Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
私個人は「写真」と「画像」は明確に区別するべきだと考えています。デジタル一色の現代ではリアルに撮影した写真といわゆる合成や描画で描かれた画像を同列に並べて「写真」と呼んで語る人が多いこと多いことフィルム時代は物理的に合成や後から付け足すということがやりにくかったことから、撮影時に技法や色んな手法を用いて撮影をしました。しかし、デジタルになってから個人で簡単にパソコンを使って画像加工ができるようになりました。このこと自体は、例えば商業写真で必要なことはあると思いますし、行われてきたことです。しかし、「写真」を「芸術・美術」としてとらえた場合、それをやってしまうと別々に撮ったものを加工でくっつけてしまうことが安易にできてしまいます。(この「安易に」が「容易に」ではないところがポイント)たとえば、某映画監督の娘の元々はコラージュ作家だった某・自称女性写真家は、デジタルカメラが普及し始めTから、急に写真家をなのうようになりました。今ではどうだかはしりませんが、初期のころは合成などを平気でやっていたそうです、また、いわゆる「Photoshop」などの写真画像加工ソフトを駆使し、レイヤーをいくつも重ねて綺麗な合成画像を作る「フォトショッパー」と称される画像作家がいますが、kレらを「写真家」と呼んでしまう現代の風潮にも私は違和感を覚えます
とても深い話をありがとうございます。写真に限らず、あらゆることに応用できる考え方ですね。表面ではなく、物事の深いところを見ていく。そういう意識を持つ。そうすることで、新しい境地が開けてくる。そんな思いになりました。貴重な気づきをありがとうございます。
現実を「主観的現実(1ドル紙幣をお金という価値と認識する)」と「客観的現実(1ドル紙幣を色が印刷された紙と認識する)」の両者からなると考えれば、写真の"枠の中"は、主観的現実であり、写真の"枠"は、客観的現実だと思います。人間は、主観的現実と客観的現実を行き来してものを見る動物なので、現代写真を、写真の"枠"としてみる、つまり、1ドル紙幣をお金ではなく、色が印刷された紙だとずーっと認識し見続けることは、苦痛を伴う鑑賞かもしれない。考えさせられました。有難う御座いました。
そもそも、写真か否かを問題視するから前に進めないのだと思います。作家は単なる表現者ですから、写真という言葉にしがみつく必要は無いし、受け手も「これは写真じゃ無い」と思ったのなら別の視点で楽しめば良いのです。
短くこれ以上に簡潔でわかりやすい解説は聞いたことが有りません。有難うございます!!
枠 と言う概念よく分かります ありがとうございます 一方で アートじゃない写真=単に分かり易い写真=大量消費写真 も日本に多い気がします日本人の好みなのでしょうか自分は、ショッキングで濃密な印象ある画像・濃淡・構図が好きです古き良き景色でもパンフォーカスの画像でもボケだらけの画像でも 影しか写っていない画像でも ひとりよがりにしか見えない気取った現代アートでも
デジタルか銀塩かは全く関係のない話で、写真をアートにしようと考えた段階で、機材は写真と同じものを使っているが道具が同じだけの全く異なるものを制作してるという事ですよね。だから写真が好きな人はアートと名の付いた写真は写真じゃないので好きになることはあり得ないでしょ。写真と、写真の技法を使ったアートと呼ぶのがいいかと。
一枚の写真を座標軸で考え、横軸にストレートフォト→加工写真、縦軸に主観→客観的や作家性など配置すれば分かりやすい。
とても興味深い話だったので色々考えながら聞かせていただきました。最近知って登録させていただきましたので過去の動画にコメントするのはどうかなと悩んだのですが。。。お話を聞いて1994年頃にワープロが専用機か一太郎が主流だった時代、IBMから織姫Liteというワープロソフトが発売されたのですが、文書画面に「音声ファイル」が張り付けられるようになっていてショックを受けたことを思い出しました。「ワープロは紙に出す文書や画像を作るもの」と思っていたのにIBMの開発者はもっと先を見ているのかと。・・・売れなかったというオチは付きますが。個人的に何度目かの「写真ってなんだろう」を考えていたのもあって、ちょっとヒントをもらったような気がして嬉しかったです。ありがとうございます。
