親鸞和讃を読む「如来すなわち涅槃なり(3)」瓜生崇

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  • Опубликовано: 2 ноя 2024

Комментарии • 7

  • @よしノリ
    @よしノリ 2 месяца назад

    南無阿弥陀仏

  • @tyabou-e2w
    @tyabou-e2w 3 месяца назад +1

    毎回の御法話有難うございます。南無阿弥陀仏。

  • @雲の介
    @雲の介 3 месяца назад +1

    南無阿弥陀仏🙏

  • @atarashii_terada
    @atarashii_terada 3 месяца назад +2

    20:27
    親鸞聖人は、「信心は喜びの心だ」とは言うけど、「喜びの心は信心だ」とは絶対に言わない。
    『教行証文類』
    大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。
    『浄土文類聚抄』
    大慶喜心を獲れば、この心三不に違す、この心三信に順ず。この心はすなはちこれ大菩提心なり。大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。

    • @uryuneko
      @uryuneko  3 месяца назад +4

      良いコメントありがとうございます。その御自釈の結論は「衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり」とあり、如来の心として論じてるところなんです。私の喜びが信心だと言ってるところではなく、主語は如来ってことかと思います(動画でもそういう話をしてると思います)

    • @atarashii_terada
      @atarashii_terada 3 месяца назад +1

      細かいところですが気になってしまいました。
      私も、主語は如来であると理解しています。
      巷で言うところの信心は「如来のおこころ」と言ってはいるものの、実際は衆生の分別心について語られていることが多いと感じています。
      念仏無しで信心を語るからこのような混乱が生じていると思います。
      『後世物語聞書』にあるように「名号をとなふるは疑いなきゆえなり。これ信心なり。」「無智のものも念仏だに申せば三心具足して往生するなり。」と理解すれば、全部がスーッと繋がると思います。
      ストレートに言うならば、親鸞聖人の信心と蓮如上人の信心はまったく〇〇です。
      『後世物語聞書』に
      Q「ずっと念仏しているけど心が善くなっている実感がありません」
      A「だんだん心が善くなるのは聖道門。臨終の一念まで何も変わらないのが浄土門。何も変わらないのが正常。二河のたとえにもそう書いてあるでしょ?だから心配せずにそのまま念仏をはげみなさい。」
      というやりとりがありますが、このリメイクが動画冒頭の『歎異鈔』の文章だと思っています。
      「念仏して、としひさしくなりゆけども、三毒煩悩もすこしもきえず、こころもいよいよわるくなる、善心日日にすすむこともなし。さるときに、仏の本願をうたがうにはあらねども、わがみのわるきこころねにては、たやすく往生ほどの大事おばとげがたくこそ候へと。」

    • @uryuneko
      @uryuneko  3 месяца назад +1

      有意義なコメントありがとうございます。また色々お教えください。