【南北朝時代】122 細川頼之と康暦の政変【日本史】

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  • Опубликовано: 8 фев 2025

Комментарии • 31

  • @多羅尾伴内-g1c
    @多羅尾伴内-g1c Год назад +12

    北条のくびきから解放された足利一族が源氏の家字である『頼』や『義』を使い始めるの好き。

  • @melf_official
    @melf_official 3 года назад +7

    受験生です。
    ありがとうございます。
    ほんとにありがとうございます。

  • @オンエア-k3x
    @オンエア-k3x 3 года назад +11

    細川頼之公の治めた領国の讃岐 すなわち香川県出身の者です 
    父と一緒にこの動画をすごく関心を持って見させてもらいました
    ちなみに細川家の領国である讃岐では
    いとこの細川清氏と一戦交える白峰合戦という戦いが起こります
    現在の坂出市には激戦の末 従者たち36人とともに清氏は壮絶な戦死を遂げたといわれ彼らが葬られたといわれる墓や石碑があります
    そこはその名も「三十六」という地名があります(この戦死した36人のことが由来なのかと思いますが)
    南北朝時代という世情不安定な時代を戦い敗れた人たちに思いを馳せる史跡かと思います

    • @fujiwaragayouato9303
      @fujiwaragayouato9303 2 года назад

      清氏を騙し討ちにし~義満を皇女に近付け北朝皇子を立てた 細川頼之

  • @mag313yamada
    @mag313yamada 3 года назад +10

    今年に受験生になります🥲
    いつも動画を見ながら教科書を開くとワクワクした気持ちで勉強できます本当にありがとうございます‼️

    • @Y_Eschool
      @Y_Eschool  3 года назад +3

      そう言って頂くと作った甲斐があります
      ぜひ有意義な一年にしてください!

  • @ぽんぽん-d1g
    @ぽんぽん-d1g 3 года назад +10

    細川頼之はしょっちゅう大名が言うこと聞かなくて行き詰っていたところがあるんですよね。それでも方針自体は義満の考えとマッチしていたから政変から二年くらいで呼び戻される。強い将軍権力が特徴の義満政権の基礎を築いた人と言ってもいいかも?

  • @rerepopo663
    @rerepopo663 3 года назад +10

    細川家って室町時代の関西方面で、良くも悪くも滅茶苦茶影響与えまくりの人たちだよね。

  • @55tomokun66
    @55tomokun66 3 года назад +6

    次が、待ち遠しいです(^.^)

  • @北川裕治-l4g
    @北川裕治-l4g 3 года назад +16

    歴史のマンガや
    アニメに登場する
    細川の爺やん
    爺自身にも
    尊氏への恩があったのかも
    義満を立派に育てることで
    恩返しをしたかったのかも
    後の時代に
    保科正之が出てくるけど
    彼の養父の正光は
    正之の祖父の家康への
    恩義があったからこそ
    正之への養育も熱が入ったのでしょうし

  • @くいち-r8j
    @くいち-r8j 3 года назад +1

    初見です
    寛成親王(ゆたなりしんのう)って読むの初めて知りましたずっとかんせい親王って読んでました🙏

  • @kumosukeponsuke
    @kumosukeponsuke 3 года назад +14

    この細かい流れで、足利満詮が語られることに期待!

  • @bigshot088
    @bigshot088 3 года назад +11

    少弐の助けが必要。呼んできてくれ→→殺す
    ↑ちょっと何やってるのかわからない

  • @sugisinfkk
    @sugisinfkk 2 года назад +4

    足利義詮と細川頼之はほとんど年齢が変わらない

  • @junco1696
    @junco1696 3 месяца назад +1

    「花木春過ぎて」の人ですね。

  • @星花火6
    @星花火6 3 года назад +6

    義満は頼之に対しての恩から細川氏重用したのに対して、世継ぎの義持は産みの母を認知しなかった事や自分より弟を義満が贔屓にしていた事もあって義満からすれば目の敵(頼之を失脚に追い込んだ中心人物で義満自身もまだ力不足でかばい切れなかった)斯波氏を重用したという対比

  • @横浜グリーンライン
    @横浜グリーンライン 3 года назад +12

    細川頼之は1392年に66歳で亡くなります。
    その直後に義満は、祖父尊氏、父義詮も果たしえなかった南北朝の合一を果たします。

  • @hanahana5740
    @hanahana5740 8 месяцев назад

    分かります😅

  • @ああ-d6d1y
    @ああ-d6d1y 3 года назад +10

    この細川家って細川元総理とかの家系と繋がってますか?

    • @コーティー
      @コーティー 3 года назад +16

      細川頼之の弟の頼有の子孫が細川藤孝や細川護煕元首相に繋がっていきます。
      しかも細川氏も清和天皇の血を引く清和源氏の家系です。
      細川護煕元首相は清和天皇から男系の血筋を引いているため、陽性皇族とも言えます。
      また藤原良房の唯一の娘の子供が清和天皇のため、足利将軍家や細川家こそ藤原良房の子孫とも言えるようですね。
      近衛忠てる(細川護煕元首相の弟)は藤原良房と藤原基経の両方の血を引く皇族摂家とも言えます。
      ただし後陽成天皇ではなく、清和天皇ですけど…

    • @ああ-d6d1y
      @ああ-d6d1y 3 года назад +1

      @@コーティー 返信ありがとうございます!

  • @toshi0059
    @toshi0059 11 месяцев назад

    太平記のラストからー

  • @山田太郎-m8j2r
    @山田太郎-m8j2r 3 года назад +5

    裏切って戻るの多すぎ問題。

  • @pjffn908
    @pjffn908 2 года назад +2

    南朝側としては最悪のタイミングでの大黒柱菊池武光の死。どのみち負けていたとは思うが。

  • @mhp4g
    @mhp4g 3 года назад +5

    あれっ、(高師直ら)ナンバー2は執事だったのに、なんでいきなり管領に名前が変わったの?とか
    斯波氏は実は本家と同格の足利氏で、執事を蹴ったとか
    三管領(足利)と四職の違いもそこ
    その辺りを解説いれたらわかりやすい…というか教科書は説明不足すぎ

    • @manekineko0912
      @manekineko0912 3 года назад +1

      細かいところまであれこれ詰め込むと時間が足りなくなるからじゃないでしょうか。
      週数時間の1年程度で日本史を通しで学ばせようというのがそもそも無茶な気もします。

  • @takar9316
    @takar9316 3 года назад

    今川は何で少弐を殺したの?