日本の中で培われた写真があまりにも海外での作品をプリントした状態との違いに写真文化の違いを感じる。アート紙にプリントする海外での写真はプリント技術にもかなりの差を感じる。写真を最終的に何に利用するかでコンセプトが変わりその為の環境で仕上げる。写真の表現方法を幾つ作者が持ってるかで仕上がりもかなり違う。そうした事を思慮しながら作品を組写真等の複数枚で表現するのが慣れてくれば、写真の見所を自分自身で分かりフレーミングに反映してくる。狙いと主張とを表現するにはカラーが良いかモノクロが良いかセピアにするのかと様々な方法の選択がある。作者のコンセプチュアルがブレない為に焦点は絞り幅広くならないように心掛けるのも良いでしょう。プリンターの進化で表現方法を選択可能となり些か写真らしさを失ってる作品も日本で多少は理解されてきた。常識やセオリーに従わなくても作品になるような事が出来るようになったデジタルの良さに私は感謝してる。
非常にわかりやすく面白かったです。
デジタル化の影響というのは、写っている中身を幾らでも操作できるから、オリジナルとしての意味がより薄れたから、どういう意味でしょうか。「枠そのものとは」なんでしょう。「写真は光と時間の化石である」(森山大道)を思い出しました。写真家さんたちの記事を読むと時々ある、「写真は芸術か」という話題。 音楽、絵画などに対しての鬱屈を感じておられる方がいたので、今は何か新しい事が起きる前兆なのかなあ。
とても面白かったです。写真とは「カメラ(ある物を写真に変えるあらゆる工程)から出てきたもの」で、この"カメラ"が時代や作者によって無限の広がりを作っているのかなと感じました。そして今の時点では写真は"枠"と"枠の中"で構成されてるように感じますが、この考え方も未来には覆っているのかもしれないと思うとワクワクしました。拙い文章で申し訳ありません。改めて写真は面白いと感じました!
商業は定義が無いと成り立たないので、それで困る人々は懸命にそれを定義し定着させようとするけれども、写真自体はいつでもそこにあるようにあるのだから、よりひろくよりパーソナルに浸透していくのが、いいのに、いいのに。
道具の進歩が解釈に変化をもたらせているんですね。デジカメも1000万画素CCDセンサー位までは銀塩時代の流れを組む写真と感じていましたが、最近の高画素CMOSセンサー、ミラーレスカメラなどで撮られた写真に関しては、個人的には「写真」というより「CG」「デジタルアート」と感じてしまいます・・・。
納得しました!。ただ、そのデジタルの魔の様なものが ありがたいと思い始めた私です‥‥。
さとるさんの おっしゃるところそのとおりだと感にいってます 今の新進気鋭カメラマンの写真を見ていると 特にそう思われますでも それって写真って手法をとらなくても良いのじゃないかなって思ってしまいます
AIが写真を作れるようになって、ニュアンスを伝えるだけで写真を現像できるようになれば絵画と写真の境界が無くなって、じゃない写真が量産される時代になりますね。
岡本太郎の芸術とは?と問うている本を読むと、いろいろな人がうんちく言ってる事にとらわれず混乱しなくて良いと思います、皆さん。横尾忠則ですら感動した本です。岡本太郎はこう言っています。特に芸術を始めたばかりの人や素直な人ほど周りのうんちくに振り回されると書いています。芸術とは、何者であるのか、を表現することが大事なわけです。写真がわからない、じゃない写真?と思う人は、本を一度読んでからこの動画をみて考えてみてください。芸術の本質的な事がわかると思います。
音楽、芸術全般、ワイン等と相似ですね。カメラ付きのスマホを誰でも持っているから誰でも語れる、主体的であるようでいて、歴史や素養が無ければ自分のものさしは変わることなく、コンテクストも必要なく、そこに見えるものの快不快だけの判断に委ねられます。
自由律とか、季語がないとか形式の決まっているはずの俳句でも、枠からはみ出す試みはあります。基本を尊重される方からは、自由律は「こんなのは行くじゃない」、季語がなければ「これは川柳だ」と思われるでしょうか。絵画でも、水墨画と油絵では表現意図がそれぞれにあるのでは。写真も同じように感じました。「こんなの写真じゃない」という吟味があってこそ、新しい方向も見えるのかもしれません。
真を写してるのが写真。真実に足したり引いたりしたらフォトグラフィックだとして認識する様にしました‼️
自分や身の回りで楽しむのであれば加工してもいいと思いますが、表現として公表したときに、写真はその時その場にあったものが嘘ではなく写っている物という認識で見る人がまだ大半なのでそれが加工されたものであると知ったり、知らないままに感動したとするならば、発表する側に写真ではないと表現してほしいと思いますね見る側の写真に対しての理解が変われば問題ないのかも知れませんが、それは難しいですよね。これまで写真に携わってきた方が、写真とは別のものとして新たなカテゴリを作ってその認知を広げていく方が見る側にも撮影者側にもメリットが大きいような気がします。
