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🎎本題と離れてしまいますが、武士道さんこのところ お顔色がよくてリラックスされているようにお見受けします。どうぞ自身のペースで、また動画上げてくださいね。楽しみにしています。
頼通娘が生まれなくて、入内計画がうまくいかなかったために、不運にも摂関政治の継続ができなかった、とも思えるけど、そもそも道長が強運で上手く行きすぎただけなんで、摂関政治なんて所詮基盤が不安定な政策なんですよね。長続きするわけないわ〜
解説ありがとうございます、頼通は不運でしたが半世紀近くも摂政・関白の座を守ったのは評価して良いかと。子の師実は外祖父になりましたが今度は孫に当たる師通が早死にしてしまったので白河院が政治の実権を握る形に・・道長は強運過ぎましたね。
師通の早死には、元妻の藤原全子(忠実の母。頼宗の次男俊家の娘、伊周の曾孫)が亡き父親の力を借りて呪い殺した、と言う嘘か真かわからない話が伝わっている。
頼通は父の描いたレールの上をひた走り、父のやり方を踏襲している感が強い。若過ぎる出世で摂政となっても、実務を経ていないので判断ができず決断を父に委ねざるを得ず、実際の自身の権力は父と国母の姉に大いに影響され、決して強大ではない。50年摂政の地位にいても、自身の栄華を実感したことはなかったのではないかとも感じる。そんな中、常に後継者となる息子を得られず、やっと生まれた子も19歳で亡くなる。心休まる期間は、あまりなかったのではないかと感じる。その上、時代は刻々と変化を遂げ、摂関家が朝廷政治を牛耳り天皇の即位まで左右した時代から天皇が摂関を決定する時代へ、そして院政期へと繋がって行く。さらに、地方豪族や寺社の力も増し反抗が続く世へと移り変わり、今までと同じやり方では御していけない複層的な中世へと動いて行く。そんな時代の間に君臨する彼は、父でさえ困難だったろう道を模索していたように感じられる。そんな難しい時代の中で前時代の政治体制から逃れられない平安貴族の属性を持ち続けた彼は、時代の間(摂関政治衰退期から院政へ、そして武士の世へ)にいた人物という感を持つ。
頼通の時代、前九年の役が起きてるんですよね。奥州で着実に武士(源氏)の時代が動き出してた。
大河「炎立つ」に描かれてますね因みに源義家役は佐藤浩一さん頼通の弟で短期間関白になる藤原教通役は藤木孝さん
刀伊の入寇で、中央政府に不信感を抱いた九州武士団は、自身の身を強くするだけでなく、強き血を入れる努力をすると言うことになった。 そこに前九年の役で穏健派ゆえに一命を取り留め九州に流罪となった安倍宗任がやってきた。彼は九州武士団に大モテで、あちこちの武士の娘と結婚した。北九州から山口にかけての安倍姓は彼の子孫だと言われている。
私が読んだ物には、「道長から頼通に『お前が関白をやったら次は教通に譲るのだよ』と言われていた」というものでした。 が、道長亡き後、頼通は弟の教通には譲らずに 子どもに譲ろうとしたら、彰子が怒って「父上の言うことを聞かなければならないでしょう‼️」と言ったので、しぶしぶ弟の教通に譲ったのだ、と。
息子は外祖父になれなかったが、子孫達は自分の日記を持ってることを理由に摂関を独占し始めるから、道長からしたらなんかよくわからん理由で狙い通りにもなってるという…。
天皇の外祖父になることが権勢をふるうための欠かせない条件の一つであるために、代々近親婚が繰り返されることになるが、劣性遺伝による遺伝性疾患が発生しやすくなることで、子孫が残せず、いずれはこの方法による権力掌握は成り立たなくなる運命にあると思います。
道長や彰子は長生きしているのに、後一条以降の代の天皇が皆早死になのは絶対近親婚の影響だと思います。
