Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
東京から静岡市へ転居して、30年以上が過ぎて、すっかり静岡市が故郷という思いになりました。この動画にたどり着き、昭和の世代の自分には、感慨深い風景の数々を楽しませていただいております。チャンネル登録もさせていただきました。これからも、他の風景も楽しませていただけたらと思っております。拝見させていただきまして、ありがとうございました。
コメントありがとうございます😊遊里関係が主体ですが宜しくお願いします。
@@shouwanafuukei いろいろな場所にお出かけされ、お時間も経費もたくさん使われていらっしゃると思うんですが、クオリティの高い配信を、されていらっしゃって、本当に素晴らしいな、と思います。自分が、行けないところの映像を拝見させていただくことが出来て、自分が旅行に行った気持ちにも成れて、ありがたく思います。これからも、頑張って下さいね。
4日前、東京から静岡へ移住しました(3か月足らずですが)。駒形通りにはまだ行っていませんが、確かに静岡はレトロな雰囲気が漂っており、昔懐かしい気分になります。かと言って生活しづらさは全くなく、住みやすい都市という印象ですね。
駅周辺は大都会ですね、チョット驚きました😄
四国や九州にもお寺や神社の敷地内に飲み屋街が形成されてた所がありましたよ 今は廃屋になってますけどそこの経緯としては戦後に土地がなくて困ってる人に「ここで商売でもしなさい」というお坊さんの善意から始まったみたいですよ 一時的のつもりがそのまま居座ったとここもそうかも知れませんね
丸亀の一寸島神社がそうでしたね、やはりそういった事情からなのでしょうか。コメント頂きありがとうございますm(__)m
静岡駅南に実家があります。二丁町は、有吉佐和子の香華を読んで知りました。大変興味深かったです。
戦災がなければ違った光景が残っていたと思うと残念です。コメントありがとうございます😊
駒形神社の東に「ロマンス街」という歓楽街?というか横丁がありました。私が幼少の頃は、それは賑やかでしたよ。また、その並びにはなんと駒形劇場という映画館もあったんです。
ロマンス街なる歓楽街が存在していたことは承知していました、見てみたかったです。コメントをありがとうございます☺
今年は大河ドラマ「どうする家康」の影響で観光客も倍増するんでしょうね。
確かにそうですね😆意外に見どころのある街なので沢山の人に来て欲しいですね。
かなりマイナーだと思っていた二丁町が取り上げられるとは!ちゃっきり節の『蛙が鳴くんで雨ずらよ(蛙が鳴くので雨でしょうね)』のフレーズは、二丁町の芸妓がつぶやいた言葉だという逸話があります(作詞は北原白秋。依頼主の静岡鉄道の金で豪遊していたw)。戦後の二丁町のことだとおもいますが、昭和8年生まれの方が若い頃(昭和27年頃らしい)「駒形通りの奥には革を扱っている人たちが多く住んでいて、『カーボーイ』とか『かわぼうず』とか呼ばれていた。」「革の財布を作って貰ったら、お手頃な価格なのに丁寧な造りでいい品だった。こちらの要望にも親切に対応してくれたと職場の人たちに勧めたら『あんなとこに行っちゃ駄目だよ。』とか言われて不思議に思った。確かにあそこになキレイな店はなかったけど、みんな親切だったのに…。」と思ったそう。今は革関連の店はなく、普通の住宅地です。
興味深いお話をありがとうございます😀
二丁町遊廓跡地界隈や少し離れた所の安倍川河川敷などには在日の人が住んでいてその人達や当時まで存在していた最下層の人達の事を「カーボー」と言っていましたね。動画にはありませんでしたが遊郭跡地の直ぐ近くには「駿府キリシタン教会跡地」の碑や「安倍川義夫」の碑、移設された「由比正雪の墓跡」の碑等が有りますので、是非ご紹介下さい。
@@junjikawaguchi2440 カーボーだったんですか!昭和ヒトケタ生まれのおばあさんも呼び名のことはうろ覚えみたいでした。
静岡市生まれの42歳の者です。僕の母方の実家は、駒形地区にありました。現在は住んでいませんが、今でも時々自転車でこの辺を走っていると、子供の頃駒形の家に泊まりに行った思い出が蘇ります。あの頃は毎年安倍川花火大会を、母の実家のベランダから眺めたりした懐かしい思い出があります。駒形商店街は昔とだいぶ変わりましたが、駒形通り商店街を取り上げてくれて嬉しかったです!余談ですが、途中に写っていた「おおど」というお店は、僕の叔父の友人で母の小学校の後輩です。
