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0系食堂車勤務歴あるものです。上り静岡手前の減速に加えて右急カーブで食堂車の食器を(倒れそうになるのを)両手で押さえるのが当時の儀式でした。
中学生の頃の夏休みに、父親に連れてってもらって、生まれて初めて新幹線に乗り、そして0系食堂車で初めて食べた、ハンバーグステーキの味は一生忘れられません🍽✨️本当に良い味と思い出をありがとうございました🙏😊✨️
トイレの際も要注意でしたね。
新大阪行きひかりに名古屋から乗った時も、真っ先に食堂車に向かってカレーライスやハンバーグ定食を食べに行っていたのが、楽しい思い出です。
帝国ホテルの営業だとビーフシチューの器が他社より豪華でさすがホテルだなという想い出があります。
食堂の営業開始アナウンスが待ち遠しかった。
東京発は、新横浜駅過ぎた辺り…新大阪始発⇒東京行きは、京都過ぎた辺り…そして博多発は、小倉過ぎた辺りで、食堂車営業開始のアナウンスが流れてましたね😃✨️あの放送聞く前に今か今かと席に荷物置いて既に食堂車の入り口前の通路に並んでいたからなぁ…😅全て二度と味わえない、良い思い出✨️
0系全盛の頃は、全てのひかり編成に36形が連結され、4社が食堂営業してましたね。ビュッフェとうきょう、帝国ホテル、都ホテル、日食・・当時の時刻表には食堂営業会社も記載されていたので、営業会社を選んで乗ってました。
この会社のこれが好き(旨い)/食べたいとか、献立へのこだわりがおありでしたか?
@@user-ve5rr9bl4i さん。そうですね、メニューのこだわりはありませんでしたが、営業会社はホテル系、特に帝国ホテル営業のひかりを選んで乗ってました。日食は在来線でも当時は利用できましたし・・
@@user-ve5rr9bl4iさん。4社ありましたが、値段は各社まちまちでした。当時20代の私は、出張で月に数回利用するのですが、一番手ごろな値段の日食の時はあー良かったとよく利用したものです。60代です。
100系グランドひかりが現役当時、1〜2回食堂車を利用した思い出があります。
0系に食堂車があったのはいい時代でしたね。新春乗り放題切符で新岩国か広島から自由席に座れず食堂車を利用した記憶があります。博多開業からまだそんなに経っていない頃でした。
ドラマ鉄道公安官で青空球児さんが新幹線の食堂車で酔っ払ってましたね。酔っぱらいのフリをした石立鉄男さんに追い払われてましたが😅
山陽新幹線で 広島に行った時に 0系の食堂車で食べた思い出がある東海道新幹線では 最後まで 食堂車が営業していた 博多行きの100系に乗ってカツカレー食べるのが 定番でした。
0系は車両の半分がビュッフェのしか乗った事しか無い為にこれは知りませんでした。
東京駅から新幹線に乗ると横山やすしが営業前の食堂車へ行きウエイトレスに「姉ちゃんこの席横山でリザーブや」と勝手に席を確保していたと太平サブローが話してました
その話は、今でも語り草の、横山やすし&新幹線食堂車伝説です☝️😊😁
マナーの悪い客については、繁忙期や混雑時間帯に自由席特急券買って自由席に座れなかった客がとにかく座るために食堂車でコーヒー1杯で降りる駅まで粘る、といった行為がメインだったから、思い切って指定席特急券を持った乗客しか食堂車を利用できない(利用時に指定席特急券の提示が必要)ように対策したらよかったのに、と思いました。
間違いない。もしくは予約制とかな
@@仮面ライダー雅 つばめ・こだま 等151系当時はサシは予約制だったような憶えが・・・時間になると迎えが来たし
どのみち車両の性能が上がったら(国鉄労組の兼ね合いで新形式高性能車の開発自体が禁止だから意味ない)所要時間も短くなっていただろうし、食堂車自体必要だったか微妙な所ですね。951形って試験車で300㎞/h近い速度出してそれをベースに早期に100系新幹線投入で所要時間短くしたら食堂車を潰す言い分が出来たのに労組のくだらない言い分のせいで、国鉄時代に東海道山陽新幹線の高速化を潰したのは痛い。本当に技術革新をさせようとして邪魔してくる所が意味わからんよなぁ。
そうしたらしたで今度はお客が減るという問題もある。高速化の中で移動中に食事をとる意味合いが薄れており、どのみち永続性の無いサービスだった。
懐かしい!ビュッフェよりも贅沢だった。
30年近く前に博多南線の0系に乗ったら営業していないビッフェ車が連結されていて、走行中に車内の速度計を見ていた事を思い出しました。
ビッフェ車なら廃止寸前まで利用しました。晩年はほぼデッドスペース化して、無駄に連結された状態です。ビッフェ車が廃止された年に新大阪ー広島間をビッフェ車で過ごしましたが、僕1人の貸切状態でした。自由席は空席が僅かな状態で結構混雑しており、それでもビッフェ車に逃げて来る客はおらず、唯一のメニューのホットコーヒーで快適な旅をしたのが、今では良い思い出です。
ビュフェです
113系の台車を履いた0系がパワーワードすぎるww仮にマナー悪い居座りがなかったとしても、そんな劇的に売り上げが伸びていたとも思えないから、何れは消える運命だっただろうなNH32編成引退後に博多での保存だったら今になって解体されてた可能性もあったわけだし、東海に引き取られて良かったと思う
私の両親が出来たばかりの新幹線で、東京駅から熱海か三島までビュッフェで食事して帰ってきたそうです。すごい時代ですね、、、
東京~豊橋の利用だったので食堂車は経験無いですが、お盆の時期の臨時こだま「岡山行」には営業休止中の食堂車が連結されていて当然利用はできなかったもののワクワクしたのを覚えています。
100系か0系か思い出せないが映画館になったヤツもいた様な…
JR西日本に残った0系であったような。映画車、サイレントカーやらビッフェでも椅子で座ってカレー食べれたウエストひかり、などなかなか面白い運用でしたね。営業はしてませんでしたが4両こだまにビッフェ車両連結してたり。
いやあ、36形に絞ってこれだけ語れる主はすごいです。1950年代に生まれた私たちの世代にとって、0系(当時はそう呼ばれていない)は、まさに「夢の超特急」でした。懐かしい思い出がどんどん蘇ってきます。
自由席がある限り食堂車が廃止になるのは時間の問題だったんでしょうね。
関西の母方の祖父母の家に行くとき東京から新幹線を利用。東京駅で見た食堂車は常夜灯でそれがなんとなく憧れの車両でした。高校の頃通路は横切ったもののここで食べることはありませんでした(その後の100系も)…
50-3時点で最速列車が東京~博多間6時間56分、これって登場当時の151系(当時はモハ20系)の東京~大阪間[こだま]とほぼ同じだから、それこそモハシ21(モハシ150)と同仕様の35型のみでも何とかなったかな?という気がしないでもないが、151系も後にサシ151が出たのだから36型の登場は必至だったのかも。繁忙期でなければ、停車駅間の長い区間(例えば新大阪~岡山間)などで自由席からでも食堂車に行くことは不可能ではなかった(現金や貴重品などは当然携行し座席にはそうではないものを詰めた鞄を置いておく)。当時確か4社(日本食堂・ビュッフェとうきょう・帝国ホテル列車食堂・都ホテル列車食堂)あって其々微妙にメニューが違いそれもまた選択の楽しみだった。流れ去る車窓を愛でながら調理されたばかりの食事に舌鼓なんて…パリの三ツ星レストランでも、赤坂辺りの高級料亭でも味わえない贅沢だったね。ただ当時はまだ車内禁煙が然程進んでいなかったので車内の環境は悍ましかったが…嘗ての様な全車指定席の[特別急行]や、今ならクルージングトレインなら食堂車の営業も或いは成り立つかも知れない。然し自由席車主体の列車では厳しいかもね…(古の特別急行・長距離急行に繋がっていた食堂車は然し、主に1・2等客の社交場で3等=ハザ・ハネ客=には聊か敷居の高い存在だった。そして新幹線開業前の頃は、サンドイッチより握りずし=今時の回転ずしとは違いカウンター越しに注文を受けその場で板前さんが握ってくれる=の方が庶民的な食べ物だったという世相の違いも今となっては興味深い)採算性を言われてはぐうの音も出ないが然し長距離優等列車には食堂車は欲しいね(^^)/
相変わらず話が長いわ
