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井筒屋その他デパートの思い出コメントください(誹謗中傷は即削除します)
これは実に勉強になりました。ありがとうございました。歴史だなあ
私は昭和36年 小倉生まれで20才まで小倉ですごしました、井筒屋が町のシンボルで町と言えば井筒屋でした、屋上には何百回言った事か、井筒屋饅頭 量り売りお菓子 本当に懐かしい。私が一年生くらいの時 隣に記念病院があり、父が入院しており 子供一人で汚い格好をして見舞いに行ったら 急遽 母が井筒屋で服を買って着せてくれました。懐かしい。小倉を出て43年も経ってしまい 現在は名古屋で遠い井筒屋を想います。
子供の頃、まだエレベーターガールがいた時にその優雅な立ち居振る舞いとおしゃれな制服にデパートの品格を感じたのを覚えています。その後、井筒屋新館が出来たばかりの頃に、まだ周辺では珍しい若者向けブランドを見て、値段にさんざん迷って買った服がちょうど最近片付けで出てきて懐かしく思っていた自分にタイムリーな動画でした。たとえ同じ物をネットなどで買える時代でも、百貨店で買った物にはなんだか特別感をまだ感じてしまいます。
井筒屋は今でも超有能。名古屋といった大都市百貨店にすら入っていないブランドさえ維持しているし、小倉全体が厳しい中でも頑張ってくれている。是非今後も、頑張って頂きたい。
小さな頃、夏休みに当時桃園にあった祖父母の家に遊びに行ったおりに、必ずと言っていいほど、一度は黒崎の井筒屋に行った思い出が有ります。地下の食品売り場の回転まんじゅう(多分、井筒屋まんじゅうだと思いますが…)、お好み焼きやたこ焼き、どこにでも売っているものが本当にご馳走と思えた、あの楽しい思い出。そしてその後祖父母も小倉に移って、次は魚町にある井筒屋本店にもお世話になりました。北九州生まれ横浜育ちの自分にとっても、いまだに小倉の井筒屋は心のオアシスでもあります。小倉は本当に良いとこっちゃ‼️😊
桃園には叔母が居て夏休みには鹿児島から遊びに行ってました。懐かしく思い出されました。井筒屋に義叔父に連れて行ってもらい賑やかさにビックリしました。
素敵な動画をありがとうございます。まとめのナレーションのとおりです。子供の頃の楽しかった思い出が蘇り涙がでそうになりました。小倉っ子には、なくてはならない特別な存在です。
昔の井筒屋は屋上遊園地があってそこで楽しんでレストランでお子さまランチを食べておもちゃ売り場で超合金を買ってもらえてルンルンで帰ってたのを思い出します。昭和の井筒屋が特に好きでしたね。
井筒屋に限らず屋上遊園地は必ずありましたね
妻と出会ったのは昭和47年12月、当時大手町にあった配送センターでアルバイトをしていた時です。私は、熊本から出ていった大学3年でしたが妻と井筒屋を中心にデートしアルバイトをし、妻と地下で焼いたソーセージを買って勝山公園で食べたものです。懐かしい思い出ですが熊本の銀丁百貨店が関係しているとは知りませんでした。懐かしいです。今、私72歳と妻70歳の夫婦です。
妻は2月21日に亡くなりました。悲しいコメントをごめんなさい。井筒屋には彼女の写真を持って行きたいと思っています。
福岡市内在住ですが、息子が小倉に就職して結婚して家族が居ます😊月に1回くらいのペースで小倉に行きますので、小倉井筒屋は大好きなデパートです❤動画を拝見して、井筒屋に行く時に今まで以上の思いを感じ行こうと思ってます🤗
子供の頃は『町に行く』といえば、井筒屋→魚町銀天街→旦過市場が定番で、親のウインドウショッピングに付き合った後は8F(当時)の玩具売り場に連れて行ってもらうのが楽しみでした✨
そのとうりです(笑)
懐かしい…小倉はそごう、伊勢丹もありましたねぇ。井筒屋は博多にも以前は駅構内にあったかと。飯塚もありました、高校の頃いきましたねー。あと博多には玉屋もありましたねえ。大丸や岩田屋はまだありますが(寿屋もありましたね…)黒崎も、そごう、そして井筒屋と百貨店がありましたねえ。あと、井筒屋ブックセンターもよく行きました。小倉の商店街には、父方の遠縁の書店があったりもうなくなりましたが「くし木」という和菓子屋さんもありました。時代とはいえ、百貨店そのものが昔のようにおめかしして家族ででかける場とは言い難くなりネットでなんでも買えるようになりましたがやっぱり百貨店の空気、百貨店ならではの安心感みたいなものはあると思っています。
ありがとうございます。井筒屋へは路面電車でよそいきの格好で日曜日午後におでかけ。今、64才。幼稚園の頃、楽しかった
よそいきに着替える時から、ドキドキしていました^^
子供の頃におもちゃ売り場と屋上ミニ遊園地?で遊んでた記憶があります。その頃はまだ井筒屋前に路面電車も走ってましたね。既にモノレールはあったので志井方面へは繋がっていませんでしたけれど…今でも実家に帰ると正月のおせちなどは井筒屋で購入します。やはり小倉には井筒屋はいつまでもあって欲しいですね。
その昔、小倉井筒屋に勤めていました。制服はブラウスに紺色のミニのジャンバースカートでした。夏休みに帰省した早稲田の学生アルバイトだった夫と縁があり結婚、半世紀が過ぎました。上司も優しく働きやすい職場でした。いまでも当時の店内で撮った写真の数々を見ると、人生で一番輝いている青春時代だったと思います。
井筒屋ガールですね、店員さんも優しかったですね、思い出の写真で動画を作りたいですね😊
玄関入ると噴水があり、待ち合わせしたな。エレベーターガールがいて・・昭和50年代
