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貨物と旧客の混成列車がたまらんよ
同感です。今はJR貨物との関係で混成しないですからね。
悲しいよね〜
↑ここで乗ったオッサン😁
@@psychedelicraspberry517 美幸線も乗ったことありますか?
あるっす。この頃、岩内線・興浜南線・興浜北線・美幸線とたて続けに廃止になりましたが、興浜南線・興浜北線はタッチの差で乗れず😵岩内線は昭和58年に家族旅行で乗った😁
懐かしい画像ありがとうございます♪この頃、DE10を運転してました。
ご視聴、さらにコメントまでいただきありがとうございました。
運転手さんも当時はただ毎日の仕事をこなすに乗っていあただけなのでしょうが引退したら懐かしいでしょうね。
混合列車の冬場の運用、機関車次位に貨車を繋いだ場合、客車への暖房供給はどうなっていたのでしょうか?客車にべパストヒーターが付いていたのですか?
@@野村良平-t1yんだ😉
この時代で画質の良い映像が撮れてますね。素晴らしい!
周遊券で旅行してた時はC58の混結列車によく乗りました
混合列車、オホーツク海の白波、素晴らしいです。この頃に乗りました。
地元です。車両は代替わりして味気なくなりましたが、釧網本線らしい広々とした景色は今もあまり変わっていません。私がよく乗っていた頃は、新車だったキハ54と、くたびれたキハ56がペアを組んで峠を越えていました。昔の浜小清水が見られて懐かしいです。駅裏の木工場は、今は道の駅になりました。駅舎は道の駅の建物に間借りするようになって、すっかり影が薄くなりました。
コメントありがとうございます。お楽しみいただけたようで何よりです。
祖母が止別の生まれです。若い頃は磯分内の製糖工場で出稼ぎに行っていて、貨車に積む作業もしていたらしいです。自分も、釧網線でC58や9600が貨客混合を牽いている頃を撮影した藤泰人さんの写真集を持ってます。
コメントありがとうございます。日本が追い付け追い越せの高度成長時代を支えた方々は、仕事が忙しかったでしょうね。96が牽引する混合列車、絵になりますね。
貴重な映像、ありがとうございました。
8mm映像だと音が入ってなくて後から適当な音を当てたような動画もありますが、本動画は風の音のおかげで現場の音そのものが収録されていることが実感できるのでより臨場感があります。
コメントありがとうございます。指向性の高い外付けマイクを装着していると、慌てて撮影した際などにスイッチの入れ忘れで無音になり、がっかりしたこともありました。やはり、映像と音声は切り離せないですよね。
こういうの、大好きです。
貴重な映像、ありがとう存じます❤この頃の、国鉄の気概がよく伝わってきます。北海道も、まだ、景気悪くなっていないのでしょう。客車では、かつてのオハフ60、スハニ62等が残っていました。ミキストの晩年には、サッシ改造された、寒地型のオハフ33なども入線していたのでしょう。
お褒めをいただき、ありがとう存じます。釧網本線のミキストは、古くは確か、根室本線のそれとともに、NHKの番組でも、とりあげられ、その頃は客車に温風暖房器が無く、ダルマストーブが活躍していたそうです。それでも、ハザからストーブが無くなった後も、スユニには晩年まで残っていました。いずれにせよ、ここに、普段は地味な客レが取り上げられ、感動致しております🥹余談ながら、80年代初めには、スハニ62のトップナンバーも健在でした。
今後列車懐かしいです。普通客車三両に郵便車2両貨物5両?だった記憶があります
いい風景だな~!