物心ついた時には営業休止になり廃車が始まっていたサハシ165、サハシ169、サハシ455は東北、常磐、中央本線では蕎麦を、北陸、九州はうどんを提供していました。
食堂車は新幹線の博多延伸の際に投入されたと聞きます。相応の距離を走るため、食堂車を連結するのが国鉄の流儀だったのですから。しかしながら割高な料金と短い営業時間の制約の中で利益を確保するのは難しく、また食堂車の厨房の人手不足も手伝って採算に合わなくなった……というのが廃止の実態では? と思います。それでもかつての碓氷峠越えの列車に営業休止の食堂車を連結(コンプレッサーを積んでいたため脱車できなかった)していたのと同じく、営業休止のまま連結を続けていたのはパターン的に同じですね。
なんだかんだ言って新幹線は高速化で食堂車はどうせなくなっていたでしょうから、近鉄しまかぜやJRのサフィール踊り子などのように全車指定で食堂車がある形が一番ですね
学生時代、帝国列車食堂でバイトをしてました。私は車内販売担当でしたが一度だけ東京到着直前に食堂車の片付けに駆り出されたことがあります。聞いた話では10名位のサラリーマンのグループが営業終了の新横浜を過ぎても退店せず武蔵小杉付近でようやく退店したため食堂車のクルーだけでは人が足りず急遽片付けに呼ばれたとのことでした。プライベートではよく食堂車を利用してました。混雑時の相席は少し気まずかったです。ポークカツレツやビーフシチューをよく頼んでました。ビーフステーキは焼き加減が程よく街のレストランと変わりなかったです。100系の食堂車は眺めも良く最高でした。話は変わりますがビュッフェとうきょうは何故か100系のカフェテリア編成の営業には入りませんでした。ビールもハイネケンを販売していて他の会社とは一線を画してました。
0系は子供の頃は親父と乗る時はグリーン車の黄色いシートとセットでした。修学旅行でグレーの硬いシートの存在を知った。
Nice train
0系100系とも 食堂車は利用せずじまいでした。一生の後悔ですね。東京駅ホームで8号車の辺りを歩くと デミグラスソースのいい匂いがしたものです。
初めてとりりさんに勝ったかも…😁
東京〜新大阪ですら3回転程度あり、新大阪以西はそもそも需要が小さい。そこへ自由席から溢れた客がコーヒー1杯で粘る…独立採算性も仇になった。
食堂車は優等車両と下等車両を分断する仕切りの役割もあり、黎明期から全盛期にかけては利用客の品位も高かったのが自由席連結や喫茶店で商談をする感覚での利用で静かに利用してくれなくなってまともな利用客が逃げてしまったのは確かに否定出来ません
海外でよくある「最低消費額いくら」っていう制度を敷けば良かったのに。食堂車なら最低5000円程度からかな。
@@nekotaro0328 グリーン車の客しか利用できないようにするのもいいアイディア。もしくは最低消費一人5,000円とか。
@@andaman9724イタリア🇮🇹やドイツ🇩🇪で利用したがそんな制度見た事も聞いた事もないぞ!特にドイツは約10ユーロで利用できたぞ!😜
@@psychedelicraspberry517 中華圏によくアルヨ。例えばレストランの個室なんかでは最低消費〇〇元って。8人テーブルで昼2,000元、夜5,000元とか。
亡くなった祖母に無理言って、初めて新幹線乗ったとき、食堂車に行きました。子供時代、めちゃくちゃ覚えています。昭和の日本、ロマンがあったなぁ。今は経済もだめだし、人の心も余裕がないし、のぞみ号も人をたくさん速く運ぶのがメインで、肉まん食べるのもハラスメント言われる時代ですね。
リニアに置いてあった食堂車はこれやったのか!感動するわー
16両もある新幹線電車にたった1両だけの食堂車は失敗でしたね😢観光特急の食堂車はそれなりに成功している側面を考えると、食堂車そのものがダメというよりは、新幹線に食堂車は不適合だったと言わざるを得ないですな(+_+)
在来線も新幹線も、食堂車が連結されていると先ず車内放送で各号車の案内に食堂車の案内、車掌の放送が終わると食堂車営業案内、大体日本食堂の案内なんですが、自由席の案内に、無願無座って言うのが有ったかな、100系食堂車は食堂車廃止の後に弁当などを売る当売店化された時期が有った様な。
旅のレストラン、日本食堂。なんてラジオコマーシャルがありましたね。
食堂車今もあっても良かったと思う 昔は良かったんだよなぁ(2009年生まれ)
当時の0系なんて今の基準だと、Xで大炎上レベルのボッタクリ車両ですよ座席も関西などの快速や私鉄の無料特急の座席と良い勝負だし座席の間隔もLCCの航空機並みの狭さ、内装も如何にも金属機械の中に乗ってるような冷たい感じで速さだけのビジネスライク全開の車両でしたから100系以降の車両から見れば劣等車です(実際、当時の鉄道ファンで0系好きなんて変人扱いでしたから)
@@acceleratingchange7027でも昭和40年生まれの私からするとのぞみはともかくひかりとこだまは0系の方がしっくり来ますね。
在来線の185系電車と、どっこいどっこいじゃないかな?設計自体が1960年代なんだから、当時の『最新』技術を投入した車両だし、NHKのウルトラアイで各種の椅子を用意して被験者たちに座ってもらったら、ソファーや事務用椅子が脱落する中でほぼ博多までの時間、座り続けられた『優秀な』椅子ですよ。
@@acceleratingchange7027 さん後に普通車もリクライニング化されましたが、シートピッチの問題で3人掛けは回転できなかったんですよね。そのこともあって0系と200系にはいい思い出がありません。
@memememe-hn2gc なんかすんません
食堂車が使いたくて7号車指名買いしたり、グランドひかりでは7,9,10号車階下席指名買いしたりして、なんとかして食堂車を利用していましたね。
東海道山陽新幹線の食堂車連結に伴う要員の配置見直しと20系の運用の縮小により、寝台特急の食堂車は東京発の山陰・九州方面列車を除いて営業終了(青函トンネル開業後に一部復活)。在来線昼行特急の食堂車は1980年代序盤までまだ各地に残っていたので、何度か利用したことがありますが、夜行の方はそうした事情もあって利用したことがありません。
0系の食堂車のインテリアは、在来線を含めた他の食堂車とは全く似ていない独特な感じでしたね。言うなれば「1970年代の喫茶店」みたいな感じ。
食堂車営業当時の新幹線に乗車した経験はありませんが、鉄道博物館のレストランや一部の鉄道イベントの食べ物ブースなんかで出てるスパゲッティミートソースの上に揚げたお肉(カツ)が載ったベロネーズっていう料理、あれは新幹線の食堂車が発祥なようですね個人的には結構好きなので、一度新幹線の車内で食べてみたかったな高速鉄道は寝台列車と異なり普通にお店も営業している時間な上、寝台列車とは異なり日中時間帯に短時間で目的地に着くためのものであるという観点から、国土が広かったり国際列車のあるような海外ならまだしも、日本の高速鉄道ではあまり効果を発揮できないのかなと思いましたしかし、やはり高速で窓から流れる景色を見ながら優雅に食事を堪能できるということに関しては非常にロマンのある物だと思いますし、逆にそれを売りにしてもっとサービス形態をアレンジできればまた別の結果になってたのかもしれません(西武のレストラン列車のようなフルコースではなく、もっとリーズナブルな感じがいいかな…)
食堂車を繋げてお客さんから代金徴収するより、座席並べた普通の車両を繋げて料金徴収した方が遥かに儲かるもんね。
あまり思い出したくありませんが、ロマンスカーのサービスでも2020年から流行した疾疫災の影響で追い込まれてしまいましたね。
今は亡きエリザベス女王陛下が昭和の時代に来日された際、この食堂車を利用された。当時のイラスト画では陛下は車窓から富士山も眺められていた。
エリザベス女王がご乗車されたデビュー当時の36形には富士山側に窓はないですけどね。イラスト画だからイメージでしょうが。
つい最近の付け焼き刃の知識レベルで申し訳ないが。七つの海を支配する 大英帝国には正確な時計が必須だったらしい。その国の女王陛下にして(新幹線は時計よりも正確と伺っています。)と言わせるのは、すごい賞賛の言葉なのでは?