駒形通り商店街は昭和の趣を感じました、何かと様相は変わってしまったようですが楽しい徘徊でした😊コメントありがとうございます。
静岡市は元々屋台文化が栄えていました 全盛期は200もの屋台が現在の青葉シンボルロードに立ち並んでいたそうです。只、衛生面の観点や治安の悪化などで静岡では屋台営業が禁止になりその時の名残で屋台を出していたお店などが現在のおでん横丁や動画内でも出ていた別雷神社横の様な集合居酒屋になったそうですよ 静岡市駅北の繁華街大通りを横に少しそれるとそのような小さなお店の集合体が幾つもあります今は大分減ってしまいましたが
おでん文化は静岡が誇れる独特な文化ですね😄今後も継承して行って欲しいですね。貴重なコメントありがとうございます。
二丁町(にちょうまち)は、元々5丁あったものを江戸吉原へ3丁移したため2丁町と呼ばれるようになったとか・・・(家康公が駿府にいた頃の江戸の人口が15万人に対して、駿府は10万人。それだけ需要(?)があったのでしょう。)戦前は現在の駿府城公園内に陸軍があったため、夕方になると二丁町へ向かう多くの兵隊が列をなして駒形通りを歩いていたとか・・・いかずち横丁の名称は、地主が別雷(いかずち)神社だからだと思われます。1940年の静岡大火前は現在の数倍の大きな境内地だったのが、区画整理で大幅に削られ現在の姿になったようです。境内が大幅に狭くなり参拝者も減り、神社側も収入源が必要だったのかもしれません。
興味深いお話をありがとうございます😊静岡は何かとディープなスポットがあって面白い街ですね。
二丁町の稲荷神社は東京の吉原の本家で家康が江戸の治安を直すため、江戸に8丁分持っていき吉原にした。残りが二丁町になった。吉原炎上の映画を撮るたびに、山田いすず、佐久間良子が稲荷神社にお参りにきていた。今の新通りの入り口に大門があり(吉原と同じ)、入り口に松平さんがあり、松平さんに、徳川家の印籠がある。
詳しい解説をありがとうございます😊
コレ、いつ頃の映像ですか?
2023.01の訪問でした。
有村架純さんの映画、ちひろさんのロケ地です❤のこのこお弁当屋さんありました。
知りませんでした!? 情報をありがとうございます😊
東京から静岡市へ転居して、30年以上が過ぎて、すっかり静岡市が故郷という思いになりました。
この動画にたどり着き、昭和の世代の自分には、感慨深い風景の数々を楽しませていただいております。
チャンネル登録もさせていただきました。これからも、他の風景も楽しませていただけたらと思っております。拝見させていただきまして、ありがとうございました。
コメントありがとうございます😊遊里関係が主体ですが宜しくお願いします。
@@shouwanafuukei いろいろな場所にお出かけされ、お時間も経費もたくさん使われていらっしゃると思うんですが、クオリティの高い配信を、されていらっしゃって、本当に素晴らしいな、と思います。自分が、行けないところの映像を拝見させていただくことが出来て、自分が旅行に行った気持ちにも成れて、ありがたく思います。これからも、頑張って下さいね。
4日前、東京から静岡へ移住しました(3か月足らずですが)。
駒形通りにはまだ行っていませんが、
確かに静岡はレトロな雰囲気が漂っており、昔懐かしい気分になります。
かと言って生活しづらさは全くなく、住みやすい都市という印象ですね。
駅周辺は大都会ですね、チョット驚きました😄
四国や九州にもお寺や神社の敷地内に飲み屋街が形成されてた所がありましたよ 今は廃屋になってますけど
そこの経緯としては戦後に土地がなくて困ってる人に「ここで商売でもしなさい」というお坊さんの善意から始まったみたいですよ 一時的のつもりがそのまま居座ったと
ここもそうかも知れませんね
丸亀の一寸島神社がそうでしたね、やはりそういった事情からなのでしょうか。コメント頂きありがとうございますm(__)m
静岡駅南に実家があります。二丁町は、有吉佐和子の香華を読んで知りました。
大変興味深かったです。
戦災がなければ違った光景が残っていたと思うと残念です。コメントありがとうございます😊
駒形神社の東に「ロマンス街」という歓楽街?というか横丁がありました。私が幼少の頃は、それは賑やかでしたよ。
また、その並びにはなんと駒形劇場という映画館もあったんです。
ロマンス街なる歓楽街が存在していたことは承知していました、見てみたかったです。