見る側、受け手の見え方で捉え方を変えるとなればアートなり写真なりは答えは様々千変万化だとは思うのですが、やはり分かりにくいものは作者の撮影者の考えやイメージを文字にしてもらえると有り難いと私は思います。例えそれが先入観に繋がる印象になる材料だとしてもやはり撮影者側の考えは先ずは知りたいですね。
私もいろいろな写真展を見ましたが、「じゃない写真」は一応見てみるものの、何ら感銘を受けなかったらスルーしていいと思っています。ただ、拒否するのではなく、機会があればいろいろ見てみる価値はあると思います。
ありがとうございます。印画紙があらわれる以前の写真の黎明期に帰って考えるとよいのかとも思いました。現代の写真は境界があいまいで、ネットワークの中で流れていってしまう、、、実は定着する先が人間の視覚しかないカメラオブスキュラの時代にぐるっと回って戻ってしまったのではとも思います
そもそも奥山由之や小浪次郎や小見山俊のようなセンスにあふれてる写真家の作品についていけないようなおじさん達には呆れてしまう。昔に比べてよりアートに近づいたのが今の写真家。レベルが違いすぎる。アマチュアには絶対真似できないし理解できない写真でしょうね。電車や景色や動物撮ってる人間には理解できないのでは、、、
いつもありがとうございます😊ご自身の足跡を辿りながら、何か集大成に近づかれる気がします。とはいえ生きて行くわけで、枠組みであれコンテンツであれ、ひねり出したものが自分の作品だと思います。なので写真はモノからコトに進化するんじゃないですかね。
現代アートは写真だけじゃなく 絵や短編映画や美術において一見で意味がわからないものが多い
自分もわかりません^_^
レタッチされ現実と違う世界、有るものが消されたり、色が無いのに色を付けられたり写真なのか❓️自分はレタッチは好きでは無いです。紅葉🍁などレタッチされていたら、今が見頃と間違えたりします…写真は真実を写すと書きます。レタッチ当たり前は❓️です
シンプルに面倒臭い
難しいこと考える必要はないと思いますよ。撮りたいものを撮ればいいんじゃないですか。時代に合わせた撮り方なんて下心がある写真にしからならないのでは? 別の話しになりますが、「分かりずらい」ではなくて「分かりづらい」では?
私個人は「写真」と「画像」は明確に区別するべきだと考えています。
デジタル一色の現代ではリアルに撮影した写真といわゆる合成や描画で描かれた画像を同列に並べて「写真」と呼んで語る人が多いこと多いこと
フィルム時代は物理的に合成や後から付け足すということがやりにくかったことから、撮影時に技法や色んな手法を用いて撮影をしました。
しかし、デジタルになってから個人で簡単にパソコンを使って画像加工ができるようになりました。
このこと自体は、例えば商業写真で必要なことはあると思いますし、行われてきたことです。
しかし、「写真」を「芸術・美術」としてとらえた場合、それをやってしまうと別々に撮ったものを加工でくっつけてしまうことが安易にできてしまいます。
(この「安易に」が「容易に」ではないところがポイント)
たとえば、某映画監督の娘の元々はコラージュ作家だった某・自称女性写真家は、デジタルカメラが普及し始めTから、急に写真家をなのうようになりました。
今ではどうだかはしりませんが、初期のころは合成などを平気でやっていたそうです、
また、いわゆる「Photoshop」などの写真画像加工ソフトを駆使し、レイヤーをいくつも重ねて綺麗な合成画像を作る「フォトショッパー」と称される画像作家がいますが、kレらを「写真家」と呼んでしまう現代の風潮にも私は違和感を覚えます
とても深い話をありがとうございます。写真に限らず、あらゆることに応用できる考え方ですね。表面ではなく、物事の深いところを見ていく。そういう意識を持つ。そうすることで、新しい境地が開けてくる。そんな思いになりました。貴重な気づきをありがとうございます。
現実を「主観的現実(1ドル紙幣をお金という価値と認識する)」と「客観的現実(1ドル紙幣を色が印刷された紙と認識する)」の両者からなると考えれば、
写真の"枠の中"は、主観的現実であり、写真の"枠"は、客観的現実だと思います。
人間は、主観的現実と客観的現実を行き来してものを見る動物なので、
現代写真を、写真の"枠"としてみる、つまり、1ドル紙幣をお金ではなく、色が印刷された紙だとずーっと認識し見続けることは、苦痛を伴う鑑賞かもしれない。
考えさせられました。有難う御座いました。
そもそも、写真か否かを問題視するから前に進めないのだと思います。
作家は単なる表現者ですから、写真という言葉にしがみつく必要は無いし、受け手も「これは写真じゃ無い」と思ったのなら別の視点で楽しめば良いのです。
短くこれ以上に簡潔でわかりやすい解説は聞いたことが有りません。有難うございます!!