サンライズに至っては在来線最長距離で所要時間も新幹線より長い定期列車でありながら食堂車どころかビッフェも車内販売もないからね。サンライズよりも乗車時間短い新幹線(特にのぞみ)に食堂車設置しても採算は合いそうにないイメージが。
サンライズ出雲・瀬戸は、深夜を走る列車なので、食堂車を営業するのは現実的ではありません。もともと、飛行機の最終便よりも遅く出発し、早朝の第1便よりも早く着くことを目指した列車ですので、パブすら営業は叶わなかったかと……。
近鉄のしまかぜがしっかり食堂車引き継いでいるかも。
一般の定期列車唯一の…正統派「食堂車」の血統ですね☝️😊✨️まさか近鉄が受け継ごうとは…かつてのスナックコーナーより遥かに本格的(゜ロ゜;ノ)ノ✨️‼️
ひかりを博多まで乗車したときに最初で最後0系食堂車でカレーライスを食べたことを覚えています。
自由席代わりの居座りなんて、常識の問題だとは思いますが、チャージ制+時間制をとるのも一つの方策だったかもしれませんね。例えば、ランチタイムは30分1席チャージ1,000円で、1,000円以上のお会計の場合は、チャージ料金との差額のみ支払い・・とかね。観光地の食堂とかでも、時間制をとっているところがありますよね。
日本人もっとアホ客から会社や店を守る料金設定にすべし。何についても甘過ぎ。新幹線の食堂車なら一人最低消費5,000円とか。
それ以前にガラガラだったが😉
グランドひかりの2階建て車両もリニア鉄道館に保存してほしい…。。。
まさかの狭軌台車で保管されていたとはw
14:37 「マナーの悪い客」「かりあげクン」に出てたが、あれは風刺だけに終えられたのか逆に教唆してしまってそういう連中を増やしてしまったのか
0系は乗った記憶無いんですが、食器洗い器はこの時からあったんですか、知らなかったです…。
自由席の客がいる新幹線には食堂車は向かないんだなぁ。
私は東京に行くとき、食堂車でまったりするのが好きだった(当然、ちゃんと食事してからですよ😅)でも、当時から、コーヒー一杯で長居する客の懸念はあったね、採算が取れていなかったんだね、ビッフェになってから味気なく感じた、車販までなくなったのは寂しいが、あれはあれで少し邪魔だったし、割高だったし😅速くなった現在では時代の流れの当然でもあるね
3:10 汚水をすっかり忘れていた。8:49 BGMがエエ、曲名は何ですか?
clapolkaというクラシック曲です。
@@hiratsuka-103 ありがとうございます。
そもそもかつて特急列車ってのは全席指定が当たり前だったので食堂車というサービスが成立した。(自由席のある急行では食堂車ではなく立席式のビュフェが多かった)マナー云々というより、自由席設定したらそりゃこうなるよねという話かと。
0系は座席にリクライニングがないし、けして乗り心地がいいものではなかったですが、僕ら昭和の子供にとっては滅多に乗れない夢の超特急でした。
冷凍をチンしただけのたこ焼きが結構な値段だった
@@matsuokacho さんビュッフェで車販のうなぎ弁当作るのを見た事あります。器にご飯盛ってタレをかけうなぎを乗せてました。
今0系が見れるとこって京都鉄道博物館以外どこかある?
大宮名古屋愛媛吹田イギリスですね。
あと摂津市と亀岡
座席に座ってのびていたい&置き引きこわい
私なんて指定席でも迂闊に席を離れると知らない輩に勝手に座られそうなので一度座った席は降りるまで死守します。トイレも怪しいアンチャンの喫煙室になってそうだから行きません。
私の場合は食堂車より駅弁を好んでいた父を席に残して食堂車に行ってたので置き引きの心配をしないですみました。
@@Yoshin-Sashizume これはウィンウィン分担✌️
オレの場合、財布とカメラという最低限の貴重品だけは身に付けて食堂車にいつも行ってた。置き引きなんて、一度も無かったよ。置き引きが心配なんて少し神経質になりすぎだったと思う。
食堂車を利用するつもりのある人はそもそも自由席には乗らず、食堂車に近い車両の指定席を取っていた。
新幹線に限らず特別急行列車の食堂車とは格式の高いもので、昔の特別急行は全車指定席が当たり前だったから、自席を空けて食堂車へ食事に行く、という行為が普通にできた。それが自由席の拡大で主さんの言う通り、席が確保できない客のたまり場になってたり自席を食事中にとられてしまう弊害も出てしまった。国鉄が推進した特別急行の大衆化政策の下では、同時に食堂車システムが衰退しまうことが運命づけられてしまうのは避けられなかったのかもしれない。
というより国鉄特急の技術革新に問題がありすぎますね。なんでいつまでも1964年基本設計のモーターにこだわってそれを搭載させるのでしょう。近鉄特急や私鉄特急は少なからず1970年代には最高時速160㎞/hぐらいまで出せる特急車を開発済みでしたが、国鉄はくだらん労組のいがみ合いのせいで新技術搭載がほとんどありませんでした。通勤車においてもチョッパ制御の搭載が私鉄で当たり前になった1970年代でも国鉄にチョッパ車なんていなかったし、既にチョッパ制御の特急車もいたが国鉄にはとうとうチョッパ制御の特急車は登場しませんでした。情けないですねぇ。
@@asokai2346 それは新技術を次々導入するよりも安定した確実な技術を使い続けることが大量の保有車輌を保守していく上で都合が良かったからですよ。国鉄は全国展開だから車輌数はもとより、それの保守にあたる人材もかなりの大人数に上ります。そういう場面ではあれこれと新技術に手を出すよりも特定の技術に固執した方が人材の習熟度という点で一定のレベルを維持できます。部品も標準化しているから大量に同じものを発注、生産し、全国にばらまけば理解している現業職員が必ずいて、保守作業もやりやすい。例えば自分自身が車を買う場合に置き換えてみてどうですか?新しい技術だからとやたら色んなメーカーのものを取り揃えたら、スイッチの位置から何から何まで違っていて、それを別々に覚えなければいけないし、部品確保もそれぞれ別に考えなければならない。たかだか数百kmほどの路線しかない大手私鉄と2万kmの路線を有した国鉄とを単純に比較しちゃいけません。そこは当然、やり方が異なってきます。
今は駅ナカに飲食店やコンビニなどが充実してるから、其れも新幹線に限らず食堂車衰退に拍車を掛けたと思われる。 列車も高速化しているし。今時、食堂車といえば近鉄「しまかぜ」みたいな観光特急とか、クルーズトレインでなければ成立しない。
駅弁のほうが旅してる実感が有る。
〇系1号車こだま三島行きの1両が図書室としてA 市の公園で保存してるみたいですね
現在となっては駅の構内にコンビニが出店し、そこで飲み物や食べ物は調達するからね。
駅の構内だから駅弁を扱ってる所もあるのでしょうが、高そうだからコンビニでパンかおにぎり、レンジがあればコンビニ弁当になってしまうでしょうね。もう少し余裕があれば駅ビル内か近くのデパートやスーパーなどで買えるでしょうしね。
今なら、注文品目で利用時間の札を配るのとか、やりそうですね。
36の客室の一番奥側の仕切りの向こうの席はVIPの利用も考慮してたん、触れんとあかんやろそれからコーヒーで粘る客や食堂車に行ってる間の盗難や席を取られたっちゅう話はもっと前の在来線の急行の食堂車で問題になってて別に新幹線に限った話ちゃうんやし
それに、元々ガラガラだったし😉
あの奥のVIP席は、確か、あの故、横山やすし率いる芸人一行の、特等席だったと思う…(^-^;-w-w
マナー違反の客以前にガラガラだったからマナー違反の客いても売上に影響なかった。ワイは何回か新幹線🚅食堂車🍽️乗ったが、相席は1回しかなかった😉
それはJR化以降の食堂車が無くなる晩年の話でしょう。国鉄時代の最盛期は、ガラガラなんて信じられんくらいどの列車も大盛況で、食堂車通路に順番待ちの客で溢れてたのは事実だったよ。