北九州の百貨店と言えば井筒屋とそごうでしたよね。そごうはもう撤退してしまいましたけど、井筒屋だけはテナント形式が多くなったとはいえ、福岡の地方都市にも出店しており、まだまだ頑張ってもらいたいところです。イオンにも出店していますが、やはり他の店舗とは若干違う雰囲気を醸し出しており(良い意味です)、やはり百貨店なんだなという認識があります。
思い出深い井筒屋実家のある若松にもあってお子様ランチを食べた記憶がよみがえります。祖父母の家があった小倉でも、盆と正月は、みんなで魚町と井筒屋に行くのが楽しみでした。
丸柏のあとですね。
北予備生時代、井筒屋ブックセンターには本当にお世話になりました。
私は大牟田井筒屋ですね。当時の大牟田は大都会でした。新栄町駅の西鉄名店街でランチをして井筒屋地下の回る量り売りのお菓子を買って貰い、噴水がある泉の前でクロレラジュースを飲んでました。屋上のペット売り場とプレイランド。大牟田井筒屋懐かしいです。
バブル景気の頃まで新栄町は賑わっていましたよね
もっかい石炭掘らんね、 無人掘削機ドローンみたいな人身事故無し炭鉱できると思うよ。
40年ほど前、井筒屋の地下にあった食堂のチャンポンがおいしくて3〜4歳のとき一人前を食べていたと母から聞きました。大学生くらいのとき行ったらもうなかったような…。また食べてみたいです。
玉屋もありましたね
今LEXUSなった😢
80年代なかばに高校卒業してから井筒屋に勤めてました誕生日ケーキは焼きフルーツケーキからモロゾフのケーキに変わってその後経営悪化でなくなりましたね新入社員の頃はレジー操作のミスの度に先輩から頭をそろばんで叩かれてましたw懐かしい
そろばんでコツンですか、痛かったでしょうが、今思えば懐かしいですね😊
透明なピアノがあったような記憶があります。
45年前はレストランがありよかつた東映会館もあつた路面電車もあつたし活気があつた
地下食品売場で販売していた、アルミホイルで包まれて売られてた焼そば、焼うどんが食べたい!
門司から小倉に移ったのが小学3年時、たしか北九州市役所のビルが建った年です。中学から熊本の学校に行きましたが高3まで自家は小倉。子供の頃は井筒屋に行くというと屋上の遊園地で遊び、8階の大食堂か横の中華料理屋で食事するのが愉しみでした。熊本から帰ってきたら井筒屋前の魚町バス停から28番に乗って実家のある黒原まで帰ったものですが、あの頃の紫川は汚くて臭かったなぁ・・・バス待ちも苦労でした。死んだ魚も浮いてたほんとのドブ川。でもそれが懐かしい昭和の思い出・・・もう還暦を迎えましたが、小倉は私の中で一番懐かしく大好きな故郷です。子供の頃から馴染んだ井筒屋のレンガビルはいつまでも変わらないですね、詳しい解説ありがとうございました。遠く信州の地から想い出しています。
信州からコメントありがとうございます。
この動画の最後尾の人間模様を語った部分では、素直に涙が滲んできました。スキーブームの頃にはスキー場が、そして今ではディズニーランドあたりが、かつての井筒屋の役割を担っているようです。親子三代井筒屋に務めたという方もおられました。(祖母=エレベーターガール、母=エレベーターガール、子=一般社員。)ゴンちゃん様の語り口調は、意外に(失礼!)上手いですね。何度か動画を拝見してきて、そう思うようになりました。
ごんちゃん、ありがとうございます。私にもたくさんの井筒屋の思い出があります。黒崎に井筒屋ができるち、本当や、と言って家族で話したことや、博多に井筒屋が出来っちゃ、と言って語り合ったのを懐かしく思い出します。
初めてコメントします。私が以前勤務していた会社は井筒屋の食品売り場のテナントで、小倉井筒屋、黒崎井筒屋、宇部井筒屋、久留米井筒屋、あちこち行きました。妻とは博多井筒屋で、出逢い今日に至ります。井筒屋の開店音楽が今でも耳に残ります♪
大変見ごたえがありました。まさに企業に歴史ありですね。小学校の修学旅行が北九州方面で最終日に井筒屋に寄ったのが最初です。初めて見る百貨店の偉容と屋上遊園地などに圧倒されたのを覚えています。時は過ぎ学生時代、バイト代が入ったら贅沢しようと井筒屋の食料品売場でお高い肉を買い先輩と食べたステーキが人生で一番旨い肉だったと今でも思います。またボルシチを作ろうとして食材を探しに行ったのも井筒屋でした。百貨店経営には厳しい時代となってしまいましたがそごうも玉屋も小倉から消えてしまった現在、井筒屋さんには頑張って欲しいです。
お金のありがたみ、食べる喜び、明日も頑張ろうと元気づけてくれた井筒屋ですね
門司には山城屋 戸畑には岩田屋 八幡には丸物百貨店(旧八幡東区中央区商店街レインボープラザ界隈)若松には丸柏百貨店 小倉に井筒屋と玉屋(現リバーウォーク小倉城大門前)
小倉城前にダイエーできた時は大騒動 小倉の銭ゲバ商人が薬局たぶらかして隣接距離が近いとか法律闘争やらせてたわ。 今は火事でしか生き残れん小倉銭ゲバ商人な。 モノレールも小倉駅に繋がせんで醜い商人の街小倉よ。
中津市にも西暦2000年を少しばかり過ぎた頃までには、中津駅に併設するような構造で店舗が御座いましたね。
博多駅に井筒屋がまだあった時に折り畳み傘を買いに行ってちゃんと一度傘を広げて折れてたりしてないか確かめてましたね
40年前に改装があり、駐車場が大手町。買い物後の紫川の海方向の景色良かった。市役所駐車場は週末無料、よくつかった。食べ放題中華料理店があった。店員みなプロ、信頼していた。北方行き電車、乗らないけど見ていた。
小倉市宝町→現:北九州市 小倉北区 船場町。私が小さいころは、正面玄関案内窓口前にカラー照明の入った噴水がありました。覚えてる人いますか?