枠 と言う概念よく分かります ありがとうございます
一方で アートじゃない写真=単に分かり易い写真=大量消費写真 も日本に多い気がします
日本人の好みなのでしょうか
自分は、ショッキングで濃密な印象ある画像・濃淡・構図が好きです
古き良き景色でも
パンフォーカスの画像でも
ボケだらけの画像でも
影しか写っていない画像でも
ひとりよがりにしか見えない気取った現代アートでも
デジタルか銀塩かは全く関係のない話で、写真をアートにしようと考えた段階で、機材は写真と同じものを使っているが道具が同じだけの全く異なるものを制作してるという事ですよね。だから写真が好きな人はアートと名の付いた写真は写真じゃないので好きになることはあり得ないでしょ。写真と、写真の技法を使ったアートと呼ぶのがいいかと。
一枚の写真を座標軸で考え、横軸にストレートフォト→加工写真、縦軸に主観→客観的や作家性など配置すれば分かりやすい。
とても興味深い話だったので色々考えながら聞かせていただきました。
最近知って登録させていただきましたので過去の動画にコメントするのはどうかなと悩んだのですが。。。
お話を聞いて1994年頃にワープロが専用機か一太郎が主流だった時代、IBMから織姫Liteというワープロソフトが発売されたのですが、文書画面に「音声ファイル」が張り付けられるようになっていてショックを受けたことを思い出しました。
「ワープロは紙に出す文書や画像を作るもの」と思っていたのにIBMの開発者はもっと先を見ているのかと。
・・・売れなかったというオチは付きますが。
個人的に何度目かの「写真ってなんだろう」を考えていたのもあって、ちょっとヒントをもらったような気がして嬉しかったです。
ありがとうございます。
日本の中で培われた写真があまりにも海外での作品をプリントした状態との違いに写真文化の違いを感じる。アート紙にプリントする海外での写真はプリント技術にもかなりの差を感じる。写真を最終的に何に利用するかでコンセプトが変わりその為の環境で仕上げる。写真の表現方法を幾つ作者が持ってるかで仕上がりもかなり違う。そうした事を思慮しながら作品を組写真等の複数枚で表現するのが慣れてくれば、写真の見所を自分自身で分かりフレーミングに反映してくる。狙いと主張とを表現するにはカラーが良いかモノクロが良いかセピアにするのかと様々な方法の選択がある。作者のコンセプチュアルがブレない為に焦点は絞り幅広くならないように心掛けるのも良いでしょう。プリンターの進化で表現方法を選択可能となり些か写真らしさを失ってる作品も日本で多少は理解されてきた。常識やセオリーに従わなくても作品になるような事が出来るようになったデジタルの良さに私は感謝してる。
非常にわかりやすく面白かったです。
デジタル化の影響というのは、写っている中身を幾らでも操作できるから、オリジナルとしての意味がより薄れたから、どういう意味でしょうか。
「枠そのものとは」なんでしょう。
「写真は光と時間の化石である」(森山大道)を思い出しました。
写真家さんたちの記事を読むと時々ある、「写真は芸術か」という話題。
音楽、絵画などに対しての鬱屈を感じておられる方がいたので、
今は何か新しい事が起きる前兆なのかなあ。
とても面白かったです。写真とは「カメラ(ある物を写真に変えるあらゆる工程)から出てきたもの」で、この"カメラ"が時代や作者によって無限の広がりを作っているのかなと感じました。そして今の時点では写真は"枠"と"枠の中"で構成されてるように感じますが、この考え方も未来には覆っているのかもしれないと思うとワクワクしました。拙い文章で申し訳ありません。改めて写真は面白いと感じました!