@@ゴンタオヤジ-n6n「最盛期」はね。だが、「最盛期」は、私の持ってる本📕「食堂車ノスタルジー(イカロス出版)」には、著者の岩成政和氏は「昭和40年代後半」と書いている。だから、新幹線🚅食堂車🍽️登場から数年で最盛期は過ぎてる。実際、その後の国鉄運賃大幅値上げで国鉄離れが起き、私が家族旅行で食堂車🍽️乗り初めた昭和50年代後半以降では、在来線も含めて20回以上行ったが、上記の相席1回の他は「北斗星」の朝食☕🍞🌄で満席からの営業終了が1回だけだが😉
@@psychedelicraspberry517 さん、わざわざありがとうございます😊m(__)m
(長文で失礼致します)この0系当時の新幹線の食堂車のエピソード…っていえば、あの全盛期の故、横山やすし師匠の話題は事欠かないなぁ…( ̄▽ ̄;)(笑)横山のヤッさんが芸人仲間数人引き連れて東京に仕事に行くのに新大阪から始発の東京行き「ひかり」に乗った時、新大阪発車間もなくその横山ヤッさん率いる芸人仲間数人が食堂車をいきなり訪れ、まだ開店前の食堂車ホールのドアーを叩き、「オゥ( ・∀・)ノ❗ワシや❗横山や‼️今から芸人仲間連れて来たからテーブル1つ東京まで貸し切らせてくれるか☝️😁⁉️まだ開店前なんは解っとる!そやからテーブルだけ4人分貸し切らせて取り敢えずビールだけでも5~6本持って来てくれるか❓️🍺」この当時、新大阪始発東京行きの「ひかり」でも、食堂車を営業してる列車があり、それでも営業開始するのは確か京都を過ぎた辺りで、それまで約20分の間に準備をして、京都発車の合図でやっと営業開始のアナウンスをしてお客様を迎える…ってシステムだったのが、発車間もなく…あの傍若無人な横山のヤッさんがいきなりテーブル貸し切らせ❗って、ムチャな注文して来るんだよな…😅取り敢えず…(ヤッさんの暴君キャラは周知の通りだったから)、一番奥の、主に予約用として造られたVIP席のような区画があり、そこにヤッさん一行を誘導し、注文通り瓶ビール5、6本とグラスを届け、簡単なナッツ🥜系のアテを持って行き、後はヤッさん一行をしばらく放置して、食堂車スタッフは黙々とマニュアル通り、開店準備を進めていたんだそうな…(^-^;😅-w-wその間…京都過ぎて開店してからも、ヤッさん一行の宴会は止まらず、ビールは勿論、一品おつまみやハンバーグ等、どんどん注文され、宴会は東京到着寸前まで続き、チェックアウトする時は、「迷惑かけてすまんかったな❗お陰で旨い酒と料理楽しめた❗ごっそうさん❗おおきに✋️😁‼️」といって、皆の頑丈を全て自腹で払われ、列車を降りられたそうな…因みにこの日のこのひかりの食堂車の売り上げは、とんでもない額💹⤴️⤴️💴だったそうな…(^-^;☝️😁💦
ゆくゆくは自由席も....?ʕ´•ᴥ•`ʔ
そして遂に車販すらなくなってしまった。移動が味気なくなりましたね。
車内販売や食堂車、ビュッフェを残し続けて赤字になるよりマシ
0系全盛期→硬券指定券、両脇パンチ穴付パソコン券↓100系〜300系時代→緑のマルス券↓300系後期〜N700系初期→偽造防止ホログラム付マルス券↓今→指定券はネットで買うのが当たり前でみどりの窓口閉鎖、紙切符は指定券券売機、窓口案内スタッフ“めんどくせーなー“という態度丸出しやり方を誤れば鉄道の公共性を脅かす危機と背中合わせの時代
じゃあ金出せよ
新幹線らしさがどんどん無くなっていく。
@@ろき-j5v じゃあ金出せよ
レトロ自販機車みたいなの作ればいいのに…
吉野家車とか松屋車とかも。
まぁ、利用価格が手頃になるに比例して【民度も落ちてきた】から😅マナーの悪い客は【次の駅で鉄道警察隊へ】という断固とした処理をしなかったせいで…ねぇ❓😮💨
新幹線のビュッフェのカレーはおいしかった
10:59 36-86 ❌ 36-84⭕
ご指摘ありがとうございます。
車内販売はなくなり、やがて車内清掃もなくなる?とコメントした人がいたが。仮になったとするとそもそも車内での飲食は禁止!の方向?例えばリニアならゆっくり食べるヒマネェだろってなる?
食道車🍴
37型忘れられてません?
37形は2008年3月まで現役で活躍していて、全く短命形式では無いのです。
新幹線でコンビニ飯は食べたくないな〜コンビニ飯って家で食べるにはまあまあだけど、旅行の時に食べると途端に不味く感じるし、風情も旅情もなくてつまらないし
建設費数億円の車両一両を丸々運べない車両として使うわけだから贅沢な設備といえますね。マナーの悪い客⁇自分たちはマナーが悪いなんて思ってないでしょうね。頭いいと思ってる。
子供こおやじにつれていきました。
コレも撮り鉄
昔の人間はマナーなってないからなぁ
5年、10年先を見る能力が無かったんですね。
10年どころか5年も新幹線の営業運転が続かなかった可能性すらなきにしもあらずでしたので
@@almondsquid2011それが5年、10年先を見る能力が無かったって事だよ
@@夢待翔太 Q.アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。セルロースは( )と形が違う。1.アミラーゼ 2.グルコース 3.デンプン 4.酵素※ 一切検索せず、このまま回答せよ(2nd
当時の国鉄では『長距離列車には1等車と食堂車とはセット』がほぼ固定概念としてあったとも言えます。官公庁の公用出張では1等車が連結されていると出張旅費が1等車で計算されたり、国会議員さんの国鉄無料パスのためにグリーン車と食堂車とを連結していたとも言えます。新幹線の博多延伸と前後してエル特急も設定され、特別急行列車が庶民化したことで利用客の客層が変化し、食堂車の需要そのものが減ったと思います。もともと急行や鈍行に乗っていた客は座席で駅弁を食べ、酒盛りしていたくらいですから(国鉄の企画した映画の中で駅弁の食べガラや空の一升瓶が床に転がっているのを清掃するシーンが記録されている)、食堂車の利用はそもそも見込めなかったかと。今では食堂車は観光列車のみの設定ですが、乗客全員に『必ず』食堂車を利用してもらえる環境でないと採算に合わないのでしょう。あらかじめ食事券を売ることで予定数量が分かり、かつ予定数量どおりに消費されるのですから、廃棄ロスは最小限に抑えられ、利益率の向上に繋がります。
0系食堂車勤務歴あるものです。
上り静岡手前の減速に加えて右急カーブで食堂車の食器を(倒れそうになるのを)両手で押さえるのが当時の儀式でした。
中学生の頃の夏休みに、父親に連れてってもらって、生まれて初めて新幹線に乗り、そして0系食堂車で初めて食べた、ハンバーグステーキの味は一生忘れられません🍽✨️
本当に良い味と思い出をありがとうございました🙏😊✨️
トイレの際も要注意でしたね。
新大阪行きひかりに名古屋から乗った時も、真っ先に食堂車に向かってカレーライスやハンバーグ定食を食べに行っていたのが、楽しい思い出です。
帝国ホテルの営業だとビーフシチューの器が他社より豪華でさすがホテルだなという想い出があります。
食堂の営業開始アナウンスが待ち遠しかった。
東京発は、新横浜駅過ぎた辺り…
新大阪始発⇒東京行きは、京都過ぎた辺り…
そして博多発は、小倉過ぎた辺りで、
食堂車営業開始のアナウンスが流れてましたね😃✨️
あの放送聞く前に今か今かと席に荷物置いて既に食堂車の入り口前の通路に並んでいたからなぁ…😅
全て二度と味わえない、良い思い出✨️
0系全盛の頃は、全てのひかり編成に36形が連結され、4社が食堂営業してましたね。ビュッフェとうきょう、帝国ホテル、都ホテル、日食・・
当時の時刻表には食堂営業会社も記載されていたので、営業会社を選んで乗ってました。
この会社のこれが好き(旨い)/食べたいとか、献立へのこだわりがおありでしたか?
