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元自衛官です、今ではなくなりましたが、平和が続いた自衛隊の90年代〜00年代は、行軍訓練で背のうにバレーボールを詰め込んだり、鉄帽ではなく形が同じプラスチックのヘルメット(通称プラ鉢)を使用したり、猛者は対戦車擲弾筒に模した発泡スチロールを自作して持ち込んだりとやりたい放題でした。江戸時代も似たり寄ったりで先祖の気質が脈々と続いてることにほっこり、、しちゃいけませんね😅
笑っちゃいました、甲冑を着られない武士たちの様子があまりにも現代で。
仙台藩の額兵隊の軍服は、上着が黒と赤のリバーシブルが良き。
江戸時代も最初の頃はまだ戦国時代の気風が残っていたらしく、夜勤の際は詰め所に槍や弓矢などの武器を持ち込むのが普通だったらしいです。やがてその風習は廃れていったのですが、昔を知ってる老侍が「武器も持たずに夜勤だなんて、全く近頃の若いもんは!」と嘆いたとか。幕末のことを知ったら、憤死するかもしれませんね。
幕末の洋式軍服の中から生まれたのが、後にモンペと呼ばれるもののルーツであるズボン袴ですね。スラックスのことをズボンと呼ぶのはこれから来てるそう。
それでも甲冑師という職業があったのだから、制作より修繕がメインだったにせよそれなりの需要があったということだろう。戊辰戦争で甲冑が役に立たない現実を目の当たりにしたとき、武士たちは幕府と言う時代の終わりを痛感したのだろうか。
甲冑自体が、飾りとしてや、儀式としてならと、保存出来てるならまだ増しで、平和が続けば、当然で、時代的にってのでね。
武士も人間ですねwありがとうございました。
端午の節句に鎧兜を飾る由来に、なるほどと思いました。言葉や風習の由来がわかるのも、江戸時代天国の楽しみのひとつです。幕末の軍服になると、真っ先に思い浮かぶのが土方歳三さんの写真です。
土方歳三さんは、本当にイケメンですね~。
フロックコートを陣羽織のように前開きで羽織り、首回りがブカブカになるのを白の襟巻きでお洒落に誤魔化し、サスペンダーを嫌い真田紐をベルトのように使ってたとか。土方は最後まで洒落者を貫いたんですね。
この和洋折衷の軍装は、日本独自の軍服という感じがして、結構そそられます。
黒船対策の沿岸警備に従事して100石取りクラスの武士が、土地の豪農から甲冑を借りた際の借用書が残っているそうです。「当人が戦死して回収不可能になった場合たは、子孫が必ず弁償する」という但し書きが付いていました。
めざしや白米しか食べてない江戸の旗本と、サツマイモや豚肉を食べてた薩摩藩士だと体格差もかなりあったと思う。
江戸幕府基準だと旗本は大名相当の直臣、家老や一門以外の藩士は幕府足軽より身分が低い陪臣という身分差ですし(だから幕府直轄地が藩預かり地になると領民が格落ちを嫌って反対運動を起こす場合がある)
それを思えば生涯一度も使う機会が無いかも知れぬ銃器の練習する警官や軍人のモチベーションを保ち続けるのも大変ですね。
江戸中期以降は、身分は「武士」と称する「役人」に過ぎなかったからねぇ...江戸期の日本が平和呆けに浸っている最中、毎年何らかの紛争や戦争が頻発に起こったヨーロッパでは銃火器が異常に発達したので、比較的早い時期(ドイツ三十年戦争以降)から甲冑は徐々に廃れたが、それでも接近戦を強いられる騎兵は革製ヘルメットや胸甲は何と20世紀始めまで残ったのは驚き。幕末の戦争では火縄銃とは比較にならないほど高性能・高威力の西洋銃が多く流入したため、甲冑着用時に被弾すると無着用に比べて─鎧を容易に貫通した弾が体内に残るので─身体へのダメージが大きく、手当を施そうにも甲冑が邪魔で素早い治療が施せないというマイナス面もあって、否応なく軍服の西洋化が進んだようです。
敵国から飛んできたミサイル、撃ち落としていいんですか?なんて国会議員が発言するんだから今も似たようなもん。
今も昔も、平和ボケって怖いですね
中学校で習ったときには「武具馬具屋、黒船様とそっと言い」なんて習ったからみんな甲冑の付け方は知っているものだと思っていました。あと擐甲図歌の絵ですが、国立公文書館の売店で売っていたクリアファイルの絵柄になってます😀
私なら具足を飾る機会に「一丁着てみたい」と思うでしょうけど、そう言う武士って居なかったのかな?