おぼえてます!その噴水によく手を入れて親に怒られてました(笑)玉屋にもよく行ってました。当時はデパートに行くといえば、よそゆきの服を着てました…。懐かしいなあ…
自分の小さい頃は遊びに行ける程近い場所に家がありました。家族の記念写真は井筒屋の中にあった写真館で撮りました。幼稚園の頃おもちゃを触っていたらエレベーターガールのお姉さんが少しの時間遊んでくれました。とても嬉しくてまた同じ場所にいたらそのお姉さんがいたのでまた遊んでくれると思いずーっと待ってましたが、エレベーターの仕事に専念されていて残念な気持ちでトボトボと帰りました。そんな思い出がありました。
九州初のデパートといえば、門司港の山城屋小倉のデパートと言えば、山城屋より玉屋の方が上だったような
山城屋は北九州初で、九州初は鹿児島の山形屋ですね。
寿屋とかもなつかしかなぁ
若松にずっといたから若松井筒屋は凄い思いである!!レストランでお子様ランチ食べながらレストランから見える若松の街見てた!!その後、屋上ゲームセンターに連れてって貰い、汽車の走るヤツを乗せて貰ってすげー嬉しかった記憶がある、、、懐かしい✨楽しみ建物はなくなったが、この記憶は永遠に無くならん😢
高校の制服が小倉井筒屋扱いだったなぁ。
私立女子高の商業科の職業実習でアルバイトしました。レストランと、婦人服ブラウス売場で修行させて頂きました☺優しい先輩方に恵まれた学生時代を思い出します🍀
私は高校を卒業して初めての就職が井筒屋でした。仕事は、めちゃきつかったけど、良い思い出です。
小倉生まれで20歳まで住み、現在62歳、愛知県在住の者です。大変興味深く見せて頂きました。その通り、小倉には井筒屋はなくてはならないものです!でもその歴史について知る事はなかったのでとても感謝しております。屋上の遊園地の乗り物に乗った写真が実家には沢山あります。一瞬映った地下の量り売りのお菓子の写真を見てもう完全に忘れ去られていた物が瞬時に甦りました。私が選ぶのはチョコレートや柔らかめのキャラメルが多かったような記憶があります。20歳になりお酒を飲むようになった時には、♪い~づつ~や~のねーちゃんと~~~(以下書けませんw)という歌を歌っていましたが、あれはどなたが作ったんですかね?