頼通も長生きですね。倫子の家系が本来長生きなのか。なんか勿体無いことです😢
この形式の説明ありがたいです歴史chの中で一番面白くて興味深い本編動画に参考文献示されないのは珍しい概要欄にもないちょっと心配
望月以降は、月は欠けていくだけ。道長が左大臣の娘を娶り、頼通は女王を娶る。間違ってはないが、中関白家の失敗も参考にするのが政治家としては、大成出来たのかもしれない😅
藤原家もそうですが天皇家も、当時は多妻で子供も何人~十何人もいたのに、それでも跡継ぎが早世したり男子が生まれなかったりするような不運がたまたま二代くらい続くとあっという間に途絶えてしまうのを見ると、今の皇室のあり方で本当に大丈夫なのかと不安を覚えてしまいます。
頼通は外祖父にはなれなかったけど76才まで関白を続けて頑張っていたのですねそれも彰子がいたからですね姉弟で帝を助けて政を担って頑張っていたのですね
近親婚がどんどん進んでしまい遅かれ早かれ娘を入内させて、外祖父として権力振るうことには行き詰まりそうですかね
それにしても、道長/頼通父子、子供の性別が、極端ですね偶然とはいえ、運命的なものを感じざるを得ませんあたかも、摂関政治から院政への見えないレールが引かれているようですね
もしかしたら、近親婚の影響かも。
白河天皇の母親は、摂関家からちょと遠い血筋だけど、それでも内親王5人(一人夭逝)だものな。(白河天皇は、母茂子にとって唯一の皇子)一条天皇系の皇子達に皇子が生まれにくくなっていたかもしれない。
逆に考えれば「天皇家を遺伝病で苦しめなくて良かった」という面もあるのでは?
藤原氏はハプスブルク家みたいな感じだったんですね。
そうですね。というか、古代中世の上流階級って洋の東西を問わずこんなもんかと。
平安時代も、愛妻家の人いましたね、戦国時代の、愛妻家エピソードは、明智光秀と、ひろこさん夫婦エピソードの、イメージが、あるけどね
黒田考高も櫛橋光を愛して側室持たなかったですよね。一途な偉人ってちょいちょい居ますよね。
光秀の娘婿の細川忠興もね
上級貴族の数が少ないし、適齢期の男女となれば尚少ない。手軽にいとこと結婚している例が多い。母親の身分が低ければ、子どもの出世は頭打ち。天皇は長生きできない。ストレスもあるだろうが、いとこ婚の影響もあるのではないか。元気でめげない子どもを産むためには、兼家パパのように受領の娘と結婚した方が良い。
権力闘争っていうと腐敗のイメージが持たれがちですが、有力な外戚が後ろ盾にいるっていうのは権力が安定して平和な統治ができるという事でもあるんですよね
力が強い外戚は古今東西問わず君主側からは内心疎まれがち隙が有れば簒位を狙うクーデターで排除されなかっただけでも運が良い
この頃は、秀吉みたいに関白を経験したら大閤になる仕組みは確立されてますか?
魂の法則として、権力者の子供は、長男よりも次男の出来が良いケースが多いような気がする。道長は強そうな権力者だったから長子、頼道は弱そうで、次男、教通の方が出来が良さそう。戦国時代、家康の長男、信康は立たず、次男、秀忠が二代将軍。三代将軍、家光はどもりで、忠長の方が出来が良かったとか。権力の力の上に平均化に向かう力があるのかも。
寛子、師実の母親は、具平親王が身分低い女性に生ませた息子藤原頼成の娘。藤原頼成は、低い官位で(ずっと七位。姉弟を本宅に引き取る時に頼通が六位にした)師実の同母兄4人は、他家に養子に行っている。
院政のせいでもある
皇后、中宮、国母が藤原氏の娘から、内親王に移ったからではないですか?皮肉にも 道長の孫である内親王によって摂関政治は終焉した。
外祖父に成りたいから、縁のある女性を片っ端から養女にして入内させ皇子が生まれるまで頑張ってもらおう。と考える人がいなくてよかった。
光るから撤退は?しない?
