第540回「ゆるすぎときつすぎ」2022/6/30【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

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  • Опубликовано: 27 дек 2024
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    ■管長日記「ゆるすぎときつすぎ」
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    最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
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    釈宗演老師の「臘八示衆」というのを読んでいると、
    「古人云く、寧ろ緩に失するとも急に失すること勿れと。遂翁和尚云く、寧ろ急に失するとも緩に失すること勿れと。衲は遂翁に与せん。」
    という言葉が出てきます。
    意訳しますと、昔の人は、ゆるくしすぎることはあっても、厳しすぎてはならないと言っているが、遂翁和尚は、厳しくしすぎることはあってもゆるすぎてはいけないと言ってる。自分は遂翁和尚に賛成だという意味であります。
    「緩急」は『漢和辞典』では「ゆったりしていることと、せわしいこと」、『広辞苑』では、「ゆるやかなことときびしいこと。遅いことと速いこと」であります。
    ゆっくりやってし損じることはあっても、急いでし損じるこはよくないというのが古人の説であって、遂翁和尚は、急いでし損じるこがあっても、ゆっくりしてし損じることはあってはならないというのであります。
    遂翁和尚は白隠禅師の高弟でありますから、こうした言葉が白隠下の修行ではおもんじられるようになっていったのだと思われます。
    それで何でも急げ急げ、急いで失敗するのはまだしも許されようが、ゆっくりしていてはいけないと言ってきたのであります。
    拙速を尊ぶというところがあるものです。
    この古人というのは、仏眼禅師のことであります。
    『禅門宝訓』にある言葉です。
    仏眼禅師は、修行道場で修行僧たちの指導がとても行き届いているのを見たある禅僧が、その心構えを問うたのでした。
    それに対して仏眼禅師が
    「事を用うることは寧ろ寛に失すれども急に失することなかれ、
    寧ろ略に失すれども詳に失することなかれ。
    急なれば則ち救うべからず、詳なれば則ち容るる所なし。」
    と答えたのでした。
    何ごとをなすにしても、ゆるやかにしすぎることがあっても、せわしくしてはいけない。大雑把にしてし損じても、細かにしすぎてはいけない。
    せわしすぎると救いようがないし、細かにやり過ぎると大らかさがなくなるというほどの意味であります。
    やはり、これは仏眼禅師の言葉に重みがあるように思います。
    先日椎名由紀先生が長野県で田植えを行っているというので、修行僧の中で希望者数名に田植えを経験してもらいました。
    椎名先生のご好意で、修行僧達数名を田植えに混ぜてもらったのでした。
    泥の中に裸足で入って、手で田植えをしたのだそうです。
    その田植えに行った修行僧達はとても喜んで帰ってきたのでした。
    実に生き生きと田植えの楽しさを語ってくれたのでした。
    椎名先生のおかげであることは言うまでもありませんが、そのあといろいろ考えました。
    なにせあんなに修行僧が喜ぶことはそう滅多にないことです。
    また経験したのは田植えですから、そんな楽な作業ではありません。
    それがなぜ楽しかったのかと考えたのです。
    ひとつはやりたいという者が田植えに行ったということがありましょう。
    どんなことでもやらされてやるのと、やりたいと思ってやるのでは天地の差があります。
    それでは、田植えがよかったからといって、僧堂の中に田んぼを作って田植えを始めたらどうなるでしょうか。
    この問題について修行僧達と語り合ってみました。
    僧堂で行うようになると、まずいろんな規則ができるでしょう。
    修行道場では規則のことを規矩と言います。
    細かな規矩がたくさんできて、それぞれの役割分担も明確に決めて、きちっとした田植えの修行にはなるでしょうが、もう恐らく楽しいとは思わないでしょう。
    しかも、そこに更に苦しいことに耐えてこそ修行だという思いが入って、苦痛を味わせるような田植えになってゆくでしょう。
    「手を休めるな、気を抜くな」と叱咤されることでしょう。
    その結果、きっと田植えをがまんして行うことになるでしょう。
    そうするとただがまんするだけになるという構造になりかねません。
    なぜ田植えに行って楽しかったのかというと、ある修行僧が、曖昧さがあることだと指摘してくれました。
    これは良い指摘だと思いました。
    修行道場のような細かな規則がない、曖昧としているから、そこに自由さがあり楽しさが生まれるのでしょう。
    そんなことを考えると、元来修行には曖昧さというのがあったのではないかと思ったのでした。
    しかしながら、集団生活を営み、外の者から見られても規律のとれた暮らしを保つために、細かな規則が出来て、曖昧さがほとんど失われていったのだと察します。
    修行道場の坐禅などは、曖昧さがありません。
    姿勢も坐る位置もきっちり決まっていて、そして坐っている間にはみじんも動くことは許されないという曖昧さのない修行になってしまいました。
    その結果、楽しむ余地などなくなってしまったのでした。
    修行道場の食事にしても同じです。
    細かな作法がたくさんできてしまい、それは規律があり、外からはきれいに見えるのでしょうが、曖昧さはありませんし、そこには楽しみも喜びもありません。
    ただがまんあるのみとなっています。
    遂翁和尚の言葉は、『荊棘叢談』にも載っているものです。
    もしも遂翁和尚の言葉が今の修行道場に大きな影響を与えているとすれば、少し考えてもいいのではないかと感じました。
    少し曖昧なところ、ゆるやかなところがあってこそ、そこに楽しみや喜びが感じられるのではないかということです。
    もっともゆるすぎてもまた困りものでありますから、やはりこれは緩急にかたよらずに中庸、中道が大事なのであります。
    ゆるすぎも、きつすぎも共によろしくないのです。
     
     
    横田南嶺
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