替え歌なつかしいですね^^
県内の田舎町に住んでいます。25年前当時、時々小倉へ出張していましたがそのころ結婚を決意し、都会のオシャレな井筒屋で指輪買うため現金をポケットに入れドヤ顔でティファニーコーナーに行ったのを今でも忘れません(笑) 嫁も大満足でしたの。
現在60歳です。生まれて18歳まで北九州市八幡東区で生活し、大学入学から北九州を離れ、大阪に就職して36年。物心ついたころより、買い物は両親と井筒屋へ行っていたことを思い出します。今は両親が他界しており、両親と買い物に行くことはありませんが、墓参りで帰省した際、お土産を買いに立ち寄ります。思い出としては、高校1年生(昭和55年ごろ?)の時女性友達と小倉魚町付近で昼食することがありました。当時マクドナルドが魚町商店街に出店し始めていましたが、あまり行ったことがなくエスコートできないので、井筒屋の7階?8階?食堂でカレーライスを女性友達と食べた思い出があります。高校は八幡西区でクラブ活動は硬式テニスをしていました。黒崎に近かったのでラケットの購入やガットの張替えは井筒屋黒崎店に行っていました。今年の年末、我が家の家族・兄弟家族が帰省した際、両親が使用していた車を使用できるように車検を受けに帰ります。懐かしいので、井筒屋へ行きたいと思います。
井筒屋さん楽しんでください、屋上から見る小倉市街も随分変わりましたよ~😊
90年代前半4歳くらいの頃、祖母と一緒に井筒屋の時計版の前に居るところをテレビと新聞に掲載された事があります😊
素晴らしい動画でありました。井筒屋OBでさえ知らない社史をありがとうございました。ちなみに誕生ケーキは経営難の煽りを食って真っ先にリストラされてしまいました。案外ドライな店でもありました。
誕生ケーキ廃止になったんですね。電車の中で大きなケーキの箱を持った男女を時々見かけましたが、井筒屋の社員さんだったんでしょうね😊
モロゾフさんのフルーツケーキでしたね。誕生日はぜったいに休みを入れません(笑)夕方に人事に呼ばれて手渡しでした。子どもがいつも喜んで待っていました、昭和の頃です。
最後の辞は詩のやふ
山口にもありますね。
ありますね、元は「ちまきや」でしたね。
不謹慎かもしれませんが学生の頃「小倉競馬場で大穴当てて井筒屋さんで何でも買ってあげる!!」とデートに誘っていました。帰りはいつも井筒屋さんを横目で見ながら旦過丸和さんの前の屋台でビール持ち込んで、赤・白のおにぎり&おでんを食べて帰ってました。懐かしいです。
屋上に行きフランクフルトを買って食べながらゲームをよくしていた思い出があります学校が終わるといつもいつも友達と行って凄く楽しかったなぁあの空気感ほんと好きだった今ではフランクフルトを売っていたお店はメニュー縮小してやきそばと焼きうどんだけしか売ってないですね屋上に何も無いからそうなるのも仕方ないですが、子供の楽しめるコーナーは残しておいて欲しかったですねところで、井筒屋の横の橋の反対側(海側)に80年頃に白い建物があり、川淀(2階)と半地下に洋食の店があったんですが、その洋食の店と建物の名前はわかりませんか?建物の方は、リバーと言う名称が入った建物だった気がするんですが・・・
黒崎そごう出店で八幡井筒屋が、小倉そごう出店で小倉井筒屋が衰退する一因になりましたね。結果的にそごうは自爆して消え去りましたが。。。若松や本城にまで井筒屋を造ったのは大間違いでしたね。小倉井筒屋だけは耐え抜いて欲しいものです。
そう考えると徳力に井筒屋を出店しなかったのはいい判断だった。
黒崎そごうのあとに、井筒屋が入ったのはなぜだろう。お客さんガラガラなの分かっているのに。
付け加えさせてください。① 大正7(1918)年に小倉鳥町三丁目に開店。大分県中津資本で外観は赤煉瓦三階建ての高層洋館建築。小倉の名物デパートであった。呉服が主であったが、下駄を入口で預け、三階まで絨毯の上を歩いて買物ができた。弁当・おしるこをメニューとした食堂も人気だったという。昭和元(1926)年閉店。②文久年間、小倉にて創業。初め米穀店であったが、のち慶応年間に呉服店となるかねやす。建物は大正9(1920)年、木造4階建のデパート式経営を開始。昭和11(1936)年、鉄筋7階建のかねやす百貨店となるも、昭和27(1952)年、附近の出火により消失し、2年後に破産。③昭和6(1931)年の旧門司市栄町筋に開業した平井屋で、後の経営不振から買収になり昭和9(1934)年に屋号の変更となった山城屋。④昭和7(1932)年10月設立。大阪「白木屋」出身の支配人が手掛けた本格派百貨店で、北九州随一の4階建ての近代的な大型百貨店であった九州百貨店。⑤八幡市西本町4丁目にあった八幡玉屋(玉屋デパート分店)⑥門司・栄町にあった「小倉玉屋」の前身「田中丸呉服店」(大正期)や、八幡市西本町4丁目にあった「八幡玉屋(玉屋デパート分店)以下は参考ですが、第二次世界大戦以降では、昭和23(1948)年創業で、石炭財閥系百貨店の丸柏福岡の岩田屋唯一の直営支店で、昭和40(1965)年開業の戸畑岩田屋が存在した。歴史認識として、これらもアナウンスが必要になるのではないでしょうか?