ちゃんと観もしないで検討はずれのコメ入れんな
藤原道長父姉に落胆する。また紫式部の娘賢子平清盛保元の乱勝ち政権代わり平家の分家政権の中枢になり栄華になる。桓武平氏村上源氏武家の大頭源平合戦源頼朝の家系将軍家滅亡後北条政子父親は平氏の本家鎌倉幕府室町幕府源氏の分家将軍家になる。藤原北家今まで続く家系になる。
🎎本題と離れてしまいますが、武士道さんこのところ お顔色がよくてリラックスされているようにお見受けします。どうぞ自身のペースで、また動画上げてくださいね。楽しみにしています。
頼通娘が生まれなくて、入内計画がうまくいかなかったために、不運にも摂関政治の継続ができなかった、とも思えるけど、そもそも道長が強運で上手く行きすぎただけなんで、摂関政治なんて所詮基盤が不安定な政策なんですよね。長続きするわけないわ〜
解説ありがとうございます、頼通は不運でしたが半世紀近くも摂政・関白の座を守ったのは評価して良いかと。
子の師実は外祖父になりましたが今度は孫に当たる師通が早死にしてしまったので白河院が政治の実権を握る形に・・道長は強運過ぎましたね。
師通の早死には、元妻の藤原全子(忠実の母。頼宗の次男俊家の娘、伊周の曾孫)が亡き父親の力を借りて呪い殺した、と言う嘘か真かわからない話が伝わっている。
頼通は父の描いたレールの上をひた走り、父のやり方を踏襲している感が強い。若過ぎる出世で摂政となっても、実務を経ていないので判断ができず決断を父に委ねざるを得ず、実際の自身の権力は父と国母の姉に大いに影響され、決して強大ではない。50年摂政の地位にいても、自身の栄華を実感したことはなかったのではないかとも感じる。そんな中、常に後継者となる息子を得られず、やっと生まれた子も19歳で亡くなる。心休まる期間は、あまりなかったのではないかと感じる。
その上、時代は刻々と変化を遂げ、摂関家が朝廷政治を牛耳り天皇の即位まで左右した時代から天皇が摂関を決定する時代へ、そして院政期へと繋がって行く。さらに、地方豪族や寺社の力も増し反抗が続く世へと移り変わり、今までと同じやり方では御していけない複層的な中世へと動いて行く。そんな時代の間に君臨する彼は、父でさえ困難だったろう道を模索していたように感じられる。そんな難しい時代の中で前時代の政治体制から逃れられない平安貴族の属性を持ち続けた彼は、時代の間(摂関政治衰退期から院政へ、そして武士の世へ)にいた人物という感を持つ。
頼通の時代、前九年の役が起きてるんですよね。
奥州で着実に武士(源氏)の時代が動き出してた。
大河「炎立つ」に描かれてますね
因みに源義家役は佐藤浩一さん
頼通の弟で短期間関白になる藤原教通役は藤木孝さん
刀伊の入寇で、中央政府に不信感を抱いた九州武士団は、自身の身を強くするだけでなく、強き血を入れる努力をすると言うことになった。
そこに前九年の役で穏健派ゆえに一命を取り留め九州に流罪となった安倍宗任がやってきた。彼は九州武士団に大モテで、あちこちの武士の娘と結婚した。北九州から山口にかけての安倍姓は彼の子孫だと言われている。
私が読んだ物には、「道長から頼通に『お前が関白をやったら次は教通に譲るのだよ』と言われていた」というものでした。
が、道長亡き後、頼通は弟の教通には譲らずに 子どもに譲ろうとしたら、彰子が怒って「父上の言うことを聞かなければならないでしょう‼️」と言ったので、しぶしぶ弟の教通に譲ったのだ、と。
息子は外祖父になれなかったが、子孫達は自分の日記を持ってることを理由に摂関を独占し始めるから、道長からしたらなんかよくわからん理由で狙い通りにもなってるという…。
天皇の外祖父になることが権勢をふるうための欠かせない条件の一つであるために、代々近親婚が繰り返されることになるが、劣性遺伝による遺伝性疾患が発生しやすくなることで、子孫が残せず、いずれはこの方法による権力掌握は成り立たなくなる運命にあると思います。
道長や彰子は長生きしているのに、後一条以降の代の天皇が皆早死になのは絶対近親婚の影響だと思います。
頼通も長生きですね。倫子の家系が本来長生きなのか。なんか勿体無いことです😢
この形式の説明ありがたいです
