【竹田学校】歴史・弥生時代編⑳~神武天皇東征③~|竹田恒泰チャンネル2

Поделиться
HTML-код
  • Опубликовано: 18 дек 2024

Комментарии •

  • @南場北土
    @南場北土 4 года назад +1

    とても興味深い話の内容と
    解り易い解説が
    有り難いです
    古事記って本当に
    すごく深い書物だったのですね

  • @kothe142
    @kothe142 4 года назад +3

    こういった授業のお陰で旅行の計画が捗るはかどる

  • @fanamchannel
    @fanamchannel 3 года назад

    わかりやすいです。特にエウカシの所は、文字で読むだけでは実感わいてこなかったのですが、よく理解できました。

  • @山崎幸子-k5q
    @山崎幸子-k5q 4 года назад +2

    熊野から吉野へ 現代語 古事記おもしろいです♪

  • @VOICEROIDRUNN
    @VOICEROIDRUNN 4 года назад +2

    実際行ってみないとわからないでしょうけど、吉野も宇陀もすんごい山奥。熊野から山超えて吉野や宇陀まわって大和盆地に至るって相当ですよ。現代で車使ってでも滅入ってしまうよ。紀伊山地半端ないから。
    ましてやこれ徒歩でやってのけたのですから、相当なご苦労があったのだと思います。

  • @佐藤裕太-b1o
    @佐藤裕太-b1o 10 месяцев назад

    参考までに失礼します。
    津田左右吉は、『記紀』の神武天皇の日向つまり南九州からの東遷について、潤・脚色以上にその東遷自体の事実を、確かに否定している(一方で神武天皇以降の歴代の実在は肯定)。その内容は、戦後の著作『日本古典の研究(上)』(岩波書店)第2篇第6章「神武天皇東遷の物語」を参照である。
    しかし一方で、同著作第3篇第16章「ヒムカに於けるホノニニギの命からウガヤフキアエズの命までの物語」では、天孫ニニギの命の子であるヒコホホデミの命(別名、山幸彦)の大和東遷が伝承の原型であると述べていた。そして後世になり、ヒコホホデミの命から後に神武天皇と言われるイワレビコの命(別名、ヒコホホデミの命)が分離して、その間にウガヤフキアエズの命の伝承が造作・挿入されたと述べていた。
    以上のことから津田は、神武天皇の東遷を否定していながら、後の大和王権(同朝廷)の祖先が南九州から畿内大和への東遷の伝承を最終的には否定しきれなかったと理解せざるを得なかった(そして大和王権の祖先そのものの実在もである)。

  • @1oku3zen55
    @1oku3zen55 Год назад

    どうして迎撃側の武器類が出てこないのですか❓️
    場所が違うのでは❓️🤔

  • @水島次郎
    @水島次郎 4 месяца назад

    四国がすっぽり抜けてる。四国が全くの未開の地ならまだしも、徳島県鳴門市大麻町大谷の西山谷2号墳が前方後円墳のルーツであり、同町萩原の萩原1号墓と萩原2号墓がホケノ山古墳のルーツであるようなので、皇室のルーツは阿波の可能性が高い。神武天皇東征が阿波から奈良への侵攻ならまだしも、九州から四国を迂回して奈良へという古事記の神武天皇東征は虚構としか思えない。皇室のルーツが阿波であることを隠そうとしているように思える。

  • @橋本哲夫-n6k
    @橋本哲夫-n6k 4 года назад +1

    二割の少数派に合わせるというのが合理主義だとすると8割を無視するのは何とも不合理な感じがします。

  • @YANAGITAtokinori
    @YANAGITAtokinori 4 года назад +1

    岩押しわくの人とか踏みうかち越えとか角のある人とか。。そのまま。。
    えうかし、おとうかしも同じ?
    死体を切り刻むって。。。神武軍非道。

  • @youtubeマスター-d5g
    @youtubeマスター-d5g 4 года назад +1

    確か神武天皇はウガヤフキアエズ73代目天皇で近畿地方に出征したと聞いたことがあるな。

  • @satoru5315
    @satoru5315 4 года назад

    尾が生えた人というのは、井永鹿や石押分之子という滅びてしまったサンカのような日本の古代部族らしい。

  • @河村直樹-k8y
    @河村直樹-k8y 2 года назад