情報ありがとうございます。今回は井筒屋の歴史にフォーカスしていますのでご理解ください。いただいた情報も承知していますので、別な機会にでもと考えております。
いつも楽しく拝見させていただいてます。是非、いつか下関の事も動画にしていただけないでしょうか?小倉、門司、福岡との繋がりも強いですし、ゴンちゃんの語りで是非みたいものです。
下関リクエストありがとうございます、元気なうちに下関まで行ってきます😊
井筒屋と、お国なまりで、新幹線で、耳に、はいった、あ一懐かしい、ふる里に、帰った、嬉しさが、心に😂わいた。
再開発って、単語は時に、かつての時代を必死に生き抜いてその地を拠点にして走り回っていた者には、残酷でしかないような、感覚は覚えてしまいます。
高校生の頃、屋上遊園地でアルバイトしていました。確か別館6Fにあった社員食堂でカレーを食べ、一服してると「あら~♪ ぼくたちいくつぅ~?」とか社員さんに言われてましたね^^;お給料日に帰りに寄り道して魚町で社員のおねーさんとバイト一行で食事したのもいい思い出です。・・・ジュンコさんどぉしてるかなぁ( ´艸`)
井筒屋その他デパートの思い出コメントください(誹謗中傷は即削除します)
これは実に勉強になりました。
ありがとうございました。
歴史だなあ
私は昭和36年 小倉生まれで20才まで小倉ですごしました、井筒屋が町のシンボルで町と言えば井筒屋でした、屋上には何百回言った事か、井筒屋饅頭 量り売りお菓子 本当に懐かしい。私が一年生くらいの時 隣に記念病院があり、父が入院しており 子供一人で汚い格好をして見舞いに行ったら 急遽 母が井筒屋で服を買って着せてくれました。懐かしい。小倉を出て43年も経ってしまい 現在は名古屋で遠い井筒屋を想います。
子供の頃、まだエレベーターガールがいた時にその優雅な立ち居振る舞いとおしゃれな制服にデパートの品格を感じたのを覚えています。
その後、井筒屋新館が出来たばかりの頃に、まだ周辺では珍しい若者向けブランドを見て、値段にさんざん迷って買った服がちょうど最近片付けで出てきて懐かしく思っていた自分にタイムリーな動画でした。
たとえ同じ物をネットなどで買える時代でも、百貨店で買った物にはなんだか特別感をまだ感じてしまいます。
井筒屋は今でも超有能。
名古屋といった大都市百貨店にすら入っていないブランドさえ維持しているし、小倉全体が厳しい中でも頑張ってくれている。
是非今後も、頑張って頂きたい。
小さな頃、夏休みに当時桃園にあった祖父母の家に遊びに行ったおりに、必ずと言っていいほど、一度は黒崎の井筒屋に行った思い出が有ります。地下の食品売り場の回転まんじゅう(多分、井筒屋まんじゅうだと思いますが…)、お好み焼きやたこ焼き、どこにでも売っているものが本当にご馳走と思えた、あの楽しい思い出。
そしてその後祖父母も小倉に移って、次は魚町にある井筒屋本店にもお世話になりました。
北九州生まれ横浜育ちの自分にとっても、いまだに小倉の井筒屋は心のオアシスでもあります。
小倉は本当に良いとこっちゃ‼️😊
桃園には叔母が居て夏休みには鹿児島から遊びに行ってました。懐かしく思い出されました。井筒屋に義叔父に連れて行ってもらい賑やかさにビックリしました。
素敵な動画をありがとうございます。まとめのナレーションのとおりです。子供の頃の楽しかった思い出が蘇り涙がでそうになりました。小倉っ子には、なくてはならない特別な存在です。
昔の井筒屋は屋上遊園地があってそこで楽しんでレストランでお子さまランチを食べておもちゃ売り場で超合金を買ってもらえてルンルンで帰ってたのを思い出します。昭和の井筒屋が特に好きでしたね。
井筒屋に限らず屋上遊園地は必ずありましたね
妻と出会ったのは昭和47年12月、当時大手町にあった配送センターでアルバイトをしていた時です。私は、熊本から出ていった大学3年でしたが妻と井筒屋を中心にデートしアルバイトをし、妻と地下で焼いたソーセージを買って勝山公園で食べたものです。懐かしい思い出ですが熊本の銀丁百貨店が関係しているとは知りませんでした。懐かしいです。今、私72歳と妻70歳の夫婦です。
妻は2月21日に亡くなりました。悲しいコメントをごめんなさい。井筒屋には彼女の写真を持って行きたいと思っています。
福岡市内在住ですが、息子が小倉に就職して結婚して家族が居ます😊月に1回くらいのペースで小倉に行きますので、小倉井筒屋は大好きなデパートです❤動画を拝見して、井筒屋に行く時に今まで以上の思いを感じ行こうと思ってます🤗
子供の頃は『町に行く』といえば、井筒屋→魚町銀天街→旦過市場が定番で、
親のウインドウショッピングに付き合った後は8F(当時)の玩具売り場に連れて行ってもらうのが楽しみでした✨
そのとうりです(笑)
懐かしい…
小倉はそごう、伊勢丹もありましたねぇ。
井筒屋は博多にも以前は駅構内にあったかと。
飯塚もありました、高校の頃いきましたねー。
あと博多には玉屋もありましたねえ。大丸や岩田屋はまだありますが
(寿屋もありましたね…)
黒崎も、そごう、そして井筒屋と百貨店がありましたねえ。
あと、井筒屋ブックセンターもよく行きました。
小倉の商店街には、父方の遠縁の書店があったり
もうなくなりましたが「くし木」という和菓子屋さんもありました。
時代とはいえ、百貨店そのものが
昔のように
おめかしして家族ででかける場とは言い難くなり
ネットでなんでも買えるようになりましたがやっぱり百貨店の空気、百貨店ならではの
安心感みたいなものはあると思っています。
ありがとうございます。
井筒屋へは路面電車でよそいきの格好で日曜日午後におでかけ。今、64才。
幼稚園の頃、楽しかった
よそいきに着替える時から、ドキドキしていました^^
子供の頃におもちゃ売り場と屋上ミニ遊園地?で遊んでた記憶があります。その頃はまだ井筒屋前に路面電車も走ってましたね。既にモノレールはあったので志井方面へは繋がっていませんでしたけれど…今でも実家に帰ると正月のおせちなどは井筒屋で購入します。やはり小倉には井筒屋はいつまでもあって欲しいですね。
その昔、小倉井筒屋に勤めていました。
