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これまで聞いた明暦の大火の話の中で一番わかりやすくて詳しい話でした。ありがとうございます。
火事を起こすと死罪になってしまうから、大抵の出火元は責任を負わせないように寺になっているんですよね。
オランダ商館の人達がこの大火に遭遇していたのは初めて知りました。
江戸城も全焼したと勘違いしていて、長いこと「復興計画はどこで練られたんだろう」と思ってた。西の丸で復興会議が行われてたのかな
面白かったです。
江戸文化発展の転換点と考えるとこの大火事はかなりの歴史において重要だったんだな......
明暦の大火関東大震災東京大空襲東京は大火災に見舞われることが多いよな
幕末にも安政地震の際に火災でたくさん亡くなった。
大火の事は、良く耳にしたことはありますが、多くな事は全く知識がありませんでした。ありがとうございます。
これ程の大火の後にここまで復興させてるのが凄いですね。同じ『火』だけど、亡くなった方々も居れば炊き出しによって助かった生き残りの方々も居た訳で、自然との付き合い方も考えさせられます。
多くの犠牲者が出たのは不幸ですが、結果として江戸がさらに発展していくきっかけにもなったんですよね
高校で日本史を習ってないから、名前しか知らないイベントなのよな。勉強になります。
これをヒントに米軍が考えた作戦が昭和20年3月10日の東京大空襲です。
明暦の大火、スゴイですね。江戸の60%を喪失したと言うのでほぼ全滅ですね。対策として、過密な町内を疎にして行ったようで名案と思います。後に、48の町火消しが出来るのは、8代将軍吉宗ー大岡越前の時代ですね。それにしても昔は消化と言ってもあくまで延焼を食い止めるのが仕事だったと思います。とても良い動画でした。
いつもありがとうございます。京都在住です。洛中も、とりわけ、応仁の乱が11年と長引き、本能寺の変でも火災が発生したと聞きます。古くから残る火災の被害を逃れた、寺社仏閣は、東寺、六角堂、洛外では、醍醐寺など少ないかもしれません。
江戸の町は大都市だが木と紙で出来た建築物が密集してたからね。江戸でも日常生活にも火は必要不可欠で火事の原因には、調理や明かりの蝋燭の火を使用することによって発生する失火、暖を取るのも火だった。江戸ほど大火が頻発し、都市の広大な市街地を繰り返し焼き払った史実は世界でも類例がないとされる。
その後1945年(昭和20年)3月10日未明の東京大空襲でもやはり10万人もの人々が命を落としました。しかしそのような悲劇にも拘らず、戦後東京は短期間に目覚ましい復興を成し遂げました。その日本人の逞しさは既に江戸時代初期からあったのですね。
10:06 この時の移転先が今の防衛省だけど、いつも気になるのは一部の建物がある区画は高台にあって行くときに階段やエスカレーターで行くけど、江戸時代にもあんな高台があったのかということ。
幕府は被災者への炊き出しとか、火災で亡くなった人々を弔うための慰霊碑やお墓、防災を意識した都市の復興など、今の政府のような仕事をちゃんとやってたんだね。戦国時代とかを見てると天下統一とか戦いに勝って頂点に立つことばかり考えているイメージがあったけど。
幕府が被災者に対して粥の炊き出し・復興に必要な物の価格高騰の抑止・復興金の配布・焼死体の埋葬の寺の建設と素早い対応していることに感心しました たしかこの大火で焼失した天守閣の再建より町の復興を優先したんですよね それ以降も天守の必要は無しとして再建されることはなかったと聞いています今の政府に当時の幕府のような素早い対応できますかねぇ キッシー総理!
大火からの復興を記録した絵巻に感動したことがあるので、是非そちらもネタにしていただけると嬉しいです。
明暦の振袖火事、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談で書かれていますね最初の持ち主が美しい僧侶に恋い焦がれて亡くなってしまい、その後次々と振り袖の持ち主が同じように恋煩いで亡くなってしまうので、供養の為に燃やそうとしたところ、燃えかかった振り袖が寺の屋根に火をつけて回った、、とかいうような話だったと(うろ覚えです)江戸時代の消火は、火が隣に燃え移らないように燃えているいえを壊すのが一般的だと聞きましたがこれだけの強風ではどうにもならなかったのでしょうね燃えている家を壊すときに軒に引っかけて壊すので、向かいの家に燃え移らないように、家の高さは道幅より高くてはいけないような決まりがあったとも聞きましたが、この火事の前からだったのか?後にきまったのか?
東京大空襲や関東大震災より被害が酷いのは意外でした。
話しには聞いていたが、とても判り易い説明もあり学習になる。時代劇ファンでもあるのでチャンネル登録した。明暦年間の消防隊は、旗本火消と大名火消かな。
暴れん坊将軍で、吉宗が、サラブレッドに跨り、天守を見上げるシーンがありましたが、サラブレッドは、明治時代から、天守は、吉宗の代には、なかったかもしれません。
あのドラマでは今の江戸城跡には適当な建物が無いから撮影の際には姫路城を使用していた。
明暦の大火で江戸城が焼けて再建されなかったと言うことは今から366年前から天守閣は無しですか?そう言う事?その後ずっと再建されなかったの?詳しい方、教えてください
@@鈴木忠-l2e石垣だけは加賀前田家が再建したけど将軍後見の保科正之の判断で江戸復興を優先したから再建されなかった。
これまで聞いた明暦の大火の話の中で一番わかりやすくて詳しい話でした。
ありがとうございます。
火事を起こすと死罪になってしまうから、大抵の出火元は責任を負わせないように寺になっているんですよね。
オランダ商館の人達がこの大火に遭遇していたのは初めて知りました。
江戸城も全焼したと勘違いしていて、長いこと「復興計画はどこで練られたんだろう」と思ってた。西の丸で復興会議が行われてたのかな
面白かったです。
江戸文化発展の転換点と考えるとこの大火事はかなりの歴史において重要だったんだな......