@@user-ve5rr9bl4i さん。そうですね、メニューのこだわりはありませんでしたが、営業会社はホテル系、特に帝国ホテル営業のひかりを選んで乗ってました。日食は在来線でも当時は利用できましたし・・
@@user-ve5rr9bl4iさん。4社ありましたが、値段は各社まちまちでした。当時20代の私は、出張で月に数回利用するのですが、一番手ごろな値段の日食の時はあー良かったとよく利用したものです。60代です。
100系グランドひかりが現役当時、1〜2回食堂車を利用した思い出があります。
0系に食堂車があったのはいい時代でしたね。
新春乗り放題切符で新岩国か広島から自由席に座れず食堂車を利用した記憶があります。
博多開業からまだそんなに経っていない頃でした。
ドラマ鉄道公安官で青空球児さんが新幹線の食堂車で酔っ払ってましたね。
酔っぱらいのフリをした石立鉄男さんに追い払われてましたが😅
山陽新幹線で 広島に行った時に 0系の食堂車で食べた思い出がある
東海道新幹線では 最後まで 食堂車が営業していた 博多行きの100系に乗って
カツカレー食べるのが 定番でした。
0系は車両の半分がビュッフェのしか乗った事しか無い為にこれは知りませんでした。
東京駅から新幹線に乗ると横山やすしが営業前の食堂車へ行きウエイトレスに「姉ちゃんこの席横山でリザーブや」と勝手に席を確保していたと太平サブローが話してました
その話は、今でも語り草の、横山やすし&新幹線食堂車伝説です☝️😊😁
マナーの悪い客については、繁忙期や混雑時間帯に自由席特急券買って自由席に座れなかった客がとにかく座るために食堂車でコーヒー1杯で降りる駅まで粘る、といった行為がメインだったから、思い切って指定席特急券を持った乗客しか食堂車を利用できない(利用時に指定席特急券の提示が必要)ように対策したらよかったのに、と思いました。
間違いない。
もしくは予約制とかな
@@仮面ライダー雅 つばめ・こだま 等151系当時はサシは予約制だったような憶えが・・・
時間になると迎えが来たし
どのみち車両の性能が上がったら(国鉄労組の兼ね合いで新形式高性能車の開発自体が禁止だから意味ない)所要時間も短くなっていただろうし、食堂車自体必要だったか微妙な所ですね。951形って試験車で300㎞/h近い速度出してそれをベースに早期に100系新幹線投入で所要時間短くしたら食堂車を潰す言い分が出来たのに労組のくだらない言い分のせいで、国鉄時代に東海道山陽新幹線の高速化を潰したのは痛い。本当に技術革新をさせようとして邪魔してくる所が意味わからんよなぁ。
そうしたらしたで今度はお客が減るという問題もある。高速化の中で移動中に食事をとる意味合いが薄れており、どのみち永続性の無いサービスだった。
懐かしい!
ビュッフェよりも贅沢だった。
30年近く前に博多南線の0系に乗ったら営業していないビッフェ車が連結されていて、走行中に車内の速度計を見ていた事を思い出しました。
ビッフェ車なら廃止寸前まで利用しました。晩年はほぼデッドスペース化して、無駄に連結された状態です。ビッフェ車が廃止された年に新大阪ー広島間をビッフェ車で過ごしましたが、僕1人の貸切状態でした。自由席は空席が僅かな状態で結構混雑しており、それでもビッフェ車に逃げて来る客はおらず、唯一のメニューのホットコーヒーで快適な旅をしたのが、今では良い思い出です。
ビュフェです
113系の台車を履いた0系がパワーワードすぎるww
仮にマナー悪い居座りがなかったとしても、そんな劇的に売り上げが伸びていたとも思えないから、何れは消える運命だっただろうな
NH32編成引退後に博多での保存だったら今になって解体されてた可能性もあったわけだし、東海に引き取られて良かったと思う
私の両親が出来たばかりの新幹線で、東京駅から熱海か三島までビュッフェで食事して帰ってきたそうです。
すごい時代ですね、、、
東京~豊橋の利用だったので食堂車は経験無いですが、お盆の時期の臨時こだま「岡山行」には営業休止中の食堂車が連結されていて当然利用はできなかったもののワクワクしたのを覚えています。
100系か0系か思い出せないが映画館になったヤツもいた様な…
JR西日本に残った0系であったような。映画車、
サイレントカーやらビッフェでも椅子で座ってカレー食べれたウエストひかり、など
なかなか面白い運用でしたね。
営業はしてませんでしたが4両こだまにビッフェ車両連結してたり。
いやあ、36形に絞ってこれだけ語れる主はすごいです。1950年代に生まれた私たちの世代にとって、0系(当時はそう呼ばれていない)は、まさに「夢の超特急」でした。懐かしい思い出がどんどん蘇ってきます。
自由席がある限り食堂車が廃止になるのは時間の問題
だったんでしょうね。
関西の母方の祖父母の家に行くとき東京から新幹線を利用。東京駅で見た食堂車は常夜灯でそれがなんとなく憧れの車両でした。高校の頃通路は横切ったもののここで食べることはありませんでした(その後の100系も)…
50-3時点で最速列車が東京~博多間6時間56分、これって登場当時の151系(当時はモハ20系)の東京~大阪間[こだま]とほぼ同じだから、それこそモハシ21(モハシ150)と同仕様の35型のみでも何とかなったかな?という気がしないでもないが、151系も後にサシ151が出たのだから36型の登場は必至だったのかも。
繁忙期でなければ、停車駅間の長い区間(例えば新大阪~岡山間)などで自由席からでも食堂車に行くことは不可能ではなかった(現金や貴重品などは当然携行し座席にはそうではないものを詰めた鞄を置いておく)。
当時確か4社(日本食堂・ビュッフェとうきょう・帝国ホテル列車食堂・都ホテル列車食堂)あって其々微妙にメニューが違いそれもまた選択の楽しみだった。流れ去る車窓を愛でながら調理されたばかりの食事に舌鼓なんて…パリの三ツ星レストランでも、赤坂辺りの高級料亭でも味わえない贅沢だったね。ただ当時はまだ車内禁煙が然程進んでいなかったので車内の環境は悍ましかったが…
嘗ての様な全車指定席の[特別急行]や、今ならクルージングトレインなら食堂車の営業も或いは成り立つかも知れない。然し自由席車主体の列車では厳しいかもね…
(古の特別急行・長距離急行に繋がっていた食堂車は然し、主に1・2等客の社交場で3等=ハザ・ハネ客=には聊か敷居の高い存在だった。そして新幹線開業前の頃は、サンドイッチより握りずし=今時の回転ずしとは違いカウンター越しに注文を受けその場で板前さんが握ってくれる=の方が庶民的な食べ物だったという世相の違いも今となっては興味深い)
採算性を言われてはぐうの音も出ないが然し長距離優等列車には食堂車は欲しいね(^^)/
相変わらず話が長いわ
物心ついた時には営業休止になり廃車が始まっていたサハシ165、サハシ169、サハシ455は東北、常磐、中央本線では蕎麦を、北陸、九州はうどんを提供していました。
食堂車は新幹線の博多延伸の際に投入されたと聞きます。相応の距離を走るため、食堂車を連結するのが国鉄の流儀だったのですから。
しかしながら割高な料金と短い営業時間の制約の中で利益を確保するのは難しく、また食堂車の厨房の人手不足も手伝って採算に合わなくなった……というのが廃止の実態では? と思います。
それでもかつての碓氷峠越えの列車に営業休止の食堂車を連結(コンプレッサーを積んでいたため脱車できなかった)していたのと同じく、営業休止のまま連結を続けていたのはパターン的に同じですね。