制服はブラウスに紺色のミニのジャンバースカートでした。夏休みに帰省した早稲田の学生アルバイトだった夫と縁があり結婚、半世紀が過ぎました。
上司も優しく働きやすい職場でした。
いまでも当時の店内で撮った写真の数々を見ると、人生で一番輝いている青春時代だったと思います。
井筒屋ガールですね、店員さんも優しかったですね、思い出の写真で動画を作りたいですね😊
玄関入ると噴水があり、待ち合わせしたな。エレベーターガールがいて・・昭和50年代
北九州の百貨店と言えば井筒屋とそごうでしたよね。そごうはもう撤退してしまいましたけど、井筒屋だけはテナント形式が多くなったとはいえ、福岡の地方都市にも出店しており、まだまだ頑張ってもらいたいところです。イオンにも出店していますが、やはり他の店舗とは若干違う雰囲気を醸し出しており(良い意味です)、やはり百貨店なんだなという認識があります。
思い出深い井筒屋
実家のある若松にもあって
お子様ランチを食べた記憶が
よみがえります。
祖父母の家があった小倉でも、
盆と正月は、みんなで魚町と
井筒屋に行くのが楽しみでした。
丸柏のあとですね。
北予備生時代、井筒屋ブックセンターには本当にお世話になりました。
私は大牟田井筒屋ですね。
当時の大牟田は大都会でした。
新栄町駅の西鉄名店街でランチをして井筒屋地下の回る量り売りのお菓子を買って貰い、噴水がある泉の前でクロレラジュースを飲んでました。
屋上のペット売り場とプレイランド。
大牟田井筒屋懐かしいです。
バブル景気の頃まで新栄町は賑わっていましたよね
もっかい石炭掘らんね、 無人掘削機ドローンみたいな人身事故無し炭鉱できると思うよ。
40年ほど前、井筒屋の地下にあった食堂のチャンポンがおいしくて3〜4歳のとき一人前を食べていたと母から聞きました。大学生くらいのとき行ったらもうなかったような…。また食べてみたいです。
玉屋もありましたね
今LEXUSなった😢
80年代なかばに高校卒業してから井筒屋に勤めてました
誕生日ケーキは焼きフルーツケーキからモロゾフのケーキに変わってその後経営悪化でなくなりましたね
新入社員の頃はレジー操作のミスの度に先輩から頭をそろばんで叩かれてましたw懐かしい
そろばんでコツンですか、痛かったでしょうが、今思えば懐かしいですね😊
透明なピアノがあったような記憶があります。
45年前はレストランがありよかつた
東映会館もあつた
路面電車もあつたし活気があつた
地下食品売場で販売していた、アルミホイルで包まれて売られてた焼そば、焼うどんが食べたい!
門司から小倉に移ったのが小学3年時、たしか北九州市役所のビルが建った年です。中学から熊本の学校に行きましたが高3まで自家は小倉。
子供の頃は井筒屋に行くというと屋上の遊園地で遊び、8階の大食堂か横の中華料理屋で食事するのが愉しみでした。熊本から帰ってきたら井筒屋前の魚町バス停から28番に乗って実家のある黒原まで帰ったものですが、あの頃の紫川は汚くて臭かったなぁ・・・バス待ちも苦労でした。死んだ魚も浮いてたほんとのドブ川。
でもそれが懐かしい昭和の思い出・・・もう還暦を迎えましたが、小倉は私の中で一番懐かしく大好きな故郷です。子供の頃から馴染んだ井筒屋のレンガビルはいつまでも変わらないですね、詳しい解説ありがとうございました。遠く信州の地から想い出しています。
信州からコメントありがとうございます。
この動画の最後尾の人間模様を語った部分では、素直に涙が滲んできました。
スキーブームの頃にはスキー場が、
そして今ではディズニーランドあたりが、
かつての井筒屋の役割を担っているようです。
親子三代井筒屋に務めたという方もおられました。
(祖母=エレベーターガール、母=エレベーターガール、子=一般社員。)
ゴンちゃん様の語り口調は、意外に(失礼!)上手いですね。
何度か動画を拝見してきて、そう思うようになりました。
ごんちゃん、ありがとうございます。
私にもたくさんの井筒屋の思い出があります。
黒崎に井筒屋ができるち、本当や、と言って家族で話したことや、博多に井筒屋が出来っちゃ、と言って語り合ったのを懐かしく思い出します。
初めてコメントします。私が以前勤務していた会社は井筒屋の食品売り場のテナントで、小倉井筒屋、黒崎井筒屋、宇部井筒屋、久留米井筒屋、あちこち行きました。妻とは博多井筒屋で、出逢い今日に至ります。井筒屋の開店音楽が今でも耳に残ります♪
大変見ごたえがありました。まさに企業に歴史ありですね。
小学校の修学旅行が北九州方面で最終日に井筒屋に寄ったのが最初です。初めて見る百貨店の偉容と屋上遊園地などに圧倒されたのを覚えています。
時は過ぎ学生時代、バイト代が入ったら贅沢しようと井筒屋の食料品売場でお高い肉を買い先輩と食べたステーキが人生で一番旨い肉だったと今でも思います。
またボルシチを作ろうとして食材を探しに行ったのも井筒屋でした。
百貨店経営には厳しい時代となってしまいましたがそごうも玉屋も小倉から消えてしまった現在、井筒屋さんには頑張って欲しいです。
お金のありがたみ、食べる喜び、明日も頑張ろうと元気づけてくれた井筒屋ですね
門司には山城屋 戸畑には岩田屋 八幡には丸物百貨店(旧八幡東区中央区商店街レインボープラザ界隈)若松には丸柏百貨店 小倉に井筒屋と玉屋(現リバーウォーク小倉城大門前)
小倉城前にダイエーできた時は大騒動 小倉の銭ゲバ商人が薬局たぶらかして隣接距離が近いとか法律闘争やらせてたわ。 今は火事でしか生き残れん小倉銭ゲバ商人な。 モノレールも小倉駅に繋がせんで醜い商人の街小倉よ。
中津市にも西暦2000年を少しばかり過ぎた頃までには、中津駅に併設するような構造で店舗が御座いましたね。
博多駅に井筒屋がまだあった時に折り畳み傘を買いに行ってちゃんと一度傘を広げて折れてたりしてないか確かめてましたね
40年前に改装があり、駐車場が大手町。買い物後の紫川の海方向の景色良かった。市役所駐車場は週末無料、よくつかった。食べ放題中華料理店があった。
店員みなプロ、信頼していた。北方行き電車、乗らないけど見ていた。
小倉市宝町→現:北九州市 小倉北区 船場町。
私が小さいころは、正面玄関案内窓口前にカラー照明の入った噴水がありました。
覚えてる人いますか?