この翌年の高1夏が北海道旅行デビューでした。宗谷本線・旭川~稚内の431?列車も客貨混合、貨物数両+レッドトレイン50系1両の郵便&貨物優先のアンバランス編成、激混みで車掌室を開放してもらい幌延まで立ちっぱなしでした。他の方のコメントにもある混合列車といえば倉𠮷線(鳥取県)、1981年に乗車しました。終点まで直通列車がなく、混合列車は打吹駅止まりでしたね。
コメントありがとうございます。40年前ですと、情報を得るのに苦労されたでしょうね。それにしても夏とはいえ、高一で北海道旅行とは恐れ入りました。
@@ZIPANG1067 さん返信ありがとうございます。当時、「旅と鉄道」の北海道特集を参考にしましたが、あとはその場勝負でした。ちなみに私の同級生には小6で東北や九州一人旅をしていて、私の一人旅は中1がデビュー、夏休みの九州のローカル線で偶然同級生に2回も会って驚いたものでした。倉吉線も同級生2人旅で夜行「山陰」寝台車に乗っていった時です
いやはや「おませ」さんだったのですね。自分は中一の時に、都電だけを利用して神田にある科学教材社へ行ったぐらいですね。その頃は、都電の路線が都内をまだ網羅していたんですよね。子供の科学を見て紙面にあった模型を作るために、材料を買い出しに訪れたのが、一人で行った唯一の遠征でしょうか。区内も出ていないのに遠征と言えるかが問題ですが……。
支線ではなく『本線』の列車なのに たった2両しかない『急行 しれとこ』DE10には軽すぎる荷の車掌車+2軸有蓋車3連+無蓋車果てしなく広がる大平原。しかしそれは『人がいない』という証でもあり 北海道の鉄道経営が この時代から既に苦しいものだった事が伺えます。北の大地に混合列車がまだあったんですね!しかもDE10重連とは なんとも羨ましい。
コメントありがとうございます。秋とはいえ、冬もそこまで来ているのか強風が吹き荒れ、編集で風の音を消すのに苦労しました。本線らしからぬ路線は、北海道でニシンが大漁に捕れていた頃とは、だいぶ違うんでしようね。それにしても、混合列車は何とも良いですね。
徳島本線の 「急行よしの川」も2両編成でしたね。
@@ZIPANG1067近年は鰊の復活の兆しがあるとか、それともないとか………。群来(クキと呼ぶそうです)群来とは、鰊の雌が卵を産みつけ、雄が、我先に放精をして、海が乳白色に染まる、それを見て[現代の漁師は色めき立つ]そうな。口の悪い悪友は、鰊を評して[猫跨ぎ]だの[小骨だらけ]だのと云う。でも、喰ったら旨い!生[塩焼き]ヨシ、鰊蕎麦ヨシ、うんまい魚ですよ!
でも、私が乗った際は、川湯~緑はDE10重連だったよ😉
@@psychedelicraspberry517 さすがに倉𠮷線には乗ったことはないでしょう?
この頃に戻れるなら湧網線に乗りたいな。
旅客。貨物の混合列車を始めて見ました。
83年でまだ混合列車が走ってのか。行くチャンスがあったのだから、いけばよかったな~。この年は青春18きっぷで普通寝台列車を制覇しに行ってた。はやたまとながさき。山陰は後年にと思ってたら、無くなってしまった。
混合列車は翌年の59-2で消滅😭
DE10の重連に貨物、荷物、旧客と模型みたいな編成ですね。客車の尾灯がひとつなのはオハとかスハに携帯式みたいなのつけてるからでしょうか?
撮影したB氏に確認してみました。混合列車の終端で点灯しているのは、点灯式の標識灯を客車のフックに引っ掛けているものと思われます。末端の客車の型式は恐らくスハフ62と思われ、尾灯は装備されているのに何故これを使わないのかは不明です。以前乗った日中線の混合列車のオハフ61も同じ事をしていたと記憶しています。とのことです。
スピードが遅いから車軸発電機だけでは十分な光量が出せなくなる心配があったからでは?峠の上りではノロノロだと想定できるけど…乗ったことないのに勝手なコメント失礼ですが
朋友B氏の北海道4作目、混合列車がこんな時期まで(と、云っても41年前ですが)走っていたとは!しかし、極寒のホッカイドウ、機関車次位が貨車では、蒸気暖房が使えない………。冬場は、一体、どうしていたのか………。4作通して拝見して、以外だったのが、こんな荒野の只中でも、カンカン踏切が鳴っていますね!東京都下の青梅線でも[無人踏切]は沢山あるのに(私奴が幼少時分、遮断竿も警報器も無い踏切を無人踏切と呼んでいました)北海道に憧れる人は沢山居ると聞きます。北海道新聞の社員さんで道外出身は多いとか。私奴は………無理です。
コメントありがとうございます。母親譲りの冷え性のため、寒さに対しては滅法弱いです。冬場は風呂上がりでも、洗面台の鏡が殆ど曇らなかったりします。ということで、僕も北海道は住めない気がします。
混合列車で機関車次位が貨車の場合は客車の暖房はダルマストーブを使用していました、北海道で最後まで混合列車が残ったのは釧網本線だったと思います。
7:50この場合は原生花園付近では、、、?後の映像は中斜里〜斜里駅間
撮影したB氏に確認してみました。原生花園駅は元々仮乗降場でしたが1978年に廃止になり、1983年時点では存在しませんでした。(その後臨時駅として復活しました。)とのことです。
@@ZIPANG1067 なるほどです。恥ずかしながら知りませんでした。🙇🏼
混合列車といえば倉𠮷線(鳥取県)を思い出しました。倉𠮷といえば昭和の横綱、琴櫻の出身地。孫が幕内で人気がありますね。
コメントありがとうございます。琴桜と大鵬の孫が競い合うなんて、相撲ファンは盛り上がったでしょうね。
貨物と旧客の混成列車がたまらんよ
同感です。今はJR貨物との関係で混成しないですからね。
悲しいよね〜
↑ここで乗ったオッサン😁
@@psychedelicraspberry517
美幸線も乗ったことありますか?