コメントをありがとうございます☺
今年は大河ドラマ「どうする家康」の影響で観光客も倍増するんでしょうね。
確かにそうですね😆意外に見どころのある街なので沢山の人に来て欲しいですね。
かなりマイナーだと思っていた二丁町が取り上げられるとは!ちゃっきり節の『蛙が鳴くんで雨ずらよ(蛙が鳴くので雨でしょうね)』のフレーズは、二丁町の芸妓がつぶやいた言葉だという逸話があります(作詞は北原白秋。依頼主の静岡鉄道の金で豪遊していたw)。
戦後の二丁町のことだとおもいますが、昭和8年生まれの方が若い頃(昭和27年頃らしい)「駒形通りの奥には革を扱っている人たちが多く住んでいて、『カーボーイ』とか『かわぼうず』とか呼ばれていた。」「革の財布を作って貰ったら、お手頃な価格なのに丁寧な造りでいい品だった。こちらの要望にも親切に対応してくれたと職場の人たちに勧めたら『あんなとこに行っちゃ駄目だよ。』とか言われて不思議に思った。確かにあそこになキレイな店はなかったけど、みんな親切だったのに…。」と思ったそう。今は革関連の店はなく、普通の住宅地です。
興味深いお話をありがとうございます😀
二丁町遊廓跡地界隈や少し離れた所の安倍川河川敷などには在日の人が住んでいてその人達や当時まで存在していた最下層の人達の事を「カーボー」と言っていましたね。動画にはありませんでしたが遊郭跡地の直ぐ近くには「駿府キリシタン教会跡地」の碑や「安倍川義夫」の碑、移設された「由比正雪の墓跡」の碑等が有りますので、是非ご紹介下さい。
@@junjikawaguchi2440 カーボーだったんですか!昭和ヒトケタ生まれのおばあさんも呼び名のことはうろ覚えみたいでした。
静岡市生まれの42歳の者です。
僕の母方の実家は、駒形地区にありました。
現在は住んでいませんが、今でも時々自転車でこの辺を走っていると、子供の頃駒形の家に泊まりに行った思い出が蘇ります。
あの頃は毎年安倍川花火大会を、母の実家のベランダから眺めたりした懐かしい思い出があります。
駒形商店街は昔とだいぶ変わりましたが、駒形通り商店街を取り上げてくれて嬉しかったです!
余談ですが、途中に写っていた「おおど」というお店は、僕の叔父の友人で母の小学校の後輩です。
駒形通り商店街は昭和の趣を感じました、何かと様相は変わってしまったようですが楽しい徘徊でした😊コメントありがとうございます。
静岡市は元々屋台文化が栄えていました 全盛期は200もの屋台が現在の青葉シンボルロードに立ち並んでいたそうです。只、衛生面の観点や治安の悪化などで静岡では屋台営業が禁止になりその時の名残で屋台を出していたお店などが現在のおでん横丁や動画内でも出ていた別雷神社横の様な集合居酒屋になったそうですよ 静岡市駅北の繁華街大通りを横に少しそれるとそのような小さなお店の集合体が幾つもあります
今は大分減ってしまいましたが
おでん文化は静岡が誇れる独特な文化ですね😄今後も継承して行って欲しいですね。貴重なコメントありがとうございます。
二丁町(にちょうまち)は、元々5丁あったものを江戸吉原へ3丁移したため2丁町と呼ばれるようになったとか・・・
(家康公が駿府にいた頃の江戸の人口が15万人に対して、駿府は10万人。それだけ需要(?)があったのでしょう。)
戦前は現在の駿府城公園内に陸軍があったため、夕方になると二丁町へ向かう多くの兵隊が列をなして駒形通りを歩いていたとか・・・
いかずち横丁の名称は、地主が別雷(いかずち)神社だからだと思われます。
1940年の静岡大火前は現在の数倍の大きな境内地だったのが、区画整理で大幅に削られ現在の姿になったようです。境内が大幅に狭くなり参拝者も減り、神社側も収入源が必要だったのかもしれません。
興味深いお話をありがとうございます😊
静岡は何かとディープなスポットがあって面白い街ですね。
二丁町の稲荷神社は東京の吉原の本家で家康が江戸の治安を直すため、江戸に8丁分持っていき吉原にした。残りが二丁町になった。吉原炎上の映画を撮るたびに、山田いすず、佐久間良子が稲荷神社にお参りにきていた。今の新通りの入り口に大門があり(吉原と同じ)、入り口に松平さんがあり、松平さんに、徳川家の印籠がある。
詳しい解説をありがとうございます😊
コレ、いつ頃の映像ですか?
2023.01の訪問でした。
有村架純さんの映画、ちひろさんのロケ地です❤のこのこお弁当屋さんありました。
知りませんでした!? 情報をありがとうございます😊