おぼえてます!その噴水によく手を入れて親に怒られてました(笑)
玉屋にもよく行ってました。当時はデパートに行くといえば、よそゆきの服を着てました…。懐かしいなあ…
自分の小さい頃は遊びに行ける程近い場所に家がありました。家族の記念写真は井筒屋の中にあった写真館で撮りました。幼稚園の頃おもちゃを触っていたらエレベーターガールのお姉さんが少しの時間遊んでくれました。とても嬉しくてまた同じ場所にいたらそのお姉さんがいたのでまた遊んでくれると思いずーっと待ってましたが、エレベーターの仕事に専念されていて残念な気持ちでトボトボと帰りました。そんな思い出がありました。
九州初のデパートといえば、門司港の山城屋
小倉のデパートと言えば、山城屋より玉屋の方が上だったような
山城屋は北九州初で、九州初は鹿児島の山形屋ですね。
寿屋とかもなつかしかなぁ
若松にずっといたから若松井筒屋は凄い思いである!!レストランでお子様ランチ食べながらレストランから見える若松の街見てた!!
その後、屋上ゲームセンターに連れてって貰い、汽車の走るヤツを乗せて貰ってすげー嬉しかった記憶がある、、、懐かしい✨楽しみ建物はなくなったが、この記憶は永遠に無くならん😢
高校の制服が小倉井筒屋扱いだったなぁ。
私立女子高の商業科の職業実習でアルバイトしました。レストランと、婦人服ブラウス売場で修行させて頂きました☺優しい先輩方に恵まれた学生時代を思い出します🍀
私は高校を卒業して初めての就職が井筒屋でした。仕事は、めちゃきつかったけど、良い思い出です。
小倉生まれで20歳まで住み、現在62歳、愛知県在住の者です。
大変興味深く見せて頂きました。
その通り、小倉には井筒屋はなくてはならないものです!でもその歴史について知る事はなかったのでとても感謝しております。
屋上の遊園地の乗り物に乗った写真が実家には沢山あります。
一瞬映った地下の量り売りのお菓子の写真を見てもう完全に忘れ去られていた物が瞬時に甦りました。私が選ぶのはチョコレートや柔らかめのキャラメルが多かったような記憶があります。
20歳になりお酒を飲むようになった時には、
♪い~づつ~や~のねーちゃんと~~~(以下書けませんw)という歌を歌っていましたが、あれはどなたが作ったんですかね?