あるっす。この頃、岩内線・興浜南線・興浜北線・美幸線とたて続けに廃止になりましたが、興浜南線・興浜北線はタッチの差で乗れず😵
岩内線は昭和58年に家族旅行で乗った😁
懐かしい画像ありがとうございます♪この頃、DE10を運転してました。
ご視聴、さらにコメントまでいただきありがとうございました。
運転手さんも当時はただ毎日の仕事をこなすに乗っていあただけなのでしょうが引退したら懐かしいでしょうね。
混合列車の冬場の運用、機関車次位に貨車を繋いだ場合、客車への暖房供給はどうなっていたのでしょうか?客車にべパストヒーターが付いていたのですか?
@@野村良平-t1yんだ😉
この時代で画質の良い映像が撮れてますね。素晴らしい!
周遊券で旅行してた時はC58の混結列車によく乗りました
混合列車、オホーツク海の白波、素晴らしいです。
この頃に乗りました。
地元です。車両は代替わりして味気なくなりましたが、釧網本線らしい広々とした景色は今もあまり変わっていません。
私がよく乗っていた頃は、新車だったキハ54と、くたびれたキハ56がペアを組んで峠を越えていました。
昔の浜小清水が見られて懐かしいです。駅裏の木工場は、今は道の駅になりました。駅舎は道の駅の建物に間借りするようになって、すっかり影が薄くなりました。
コメントありがとうございます。
お楽しみいただけたようで何よりです。
祖母が止別の生まれです。
若い頃は磯分内の製糖工場で出稼ぎに行っていて、貨車に積む作業もしていたらしいです。
自分も、釧網線でC58や9600が貨客混合を牽いている頃を撮影した藤泰人さんの写真集を持ってます。
コメントありがとうございます。
日本が追い付け追い越せの高度成長時代を支えた方々は、仕事が忙しかったでしょうね。
96が牽引する混合列車、絵になりますね。
貴重な映像、ありがとうございました。
8mm映像だと音が入ってなくて後から適当な音を当てたような動画もありますが、本動画は風の音のおかげで現場の音そのものが収録されていることが実感できるのでより臨場感があります。
コメントありがとうございます。
指向性の高い外付けマイクを装着していると、慌てて撮影した際などにスイッチの入れ忘れで無音になり、がっかりしたこともありました。やはり、映像と音声は切り離せないですよね。
こういうの、大好きです。
貴重な映像、ありがとう存じます❤この頃の、国鉄の気概がよく伝わってきます。北海道も、まだ、景気悪くなっていないのでしょう。客車では、かつてのオハフ60、スハニ62等が残っていました。ミキストの晩年には、サッシ改造された、寒地型のオハフ33なども入線していたのでしょう。
お褒めをいただき、ありがとう存じます。釧網本線のミキストは、古くは確か、根室本線のそれとともに、NHKの番組でも、とりあげられ、その頃は客車に温風暖房器が無く、ダルマストーブが活躍していたそうです。それでも、ハザからストーブが無くなった後も、スユニには晩年まで残っていました。いずれにせよ、ここに、普段は地味な客レが取り上げられ、感動致しております🥹余談ながら、80年代初めには、スハニ62のトップナンバーも健在でした。
今後列車懐かしいです。
普通客車三両に郵便車2両貨物5両?
だった記憶があります
いい風景だな~!
この翌年の高1夏が北海道旅行デビューでした。宗谷本線・旭川~稚内の431?列車も客貨混合、貨物数両+レッドトレイン50系1両の郵便&貨物優先のアンバランス編成、激混みで車掌室を開放してもらい幌延まで立ちっぱなしでした。
他の方のコメントにもある混合列車といえば倉𠮷線(鳥取県)、1981年に乗車しました。終点まで直通列車がなく、混合列車は打吹駅止まりでしたね。
コメントありがとうございます。
40年前ですと、情報を得るのに苦労されたでしょうね。
それにしても夏とはいえ、高一で北海道旅行とは恐れ入りました。
@@ZIPANG1067 さん
返信ありがとうございます。当時、「旅と鉄道」の北海道特集を参考にしましたが、あとはその場勝負でした。
ちなみに私の同級生には小6で東北や九州一人旅をしていて、私の一人旅は中1がデビュー、夏休みの九州のローカル線で偶然同級生に2回も会って驚いたものでした。倉吉線も同級生2人旅で夜行「山陰」寝台車に乗っていった時です
いやはや「おませ」さんだったのですね。
自分は中一の時に、都電だけを利用して神田にある科学教材社へ行ったぐらいですね。その頃は、都電の路線が都内をまだ網羅していたんですよね。
子供の科学を見て紙面にあった模型を作るために、材料を買い出しに訪れたのが、一人で行った唯一の遠征でしょうか。区内も出ていないのに遠征と言えるかが問題ですが……。
支線ではなく『本線』の列車なのに たった2両しかない『急行 しれとこ』
DE10には軽すぎる荷の車掌車+2軸有蓋車3連+無蓋車
果てしなく広がる大平原。しかしそれは『人がいない』という証でもあり 北海道の鉄道経営が この時代から既に苦しいものだった事が伺えます。
北の大地に混合列車がまだあったんですね!