なんだかんだ言って新幹線は高速化で食堂車はどうせなくなっていたでしょうから、近鉄しまかぜやJRのサフィール踊り子などのように全車指定で食堂車がある形が一番ですね
学生時代、帝国列車食堂でバイトをしてました。私は車内販売担当でしたが一度だけ東京到着直前に食堂車の片付けに駆り出されたことがあります。聞いた話では10名位のサラリーマンのグループが営業終了の新横浜を過ぎても退店せず武蔵小杉付近でようやく退店したため食堂車のクルーだけでは人が足りず急遽片付けに呼ばれたとのことでした。プライベートではよく食堂車を利用してました。混雑時の相席は少し気まずかったです。ポークカツレツやビーフシチューをよく頼んでました。ビーフステーキは焼き加減が程よく街のレストランと変わりなかったです。100系の食堂車は眺めも良く最高でした。話は変わりますがビュッフェとうきょうは何故か100系のカフェテリア編成の営業には入りませんでした。ビールもハイネケンを販売していて他の会社とは一線を画してました。
0系は子供の頃は親父と乗る時はグリーン車の黄色いシートとセットでした。修学旅行でグレーの硬いシートの存在を知った。
Nice train
0系100系とも 食堂車は利用せずじまいでした。一生の後悔ですね。
東京駅ホームで8号車の辺りを歩くと デミグラスソースのいい匂いがしたものです。
初めてとりりさんに勝ったかも…😁
東京〜新大阪ですら3回転程度あり、
新大阪以西はそもそも需要が小さい。
そこへ自由席から溢れた客がコーヒー1杯で粘る…
独立採算性も仇になった。
食堂車は優等車両と下等車両を分断する仕切りの役割もあり、黎明期から全盛期にかけては利用客の品位も高かったのが自由席連結や喫茶店で商談をする感覚での利用で静かに利用してくれなくなってまともな利用客が逃げてしまったのは確かに否定出来ません
海外でよくある「最低消費額いくら」っていう制度を敷けば良かったのに。食堂車なら最低5000円程度からかな。
@@nekotaro0328 グリーン車の客しか利用できないようにするのもいいアイディア。もしくは最低消費一人5,000円とか。
@@andaman9724イタリア🇮🇹やドイツ🇩🇪で利用したがそんな制度見た事も聞いた事もないぞ!特にドイツは約10ユーロで利用できたぞ!😜
@@psychedelicraspberry517 中華圏によくアルヨ。例えばレストランの個室なんかでは最低消費〇〇元って。8人テーブルで昼2,000元、夜5,000元とか。
亡くなった祖母に無理言って、初めて新幹線乗ったとき、食堂車に行きました。子供時代、めちゃくちゃ覚えています。昭和の日本、ロマンがあったなぁ。今は経済もだめだし、人の心も余裕がないし、のぞみ号も人をたくさん速く運ぶのがメインで、肉まん食べるのもハラスメント言われる時代ですね。
リニアに置いてあった食堂車はこれやったのか!感動するわー
16両もある新幹線電車にたった1両だけの食堂車は失敗でしたね😢
観光特急の食堂車はそれなりに成功している側面を考えると、食堂車そのものがダメというよりは、新幹線に食堂車は不適合だったと言わざるを得ないですな(+_+)
在来線も新幹線も、食堂車が連結されていると先ず車内放送で各号車の案内に食堂車の案内、車掌の放送が終わると食堂車営業案内、大体日本食堂の案内なんですが、
自由席の案内に、無願無座って言うのが有ったかな、
100系食堂車は食堂車廃止の後に弁当などを売る当売店化された時期が有った様な。
旅のレストラン、日本食堂。
なんてラジオコマーシャルがありましたね。
食堂車今もあっても良かったと思う
昔は良かったんだよなぁ(2009年生まれ)
当時の0系なんて今の基準だと、Xで大炎上レベルのボッタクリ車両ですよ
座席も関西などの快速や私鉄の無料特急の座席と良い勝負だし
座席の間隔もLCCの航空機並みの狭さ、内装も如何にも金属機械の中に乗ってるような冷たい感じで
速さだけのビジネスライク全開の車両でしたから
100系以降の車両から見れば劣等車です
(実際、当時の鉄道ファンで0系好きなんて変人扱いでしたから)
@@acceleratingchange7027
でも昭和40年生まれの私からするとのぞみはともかくひかりとこだまは0系の方がしっくり来ますね。
在来線の185系電車と、どっこいどっこいじゃないかな?
設計自体が1960年代なんだから、当時の『最新』技術を投入した車両だし、NHKのウルトラアイで各種の椅子を用意して被験者たちに座ってもらったら、ソファーや事務用椅子が脱落する中でほぼ博多までの時間、座り続けられた『優秀な』椅子ですよ。
@@acceleratingchange7027 さん
後に普通車もリクライニング化されましたが、シートピッチの問題で3人掛けは回転できなかったんですよね。
そのこともあって0系と200系にはいい思い出がありません。
@memememe-hn2gc なんかすんません
食堂車が使いたくて7号車指名買いしたり、グランドひかりでは7,9,10号車階下席指名買いしたりして、なんとかして食堂車を利用していましたね。
東海道山陽新幹線の食堂車連結に伴う要員の配置見直しと20系の運用の縮小により、寝台特急の食堂車は東京発の山陰・九州方面列車を除いて営業終了(青函トンネル開業後に一部復活)。
在来線昼行特急の食堂車は1980年代序盤までまだ各地に残っていたので、何度か利用したことがありますが、夜行の方はそうした事情もあって利用したことがありません。
0系の食堂車のインテリアは、在来線を含めた他の食堂車とは全く似ていない独特な感じでしたね。
言うなれば「1970年代の喫茶店」みたいな感じ。
食堂車営業当時の新幹線に乗車した経験はありませんが、鉄道博物館のレストランや一部の鉄道イベントの食べ物ブースなんかで出てるスパゲッティミートソースの上に揚げたお肉(カツ)が載ったベロネーズっていう料理、あれは新幹線の食堂車が発祥なようですね
個人的には結構好きなので、一度新幹線の車内で食べてみたかったな高速鉄道は寝台列車と異なり普通にお店も営業している時間な上、寝台列車とは異なり日中時間帯に短時間で目的地に着くためのものであるという観点から、国土が広かったり国際列車のあるような海外ならまだしも、日本の高速鉄道ではあまり効果を発揮できないのかなと思いました
しかし、やはり高速で窓から流れる景色を見ながら優雅に食事を堪能できるということに関しては非常にロマンのある物だと思いますし、逆にそれを売りにしてもっとサービス形態をアレンジできればまた別の結果になってたのかもしれません(西武のレストラン列車のようなフルコースではなく、もっとリーズナブルな感じがいいかな…)
食堂車を繋げてお客さんから代金徴収するより、座席並べた普通の車両を繋げて料金徴収した方が遥かに儲かるもんね。
あまり思い出したくありませんが、ロマンスカーのサービスでも2020年から流行した疾疫災の影響で追い込まれてしまいましたね。
今は亡きエリザベス女王陛下が昭和の時代に来日された際、この食堂車を利用された。当時のイラスト画では陛下は車窓から富士山も眺められていた。
エリザベス女王がご乗車されたデビュー当時の36形には富士山側に窓はないですけどね。イラスト画だからイメージでしょうが。
つい最近の付け焼き刃の知識レベルで申し訳ないが。
七つの海を支配する 大英帝国には正確な時計が必須だったらしい。
その国の女王陛下にして(新幹線は時計よりも正確と伺っています。)
と言わせるのは、すごい賞賛の言葉なのでは?
