差と戦略脳にさすがの家康も破れていただろう。この戦い後秀吉に臣従した家康の戦略脳は冴えわたっている。家康が我慢できたのは羽柴時代までの行動気質が同じであったためです。人間気質が合わないと我慢もできず暴発です。そして最後の天敵は秀頼・淀殿親子。家康にとって苦手の相手。豊臣陣営も弱い訳では無い。秀頼成長までの十数年家康は豊臣に手を出せなかった。家康が簡単に豊臣を潰せた訳では無い。関ケ原、大阪冬・夏の陣と長い年月を要した。年老いて先行きを考え性急の行動を最後にはとらざるを得なかった。天敵関係にある相手は危険であるし対応には苦慮する。家康の人生は亡くなるまで重い荷を背負っていた。
ドラマもいよいよ佳境。豊臣との最終決戦です。
家康は長男切腹させる悲しい話が2代目は長男幾人の中の一人家光が産まれる前に大阪城せめおとす初孫せんひめの嫁ぎ先姫は救われて豊臣家滅びる
伊東先生の中西さんの意見を尊重してわかりやすく解説してくれる話し方や、難しい話もわかりやすく説明てくれる感じが好きすぎてこの番組が本当に大好き!!
家康は好きな武将なので、本編楽しみにしてます
伊東先生の優しい語り口や中西さんの意見を聞く所が好きです。落ち着いて番組を楽しめます。好きな日本史が もっと好きになりました。
いざという時に農民を兵に使う為に、農民に良い政治を心掛けたとも言えると思う。一石二鳥の政策かな。
伊賀超えは、通ったとされる道を見たけど、ずっとドキドキしていました。木々の生い茂る山道を登り降りするだけで、今、生きている事に感謝せずにはいられない。
家康が凄いのは戦いに弱い武将だった源頼朝をよく研究して、弱虫で短気な自分の強みにしたことかなと思っています。本番で答え合わせしたいです。
武田旧臣は徳川時代も幕府内で非常に厚遇され活躍したことからいかに優秀な武士団だったかわかります
武田旧臣から少なくとも下記の大名クラスを輩出しております
三河譜代の次ぐらいに厚遇されていたかもしれないです
・柳沢氏
・保科氏
・真田氏
・奥平氏
・土屋氏
・諏訪氏
・菅沼氏
肝心の武田家も高家旗本として存続しました
家康の信玄信仰は人事からも分かります
前回の徳川家康は、若い時の三方ヶ原の戦いの教訓を学びましたが、今回は豊臣秀吉相手の小牧・長久手の戦いなので、どんな教訓があるのか楽しみです。
また、三河の一向一揆や伊賀越えを題材とした教訓の番組の企画もお願いいたします。
伊東先生に質問です。徳川家康が大御所となり、二代秀忠になってから、西軍についた立花宗茂が御書院番頭に取り立てられ、やがて弟の直次も身上復活し、それで大坂の陣となるのですが、二代秀忠にとってはこの事はとても重要だったのではと思います。何故なら、二代秀忠には実戦を知る有力な家臣が見当たらないからです。何故?この事は、あまり取り上げられないのでしょうか。
改易されて唯一大名に復帰できたのは宗茂公だけ
すごすぎる
旧領にまで復帰したのは宗茂だけですが、弟の直次は大坂の陣後、若くして江戸で亡くなったので、その子種次の代で旧領に封じられています。実質的には、立花兄弟の2人だったことになります。
確かに家康の評価も伊東先生のおっしゃっておられる様に山岡荘八先生の頃とは随分変わってきたとは自分も感じます。
自分は常に様々な人の意見を聴く事ができた(聴くフリができた)人だと感じています。
後、後半秀吉の領民の為の政策が少ないというのは少し異論があります。
今日の大阪市内の元となった町割り、特に曲線の多かった当時の大坂を道路整備を行って直線中心の町割りに変えた事、
荒れ果てていた京都の復興は領民の為の政策として評価されるべきと思いますし、
バテレン追放令もあのタイミングで出されていなければ、更に多くの民がヨーロッパに奴隷として売られていた可能性が高いと思います。
家康に比べれば確かに少ないかもしれませんが、秀吉の領民政策も一定の評価はされるべきと考えます。
伊藤先生、分かりやすい。家康が凡人で、特に秀でた才能が無かったと言うのはそうだろうと思う。側近達の、中にはずば抜けた酒井忠次や石川数正がいたから、それが土台を先ず作り、武田に三方ヶ原で大負けしたり、信長がやられたりとかが結果自分の(精神的な)力になって、成長したんじゃないかな?後、堤防を作ったのは私も前から、信玄堤を見習って作ったと思っていたよ。
家康の領民思いは、関東移封で北条領国を支配することになったのも大きいと思います
上杉鷹山を取り上げてほしいのだけど、『敗北からの教訓』では取り上げにくい人物か
家康は、懐が深く器が大きい。
客観的な資料から見てもそうだし。ほかの武将の対応からしてもそれを裏付けている。
反対に豊臣秀吉や豊臣方は、信用もなければ、器も狭量。
秀吉は部下を動かすときには報酬は大きいが、大体が脅し。そして失敗したら一発アウト。
家康は部下を動かすときには大体が説得したり報酬で動かす。そして失敗したら挽回のチャンスを与えたり、何回かやり直しの機会を与える。
あなたが同じ人種だと気づき、びっくり‼️
羽柴までの時代と豊臣時代の秀吉は全く別物なのです。一つの行動気質が全人生で貫かれる
わけではありません。二つ三つが重なり合います。現代では少なくなりましたが。
信長・羽柴秀吉・家康三人の行動気質は戦略脳+闘将なのです。
北条義時・足利尊氏・島津久光も同じです。天下を動かすには戦略家と同時に闘将の気質を
持つかどうかで決まります。闘将とは立花宗茂や島津義弘のような戦上手の武将たちです。
家康の最大の危機は伊賀越です。明智光秀は家康にとっては天敵、生き延びた家康に天運が
あったのです。
もう一人の天敵は豊臣秀吉。小牧長久手の戦いで豊臣でなく羽柴秀吉と戦ったお陰で助かった。
同じ気質同士戦うと膠着なかなか決着がつかない。謙信と信玄のように。
豊臣になっておれば圧倒的戦力差と戦略脳にさすがの家康も破れていただろう。
この戦い後秀吉に臣従した家康の戦略脳は冴えわたっている。
家康が我慢できたのは羽柴時代までの行動気質が同じであったためです。
人間気質が合わないと我慢もできず暴発です。
そして最後の天敵は秀頼・淀殿親子。家康にとって苦手の相手。豊臣陣営も弱い訳では無い。
秀頼成長までの十数年家康は豊臣に手を出せなかった。
家康が簡単に豊臣を潰せた訳では無い。関ケ原、大阪冬・夏の陣と長い年月を要した。
年老いて先行きを考え性急の行動を最後にはとらざるを得なかった。
天敵関係にある相手は危険であるし対応には苦慮する。
家康の人生は亡くなるまで重い荷を背負っていた。
ドラマもいよいよ佳境。豊臣との最終決戦です。
家康は長男切腹させる悲しい話が2代目は長男幾人の中の一人家光が産まれる前に大阪城せめおとす初孫せんひめの嫁ぎ先姫は救われて豊臣家滅びる