Antonio Vivaldi L’Estate(夏)Ashizuka kammer Orchestra 指揮 芦塚陽二

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  • Опубликовано: 7 сен 2024
  • index Ⅰ楽章 03:24 Ⅱ楽章 12:32 Ⅲ楽章 19:36
    2024年7月28日の芦塚音楽研究所千葉教室のお楽しみ会でのSalon Koncertでの演奏です。
    お楽しみ会の日にちが決まってから、突然、曲が決まるので、何時も、練習の回数が殆ど無い状態での演奏なのですが、それに加えて、牧野先生の事故で左手が全く使えないので、CelloやKontrabassの助っ人は無理なのに加えて、私の入院手術が、お楽しみ会の練習と重なってしまい、本番の前の2回の練習には私は参加する事が出来ませんでした。これは、大きかったよな??
    今回は、年少、年中生の人形劇のstoryの中で、VivaldiのL’Estate(夏)のⅢ楽章の抜粋を、瑞希ちゃんが演奏する事になったので、その次いでに、3回オケのgroupの発表会で、「夏」の全楽章を演奏する事に、(突然❢❢)なりました。
    でも、私は、今回は病後の安静中なので、人形劇の指揮には参加しません。
    ・・という事なので、瑞希ちゃんは、初めての(指揮者無しの・・)orchestraとの「弾き振り」になります。(「弾き振り」=「指揮振り」とは、演奏しながら、オケの指揮もする・・という楽屋内用語)です。
    『VivaldiのL’Estate(夏)の独特のinterpretationについての釈明』
    今回の人形劇の中で演奏をしたVivaldiのL’Estate(夏)のⅢ楽章と、同じVivaldiのL’Estateの全楽章の演奏なのですが、3回オケのコンサートでは、私が指揮をするのですが、VivaldiのLe Quattro Stagioni(四季)全体が、教室の常設曲なので、教室設立当時から、多くの生徒達が演奏をして来ています。
    常設曲は、生徒達に取っては、常に新しいchallengeなのですが、指導する先生達や、interpretationをする私に取っては、mannerismに陥り易いので、常に新しいinterpretationを求めて日々精進しています。
    ・・と言う事で、このL’Estateも、以前は、一般的なinterpretationで、一般的な演奏をしていました。
    参考までに:通常のinterpretationに拠る演奏です。
    ( • Vivaldi Le Quattro Sta... )
    VivaldiのLe Quattro Stagioni(四季)も教室の常設曲なので、多くの生徒達が演奏をして来たので、少し、指導がmanneri化して来たので、4回程前の演奏会からは、私の独自のinterpretationを入れて、指揮をしているのですが、上手く行かないので、今回は、5回目のChallengeになります。
    私の独自のinterpretationの意味なのですが、VivaldiのOp.8の、Le Quattro Stagioni(四季)は、本来は、詩の朗読と音楽が一体となって演奏しなければならないのですが、以前の公開演奏会では、楽譜通りに、score上の音符の上に書かれているSo-netの詩を、演奏に合わせて、朗読して貰ったのですが、「音楽が聴こえない」と言う事で、頗る評判が悪かったので、その後の演奏では、朗読を音楽の上に重ねるのは、やめる事にしました。
    次の企画としては、「詩を朗読をして、その部分の音楽を演奏する」・・と言う、詩と音楽が、交互に出て来る、虫食い状態の演奏を試みようと思ったのですが、それには朗読する人が、音楽と協演しなければならない・・と言う事なので、それは、朗読をする人がscoreを読める人でなければ、ならず、朗読のproとしても難しい要求なので、教室でChallengeする事は無理・・という事で、そこまでの演奏は、諦めています。
    勿論、私が指揮をしながら、朗読をする事は可能なのですが、私にはproとしての朗読の技術は持ち合わせていないので、逆に稚拙な事になり兼ねないので、それは諦める事にします。残念ですが、それでなくとも、私は訥弁なので・・ね??
    生存中に、理想とするinterpretationに、challengeする事は、諦めました。
    人間、諦めが肝心なのですからね??
    生を諦め、死を諦らむるは、武家の一大事の因縁なり
    (=正しくは、生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり❢❢)
    物心がつく前から、祖母の実家で毎朝聞かされて、諳んじる事の出来る唯一のお経です。
    佐賀藩の葉隠ではないけれど、マジに高校生の頃迄は、そういう意味だと思っていたのですよ。
    武家の心構え・・としてのお経だ、と・・
    『新しいinterpretationに至った理由』
    Le Quattro Stagioni(四季)は、scoreの音符の上に、So-net(ソネット=14行詩)の一節が書かれているのですが、殆どの演奏では、その詩を無視して、音符に書かれた強弱を忠実に演奏しています。
    しかし、音符に書かれたDynamicは、出版社が書き加えた物なのですから、それは無視しても良いのです。
    詩を朗読する人が居て、その詩の合間に音楽がbackgroundとして入って来るという意味の、無拍子に拠る、演奏です。現代では、映画やアニメ等で普通に使われている手法なのですが、映画等が一般的になった時代迄は、あり得なかった手法です。
    無拍子の所は、舞台で演技している羊飼いの男の子を想像してください。
    今年の夏は、coolerが利かないぐらいの、猛暑、酷暑なのですが、この四季に書かれている夏の光景は、正に、その酷暑に喘いでいる哀れな少年のお話なのですよ。
    虻や蚊に安らぎの安眠を妨げられたり、いつ襲って来るか・・という、遠くから聴こえて来る雷の音に怯えながら、広い山の草原の中で羊達の番をしているのです。
    実は私もEuropaに居た頃、山の上を登山中に、 Gewitter(激しい雷雨)に遭遇して、Büsche(低い木)の下に避難をして、激しく打ち付ける雨や雷を凌いだ経験があります。激しい雨や雷を避けるスベは無いのですよ。当然、びしょ濡れになってしまいました。Gewitterが去った後は、急激に温度が下がります。Münchenの街の家々では、Stoveに火を入れる程なのですよ。それくらいに寒くなります。
    正に、このVivaldiの嵐の光景なのですよ。
    また、出版されているこのL’Estateの権威ある楽譜のCembaloのpartは、和声学的に間違いが多いので、それも、次いでに訂正をして起きました。
    幾ら、権威がある・・と言っても、200年前ぐらいの、校訂なのですから、古色蒼然としていて、間違いだらけだとしても、まあ、致し方はありません。今では、色々な箇所が訂正された版が出版されているので、そちらの版を使用する事も考えているのですが、part譜のfacsimile版と照らし合わせても、facsimile版が間違えている箇所もあったりして、悩んでしまうのですよ。また、Ashizuka版を作るのかな??・・とか???
    私の個人的な理由で、本番直前の練習が無いままの・・(2週間も顔を合わせないままの・・)、ぶっつけ本番の演奏なのですが、上級生達のmemberでも、なかなか合わせる事が難しいのに、まあ、よく、指揮に付いて来た方ではないのかな?・・ないの??・・かな???
    それだけでも、「ヨシ❢❢」としましょう??
    蛇足ですが、特にⅡ楽章のような静かな所ではnoiseが大きくて、気になりますが、会場では殆ど気にならないエアコンの音がマイクで増幅されてしまいます。
    録音録画の時には、エアコンを消さないといけないのですが、今年は、エアコンを消すと、死ぬからね??
    集団熱中症というのは、洒落にならないので、noiseを諦めて貰います。アハッ!

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