替え歌なつかしいですね^^
県内の田舎町に住んでいます。25年前当時、時々小倉へ出張していましたがそのころ結婚を決意し、都会のオシャレな井筒屋で指輪買うため現金をポケットに入れドヤ顔でティファニーコーナーに行ったのを今でも忘れません(笑) 嫁も大満足でしたの。
現在60歳です。生まれて18歳まで北九州市八幡東区で生活し、大学入学から北九州を離れ、大阪に就職して36年。
物心ついたころより、買い物は両親と井筒屋へ行っていたことを思い出します。
今は両親が他界しており、両親と買い物に行くことはありませんが、墓参りで帰省した際、お土産を買いに立ち寄ります。
思い出としては、高校1年生(昭和55年ごろ?)の時女性友達と小倉魚町付近で昼食することがありました。当時マクドナルドが魚町商店街に出店し始めていましたが、あまり行ったことがなくエスコートできないので、井筒屋の7階?8階?食堂でカレーライスを女性友達と食べた思い出があります。
高校は八幡西区でクラブ活動は硬式テニスをしていました。黒崎に近かったのでラケットの購入やガットの張替えは井筒屋黒崎店に行っていました。
今年の年末、我が家の家族・兄弟家族が帰省した際、両親が使用していた車を使用できるように車検を受けに帰ります。
懐かしいので、井筒屋へ行きたいと思います。
井筒屋さん楽しんでください、屋上から見る小倉市街も随分変わりましたよ~😊
90年代前半4歳くらいの頃、祖母と一緒に井筒屋の時計版の前に居るところをテレビと新聞に掲載された事があります😊
素晴らしい動画でありました。井筒屋OBでさえ知らない社史をありがとうございました。ちなみに誕生ケーキは経営難の煽りを食って真っ先にリストラされてしまいました。案外ドライな店でもありました。
誕生ケーキ廃止になったんですね。電車の中で大きなケーキの箱を持った男女を時々見かけましたが、井筒屋の社員さんだったんでしょうね😊
モロゾフさんのフルーツケーキでしたね。誕生日はぜったいに休みを入れません(笑)夕方に人事に呼ばれて手渡しでした。子どもがいつも喜んで待っていました、昭和の頃です。
最後の辞は詩のやふ
山口にもありますね。
ありますね、元は「ちまきや」でしたね。
不謹慎かもしれませんが
学生の頃「小倉競馬場で大穴当てて井筒屋さんで何でも買ってあげる!!」とデートに誘っていました。
帰りはいつも井筒屋さんを横目で見ながら旦過丸和さんの前の屋台でビール持ち込んで、
赤・白のおにぎり&おでんを食べて帰ってました。懐かしいです。
屋上に行きフランクフルトを買って食べながらゲームをよくしていた思い出があります
学校が終わるといつもいつも友達と行って凄く楽しかったなぁ
あの空気感ほんと好きだった
今ではフランクフルトを売っていたお店はメニュー縮小してやきそばと焼きうどんだけしか売ってないですね
屋上に何も無いからそうなるのも仕方ないですが、
子供の楽しめるコーナーは残しておいて欲しかったですね
ところで、井筒屋の横の橋の反対側(海側)に80年頃に白い建物があり、
川淀(2階)と半地下に洋食の店があったんですが、
その洋食の店と建物の名前はわかりませんか?
建物の方は、リバーと言う名称が入った建物だった気がするんですが・・・
黒崎そごう出店で八幡井筒屋が、小倉そごう出店で小倉井筒屋が衰退する一因になりましたね。
結果的にそごうは自爆して消え去りましたが。。。
若松や本城にまで井筒屋を造ったのは大間違いでしたね。
小倉井筒屋だけは耐え抜いて欲しいものです。
そう考えると徳力に井筒屋を出店しなかったのはいい判断だった。
黒崎そごうのあとに、井筒屋が入ったのはなぜだろう。
お客さんガラガラなの分かっているのに。
付け加えさせてください。
① 大正7(1918)年に小倉鳥町三丁目に開店。大分県中津資本で外観は赤煉瓦三階建ての高層洋館建築。小倉の名物デパートであった。呉服が主であったが、下駄を入口で預け、三階まで絨毯の上を歩いて買物ができた。弁当・おしるこをメニューとした食堂も人気だったという。昭和元(1926)年閉店。
②文久年間、小倉にて創業。初め米穀店であったが、のち慶応年間に呉服店となるかねやす。
建物は大正9(1920)年、木造4階建のデパート式経営を開始。昭和11(1936)年、鉄筋7階建のかねやす百貨店となるも、昭和27(1952)年、附近の出火により消失し、2年後に破産。
③昭和6(1931)年の旧門司市栄町筋に開業した平井屋で、後の経営不振から買収になり昭和9(1934)年に屋号の変更となった山城屋。
④昭和7(1932)年10月設立。大阪「白木屋」出身の支配人が手掛けた本格派百貨店で、北九州随一の4階建ての近代的な大型百貨店であった九州百貨店。
⑤八幡市西本町4丁目にあった八幡玉屋(玉屋デパート分店)
⑥門司・栄町にあった「小倉玉屋」の前身「田中丸呉服店」(大正期)や、八幡市西本町4丁目にあった「八幡玉屋(玉屋デパート分店)
以下は参考ですが、
第二次世界大戦以降では、
昭和23(1948)年創業で、石炭財閥系百貨店の丸柏
福岡の岩田屋唯一の直営支店で、昭和40(1965)年開業の戸畑岩田屋が存在した。
歴史認識として、
これらもアナウンスが必要になるのではないでしょうか?
情報ありがとうございます。今回は井筒屋の歴史にフォーカスしていますのでご理解ください。いただいた情報も承知していますので、別な機会にでもと考えております。
いつも楽しく拝見させていただいてます。
是非、いつか下関の事も動画にしていただけないでしょうか?
小倉、門司、福岡との繋がりも強いですし、ゴンちゃんの語りで是非みたいものです。
下関リクエストありがとうございます、元気なうちに下関まで行ってきます😊
井筒屋と、お国なまりで、新幹線で、耳に、はいった、あ一懐かしい、ふる里に、帰った、嬉しさが、心に😂わいた。
再開発って、単語は時に、かつての時代を必死に生き抜いてその地を拠点にして走り回っていた者には、残酷でしかないような、感覚は覚えてしまいます。
高校生の頃、屋上遊園地でアルバイトしていました。
確か別館6Fにあった社員食堂でカレーを食べ、一服してると「あら~♪ ぼくたちいくつぅ~?」とか社員さんに言われてましたね^^;
お給料日に帰りに寄り道して魚町で社員のおねーさんとバイト一行で食事したのもいい思い出です。・・・ジュンコさんどぉしてるかなぁ( ´艸`)