歴史chの中で一番面白くて興味深い
本編動画に参考文献示されないのは珍しい
概要欄にもない
ちょっと心配
望月以降は、月は欠けていくだけ。
道長が左大臣の娘を娶り、頼通は女王を娶る。
間違ってはないが、中関白家の失敗も参考にするのが政治家としては、大成出来たのかもしれない😅
藤原家もそうですが天皇家も、当時は多妻で子供も何人~十何人もいたのに、それでも跡継ぎが早世したり男子が生まれなかったりするような不運がたまたま二代くらい続くとあっという間に途絶えてしまうのを見ると、今の皇室のあり方で本当に大丈夫なのかと不安を覚えてしまいます。
頼通は外祖父にはなれなかったけど76才まで関白を続けて頑張っていたのですね
それも彰子がいたからですね
姉弟で帝を助けて政を担って頑張っていたのですね
近親婚がどんどん進んでしまい遅かれ早かれ娘を入内させて、外祖父として権力振るうことには行き詰まりそうですかね
それにしても、道長/頼通父子、子供の性別が、極端ですね
偶然とはいえ、運命的なものを感じざるを得ません
あたかも、摂関政治から院政への見えないレールが引かれているようですね
もしかしたら、近親婚の影響かも。
白河天皇の母親は、摂関家からちょと遠い血筋だけど、それでも内親王5人(一人夭逝)だものな。(白河天皇は、母茂子にとって唯一の皇子)一条天皇系の皇子達に皇子が生まれにくくなっていたかもしれない。
逆に考えれば「天皇家を遺伝病で苦しめなくて良かった」という面もあるのでは?
藤原氏はハプスブルク家みたいな感じだったんですね。
そうですね。というか、古代中世の上流階級って洋の東西を問わずこんなもんかと。
平安時代も、愛妻家の人いましたね、戦国時代の、愛妻家エピソードは、明智光秀と、ひろこさん夫婦エピソードの、イメージが、あるけどね
黒田考高も櫛橋光を愛して側室持たなかったですよね。一途な偉人ってちょいちょい居ますよね。
光秀の娘婿の細川忠興もね
上級貴族の数が少ないし、適齢期の男女となれば尚少ない。手軽にいとこと結婚している例が多い。母親の身分が低ければ、子どもの出世は頭打ち。
天皇は長生きできない。ストレスもあるだろうが、いとこ婚の影響もあるのではないか。元気でめげない子どもを産むためには、兼家パパのように受領の娘と結婚した方が良い。
権力闘争っていうと腐敗のイメージが持たれがちですが、
有力な外戚が後ろ盾にいるっていうのは権力が安定して平和な統治ができるという事でもあるんですよね
力が強い外戚は古今東西問わず君主側からは内心疎まれがち
隙が有れば簒位を狙う
クーデターで排除されなかっただけでも運が良い
この頃は、秀吉みたいに関白を経験したら大閤になる仕組みは確立されてますか?
魂の法則として、権力者の子供は、長男よりも次男の出来が良いケースが多いような気がする。道長は強そうな権力者だったから長子、頼道は弱そうで、次男、教通の方が出来が良さそう。戦国時代、家康の長男、信康は立たず、次男、秀忠が二代将軍。三代将軍、家光はどもりで、忠長の方が出来が良かったとか。権力の力の上に平均化に向かう力があるのかも。
寛子、師実の母親は、具平親王が身分低い女性に生ませた息子藤原頼成の娘。藤原頼成は、低い官位で(ずっと七位。姉弟を本宅に引き取る時に頼通が六位にした)師実の同母兄4人は、他家に養子に行っている。
院政のせいでもある
皇后、中宮、国母が藤原氏の娘から、内親王に移ったからではないですか?
皮肉にも 道長の孫である内親王によって摂関政治は終焉した。
外祖父に成りたいから、縁のある女性を片っ端から養女にして入内させ皇子が生まれるまで頑張ってもらおう。と考える人がいなくてよかった。
光るから撤退は?しない?
ちゃんと観もしないで
検討はずれのコメ入れんな
藤原道長
父姉に落胆する。
また紫式部の娘賢子
平清盛
保元の乱
勝ち政権
代わり
平家の分家
政権の中枢
になり
栄華になる。
桓武平氏
村上源氏
武家の大頭
源平合戦
源頼朝の
家系
将軍家
滅亡後
北条政子
父親は平氏
の本家
鎌倉幕府
室町幕府
源氏の分家
将軍家になる。
藤原北家
今まで続く
家系になる。