サンライズに至っては在来線最長距離で所要時間も新幹線より長い定期列車でありながら食堂車どころかビッフェも車内販売もないからね。サンライズよりも乗車時間短い新幹線(特にのぞみ)に食堂車設置しても採算は合いそうにないイメージが。
サンライズ出雲・瀬戸は、深夜を走る列車なので、食堂車を営業するのは現実的ではありません。
もともと、飛行機の最終便よりも遅く出発し、早朝の第1便よりも早く着くことを目指した列車ですので、パブすら営業は叶わなかったかと……。
近鉄のしまかぜがしっかり食堂車引き継いでいるかも。
一般の定期列車唯一の…
正統派「食堂車」の血統ですね☝️😊✨️
まさか近鉄が受け継ごうとは…
かつてのスナックコーナーより遥かに本格的(゜ロ゜;ノ)ノ✨️‼️
ひかりを博多まで乗車したときに最初で最後0系食堂車で
カレーライスを食べたことを覚えています。
自由席代わりの居座りなんて、常識の問題だとは思いますが、チャージ制+時間制をとるのも一つの方策だったかもしれませんね。
例えば、ランチタイムは30分1席チャージ1,000円で、1,000円以上のお会計の場合は、チャージ料金との差額のみ支払い・・とかね。
観光地の食堂とかでも、時間制をとっているところがありますよね。
日本人もっとアホ客から会社や店を守る料金設定にすべし。何についても甘過ぎ。新幹線の食堂車なら一人最低消費5,000円とか。
それ以前にガラガラだったが😉
グランドひかりの2階建て車両もリニア鉄道館に保存してほしい…。。。
まさかの狭軌台車で保管されていたとはw
14:37 「マナーの悪い客」
「かりあげクン」に出てたが、あれは風刺だけに終えられたのか逆に教唆してしまってそういう連中を増やしてしまったのか
0系は乗った記憶無いんですが、食器洗い器はこの時からあったんですか、知らなかったです…。
自由席の客がいる新幹線には食堂車は向かないんだなぁ。
私は東京に行くとき、食堂車でまったりするのが好きだった(当然、ちゃんと食事してからですよ😅)
でも、当時から、コーヒー一杯で長居する客の懸念はあったね、
採算が取れていなかったんだね、ビッフェになってから味気なく感じた、
車販までなくなったのは寂しいが、あれはあれで少し邪魔だったし、割高だったし😅
速くなった現在では時代の流れの当然でもあるね
3:10 汚水をすっかり忘れていた。
8:49 BGMがエエ、曲名は何ですか?
clapolkaというクラシック曲です。
@@hiratsuka-103 ありがとうございます。
そもそもかつて特急列車ってのは全席指定が当たり前だったので食堂車というサービスが成立した。
(自由席のある急行では食堂車ではなく立席式のビュフェが多かった)
マナー云々というより、自由席設定したらそりゃこうなるよねという話かと。
0系は座席にリクライニングがないし、けして乗り心地がいいものではなかったですが、僕ら昭和の子供にとっては滅多に乗れない夢の超特急でした。
冷凍をチンしただけのたこ焼きが結構な値段だった
@@matsuokacho さん
ビュッフェで車販のうなぎ弁当作るのを見た事あります。
器にご飯盛ってタレをかけうなぎを乗せてました。
今0系が見れるとこって京都鉄道博物館以外どこかある?
大宮
名古屋
愛媛
吹田
イギリス
ですね。
あと摂津市と亀岡
座席に座ってのびていたい&置き引きこわい
私なんて指定席でも迂闊に席を離れると知らない輩に勝手に座られそうなので一度座った席は降りるまで死守します。
トイレも怪しいアンチャンの喫煙室になってそうだから行きません。
私の場合は食堂車より駅弁を好んでいた父を席に残して食堂車に行ってたので置き引きの心配をしないですみました。
@@Yoshin-Sashizume これはウィンウィン分担✌️
オレの場合、財布とカメラという最低限の貴重品だけは身に付けて食堂車にいつも行ってた。
置き引きなんて、一度も無かったよ。
置き引きが心配なんて少し神経質になりすぎだったと思う。
食堂車を利用するつもりのある人はそもそも自由席には乗らず、食堂車に近い車両の指定席を取っていた。
新幹線に限らず特別急行列車の食堂車とは格式の高いもので、昔の特別急行は全車指定席が当たり前だったから、自席を空けて食堂車へ食事に行く、という行為が普通にできた。それが自由席の拡大で主さんの言う通り、席が確保できない客のたまり場になってたり自席を食事中にとられてしまう弊害も出てしまった。
国鉄が推進した特別急行の大衆化政策の下では、同時に食堂車システムが衰退しまうことが運命づけられてしまうのは避けられなかったのかもしれない。
というより国鉄特急の技術革新に問題がありすぎますね。なんでいつまでも1964年基本設計のモーターにこだわってそれを搭載させるのでしょう。近鉄特急や私鉄特急は少なからず1970年代には最高時速160㎞/hぐらいまで出せる特急車を開発済みでしたが、国鉄はくだらん労組のいがみ合いのせいで新技術搭載がほとんどありませんでした。通勤車においてもチョッパ制御の搭載が私鉄で当たり前になった1970年代でも国鉄にチョッパ車なんていなかったし、既にチョッパ制御の特急車もいたが国鉄にはとうとうチョッパ制御の特急車は登場しませんでした。情けないですねぇ。
@@asokai2346 それは新技術を次々導入するよりも安定した確実な技術を使い続けることが大量の保有車輌を保守していく上で都合が良かったからですよ。国鉄は全国展開だから車輌数はもとより、それの保守にあたる人材もかなりの大人数に上ります。そういう場面ではあれこれと新技術に手を出すよりも特定の技術に固執した方が人材の習熟度という点で一定のレベルを維持できます。
部品も標準化しているから大量に同じものを発注、生産し、全国にばらまけば理解している現業職員が必ずいて、保守作業もやりやすい。
例えば自分自身が車を買う場合に置き換えてみてどうですか?新しい技術だからとやたら色んなメーカーのものを取り揃えたら、スイッチの位置から何から何まで違っていて、それを別々に覚えなければいけないし、部品確保もそれぞれ別に考えなければならない。
たかだか数百kmほどの路線しかない大手私鉄と2万kmの路線を有した国鉄とを単純に比較しちゃいけません。そこは当然、やり方が異なってきます。
今は駅ナカに飲食店やコンビニなどが充実してるから、其れも新幹線に限らず食堂車衰退に拍車を掛けたと思われる。
列車も高速化しているし。
今時、食堂車といえば近鉄「しまかぜ」みたいな観光特急とか、クルーズトレインでなければ成立しない。
駅弁のほうが旅してる実感が有る。
〇系1号車こだま三島行きの1両が図書室としてA 市の公園で保存してるみたいですね
現在となっては駅の構内にコンビニが出店し、そこで飲み物や食べ物は調達するからね。
駅の構内だから駅弁を扱ってる所もあるのでしょうが、高そうだからコンビニでパンかおにぎり、レンジがあればコンビニ弁当になってしまうでしょうね。
もう少し余裕があれば駅ビル内か近くのデパートやスーパーなどで買えるでしょうしね。
今なら、注文品目で利用時間の札を配るのとか、やりそうですね。
36の客室の一番奥側の仕切りの向こうの席はVIPの利用も考慮してたん、触れんとあかんやろ