平和ボケというより、「米安諸式高」で役職持ちの馬廻級じゃないと甲冑や馬の維持すらままならない経済状態の方がデカイ……「馬を買わずに遊女買う」と馬鹿にされた改革派家老(出世組)とかはいたけど
つまり、我々が想像する武術を戦術レベルで駆使して有用だったのはかれこれ400年以上前の戦国時代までで、以後は武芸というのは文字通り芸術のようなもので実戦とはやや離れたものになってしまったと言えます。(個人技としてはそれなりに有効ではあったとは思いますが)
兜だけなら鍬形などの装飾を外せば、フリッツヘルメットののような理に適った形状なので使えたと思います。
それでも長州討つために遠征したりはできてるんだよね
まさに皮肉で諸行無常。西洋の騎士も鎧の価値が失われ、騎士道精神という倫理観も廃れてしまってますからね。そして武士は重火器だけでなく、経済センスでも悩み苦しんで、信長みたいにいろいろうまくいってるのは非常にレアなケースでしたか。(汗)ありがとうございました!
桜田門事件の際の井伊家の警護の侍のお粗末さを見れば良く分かります。又新撰組の様な屈強な百姓上がりの侍の活躍も分かります。
自衛隊は違憲だ
そうだ、日本軍だ。
そうだ、巨人軍だ
今ここで関係ないよね。
元自衛官です、今ではなくなりましたが、平和が続いた自衛隊の90年代〜00年代は、行軍訓練で背のうにバレーボールを詰め込んだり、鉄帽ではなく形が同じプラスチックのヘルメット(通称プラ鉢)を使用したり、猛者は対戦車擲弾筒に模した発泡スチロールを自作して持ち込んだりとやりたい放題でした。
江戸時代も似たり寄ったりで先祖の気質が脈々と続いてることにほっこり、、しちゃいけませんね😅
笑っちゃいました、甲冑を着られない武士たちの様子があまりにも現代で。
仙台藩の額兵隊の軍服は、上着が黒と赤のリバーシブルが良き。
江戸時代も最初の頃はまだ戦国時代の気風が残っていたらしく、夜勤の際は詰め所に槍や弓矢などの武器を持ち込むのが普通だったらしいです。やがてその風習は廃れていったのですが、昔を知ってる老侍が「武器も持たずに夜勤だなんて、全く近頃の若いもんは!」と嘆いたとか。幕末のことを知ったら、憤死するかもしれませんね。
幕末の洋式軍服の中から生まれたのが、後にモンペと呼ばれるもののルーツであるズボン袴ですね。スラックスのことをズボンと呼ぶのはこれから来てるそう。
それでも甲冑師という職業があったのだから、制作より修繕がメインだったにせよそれなりの需要があったということだろう。戊辰戦争で甲冑が役に立たない現実を目の当たりにしたとき、武士たちは幕府と言う時代の終わりを痛感したのだろうか。
甲冑自体が、飾りとしてや、儀式としてならと、保存出来てるならまだ増しで、平和が続けば、当然で、時代的にってのでね。
武士も人間ですねw
ありがとうございました。
端午の節句に鎧兜を飾る由来に、なるほどと思いました。
言葉や風習の由来がわかるのも、江戸時代天国の楽しみのひとつです。
幕末の軍服になると、真っ先に思い浮かぶのが土方歳三さんの写真です。
土方歳三さんは、本当にイケメンですね~。
フロックコートを陣羽織のように前開きで羽織り、首回りがブカブカになるのを白の襟巻きでお洒落に誤魔化し、サスペンダーを嫌い真田紐をベルトのように使ってたとか。土方は最後まで洒落者を貫いたんですね。