明暦の大火
関東大震災
東京大空襲
東京は大火災に見舞われることが多いよな
幕末にも安政地震の際に火災でたくさん亡くなった。
大火の事は、良く耳にしたことはありますが、多くな事は全く知識がありませんでした。ありがとうございます。
これ程の大火の後にここまで復興させてるのが凄いですね。
同じ『火』だけど、亡くなった方々も居れば炊き出しによって助かった生き残りの方々も居た訳で、自然との付き合い方も考えさせられます。
多くの犠牲者が出たのは不幸ですが、結果として江戸がさらに発展していくきっかけにもなったんですよね
高校で日本史を習ってないから、名前しか知らないイベントなのよな。勉強になります。
これをヒントに米軍が考えた作戦が昭和20年3月10日の東京大空襲です。
明暦の大火、スゴイですね。江戸の60%を喪失したと言うのでほぼ全滅ですね。対策として、過密な町内を疎にして行ったようで名案と思います。後に、48の町火消しが出来るのは、8代将軍吉宗ー大岡越前の時代ですね。それにしても昔は消化と言ってもあくまで延焼を食い止めるのが仕事だったと思います。とても良い動画でした。
いつもありがとうございます。
京都在住です。洛中も、とりわけ、応仁の乱が11年と長引き、本能寺の変でも火災が発生したと聞きます。古くから残る火災の被害を逃れた、寺社仏閣は、東寺、六角堂、洛外では、醍醐寺など少ないかもしれません。
江戸の町は大都市だが木と紙で出来た建築物が密集してたからね。
江戸でも日常生活にも火は必要不可欠で火事の原因には、調理や明かりの蝋燭の火を使用することによって発生する失火、暖を取るのも火だった。
江戸ほど大火が頻発し、都市の広大な市街地を繰り返し焼き払った史実は世界でも類例がないとされる。
その後1945年(昭和20年)3月10日未明の東京大空襲でもやはり10万人もの人々が命を落としました。しかしそのような悲劇にも拘らず、戦後東京は短期間に目覚ましい復興を成し遂げました。その日本人の逞しさは既に江戸時代初期からあったのですね。
10:06 この時の移転先が今の防衛省だけど、いつも気になるのは一部の建物がある区画は高台にあって行くときに階段やエスカレーターで行くけど、江戸時代にもあんな高台があったのかということ。
幕府は被災者への炊き出しとか、火災で亡くなった人々を弔うための慰霊碑やお墓、防災を意識した都市の復興など、今の政府のような仕事をちゃんとやってたんだね。戦国時代とかを見てると天下統一とか戦いに勝って頂点に立つことばかり考えているイメージがあったけど。
幕府が被災者に対して粥の炊き出し・復興に必要な物の価格高騰の抑止・復興金の配布・焼死体の埋葬の寺の建設と素早い対応していることに感心しました
たしかこの大火で焼失した天守閣の再建より町の復興を優先したんですよね それ以降も天守の必要は無しとして再建されることはなかったと聞いています
今の政府に当時の幕府のような素早い対応できますかねぇ キッシー総理!
大火からの復興を記録した絵巻に感動したことがあるので、是非そちらもネタにしていただけると嬉しいです。
明暦の振袖火事、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談で書かれていますね
最初の持ち主が美しい僧侶に恋い焦がれて亡くなってしまい、その後次々と振り袖の持ち主が同じように恋煩いで亡くなってしまうので、供養の為に燃やそうとしたところ、燃えかかった振り袖が寺の屋根に火をつけて回った、、とかいうような話だったと(うろ覚えです)
江戸時代の消火は、火が隣に燃え移らないように燃えているいえを壊すのが一般的だと聞きましたがこれだけの強風ではどうにもならなかったのでしょうね
燃えている家を壊すときに軒に引っかけて壊すので、向かいの家に燃え移らないように、家の高さは道幅より高くてはいけないような決まりがあったとも聞きましたが、この火事の前からだったのか?後にきまったのか?
東京大空襲や関東大震災より被害が酷いのは意外でした。
話しには聞いていたが、とても判り易い説明もあり学習になる。時代劇ファンでもあるのでチャンネル登録した。明暦年間の消防隊は、旗本火消と大名火消かな。
暴れん坊将軍で、吉宗が、サラブレッドに跨り、天守を見上げるシーンがありましたが、サラブレッドは、明治時代から、天守は、吉宗の代には、なかったかもしれません。
あのドラマでは今の江戸城跡には適当な建物が無いから撮影の際には姫路城を使用していた。
明暦の大火で江戸城が焼けて再建されなかったと言うことは今から366年前から
天守閣は無しですか?
そう言う事?
その後ずっと再建されなかったの?
詳しい方、教えてください
@@鈴木忠-l2e石垣だけは加賀前田家が再建したけど将軍後見の保科正之の判断で江戸復興を優先したから再建されなかった。