それからコーヒーで粘る客や
食堂車に行ってる間の盗難や席を取られたっちゅう話は
もっと前の在来線の急行の食堂車で問題になってて
別に新幹線に限った話ちゃうんやし
それに、元々ガラガラだったし😉
あの奥のVIP席は、確か、あの故、横山やすし率いる芸人一行の、
特等席だったと思う…(^-^;-w-w
マナー違反の客以前にガラガラだったからマナー違反の客いても売上に影響なかった。ワイは何回か新幹線🚅食堂車🍽️乗ったが、相席は1回しかなかった😉
それはJR化以降の食堂車が無くなる晩年の話でしょう。
国鉄時代の最盛期は、ガラガラなんて信じられんくらいどの列車も大盛況で、食堂車通路に順番待ちの客で溢れてたのは事実だったよ。
@@ゴンタオヤジ-n6n「最盛期」はね。だが、「最盛期」は、私の持ってる本📕「食堂車ノスタルジー(イカロス出版)」には、著者の岩成政和氏は「昭和40年代後半」と書いている。だから、新幹線🚅食堂車🍽️登場から数年で最盛期は過ぎてる。実際、その後の国鉄運賃大幅値上げで国鉄離れが起き、私が家族旅行で食堂車🍽️乗り初めた昭和50年代後半以降では、在来線も含めて20回以上行ったが、上記の相席1回の他は「北斗星」の朝食☕🍞🌄で満席からの営業終了が1回だけだが😉
@@psychedelicraspberry517 さん、わざわざありがとうございます😊m(__)m
(長文で失礼致します)
この0系当時の新幹線の食堂車のエピソード…っていえば、
あの全盛期の故、横山やすし師匠の話題は事欠かないなぁ…( ̄▽ ̄;)(笑)
横山のヤッさんが芸人仲間数人引き連れて東京に仕事に行くのに新大阪から始発の東京行き「ひかり」に乗った時、
新大阪発車間もなくその横山ヤッさん率いる芸人仲間数人が食堂車をいきなり訪れ、まだ開店前の食堂車ホールのドアーを叩き、
「オゥ( ・∀・)ノ❗ワシや❗横山や‼️今から芸人仲間連れて来たからテーブル1つ東京まで貸し切らせてくれるか☝️😁⁉️まだ開店前なんは解っとる!そやからテーブルだけ4人分貸し切らせて取り敢えずビールだけでも5~6本持って来てくれるか❓️🍺」
この当時、新大阪始発東京行きの「ひかり」でも、食堂車を営業してる列車があり、それでも営業開始するのは確か京都を過ぎた辺りで、それまで約20分の間に準備をして、京都発車の合図でやっと営業開始のアナウンスをしてお客様を迎える…ってシステムだったのが、
発車間もなく…
あの傍若無人な横山のヤッさんがいきなりテーブル貸し切らせ❗って、ムチャな注文して来るんだよな…😅
取り敢えず…(ヤッさんの暴君キャラは周知の通りだったから)、
一番奥の、主に予約用として造られたVIP席のような区画があり、そこにヤッさん一行を誘導し、注文通り瓶ビール5、6本とグラスを届け、簡単なナッツ🥜系のアテを持って行き、
後はヤッさん一行をしばらく放置して、食堂車スタッフは黙々とマニュアル通り、開店準備を進めていたんだそうな…(^-^;😅-w-w
その間…京都過ぎて開店してからも、ヤッさん一行の宴会は止まらず、ビールは勿論、一品おつまみやハンバーグ等、どんどん注文され、宴会は東京到着寸前まで続き、チェックアウトする時は、「迷惑かけてすまんかったな❗お陰で旨い酒と料理楽しめた❗ごっそうさん❗おおきに✋️😁‼️」といって、皆の頑丈を全て自腹で払われ、列車を降りられたそうな…
因みにこの日のこのひかりの食堂車の売り上げは、とんでもない額💹⤴️⤴️💴だったそうな…(^-^;☝️😁💦
ゆくゆくは自由席も....?ʕ´•ᴥ•`ʔ
そして遂に車販すらなくなってしまった。移動が味気なくなりましたね。
車内販売や食堂車、ビュッフェを残し続けて赤字になるよりマシ
0系全盛期→硬券指定券、両脇パンチ穴付パソコン券
↓
100系〜300系時代→緑のマルス券
↓
300系後期〜N700系初期→偽造防止ホログラム付マルス券
↓
今→指定券はネットで買うのが当たり前でみどりの窓口閉鎖、紙切符は指定券券売機、窓口案内スタッフ“めんどくせーなー“という態度丸出し
やり方を誤れば鉄道の公共性を脅かす危機と背中合わせの時代
じゃあ金出せよ
新幹線らしさがどんどん無くなっていく。
@@ろき-j5v じゃあ金出せよ
レトロ自販機車みたいなの作ればいいのに…
吉野家車とか松屋車とかも。
まぁ、利用価格が手頃になるに比例して【民度も落ちてきた】から😅
マナーの悪い客は【次の駅で鉄道警察隊へ】という断固とした処理をしなかったせいで…ねぇ❓😮💨
それ以前にガラガラだったが😉
新幹線のビュッフェのカレーはおいしかった
10:59 36-86 ❌ 36-84⭕
ご指摘ありがとうございます。
車内販売はなくなり、やがて車内清掃もなくなる?とコメントした人がいたが。仮になったとするとそもそも車内での飲食は禁止!の方向?
例えばリニアならゆっくり食べるヒマネェだろってなる?
食道車🍴
37型忘れられてません?
37形は2008年3月まで現役で活躍していて、全く短命形式では無いのです。
新幹線でコンビニ飯は食べたくないな〜
コンビニ飯って家で食べるにはまあまあだけど、旅行の時に食べると途端に不味く感じるし、風情も旅情もなくてつまらないし
建設費数億円の車両一両を丸々運べない車両として使うわけだから贅沢な設備といえますね。
マナーの悪い客⁇自分たちはマナーが悪いなんて思ってないでしょうね。頭いいと思ってる。
子供こおやじにつれていきました。
コレも撮り鉄
昔の人間はマナーなってないからなぁ
5年、10年先を見る能力が無かったんですね。
10年どころか5年も新幹線の営業運転が続かなかった可能性すらなきにしもあらずでしたので
@@almondsquid2011
それが5年、10年先を見る能力が無かったって事だよ
@@夢待翔太 Q.アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。
この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。
セルロースは( )と形が違う。
1.アミラーゼ 2.グルコース 3.デンプン 4.酵素
※ 一切検索せず、このまま回答せよ
(2nd
当時の国鉄では『長距離列車には1等車と食堂車とはセット』がほぼ固定概念としてあったとも言えます。
官公庁の公用出張では1等車が連結されていると出張旅費が1等車で計算されたり、国会議員さんの国鉄無料パスのためにグリーン車と食堂車とを連結していたとも言えます。
新幹線の博多延伸と前後してエル特急も設定され、特別急行列車が庶民化したことで利用客の客層が変化し、食堂車の需要そのものが減ったと思います。
もともと急行や鈍行に乗っていた客は座席で駅弁を食べ、酒盛りしていたくらいですから(国鉄の企画した映画の中で駅弁の食べガラや空の一升瓶が床に転がっているのを清掃するシーンが記録されている)、食堂車の利用はそもそも見込めなかったかと。
今では食堂車は観光列車のみの設定ですが、乗客全員に『必ず』食堂車を利用してもらえる環境でないと採算に合わないのでしょう。あらかじめ食事券を売ることで予定数量が分かり、かつ予定数量どおりに消費されるのですから、廃棄ロスは最小限に抑えられ、利益率の向上に繋がります。