この和洋折衷の軍装は、日本独自の軍服という感じがして、結構そそられます。
黒船対策の沿岸警備に従事して100石取りクラスの武士が、土地の豪農から甲冑を借りた際の借用書が残っているそうです。「当人が戦死して回収不可能になった場合たは、子孫が必ず弁償する」という但し書きが付いていました。
めざしや白米しか食べてない江戸の旗本と、サツマイモや豚肉を食べてた薩摩藩士だと体格差もかなりあったと思う。
江戸幕府基準だと旗本は大名相当の直臣、家老や一門以外の藩士は幕府足軽より身分が低い陪臣という身分差ですし
(だから幕府直轄地が藩預かり地になると領民が格落ちを嫌って反対運動を起こす場合がある)
それを思えば生涯一度も使う機会が無いかも知れぬ銃器の練習する警官や軍人のモチベーションを保ち続けるのも大変ですね。
江戸中期以降は、身分は「武士」と称する「役人」に過ぎなかったからねぇ...
江戸期の日本が平和呆けに浸っている最中、毎年何らかの紛争や戦争が頻発に起こったヨーロッパでは銃火器が異常に発達したので、比較的早い時期(ドイツ三十年戦争以降)から甲冑は徐々に廃れたが、それでも接近戦を強いられる騎兵は革製ヘルメットや胸甲は何と20世紀始めまで残ったのは驚き。
幕末の戦争では火縄銃とは比較にならないほど高性能・高威力の西洋銃が多く流入したため、甲冑着用時に被弾すると無着用に比べて─鎧を容易に貫通した弾が体内に残るので─身体へのダメージが大きく、手当を施そうにも甲冑が邪魔で素早い治療が施せないというマイナス面もあって、否応なく軍服の西洋化が進んだようです。
敵国から飛んできたミサイル、撃ち落としていいんですか?なんて国会議員が発言するんだから今も似たようなもん。
今も昔も、平和ボケって怖いですね
中学校で習ったときには「武具馬具屋、黒船様とそっと言い」なんて習ったからみんな甲冑の付け方は知っているものだと思っていました。あと擐甲図歌の絵ですが、国立公文書館の売店で売っていたクリアファイルの絵柄になってます😀
私なら具足を飾る機会に「一丁着てみたい」と思うでしょうけど、そう言う武士って居なかったのかな?
平和ボケというより、「米安諸式高」で役職持ちの馬廻級じゃないと甲冑や馬の維持すらままならない経済状態の方がデカイ……「馬を買わずに遊女買う」と馬鹿にされた改革派家老(出世組)とかはいたけど
つまり、我々が想像する武術を戦術レベルで駆使して有用だったのはかれこれ400年以上前の戦国時代までで、以後は武芸というのは文字通り芸術のようなもので実戦とはやや離れたものになってしまったと言えます。(個人技としてはそれなりに有効ではあったとは思いますが)
兜だけなら鍬形などの装飾を外せば、フリッツヘルメットののような理に適った形状なので使えたと思います。
それでも長州討つために遠征したりはできてるんだよね
まさに皮肉で諸行無常。西洋の騎士も鎧の価値が失われ、騎士道精神という倫理観も廃れてしまってますからね。そして武士は重火器だけでなく、経済センスでも悩み苦しんで、信長みたいにいろいろうまくいってるのは非常にレアなケースでしたか。(汗)ありがとうございました!
桜田門事件の際の井伊家の警護の侍のお粗末さを見れば良く分かります。
又新撰組の様な屈強な百姓上がりの侍の活躍も分かります。
自衛隊は違憲だ
そうだ、日本軍だ。
そうだ、巨人軍だ
今ここで関係ないよね。