しかもDE10重連とは なんとも羨ましい。
コメントありがとうございます。
秋とはいえ、冬もそこまで来ているのか強風が吹き荒れ、編集で風の音を消すのに苦労しました。
本線らしからぬ路線は、北海道でニシンが大漁に捕れていた頃とは、だいぶ違うんでしようね。
それにしても、混合列車は何とも良いですね。
徳島本線の 「急行よしの川」も2両編成でしたね。
@@ZIPANG1067
近年は鰊の復活の兆しがあるとか、それともないとか………。
群来(クキと呼ぶそうです)
群来とは、鰊の雌が卵を産みつけ、雄が、我先に放精をして、海が乳白色に染まる、それを見て[現代の漁師は色めき立つ]そうな。
口の悪い悪友は、鰊を評して[猫跨ぎ]だの[小骨だらけ]だのと云う。
でも、喰ったら旨い!生[塩焼き]ヨシ、鰊蕎麦ヨシ、うんまい魚ですよ!
でも、私が乗った際は、川湯~緑はDE10重連だったよ😉
@@psychedelicraspberry517
さすがに倉𠮷線には乗ったことはないでしょう?
この頃に戻れるなら
湧網線に乗りたいな。
旅客。貨物の混合列車を始めて見ました。
83年でまだ混合列車が走ってのか。
行くチャンスがあったのだから、いけばよかったな~。
この年は青春18きっぷで普通寝台列車を制覇しに行ってた。
はやたまとながさき。山陰は後年にと思ってたら、無くなってしまった。
混合列車は翌年の59-2で消滅😭
DE10の重連に貨物、荷物、旧客と模型みたいな編成ですね。客車の尾灯がひとつなのはオハとかスハに携帯式みたいなのつけてるからでしょうか?
撮影したB氏に確認してみました。
混合列車の終端で点灯しているのは、点灯式の標識灯を客車のフックに引っ掛けているものと思われます。
末端の客車の型式は恐らくスハフ62と思われ、尾灯は装備されているのに何故これを使わないのかは不明です。
以前乗った日中線の混合列車のオハフ61も同じ事をしていたと記憶しています。
とのことです。
スピードが遅いから車軸発電機だけでは十分な光量が出せなくなる心配があったからでは?峠の上りではノロノロだと想定できるけど…
乗ったことないのに勝手なコメント失礼ですが
朋友B氏の北海道4作目、混合列車がこんな時期まで(と、云っても41年前ですが)走っていたとは!
しかし、極寒のホッカイドウ、機関車次位が貨車では、蒸気暖房が使えない………。
冬場は、一体、どうしていたのか………。
4作通して拝見して、以外だったのが、こんな荒野の只中でも、カンカン踏切が鳴っていますね!
東京都下の青梅線でも[無人踏切]は沢山あるのに(私奴が幼少時分、遮断竿も警報器も無い踏切を無人踏切と呼んでいました)
北海道に憧れる人は沢山居ると聞きます。北海道新聞の社員さんで道外出身は多いとか。
私奴は………無理です。
コメントありがとうございます。
母親譲りの冷え性のため、寒さに対しては滅法弱いです。
冬場は風呂上がりでも、洗面台の鏡が殆ど曇らなかったりします。
ということで、僕も北海道は住めない気がします。
混合列車で機関車次位が貨車の場合は客車の暖房はダルマストーブを使用していました、北海道で最後まで混合列車が残ったのは釧網本線だったと思います。
7:50
この場合は原生花園付近では、、、?
後の映像は中斜里〜斜里駅間
撮影したB氏に確認してみました。
原生花園駅は元々仮乗降場でしたが1978年に廃止になり、1983年時点では存在しませんでした。(その後臨時駅として復活しました。)
とのことです。
@@ZIPANG1067
なるほどです。
恥ずかしながら知りませんでした。🙇🏼
混合列車といえば倉𠮷線(鳥取県)を思い出しました。
倉𠮷といえば昭和の横綱、琴櫻の出身地。孫が幕内で人気がありますね。
コメントありがとうございます。
琴桜と大鵬の孫が競い合うなんて、相撲ファンは盛り上がったでしょうね。