商業は定義が無いと成り立たないので、それで困る人々は懸命にそれを定義し定着させようとするけれども、写真自体はいつでもそこにあるようにあるのだから、よりひろくよりパーソナルに浸透していくのが、いいのに、いいのに。
道具の進歩が解釈に変化をもたらせているんですね。デジカメも1000万画素CCDセンサー位までは銀塩時代の流れを組む写真と感じていましたが、最近の高画素CMOSセンサー、ミラーレスカメラなどで撮られた写真に関しては、個人的には「写真」というより「CG」「デジタルアート」と感じてしまいます・・・。
納得しました!。
ただ、そのデジタルの魔の様なものが ありがたいと思い始めた私です‥‥。
さとるさんの おっしゃるところそのとおりだと感にいってます
今の新進気鋭カメラマンの写真を見ていると 特にそう思われます
でも それって写真って手法をとらなくても良いのじゃないかなって思ってしまいます
AIが写真を作れるようになって、ニュアンスを伝えるだけで写真を現像できるようになれば絵画と写真の境界が無くなって、じゃない写真が量産される時代になりますね。
岡本太郎の芸術とは?と問うている本を読むと、いろいろな人がうんちく言ってる事にとらわれず混乱しなくて良いと思います、皆さん。横尾忠則ですら感動した本です。
岡本太郎はこう言っています。
特に芸術を始めたばかりの人や素直な人ほど周りのうんちくに振り回されると書いています。
芸術とは、何者であるのか、を表現することが大事なわけです。
写真がわからない、じゃない写真?と思う人は、本を一度読んでからこの動画をみて考えてみてください。芸術の本質的な事がわかると思います。
音楽、芸術全般、ワイン等と相似ですね。カメラ付きのスマホを誰でも持っているから誰でも語れる、主体的であるようでいて、歴史や素養が無ければ自分のものさしは変わることなく、コンテクストも必要なく、そこに見えるものの快不快だけの判断に委ねられます。
自由律とか、季語がないとか形式の決まっているはずの俳句でも、枠からはみ出す試みはあります。基本を尊重される方からは、自由律は「こんなのは行くじゃない」、季語がなければ「これは川柳だ」と思われるでしょうか。絵画でも、水墨画と油絵では表現意図がそれぞれにあるのでは。写真も同じように感じました。「こんなの写真じゃない」という吟味があってこそ、新しい方向も見えるのかもしれません。
真を写してるのが写真。真実に足したり引いたりしたらフォトグラフィックだとして認識する様にしました‼️
自分や身の回りで楽しむのであれば加工してもいいと思いますが、表現として公表したときに、写真はその時その場にあったものが嘘ではなく写っている物という認識で見る人がまだ大半なのでそれが加工されたものであると知ったり、知らないままに感動したとするならば、発表する側に写真ではないと表現してほしいと思いますね
見る側の写真に対しての理解が変われば問題ないのかも知れませんが、それは難しいですよね。
これまで写真に携わってきた方が、写真とは別のものとして新たなカテゴリを作ってその認知を広げていく方が見る側にも撮影者側にもメリットが大きいような気がします。
見る側、受け手の見え方で捉え方を変えるとなればアートなり写真なりは答えは様々千変万化だとは思うのですが、やはり分かりにくいものは作者の撮影者の考えやイメージを文字にしてもらえると有り難いと私は思います。例えそれが先入観に繋がる印象になる材料だとしてもやはり撮影者側の考えは先ずは知りたいですね。
私もいろいろな写真展を見ましたが、「じゃない写真」は一応見てみるものの、何ら感銘を受けなかったらスルーしていいと思っています。ただ、拒否するのではなく、機会があればいろいろ見てみる価値はあると思います。
ありがとうございます。印画紙があらわれる以前の写真の黎明期に帰って考えるとよいのかとも思いました。
現代の写真は境界があいまいで、ネットワークの中で流れていってしまう、、、
実は定着する先が人間の視覚しかないカメラオブスキュラの時代にぐるっと回って戻ってしまったのではとも思います
そもそも奥山由之や小浪次郎や小見山俊のようなセンスにあふれてる写真家の作品についていけないようなおじさん達には呆れてしまう。昔に比べてよりアートに近づいたのが今の写真家。レベルが違いすぎる。アマチュアには絶対真似できないし理解できない写真でしょうね。電車や景色や動物撮ってる人間には理解できないのでは、、、
いつもありがとうございます😊ご自身の足跡を辿りながら、何か集大成に近づかれる気がします。とはいえ生きて行くわけで、枠組みであれコンテンツであれ、ひねり出したものが自分の作品だと思います。なので写真はモノからコトに進化するんじゃないですかね。
現代アートは写真だけじゃなく 絵や短編映画や美術において一見で意味がわからないものが多い
自分もわかりません^_^
レタッチされ現実と違う世界、有るものが消されたり、色が無いのに色を付けられたり写真なのか❓️自分はレタッチは好きでは無いです。紅葉🍁などレタッチされていたら、今が見頃と間違えたりします…
写真は真実を写すと書きます。レタッチ当たり前は❓️です
シンプルに面倒臭い
難しいこと考える必要はないと思いますよ。撮りたいものを撮ればいいんじゃないですか。時代に合わせた撮り方なんて下心がある写真にしからならないのでは? 別の話しになりますが、「分かりずらい」ではなくて「分かりづらい」では?